#005 09.03.01 - Piers side -



『もしもしピアーズ?今日、行く?』

「行くよ。4時限目終わったら行く」


3時限と4時限の間に、クレイグからかかってきた電話を取った。今夜は一緒にジムに行くのを予定していたから、その話だろう。


『なら先行ってて。俺4限目終わってから教授の手伝いしなきゃなんなくなって』

「わかった」

『じゃあまた後でな』

「ん」


それだけ言って通話を切る。

いつも一緒に行くジムだが、その中で特に会話らしいものはない。クレイグはあまりプールにはいかないし、2人で並んでランニングマシンには乗るけれど、ただひたすら走るのに徹する。それぞれが自分のストイックを突き詰めるあの空気感が、たまらなく好きなのだ。


ピアーズは大学から街に続く坂道を下った。もうすっかり日が落ちてしまって空は完全に夜に塗られるのを待っている。

街の灯りがほの明るく夜の闇に怯えるかのように少しずつ広がり始めていた。




「ピアーズ、おかえり」

「……ただいま」



ドアを開けると明かりが灯っており、暖かい空気で満たされている。そしてキッチンの方からは、ひょっこりとクレイグが顔をのぞかせていた。

大学に入って一人暮らしを始めたピアーズの家には、よく夕飯を作りにクレイグが来るようになった。

合鍵も渡してある。クレイグは両親のいるあの家を嫌っているから、家にいなくていい理由をここに見つけたのだろう。

この光景に少しずつ見慣れてきた事実が、嬉しくないといえば嘘になる。

「……結局来なかったんだな」


ピアーズはわざと突っぱねるように言った。あの後、ジムで2時間ほどトレーニングをしたけれど、結局クレイグは姿を現さなかったからだ。

「悪かった。でも、ちゃんと連絡入れただろ?」

「トレーニング中に携帯なんて見ないだろ。もっと早く知りたかったってだけ。だったらもっと早く帰ってきたのに」



「夕飯、何?」

「オムライス」

「やったね」

「一緒にジム行ってやれなかったお詫び。お前好きだろ。ほら、手洗いうがい行って来い」


ピアーズはふんと鼻で笑うと、クレイグに言われた通り手を洗いに行く。シャワーはもうジムで浴びてきてしまった。


「あ、クレイグ、ハンドソープない! 持ってきて」

「何やってんだよ……」


クレイグが呟いたのが分かったが、ピアーズはその手を濡らしたままの状態で待っていた。すると甲斐甲斐しくこうして、クレイグが持ってきてくれることを知ってるのだ。

すでにどこに何があるのか、物の配置までクレイグは覚えている。


「ありがと」

「そういや、お前こないだのコンペどうなったの?」

「あーダメだった」


詰め替えパックから少しピアーズの手にソープをこぼしてやってから、クレイグはボトルに詰め替え始めた。ピアーズは泡立てながら、わざと明るく振る舞ったことも、見透かされているのだろうかと考える。

しかしクレイグの横顔から見て取れる感情はない。


「ふーん。俺は好きだったけどな。建築模型は? ある? もう一回見たいんだけど」

「あるよ。あっちの部屋」


クレイグが嬉しそうに言うから、ピアーズは何も言えなかった。そんなに自分の作るものを好きだと思ってくれているこの存在が愛おしい。

そのまま手に持った詰替え用のパックを空にしてしまうと、"あっちの部屋"にクレイグが向かった気配がする。


「なあ、クレイグ、その前にご飯は?」

「じゃあ飯の後にする」

「別にいいけど、でも手直ししたらまた教授が見てくれるっていうから、壊すなよ」


コンペでは選ばれなかったけれど、とある建築家兼教授に気に入ってもらえた。

コンペ入賞を狙っていたピアーズが思ったほど落胆のダメージを受けていないのは、そのせいだろう。


「へえ。どんな教授なんだよ」

「設計事務所やってる現役建築家の教授。オレが尊敬してる建築家の1人だよ。なんていうか……あの人のものはどちらかというと芸術に近い」

「そりゃ良かったな。何か、次に繋げられそうか?」

「うん。もしかしたら、インターンとして仕事の手伝いさせてもらえるかも。君の学生生活を僕に預けてみないか、って言われたよ」

「マジかよ。相当気に入られたんだな」

「いや、実際はわからない。事務所の手伝いが欲しいだけかもしれないし」


二人向かい合ってテーブルにつくピアーズは大きく口を開けてオムライスを頬張った。バターの風味香るふわふわの卵が大好きだ。クレイグが祖母から教わったというオムライスは、ピアーズの好物の1つである。


    

「お前の尊敬する教授だろ? そんな人のいる設計事務所なら、黙ってても助手なんていくらでも来るさ」

「……そうかな。真意はわからない。なんていうか、ミステリアスな人なんだ」


教授は、いかにも芸術家といった妙な色気を持つ男だった。名をアダルバード・マッソンという。

まだ35という若さながら寡黙だし、表情から何を考えているかわからないようなポーカーフェイスは、研究室へ運ぶ学生たちの足を遠ざけた。


建築学科の学生たちは自分を売り込むために色んな教授のもとへ足を運ぶが、そんな学生たちでも、彼のところへは月に5人行けばいい方だった。勿論実績だけを見れば学内でも随一だったが、彼の研究室へ行ったという学生はみな一様に口を揃えて「あの教授には教える意思がない」とか「学生の学習意欲を削いでいる」などと言うのだ。


