第2話 楓子ちゃんにつないで
澤村のお兄ちゃんが地元商店街の女子ソフトボールチーム『オレンジモンスターズ』のコーチを頼まれたのは3月のこと。それは突然のことでたぶん澤村さんは断るものとばかり思っていたが、意外なことに彼は二つ返事で引き受けたらしい。
だが間もなく澤村さんは中学校以来の『腐れ縁どころか腐敗しきって異臭が漂う縁(姉談)』だという美里姉ちゃんに泣きついた。引き受けたものの自信がなくなったんだろうとお姉ちゃんは言うが、多分澤村さんは最初からお姉ちゃんと一緒に何かをやりたかったんだろうと私は思っている。
お姉ちゃんは気がついていないようだけど、澤村さんはお姉ちゃんにベタ惚れだ。
…かくいう私の初恋の相手も澤村さんだ。どういうわけかお姉ちゃんは私が澤村さんを嫌っていると思い込んでいるようだ。私が恥ずかしさのあまりまともに口を利けないのを勘違いしているらしい。
うちのお母さんは私が小学校に入る前に病気で亡くなった。その頃美里お姉ちゃんは高校を出たばかりでパティシエを目指し、製菓学校に通っていた。
私と十歳以上離れていたお姉ちゃんはそれからずっと店と家を支えてきた。
私がさほど不自由や寂しさを実感せずにここまで暮らしてこられたのは、美里お姉ちゃんのお陰だ。
というわけで私は澤村さん以上に美里お姉ちゃんが大好きだから、二人がくっつけばそれが一番だとも思ってるけどね。
さてさて澤村さんはコーチ就任を商工会長の山田のおじちゃんから頼まれた。でも実際はうちのお父さんが『澤村にやらせろ』と山田さんに強力プッシュしたらしい。何しろお父さんも澤村くんが大好きだ。
昔から何かというとうちの電気屋にやって来ては、お父さんや美里姉ちゃんに愚痴をこぼしたり、自慢話をしたり、店の応接ソファーは澤村さんの指定席になっている。
お父さんは言う。
「澤村はホントに気持ちのいい男だ。嬉しいのも悲しいのも、いつもストレートでわかりやすくて誠にいい奴だ」
だが美里姉ちゃんは気持ちよく切り捨てる。
「父さん。そういうのを世間では馬鹿というのよ」
…お姉ちゃんは本当にそういうところ、恋愛に対する偏差値は極端に低いと思う。
お姉ちゃん、よーく考えてね。何で毎日酒屋の息子が電気屋の娘の顔を見に来るのか。中学以来お姉ちゃんは澤村さんに殴る蹴るやりたい放題だけれど、そんなパワハラを受けながら彼が至福の表情を浮かべているのは何故なのか。
ついでにお姉ちゃんはそんな絶対変な澤村さんを受け入れて、ほぼ毎日一緒にいるのだけど、それについてはどう考えているのか。つまり我が家はみんな澤村さんが好きなのだが、間違いなく一番の熱愛状態はお姉ちゃんだと思う。
さて、私にオレンジモンスターズ加入のお誘いが来たのは3月末、春休みが終わろうかという頃だった。
実を言うと私は小学校で加入している水球部のことで迷っていた。まず水球は競技人口が少なく、全国大会まで出場したクラブチームも6年生が卒業して残りは数人、隣町のチームとの合併話が進んでいた。
何より新しいコーチと何となく馴染めない自分がいて、だんだん同学年の2人とは『いつやめようか』と相談する毎日だったんだ。
そんなわけで親友の真理ちゃんに誘われた私は思いきって新しい挑戦をすることに決めた。
もちろん大好きな澤村のお兄ちゃんと一緒にいられるのなら、という下心もある。
最初にチーム練習に参加するときは少し緊張したが、よく考えたらキャプテンの真理子ちゃんは付属の同じクラスだし、近所で昔から仲良しの好花ちゃんやミサちゃんなどもいる。それにコーチ陣はいつもうちの店でグダグダしている三人組である。あっという間に私は馴染んだ。
初日からキャッチャーの練習に入る。コーチは澤村さんと近所の高校からやってきたソフトボール部の高校生だった。見よう見まねでボールを受けてみる。さすが高校生ピッチャーのボールはスピードがあるけれど、このくらいなら何とかなる。
私は水球でゴールキーパーをしていたから、速い球を止めるのは慣れている。むしろマスクやプロテクター、キャッチャーミットで守られていてありがたいくらいのものだ。15分ほど受けていたら多少乱れた球でも止められるようになって、高校生が目を丸くしていた。
