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読みかけの本はあったけれど、読む気にはなれなかった。
図書委員会の仕事が終わってもなお、上若は「家よりクーラーが効いてるから」と図書室に居続けた。ダラダラしているわけではなく、本を読んでいた。知らないタイトルだったから、きっと純文学なのだろう。相変わらずピンと張った背筋、巻き肩とは縁遠そうな姿勢だった。
俺も上若にならって図書室にいようかとも考えたが、少し考えて帰宅することにした。上若と一緒に本を読みたい気持ちもあったが、本を読んでいるとは言え、まだ彼女と無言を共有する勇気は持てなかった。
帰宅して、早速『コンビニ人間』を開く。俺にはまだ早いと思うところもあったが、純文学のとっつきにくいイメージが嘘のような読みやすい文章で、すいすい読み進めることができた。主人公とは境遇も違うのに、何となく理解できるところもあったのが不思議だった。
──早く、上若にも感想を言いに行きたいな。
読後しばらくして、思う。
始めから最後まで、あっという間だったこと。読みやすい文章だと思ったこと。境遇も性別も年齢もまったく違う主人公と、どこか重なる部分があったこと。面白かったこと。またこういう小説を読んでみたいと思ったこと。
そういう感想を伝えたら、彼女はどんな反応をするだろうか。教室の凛とした表情とは違う、華やかな表情を見せてくれるのだろうか。好きなものを共有できる、仲間だと思ってくれるだろうか。もしかしたら、友達と思ってくれるだろうか。その先も、続いてくれるだろうか。
想像は止まらず、気色悪いと思いつつも、どうやって感想を伝えようか必死に頭をひねる。今までずっと喋ってこなかったのに、いきなり饒舌に話されても不気味なだけだ。いや、上若は嬉しいと思うのか? 純文学に対して想いが強そうだったし、同士ができたと喜んでくれるかもしれない。
それに、感想の次も大切だ。友達にはなれずとも、もっと親しくなりたいと思うなら『他におすすめの本ある?』などは聞くべきだろう。でもあまりにもあからさますぎたら──。
夏休みの課題もまったくしないまま、妄想に浸る。時間が経って妄想が収まりかけても、コンビニ人間の表紙を見るとすぐにまた再開する。
そうやって誰とも喋らずに自室で妄想していたあの夏が、どんな夏よりも楽しかったな、と今になって思う。
9月1日。どうやって上若に話しかけようか、と考えるのと同じくらい深く、終わらなかった課題の言い訳を考えながら登校する。いつもなら憂鬱でしかなかった登校初日なのに、その年は違った。
いつもなら遅刻寸前に登校するのに、珍しく始業開始20分前に登校する。上若はもう、姿勢よく席でページを捲っていた。
早めに登校して、早く感想を伝えよう──。
しかし上若の姿を見た途端、急速にその決意が揺らぎ始める。夏休みに幾度となく繰り返していた妄想がしぼみ始める。部屋の中でニチャニチャ笑っていた俺が消えて、いつもの陰気なライトノベルオタクに戻り始める。
ここ数年、必要事項以外で自分から喋りかけたことがなく、どうしていいかわからなかった。なぁ、と声をかければいいのか。それでは雑な感じか。ねぇ、にするか? でもそれはオカマっぽいとクラスの人が言っていたし──。
そもそも、俺が話しかけていいのか? 拒絶されるんじゃないか? 俺に話しかけられてるのなんか、見られたくないんじゃないか?
