【危機】 Act.9


 僕は4か月齢くらいの子猫だ。

 だから普通に歩いたり走ったりだと移動が大変。

 別に疲れたりはしないけど、時間がね。

 というわけで、神足というスキルがある。

 これは早いよ、スイスイ進む。

 使ってる間は姿消してるし。

 全然疲れないし。ありがとうフレイヤ様。

 至れり尽くせりで申し訳ないくらいです。

 でも頑張って自分で覚えたスキルだってあるんだ。

 ステルスバード、ティアマトの時にネロさんが持ってたの。

 羨ましくてあれこれ頑張ったらできるようになった。

 授けられた魔法だけじゃなく、自分でも身につけられるんだ。

 そんな僕は今日はお遣い。

 昔ステラが通ってたお菓子屋さん。代々続いてる。

 フレイヤ様の飴を買うんだ。

 わざわざキーパーさんが行かなくても、猫にもできる仕事だし。

 薄めのランドセルを背負って神足でスイスイ進んでたら、市民が集まってざわついてる。

 聞き耳を立てたら、やめろとか、早まるなとか、考え直せとか……。

 ドライな考え方で申し訳ないけど、そういうのってひっそりやろうよ?

 公衆の面前でなく、公園の片隅で吊るとか、切り立った崖から飛び降りるとか。

 片づける人の迷惑も考——えられないか。

 理由によるけど。

 たくさん集まってる人たちの後ろについて、こういう時こそステルスバード。

 高度も角度も自由だから、しっかり観察できる。

 5階建ての屋上に親子連れ。

 お母さんはまだ若い。20代後半……やつれてる。完全に思考停止してる印象。

 その腕に2才くらいの子ども。ひたすら泣き続けてる。

 いたい、しか言わない。泣き止まずにずっと。

 まさかこれ、長く続いてるの?

 どれくらい続いてるの?!

 受診は? 薬は? 無駄だったの?

 周りに集まった人たちは本気で止めてるけど、ちょっと難しいケースなんじゃないかなって感じる。

 お母さんの目はどこも見てない。虚無だ。

 これは本当に飛ぶ。

 かといって、一方的に制止するのは悪手なんだよね。またやる確率が高い。

 いったん俯瞰したら——隣の建物の屋上に人影発見。

 ——ジルだ……。

 まずいと思ったけどジルは飛び移っちゃって、何と、魔法のロープで親子を括って、括った親子を抱きかかえて地面に降りた。

 静寂、そして大喝采。

 地面に座り込んだお母さんの前にしゃがんで、ジルは言った。

「まだ若いんだから死ぬなんてダメだろ。子どもも道連れなんてよけいダメじゃん。どんな辛いことがあるか知らないけどさ、誰だって必死で頑張って生きてるんだぞ。俺だってそうさ。ガキの頃はグレ放題してたが、今は血が滲むような努力を重ねて魔術を学んでる。生きてさえいりゃ、必ずいいことがあ」