それから送球練習に入り、いよいよ高校生二人が自分を見る目に熱がこもってきたのに気がつき、ちょっと引くぐらいだった。
自分で言うのも何だけど肩の強さには自信がある。ソフトボールのキャッチャーから2塁までの距離はちょうど25メートルプールの端から端で、これも解りやすい。水球に比べれば、球は小さいし地面で踏ん張れるし泳ぎ続ける必要もないし、これなら何とかなりそうだ。
高校生のお姉さんがグランドの隅の方でスマホで何かコソコソ連絡していた。
「ハイ、すごい子です。体力があって、キャッチングはすぐ出来て、そうです。初心者です。あの、すごいんです。送球がメチャクチャ強くて速くて上手いです。小学生です」
高校の顧問の先生に電話してるらしい。私、中学高校大学とエレベーターで内部進学するつもりだから、無理ッスよ。
フフン。ドヤって感じかな。でも私はまだ気がついてなかったんだ。澤村さんは言っていた。
「ソフトボールは上手くなればなるほど難しくなる競技だからね」
澤村さんだって初心者のくせに…とは思ったが、私はこの言葉の意味をシーズンの途中で噛みしめることになる。
今季最初の2試合、私はキャッチャーとしては最低限の役割を果たすことが出来たと思う。2度ほどワンバウンドを捕り損なったし、盗塁も3度許した。それでもデビュー戦の動きではないと澤村さんも今田さんも褒めてくれた。特に昨年優勝チームウィングスの俊足2番バッターの盗塁を阻止したのには両ベンチがザワついたし、難しめのキャッチャーフライを頭から飛び込んで捕ったのは澤村さんにすごく褒められた。
「スライディングキャッチなんてのは、普通の女の子が一回でできることじゃない。普通じゃないとは思ってたけどな!プーちゃん最高!」
顔がカッカと赤くなってくるのが自分でもわかって、プイと横を向いてしまったけどメッチャ嬉しかった。今田さんは私を見てニヤリとしていたので、バレてるのかもしれない。うむむ。
いろいろ頑張った…といっても結局、この日は2戦2敗。私はバッターボックスでは何もできず、扇風機のようにブルンブルン振り回していた。電気屋だけに。
「スイングの迫力があるから、相手キャッチャーがパスボールをしたんだ。まだ打撃練習してないんだからしょうがないじゃん」
澤村さんのフォローは優しい。
「あのブルンブルン振り回す迫力で何か起これば面白いと思ってさ。ワハハハハ。勘だよ、勘」
あまりにも嬉しくて、ちょっと涙ぐんでしまった。水球部やめてよかった。
振り向くとなぜかお姉ちゃんが澤村さんに後ろから蹴りを入れていた。そしてうれしそうな澤村さん…いつもの夫婦漫才だ。何だか自分が二人の肴になっているようにも感じる。
さて、それでも私はもうちょっと打てるバッターにならないと、みんなの期待に応えられない。
週明けの練習には入れ込んで参加した。
新たに始まったのは動きながらのキャッチボールだけど、水球でバタ足をしながら遠投をしていた私にはさほど苦にならない。
次は素振りの基本を澤村さんと中三になったばかりの
「澤村さん、トスバッティングまで教えます?楓子はできると思うよ」
だが澤村さんは首を振った。
「トスバッティングはダウンスイング重視の古い練習方法だ。少なくともプーちゃんには必要ないな」
敦兄は自分の学校の部活で時間をかけてやっている練習が無駄扱いされたのだから、ちょっと怒ってもいいんではないかと思うが「ですよねえ」とか言いながらニヤニヤしている。何だかなあ。
それから次に真理ちゃんと好ちゃん両方のピッチング練習につきあった。
澤村さんがその練習の前に私の手をグッと握った。
私は思わず手を引っ込めて、澤村さんも睨んでしまった。
「な、何するんですか!」
「テーピングするから、左手出して!」
澤村さんは私の左手の親指が手の甲側に反りすぎないように内側からテープで留めてくれた。
「何球も受けてると、だんだんダメージが溜まってくるんだ。毎日このテーピングはやること。とにかく怪我はしないように」
駄目だ。近すぎて何を言ってるのか、頭に入らない。澤村さんが私の手を取って、正面20㎝で話している。クラクラしてきた。
「あとね。もうひとつ、後で俺と作戦会議やるから、そのつもりでね」
ああ、格好いい…もう駄目。もう駄目。お姉ちゃん、やっぱり澤村さん、もらってもいい?
