第3話


 王宮の朝は早い。


 侍従以下、小間使いの者たちは日が昇る少し前に起きだし、炊き出しの用意や、王宮の主である皇帝の目覚めに向けた準備をする。


 皇帝の衣、髪を整えるための櫛、顔を洗うための水盆などの用意を一通り整え、いよいよ侍従長が、皇帝が眠る寝室の隣に控える。普段ならすべては紫霄宮にある皇帝の居室の隣にそれらは準備されるが、皇帝が妃――香家の令嬢・藍玉と一夜と共にした今朝は、皇帝がどこで身支度を整えたいかわからないため、様子見だ。


 そうして侍従長が待つことしばらくして、目の前の襖戸が開いた。


 起き抜けだというのに、皇帝は今朝も一分の隙もなく美しい。几帳面な彼らしく、寝衣に乱れはなく、髪も軽く梳かしてある。にもかかわらず、どこか気まずげな顔をする若き皇帝に、侍従長は恭しく頭を下げる。


「おはようございます、陛下。今朝も良きお目覚めで……」


「紫霄宮に戻る。支度はそちらで行う」


「仰せのままに」


 上に外套を羽織っただけの簡易な装いで、紅焔は足早に歩く。その後ろを付き従う侍従長は、声には出さずともソワソワしていた。


(陛下は、本当に春陽宮で過ごされたのだな)


 昨晩は、ありていに言うならば、妃との初夜だった。これまで妃がいなかっただけに、侍従長としても、紅焔が初夜を迎えるのは大変喜ばしいことだ。


 なのに紅焔は、張り切る侍従たちを「妃と床にはいりはしない。すぐに紫霄宮に戻るゆえ、そのつもりで待て」と制し、侍従長も大層がっかりした。


 しかし「すぐに戻る」といって春陽宮に入っていった紅焔は、なかなか出てこなかった。それどころか、半刻ほど経ってようやく出てきたかと思えば、「今夜は春陽宮に泊まる」と言うものだから、仰天した。


(これはようやく、陛下にも春がきたということか……!)


 背高の後ろ姿を追いかけながら、侍従長はつい頬が緩んでしまう。なにせ紅焔は、他人を寄せ付けない皇帝として有名なのだ。実の兄があんなこと・・・・・になってしまったのだから無理がないといえばそうなのだが、それにしても著しく他人を遠ざける節がある。


 皇帝と妃が初夜を迎えたかどうかも、いずれ春陽宮の侍女たちにより明らかになるだろうが、もはやどうでもいい。肝心なのは、あの人嫌い・女嫌いの皇帝が、一晩を誰かと過ごしたということだ!


 ……なんてことを、己の侍従長が考えているだろうことは、わざわざ振り返らずとも紅焔にはお見通しであった。


(くそ、侍従長め。俺が春陽宮で過ごしたことで、明らかに喜んでいるな)


 春陽宮には泊まらないと昨夜豪語していただけに、きまり悪さもひとしおだ。うしろでホクホクと侍従長が喜んでいるのを感じつつ、紅焔は小さく舌打ちをした。


 そもそも、だ。紅焔は本当に、春陽宮に泊まるつもりはなかった。


 それが、昨晩「じゃあ、そういうことで……」と紅焔が部屋を出て行こうとしたら、藍玉に止められたのだ。


“紫霄宮に戻るのはおすすめしません。さっきの怨霊が、戻ってくるかもしれませんから”


“えっ”


“怨霊を祓うには、色々と相手のことを知る必要があるのです。さっきは少々、陽の気をぶつけて脅かし、追い払ったにすぎません。今夜は気が立っていたようですし、ひとりで眠るのは危険ですよ”


(あんなことを言われて、部屋に戻れる奴があるか!)


 襖を血で真っ赤に染めあげ、本能的に死を感じさせるほど怨念をまき散らし、暴れまわるような怨霊だ。……襖自体は藍玉が怨霊を追い払った途端元に戻りはしたが、恐ろしいのには変わらない。あんなものが戻ってくるかもと考えたら、外になど出られるか!


(というか、本当に何者だ? あの娘は……)


 香藍玉。大貴族・香家の箱入り娘であり、天女のように美しく聡明で、皇帝の妃にふさわしい完璧な令嬢である。そんな高い評判は紅焔の元にも届いていたが、後宮入りする直前まで香家が治める北部の町に身を置いていたため、直接に言葉を交わしたことはなかった。


“なんだ、さっきの術は。君は、巫術師ふじゅつしの心得でもあるのか!?”


 昨晩、思わず素を出して詰め寄った紅焔に、藍玉は焦るでもなく首を傾げた。


“巫術……、まあ、似たようなものですね。似て非なるとも言えますけれど。とりあえず、あやしい術ではないので、大丈夫ですよ”


“あやしくない者が、自分からそんなことを言うか! どこでその術を学んだ? 香家は確かに古い家だが、術師の類とは関係がないだろう!”


“うまくお伝えできるかどうか……。ちょっと説明しきれる気がしないので詳細は省きますが、まあ、あやしい相手ではありませんよ”


“だから、あやしくない奴に対する表現じゃないぞ、それは!”


 そのあとも、答えになっていないような答えをノラクラと繰り出したあげく、「私が寝不足だと、部屋の結界が弱まるかもしれませんよ」と藍玉に言われ、渋々紅焔は床に入った。というか、結界ってなんだ。それも聞きたかった!


(まったく。嫌々、妃を一人迎え入れてみたら、さっそく謎ばかりだ!)


 朝の身支度や朝食を終え、政務室に移った紅焔は、侍従たちに整えてもらった髪を早速かき乱しながら、イライラと机を指先で叩いた。


 なんにせよ、藍玉がただの『箱入り娘』などではないことはわかった。


だが、彼女のあの奇妙な術のことは、香家も知っているのだろうか。特に、藍玉の叔父であり、丞相を勤める香俊然しゅうれんなどは、皇帝の妃に自分の親族を送り込むなら、もっと無難な・・・娘を選びそうなものだ。


(……もしや、丞相すらも、あの娘が術を使うことは知らないのか……?)


 昨晩は隠すことなく怨霊を追い払ってみせた藍玉だが、そんな力を持つ娘がいるというのは聞いたことがない。藍玉の名が出回るかは別にしても、外であの力を一度でも揮えば、ものすごい勢いで噂が広まるはずだ。


(身内にすら隠れて、藍玉はあの技を磨いた……。だが、そうなると、本格的に彼女は、どこで、誰からあの技を身に着けたんだ?)


 丞相である香俊然すら知らない秘密となると、表だって動くわけにはいかない。藍玉の謎を解くには、かなり骨が折れそうだ。

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