第4話 生命維持装置
だから、このような
「悪魔の所業」
と言われるような猟奇的、そして耽美な犯罪というのは、
「基本的に、隠すものではなく、まわりに見せつけるものだ」
と言えるだろう。
そうなると、一種の、
「露出的趣味」
という変質的な性格も、耽美主義にかかわっているということになる。
つまり、
「耽美主義というのは、これでもかとばかりに、まわりに見せつけるべき犯罪なのではないだろうか?」
といっても過言ではないだろう。
「血と肉によって、その美を表す」
ということをテーマにした、それこそ、
「犯罪美術館」
を、犯人は演出しているのだ。
「金を取って見てもらってもいいくらいに美しく仕上がった芸術作品。そこには、花が飾られていて、花の美しさが、美を促している」
といってもいいだろう。
「人はどうせ、俺を悪魔と呼ぶだろうが、悪魔よりもひどいことをしているやつは、もっとたくさんいるじゃないか」
ということを考えていた。
というのも、
「美を追求せずに、女の身体を欲望だけで蹂躙しようとすると、女を汚すことになり、結果その女が凌辱に耐えられなくなり、自らで命を断つようなことになるのであれば、まだ、自分の手で、美として飾られた芸術作品として、飾ってあげることが、本人にとっても、喜ばしいことだ」
と考えているのかも知れない。
「キレイなものは、キレイに飾れる時に、飾ってあげた方が、美しいのだ」
という考えから、
「犯罪者の美学と、その正当性は認められるべきだ」
と考えるのは、許されないことなのだろうか?
もっとも、これは小説の世界である。
どこまでが認められるものなのか、どこからがアウトなのかというのは、微妙であり、誰が判断できるのかというのは、分からない。
だとすれば、書いた本人が、
「正当性がある」
と思っているのであれば、それが正義だといってもいいだろう。
もちろん、法律でもモラルの上でも、それなりの境界線はあるのだろうが、それを決めるのは、ある意味読者であって、読者から非難を浴びれば、それは、
「悪書なのかも知れない」
ということで、あらためて、吟味されるべきものなのだろう。
「絶対に、いい悪いという判断を決めるのは、神でしかなく、神の存在のないところであれば、神に近いところ。小説界であれば、読者ということになるだろう」
とこの作家は思っていた。
だから、編集者の人間にも、耽美主義に対して、
「読者から一定数のクレームがあれば考えよう」
という話をしていたのだ。
みゆきは。ベッドの上のナイフを見た時、その作家のことを思い出していた。
「あの作家なら、このシチュエーションを何と解くだろうな?」
と考えていた。
「ベッドの上に、無造作に置かれたナイフ」
とその状況を、声にならない声で表現してみた。
無造作ということであるが、この場合は、どのように置かれていたとしても、
「無造作」
という言い方しかできないだろう。
ナイフの光が眼を刺している。
その眩しさから、
「目が慣れてきた」
と思っていたが、どうやらそうでもないようだ。
と、思った瞬間、
「耽美主義が頭をよぎった」
と、順序だてて考えることができる。
ということは、
「もし、まったく違う環境で、まったく違うシチュエーションでのナイフの出現があったとしても、同じ感覚になるのではないか?」
と感じたのだった。
「耽美主義」
というものは、ある意味、
「唯物的な発想」
なのかも知れない。
何においても、
「美というものが、最優先」
ということは、
「美至上主義」
といってもいいだろう。
「美学」
という言葉があるが、こちらは、表に出た美しさではなく、人間の内面にある、
「美に対しての考え方」
である。
犯人が、
「耽美主義」
としても、美を追求し、最優先とするその考え方自体が、耽美主義であり、
「美学だ」
と言えるのではないだろうか?
「美学」
であったり、
「美徳」
というのは、人間が内面にしまいこんでいるもので、普通であれば、
「いざという時に表に出すものだ」
というのだろうが、
「耽美主義」
を唱える人間は、そのすべてを、内に籠めるというわけではなく、むしろ、表に出すことで、
「耽美主義のすばらしさ」
を表に出すものとしての考えを持っているのではないだろうか?
だから、
「目の前に放置されたナイフも何かの意味があって、そこに放置されているわけなのだろうが、耽美主義に結びつけるのは、あくまでもみゆきの性格によるものだ」
と考えると、今度は、
「この状況を最初に発見したのが、私だということに、何か大きな意味が含まれているのではないだろうか?