さて、澤村さんとの秘密作戦のことは後ほどに置いといて、お姉ちゃんと澤村さんの間に何かあったのだろうか。こないだの試合から、何だか二人がよそよそしい。というか、お姉ちゃんが露骨に澤村さんから距離を取っている。
練習始まりの河川敷グランドで顔を合わせた二人。
「よう、美里。今日の練習だけどさ」
「…」
お姉ちゃんが無言で、でもいつもの横目で睨むような顔じゃなくて、ちょっとうつむき加減でスススと後ずさる。
「おい、美里。美里ってば!」
「聞こえてるわよ。もうちょっと離れてよ」
「何だよ、もう」
これは面白くなってきた…もとい、首脳陣のチームワークが心配だ。
練習後、澤村さんから『澤プー仲良し大作戦』という話があった。
もうこのネーミングだけでも私は舞い上がってしまうのだけれど、中身は結構チームにとって重要なものだったかもしれない。
私がキャッチャーをやっていくにあたって、全体への声かけが重要になるという。場面によって的確な指示を出したいのだが、それは初心者の私には無理だ。
「そりゃ『しまっていこう!』とか『ドンマイ!』くらいなら言えるけど、送球の指示とか野手のポジショニングとか1ヶ月じゃ限界があると思います」
こう言っては何だが、私はかなり成績優秀だ。
お受験を経て今の付属小学校に通っているし、水球で全国大会に進みつつ成績は学年で常に5位以内をキープしている。
そんな頭脳明晰文武両道、容姿端麗(コホン)な私でもこの球技の要として澤村さん言うところの『ゲームメイキング』など簡単にできるわけがない。
これは別競技でトップに近いところまで行ったからこそわかることだ(ゴホン、ゴホン)。
そんなにソフトボールは甘くない。
そこで澤村さんの作戦である。
私は3つのパターンのセリフを覚えれば良いという。
『オールファースト!』
『近いベース!』
『バックホーム!』
…の3つだ。
次のバッターが打席に入るとき、私は澤村さんか今田さんを見る。
そのサインで3つのうちのどれかを全体に大声で指示するのだという。
まあ、それくらいなら簡単だけど。
「でもね、プーちゃん。きっとプーちゃんはゲーム中にこの3つを基本として、どんどん違う指示を始めると思うよ。そうでなきゃ勝てないし」
私もそれはわかるのだ。3つで勝てるならキャッチャーが守備の要なんて言われないと思う。
「うーん、間違ったら…どうしよう」
「いいんだ、間違っても」
「えっ?」
「次にやるべきことをハッキリさせるのが大切なんだ。野手が迷いなく動ければそれでいい」
(なるほど、そういうものか)
無理矢理私も納得した。
「シンプルに単純に、わかりやすくて複雑でない指示を心がけるんだ」
澤村さんが同じ内容のことを4回繰り返してその日の作戦会議は終了した。
そんなこんなで2週間後、今度は隣町へ出かける。昨年度8位のプリティガールズと9位のフェアリーズのホームグランドだ。そんなに広くないグランドが色とりどりのユニフォームで賑やかになる。
そういえば、最初はちょっと恥ずかしかったこの目立つオレンジ色のユニフォームも慣れてきた。
今日も澤村さんから教わったテーピングで親指を保護する。試合ではまだ
さて、プリティガールズのピッチャーはウィンドミルだが、こちらもそんなにスピードはない。練習では高校生ピッチャーの速球やまだまだコントロールはメチャクチャの真理ちゃんが投げる『荒れ球豪球』を受けている私にはずいぶん甘い球に映る。
一番バッターは
「
美里お姉ちゃんの声が響く。樹ちゃんがこわばった笑顔で頷いた。
一球目、コンと乾いた音がしてピッチャーとファーストの間に球が転がる。タイミングはアウトかな…と見ると、樹ちゃんの足が思った以上に速い。
ギリギリセーフ!捕球したファーストがピッチャーと一瞬譲り合ったのと、左バッターだったために間に合ったっぽい。
「な、樹ちゃんは足が速くて、正面に転がせるから一番にしたけど、大正解だな」
澤村さんはそう呟いて、1塁コーチの今田さんにサインを送った。
2番は好花ちゃん、初球をやはりバントした。すでにランナーの樹ちゃんがスタートしている。今度はサード方向へ球が転がる。ラン&バント!