「よくも……よくも邪魔したな……」

 うつむいたままのお母さんの、低い声。

 状況がわかってないジル。

「せっかく楽になれると思ったのに……もうこんな地獄は終わりにしたかったのに!」

 そして、お母さんは顔を上げてジルを睨みつけた。

 怒りで体がブルブル震えてる。

 子どもはいたいって泣き続けてる。

「お前に何がわかる、私たち一家の地獄の何がわかる! 血の滲むような努力? 生きていればいいことがある? ——そんな希望があったら死ぬわけないでしょ!!」

 怒りのボルテージがどんどん上がっていく。

 自殺制止のセオリーを外したから。

「努力なんてまったく無駄! 生きてれば地獄がどんどん深くなる。あんたはいい服を着て学校に通って、楽しく生きてるんでしょうね——呪ってやるわ」

 静まりかえった。

 余裕でしゃがみ込んでたジルがお尻から転んだ。

「呪ってやる……それくらいの方がいいわ。ただ死ぬより楽しめる。薄っぺらいお説教垂れ流して、あたしたちの絶望に土足で入って来て踏みにじったんだもの」

 ジルは何も言えずに震えてる。

 彼の中では〝泣いて感謝されて市民の喝采を浴びてヒーローになる予定〟だった、と思うんだけど。

「絶対に許さないからな! 地獄で悪魔に魂を売って呪ってやるわ」

 凄まじい決意表明。

 この人、本気だよ。

 真正面切って呪いの言葉を食らったジルは真っ青だ。

 集まってる人たちのささやくような会話が、うっすらとしたざわめきを作ってる。

「お、俺……警察呼んでくるよ」

 ジルは膝を震わせながら立ち上がると、人をかき分けて出て行った。

 戻って来ない、に金貨100枚。

 冒険者の嗅覚ってすごいな。本当にまずいってなった時の逃げ足はすごいだろうって推理してたけど、本当だった。

 楽になり損ねたお母さん。

 あんまり衛生的じゃない——はっきりいうと汚い髪や服、荷物も何もなしで子どもだけ抱いてる謎。

 お母さんがフラフラ立ち上がってどこかに行こうとするのを、建物の持ち主のおばさんがちょっと明るく、優しい声で呼びかけた。

「あんた、お腹減ってないかい?」

 お母さんの足が、止まった。

「事情は人それぞれだ、どうしても生きられないってんならしょうがない。でもお腹が空っぽのまま死ぬのは悲しくないかい?」

 お母さん、何も言わない。

 肩越しにおばさんに目を向けてる。

 生気はほとんどないけど、さっきより少しだけましになった。

「あたしのパスタはヴァルターシティでも有名なのさ。ひと口食べたら踊り出したくなるほど美味いよ! せっかくだからお腹いっぱい食べて行きな」

「……お金が、ない……」

「献金だと思って受け取りな。ほら、テラスにおいで。誰もあんたの邪魔なんかしないからさ」

 お母さん、近くにいた女の人に促されてテラスのテーブルに着いた。

 女の人が泣き止まない子どもを預かって抱っこしてる。

 おばさんすごい。店の中に入れようとしなかった。

 たぶん警戒して入らずに逃げただろうね。

 出てきたのはトマトクリームスープみたい。とってもシンプル。

 お金がないっていうことは、何日も食べてないかもしれないってこと。

 スープから入るのは大正解。

 空腹感が麻痺してても、何か入れると一気に覚めるから。

「まかないのグラタンで悪いけど、先にこれを食べてておくれ。今最高のパスタを茹でてるからね」

 スープとグラタンと大盛りのパスタを、お母さんは見る間に平らげた。

 ロランが言ってたなあ……お腹が空いてる時に難しいことを考えると短絡的になるって。

 お母さんの隣のテーブル席におばさんが座った。

 ちゃんと逃げ道作ってあげてる。

 泣き続ける子どもが少し手を離れて、気が休まるといいな。

「あたしには飯を食わせてやることしかできないけどさ、愚痴のひとつも聞いてやれるくらいの余力はあるよ。嫌じゃなかったら全部ここで吐き出してお行きよ。理解できるかどうかは別だけどね。耳は傾けてやれる。あんた、ひとりで頑張ってきたんだろ?」

 お腹がいっぱいになると気持ちが緩むから、お母さんはぽつり、ぽつりと話し出した。

 産まれたこの子が、生まれつきずっと痛がって泣き続けてる。

 いくら調べても病気も何もない。医者も回復術士もお手上げ。

 ただ、回復術士の麻酔の魔法が効いてる間だけは痛みが治まるから、その時だけ食事が摂れる。

 どうりでやつれてるよね。

「でも、毎日麻酔魔法なんかしたら、とんでもない金がかかっただろう」

「夫は働き続けても状況が変わらないから……嫌気が差して出て行った……私はこの子がいて働けない……だから、家を売ってお金を作って、ここを目指した……どんな病でも治す魔術師がいると聞いたから」