と感じるのだった。
「邪悪の暗黒の星」
というのが、
「光を発しないことで、邪悪だ」
ということであるから、逆に光を放ち目だとうとするこの状況は決して、邪悪なものでなく、それどころかむしろ、
「美の追求だ」
と思うと、
「それこそが、耽美主義のモットーであり、定義、そして、モラルなのではないだろうか?」
ということになるのではないだろうか?
必要以上な、
「美の追求」
は耽美主義ではないのだろうが、考え方という意味では、目立つことは悪いことではないと思うのだった。
そんな耽美杉を頭の中で描いていると、
「そういえば、兄と耽美主義についての話をしたことがあった」
というのを思い出した。
そもそも、
「耽美主義というものを、二人とも否定的というわけではかった」
ということが大前提である。
最初から嫌いだったら、話になるわけはない。大筋では認めているくせに、お互いに、どこかに境界線と持っていて、その微妙な違いによって、
「人は、賛否を考えるのだ」
ということを考えるようになったのだった。
耽美主義というのは、基本的に芸術一般に言えることである。小説のように、表現を言葉でしか伝えられないというものよりも、絵画であったり、写真などの写実的なものの方が、形にしやすいものだが、逆に、限界があることだろう。
しかし、小説のように、漠然としていて、表現一つで、人それぞれの想像から、同じものを見ても、感じ方が違ったりする。
絵画や、写真などでも、
「トリックアート」
のように、
「見え方によって、違った世界を映し出すものは、誰もが一度は完成させてみたい芸術の一つなのではないだろうか?」
と感じるのだった。
そういう意味で、その時の兄との話は、あくまでも、
「小説の世界での、耽美主義」
という話であった。
しかも、もっといえば、最初に話し始めたのは、その、
「耽美主義を得意とする小説家の話」
ということで、例の。
「暗黒の星」
というテーマを書いた小説家が、中心の話だったのだ。
その作家の話をしているうちに、耽美主義の話になってきたのであって、
「耽美主義における、美ってどういうものなのかしらね?」
と最初に言い出したのは、みゆきだったのだ。
「耽美主義って、とにかく優先順位が何においても、美の追求ということだよね?」
と兄がいうので、
「ええ、そうね。そもそも、その美というものが何を意味するのかって思うのよ」
とみゆきがいうと、
「じゃあ、逆にあの作家の書く作品には、悪魔という言葉がタイトルに出てくる作品がやけに多いでしょう? 俺は、その作品における悪魔というものを考えた時、誰が悪魔なんだろうって、思って読むんだよ。すると、たいていの場合、間違いないその作品の中で出てくる悪魔というのは、本当の悪魔なんじゃないかって思いながら読むんだよ」
というではないか。
「それは、どういうこと?」
と聞くと、
「作品の中の悪魔って、シチュエーションの中で考えられるべき悪魔が必ずいるんだよね。逆にいえば、悪魔のような人間がいなければ、小説を読んでいても、何が面白いのかというのは分からない気がするんだよね」
と兄は言った。
「うんうん、それは分かるわ。確かに私も悪魔というものを探しながら読んでいる気がするの。で、言われる通り、その悪魔が誰なのかというのも、分かる気がするのよ。ある意味、そんなに難しくはなくね。だからいつも、面白いって思って読むんだけど、お兄ちゃんは、もっと他に感じることってあるの?」
と聞くと、
「うん、あるんだ。俺はその中で、共通点のようなものを探すんだよ。同じ作家が大筋のストーリーは違っても、悪魔という一つの言葉の意味を持つ人を書いているわけだから、それなりの共通点があると思うんだよ。僕はいつもその共通点を探すことにしているんだ」
という。
「それは分かったの?」
と聞くと、
「うん、分かったよ。4作品も読めば大体分かってくる。あの人の数ある作品の中で、悪魔とつく作品は、10作品くらいあるだろう。そこからパターンが分かってしまうと、読み始めで、大体ストーリー展開も分かってくるような気がするんだ」