「よし!」
澤村さんが声を上げる。
相手のサードが取って一塁へ、好ちゃんも足は速いが間一髪アウト。けれどスタートを切っていた樹ちゃんは何と2塁を駆け抜けて3塁へ。
慌ててファーストが3塁へ送球しようとするけれど、ベースカバーに誰も入っていない。
「ワハハハ。昨年の動画でこのチームはベースカバーの練習が甘いことを調べておいたんだ。すげえだろう。美里」
澤村さんがお姉ちゃんに話しかけるが、お姉ちゃんはじろりと見ただけで無言。褒めてヤンナヨ、お姉ちゃん。
真理ちゃんが打席に入る。私も慌ててヘルメットを被って自分の打席に備える。お姉ちゃんと澤村さんの妙な緊張感を楽しみたいところだけれど、そうも言ってはいられない。
「プーちゃん、おいで!」
澤村さんがバットを持った私を呼ぶ。
「何ですか」
私はニヤニヤしたいのを抑えて澤村さんを睨む。
「そう怖い顔するなよ。この打席だけど」
「はい」
「真理ちゃんが打てても打てなくてもプーちゃんはフルスイングでいくこと」
「またすごい空振りしますよ」
私はさらに澤村さんを鋭く睨む。
「いいんだ。相手のチームに『こいつ当たったらすごいぞ』って思わせることだ」
「はあ」
「それが他のバッターのバント攻撃にも生きてくる。いいかい。絶対に当てようとチョコンなんてやっちゃ駄目だ。当てようと思うな。ボールをバットで潰そうと思え」
「無理でしょう」
「いや、プーちゃんの腕力ならやりかねない」
「…もうネクストに行きます」
私は澤村さんの期待が嬉しくてスキップしそうだ。初心者の私だってわかる。澤村さんは私にすごく期待している。絶対に期待に応える。当てようとしない。すんごい空振りしてみせる!ボールをぶっ潰すつもりでフルスイングする!
いつもだったらお姉ちゃんが勘違いして、澤村さんに軽くパンチをいれてるところだけれど、今日はチラリと見るだけで、私に「ガンバッテ~」などと声をかけてくる。
何それ、お姉ちゃんが可愛くなりかけてる。
真理ちゃんがボテボテのセカンドゴロ、三塁ランナーは動けない。ツーアウトだ。
悔しそうな真理ちゃんとすれ違う。
「頼むよ、楓子!」
「まかせて!すごい空振りするから!」
「?」
真理ちゃんが不思議そうな顔でベンチに下がった。
よし!いったる!ブンブン丸だ!恐怖フルスイング少女だ!私はバットをブイブイ素振りしながらバッターボックスに入った。
相手チームのピッチャーがガッチリした体格の私の派手な素振りを見て、明らかに怯んだ。
さあ、こい!
