第220話 美咲の謝罪 


 ものすごく痛い。そう思いながら、買い物袋を片手にアパートへと向かう。急ぐ必要はない。今、美咲は上野が部屋まで送っている。途中で鉢合わせてしまうのは避けたいし、最悪の場合、同じアパートに住んでいることがバレるのは困る。それならば、わざわざ上野に美咲を任せた意味がなくなってしまう。だから、なるべくゆっくりと歩くことにした。


 しかし、警戒は怠れない。あの狐のお面のやつは確実に俺を狙っているようだ。俺の名前を知っていたのは少し不気味に感じたが、喧嘩の噂が広まっていれば身元が割れるのも時間の問題だったのかもしれない。そして、今回のことが復讐だとしたら、美咲を巻き込んでしまったことが本当に申し訳なく思う。きっと怖い思いをしただろう。これからはもっと気を引き締めていかないと――。


 スマホが振動する。美咲からのメッセージだ。


「上野君が帰りました。そろそろ戻ってきても大丈夫です」


 上野が帰ったのなら、もう会うこともないだろうし、少し遠回りしてから戻ることにした。アパートに着くと、俺の部屋の扉の前で美咲が座っていた。


「何してるんだ?」


 正直、あんな別れ方をしたのだから、美咲も色々と気になるところがあるだろう。あの狐のお面のやつが美咲を狙っていると考えているのかもしれない。しかし、美咲の返答は意外なものだった。


「買い物袋、早く片付けないとでしょ」


 食材を優先するのか――。俺は少し拍子抜けしたが、妙に安心もした。


「そうか」


 俺たちはそのまま部屋に入った。美咲は特に今回の件に触れることもなく、黙々と食材を冷蔵庫にしまっていく。あまり気にしていないようで、少し安心した。


「今日の夜はどうします?」


 美咲が夕食の準備を始めながら問いかけてきた。


「シチューとかでいいか?」


「わかりました」


 会話はそれ以上続かず、いつも通りのやり取りに戻る。あんなことがあったのに、美咲は動じていないように見える。この程度では何も感じないのか、それとも薫さんに比べれば怖くないのか――。



少しの沈黙の後、美咲が口を開いた。息を飲み込む音が聞こえ、少しの緊張が走る。


「…あの」


「なんだよ」


 一瞬、目が合ったがすぐに彼女は視線をそらした。美咲の表情には複雑な感情が混ざり合っている。言葉を選んでいるようにも見えた。


「ごめんなさい」


「急にどうした?」


 唐突な謝罪に、俺は驚いて問い返した。何を気にしているのか察しきれず、胸の中にわずかな不安が広がる。美咲は目を伏せて、いつもよりも少し小さな声で続けた。


「私を守っていたせいで、倫太郎君が全然手を出せなかったじゃないですか。そのせいでケガをさせて……」


 その言葉の重さに、俺は言葉を返すのに時間がかかった。自分を責める美咲に対して、何と言えばいいのか迷ったが、できる限り平静を保って言葉を絞り出す。


「気にするな。お前が無事ならそれでいい」


 一瞬、彼女の表情が揺らぐ。しかし、その次の言葉は容赦なかった。


「でも……あの人ですよね。倫太郎君が停学になった事件に関係ある人って」


 痛む過去が再び心に浮かび、思わず目をそらしてしまう。過去に戻るのは苦しいが、美咲にはその部分を語るつもりはない。できる限りの冷静さを装って答えた。


「知らん。顔がわからんからな。別人かもしれない」


「でも、関わっていたことには変わりないですよね。何があったんですか?」


 言葉のトゲが胸に刺さるような気がした。何かを語ることで美咲を危険に巻き込みたくない。その思いだけで口を閉ざす。


「何も話すことはない」


「話してください」


 美咲は少しだけ声を強めてそう言った。目の奥には何かを訴えるような光があった。それでも俺は頑なに拒む。


「いやだ」


 二人の間に張り詰めた沈黙が訪れる。互いの意地がぶつかり合い、微妙な距離感が生まれる。だが、美咲は冷静に口を開いた。声は穏やかだが、そこに含まれた決意は揺るがない。


「勘違いしないでください。あなたを心配しているわけではありません。今回の件で、私があなたの弱点だと見なされた可能性があります。そうなれば、私も狙われることになるかもしれない。だから、少しでもそのリスクを回避するために、知っていることを共有してほしいだけです」


 言葉の一つ一つが理路整然としていて、返す言葉を失った。美咲が自分を守りたいという気持ちではなく、冷静に状況を分析していることが分かった。俺の言葉を引き出そうとするその姿勢に、思わず心が揺れる。

「わかった。話す。だがひとつだけ約束しろ。俺から聞いたことは他言しない。薫さんから命令されたら仕方ないが。それと自分のためだけに利用しろ。俺のためと思ってほかの生徒に弁解しようとしたりするな。これを守るんだったら話してやる」

 美咲に知られて一番心配されるのは学校の環境をよくされることだ。正直美咲の一言で生徒の意見を変えるのはたやすいだろう。だが、俺にとってはそれは余計なお世話である。このことは絶対に守ってもらわなければ。

「なるほど、あなたの懸念はそこでしたか。安心してください。あなたがそれを嫌っているのは理解しているので。それに、私が話したところで裏ではより悪と思われると思いますし」

「だろうな」

 美咲をそそのかしたとか。洗脳したとか言われるのがおちだな。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る