#006 09.03.01 - Piers side -



ピアーズは辛うじて歩を進めた。もうすっかり辺りは暗い。思い出したくないのに、教授の顔が、あの目が、鋭利な言葉たちが、思い出されて仕方なかった。

それでも涙はすべて出尽くしてしまったらしい。ベンチに長いこと座っていたから、身体は芯まで冷えてしまっていた。


「おい、ピアーズ!」


聞き覚えのある愛しい声に、ピアーズははっと顔を上げた。闇にぼやけているのか、それとも涙か、眼前にはクレイグの姿が見える。


「やっぱり学校にいたんだな……」


クレイグはピアーズに駆け寄ってきた。ここまで走ってきたのだろう、少し息があがっている。


「……クレイグ……」

「お前、着信残しただろ……なのに、それっきり連絡しないで何してんだよ」


ちゃんと自分を心配してくれる人が、ここにいた。そう思うだけで乾涸びたと思っていた涙が、再度こみ上げてくる。

急に呼吸を止めた。ピアーズの涙に、気づいたのだろう。クレイグの言葉に、こんな状況でも少しだけ口元がゆるんだ。


「……何があった……?」


クレイグが眉を寄せてまっすぐ問いかけてくる。

過去自分のことを、才能があるタイプだと思ったことはなかった。だからこそ、その分努力量がものを言うと思ったし、そう信じたかった。大学に入る前から色んな資料を読んで、実際に建築物を見に行って、自分でも作ってみて、一つ一つ積み上げ、大学で少しずつ他の学生と意見交換することで、その成果が少しずつ自信になりかけていた。そんな学生の自信など、教授からしたらちっぽけなものかもしれない。しかし、ピアーズにとってはそれでも、非常に尊いものだった。


それが否定された今、他人の前でどう振る舞うべきなのか……ピアーズには見当もつかなかった。


「おい、なあ、ピアーズ」


思わずクレイグが腕を掴む。涙を隠すのに必死で、いまは触れてくれたことを嬉しいと思う余裕すらなかった。このまま子供のように泣きじゃくってしまいそうで、いまクレイグの心配そうな表情を見るだけでこみ上げるものがある。ピアーズはすぐさま顔を背けた。

しばらくして、クレイグの体温がコートの上から伝わってくる。

そしてピアーズは気づいた。自分がクレイグの体温すら知らなかったことを。勝手に、手の温かい人間ではないと思っていた。こういう男だから、手先は冷たく、その細い指は感情を持たないと思い込んでいた。だから、知らずに背を押されたのかもしれない。


「……アダルバート教授に、お前は1ミクロンも才能がないって言われた。才能があるタイプじゃないってのは分かってたから、勉強量でカバーしようとは思ってたけど、……正面から言われるとキツいね」


最後はちゃんと言葉になっていたか分からない。笑ってみたつもりだが、余計にクレイグの心配を駆り立てたかもしれなかった。


「……そんなことないだろ」


クレイグの強い眼差しに押されて、ピアーズの瞳に涙がぶり返した。次は嗚咽を伴った。

    

そのピアーズの肩を、クレイグが支える。


「……オレ、ここまでやってきたことが正しかったのかもう分かんなくなったよ。このまま今やってることを積み上げた先に何があるのか、見えない。この4年間を終えた時に、手元に何も残らなかったらって思うと――」

「ピアーズ、いいか。お前は嘘だっていうかもしれないけど、俺はお前の作ったものに心打たれたことが何度もあったよ。そのひたむきな姿勢とか、建築に対する熱意も感じてた。どんな偉い教授でも、それを否定する権利なんかないはずだ」

「だけど、そういう過程が作品に反映されてなかったら、それは何もしてないのと同じだ」

「本当に反映されていないとしたら同じかもしれない。だが、お前のは違う」

「一緒だよ」

「他の可能性を考えろ。その教授にただ見る目がなかったという可能性も、0ではないだろ?」

「0ではなくても0に近い」

「それについて、教授と喧嘩してもいいよ。そしたら100%、俺が勝つ」


平素クレイグは根拠のないことを言わない。そういう男がこんなに根拠のないことに対して100%と言い切ること、これがピアーズの心を少しばかり慰めたのは確かだった。

それでも、衝撃の強い言葉の後は、迂闊に他の言葉を信じられない。

    

ピアーズは肩を支えてくれていたクレイグから離れると、まっすぐクレイグの顔を見た。何も言葉が出てこない。


「ごめん、とりあえず帰ろう。家行ってもいいか?」

「……ああ」

「悪い、その前に校門の鍵、返してくるわ。一緒に来て」


クレイグはきっと、心の底から心配してくれているのだろう。鍵を守衛室に返しに行くくらいのこと、これまで付き合わせたりしたことはなかった。いまは片時でも離れるのが不安だと感じてくれているのだろう。


2人黙って守衛室まで歩いた。いつもなら黙ったまま並んで歩いても気まずいなんて思ったことはないのに、どうして今日はこんなに気まずいのだろう。

守衛室は闇の中で浮いたように光を放っている。


「ここで待ってろよ」


クレイグはピアーズに言い付けると守衛室に入っていった。プレハブの窓から守衛と軽い世間話をしているのが見えた。漏れ聞こえた声によると、クレイグが医学部一の秀才であることを、鍵と引き換えに預けた学生証を見て知った守衛が、感心して声をかけているといったところだろう。


どうしてクレイグは、こんなにも愛にあふれた人なのだろう、と時々不思議に思う。

守衛相手のような社交辞令だけなら簡単なようだが、実のところクレイグは人見知りのようでなかなか他人とは簡単に打ち解けない節がある。

それでもコンラッドやユージン、エルバート、そして自分、本当に親しく相手には無償の愛情を注いでくれる。これまでも何度となく困っているときにはためらわずに手を差し出してくれた。そのたびに、クレイグの優しさを身に染みて感じる。


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