一球目、二球目ととにかく目一杯フルスイングしたが、どうも当たらない。なぜだ。不思議だ。不可解だ。
澤村さんの声が響いた。
「プーちゃん!タイミング早い!もっと引きつけろ!」
…そうなのかな?「引きつける」というのをちょっとイメージする。
三球目、やはり思いっきり振った。当たった!
ガゴン!
ファールボールがライナーで相手チームの三塁側ベンチに飛んだ。
ガチャン!グワッシャーーン!!
何と用具入れに激突してベンチ内がメチャクチャになっている。
相手ピッチャーの顔色が明らかに変わった。そんなに怯えなくても初心者なのに。
何だか向こうのベンチがシーンとしている。
ふと振り返ると、澤村さんがものすごく嬉しそうな顔をして、相手チームに謝った。
「すいませんね。大丈夫ですか?怪我人いません?」
私も慌ててヘルメットを取って、謝罪する。
「すいません!」
あんぐり口を開けていた相手チームのコーチがハッとして、手を振る。
「いえいえ、大丈夫です。気にしないで」
再びプレーボールがかかる。
相手ピッチャーが動揺したのか、三球続けてストライクが入らない。フルカウントだ。
三塁ランナーの樹ちゃんが気合いを入れて私を見ている。当たったら何でも突入の構えだ。
ど真ん中のボールを私はまたしても豪快に空振りする。
「プーちゃん!走れ!」
今田さんの怒鳴り声が聞こえた。キャッチャーがパスボールして、後ろに走っている。
私は全力で1塁へ走り、ヘッドスライディングをした。
「セーフ!」
審判の声でオレモンに先制点が入ったのだった。
「頑張ったね。次は当たる。いいスイングだったぞ」
攻撃が終わって、レガースとプロテクターをつけているとき、澤村さんが褒めてくれた。
「三振だったでしょ!」
またも私はふくれっ面で守備位置に逃げ出した。真っ赤になった顔をマスクで隠して。
その後、好ちゃんはゆるく相手打線を抑えるが、完封とまではもちろんいかない。真理ちゃんの加わった内野7人守備も何回か突破された。ただし、オレモンの徹底的なバント作戦も相手のミスを誘って接戦となった。
2対3で敵プリティガールズがリードのまま、7回表オレモンの攻撃だ。
深呼吸して真理ちゃんが打席に入る。
2球目、バントとヒッティングの中間くらいの構えから叩きつけるようなダウンスイング、ボールはサードの前で大きくバウンドした。真理ちゃんが俊足を飛ばして内野安打を勝ち取った。
「何なの?あれは」
お姉ちゃんが澤村さんに思わず声をかけた。
「ふふん。スラップショットだ。真理ちゃんはあれくらい高くバウンドすればセーフになるんだ」
何やらこれも秘密の作戦だったらしい。
「どうだ、美里。俺ってよくやってると思わないか?」
澤村さんの問いにお姉ちゃんは何だか道ばたで犬の糞でもふんづけたような顔をした。
「まだ1勝もしてないってこと忘れないでよね」
「プーちゃん!」
澤村さんが私に声をかける。勝負所だ。ここで私も攻撃面で貢献したい。
私は気合いを入れて、返事をした。
「はい!」
「ひとつめ、相手のピッチャーは散々バントで前へダッシュさせられて疲れてる。ふたつめ、プーちゃんはまだ自分のスイングの速さを知らない」
澤村さんがじっと私を見つめる。照れる。ヤバい。勝負所だってば。
「打つときには頭を動かさないで、引きつけるんだ。変わらずフルスイング!失敗を怖れないこと」
私も思わず素直に大きな声で返事をする。
「はいっ!!」
あまりに大きな声で敵味方全員が注目した。そうだった。私は商店街の大声チャンピオンなのだ。
「さあ、こいっ!」
バッターボックスで自分に気合いを入れて、もう一度頭の中で復唱する。
(頭を動かさない・引きつける・フルスイング)
一球目、ボール。二球目、高いと思ったがストライクのコール。
三球目、自分の胸くらいの高さ…高いかもしれないけれど、いいでしょ!
引きつけて…フルスイング!
