第2話 悪徳警察官

「ティエリーナ・エイブリム。ただいま参りました」


 コツコツとヒールを鳴らしながら捜査司令局に向かい、ティナは局長室のドアをノックした。だが返事はない。暫く待ってみたが、一向に返事がないのでティナはそっと扉を開けた。

 中は普通のオフィスの一室だった。部屋の奥にはデスクとパソコンが置かれている。だが部屋の中には誰もいなかった。

 辺りを伺いながら部屋に入る。秘密警察の根幹とも言える捜査司令部トップの部屋に、ティナはごくりとつばを飲み込んだ。


(なんで誰もいないのよ。もしかして私、試されているのかしら)


 もしやスパイとして秘密警察に潜入していることが上層部にバレたのだろうか。ティナは冷や汗をかきながら慎重にデスクに近づいていく。デスクの上には、つけっぱなしのパソコンと蓋のついたステンレスのマグが置いてあった。先程まで書き物をしていたのかデスクには剥き身のペンが転がっている。


(まだ会ったことがないけど、捜査本部の司令官はずいぶんとだらしない人なのね)


 デスクの上を眺めながら無意識のうちに相手をプロファイリングする。蓋をされずペン先がむき出しのままのボールペンや、つけっぱなしのパソコンを見るに、司令官はかなりズボラな性格のようだ。緊急事態に慌てて部屋を出ていった可能性もなくはないが、椅子の横に置かれたカバンが半開きになっていることや閉めたはずのデスクの引き出しが少しだけ開いていることから、これは生来の性格によるものだとティナは断定した。

 デスクに向けられた視線が、自然とつけっぱなしのPCへ向かう。


(もしかするとこのパソコンからなら秘匿されたデータベースにアクセスできるかも)


 デスク周りだけでもこんなに不用心なのだ。下手をするとPCにもロックがかかっていない可能性もある。

 辺りを見回し監視カメラや盗聴器がないことを確認すると、ティナはマウスに手を伸ばした。だが次の瞬間に不意に肩に手を置かれてティナはびくりと肩を震わせた。


「誰!」

「おおっとごめんよ。驚かせてしまって悪かったね」


 声を上げて振り向くと、目の前には見知らぬ男が立っていた。小麦色の髪をきっちり撫でつけた柔らかな風貌の男だ。年はティナより一回りは上の三十代後半くらいか。危害を加えることがない意思表示に両手をあげて人好きのする笑みを浮かべている。見覚えのないその顔にティナは眉根を潜めた。


「失礼を承知で申し上げますが、どちら様でしょうか」

「ああ、自己紹介が遅れてすまないね。私はサイラス。捜査本部の長だよ。よろしくね、ティエリーナ」

「捜査本部のボス? あなたが?」


 思わず声をあげ、慌てて口をつぐむ。かなり際どいことを口走った自覚はあったが、彼は気にしていないようだった。秘密警察組織の中でも中枢部隊といえる捜査本部のトップがこんなにズボラだなんて思えるはずがない。局長室だというのに、セキュリティのセの字もないくらいにどこもかしこも甘甘ゆるゆるだ。

 

「はは、もっと威厳を保てってよく秘書にも怒られてしまうんだ。でも私が正真正銘この局をまとめている者だよ。よろしくね、ティナ。おや、まだレイが来ていないようだね。どこかで彼を見なかったかい」

「レイというのがどの人物を指しているのかわかりませんが、ここに来た時は私一人でした」

「ふぅむ。そうなると今は取り調べをしているのかな。ではこちらから迎えに行こうか」

「あの、私がここに呼ばれたのはなぜでしょうか。なぜ情報局の新人捜査官である私がここに呼ばれたのか見当もつかないのですが」

「それはレイが来てからまとめて話すよ。ひとまずは私についてきてくれないか」

「はい……承知いたしました」


 わけがわからないが、新人捜査官という立場上上司の言うことには従わざるを得ない。

 コクリと頷いて了承すると、サイラスが自分のデスクに手を置きながら微笑んだ。


「ちなみに言っておくけどここは仮の執務室なんだ。だからそこのパソコンも社内で使っているのと同じ、アクセスしても普通の社員が得られる情報しか見られないからね」

「……私を試したのですか。部屋を不在にしていたのも、私の様子を見る為に」

「まさか、たまたまだよ。コーヒーの豆を切らしたから買いに行っていただけさ。クレセイアストリートの角にコーヒー屋があるだろう? 私はどうもそこのコーヒー豆じゃないと受け付けなくてね。君にも今度淹れてあげるよ。もうこれ以外のコーヒーは飲めなくなるから」


