#004 09.02.03 -Piers side-
――― 一度だけ過去に、クレイグと過ちを犯してしまいそうになったことがあった。
あれは高校の時、同じくこの部屋でだった。あの日もこんな風に、積もらない雪が降っていたのを覚えている。
”なぁピアーズ、いまから俺んち来れないか?”
突然かかってきた電話に、ピアーズはひとつ返事でokした。別にその日はプールの定期点検で部活もなかったし、やることもなかったからだ。だが元々クレイグの方から父親の講演会に参加するからNGだと言われていた日だったこと、そして電話口のクレイグの声が少し引っかかっていた。
「クレイグ? いるんだろ?」
呼び鈴を鳴らしても出てこなかったから、電話で言われたように勝手に入らせてもらった。
クレイグの両親は医学界では有名な医者と研究者だった。父親は不治の病と言われていた病の原因を究明し母親はその特効薬を作り出した。いまはその病の専門医として業界で名を馳せている。
クレイグはそれをわざわざ言いはしなかったが、知っている者も増えてきたし、ピアーズもそれをよく知っている。そんな両親の建てたこの家は広いくせにいつもどこか閑散としていて、クレイグの孤独を閉じ込めているようななりをしているのだ。
ピアーズは暖房の効いた廊下と階段を歩いてクレイグの部屋までたどり着いた。そしてドアをノックする。
「どうぞ」
クレイグの声が聞こえて、ピアーズは少しホッとしながら部屋に入る。そこには見慣れないスーツを着たクレイグがいた。
「悪いな、いきなり呼び出したりして」
「いや。全然」
「雪降ってたろ?」
「そんなに酷くもなかったよ」
ピアーズはいつものようにクレイグのベッドに腰掛けた。ここがピアーズの特等席だった。
「それより、講演会どうだった? お前楽しみにしてたじゃん」
そのピアーズの言葉に、クレイグが反応した。以前から父親にパーティなどへ連れていかれているとは聞いていたが、講演会への出席は初めてだったようで今回のは少し憂鬱が払われた心持ちだと言っていた。
「……親父のやってる学問の偉大さを知ったよ」
「そりゃな。お前の親父さんは長い歴史を変えたんだ。賞賛されて当然だと思う」
ピアーズの言葉が終わるかどうかというところで、急にクレイグが立ち上がってそのままピアーズをベッドに押し倒した。
「なぁ、あの親父のすることは全て正しいのか」
「……クレイグ……?」
「俺に、自由意思はないのか?」
真上に見えるクレイグの表情は今にも泣きそうで、ピアーズは講演会で何かがあったことを察した。いや、いままで募ってきたものが、講演会で爆発したとでも言うのだろうか。とりあえずピアーズは、クレイグを落ち着けようと必死に言葉を紡いだ。
「……お前は、自分の好きなように生きていいと思う。お前は親父さんとは別だ」
「だが世間はそう見ていない。世論があの人のやることをすべて肯定しているように見える。俺は、……あの人のいいなりにしかなれない。でも、それがひどく苦痛なんだ、どうしたらいい。将来の夢も、恋も、日々のスケジュールも、……全部あの人の決定に背くことは許されない」
「ちゃんと主張しろよ、自分は嫌だって」
「……それができたら苦労しない。……なあピアーズ、一つだけ俺の願いを聞いてくれないか」
「いいよ、いくらだって聞いてやる」
「俺だけを見ろ」
その強い言葉にピアーズが狼狽え、目をそらした瞬間……クレイグがピアーズの頬を両手で掴んで唇の先が一瞬触れた。しかし、すぐにクレイグがうつむく。
「……ごめん、こんなことするんじゃなかった」
クレイグはそう言ってピアーズから離れ、ベッドに倒れ込んだ。
キスとも言えない、ただ触れただけの唇が熱い。
「……なんでだよ、なんで後悔すんの」
ピアーズは、自分でそう言いながら、意味がわからなかった。ただ今は、クレイグがしようとしてやめたことを、無性に責めたい気分だった。
このまま流れでしてしまいたかったのかもしれない。でも、それはイヤで、本当は最初を大事にしたかった気もする。それのどちらともが、今のでなくなってしまった。中途半端なキスで、どちらもなくなってしまったその事実が、恨めしい。
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