あまり手応えはなかったけど、当たったようだ。スコン、と軽い音を残してボールが消えた。
相手ピッチャーの唖然とした表情、両ベンチがシーンとしている。
とにかく全力で一塁へ走ると、今田さんが笑って手を差し出し、タッチを求める。
ようやくオレモンのベンチと応援席からすごい歓声があがった。
球が外野を越えて川に飛び込む私の初安打、初打点、初ホームランだった。
7回裏、敵プリティガールズの攻撃もツーアウト、だがランナーは2塁にいる。一打出れば同点、逆転だってある。私は緊張した。
こういう時はどういう指示だっけ?私はベンチを見る。
今田さんが1番のサインを出している。
「落ち着いて!オールファーストでオッケー!!」
私の大声に全員がホッと落ち着く顔が見えた。通じました澤プー。
好ちゃんのスリングショットがフワリと内角の低めに入ってきた。力んだバッターが空振り、ストライクワン。
だが二球目、さすがに緊張で少し球が高くなった。
やばっと思ったら相手バッターも逃さずスイングして、センター方向に高いフライがあがる。
げっ、うちのチームだと誰もいないところだ。内野にいた真理ちゃんが後ろに走る。
「うぎゃああっ!」
澤村さんの悲鳴。
「神様仏様!真理子様!」
ベンチでお姉ちゃんが手を合わせている。私も同じ思いだ。
真理ちゃんは全力で後方に走った。追いつくか?後ろへ走りながらの難しい捕球だ。
そうだ。落としてもこのランナーをできるだけ前で止めなくては!私は大声で指示を出す。
「ベース埋めろ!ライト、カバー!!」
真理ちゃんがダイブした。すでにランナーは一人ホームインしている。
「真理ちゃん!!」
私が叫ぶと真理ちゃんが倒れたままボールの入ったグローブを上げた。
2塁の塁審がアウトのゼスチャー!
勝った!
私たちはまるでリーグ戦で優勝したような大騒ぎで、マウンドに駆け寄ってくる真理ちゃんを迎えた。
ゲームセットの礼が終わってから、コーチ三人組が拍手で迎えてくれた。保護者席からも大きな拍手、涙ぐんでいる母親もいる。
何でもオレンジモンスターズ、2年ぶりの公式戦勝利ということだった。
息つく暇もなく本日の第2試合、昨年9位のフェアリーズが相手だ。比較的私たちと力が近いチームではあるけれど、油断はできない。
先発は
背が高くてひょろりとした佳乃ちゃんは他のチームのピッチャーのようにブンと投げるウィンドミルではなく、ヒョイッと回す澤村さんいわく『打ちやすいウィンドミル』だ。
昨年はピッチングを教えるコーチがいなかったため『見よう見まね』だと言っていた。そりゃ勝てるわけないよね、オレンジモンスターズ。
3月に澤村さんが佳乃ちゃんにピッチャーからのポジションチェンジを告げた時、佳乃ちゃんは特に文句も言わなかったけれど、練習の後ベンチでしばらく泣いていたのを私は知っている。
それでも次の日からフツーの顔で練習に来ていた佳乃ちゃんはホントにエラいと私は思う。忍耐強い根性のヒトなのだ。
練習後、私は必ず真理ちゃんや好ちゃんと佳乃ちゃんを誘って一緒に帰った。
そんな佳乃ちゃんを先発させたのは好ちゃんを休ませるためでなく、今後万が一好ちゃんが怪我をしたり、病気で欠席したりした場合に準備しておく必要があるからだそうだ。
やはり真理ちゃんのピッチング完成が待たれる。速いし、だんだんコントロールもついてきてるし。
ちなみに澤村さんは真理ちゃんのフォーム作りに高校生のコーチを採用した。
自分の就活を断った高校の野球部監督に『断腸の思い(澤村さん談)』で頭を下げて、ソフトボール部の生徒を派遣してもらったらしい。それだけでエラいと私は思う。
さて、佳乃ちゃんは久しぶりの先発で頑張ったが、それでもフェアリーズを抑えるのは難しいようだ。
初回は2点を取られた。
オレモンの攻撃は例によってバントを中心にした相手ピッチャーへの嫌がらせのようなしつこい攻撃だ。
普通にバントして、バントの構えから引いてチョコンと合わせる『なんちゃってバスター』やって、バントの構えから引いてやっぱりバントして…
「いいか」
澤村さんが試合前の円陣で言った。