という。
「すごいわね。私はそんなところまで考えたことはないわ。せめて、悪魔の正体がどういうものなのかということだけしか考えたことはなかったわ」
とみゆきがいうと、
「大丈夫さ。悪魔の正体というところまで考えるようになると、共通点というものは、無意識に考えているものさ。だから、今それを無理に他のことを考える必要はない。そのうちに、今度は共通点が気になって、読み直してみようと思うはずだからね。もっといえば、読み直してみようという気にならなかったら、共通点を見つけるのは、結構難しいかも知れないな」
と、兄がいうのだった。
「じゃあ、お兄ちゃんも、そういう発想だったの?」
と聞くと、
「ああ、そうだよ。僕は読み直しで共通点ということに気が付いたのさ。もちろん、読み直そうと思ったのは、その共通点を探そうという意識があったわけではなくて、単純に読み直しをしてみたいという思いから、読んでいるうちに、共通点という問題を考えるようになったんだよ」
という。
「それで、お兄ちゃんは見つけたんだね? 私にも分かるかしら?」
というと、
「もちろん、分かるさ。いや、これは男性よりも、女性の方が分かる感覚なんじゃないかって思うんだよ。血のつながりであったり、人間の生死というものに関わる問題などが絡んでいるから、いずれは、看護婦になりたいと思っている、みゆきには、分かってしかるべきだと思うけどね」
と兄は言っていた。
なるほど、小説を読んでいると、悪魔のような所業は、犯人がやっている行為ではない。むしろ、犯人が、その悪魔のせいで、人生をめちゃくちゃにされたり、人を殺す動機を持つに十分な所業が、そこにはあるということが分かってくるのだった。
だから、その悪魔は、基本的に、その小説の中のどこかで死ぬことになる。連続殺人だったとしても、犯人が本当に殺したいと思うのは、その、
「悪魔」
だということになるのだろう。
兄は、その時、悪魔の正体について教えてくれなかったが、その時、そのかわりに、耽美主義の話をしてきたのだ。
「みゆきは、耽美主義という言葉を聞いたことがあるかい?」
と聞かれて、
「言葉は聴いたことがあるけど、どういう意味なのかっていうとことまでは、あまり考えたことはなかったかな?」
というと、
「耽美主義というのは、美というものが大前提としてあって、その美の追求を最優先として、道徳やモラルなどに優先するといえばいいかな?」
というのだ。
「でも、それって、普通は、わざわざ言わなくても当たり前のようなものじゃないかって思うんだけど、違うかしら?」
というと、
「それは、美というものを、見た目でしか感じていないからでしょうね。あくまでも、できている美を美しいと感じる感覚。受け身に近い感覚と言えばいいのか、自分から美を追及し、自分なりの美を求めていく人というのを、耽美主義と呼ぶんじゃないかな? ある意味極端な意味として考えればだけどね」
と兄は言った。
「そういうのを芸術家というんじゃないかしら?」
というと、
「そういうことになる」
「だって、芸術家が美を追求するのは当たり前のことなんじゃないの?」
というので、
「もちろんそうだよ。だけど、今言ったように、モラルや常識などというものを取っ払ってということになれば、極端にいえば、足枷はないわけだよ。何をしてもいいから、とにかく美を追求することになる。それが、例えば犯罪であったり、殺人であったりする場合も関係ないということだね」
と兄がいうと、
「でも、普通は、犯罪さえ犯さなければ、たいていのっことはありなんだから、そこまで求める必要はないんじゃないかしら?」
と、みゆきは感じるのだった。
みゆきにとって、耽美主義という言葉の定義は分かったような分からないようなという感覚でしかなかった。それをもちろん、兄も、
「百も承知」
だったのではないだろうか?
