第2話
地図上で見るよりも、禁域付近への道のりは険しかった。コロニーに近いエリアは最低限歩きやすいように瓦礫が撤去されていたり、方角を示す看板が設置されていたりするが、コロニーから離れれば離れるほど整備の質は下がっていく。そのエリアを利用するものの少なさで言えば、禁域の近くなんて場所は下から数えて何番目に入るかというような領域だった。
「遠いだけならいいが……くそっ、足元がめちゃめちゃすぎる。こんなところまで医療品を取りに来させるのは酷だろ、あの脳筋め」
チヒロは、知人のスカベンジャーが開拓したという医療品倉庫の付近まで足を運んでいた。足元の悪さに加え、ここまでの道程は高低差も激しい。わざわざそんな土地にチヒロが足を運んだ理由は一つしかない。
「ここを越えれば、もう禁域は目の前か」
禁域。コロニーの掟によって立ち入りを禁じられた土地だ。いつから、なぜ、どのようにその領域が禁域として定められたのか、もはや誰も知る者はいない。なにせチヒロの代は勿論、その両親、祖父母の生まれた頃から禁域は不可触の土地としてそこに在ったとされている。
「……本当に行くのか?」
チヒロは自問した。
何の情報もない土地に、誰も手をつけていないだろうという理由だけで。立ち入ることを禁じられている土地に、一攫千金の夢を見ただけで。果たして本当に、その禁を冒すだけの価値が、その向こうにあるのだろうか。
「危ない橋を渡るのは――死ぬためじゃない」
小さく呟いた言葉は、彼の決意から出た言葉だった。
「どのみちこのままの暮らしじゃ限界だったんだ。ここで挑まず死んだら、悔やんだって悔やみきれるもんか」
禁域として塗りつぶされた地図の領域は、実際に近付くと巨大な樹木で構成された森林であることが分かる。大崩壊以前の建物に絡みつくようにして根付いたそれらは、構造物と互いに支え合ってかつての形状を保っているように見えた。地面いっぱいに広がっていたであろうアスファルトも、巨大な木の根によって引き裂かれ、その下に眠る地面を露わにしていた。
「こりゃすごい……こんなに状態のいい建物だらけなら、何だって見つかりそうに思えるな」
そんな風にチヒロが感嘆していると――
がさり。
草を分ける音が背後から聞こえた。
「っ……!」
コロニーの人間につけられていたのか? それとも禁域に人間が? 様々な可能性に思考を巡らせると同時、チヒロはバックパックの横に差してあった小銃を咄嗟に取り出す。
音のした方を見れば、そこには一匹の獣がいた。
――いや、それをただの獣と形容するのは難しい。おおむね野犬のような姿ではあるものの、肩甲骨から前腕にかけての筋肉は異常に発達し、そのシルエットを大きく歪めていた。更には、背骨に沿うようにしてなにか鋭利なものが並んで飛び出し、ギラリと煌めいている。エーテル結晶だ。すなわちそれは、この獣が過剰にエーテルを取り込み変容したもの――魔獣であることを意味していた。
「なるほど、あんたがここいらのボスってことか?」
言葉を解することはないであろう獣にそんな言葉を投げかけつつ、チヒロは小銃を構える。その銃は、コロニーでも普及しているエーテル熱式のライフルで、その名の通りエーテルを熱に変換、爆発的に膨張する空気を推進力として弾丸を撃ち出す機構を持っている。
獣は答える代わりに低く唸り、その巨腕でざり、と地面を踏みしめた。
両者は動かない。
互いに互いを狙っている。
チヒロはトリガーに指をかける。エーテル熱の機構は既に稼働している。装填されたエーテル結晶片が分解され、熱として蓄えられる。
獣は身を低く屈め、今にも飛びつかんと筋肉を膨張させる。
そして一陣の風が吹き、それが合図となった。
まず、銃声。
チヒロのエーテル銃が、魔獣めがけて弾丸を放つ。その軌道は確かに獣の脳天を狙っていたが、それよりも先、爆ぜるようにして魔獣はその場を飛び退いていた。
「外したか!」
肝心の機構部以外が崩壊後の技術で組み上げられたエーテル銃は、お世辞にも出来がいいものとは言えない。一方で、その弾速は普通の獣を狩るには十分なものである。