 ええ、まあ、うん、本業は戦闘魔獣なんだけど。

「ずっとずっと、泣き続ける子を背負ってヴァルターシティを目指して——山賊にすべてを奪われてしまったの……!!」

 無一文、知人ゼロ、泣き続ける子ども……死にたくなるな、これは。

「誰か教えて、その魔術師はどこにいるの? ルイって名前だけは聞いてる。診てもらえる? 治療費はいくら? 金貨100枚? 200枚? いくらでもいい、身売りしてでも払うから、私たちを助けて!!」

 泣き崩れたお母さんに、外野から情報提供。

「それ、ヴァルターシュタイン家の黒猫だわ」

「シティに治療できるルイなんか、あいつしかいねえよな」

「治療費は診断が銀貨3枚、治療は簡単なのは銀貨2枚、ちょっと面倒だと銀貨5枚」

 そうさ。僕はぼったくったことなんて一度もない。

 え? っていう顔して、お母さんは周りにいる人たちを見た。

「ヴァルターシュタイン家の黒猫。やたら賢い猫だぞ」

「あいつって絶対人間の話わかってるよな。挙動がそう」

「コールサルトだからなあ。200年くらい生きてんだって?」

「大魔術師のバディだったから、それくらいだろ」

「そうそう、相手は猫だからハムやチーズでも払えるぜ。干し肉でもいける」

「おろしチーズの皮が好物だ、あんなんチーズ屋に行けばタダでもらえる」

「とはいっても無一文じゃあ話にならん」

 って言ったおじさんが、被ってた帽子を脱いでひっくり返した。

「小銭でいいから出せ。天主様のみ恵みがあるぞ」

 飲みに行こうとしてたお兄さんが銀貨3枚。

 昨夜博打に買った人が金貨5枚。

 子どもがポケットに手を入れて銅貨3枚。

 そんな感じで、おじさんの帽子は徐々に重くなる。

 少しは落ち着いたかな、お母さん。

 ステルスバードをやめて、人の足の間を縫ってレストランに足を向けた。

「お。噂をすりゃあ即参上か」

「お遣いの途中だろ、カバン背負ってる」

「ほんと賢いよなあ、誰が困ってんのかすぐ見抜く」

「コールサルトは伊達じゃねえか」

「あいつ、もしかしてしゃべるんじゃねえ?」

 しゃべります。

 テラス席に行くと、おばさんがテーブルにタオルを置いて、僕を乗せてくれた。

 女の人が抱っこしてる子どもに軽く触れてみた。

 ——これ、僕は初めて診たな。先天的だと思うけど、脳にほんの少し問題がある。

 痛覚神経が異常に過敏なんだと思う。

 だから抱っこされても寝かされても痛いんだ。

 前足を伸ばして、頭を招く仕草をしたら、僕に子どもの頭を向けてくれた。

 大丈夫だよ、すぐに楽にしてあげる。

 10秒くらいで、子どもは泣き止んだ。

 なかなか食べられなかったせいで、栄養状態がひどい。

 きっと大きくは育たないと思う。

 でもね、頑張った君には必ず天主様が祝福をくださるから大丈夫。

 さてと、飴を買いに行かなくちゃ。

 フレイヤ様へのお供えなんだけど、レスタがお下がりの飴が大好きで全部食べちゃう。

 テラスを降りて歩き出したら、何人かが追いかけてきた。

「ルイ! 治療費、治療費!」

「いや、俺が出すって!」

「俺が払うって、銀貨8枚!」

 別にいいよ……っていうか、ジルの茶番に巻き込んじゃってごめん、お母さん。

 治療費なんて受け取れません……。

 お菓子屋さんに行くと、もうわかってるから、飴を袋に入れてバッグに入れてくれる。

 ポケットに銀貨が2枚入ってるから、お菓子屋さんがそれを取ると——。

「俺が払う、飴代!」

「いやいやここは俺にもたせろ!」

 お菓子屋さんは事情がわからなくて戸惑ってるけど、僕はまっすぐ帰るね。

 僕が飴を買ってる間に、仕事や借間が決まってるみたい。

 いつの時代も、人を救うのは人の輪だ。

 ひとりでは支えきれなくても、たくさんの手が少しずつ支えれば、こんなふうに助けることもできる。

 こんなに簡単なことなのに、あの子には理解できないんだろうな。

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