第1話 その女、スパイにつき

 誰もいない薄暗いオフィス内にカタカタとキーボードの音が響く。全面ガラス張りのオフィスから見えるのは大都市の街並み。

 数多のビル群を背にキーボードを打っていたティエリーナはタイプする手を止めて画面を食い入るように見つめた。目の前のPC画面にはパスワードを入力するボックスが表示されている。自慢の艷やかなローズレッドの髪がはらりと顔にかかるのをかき上げながら、ティナはキーボードを打ち込んだ。

 綺麗に整えられた爪でエンターキーを押す。だが結果は──否。無情に表示される無機質なメッセージを前にため息をつきながら、ティナは椅子の背もたれに深くもたれかかった。


(潜入まではできたとはいえ、さすが秘密警察組織。セキュリティが堅いわね……)


 本部に潜入して早々に色仕掛けで落とした情報局の幹部から入手したパスワードは案の定間違っていた。幹部とは言え彼は組織全体から見れば下っ端。そんな男が教えられるパスワードなんてたかが知れているのだろう。

 内心で深くため息をつきながらティナはデスクに置かれた警察手帳のエンブレムを指でなぞった。この組織で正式に発行された、正真正銘の身分証だ。


 秘密警察。

 国家に仇なす犯罪組織、テロリストなどを摘発し、国家と大統領を守る公安部隊のことを指す。一言で言えば、国に敵対するスパイや犯罪集団を摘発するポリス集団ということだ。一般の警察と違うところは、内部の活動が秘匿されていることと、大統領に次ぐ権限を持っている組織だということ。

 そしてティエリーナはその秘密警察組織の内部事情を探るスパイだった。

 企業や国家を暗躍するスパイ達にとって彼らを取り締まる秘密警察は言わば天敵。これまでは罪を犯していなければ見逃されていたスパイ行為も、近年は取り締まりが強化されたのかスパイという職に就いているだけで逮捕される始末。あまりの秘密警察の横暴ぶりに、さすがのスパイ達も黙ってはいなかった。

 目の上のたんこぶである秘密組織を黙らせる為にティナが組織から送り込まれたのが三ヶ月前。プロファイリングの能力を買われ、組織内のデータベースにアクセスできる情報局に入ったまではいいものの、そこから先の難易度が高かった。


(やっぱりボスの存在は内部の捜査官にも知らされていないみたいね。これはちょっと時間がかかりそうだわ)


 ティナが探しているのは、秘密警察組織のトップである局長ボスの情報だ。

 ティナに与えられた任務は一つ。「秘密警察のボスをハニー・トラップで陥落し、秘密警察の弱みを握ること」。

 はたから見れば失笑されるような話だが、これは全スパイ組織にとって重要な任務ミッションであった。なぜなら自分達を追い回す国家の犬を手懐けることができれば、それは何にも増して強力な番犬となるからだ。おそらく他のスパイ組織から見ても、この任務は悲願だろう。

 ブルーライトの光を浴びながらティナは歯噛みする。


(ボスにまでたどり着くことさえできれば愛人になるくらい訳ないのに……)


 プロのスパイであるティナからすれば、ボスにさえ接触できれば任務完了にも等しい。愛人にさえなってしまえば、ありとあらゆる警察組織の内情を知ることができるし、逆に弱みを握れば脅しにも使うことができる。

 だがまさか幹部にさえもボスの存在を知らされていないとは思わなかった。内部のデータベースにアクセスできるパスワードは今見た通り弾かれる始末。

 頭が痛くなってきたのはPCの画面を見すぎたせいなのか、はたまた難度の高いミッションの見通しが立たないせいなのか。眉間をつまんで軽く揉みながらティナは席を立った。コーヒーが飲みたくなったのだ。


 コツコツとヒールの靴音を鳴らしながら、ティナはユーティリティに向かった。国の統率下にある組織のくせに、やたらと近代的なオフィスであるここのユーティリティはガラス張りのおしゃれなデザインで、ティナは内心でため息を付いた。開放的でオープンなオフィスのくせに内部事情は秘密だらけとはなんとも皮肉な話だ。

 エスプレッソマシンにスイッチを入れ、マシンが煮沸音と共に駆動しているのを見つめていると、廊下の奥からコツコツと靴音がして一人の男が顔を覗かせた。年は四十代半ばほどだろうか。高級ブランドのスーツを着て、金細工の腕時計をはめている。

 ティナの上司であり、情報部のトップである彼はティナの姿を見るとわかりやすく破顔した。


「や、ここにいたんだね、ティナ。仕事はどうだい」

「ええ、問題ありませんわ。先日引き受けた案件はすべてプロファイリングを済ませてデータを格納しております。何か追加でデータが必要なら教えてください。すぐに対応いたしますので」


 男の姿を見ると同時にティナは「デキる女」の仮面を貼り付けた。淹れたてのコーヒーが入った紙カップを口につけながら、優雅に髪をかきあげる。口元に妖艶な笑みを称え、思わせぶりな視線を彼に投げると、男がほうと惚けたような表情を浮かべた。彼がティナにわかりやすい恋心を抱いているのは一目瞭然だ。というよりも、ティナがそうなるように仕向けたのだ。

 

 ハニー・トラップ。

 スパイがターゲットに近付いて必要な情報を得る為に色仕掛けで落とす方法だ。そしてこの情報部の幹部こそ、ティナがここに来て真っ先に落とした男だった。

 利用されているとも知らない彼はニヤニヤしながらティナの腰を抱く。

  

