第5話
オーロラが濃い。
チヒロが目覚めて最初に思ったのは、それだった。そしてそれを五体投地で知覚できる自分は、コロニーの外で放り出されているのだと理解し、次いで自分の顔に張り付いたガスマスクに気づいた。
「俺のじゃないのかよ……なんて言ってる場合じゃないか。コロニーの支給品は好きじゃないんだけどな」
チヒロは、上体を起こして周囲を見回す。瓦礫だらけだ。周囲に人気はない。彼のすぐ横には、彼の愛銃と小さなバックパックが彼と同じように放られている。バックパックの中には、数日保つかどうかといった程度の食料品が詰め込まれていた。それと一緒に、コロニー周辺の地図がぐしゃぐしゃになって挟まっていて、ある箇所には赤いバツ印が付けられていた。おそらくこれが現在地なのだろう、チヒロはそうやって推測した。
「慈悲深い処遇だね、全く」
そんな皮肉を聞く者もここにはいない。
チヒロは、コロニーを追放されたのだ。
「この印が正確なら、確かにまだ生き延びようはあるけど。俺がそこいらのスカベンジャーなら、今日中にでも死んでたところだな」
覚えている限りの補給地点を地図に書き足してみれば、案外食うにも寝るにも困りはしないように思えた。少なくとも、しばらくは。
――でも、その後は?
チヒロは自問した。
「まさか。俺はゴミ漁りのプロなんだ」
きっとその後もなんとか食いつないで、そうしながらなんとか生きていくことも可能だろう。これまでの経験から、そんな自負が彼にはあった。だがそれも、彼一人であればの話だ。
「……アオイ」
その名を呟く。彼女はどうだろうか。
コロニー運営局に身柄を確保された彼女は魔法使いで、コロニーにとっては忌むべき存在だ。そんな彼女がどんな扱いを受けるかは、想像に難くない。
チヒロは頭を抱えた。こんな状況でありながら、彼女の身を案ずる自分がいることに気付いたからだ。
「正気じゃない」
自分が生きるか死ぬかの境目にいる中で、他人の心配なんて。冷静さを欠いた自分の思考を、彼は頭を振って振り払う。
「俺は、俺が生きるだけで精一杯なんだ」
吐いた言葉は、弱々しく空に溶ける。
仮に彼女を助けにコロニーに向かったとして、警備の連中に見つかれば今度こそ追放では済まないだろう。そして彼女を連れ出したとて、今度は気にかけなければならない食い扶持が倍になるだけだ。
「有り得ない」
かつてコロニーの警備員として雇われていた頃の記憶を思い出す。人員の交代のタイミングも、配置も、それは未だ彼の中にある。交代のタイミングであれば、警備が手薄になる箇所が存在することも知っている。
「何を考えているんだ、俺は」
最早掟に縛られる身ではない。禁域の端で細々と暮らすのも良いだろう。新天地となるコロニーを探すのだって悪くない。聞いたことがある、人間と魔法使いが共存するコロニーがどこかにあると。それは遠く、厳しい道程になるだろう。
「……ひとりじゃ、無理だ」
自分の口をついて出た言葉に、またしてもチヒロは頭を抱える。
「こんなことになるなんて思いもしなかった。俺は、俺はあいつを見捨てることができないらしい」
彼女が生まれのせいで理不尽に囚われるのが許せない。助けて貰った恩を返せていない。まだまだ稼いで一緒に夢を見たい。とにかく、彼女を助け出すべき理由ならいくらでも浮かんでくる。
だから必要なのは理由ではなく、決意だけだった。
「助けに行こう、アオイを」
日が沈みかけ、黄昏時。
コロニーの警備が入れ替わる時間帯を狙うというチヒロの作戦は、信じられないほどスムーズに上手く行った。
「流石に見直した方が良いだろ、この体制は」
軽口を叩きながら、チヒロは警備員のロッカーを勝手に開けて変装する。顔は割れているだろうが、用心するに越したことはない。
