マリアージュ・ブラン〜スパイとして潜入したら、悪徳警察官と偽装結婚させられました〜

結月 花

プロローグ 睦まじい夫婦

 高い天井から吊り下がるシャンデリアがパーティ会場をきらびやかに照らしている。全面ガラス張りの窓から見えるのは宝石を散らしたかのような夜景。

 眠らない街を背にしながら、グラスを片手に持った紳士やナイトドレスに身を包んだ淑女達が歩き回りながらそこかしこで談笑していた。

 そんな中一際目を引くのは一組の男女だった。艷やかな黒髪をオールバックにし、上等なスーツを着て紳士達と談笑しているのは遠目から見てもわかる美男。ワインレッドのような赤い瞳は今は目の前の紳士に向けられており、遠くから淑女たちがうっとりした表情を向けていることに気づいていない。

 そして彼の隣にいる女もまた周囲の視線を集めるほどの美女だった。大きな濃紺の瞳は長い睫毛に彩られ、ふっくらした頬と唇は上品なさくらんぼ色。艷やかな美しいレッドローズの髪を結い、体にぴったりとした濃青のドレスからは豊かな胸元が覗いている。

 嫌でも目を引く容姿の二人だが、美女を口説きに来る紳士も一夜のお相手を乞う淑女もいない。なぜなら二人は先程からずっと手を繋ぎ合い、片時も離れないからだ。見るからに熱愛中である二人に割って入る者は誰もいない。

 コロコロと笑いながら談笑していた美女がワイングラスをテーブルに置く。だが手が滑ったのか、グラスが傾いて床に叩きつけられた。

 パリンという硬質な音と共にグラスが割れ、ガラスが飛び散る。それまで他の客とにこやかに会話をしていた男が咄嗟に美女を自分の腕の中に引き寄せた。


「大丈夫か。怪我は」

「え、ええ……大丈夫よ、あなた。ごめんなさい。手が滑ってしまったの」

「いや、君が無事なら問題はない」


 そう言って男がホッとしたように美女の手を取り、彼女もまた嬉しそうな顔で彼の赤い瞳を見つめる。二人の睦まじいやり取りに、周囲にいた淑女達が感嘆の息を吐いた。


「素敵。お二人は本当に睦まじい夫婦なのね。羨ましいわ」

「レイ様ったらよっぽど奥様のことが大事なのね。私もこんなふうに心配されてみたいわ」

「ふふ、ティエリーナ様はお幸せな方ね」

「でもどうしましょう、ドレスが濡れてしまったわ、あなた」


 美女が懇願するように男を見上げると、彼女の夫である男が頷いた。そのまま妻の体を横抱きにしてふわりと持ち上げる。


「すまないが妻を着替えさせなければならない。こちらで失礼する」

「やだ、あなた。こんな所で」

「こちらの方が早いだろう。一刻も早く君を着替えさせなければ風邪を引いてしまう」


 夫の優しい声に、美女は頬を赤らめる。妻を見る男の目は優しく、彼が日頃から妻を大事にしていることがひと目でわかった。


「それでは今日のところはこれで失礼するよ。良い夜を」


 妻を横抱きにしたまま男は人好きのする笑顔で周囲に挨拶をする。

 きゃあきゃあと色めき立つ声に見送られながら、美女を横抱きにした男はそのままゆっくりとパーティ会場を去っていった。





 会場を出た二人は廊下に出た。突き当りが見えないほどに長い廊下には誰もいない。

 男が腕を下げて横抱きにしていた妻を優しく下ろすと、美女は夫の胸に手を当てながらゆっくりと床に立つ。

 と同時に美女はワナワナとしながら両手で頭を抱えた。


「あーーーもう、なんで私がこの男の妻にならなきゃいけないのよーー! なんで秘密警察に入って偽装結婚!? そんなの聞いてないわ!」


 美女ことティエリーナは淑女の設定であることも忘れて人気のない廊下でムキーッと吠えた。

 ティナの隣では夫である男もくしゃりと前髪をかきあげて煙草を咥える。眉間にシワを寄せて気怠げに煙を吐く彼は先程までの紳士の姿とは比べ物にならないくらいに粗野で荒々しい。

 見るからに態度の違うこの男はレイヴン。秘密警察に所属する捜査官であり、任務遂行の為にティナと偽装結婚したバディの男だ。

 レイが吐いた煙が誰もいない通路に白い道筋を作っていく。ティナが自分の腰に回された彼の腕を振り払うと、レイが面白そうに口角をあげた。


「もう夫婦の演技は終わりか? 俺としちゃ、もうちょっとだけイチャついていても良かったけどな」

「馬鹿なことを言わないで。本当の夫婦じゃないんだから不必要にベタベタする必要はないでしょ。あの場を自然に退出する為にワイングラスを落とすっていう話だったのに、お姫様抱っこなんてやりすぎよ」