 そう言ってサイラスがデスクの上にあるステンレス製のマグを手に取る。蓋を取り、まだ湯気の立っているコーヒーを「アチチ」と言いながら飲んでいた。

 彼がコーヒーを飲む様子を見てティナは内心でほぞを噛む。なぜ気が付かなかったのだろう。コーヒーの温度をしっかり保つステンレス製のマグは、経年劣化は認められるものの念入りに手入れをされていて一部のシミも無い。

 デスク周りがずさんで気が付かなかったが、彼は自分がこだわるもの──自分が重要だと思うことは絶対に外さないタイプだ。きっと本当に知られてはならない機密事項は完璧に秘匿されていて、この部屋やPCなどから手がかりを得ることは不可能だろう。


(食えない人ね)


 扉の向こうに消えていく背中を見ながら、ティナは内心でひとりごちた。




 サイラスに連れて行かれたのはオフィスの外だった。確かレイという男は取調べをしているだろうという話だったが、取調室は屋外にあるのだろうか。

 訝しみながらも後をついていくが、サイラスが向かうのはオフィスビルではなく人通りのない路地だった。奥に進むにつれて薄暗くなっていき、どんどんと人の気配がなくなっていく。


(新手のセクハラかしら。人気のないところに私を連れ込んで何をするつもり?)


 サイラスの後ろ姿を眺めながら疑いの目を向ける。この男、いかにも優男という雰囲気を醸しておきながら意外とヤバい奴なのかもしれない。いつ接近戦になってもいいように、ティナもこっそりと太ももに潜ませたアトマイザーを確認する。もちろん襲われたらアトマイザーに入っている睡眠薬で眠らせ、ガバガバすぎるオフィスのセキュリティも含めて上層部に報告書を叩き込むつもりだった。

 そんなことを思っていると、サイラスが不意に足を止めた。いつ豹変して襲われてもいいようにティナも少しだけ距離をとって身構える。

 だが。


 ──グシャリ。


 煙草の空箱が無惨に潰される音がして、前方からヒッと小さく悲鳴があがった。慌てて顔をあげると、前方に二つの人影が見えた。一人は薄暗い路地を背にして腰を抜かしている禿げた男。そしてその前に背の高い黒髪の男が立ちはだかっている。

 黒髪の男が一歩前に出ると、剥げた男が悲鳴をあげる。


「わ、悪かった。俺が悪かったから見逃してくれ!」

「見逃す? とっくに罪状は割れてんだよ。マイルズ製薬の産業スパイはお前だろ。企業秘密である新薬の情報漏洩の罪状が出ている。鉛で足をぶち抜かれたくなければとっととお縄につくんだな」

「ま、待て。誤解だ。第一証拠はあるのか? 俺はただの製薬会社の下っ端社員だよ」

「証拠だ? んなもん今お前から引っ張り出してくるんだよ。これからのキッツイ取り調べでな」


 そう言って背の高い男がクツクツと笑う。口元を覆う手には火のついた煙草が挟まれていて、薄暗い路地に白く細い筋を描き出していた。

 彼はまるで獲物を追い詰める狼のように、腰を抜かしている男を見下ろしていた。長い前髪の隙間から見えるのはワインのように赤い瞳。煙草をくゆらす男の赤い瞳を見て、追い詰められた男が息を飲む音がする。


「その赤目…! お前、レイヴンか!?」

「ご明察の通り。なんだ、俺も有名になったもんだな。その禿げ頭にサインでもしてやろうか?」

「以前に俺の兄貴分がお前によって捕まった。A社の集団ハッキングの事件でだ。兄貴の顔を忘れたとは言わせねぇ」


 追い詰められて震えていた禿げ頭の男が黒髪の男を睨みつける。身内のカタキの登場に、怒りが怯えを上回ったらしい。

 だが黒髪の男は半眼でコキリと首を鳴らした。


「あーそんなこともあったか? 覚えてねぇなあ。俺モブ顔はすぐに忘れる主義だから」

「悪いが俺は捕まるわけにはいかねぇ。兄貴のカタキだ! ここで死ね!」


 そう吐き捨てると、今まで路地を背に腰を抜かしていた男が立ち上がり、赤い瞳の男に向かって飛びかかる。その手に握られているのは銀色の刃。だがそのナイフが男の首をかききることはなかった。

