月夜に覗く悪意
薄暗い部屋の一角に、少女が一人ベッドに腰掛けていた。部屋には家具が最低限机とベッドしか置かれていないが、机の上は大量の書類が今にも崩れんばかりに積まれている。床には点々と血がこびり付いていて、ゴミや衣服にカッター、果ては自慰用の玩具までが散乱していた。
「あぁ、壊されちゃった」
少女はじっとりとした目を細めて、焦げ茶色のツインテールをくるくると弄りながら、つまらなそうに水晶玉を眺めて言う。水晶には狼人間を蹂躙するソフィアの姿が映っているようだ。
「あの子たちは優秀ではあった。人間の器をどれだけ強化できるかという実験の副産物ではあるけれど、破壊力も俊敏性も高かった。でも脆いのよ。所詮人間の器では限界がある。それに力をイジったせいで知能が低下した。あれは失敗作」
早口になってぶつぶつと言いながら、少女は包帯だらけの細い腕に抱えた水晶を興味を失くしたようにポイと投げ捨て、不貞腐れたように枕の方へ倒れ込み、二、三回瞬きをした後、急に何かを思いついたように飛び起きた。先ほどまでの覇気のない顔はどこへやら。妙にニヤついた顔で彼女は部屋の扉を勢いよく開けた。
彼女の開けた扉の先には、等間隔に並ぶ培養槽とそれに浮かんでいる異形の数々があった。少女はスキップをしながら異形の入った培養槽を一つずつ愛おしそうに眺めて回り、時には恍惚の表情で口づけをする。そして全ての培養槽を周り終えた彼女は、「行ってきます」とだけ言って何処かへと姿を消した。
✙
ソフィアは、何かを感じ取ったように、木陰の方をじっと睨みつけていた。明らかに何かがこちらを監視していたにも関わらず、敵意が全くと言っていいほど感じられなかった為にその存在を訝しんでいるわけである。
「大丈夫かい?」
心配そうにこちらを覗き込むクインシーに、彼女はすぐにそこから視線を外して「ああ」と短く肯定した。
「ともかく、屋根のある場所を探そう。村がこんなでは何が住み着いているかわからないからね……」
彼は枯れ果てた村をもう一度見回した。運の良いことに、村案内の看板は生きていたようで、灰の被ったそれを軽く払ってやると、ほぼ一本道となった村の構造を顕にする。
「ここに墓地がある。この道を真っ直ぐ進んで、村の端の川を越したところに教会があるみたいだ」
小汚い看板と実際の道とを交互に指差ししながら確認し、彼はソフィアに向き直って爽やかにニコリと笑ってみせた。
「取り敢えず、教会を目指しつつ途中で雨風を凌げる家があるか探してみよう。ここは道も悪いから、足元に気をつけて」
言いながら、クインシーは手を差し伸べる。掴まれと言いたいらしい。ソフィアは差し出された手をじっと見つめると、やがて少々ぎこちない所作で手を取った。暖かく、そしてゴツゴツとした彼の手は否応なく彼を男であると認識させる。
紳士としてのエスコートに、不快感を抱くことは無い。しかし、夜の暗がりで、よく見なければわからない程の些細な表情の変化に、内に向いた困惑の感情に、彼女自身気付かなかった。
✙
代わり映えのしない荒廃した村の景色を観察しながら歩くこと十数分。川を渡って、墓地を抜けた先、ようやく教会が見えてきた。教会は意外にも無傷らしい。だが手入れされていないのか、周囲の草は伸び切って、壁にはツタが張っており、屋根に付いた十字架は所々拉げている。
「明かりは……点いていないみたいだね」
「誰もいないようだ」
絹のように滑らかで美しい手を壁に這わせながら、ソフィアが言った。どうやらあれで教会の内部構造を把握しているらしい。一体どうやっているのか、クインシーが何とはなしに彼女を眺めて首をひねっていると、不意に草むらが揺れ動く音がして素早くそちらを振り向いた。
風ではない。何かがそこにいた。それを証明するように、また独りでに草がカサリと動く。ソフィアに声を掛けるにも、彼女は既に教会の裏側まで調べに行ってしまって、姿は見えない。じわりと掻いた嫌な汗が異様に冷たく感じる。先の狼憑きかもしれない。草むらを睨みつけ、ステッキを構える。カサリ、カサリと草の動きは次第に頻度を増してゆき、その存在はすぐそこに、クインシーの緊張が最高点に達した時、ガサリという音と共に奴は草むらから飛び出してきた!
