チェイテの街

 宵闇よいやみに包まれた街を、鮮血よりも紅い月明りが照らしている。張り付くようなじっとりとした風が、不快感を煽る。


 蝙蝠こうもりが飛び交い、そこかしこに烏の糞がこびり付いている寂れた夜の街に、人の影はない。二年前に起きた世界規模の戦争と、先の誘拐事件で疲弊ひへいしきった人々は他の地へと次々に移り住み、今や残っているのは聖職者など特定の者を除けば気違いかその関係者以外には無かった。


 その死にかけの街に一人、漆黒の外套がいとうを羽織った女がやって来る。緩くウェーブのかかった紫黒色しこくしょくの長い髪と、全てを見通すような金色の鋭い双眸そうぼうが印象的で、まるで美しい夜がそのまま人の姿を取ったような女だった。


 女は、その透き通るように白い繊細な手に一つの書簡を持っていた。質のいい紙で、豪華な模様の入った書簡である。

 内容はチェイテの街で起きた誘拐事件の調査・解決の依頼書と周辺の地図であった。


 彼女は普段吸血鬼の研究をしながら旅をしていて、各地で起きた吸血鬼事件の解決をしてその報酬で生計を立てている、いわばバンパイアハンターである。教会には所属しておらず、野良のバンパイアハンターである彼女は、この誘拐事件の解決などという依頼を受けてやる義理はない。本来ならば警察にでも依頼しろと一蹴するところである。それがなぜ今ここにいるのかと言うと、書簡の「街に残された者の首に噛まれたような傷がある」という一文が気になったからである。


 さて、この書簡には他に「街に着き次第迎えの者を送るのでその者と教会へ向かうように」といった旨のことが書かれている。しかし、一向に迎えの者とやらがくる気配はない。どうしたものかと女は辺りを見回してみるが、相変わらず人影はない。


 明かりの灯っている家はちらほら見受けられるので、街の者は皆そこへ籠っているのだろうか。なんにせよ、人を呼びつけておいてこれとは一体どういった了見なのだろう。


 女は少し面倒臭そうな顔をして、溜息を吐く。


 かく、街の入り口で立ち往生をしても仕方がないので、明かりのついた家に教会の場所を尋ねることにした。

 この街の住人は警戒心が強いのか、扉を叩いても返事のある家は少ない。実際、女も何件か回ってようやくといった所だった。


 扉に取り付けられた叩き金の音が三度、静寂の中を走る。


「どちら様でしょう」


 扉越しに疲れたような男の声が聞こえてくる。


「旅の者だ。教会の場所を知りたい」


 女の呟くような落ち着いた声が、しかしはっきりと響く。

 扉の向こうで、安堵したような気配がする。


「教会ですか……。それなら、この先の大通りを真っ直ぐ行って、青い屋根の家がある十字路を右に曲がるとすぐ左手に見えますよ」


 女は自分の右手十五メートル先にある大通りを目だけで確認する。丸まった新聞紙が風に煽られ独りでに散歩をしているのが哀愁を感じさせる。


「……感謝する」


 再び呟くような声とコツリコツリという足音が虚空へ響く。


「……旅の方がこのような場所まで一体何の用です」


 早速教会へ向かわんとする女の背に投げられた声は何処か諦観が混じっている。女は進めようとした歩を止めて、ただ黙っていた。


「ここは神に見放された、死を待つだけの街。噂じゃ紅い蝙蝠が出たとか女に化けた怪物が出たなんて噂もあります。貴女も危ない」

「……覚えておこう」


 女は暫し視線を左下に落としてから淡泊な返事をすると、今度こそ教会を目指した。


 何処からか狼の遠吠えを耳にしながら、目的地に着いた女は教会を見上げながら少し目を細めていた。所々窓が割れて、屋根に取り付けられた十字架は不自然に拉げている。


 女はやがて興味を失くしたようにふと十字架から目を離すと教会の扉を叩く。


 返事がない。


 女はもう一度扉を叩いた。


 やはり返事はない。


 女は顎に手を持って行って暫くの間目線を左下へ落とす。

 そして、やがて諦めたように溜息を吐くと、教会の扉を開けた。扉に鍵は掛かっておらず、すんなりと開くらしい。


 扉の先から流れてくるじっとりとした空気には、鉄の匂いが混ざっていた。そこら中に作られた血の跡は比較的新しい物だが、死体だけが見当たらない。礼拝堂のベンチは腐り、燭台の光は全て消えていて、ステンドグラスの破片が散乱している。


 女はただ一点を睨みながら講壇へと歩いていく。かしゃんかしゃんと響く足音。割れたステンドグラスから差し込む月明りが彼女の白い肌を紅く照らし出した時、彼女は不意に足を止めた。


「待ってたわよ」


 虚空が返事をした。

 それと同時に、ノイズが走るように空間が歪み、杖を両手に持った少女が一人羽織ったローブをはためかせながら姿を現す。少女は茶色のサイドテールを揺らしながら、いたずらっぽい表情で赤い目を細めている。ニィッと歪められた口からは鋭く尖った犬歯が覗いていた。


「吸血鬼だな。何故ここにいる」


 女は少女を睨みつけながら問う。本来吸血鬼は招かれない限り家に入ることが出来ない。この街の住人の警戒心の強さから考えて、いくら教会であろうとこの状況で夜の時間人を簡単に招き入れるとは考えづらかった。