ピアーズは元々他に懇意にしている教授がいたからそちらの研究室で事足りたし、近寄ることはしなかったけれど、彼の手から生まれる作品が大好きだったから、いつか学習意欲を削がれたとしても話をしてみたいと思っていたのだ。勿論そこにはクレイグがいう尊敬の意思というものと、そして自分の建築学に対する意思を他人に曲げられるわけがないという自負もあったからであろう。


「ふうん。芸術家とかってそんなもんだよな。天才と変人は紙一重だ」

「……うん、そうだな。あの人は、絵描きとしても大成してるし」


正直、まだわからないことがいくつかあって決めかねている。本当はクレイグに相談するつもりだったけれど、自分の優柔不断なところを彼の前に晒すのが嫌で言葉を濁した。


「で、お前はどうすんの? 手伝いはするわけ?」

「……世界を股にかける建築家だ。一流の仕事をこの目で見たいって気持ちはあるよ」


ピアーズの真剣な話を、クレイグはいつもまっすぐな瞳で聞いてくれる。こちらが話すのに夢中になっているときはいいけれど、ふと気を抜くとその青い瞳に吸い付けられそうになってしまう。


「……そうか。大変だと思うけど、そうなったら頑張れよ」

「あ、でも今までの生活を大幅に崩すようなつもりはないから。ちゃんとジムやダーツにも行くし、図書館で勉強できなくなるとかもないようにするから」


ピアーズは慌てて付け加えた。クレイグが自分に遠慮して会えなくなるのが怖かった。

しかしクレイグは、意に介さない様子でからりと笑う。


「いいよ、お前の好きなようにやれば。お前の将来への障壁になるつもりはない。未来のために邪魔だから消えてくれと言われたら、黙って消えるさ」

「……それ本気? ユーモアのつもりならセンスないんじゃない」


口調が拗ねてしまった。ピアーズの思わぬ反撃に面喰った様子のクレイグを見て、少し罪悪感が残る。それを払拭しようと、ピアーズは慌てて話題を探した。

自分のこういうところが嫌だ。クレイグと同じ気持ちなわけがないのに、自分の気持ちに相応のものが返ってこないとすぐに気持ちが荒れる。


「なあ、ところで久しぶりにポートオール美術館に行きたいんだけど、いつ行く? あと、今度ニューヨークでお前の好きな写真家の写真展があるだろ? あれもオレ行きたいんだよね」

「……いつでもいいよ、お前が行きたい時で」


クレイグがにこりと微笑んで頷く。そしてすぐにうつむいた。

その瞼に滲む色気にいつもあてられそうになる。

ピアーズは欲望が膨れ上がる前に、頭の中で次の外出の日程を組んだ。




「決まったかい、心は」


ピアーズは翌日4時限の終わった後、アダルバードの札のかかった研究室に来ていた。

アダルバードはピアーズが部屋に入った時からずっと、窓の向こうを見ている。


「……はい」

「返事を聞かせておくれ」

「せっかくお誘い頂いたのですが、今回は、……辞退させて下さい」


ピアーズのその言葉に、アダルバードが緩慢な動きで振り向いた。そして何を考えているか分からない曖昧な表情でピアーズを見つめる。


「何が気にくわない?」

「気にくわない訳じゃなくて……あなたの元で助手をさせてもらえるなんて、身に余る光栄だというのは実感しています。ですが、……本当にあなたは、オレの"作品"を見てくれていたのかなって、疑問に思ったんです」

「……」

「オレは、今の日常の中で大切な友人と過ごしたり、芸術に触れたりする生活が割と好きなんです。あなたのそばにいたら、そりゃ毎日刺激的で楽しいと思う。でもまだ、……オレはそこに及んでない。これは主観的な判断ですが、客観に近いと思っています。オレにはまだ、デザインの基礎から抜け出せていないところがある。法則を取っ払っても素晴らしい芸術という域に、達していないんです。あなたの作品がそういうものばかりだからこそ、オレはあなたの作品を見てきたからこそ、自分の作品があなたの琴線に触れるものじゃないってわかっているんです。だから正直、今回のお誘いには驚いたというか、悪い意味で信じられなかったというか……」


アダルバードがこちらに一歩、また一歩と近づいてきた。ピアーズはぐっとその目を見つめ返す。ここで折れてはいけない。


「……そうか。分かっていたのか」


ピアーズの鼓動が大きく跳ねる。言葉に温度がなかった。


「君は意外と聡明だね。ああ、頭は良くてもそれが作品に生かされないのか。不幸だな。キミには、1ミクロンの才能もない。だから、愉快でね」


アダルバートは口角を上げて皮肉げに笑う。その瞳には他人を見下す嘲りが見えた……。


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