……そう、愛くるしい野うさぎが一匹飛び出したのだ。うさぎは小さな口をもふもふとさせながら、周囲をキョロキョロと見回して、クインシーには目もくれずまた何処かへと去っていった。
「うさぎ。なんだ……」
少し警戒をしすぎたかもしれない。クインシーは大きく溜息を吐くように胸を撫で下ろした。そして、余裕を持とうとして大きく伸びをして、後ろから肩に手を置かれた感触に、今度こそ弩にでも弾かれたように飛び上がった。
振り向くと、そこにいたのは教会の調査が終わったのであろうソフィアだった。
「……?」
「あ、ああソフィアさん。どうだった?」
「変わった仕掛けはない。ただ、正面扉は内側から封鎖されているようだ」
クインシーは耳を疑った。彼女は最初、中には誰も居ないと言った。では一体誰が中から教会を封鎖したのだろうか。
「中に、誰も居なかったのでは?」
「そうだ。生きている人間は疎か、死体の一つもだ」
「他に出入り口は……?」
「ない」
密室。それも不可能な密室。とても人の成せる業であるとは思えない。ハンターとして考えられる可能性は一つだった。
「まさか、吸血鬼が……?」
「そうかもしれん」
吸血鬼の中には、その姿を変化させることができる者も少なくない。霧になれば扉を開けることなく住居に侵入することは容易だった。奴らには招かれなければ家屋に入ることはできぬという決まりもあるが、そこは教会。扉を叩けば容易に開くことだろう。
「無理に開けるわけにもいかないか……」
ソフィアの隣で、クインシーは教会を見上げ、唸る。事件の全容もわからぬうちに、何処にいるとも知れぬ吸血鬼を刺激するなどという面倒事は起こしたくない。それは二人共意見が一致していた。しかし、教会に手を触れないにしても、ここには村人も居なければまともな家も無い。これでは調査は絶望的だった。
腕を組んだクインシーを、ソフィアが何の気なしに眺めていると、不意に後ろから気配を感じた。さっき木陰から感じたのと同じ気配だ。
「何者だ」
振り返った視線の先、先程までうさぎの他には何もいなかったはずの草むらに、一人の少女が立っていた。左腕に包帯の巻かれた少女である。
「こんにちは、ハンターさん♪」
この一言で、二人は即座に武器を構えた。
「うふふ……狩る者の目だわ、ふ、ふふ……でも、戦いに来たわけじゃ、ない。情報を与えてあげようと思って。ふふふ……」
何処か目をとろけさせている彼女は言いながら、挑発的に口を開けて、出した舌を人差し指で押さえる。色っぽく糸を引く唇の奥には異常に発達した犬歯が確認された。
「吸血鬼……」
少女はクインシーが言ったのを肯定するように頷くと、続ける。
「私はドロテア。復活なされたバートリ・エルジェーベト様配下の五大吸血鬼が一人……」
信じられぬものを聞いたと、クインシーは目を見開いた。ソフィアも、ほんの少し表情が険しく感じる。
しかし、一方で二人はこの事態に納得をしていた。貴族と呼ばれる程の大吸血鬼が、この地に復活したとなれば、五度の祓魔師派遣で情報が一切ないというのも頷ける。皆、情報を持ち帰る前に殺されたのだろう。
ただ、一つだけ納得しきれぬ所があるとすれば、この村の惨状である。バートリ・エルジェーベトは嘗て若い娘の血を好んだが、老若男女の見境なしに襲い掛かるという話は聞いたことがなかった。
だがその疑問も、すぐにドロテアの言葉で解決することとなる。
「村が気になるかしら。これはね、人間自身がやったことよ」
何が嬉しいのか、声を弾ませた少女は言う。
「ここの修道士さん、ちょっと誘ったらすぐその気になっちゃって。かわいかったなぁ……」
下腹部を摩りながら舌なめずりをするドロテアの蛇の様な視線に、クインシーは寒気がした。それと同時に、心の底からこの女は生かしてはおけないという気持ちが湧いてきて、彼女を強く睨みつける。