それに、俺なんかと仲がいいと思われたら、上若の孤高のイメージは崩れる。俺のせいで、一気に『根暗でキモいやつ』に転落するかもしれない。もしかしたらいじめに発展するかもしれない。『お前、あいつのこと好きなの?』など、下品で失礼な質問をされるかもしれない。
不安は一秒ごとに、倍に倍に膨らんでゆく。不安はやがて恐怖になり、心臓を押し潰そうとする。いっそ教室から逃げ出して、チャイムまでトイレに閉じこもってしまおうか──。
そんな考えすら頭をよぎったとき、上若の目が、俺を捉えた。
息が止まる。止めたのかもしれない。
思考も不安もぴたりと止まる。俺はただ、上若が本を閉じて、歩いてくる動作を眺めていた。こうなることがあらかじめ決められていたような、流れるような、綺麗な動きだった。セーラー服のプリーツの動きすら、芸術的に感じられた。
「おはよう。大丈夫?」
挨拶、された──。
それすらも信じられない。心臓が早鐘を打つ。今まで生きてきて、教室で俺に挨拶する人間なんてひとりもいなかったのに。
しかもなぜか心配されている。俺に心配を寄せる人間が、この世に存在したのか? ますます信じられない。親類縁者でもなく、ただのクラスメイトで。
驚きと緊張で働かない頭を使い、「なっ、なな、何が」と問い返す。本当は『大丈夫』とか『おはよう。何が「大丈夫?」なの?』などと返すべきだっただろうと、言ってから気づく。こんな少ない文字数なのに、盛大にどもっているのも恥ずかしい。
いっそ、窓から飛び降りてやろうかと思う。教室は1階なのだが。
「なんか、顔色悪そうだったし、挙動不審だったから」
「挙動不審……」
「気のせいならいいんだけど」
ショックと、上若に心配してもらえた喜びがないまぜになって、泣きたいような笑いたいような、不思議な心持ちになる。発生した感情があまりにも多かったからか、空中を揺蕩っているような浮遊感すら覚える。
「あっ、あのっ」
無言の発生を感じ取って、咄嗟に声を出す。妄想とはまったく違って、情けなくて、かっこ悪い声だった。
それでも、ちゃんと話そうとしている。俺にしてはよくできてる、と言い聞かせながら言葉を続ける。
「コンビニ人間、読みっ……ました。俺には味わえない部分もあったけど、面白くて、最初から最後まであっという間で……。それでっ、主人公と俺は全然違うのに、何となくわかる部分とかもあって、えっと」
あれだけ脳内で予行演習をしたと言うのに、その甲斐はなかった。言葉はつっかえるし、息継ぎもできなくて変な間ができる。声の抑揚も変だ。
でも、上若はそんな俺を笑わなかった。にんまりと、ものすごく嬉しそうに口角を上げて、俺のタイミングに合わせて相槌を打ってくれた。
好きだ。
そのときに俺は初めて、はっきりと上若への好意を自覚した。
「読んでくれたんだ」
自覚して、もうしどろもどろな言葉も出なくて、無言の時間が生じたときに上若が言った。弾んだ声ってわかるもんなんだな、と知った。
「純文学、難しそうって言ってたのに……」
上若は目を瞑って、もう一度開いた。ただのまばたきなのに、花が咲くようだと思った。
彼女の一重の瞳が、俺の姿を捉える。上目遣い。ただ俺のほうが身長が高いからだとわかっているのに、心臓が跳ねた。
「ありがとう」
その少し震えた声は、今でも鮮明に思い出すことができる。
きっと死ぬ間際にもこの声を思い出すのだろう、という予感すらあった。
おすすめの本を聞いたら「色々あるから選んでほしい」との返事が来た。てっきり上若が言うタイトルからひとつ選ぶものだと思っていたら、
「放課後、図書館に集合しない? 今日の午後は図書室閉まってるから」
と言われ、唖然とする。放課後にクラスメイトと遊ぶ予定ができたことなんて、今までに一度もなかった。
「もちろんでございます」
突然の出来事に頭は働いていなかったが、無意識にそう返していた。これにも上若は笑うことなく、
「じゃあ、時間は14時でいい? 待ち合わせ場所は、入り口のところの椅子か、一般書近くの椅子で空いてるほう」
と、淡々と段取りを決めてゆく。俺は間違いのないよう、急いで適当なノートとペンを取り出し、待ち合わせ場所と時刻を書きつけてゆく。
慌てて取り出したのが黄色の蛍光ペンだったので非常に読みづらくなってしまったが、あとからシャーペンで清書するのだからと気にしないことにする。
「それじゃあ、読書に戻るね」
上若は手を振って、軽やかに席へ戻る。俺があれだけ話しかけようかどうかやきもきしていたのが、だんだんバカらしくなってきた。
上若は、純文学のよさを広められれば何でもいいのだ。
それだけでも話しかけてもらって、放課後も会おうと言ってくれたのは天にも昇りそうなくらい嬉しくて、口角を上げないようにするのは至難の技だった。俺がニヤニヤしていようが誰も見ていないとわかっていながらも、そういうことを気にする年齢だった。
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