バレンタインの日に思い出すこと
夏希纏
1
あの日の俺は愚かだった。
世間がバレンタインだと浮かれ、スイーツ屋のみならず田舎町のスーパーもチョコレート一色になる、2月14日。
押し寄せる『バレンタイン』『好きを伝える』『まごころ込めた手作りチョコ』などの、華々しい文言や浮かれた空気から逃げるように、すき家でネギ玉牛丼の中盛りを掻き込み、家に閉じこもる。
間違っても、テレビなんかつけない。Twitterも今日は覗かない。バレンタインを思い出させるものから、徹底的に離れる。
まだ時刻は午後9時だったが、早々にシャワーを浴びてベッドに入る。バレンタインという日から逃げようとする。
それでも俺は、あの日のバレンタインと、あの子のことを思い出していた。思い出さざるを得なかった。
中学2年生の俺には、好きな人がいた。
忘れもしない、名前は
とは言え目立つほうではなく、クラス内に友達はいない様子だった。運動神経はさほどよくもなく、頭はよかったけれど、特にそれでちやほやされていたことはなかった。
けれど、休み時間にひとりで本を読む姿勢、授業を受けるときの背筋、歩くときの凛とした佇まいは、よく覚えている。
そんな彼女への恋愛が始まるきっかけは、些細なことだった。同じ図書委員会になったのだ。
俺も華々しい部類の人間ではなく、休み時間はひとりでカバーもかけずにライトノベルを読み、卓球部のすみっこで不貞腐れている人間だった。
男友達もいない俺が、女子に話しかけるなんて難易度の高いことはできるわけもない。同じクラスで同じ委員会なのに、上若とも極力話さずにやり過ごす予定だった。
4月、5月、6月は予定通り、必要事項以上のことは喋らず、ただ委員会会議に参加したり、貸し出しのカウンターに座ったり、掲示物を制作していた。
ほとんど無言だった俺たちに変化が訪れたのは、7月の夏休み初め、蔵書整理をしていたときのことだ。
集合からすでに2時間が経っていて、いい加減作業にも飽きてきたあたり。ふと手に取った一冊の表紙が気に入ったのと、タイトルも何だかわからなくて、その本にしばらく見入っていたそのときだった。
「それ、好きなの?」
「うおっ」
いきなり飛んできた声にのけぞって、本棚に頭がぶつかる。ゴッ、と鈍い音とともに鈍い痛みも現れたが、幸いにも本が頭上に落ちてくることはなかった。
声の主は、上若だった。話しかけてもいいのかとあたりを見回すが、もう先輩も疲れている様子だったし、夏期講習で抜けている人も多い。特に注意されることも、こちらを気にしている様子すらなかった。物音に振り向いたくらいだ。
ホッとしつつ、「いや」と続ける。
「表紙とタイトルが気になったから、見てただけ」
あとは上若が『そうなんだ』とでも言って終わりかと思っていたから、「え?」と頓狂な声が聞こえたときは驚いた。
左隣にいる、上若の顔を見る。驚きと喜びがないまぜになった、今まで見たこともない不思議な表情をしていた。
「それだけで見てたの? それってすごいよ。これけっこう最近、芥川賞受賞したんだよ。てっきり村田沙耶香さんが好きか、芥川賞受賞作で興味を持ったか、もう読んで感慨に浸ったあとかと思ってた」
上若は、普段のおとなしそうな様子など微塵も見せずに、早口気味に捲し立てる。それでも滑舌は綺麗なものだったし、何より背筋もピンと張ったままだった。やっぱり上若だな、と知ったようなことを思う。
でも、今まで見たどの表情よりも柔らかくて、輝いていて、口端は嬉しそうに上がっていた。そんな表情もするのか、と甘い驚きを覚える。
「上若さんはこれ、好きな……んですか?」
今さら口調に迷って、敬語を取ってつける。そんな不自然な口調を上若が追求することもなく、「好き」と即答する。
「その『コンビニ人間』も、村田沙耶香さんも、芥川賞も、純文学も、小説も、全部好き」
よく本を読んでいるとは認識していたが、まさか純文学を愛読していて、しかもその熱量がこれほど高いとは思いもよらなかった。休み時間に話す人がいないから、という理由でライトノベルを読んでいた自分が、急に恥ずかしく思えてくる。
そんなこと思う必要はないとはわかっていたのになお恥ずかしさが止まらなかったのは、上若にそんな浅い自分を知られたくなかったからかもしれない。
「そう、なんですね。すごいなぁ」
「すごいって、何?」
零した言葉の破片を、上若は逃さなかった。切長の一重が、彼女の黒目が、俺の両目を離さない。
こんなことで恥ずかしさを感じている自分、日がなライトノベルを読み漁るオタクであることをアイデンティティにしている自分、騒がしい教室のすみっこで『こいつらとは違う』とひとり高みの見物気取りをしている自分──。そんな情けなさが、俺という人間のしょうもなさが、すべて引き出されて白日の下に晒されるような恐怖、緊張があった。
「純文学とか、芥川賞とか、難しそうじゃないすか。俺だったらまともに読めなさそうなのに、上若さんはすごいなって」
言ったあとで、これは卑屈な感じだな、と気づく。だが言ってしまったからにはどうにもできず、俺はただ上若からバカな人間だな、と失望される瞬間を待つことしかできなかった。
「それって、昔の文豪のイメージに囚われてない?」
しかし俺の予想に反し、上若は軽やかに言う。
「明治とか昭和初期とか、文章は美しいんだけど、読みづらいところはあるよね。同じ純文学でも、今はけっこう読みやすい作品も多いし、芥川賞は短編の賞だから初心者にもおすすめだよ。タイトルと表紙が気になったなら、たぶん
ずるいよな、と歯噛みする。
上若はニコニコと笑っていて、コンビニ人間を差し出してくる。この場で借りるのが決定事項のように。
普段はおとなしくてあんまり喋りも笑いもしないのに、そんな表情をされて、懇切丁寧に布教されてしまえば、誰だって断ることなんかできない。
渋々ながら受け取って、自分で貸し出し手続きをする。夏休み特別期間だから、返却期限は大盤振る舞いの9月7日まで。時間がなくて読めませんでした、なんて言い訳は通用しない。
言い訳できる期間であったとしても、俺はたぶん読んでいたのだろうが。
──久しぶりに、人と話した。それも女子と。
力を入れても上がろうとする口角を必死に抑えながら、元いた場所へ向かう。暗くてジメジメしていた中学校生活に、一筋の光を見た瞬間だった。
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