「こわぁい♡……ふふ、そんなに焦らなくたってまた会えるわ、お兄さん。城まで来ることができればね……」
一方的にそう言って、ドロテアは手をひらひらと振りながら教会の扉へ近づくと、霧となって消え去った。そしてそれを黙って観察していたソフィアはすぐに剣を納めて、暫しの沈黙の後、口を開いた。
「この村の先、森を進んだ所に、知人の住む場所へ繋がる扉がある。今はそこへ向かうとしよう」
クインシーは特別ドロテアに対する感想もなくそう提案する彼女に面食らったが、それ以上に気になることができて、引き止めざるを得なかった。
「少し待ってくれ、なぜそんなことがわかるんだい?」
彼の疑問は当然である。ソフィアがこの村の構造を知っていれば、エスコートなど受ける前に一人で先に行ってしまいそうなものだ。しかし、現実にはそうでなかった。つまり彼女は村について全くの無知であった可能性が高いのだ。にも関わらず、彼女は近くに知人がいることを知っている。
何を言っているのかわからないといった様子で無表情のまま小首を傾げるソフィアに、彼は更に聞いた。
「君は僕と同じくこの村は初めて来た素振りだっただろう?」
「村が四百年も同じ姿であるわけがなかろう」
そういえば彼女は悠久を生きるヴァンピーラであった。彼は暫し呆気に取られたが、すぐに置いていかれそうになって、彼女の背を追うのだった。
✙
村の南東には、鬱屈とした森が広がっていた。中は薄く霧がかって月明かりは届かず、植物以外一切の生命を感じない。ソフィアの後ろからクインシーが懐中電灯を点灯させつつ、二人は立ち木をかき分け進んでゆく。
しかし、この時代の懐中電灯は性能が悪い。時々電流を切って休ませなくては、すぐ使い物にならなくなるので、上手く進むに進めない。暗闇の中でそれは致命的だった。
森に入ってから少しして、懐中電灯の為に進行が止まることを煩わしがったソフィアがクインシーに手を差し伸べる。捕まれと言いたいらしい。彼は若干の羞恥に尻ごんだが、彼女の放つ無言の圧に気圧されて、とうとう手を取った。
彼女の手は小さく、柔らかく、そして冷たかった。
✙
明かり一つ無い森を、ソフィアは迷うことなく歩いてゆく。よくこんな芸当ができるものだとクインシーが感心していると、彼女の「もうじき着く」という呟くような合図と共に、闇に閉ざされた視界が徐々に開けていった。どうやらここ一帯だけ木が植わっていないようで、空から漏れた紅が、空間を照らしている。
よく見れば、光の当たる中央に、一軒の家があった。それは廃墟とも言えるほどボロボロで、壁の割れ目からボゥと光る橙色の明かりはジャックランタンを彷彿とさせる。それが、差し込む光の粒子に飾り付けられとても禍々しく見えた。家というよりかは、何かしらの作品と言われた方がしっくりくるだろう。
「ここだ」
そう言って彼女は足早に玄関と思われる扉の前まで行くと、叩き金を四度叩く。相当古い物のようで、彼女がエッジの剥げた金具を動かす度にギシギシと音を立てていた。彼女が扉を叩いた後、三秒の沈黙を待って、カチリと何かがハマる音と共に家の内側へと独りでに扉が開く。
あれだけギシギシといっていた扉が音もなくスッと開いたことに若干の不気味さを感じつつも、クインシーがソフィアの右後ろで待機していると、奥からパタパタと足音が近づいてきて、何かと目を凝らしてみると、齢十二歳程のローブを羽織った少女がソフィアへと飛びついた。そして、美しいブロンドの髪を持つ少女は
「久しぶり! ソフィア!」
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