「このくらいのレベルのチームなら、必ず誰かがエラーをする。そしたらそこだ。そこに向けて集中的に転がすんだ。いったん調子を崩した内野はエラーを繰り返す。とことん泣くまで続けるんだ」
鬼畜の作戦とはこのことだ。小学生女子を泣かせようと監督が言っている。
サードの選手がその餌食になった。1番の好ちゃんのバントを送球ミスしたのだ。
澤村さんが好ちゃんに必要以上に大きな声をかける。
「ナイスバント!いいコースだ!」
一塁コーチにいる今田さんも呼応する。
「いいところへ転がした!あれはアウトにできないっ!」
嫌みだな。
真理ちゃんがすかさずサードへスラップショット、サードは慌てて前へ出るが、意外とバウンドが大きく後逸する。
彼女はこの打法に結構自信を持ってきたっぽい。
私たちのベンチに向かってガッツポーズだ。
私たちもとにかく大騒ぎで盛り上げる。半分はサードに聞かせるためだ。
「真理ちゃん、ナイス!」「絶妙!」「いいぞ!真理子!」
サードの選手が青くなったり赤くなったりして自分のベンチとこちらを交互にを見ている。
すっかり澤村さんの悪い作戦にはまっている感じだ。
確かに味方なら頼りになるよね、この悪役監督は。
私はニヤニヤして打席に入り、サードにニッコリ笑いかけてみた。
サードの選手が真っ赤になって私を睨む。私もうっかり澤村さんの心理作戦を手伝ってしまった。
一球目、澤村さんのサインでバッターボックスの一番後ろでわざと大きな空振りをする。
それに合わせて好ちゃんと真理ちゃんがダブルスチール、見事に決まった。
「あのフルスイングを目の前でされたら、なかなか送球はできないよね」
澤村さんがニヤリとした。私の大型扇風機みたいな空振りも役に立つもんだ。
だがただの扇風機とか言われるのも癪だ。私は集中した。
得意の高め!
ガツン!
ちょっと芯を外したかな?
それでもネガティブモードに突入したサードが守る三遊間を強い打球が抜けていき、オレモンが同点に追いついた。
三回まで投げたところで佳乃ちゃんから好ちゃんにピッチャー交替。
「佳乃ちゃん、よく投げた!好ちゃんが楽になったぞ!」
澤村さんが笑顔で称え、佳乃ちゃんも微笑んだので私はホッとした。
スコアは4対3、フェアリーズに1点リードされているが、いい勝負だ。
好ちゃんが緩くても低めにストンと投げていくと、なかなか思うようには打てないものだ。そして器用な好ちゃんはエイトフィギュアとスリングショット、うまく投げ分けることを覚えてきた。
緩急つけて…ではなくて、ちょっと緩いボールとすんごくゆっくりのボールという投げ分けだけれど。うまくタイミングを外して内野ゴロの山を築いていく。
7回裏、5対5の同点でオレモンの攻撃だ。
二死三塁、バッターは気の弱い8番バッターミサちゃん…。ミサちゃんはまだ公式戦でヒットを打ったことがないとのこと。左に転向してのバント戦法でもいまだ出塁ゼロである。
何となくベンチには延長戦かな?という雰囲気が渦巻いている。
私は大声を出した。そうだった。澤村さんに言われてたんだ。これも私の役割だった。
「ミサーッ!絶対イケる!ガンバレッ!」
ハッとしてベンチの全員が応援の声を出し始めた。
「ミサ!頑張れ!」「打てる!」「行けーー!ミサ!」
澤村さんと美里お姉ちゃんが同時にニッコリして私の頭に手を伸ばした。
「プーちゃん、それだよ」と澤村さん。
「いいぞ、楓子」とお姉ちゃん。
二人の手が私の頭の上で重なった。ハッとして手を引こうとするお姉ちゃん、その手を追いかけようとする澤村さん。…どうでもいいけど私の頭の上でそういう恋の駆け引きやらないでほしい。
…試合に集中しなくちゃ。
ミサちゃんは一球目見逃し、ストライク。
二球目はバントの構えから引いて、ボール。うーん、やっぱり前へ飛ぶ気配がないなあ。
などと内心私も延長戦に備えてレガースに手が伸びた時、それは起こった。
三球目、相手ピッチャーの投げた球が内角にフワリと浮く。
ミサちゃんはのけ反ってそれを避ける動作だが、何か肘から先だけグイッと前へ押し出す。
コン!
