第2話
「……は?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
ちょうど目の前、視線の高さほどの場所に、手形がくっきりと浮かび上がっている。それも血まみれだ。絵にかいたような血まみれだ。
しかし、なぜこんなところに手形あるのだろうか? 否、誰がこんなものを付けたのか? もう一枚戸を挟んだ向こうには侍従たちが控えているはずだが、外で騒ぎが起きたような気配はなかった。
そもそも、本当に襖の向こうに誰かいるのか? 戦地を数年駆け巡ってきた自分が、人の気配に気づかないわけがないのに……
紅焔が呆けていると、再び勢いよく音を立てて、大きな手形が襖に浮かんだ。
「ひ……ひい!?」
「おさがりください、陛下。
驚きのあまり腰を抜かしてしまった紅焔に、静かな声が降ってくる。見れば、藍玉が蒼の衣をすらして、前に進み出るところだった。
四つの手形は、襖全てを赤黒く染め上げようとするかのように、だらだらと血を垂れ流してる。おまけに、悲鳴とも雄叫びともつかぬ奇声をあげながら、ナニかが襖戸をガタガタと揺らしている。
この世は呪いに満ちている。ここに来るまでになんとなしに考えていた言葉が、再び紅焔の頭の中を駆け巡る。
平然と襖戸に近寄ろうとする藍玉に、紅焔は慌てた。
「よ、よせ! おそらく呪いだ。死者の霊か、生霊か。とにかく、何かが私たちを襲おうとしている!」
けれども妃は、美しい顔を少しも変えることなく、淡々と頷いた。
「ご明察です、陛下。しかし、そう怯える必要はありません」
紅焔が止める間もなかった。戸に手を掛けた藍玉は、勢いよく両方の戸をあけ放つ。途端、激しく蠢き立ち昇る赤黒い何かが、視界一杯に飛び込んできた。
(なん、だ。これは……)
ソレは、この世の悪意という悪意を煮詰めて立ち昇らせたものであるかのように重く、禍々しい。明確な敵意を持って暴れまわってはいるが、藍玉の目と鼻の先にある透明な何かに阻まれて、それ以上二人に近づけずにいるらしい。
唖然とする紅焔をよそに、藍玉は回廊から流れ込む邪気に一歩も引くことなく、蠢くナニカにむけて低く拳を構えた。
「『血染めの夜叉王』なんて、物騒な二つ名を持つ夫です。なにかよからぬものを連れてくるのは目に見えていました。そこまでわかっているのに、結界の一つや二つ、部屋に張っていないわけないじゃありませんか」
「…………けっ、かい………?」
「加えて、私をみくびらないことです。夜道で襲われたならともかく、丁寧に陣を敷いて、わざわざ霊が出てくるのを待っていたのです。ここまで好条件がそろって、この私が負けるわけないではありませんか」
「出てくるのを、待って……?」
地面に座る込む紅焔の視線の先で、白く輝く円陣が空中に浮かび上がる。びっしりと文字が躍る円陣に照らされて、藍玉はきらりと瞳を輝かせた。
「――ごきげんよう、誰かの怨霊さん。今夜は諦めて、出直してください」
藍玉が振りかぶり、小さな拳に指輪の宝石がきらりと輝く。勢いそのまま、藍玉が円陣越しに拳を叩きこむ。すると赤黒い渦が震え、直後、空気に衝撃が走った。その中でソレは、耳を塞ぎたくなるようなおどろおどろしい悲鳴をあげた。
『ギ……ギエエエエエエエエエエーーーーーッッッ!!』
(え………ええええーーーーー!)
輝く粒子になって霧散していくソレを、紅焔は呆然と見上げる。
いま、目の前で何が起きたのだろうか。よくわからない化け物が現れて。それに自分は襲われそうになって。それを、今日初めて会う美しい妃が、表情ひとつ変えずに消しとばした。
(意味がわからん!)
頭の先から足の先まで事態がさっぱり呑み込まず、紅焔は固まったままドン引きする。そんな夫をよそに、藍玉は手首をさすりながらこちらを向いた。
「先ほど、私を愛するつもりはないとおっしゃりましたね」
「あ、ハイ」
言わなきゃよかったと、猫に追い詰められたネズミの心地で、紅焔は頷く。
拳ひとつであんなものを消し飛ばした娘が、ただの娘のわけがない。澄んだ水晶のような大きな瞳にまっすぐに見つめられて、紅焔はダラダラと冷や汗を流した。
「……っ、すみません。少し位が高いからと、舐めた口を聞きまして……」
「かまいません。ある意味、好都合です」
「は?」
予想外の返しに、紅焔は瞬きをして妃を見上げる。すると藍玉は、紅焔に向き直った。
「ただし、二つ条件があります。――ひとつは、私が望まない限り、私をこの王宮から追い出さないこと。そしてもうひとつは、この王宮や都に怨霊や呪いの影があれば、私に調べさせてください」
「怨霊や……呪い……?」
「契約に基づき、それらを私が祓ってしんぜましょう。陛下にとっても、悪いお話ではないはずです」
そう言って藍玉は、今宵初めての美しい微笑みを、窓から差す月明かりの下に浮かべた。
「契約成立ですね。末永くよろしくお願いします、旦那さま」
柔らかく微笑んだ藍玉は、年相応に愛らしい。最初の頃の妙に大人びた雰囲気とも、悪霊と対峙していた時の姿ともまるで違う。
だが、断言しよう。あんなものを祓っておいて、彼女がただの娘であるわけがない。
「え…………、えええ……………?」
困惑する紅焔は、呆然とそう繰り返すことしかできなかった。
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