第30話 山でランニング
山道を俺たちは進んでいた。空気は澄んでいて、緑の匂いが鼻をつく。琴音は俺たちより一歩前、というより数歩先を軽やかに歩いている。まるで道を知っているかのように、迷いも疲れも感じさせず。
「どこに向かってるんですかね?」
俺の隣を歩いていた椎崎が小さくつぶやく。声に少し息が混じっている。
「お前も知らないのか?」
「知りませんよ。こんな山奥、普通に生活してたら来ないですよ」
息を整えながらも、椎崎は文句を言うわけでもなく、ペースを合わせてくれている。彼女は運動部って感じじゃないけど、弱音を吐かないのは立派だと思う。
坂道はきつくはないが、じわじわと足に重さがのしかかってくる。椎崎の額にはうっすら汗が滲んでいた。
「おい、琴音。登るの速い」
「えっ?……あ、ごめん。二人とも遅いなーって思ってたら、ちょっと楽しくなっちゃって」
単純に気づいていなかったらしい。すぐに引き返して、俺たちの元へと駆け戻ってきた。その顔には満面の笑み。まるで犬が主人を見つけた時みたいな無邪気さだ。
「悪いな」
「彼女のペースに合わせたんでしょ。りんにいもちゃんと彼氏してるねー」
「だから違うって」
確かに椎崎に合わせたのは事実だが、それをイコール恋人関係と結びつけるあたり、琴音の脳内回路はやっぱり特殊だ。
「私に気を遣わず、先に行っていいですよ?」
椎崎が小さな声で言う。優しさと、少しの遠慮が滲んでいた。
「そんなひどいことしませんよ。私が誘ったんですし」
琴音がにっこり笑って返すが、その裏では必死にスローペースに耐えているようだった。この二人、相性は悪くない。だが、真逆のタイプすぎて、どちらかが常に調整している感じがある。
「琴音、目的地はあとどれくらいだ?」
「もうちょっと先!運動公園みたいなとこがあるって」
運動公園……嫌な予感しかしない。今の時点でけっこうキツいのに、まだ“遊び”が待ってるってことか。
「椎崎さん。前と後ろ、どっちが好きですか?」
「……何がですか?え、ひとまず後ろで」
よし。なら決まりだ。
俺は膝をつき、両手を後ろに差し出した。
「えっ、なんですかこれ」
「走る。俺が」
「……はあ」
ため息混じりの返事が返ってきた。あ、いつもの冷静な椎崎に戻ってる。この感じ、ちょっとホッとする。
「わかりました」
仕方なさそうに言いつつも、椎崎は俺の背に乗った。驚くほど軽い。こんなに軽いのに、彼女が抱えるものはきっと重いんだろうな、なんてことを一瞬思う。
「琴音、ペースは俺に合わせろ」
「了解っ!」
琴音がポンと地面を蹴って、まるで戦闘開始の合図のように構える。
「よし、いくぞ!」
全力で走り出す。足元に注意しながら、背中の椎崎を落とさないよう、腕に力を入れる。
「あの、早いです……!」
「我慢しろ!」
坂を駆け上がるたび、足に乳酸が溜まっていく感覚がある。それでも――
「うおおっ、りんにい!やるじゃん!けど――」
琴音の声が響いた直後、空気が変わる。背後からものすごい圧力が襲ってきたかと思えば、あっという間に横をすり抜けていった。
「先に行ってるよー!!」
爆走モード。全力疾走のフォームは美しく、そして容赦がない。
「追いかけてください、あなた。私を背負って敗北ですか?」
椎崎の煽りが入った。え、キャラ変わってない?
「振り落とされんなよ!」
気合を入れ直し、さらにペースを上げる。全神経を背中の彼女と前方の妹に集中させる。足を滑らせたら終わりだ。
「頑張ってくださいっ!」
「おう!!」
声援が追い風になって、普段よりも自分の中に熱がこもる。体を動かすのも、こうして誰かと競い合うのも、悪くない。むしろ――楽しい。
だが、琴音の背中は遠い。どれだけ足を動かしても、あの距離は縮まらない。
それでも、俺の背中の椎崎は待ってはくれない。ペースが落ちた瞬間――
「うぐっ」
つねられた。容赦なく。
「おーい!」
遠くの高台から琴音が手を振っている。ようやく、ゴールだ。
「あー、ついた……」
足が棒みたいになっているが、不思議と息は整っている。
「遅かったね、二人とも!」
「私は何もしてません。全部倫太郎くんが遅いのが悪いです」
「悪かったな」
肩で息をしながらそう返す。
「よーし、遊びますか!」
琴音のテンションは頂点を超えていた。なるほど、これは“移動”だったのか。俺の体力が尽きるのは、まだ先の話らしい。今日は間違いなく、限界まで付き合う羽目になるだろうな――。
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