第10話 朝鮮人の難民キャンプ
その難民を集めて管理する場所が、ヤマトだった。そしてヤマトの難民が、不満や不信感で集団暴動や反乱を起こさないようにわざと鉄を与えなかった。こうしてヤマトには、村単位の難民が押し寄せて集まってきた。
場所は東日本から西日本への流入口の初瀬付近で、奈良盆地に入ってすぐの地点だった。彼らは連と呼ばれ、地元民とは区別して住まわされた。物部連は、天磐船に乗って空からヤマトに入植したとされている。元の住所は伝えられていないので、どこから来たのかわからない。
しかし、丹後の駕籠神社が物部氏ゆかりの神社で神宝もあることから北陸か山陰からきた可能性は高い。それに対して中臣連は、白い鹿に乗って鹿島からやってきたという言い伝えがあることから茨城県方面からと推定される。巻向遺跡は、難民たちの痕跡である。それまで何もなかった巻向に「忽然」と姿を現し東西二キロ、南北一・五キロののちの時代の平城京といった宮城の大きさで、さらに濃厚の痕跡がないことから大きな国が出現したといわれている。
しかしこれは、難民キャンプであったのだ。難民の住む場所の確保や監視、管理が主な目的で、難民の不満による暴動を恐れたヤマトの元住民が、西日本の各国にたのんで建設したもらったのだ。それため巻向遺跡には、日本各国の土器が見つかっている。
しかし、圧倒的に多く半数近くは東海地方の土器である。これは東海地方が難民対策に最も協力的で、難民としても移り住んだものもいたのかの証拠である。
この時代はまだ食糧事情はまだ貧しく、自給自足が原則だった。王など一部の重臣、巫女などのごく限られた人間以外は穀物や山菜を刈り、また魚を釣ったり畜産や猪などの獸を狩るなど何らかの食料を得て、それで生活していた。
兵士も基本、農民が徴兵された人たちでお金が流通するのも奈良時代以降である。
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