「君くらい優秀なら追加のデータは不要に決まってるさ。それよりも今夜どうかな? 優秀な新人に、俺がディナーでも奢ってあげたいんだけど」

「ありがたい申し出ですけど、今日は遠慮しておきます。まだやらなければならないタスクが積み上がっていますので」

「あんまり仕事ばかりしてると婚期が遅れるぞ。たまには息抜きも大事さ」

「うふ、ご忠告感謝いたしますわ。また今度誘ってくださいね」


 ニッコリと笑いかけながら、でも内心では「後でセクハラで上にチクっておこ」と思いながらスルリと彼の腕から逃れる。もう少し情報を持っていそうなら恋人にしても良かったのだが、残念なことに彼はろくな情報を持っていなかった。上層部に近づくならもっと使える男をターゲットにするしかない。


(この人もそろそろ潮時ね。せっかく有能でデキる捜査官のフリをしていたのに、また一からやり直しかぁ)


 ハニートラップで重要なのは容姿の華やかさではない。いかに相手の情報を分析して懐に飛び込めるかだ。どんなに見てくれを磨いたって、惚れてもらえなければ意味はないのだから。

 ちなみに過去のターゲットの中にはぽっちゃり体型が好みだったり、お馬鹿であざとい女性が好みだった男もいた。

 ぽっちゃり系がタイプのターゲットの時は努力して二十キロ体重を増やしたこともあったし、ドジっ子がタイプのターゲットの時は毎日派手に転んで泣く泣くストッキングに穴を開けた。これは経費として申請したいところだったが、もし万が一自宅を見られた際に律儀にレシートを取っておくのを見られないよう涙をのんで捨てた。そう、スパイは意外と泥臭い体力勝負な職業なのだ。


 隣から聞こえてくる口説き文句を右から左に聞き流しながら、ティナは窓ガラスに映る自分の姿をぼんやりと眺めた。

 毛先だけくるりと巻いたローズレッドの艷やかな髪に紺色の瞳。ツンと上向きの豊満な胸が目立つ明るい黄色のノースリーブニットに赤いタイトスカートはティナの体のラインを美しく際立たせている。派手好みのこの男に合わせて服装も大人の女性らしいものを身に着けているが、これも次のターゲットの好み次第で髪を短く切ったり胸をコルセットでぎゅうぎゅう潰したりしなければならないのだ。そう思うと、人選を見誤った自分にため息しかでない。


「ティナ、人の話を聞いているかい?」

「ええ、もちろんよ。貴方が今度大型任務の捜査に関わるという話よね。素敵だわ」


 横から聞こえてくる言葉に、振り向いて笑顔で返す。ぼんやり思考の海をたゆたっていても、耳はしっかりと要点を聞き逃さない。これは職業病のようなものだが、男は何の疑いも持たずに満足そうに頷いた。

 大型捜査に関わると言っているが、単なる人海戦術のコマに過ぎないということを彼はわかっているのだろうか。今後の出世の見込みもなさそうなこの男に、ティナは内心で見切りをつけた。

 紙コップをくしゃりとつぶし、ゴミ箱に入れる。


「ではまだ片付けないといけない作業が残っていますので私はこれで。お先に失礼します」


 ニコッと笑ってユーティリティを出ようとすると、咄嗟に腕を掴まれる。そのままぐいと引き寄せられ、ティナは壁に背をついた。

 壁に手をついた男は、屈みながらティナに顔を近づけてくる。いわゆる壁ドンというやつだ。

 嫌悪感を隠しながら見据えると、ニヤニヤとした下品な笑みが帰ってきた。

 

「ティナ、そろそろ素直になりなよ。本当はさ、自分の気持ちに気づいてるんだろう?」

「気持ち? 何のことかしら」

「とぼけても無駄さ。お前、俺のこと好きなんだろ。実は今夜、ホテルのスイートを取ってあるんだ。だから今日は早めに切り上げろよ。いい思いをさせてやるから」


 そう言いながら男がクイとティナの顎を引き上げる。ティナは内心でため息をつきながら、そっと右手でスカートをたくし上げた。

 職業柄、遭うのは慣れっこだ。当然、スパイたるものある程度の護身術も弁えている。

 太ももに巻いたベルトに固定されているのは持ち運び用の香水アトマイザー。だが中に入っているのは強力な催眠スプレーだ。一吹きで五分は相手を強制的に眠らせ、おまけに前後の記憶も曖昧にさせる作用もあるというスグレモノ。ティナの所属しているスパイ組織が開発したものだ。

 だがアトマイザーに指をかけたところでコツコツと靴音がして誰かがユーティリティに近付いてきた。男が慌ててティナから離れる。

 やってきたのは同僚の女性だった。彼女は慌てた様子でティナのもとに駆け寄る。


「ティナ、捜査司令部の部長が呼んでる。今すぐ来て」

「捜査司令部? わかった、すぐに向かうわ」


 捜査司令部というのは秘密警察の根幹とも言うべき最も中心となる場所だ。ありとあらゆる捜査官がこの部の司令を受けて捜査活動を行っている。

 そんな重要な場所に、なぜ情報部の新人捜査官である自分が呼ばれたのかわからないまま、ティナは男を置いてユーティリティを出ていった。

 



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