第12話 神社石切剱箭神社と枚岡神社

総崩れの天照族は、草香津まで撤退し盾を立て陣容を整えた。これは、盾津の地名の起源である。後に五瀬命は、雄叫びをあげて亡くなった。記・紀はこの孔舎衛坂の戦いをさらりと書いているが、本当は天照族の完敗だったのだろう。神武の兄で武将といういじょう、五瀬命という人物は将軍かそれに近い武将にちがいない。

しかも彼は、おだやかな死にかたでない。一族の命運を悲観した絶望の雄叫びをあげている。神武は

「私は日神の子孫なのだから、日に向かって敵を討つのは天の道に反していたのだ」

といったと伝えられているが、それはすなわち降伏、恭順したことを暗示させる。というのは天照族は後に大きく迂回して、熊野からヤマトに入ったとされている。

しかしこのルートは、山深く軍隊が進むのは普通しない難路である。こんな道を天照族が通ってきたはずはない。この話はデッチあげで、これほど困難な道のりであったと示唆しているのだ。

しかも、兵士だけでなく家族連れで行軍していたのだ。こんな道を天照族が行軍したとは考えられない。長髄彦も、物部氏の義父でなく物部氏一族だった可能性は高い。

孔舎衛坂の近くの生駒山の中腹、古戦場が見下ろせる場所に物部氏のゆかりの神社石切剱箭神社がある。ここは、物部氏の天磐船ゆかりの場所といわれているが、物部氏の本貫地や天磐船降臨伝承場所にも遠く元からの拠点でもない。おそらく、天照族と戦い勝利した地点を見下ろせる場所に戦勝記念を造ったのだろう。同じく中臣氏も近くの丘に枚岡神社を造っている。

枚岡神社の本殿は、西向きである。神社の本殿の向きが陽が沈む西向きなのは通常あり得ない。枚岡神社の本殿が西向きなのは、古戦場の向きに建てたからだ。

物部系の古文書、先代旧字本記には中臣氏も実は物部同様、ヤマトにやってきた移民と記録している。

物部氏や中臣氏は、天照族より早く難民としてヤマトに入植していた。

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