「そんな怖い顔しないでよ。そんなことどうでもいいでしょ?あ、私はドロテアって言うの。楽しくお話しよう? ね、ソフィアちゃん」


 女はソフィアというらしい。首に巻いた臙脂色えんじいろのジャボタイに光る、邪眼の様な黒い宝石に、ドロテアの人を見下したような、下卑げびた表情が写る。ソフィアはただ無表情のままドロテアの様子を観察している。


「嘗て強大な魔力を以って多くの悪魔を屠り、当時の吸血鬼の中でも特に力を持っていた夜の貴族達を皆殺しにした、護国の英雄ドラキュラ公の娘。裏切り者の冷血公女ことソフィア・ヴラド。有名な話ね。見てる限りじゃ普通の女の子だけど」


 品のない笑い声が教会に響く。


「ねぇ、貴女のことが知りたいわ。貴女はなんでそんなところにいるの?」

「……」


 ドロテアの問いにソフィアが答えることは無かった。ドロテアの方からは丁度目元が影に隠れていて、ソフィアの表情が一切読めない。


「だんまりなんてつれないじゃない。貴女ドラキュラ様の娘として生まれながら吸血鬼狩りなんかつまらないことをしているんでしょ? 可哀想に、悪い人間に騙されたのね。ね、私の主の話をしてあげる。とても素晴らしいお方でね、聞けばすぐに貴女も眷属になりたがるわよ」


 ドロテアは目を輝かせながら早口になっている。手を胸の前で組み、感嘆する様子から見るに相当心酔しているのであろう。


「そんなことはどうでもいい。貴様の目的はなんだ、ドロテア」


 ソフィアの鋭い目が、見るもの全てを萎縮いしゅくさせるような光を灯している。圧倒的な存在感にドロテアは気圧され、また自分が見下していた相手に気圧されたという事実が彼女のプライドを傷つけた。


「な、馬鹿にして……! そうだった、私がどうしてここにいるかだったかしら。来なさい‼」


 ドロテアの掛け声と同時に唸るような声が教会の入り口から聞こえてくる。ソフィアが前を向いたまま静かに首だけを傾けて振り返ると、そこには四足で立っている男が卑しい目をぎらつかせ、食いしばった歯の隙間からよだれを垂らしながらこちらを注視していた。


 なるほど。とソフィアは得心がいった。この女は男を魅了し、狂わせ、狼男にしたのである。そして男を操って教会のドアを開けさせたのだ。


「そう、貴女のお察しの通りよ。驚く程簡単に魅了できたわ、気持ちの悪い人間。さぁ、あんた達も起きなさい!」


 影からぞろぞろと亡者が起き上がってくる。二十数名は居ようか。手にはそれぞれナイフやら木片やらの武器を持っている。

 佇まいは意外にも達人のそれで、非常に熟練された死霊術しりょうじゅつであることが見て取れる。

 普通この手の術は一体でも操ること自体がそもそも高難易度なのに加えて操れたとしてもぎこちない操作しかできないのがほとんどであるのだ。

 さらに言うと本来死霊術とは魂を用いる占いのことで、死体を無理やり動かして駒とするのはそもそも使い方を間違えていると言わざるを得ない。

 なので、正確に複数もの死体を操るドロテアはまさに規格外の存在と言えた。これを従える主とは一体何者なのか。


「ふふ、怖気づいて動けないかしら」


 ドロテアが勝ち誇った顔をしてソフィアを見つめている。確かにいかに強力なバンパイアハンターであったとしても普通の人間であればこの状況、只では済まないであろう。


「まずは小手調べと言ったところかしら。ほんとは今すぐにでも貴女の余裕な表情を明かしてやりたいけど、すぐ終わらせたら勿体ないもの。じわじわとなぶってあげる……」


「できるか、貴様に?」


 ソフィアが小首を傾げて嘲るように鼻で笑うのを見て、ドロテアは今度こそ顔を真っ赤にした。


「言わせておけば……! あんたたち、やっちゃいなさい‼」


 ドロテアの怒号で、闇にうごめく魔物達は一斉にソフィアへと襲い掛かる。


 ソフィアは、ゆっくりと何もない外套の裏から片刃の剣を一振り取り出す。

 引き込まれるような妖しい光を放つ刃は先端に掛けて緩くカーブを描いていて、一対の翼を模した黒いつばと中央に輝く紅い宝玉、そしてそこから流れるように続く護拳。どれをとっても極上の芸術品で、見るものを狂わせるような危険な美しさを秘めている。


 彼女は次々と襲い掛かる敵をいとも簡単に往なし、一刀両断した。先にも述べた通り、達人と見紛う程洗練された動きをする亡者共を、である。

 柔と剛を併せ持ったその剣と、見惚れる程美しい静と動の体捌きはもはやこの世の物とは思えなかった。

 亡者を全て切り伏せた後、次はお前だと言わんばかりにソフィアが冷たい殺意を灯した目を狼男へ向けると、彼は焦ったようにどこかへと逃げていった。


 ものの三分で亡者二十数体と人狼を対処してしまったのを見て、ドロテアは顔を真っ青にする。赤くしたり青くしたり忙しい顔である。


「二十六体の亡者がたった三分で……そんな…………」


 ドロテアはローブを掴んで自分の身を抱き寄せ、後退りする。そして恐怖や怨念の籠った目でソフィアを睨みつけると、「覚えてなさい」と捨て台詞を吐いて虚空へと姿を消した。


 ソフィアは辺りに転がる死体を見回して、少し溜息を吐く。この惨状を誰かに見られると厄介である。あの様子では神父もとうに殺されてしまっているだろう。そう考えて、彼女は教会を出ることとした。



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ヴァムピーラ 月咲 幻詠 @tarakopasuta125

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