「自他ともに羨む溺愛夫婦のなんだから仕方ないだろ」

「あなたはお忘れだと思うけれど、私とあなたは敵同士なのよ。寝首をかかれたくないなら、簡単に気を許さないことね」

「あんまりにも反抗的だと俺もうっかりお前の正体を上に報告しちまうかもしれないぞ。もう少し可愛げのある態度をとってもいいんじゃないか? ハニトラ専門の女スパイさん」

  

 煙草を口元にあててニッと笑うレイの顔を見て、ティナは悔し紛れにグッと唇を噛んだ。

 ティエリーナの正体は秘密警察に潜入したスパイだ。所属しているスパイ組織から秘密警察組織の弱みを握ってこいと言われ、新人捜査官として潜入したのが三ヶ月前。だが紆余曲折あり、なんとなりゆきで偽装夫婦関係を結ぶことになってしまったのだ。唯一自分の正体を知る、このいけすかない悪徳警察官の男と。 

 長い前髪から覗く赤い瞳を睨みつけながら、ティナはビシッと指を突きつける。


「今の私は秘密警察の新人捜査官なんだから、仕事はきっちりやるわよ。でも約束は忘れないで。婚姻中に私の色仕掛けにあなたが陥落したら約束通り秘密警察のボスにコンタクトを取ってもらうわよ」

「泣く子も黙る秘密警察のボスをハニー・トラップで落とそうだなんて大それたことを考える女はお前だけだろうな。大層自分の腕に自信があるようで」

「当たり前よ。これまでに私に落とせなかった男はいないわ」

「ま、せいぜい頑張れよ。今は任務の為に見逃しているがこの婚姻期間が終われば俺はお前がスパイであることを上に報告する。チクってほしくなければ、自慢のハニー・トラップとやらで俺を黙らせるしかないな。逆に俺に惚れないように用心しろよ」

「馬鹿にしないで。私があなたのことを好きになるわけないでしょう。こっちはプロよ」

「そんな可愛くねぇこと言わずに俺のものになっちまえばいいのに。幸せにしてやるぞ?」

「結 構 で す」

「ほら、前を見ろ。上階に行くなら今しかない」


 携帯式のシガーケースに煙草をグシャリと乱雑に突っ込み、レイが片手でネクタイを締め直した。悔しいがその男臭い手つきは色仕掛けのプロであるティナから見ても目を引く。だからといってこの男を好きになる可能性は万が一にも発生しないが。

 物陰から顔を出し、誰もいない廊下を覗く。目指すはホテルの頂上階。誰かに見つかる前に早く任務を完了させてしまわねば。

 だが突如カツカツと向こう側から誰かがやってくる靴音が聞こえた。今頃パーティ会場では主催者であるリゲル氏が熱弁を振るっているのだろう。そんな中物陰でコソコソしている二人はどこから見ても怪しい。ティナは物陰に潜みながら唇を噛んだ。 

 このままでは鉢合わせると思った瞬間に、腕を引かれて抱き寄せられた。フワリと香る煙草の匂いと突如唇に感じる熱。

 なんの躊躇いもない情熱的なキスをその身に受けながら、ティナはドレスの下でゲシゲシとレイの足を踏んでいた。

 内心ではお互いにバチバチしながらも傍目には濃厚なキスを交わすカップルを演じているうちに二人の横を警備員が通り過ぎていった。一瞬チラリとこちらを見てすぐ視線を戻した警備員の顔には「こんなところでもお盛んでいいご身分ですね」と書いてある。

 警備員の後ろ姿が廊下の向こうに消えた瞬間、ティナは突き飛ばすようにしてレイの抱擁から抜け出た。


「この変態悪徳警官っ! いくら演技とは言えわざわざこんなに本格的なキスまでする必要はないでしょ!」

「演技をするなら徹底的にやるのは基本だろ? 盛況なパーティを抜けて物陰に隠れる男女なんてどう考えてもお盛んな奴らしかいない。ほら、邪魔者はいなくなったんだから今のうちにさっさと行くぞ。下手をするともうすぐパーティが終わる可能性がある」

「あなたこそ私の足を引っ張ってポカをやらかさないでよね」

「はいはい仰せのままに。


 レイのネクタイをグイと引っ張りながら赤い瞳を睨みつけるが、背の高い彼から見ればティナがキャンキャン吠えているだけにしか見えないのだろう。

 余裕そうな表情で見下ろしてくるレイの顔が憎らしくて、ティナはぐっと歯噛みする。


「見てなさい。私は絶対にこの婚姻中にあなたを落として秘密警察のボスまでたどり着いてやるんだから!」


 そう吐き捨てると、ティナは拳を握って廊下を駆け出した。

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