第3話
「リリィちゃん、お先〜!」
「お疲れ様でした」
笑顔で退勤するベリアに挨拶をして、リリィは自分のデスクで伸びをしてからふう〜と静かに深呼吸した。研究課の第一部門は既に静かで他の部門の職員もいつの間にかいなくなり、リリィのいるフロアにはリリィ一人しかいない。
リリィが研究課第一部門に異動して来て二週間が経った。研究課の人間の中では魔法に強くないリリィだが総務課出身のリリィはデータ収集やそのまとめ、片付けなどは誰よりも速く上手で、第一部門内では重宝されていた。
突然総務課から異動になった時は不思議に思っていたが、今思うとこのために異動させられたのではないかと思うほどだ。
「リリィちゃんが来てくれて助かったよ、片付けとかデータのまとめとかここの人間みんな苦手でさ」
「むしろ私は得意分野です、任せてください」
そんな会話がいつも繰り広げられている。
(ここの人たちって本当に色々と気にしないというか……データのまとめも全然しないし。むしろよくあんなに物が散乱状態で仕事できてたなって思うけど)
そんなこんなでリリィは今日も仕事を任され、なかなか帰ることが出来なかった。
「はぁ〜なんとかこれは終わったけど、こっちの仕事も今日中に片付けておかないとな」
リリィがデスクに積み重なった書類の一枚をペラリと手に取ると、ドアの開く音がした。
「あれ?まだいたの」
「お疲れ様です。ユリスさんもまだ帰ってなかったんですか?」
第一部門の人間は既にみんな帰ったものだと思っていたのでリリィは少し驚く。
「外出して戻ってきたとこ。あんたは何してるの」
「なるほど、お疲れ様でした。私は部門長に頼まれた仕事が残ってて。急ぎだそうなので今日中にやっつけてしまおうと思って」
「あの人、新人にも容赦ないもんな。まぁ仕事の早いあんたに任せたくなる気持ちもわかる。よし、俺も手伝うよ」
そう言ってユリスはリリィの隣に座り、書類の山に手を伸ばした。
(真顔だしぶっきらぼうだけど優しいんだな。前だって倒れそうになるのを助けてくれたし……)
ふとその時のユリスの腕の感触を思い出して思わず顔が熱くなる。
(ってダメダメ、こんなイケメンと関わっても絶対いいことない!そもそも私はもう男は懲り懲りなんだから)
ブンブンと首を振って目の前の仕事に集中するリリィを、ユリスは真顔で見つめていた。
どのくらい時間が経っただろうか。リリィの仕事はもう一息で終わりそうだ。だがどうしてもわからない点が一箇所あって、そこから先に進めない。
(ユリスさんに聞くしかないか。今聞いても大丈夫かな?)
ちらっと横目でユリスを見ると、リリィの視線に気づいたユリスと目が合う。
「どうかした?」
「あ、あの、今大丈夫ですか?」
「うん、こっちはもう終わったからいいよ。何か質問?」
ユリスは相変わらず真顔だが優しく聞き返してくれた。
(こんなに優しいのに、本当に女嫌いで他の女性とは話をしないのかな?)
不思議になりつつもリリィはそのままユリスに話しかける。
「あの、一箇所わからない所がありまして……」
「うん?どこ?」
「えっと、ここの……」
説明しようとして、自分の背後が暗くなったことに気がついた。ふと顔を上げると、自分の顔のすぐ横にユリスの顔がある。どうやらユリスはリリィの背後にいて、ユリスの片手はデスクに置かれ少しリリィに覆いかぶさるような状態になっている。
(こ、この状況は一体!?)
パニックになりながらもリリィは必死にわからないところをユリスに説明した。その間も、ユリスは変わらず真顔でふむふむと頷き、手元の書類と目の前のウィンドウを見て考えている。
(ちちちち近い!近すぎ!)