 パァンという銃声と共に小型のナイフが中を飛ぶ。そのままダンと鈍い音がして、片手で首の根を掴まれた男が壁に押しつけられた。


「残念だったな。俺に見つかった時点で袋のねずみも同然なんだよ」


 カチリと音がして男の顎を掬うように銃先が突きつけられる。その硬質な音と感触に赤い瞳に睨まれた容疑者の男は思わず両腕をあげた。


「た、逮捕だけは勘弁してくれ! 捕まったことがバレたら出所しても組織にいられなくなっちまう」

「それを聞いて見逃せる警官がいるか? だが……そうだな。お前が使える男なら今回は見逃してやってもいい」


 煙草の煙をくゆらせながら低く笑う男に、容疑者の男がパッと表情を変える。


「本当か? 何をすればいい」

「お前産業スパイなんだろ? 十日やるから同業の情報をあるだけ持って来い。俺の手駒に使える限りは、俺はお前を捕まえない」

「や、約束する。必ず有益な情報を取ってお前に教えてやるよ」

「ならもう行け。他の警官がくればややこしくなるからな。くれぐれも見つからないように逃げきろよ」

「わ、わかった。恩にきる」


 手に持った煙草で路地の外を指し示すと、禿げ頭の男は慌てて立ち上がり、もんどり打ちながら路地の外へと逃げていった。

 黒髪の男は容疑者が路地の向こうへ消えていく後ろ姿を黙って眺めていたが、やがてシガーケースに煙草を押し込み、もう一本咥えて火をつけた。

 あまりにも横暴な振る舞い。

 警官としてあるまじき姿に、ティナは思わず前に進み出た。


「あなた、自分が何をしたのかわかっているの?」


 男の前に出て正面から睨みつけると、ワインレッドの赤い瞳がティナに向けられる。


「なんだ。誰だお前は」

「新人捜査官のティエリーナです。あなた、今目の前に犯罪者がいるとわかっていて見逃したのよね? それは秘密警察の捜査官としてやってはいけないことでしょう。プライドはないの?」

「新人捜査官ねえ。最近の採用は全部ペーパーテストになったのか? 百点満点の解答だな」

「馬鹿なことを言っていないで今すぐあの男を追いかけた方がいいわ。あの人多分逃げ切るつもりよ」

「へえ、犯罪者のことをよくわかっているような口ぶりじゃないか」


 今しがた火をつけたばかりの煙草をシガーケースに押し込みながら男が不敵に笑う。すべてを見透かすような赤い瞳を見てティナはごくりとつばを飲んだ。


「単なる経験則よ。ああいうその場の空気に流されるタイプは仲間や組織を裏切る確率が高いというだけ。あの男を放っておいたらまた罪を重ねるわ。早く捕まえないと」

「奴のねぐらは抑えてある。十日経っても顔を出さなければ強制で家宅捜索だな。戻ってきたなら情報を吐かせた上でその場で捕縛。なんの不都合もないだろ?」

「彼を騙したのね!? さっき見逃すって言ったのに」

見逃すと言っただけだ。同業者の方が情報は集めやすいだろ。使うだけ使って用済みになれば豚箱だ」

「あなた最低ね」


 思わず本音が出た。確かに結果だけを見れば犯罪者は捕まえられるし、あわよくば他の犯罪もまとめて片付けられる。合理的な考え方なのかもしれないが、あまりにも横暴すぎるやり方だ。秘密警察の捜査官というより、悪徳の詐欺業者という方がよっぽど似合う。

 だが剣呑な二人の間にサイラスが「まぁまぁ」と言いながらニコニコと割って入った。


「コラコラふたりとも初対面で喧嘩しないの。レイ、彼女はティエリーナ。情報局から捜査本部に引き抜いてきた新人捜査官だよ。これから仲良くしてやってくれ」

「仲良く? 俺が面倒を見るということか? 悪いが他をあたってくれないか」

「そうですよボス。私もこんな人に仕事を教わるよりも、もっと丁寧で優しい人に教わりたいです」

「ええ、そうなのかい? 困ったなぁ。君たちには今からバディを組んでもらおうと思ったのに」

「バディ?」


 バディを組まされるとは初耳だ。情報局から捜査本部に呼ばれていきなりバディを組まされることになるなんて聞いていない。

 戸惑いながら隣に視線を泳がせると、レイも初耳だったのか、瞳を丸くしてサイラスを見ている。


「バディだと? 捜査本部は単独ソロチームが基本だろ。んなもん聞いたことねぇぞ」

「事情が変わったんだ、レイ。今から重要な任務ミッションを伝えるから落ち着いて聞いてほしい」


 低く告げるサイラスの声にティナは思わず身構える。戸惑う二人の顔を前に、サイラスがコホンと咳払いをした。


「早速だけど──君達には今日から夫婦になってもらいたい」

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