夏休みの課題が7日までに出せなかった者は、その後終わるまで居残りになる──。

 そんな話を聞き流し、終わっていない課題に気づかなかったフリをする。帰って昼ごはんを食べ、カバーに図書カードを挟んであるスマホを持って家を出る。まだ時刻は13時。自宅から図書館までは徒歩20分あれば充分着くから早すぎるのは明白だったが、しかし家にいててもソワソワして何も手につかなかったので、仕方なしと歩き始める。歩いている最中も何だか落ち着かなくて、どんどん歩くスピードが速まる。

 所要時間13分で着いた図書館の、入り口近くのベンチに座り込む。当然、まだ上若はいない。

 図書館の入り口でスマホをいじるのも無粋だと思い、手頃な本を探す。いつも見ているヤングアダルトコーナーをスルーして、一般書コーナへ。

 あの日コンビニ人間を読んでからというもの、俺は一切ライトノベルを読まなくなった。架空の国で活躍する主人公の姿に自分の理想を重ねるより、上若が読んだかもしれない物語の文章を追うことや、上若が好きそうな本を読んで、彼女がどんな感想を抱いたか想像するほうがよほど楽しかった。今度は俺が上若に本をおすすめしたいと思う気持ちも強く、とにかく俺はこの夏休み、妄想か読書のどちらかに1日の大半を費やしていた。

 面白い純文学を見つけたら、まず『上若はこれを読んだか』を考える。検索してみて、芥川賞受賞作ではなさそうだと判明したら、上若に本を紹介する妄想を繰り広げる。あれから純文学が好きになって、色々読んでみたんだ。それでこれ面白かったんだけど、上若は読んだことある?

 具体的なセリフまで思いついているけれど、いざ現実になったらまったく言えなくなるのだろうという予感はある。盛大にどもって、敬語になって、でも上若はバカにせずに笑わずに、俺の声を最後まで聞いてくれるのだろうと。

 背表紙を見て、これはと思うものを一冊手に取る。ベンチに戻って、開ける。上若はこの本を読んでいる俺を見て、どう思うだろうか。読んだ本だ、読んだけどあれはつまんなかったな、あれおすすめしようと思ってたやつだ、読んだことないな、見たこともないな。──この中に、果たして正解はあるのだろうか。

「あれっ、もう来てたんだ。早いね」

 最初の一文に触れようとしたそのとき、落ち着きのある綺麗な声が降ってくる。

 こんな声をしているのは、地球上でたったひとりだけだ。

「上若……さん」

 何か気の利いたこと、例えば『さっき来たばかりなんです』とか『今日は誘ってくれてありがとうございます』とか言えばいいのに、いざ言葉を声にしようとすると、途端に頭がカッとなって言葉が消え失せる。

 上若が、私服を着ていたから。

 薄い水色と、白いボタンと襟のポロシャツを、そのままワンピースにしたような服。ウエストは細い白のリボンで締められていて、いつも以上にお嬢様然としている姿だった。いつもは上履きかこげ茶色のローファーを履いているのに、今日は白のサンダルだ。メイクはしていなくて、そこはいつもの、地味で目立たなくて、でも美しい上若のままだと思う。

 ──ああ。本当に、放課後に待ち合わせしてたんだ。

 いつもと違う上若を見て、放課後に約束したのが現実のことなのだと今さら実感する。

 思えば私服で来るのなんか当然なのに、いつもと同じ制服のまま来てしまったことを後悔した。放課後に誰かと待ち合わせた経験なんて、小学校時代にあった全員参加の運動会や大縄跳び大会の練習くらいだったから、着替えるのが普通だという発想がなかった。

「あのっ」

「ん?」

 無意識に出た声に、俺自身どう続けていいかわからなかった。

 言いたいことは山ほどある。制服のまま来てごめんなさいとか、私服も綺麗ですねとか、放課後に俺と会ってくれてありがとうございます、とか。

 けれど、すべて間違いなような気がして、何も言えなかった。ごめんなさいと言われてもいいよと言うしかないだろうし、俺に綺麗と言われても上若は嬉しくないだろうし、最後は卑屈すぎるような気がする。

 そうしているうちに無言の時間が積み重なって、さらに何を言えばいいかわからなくなる。咄嗟に言っていれば軽い失言で済んだものを。熟慮の末に出した言葉が間違いだったらリカバリー不可だ。

「えっと、あの、本、楽しみです」

 最適解ではないけれど、何とか、おそらくは間違いじゃなかろうことを言えてホッとする。日本語初学者よりも言葉に詰まっていたが、上若が気にしていなさそうなのでよしとする。

「よかった」

 上若が微笑んで、俺は内心でガッツポーズを決める。少なくとも、今の段階で帰りたいと思われていることはない、はず。

「ていうか、それ」

「あ……。これですか」

 本の表紙を見やすいように、本を閉じて表を向ける。すると上若は「やっぱり、その本だったんだ」と嬉しそうに呟いた。

 知ってるんですか。

 そう言おうとしたそのとき、上若の声が聞こえた。

「センスいいね。凛くん」

「へぁっ?」

 思考が止まる。変な声が出る。

 褒められた。いきなり名前を呼ばれた。

 要素にするとたったふたつなのに、信じられないほどの驚愕と感動を覚える。世界中のすべてから肯定されたような、今日も明日も生きていいんだと思えるような感覚。好きな人に褒められる、認めてもらえるって、こんなに嬉しいものなんだと初めて知った。

「へっ、へへ……」

 センスがいいという褒め言葉も、名前呼びも君付けも、すべてが初めてだった。

 優しいとか真面目とか落ち着いてるとか、長所がないときに言うこと以外の、本当の褒め言葉を、初めて言われた。

 名前も、親族と幼稚園時代を除いて初めて言われた。小学校時代、みんなが名前呼びされているなか、なぜか俺だけ苗字呼びされていたし、名前で呼び合うほど親しい人間ができた試しもない。

「そんなにいいっすかね……俺のセンス……」

 だらしなく口が緩んで、いつもなら『こんなの言われても困るよな、だるいよな』とストップがかかるような言葉もたらたら流れる。

「うん。すごく」

 上若は女神のように微笑んだ。

 そのときの俺には、比喩ではなく、女神の微笑みに見えた。

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