#007-2
クレイグは一人、ビリヤード場を抜けて、バーのカウンターに腰掛けた。バーテンダーにウイスキーのロックを頼む。久しぶりの息抜きと称して、クレイグはピアーズと、同じ学科のサイモンを誘ってビリヤードのあるバーへやってきた。この喧騒が、今はなぜか心地よい。
あれから……ピアーズにあの日何があったかは詳しくまだ聞けてないが、あの日からピアーズの心は膜で覆われたように形を現さなくなった。話をしていても、どこか虚ろに見える。何人かいる共通の友人に聞いても否定されたが、クレイグの目には少なくともピアーズが心から笑う瞬間がなくなったように見えていた。
なぜ、わざわざ教授が学生に対してそんなことを言ったのかわからない。しかもあの日訪れる予定だったのは、コンペでピアーズの作品を褒めた教授ではなかったか。だとしたら、才能がないと言うなど正当な話の流れではない。
グラスを握る手に力が入る。ピアーズはその教授のどんな感情に傷つけられたのだろう。
クレイグが酒を煽るその目の端に、人影が映った。
「ピアーズか……。何しに来た? サイモンが一人になっちまうだろ」
「今は隣にいた団体の女の子をはべらせてるよ」
クレイグの友人の一人であるサイモンは、医学部で、いつもクレイグと授業を受けているらしい。身なりもよく、質のいい育ちをしてきたのがよくわかる。そのくせユーモアも持ち合わせた男だ。そういう男だから、周りには自然と女の子が集まってくる。
「予想を裏切らないな、アイツは」
「こうなること、わかってたわけ?」
「隣に7人の男女がやってきたところから、想像はしてたよ」
そういってグラスを揺らすと、空になったことに気づいたバーテンダーが近づいてきた。
クレイグはおかわりを頼み、ピアーズはクランベリージュースを注文する。
「さすが親友」
「アイツ、ビリヤード上手いからな。ここはアイツの独擅場といっても過言じゃない」
クレイグもビリヤードは好きだが、サイモンには勝てない。
彼の番になるとすべてのボールに意思が芽生えるのではないかと思うことすらある。
二人の間にそれぞれの飲み物が置かれる。
ピアーズはクレイグの言葉に笑いながらそのグラスに指を伸ばした。
「たまにはこういう息抜きもいいな」
「楽しいだろ」
「うん。今日、本当はサイモンと2人で来るつもりだったんだろ? 誘ってくれてありがとな」
「……いや、こっちこそ。来てくれたことに礼を言いたいよ」
ピアーズがクランベリージュースのグラスに口をつけた。赤いジュースがピアーズの唇に触れて、吸い込まれていく。クレイグはその様子に、目が離せなくなった。
グラスを置いて伏し目がちに自分の指先を見つめるピアーズに、どうしようもなく色気を感じる。
クレイグは自分のグラスを手にとり、わざとそっぽを向きながら口をつけた。
大学の入学式の日、人酔いを起こしたピアーズに欲情した自分を思い出してはひどい嫌悪感に苛まれたのに、あの瞬間が思い起こされた今、同じように欲情している。
―――入学パーティも終わりに近づき、教授たちが医学部での集まりのために去った後。ピアーズが眉間にしわを寄せながら何かをこらえるようにしていたから、思わずクレイグは顔を近づけて小声で問うた。
「顔色悪いな、どうした? 酒飲んだのか?」
「……いや、人酔いしたかも」
「歩けるか?とりあえず、空気の綺麗なところに行こう」
テラスも先ほどの人だかりのせいで色んな匂いが混ざり、空気が淀んでいる。
ピアーズの背中を支えながら、テラスからもう少し歩いたところにあるベンチまで歩いた。
「ごめん」
「気にするな」
ピアーズが浅い呼吸を繰り返す。目を閉じ、気持ちが悪いのをこらえている横顔を見つめた。その少し汗ばんだ素肌や、タイを解いたところからのぞく鎖骨が、クレイグの欲を引き出す。
クレイグは見ていられなくなって目をそらした。
「何かほしいものはあるか?」
ピアーズが黙ってゆるく小さく首を振る。
「お前人の多いところ苦手だもんな。さっさと帰るべきだったか」
「いや……。久しぶりに知らない人たちとたくさん喋れた。……お前みたいにうまく振る舞えないけど」
「そういうのはそのうち慣れる」
「でも楽しかった」
「それなら良かった」
ピアーズは答えながらもベンチの背もたれに上半身を委ねた。余程思わしくないのだろう。
街燈の明かりが二人の空間を闇から浮かび上がらせる。遠い後ろで鳴る吹奏楽部のジャズ演奏も、そのシチュエーションに彩りを添えた。
「ここで少しゆっくりしてろ。俺もここにいるから」
「……いいよ、楽しんで来いよ」
「もう十分だ」
こういうときでも気を遣う。ピアーズはいつも周りの機嫌を察知しながら他人のいいように振る舞うから、そんなところもクレイグが放っておけない要因のひとつだった。
そのまま沈黙が宿る。それでも二人の間にあるのは気まずい空気ではない。
ただ、一方的にクレイグは自分を戒めていた。変な気を起こした自分に罪悪感しかない。この思いを知られたらと思うと眼前が暗くなる思いがした。だから必死に抑え込んでなんでもないような振りをした。これまでピアーズから預けられてきた信頼を、手放したくない。
「なら、悪いけど……もう少しだけここにいさせて」
「ああ」
クレイグは立ち上がって目の前に広がる夜景を見つめた。
実らぬ思いはただひたすらに苦しい。でもときどき、この世の中を生きていてよかったと思えるほどの幸福を、彼は気まぐれにくれることもある。
「お前のお願いなら、なんだって聞くよ」
小さくつぶやいた言葉は、彼に届かない。
クレイグはそのまま、眼下に広がる夜景を見つめていた。―――
本当はピアーズも自分と同じ気持ちなのではないかと思ったこともあった。これだけそばにいて、ただの居心地のいい友人のポジションにおさまるつもりはない。
けれど、そう思っていたのも秋までだった。
次に桜が咲く頃には、ピアーズとの別れが待っているのだから。
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