兄は何が言いたかったのか、一瞬忘れてしまった気がした。しかし、一瞬我に返ったように感じたみゆきは、ある程度まで理解していたことを思い出すことができたのだ。
「耽美主義と、あの小説家がいうところの、悪魔というものの大きな違いってどこにあると思う?」
と聞かれた。
正直分かるわけもないので、すぐに、
「分からない」
とギブアップした。
普通であれば、兄はいつも、
「もう少し考えてごらん」
ということをいうはずなのに、その日は、それ以上、何も言わなかった。
その後、しばらくの沈黙があり、みゆきが考えようとしても、考えきれないことに、自分から苛立ちを覚えていると、兄の方から、ニコニコしながら、
「苛立つだろう?」
と、悪戯っぽく言ってくるのだった。
「うん、そんなに意地悪しないでよ」
というと、
「悪い悪い。だけど、今の気持ちを忘れるんじゃないぞ」
といって、ゆっくりと話を始めた。
「違いなんて、正直ないんだ。違いなんてあると思えばあるし、ないと思えばないというだけのことなのさ。僕はそれが言いたかったんだけど、それがさらにどういうことなのかというと、耽美主義というのは、悪魔という言葉をタイトルに書いているわけえはないだろう? だから、その本が耽美主義なのかどうかということは、読み終わらなければ分からない。でも、違いというのは、本当はそこじゃないんだ。これが入り口であり、もっといえば、宣言していないということは、すべての小説が耽美主義なのではないか? と思えば思えるのではないかということなんだよ」
という。
「えっ? 言っている意味が分からない」
というと、
「まぁ、そりゃそうだろうね。悪魔というのは、最初に悪魔というのをタイトルで分かるだろう? だから、悪魔を探そうとする。だけど、耽美主義というのは、もし、最初からあらすじのところで、これが耽美主義の小説ですなどと言って書かれていたとしても、耽美主義という言葉の意味が分かっていなければ、分からない。もし、意味を知っている人が読んでも、最初に耽美主義の小説だと宣言されて、実際に、はい、そうですかって読むと思うかい?」
という。
それでも、まだ、分かりかねて考えていると、
「だって、もし、小説の内容を、ネタバレの部分まで、あらすじに書いていたとして、それを最初から、ネタバレだって思ってみるかい? そんなことはないよね? 読み終わって、初めて、あれがトリックだったんだということが分かって、どう思うかだよね? やられた、作家のトリップに引っかかったと思って、分からなかった自分の愚かさを感じるか、それとも、作家が明らかなルール違反をしたとして、怒りをあらわにして、もうこんな作家の作品は読むまいかと思うだろうね。つまり両極端であり、諸刃の剣なのだよ。どんなにいいものでも、やり方によって、どう見られるか? それを考えると、恐ろしいけど、冒険をする作家もいるかも知れない。その感覚を、作家が、自分の追及する作品であり、それを耽美主義的な考えだと思ったとすると、これは、作家にとっての、一世一代の冒険というべきか、賭けのようなものなのかも知れない」
というのだった。
それでも、まだよくわからなかったが、兄がその後も少し説明をしてくれたが、一つの言葉だけが、印象に残っていたのである。
その言葉というのが、
「宣言していないから分からないだけで、逆にいえば、耽美主義というのは、誰が見ても最終的に、すべてが耽美主義だということなんじゃないかな?」
と言えるのではないだろうか?
そんな話を思い出していると、急に、今度は、目の前で光っているナイフをじっと見ていたはずなのに、そのナイフが急に消えてなくなった気がした。
「あれ?」
と言葉を発したようなのだが、声になっている感じがしなかった。まったく何も見えなくなったことに気づくと、
「ああ、ナイフが見えないのはそういうことか?」
と納得した瞬間、急に背筋が寒くなってくるのを感じたのだ。
背筋が寒くなったというのは、何かに怯えているか、不安を感じている時に相違ないと思ったのだ。
その不安は、恐怖になり、怯えになってくるのに、最初から怯えの時があると思うと、その怯えは、
「恐怖ではない怯え」
なのであないかと思ったのだ。
「恐怖とは違う怯えがあるのだとすれば、それは、どこから来るものなのかということを考えると、何か、循環するものがあるのではないか?」
と感じるのだった。
これも、兄が話をしていた、兄独自の考え方で、
「さっきから、兄のことばかりを思い出しているけど、それだけ、夢が深いということなのかしら?」
と、あくまでも、自分が夢の中にいるのだということを、考えないわけにはいかないようだった。
「真っ暗な世界を歩いていると、急に足元の扉が開いて、奈落の底に叩き落される恐怖を感じるという夢を何度か見たことがある」
と兄は言っていた。
「どういうことなの?」
そういって、思わず足元を見てしまう。