部屋の壁には堂々と見取り図が張り出されていて、彼の記憶の中のそれとほとんど一致していた。
「拘置室の場所は変わってないな」
いくつか変更になった部屋はあるものの、人間を閉じ込めておくような造りの部屋は代わりが効かないのだろう。アオイもきっとそこに囚われているに違いない。チヒロは制服の帽子を深く被り直すと、足早にその場を後にした。
人の気配がしない。
拘置室前にたどり着いたチヒロが、最初に感じた違和感はそれだった。いくつかの拘置室へ繋がる廊下には、本来警備の人間が少なくとも二人は配置されている筈だ。それに、部屋の向こうからも人気は感じられない。物音一つしない空間で、チヒロは眉をひそめた。
「どういう事だ……?」
拘置室のドアについている覗き窓をひとつひとつ確かめるも、それらはすべて徒労に終わる。誰もそこにはいないのだ。
「暗くて誰だか分かりませんが」
ふと、背後から声がした。
「交代の時間には少し早いように思いますよ」
酷く平坦だが、どこかこちらを嘲笑うような声色に、チヒロは聞き覚えがあった。ムカイだ。
「……、だんまりですか。まあ、それもいいでしょう」
彼はつまらなさそうに自分の爪を見た。
「そういえば聞きましたか? ついさっきまでそこに収容されていた彼女の行き先」
「……っ!」
「なんでも、エーテルシールドのジェネレータに繋がれているそうじゃありませんか。魔法使いはその体内にエーテルを蓄える器官があるという噂、本当だったらしいですね。さしずめ、生きたエーテル結晶といったところですか」
「お前……!」
すかさずチヒロは背負っていた小銃を構える。
同じタイミングで拳銃を抜いたムカイは、わざとらしく驚いた。
「おや、おや、まさかあなただったとは。わざわざこんなところまで忍び込んでいるとは思いもしませんでしたよ。それで、そのままその引き金を引くつもりですか? 殺人は追放処分では済みませんよ」
「殺しはしない、こんなくだらないところで人殺しになんかなってやるか」
「ふ、それでは大人しく捕まって頂けると?」
「馬鹿言うな」
言うが早いか、チヒロがエーテル機構のレバーに手をかける。ムカイもその手に握った小銃を構え直し、同様にエーテル機構の熱を蓄え始める――だが、その頃には既に決着は付いている。
銃声。
それは正確無比な一撃で、ムカイの手にあった拳銃を遠くまで弾き飛ばしていた。
「っ……、」
「それで、誰が誰を捕まえるって?」
「……驚きましたね、それが魔法のかかった銃ですか」
「あんたも魔法をかけて貰えば良かったのさ、俺のビジネスパートナーにな。さあ、退いてくれ」
ムカイは諦めたように小さく頭を振ると、両手を挙げて道を空けた。
「どうせ分かってるとは思いますが、ジェネレータ室は地下にあります。彼女もそこにいるはずですが――」
そんなムカイの言葉を聞き終える前に、チヒロは廊下を駆け抜けていった。
その場に残されたムカイは、彼の姿が見えなくなると小さくぼやいた。
「これでは警備もクビですね」
エーテルシールドは、不要なエーテルをシールド部分が吸収し、それを別の機構から排出することで保たれている。排出されたエーテルは変質しており、シールドの生成には利用できない。一方で、一部のエーテル機構を駆動させるには問題がないため、再精製されて利用される。そんなジェネレータ室――もとい、エーテル再精製施設は、コロニー中枢部の地下深くに存在していた。
長く、長い螺旋階段を駆け下りて、チヒロはようやくその最奥へとたどり着いていた。
「『警告、この先エーテル濃度高』……だとさ」
分厚い金属のドアに刻まれた真っ赤な警告文は、嫌でもチヒロの目に飛び込んできていた。
変装の際にガスマスクは置いてきてしまった。