だがチヒロの目の前にいる獣は、「普通の獣」ではなかった。
飛び退いた先、魔獣はまた低く身を屈め、力を溜める。今度は様子を見ているのではない、とチヒロは瞬時に理解した。咄嗟に転がって回避行動をとる。
弾丸を回避する速度の跳躍が、刹那の前までチヒロの居た空間を引き裂いた。
「くそっ……」
再装填。彼の抱える銃は単発式で、毎回の射撃ごとに装填が必要であった。レバーを引いて古い薬莢を排出し、新たな弾丸を懐から取り出して込める。彼よりも早く正確にこの動作を終えることのできるスカベンジャーは、コロニーにも一人か二人しか居ないだろう。
そして再び構える。エーテル銃が唸り、熱を高め、そしてチヒロはトリガーを引く。
銃声。
回避直後の射撃にもかかわらず、その照準は的確に魔獣の額を狙っていた。
だが、またしても魔獣はそこにはいない。まるで殺気を感じ取るかのように、弾丸の悉くを回避しきっている。
「まさか……エーテルか」
その肉体をエーテルに侵食された魔獣は、その感覚器にまでエーテルが影響を及ぼす――チヒロはそんな話を聞いたことがあった。
エーテル銃はその仕組み上、発砲寸前まで強力にエーテルを撒き散らす。溜め込んだ熱を発散する寸前に霧散するエーテルの緩急を、魔獣は完全に知覚しているのではないかとチヒロは仮定した。
「だとしたらどうするって――言うんだ!」
このまま次の手を考えていても、魔獣がチヒロの喉笛を掻き切るのは時間の問題だろう。
ならば。とチヒロは腹を括った。
「避けられない距離まで引き付ける……」
がしゃん、とエーテル銃を深く構え、跳び回る魔獣に照準を合わせんとする。
魔獣が迫る。前脚に負けず劣らず発達した後脚が、抉るようにして大地を蹴った。魔獣が迫る。凶暴な煌めきが迸ったのは、その歯牙がエーテル化によって光を反射したからだ。魔獣が迫る。研ぎ澄まされた爪が、その凶悪なまでに隆起した前腕の力で振り下ろされる。魔獣が迫る。
「――今ッ!」
エーテル銃が嘶く。
銃口が火を噴き、くず鉄の弾頭が射出される。そしてそれは精確に魔獣の額を貫いて――魔獣は即死した。だがその巨躯の乗った慣性は、鋭く磨き上げられた爪をチヒロの肉体を深く裂いた。
「ぐッ……!」
力なく崩れた魔獣の体躯がのしかかり、チヒロを押し潰す。食い込んだ爪がもたらす痛みを堪えながら、チヒロはそれを押し退けた。
「はあ、はッ……とんでもないとこだな、ここは」
太い血管が裂けているのか、傷口からはごぼごぼと血が溢れる。チヒロは冷静に手当てを行うが、その心臓は激しく脈打ち、いましがたの戦闘の熱を未だ残していた。
がさり、がさり。
ふと、草を分ける音がいくつも聞こえる。
――まさか。
チヒロははっとして振り返る。最悪の可能性が脳裏に過り、そしてそれはその通り眼前に広がっていた。
四体。
四体の魔獣がそこに存在していた。
「……はは」
一体は先ほどまで戦っていた魔獣よりも一回り小さい。おそらく子供の個体なのだろうと推察できた。二体は、それぞれ前腕から大きくエーテル結晶が発生して、巨大な鎌のようなものを形作っていた。そして最後の一体はより大きく、全身のあちこちからエーテル結晶が生じており、鱗のようにギラギラと木漏れ日を反射していた。
「こりゃ確かに、人間の来るとこじゃない」
力ない言葉が漏れる。
――これで終わりか。
チヒロが自分の命を諦めかけた、その時だった。
木漏れ日ではない、より強い――眩いまでの光が差し込んだ。
それはある種、熱線のような密度になるまで勢いを増し、魔獣たちを散り散りにさせて追い払った。天から差す光はあまりにも神々しく、チヒロに三途の川を渡ったものと錯覚させた。
「――こんなところに、人間が。何の用かしら」
凛と通る声が響いた。チヒロの頭上からだった。声のする方を見れば、そこには彼と年頃の変わらない少女が浮かんでいた。
「……、天使?」
チヒロは力なく呟く。
彼女の頭上には、ぼんやりと青く光る輪が存在していたのだ。
「ざんねん。魔女でした」
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