見た足元は、想像しているよりも、かなり向こうに地面があるようで、模様のある床などであったら、まるで
「騙し絵」
を見ているような錯覚に陥り、身体の安定が保てなくなってくるように、感じるのだった。
「真っ暗なところを歩いている恐怖を感じたことがないのであれば、じゃあ、吊り橋の上にいて、風が無性に吹いてくるので、進むにも戻るにも、どっちもできなくて、どうすればいいかということを考えたことはなかったかい?」
と言われたので、
「ああ、それならある気がする」
というと、
「じゃあ、みゆきは、どっちにいく? 前に進むか、後ろに下がるか」
と聞かれ、その場面を想像してみた。
前も後ろも同じ距離、しかし、後ろを振り向くのも怖いので、首だけを回すと、とてつもなく遠くに感じられる。しかし、それは、
「一度後ろを向くと、二度と前を向けない気がするので、後ろを向けないことから、距離を錯覚したまま考えようとする」
ということであったが、そこで、自分が我に返ったのを思い出した。
「後ろに戻るかしらね」
というと、兄は、
「どうしてだい?」
と聞いてくる。
すると、
「だって、前に進んでも、結局、また同じ道を戻らなければならないところだったら、最初からいかないという選択肢しかないでしょう?」
というと、兄は腕組みをしながら、
「なるほど、さすがに冷静な考え方だ。お兄ちゃんも同じことを考えるのさ。この考えを持っていれば、余計なことを考えることはない。つまりは、危険なことであっても、最小限にすることができるということになるからね」
というのであった。
それを思うと、
「冷静に考えるということは、褒められていると思っていいのかしら?」
と、みゆきは感じたのだ。
ただ、今はそんな昔のことを悠長に思い出している場合ではなかった。ナイフがなぜ見えなくなったのかということを冷静に考えなければいけない。それを考えなかったのは、その理由が分かっていて、それを自分で納得させないだけの何かを感じたからなのかも知れない。
まず、真っ暗な状況ということは、普通に考えれば、
「停電した」
ということである。
しかし、ここは病院なので、少々何か、台風や、近くの電線が誤って切れたりした場合は、
「予備電源が作動する」
ということくらいは、常識として分かっている。だから、そこまでは気にしないのだが、今回は、少し時間が長いような気がする。実際に、芽が慣れてきて、真っ暗でも、少々なら見えるようになったということは、思ったよりも、時間が経っているということだ。
となると、
「もういい加減に電源がつかないわけにはいかない」
と思うだろう。
しかし、明かりがつくという気配はないではないか。それを思うと、のんびりもしてはいられない。
だが、表から、そんなに慌てふためく声も、小走りに走っているような音も聞こえてこない。相変わらずの静かな夜であった。
目が慣れてくると、表の明かりが見えるが、それは、どうやら、非常口の明かりのようだ。
だが、
「非常口の明かりがつくということは、予備電源が作動しているということではないだろうか?」
と考えると、勘がられることとしては、この部屋だけ、予備電源が作動していないということになる。
何と言っても、
「予備電源が作動しないということは、この時間であれば、人工呼吸器や、生命維持装置に繋がっているような人はどうなるのか?」
ということであった。
この病院は、確かに、外科ということもあり、不治の病のような人はほとんどいないのだが、一人だけ、今も生命維持装置で生きながらえている人がいた。
本当は大きな病院に入るのは普通なのだろうが、どうも、本人が望んでいることのようで、この病院で、生きながらえている。
すでに、
「家族も本人も覚悟の上だ。これが最後の親父の望みだから」
という息子さんの、父親もそれを望んでいるということでの話とすれば、病院側もむげにはできないというものだ。
昔から、何かあれば、この病院で治療してもらい、いざとなった時は、自宅か、この病院ということだったので、しかも、できるだけの延命ということになると、
「病院の方がいい」
ということだったのだ。
できるだけの延命といっても、それは、本人の意識がある間の、
「生きる努力」
ということで、それ以上ひどくなったり、昏睡状態になれば、無理な延命は行わないということだったのだ。
だからと言って、停電などで生命維持装置が働かないというのは、論外であり、
「本人にも家族にも、まったくいいところはなくて、死んでも死にきれないのではないだろうか?」
ということであった。
だから、息子たちも先生に委ねてはいるが、それなりの覚悟はしている。ただ、それだけに不慮の事故というのは、想定外ということで、あまり考えられることではないということだろう。
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