防毒服が置いてありそうな手近なスタッフルームは施錠されているし、そもそもそれを着ているような時間はないだろう。
ジェネレータから排出されるエーテルの濃度は、オーロラが濃い日の外気とは比べものにならない。一時間どころか一分でさえ人体に害を及ぼすのは間違いない。
「それでも」
ドアノブにかけた手が震え、額からは汗の滴が一筋流れた。
「危ない橋を渡るのは、死ぬためじゃない――」
それは自分に言い聞かせるように。
深く息を吸い込んで、彼はドアノブを捻る。
(――生きるためだ)
扉が開く。
次の瞬間、強烈な熱気が彼を襲った。
「くっ……」
厳密に言えば、それは熱気ではない。あまりにも濃い排出エーテルが、彼の体にまとわりつくようにして押し寄せているのだ。
口元を袖でなるべく塞ぎながら、彼はジェネレータ室を駆ける。
(どこにいるんだ)
ジェネレータ室は無数の配管で埋め尽くされていて、人の通る幅が辛うじて残されている、そんな様子だった。
じり、と灼けるような感覚がチヒロの肌に走った。エーテルによる浸食だ。
(くそっ、有り得ない! 早すぎる)
エーテルの濃い地域での活動は経験があった。その時もあまりに長居していると肌が焦げるような感覚があったが、今度のそれは比較にならないものだった。素肌に炎をあてがわれているかのように激しい痛みが、チヒロの全身を蝕んでいた。
苦痛に顔を歪めながら、チヒロは意を決して叫んだ。
「――アオイ! 返事をしてくれッ!」
大声を出した瞬間、彼の気管は燃え上がるように悲鳴を上げた。喉が干上がり、引き裂かれるような痛みが迸る。思わずその場にくずおれそうになるのを堪えて、チヒロは歩き続ける。
その時、どこかで誰かの声がした――ような気がした。聞き覚えのある透き通るような声が、弱々しくも枯れてしまったような、そんな声だった。その声は、絞り出すようにして彼の名を呼んでいた。
「……チヒロ」
「アオイっ!」
蔦のように蔓延った金属配管のその奥に、彼女は繋がれていた。首筋に、肩に、腕に、無数の管が突き刺さって、確かに彼女から何かを汲み上げているのが分かった。
チヒロはすぐさま彼女に駆け寄り、その管を半ば乱暴に引き抜いていく。
「い、痛いってば……」
「今は――げふっ、我慢してくれ……!」
そんな風に言葉を発するたびに、チヒロの喉はボロボロになっていく。構わない。アオイの肌には痛々しい注射痕がいくつも刻まれ、ぷくりと赤い血を滲ませている。構わない。ここにいては、それどころではなくなってしまうのだから。
そうしてアオイを繋ぎ止めていた管を抜き取り終え、チヒロは彼女を抱え上げる。
「あと、少しだ……本当に……」
一歩、また一歩と踏みしめるたびに足裏が灼けるような感覚に襲われる。それでもチヒロは歩みを止めない。
そうして、配管と配管の間を縫うようにして、ようやく二人はジェネレータ室を抜け出した。
ずしりと佇んでいた金属の扉を背中で閉めると、チヒロは全身の力が抜けたようにその場に崩れた。彼に抱えられていたアオイは、彼を下敷きにするような形になっていた。
「チヒロ……?」
アオイが声をかけるが、チヒロは反応しなかった。正確には、できなかった、というのが正しいだろう。
(力が入らない)
「ね、ねえ。チヒロってば。起き、てよ……」
残された微々たる力で、アオイはチヒロの肩を揺するが、やはり彼はぴくりとも動かない。
「嘘、嘘でしょっ……死なないでよっ、そんなの、そんなの私が許さないんだから……」
(俺だって、自分が許せない。まだ恩を、返し切れてないんだ。なのに、こんな――ところで――)
景色が霞む。
音が曇る。
意識が遠のく。
暗く、深い闇が、チヒロを覆った。
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