気がつくとボールが前へ転がっていて、ミサちゃんは一塁へ全力で走っている。
「振ってないのに?」
私と同じように相手内野陣も頭に「?」が浮かび、足が動かない。
ツーアウト、三塁コーチに入っていた真理ちゃんがすでに「ゴーッ!」とランナーに大きな声をかけて走らせていた。
慌ててピッチャーが前へ出て球を拾うが、三塁ランナーはすでにホームの近くにいる。
ピッチャー、ホームは間に合わないと判断して一塁へ送球!
「神様、ミサ様。アーメン」
例によってお姉ちゃんが手を合わせる。とにかく神頼みなんだな、この人は。
アウトか?セーフか?きわどいタイミングで一塁ベースをミサちゃんが走り抜ける。
そして…慌てたせいか送球がそれた。一塁手が身体を大きく伸ばす。
一塁手の足が大きくベースから離れた!審判がセーフのコール!
見事オレモンのサヨナラ勝ちだ。
何とミサちゃんの必殺『グリップエンドバント』だそうだ。
バットの一番下の先っぽ、持ち手の下でボールを当てるバントは澤村さんがミサちゃんにこっそり教えていたらしい。なかなか公式戦で見られるものではないんだとか。
またドラマチックな場面で決まったものだ。
私たちは全員バンザイして『さよならバントヒット』のミサちゃんの方へ走った。
ミサちゃんも泣きながらこちらに走ってくる。
第1試合に続き、一日に二回も優勝したような騒ぎのオレンジモンスターズ。
万年最下位が指定席であるチームの快進撃が始まった…のかな?
「ねえ、美里ちゃん。好ちゃん。あの二人なんかあったかな?」
真理ちゃんは実はとんでもない恋愛脳の持ち主でもある。
試合の後、片付けをしながら私たちはベンチ裏で噂話タイムだ。
「何かって?」
逆に好ちゃんはそういった桃色の話題にはピンとこない人なのだ。
「真理ちゃんもそう思う?わかんないけど、もしかして澤村さんが告白したんじゃないかな?」
私の予想を話すが、真理ちゃんは首を振る。
「違うよ。もっと何かシリアスな…ううん。あの二人にシリアスという要素はないか」
おおう、私の姉も澤村さんと同じコメディ枠に。
真理ちゃんがさらに予想する。
「…プロポーズとか?」
「うええええええっ!」
好ちゃんが試合の時より大きな声を出して、周囲の注目を集めた。
「しーっ!」
真理ちゃんが口に指を当てた。
「ごめん。澤村監督ってあの、その、そうなの?
好ちゃんが最大の機密事項のように小声で私に聞いた。
「そうだろうねえ」
私の言葉へ被せ気味に真理ちゃんが断定する。
「見りゃわかるでしょ。好花はホント鈍いよ!」
シーッと相手を静かにさせたわりには大きな声だ。
真理ちゃんは私と好ちゃんの顔を交互にジッと見て言った。
「例えば、例えばさ。県大会に行けたら結婚しよう、なんちゃってさ」
「キャーーッ!」
好ちゃんが赤くなる。
まさかですね。小学生女子の推測通りだなんて、思わないですよね。
澤村さんは今日もお姉ちゃんに『今夜、お店で反省会…いい?』って言って断られてた。
『グランドで済ませましょう。そうしましょう』とお姉ちゃんにロボットのような棒読みで返されて。
とりあえず…オレンジモンスターズ現在2勝2敗…11チーム中6位です。
そして澤村さん、本日も撃沈…のようです。
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