「あぁ、これは上級魔法だからこっちのカテゴリーなんだよね……」
そう言ってユリスはリリィに少し覆いかぶさる状態でそのままウィンドウを操作する。ユリスの顔がすぐ真横にあり、ウィンドウを操作する手がたまにリリィの体に触れたりするたびにリリィの心臓は跳ね上がるようだ。
「よし、これで終わり。俺の方ももう終わったから一緒に帰ろうか」
そう言ってユリスはリリィから離れた。背後が急に涼しくなるがリリィの体はまだ熱い。なんなら冷や汗も出ていて汗臭くないだろうか?なんて思ってしまうくらいだ。
「あ、あの……」
「ん?まだ何か聞きたいことある?」
真顔でこちらを向くユリスに、リリィは意を決して口を開いた。
「ユ、ユリスさんは女嫌いなんですよね?女性に触れることは愚か、近づくことも必要以上に話すこともないってお聞きしました。で、でも、それならなんでこんなに近いんですか?」
リリィの問いかけに、ユリスは変わらず真顔のままで首を傾げる。
「あぁ、うん、なんでだろうね」
ユリスの返答にリリィは拍子抜けする。だが、ユリスは静かにリリィを見つめたまま話を続けた。
「俺、女に近づいたり触れたりするとものすごい頭痛と吐き気がするんだ。だからいつも最低限の関わりしか持たないようにしてる。でも、なんでかあんたには近寄っても触れても何も起こらない」
そう言ってユリスはリリィの手をとって握る。
「なんでだろうね?」
そう言って静かに、ほんの少しだけフッと笑った。それを見たリリィは全身の血が一気に駆け巡るのを感じる。
(うわぁぁ、これは、や、やばい。この人自分がすごいイケメンて自覚してるのかな?してなかったらすごい罪深い……)
真っ赤になっているリリィを見てユリスはまた少しだけ微笑むと、すぐ真顔に戻って帰り支度を始めた。
「仕事も無事に終わったし、帰ろっか」
◇◆◇
リリィはユリスと一緒に研究棟を出て寮へ向かっていた。研究棟から寮へは歩いて行ける距離で移動魔法を使うほどのものではない。
特にこれと言って会話することもなく、無言のまま寮につきそれぞれ自室の前に着いた。リリィの隣の部屋がユリスの部屋であり、ユリスはリリィが魔法で部屋の鍵を開けるのを見届けている。
「どうも、お疲れ様でした」
「うん、また明日」
そう挨拶をしてリリィが部屋の扉を開け中に入ろうとして、すぐに足が止まった。リリィの様子に隣のドアの前で鍵を開けようとしたユリスが疑問に思い声をかける。
「どうした?」
「あ、あの、部屋が……」
リリィの怯えたような声と表情を見て、ユリスはすぐにリリィのそばに駆けつけドアを開けた。するとそこには部屋の中が見るも無惨に散乱している光景があった。何かを物色したように物があちこちにばら撒かれ、棚なども倒されている。
「これは……」
「どう、して……鍵を、ちゃんと、かけていたのに」
怯えながら呟き後退りをするリリィの背中に手を回し、ユリスはリリィをしっかりと支えた。
「警備課に連絡を。その前にあんたは俺の部屋に来い。犯人がまだ近くにいるかもしれない。っと、まずは現状維持だな」
そう言ってユリスは片手を部屋の前にかざした。
「
ユリスの詠唱と共にリリィの部屋全体が透明な膜に覆われ、リリィの部屋の時間だけが止まった。
「よし、とりあえず俺の部屋にいこう」
ユリスの部屋に入ってからユリスはすぐに警備課に連絡をし、その後念のため部門長のエデンにも連絡を入れた。その間、リリィはずっと怯えた様子でガタガタと震えている。
(あんな光景を見たんじゃ、平静でいられるわけがないか)
各所に連絡を終えたユリスは、椅子に座らせておいたリリィの目の前にカップを差し出した。
「ハーブティーだ。落ち着く」
湯気の出ているカップを受け取ると、リリィはその香りにホウッとため息をつく。
(いい匂い……)
リリィがハーブティーを飲んで少し落ち着いたのを見計い、ユリスは声をかけた。
「あんた、犯人に心当たりは?」
ユリスの質問にリリィは首を横に振る。カップを持つ手がまだかすかに震えているのを見て、ユリスの顔は厳しくなった。顎に手を当てて少し悩むような仕草を見せてからユリスは言った。
「とりあえず今日は俺の部屋に泊まるといいよ。明日以降のことはまだわかんないけど、明日以降も行くあてがなかったらここにいればいい」
「……はいっ?」
ユリスの提案にリリィは思わず素っ頓狂な声を上げる。リリィはまじまじとユリスの顔を見つめるが、ユリスはいたって真面目そのものな顔をしていた。
「いえ、あの、でも……」
「ベリアは寮に住んでない、近くに部屋を借りて彼氏と一緒に住んでるらしい。そんなところに邪魔するわけにもいかないだろ」
(た、確かに。てゆーかベリアさん彼氏いたんだ)
第一部門内で女性同僚のベリアを頼れないとなると総務課時代に仲が良かった元同僚を頼ることになるが、あまりにも時間が遅すぎる。しかも総務課の寮は研究課からかなり離れた場所にあり、他の課の人間を泊める場合手続きが必要になる。
(こんな時間に行ったら絶対迷惑だよね……)
カップ内のハーブティーに映る疲れ果てた自分の顔を眺めながら悩むが、解決策が見つからない。静かにユリスの顔を見上げると、ユリスは相変わらず真顔でリリィを見つめていた。
「ここには使ってない部屋が一つある、あんたはそこを使えばいい。前にも言った通り、俺は女が嫌いだ。あんたには近寄ったり触れたりしても頭痛や吐き気がしないけど、でも別にそっちの欲はわかない。歓迎会の日に実証済みだから安心していいよ」
確かに歓迎会の日、ユリスには一切手を出されていなかった。むしろ本当に興味がないかのような態度を取られていたし、ユリスの言うことは間違っていない。
(ここはユリスさんに頼るしかないのかな……)
リリィは静かに深呼吸してカップを両手で強く握った。
「……あの、ご迷惑でなければ、お願いします」
「うん、俺もその方が安心する」
こうしてリリィはユリスの部屋に厄介になることになってしまった。
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