第3話 見つかったもの
そんな兄の死を、乗り越えるまで、みゆきは自分で思っていたよりも、結構時間が掛かったかも知れない。
「どうして、兄が死ぬことになったのか?」
ということもそうなのだが、
「なぜ、急に姿を消したのか?」
ということ、そして、
「急に姿を消しておいて、サークル仲間と、どうしてキャンプなどに興じているというのか?」
そもそも、兄のことを警察に捜索願を出してからも、自分たちで独自に捜索はしていた。
大学時代の親しいと言われている人たちに話を聴いていると、誰も、
「知らない」
という。 そして、今回の事件でキャンプに行った他の4人の人たちと、話をすることはなかった。だから、みゆきは、
「本当にこの人たちは、兄と知り合いだというのかしら?」
と感じたのだ。
警察が捜査したところとしては、
「そうですね。後の4人は仲がよかったというのは聴きましたけど、お兄さんは、そこまで仲が良かったという感じではなかったようなんですよ。助かった三人に聴いても、お兄さんは、亡くなったもう一人の彼が、今回のキャンプの仲間に入れてやってほしいといってきたので、仲間が多い方が楽しいということで、急遽、お兄さんが加わったということだったようですね」
というではないか。
「そうだったんだ」
というと、警察も、
「ええ、三人とも、そう話だったので、本当だと思います」
というので、
「まさか、初対面ということではないんでしょう?」
とみゆきが聞くと、
「ええ、そうですね。同じ学部だったので、何度か、話をする仲ではあったといいますが、どこかに一緒に遊びに行ったことは、3人ともなかったといっていますね」
と刑事がいうので、
「じゃあ、亡くなったもう一人の人とは、仲が良かったということなんですね?」
とみゆきが聞くと、
「そういうことのようですよ」
と答えるだけだった。
それはそうだろう。
本人は死んでしまっているので、それについて、何らコメントできるわけもない。
みゆきは、それを聴いて、それ以上何も聞けるわけはないと思い、少し考えていたが、
「ああ、どうせ、兄を必死に探してくれなかった警察なんだから、半分だけ聴いておけばいい」
と、こちらも独自に捜査することにした。
ただ、実際に出てきた話は、
「それ以上でも、それ以下でもない」
まさしく、警察の捜査以上のことは、分からなかったのだった。
何か、
「限りなく怪しい」
という思いを抱きながら、その向こうが霧のベールに包まれている状態に、みゆきは、意識が朦朧としていたのだった。
みゆきは、それ以上詮索もできず、モヤモヤした気持ちをしばらく持ち続けていたが、兄のことばかり気にしているわけにもいかなくなり、自分の将来に直面しなければいけなくなった。
いよいよ看護科を卒業し、病院に勤めることになったからだ。
もうあれから、10年という月日が流れ去り、兄のことも、風化しかかっていた。
あれだけ、あの頃、
「絶対に兄が死んだことを忘れてはいけないんだ」
と思っていたからだったのだが、病院に勤務し始めて、望む望まないにかかわらず、
「人の死」
というものに、これだけたくさん関わってくると、感覚がマヒしてくるのも無理もないことであった。
実際に、
「いちいち気にしていては、身体がもたない」
ということも分かっていたし、精神までやられてしまうと、
「看護婦なんてやってられない」
ということになるだろう。
実際に、この状況に耐えられなくなって、辞めていった人もたくさんいたというものである。
「まぁ、それはしょうがない」
といって、先輩も、辞めていく人を引き止めることも、何もしなかったのだ。
冷たいとも思ったが、自分が先輩になってくると、
「それもしょうがない」
と感じるようになった。
「自分だけのことをやっていればいいというわけではないんだ」
と思うようになると、自分で自分をコントリールできないと、この仕事をやっていけないことが分かってきたのだ。
辞めていく人間は、それができずに、自分の限界を感じたから辞めていったのだろう。その時、
「きっと、自分で自分の限界を感じたに違いない」
と思ったのだ。
「限界?」
と、ふと、みゆきは感じた。
「そういえば、昔、限界という言葉に敏感だった気がするんだけど、何だったのかしら?」
と、言葉自体に反応はするのだが、その理由が思い出せない。
これほどまでに、月日の流れが早いのか、それとも、一旦忘れてしまうと、忘れた記憶は意識からも消えていて、時系列が邪魔するのか、記憶の一体どのあたりなのかという一番の思い出すすべをすっかり忘れてしまっているのだった。
記憶というのは、意識の中にしばらくはあるのだが、ある瞬間から、意識を離れ、記憶の奥に封印されるようだ。
その扉を開けてから、その記憶を探るには、時系列が必要になる。しかし、相当時間的に古いものが、所せましとして記憶の奥にひしめいているのだから、基本的に、
「意識から離れてしまった記憶を思い出そうというのは、何かのショックでもないと無理ではないか?」
と思っていた。
そう、まるで記憶喪失になった人が、急に何かのきっかけで思い出すかのような、そんな感じであった。
みゆきには、
「思い出せそうなんだけど、どうしても思い出せない」
という、
「もやり」
があった。
だが、
「記憶の奥に封印されているのであれば、しょうがない」
という気持ちもあった。
封印された記憶を呼び起こすために、今ここで、体力を使うのは、得策ではない。
「記憶の封印を呼び起こすには、かなりの愛力の消耗を余儀なくされるに違いない」
という意識があるのだった。
「しょうがないか」
とみゆきは、感じていたが、ただ、この、
「限界」
というものを感じた時。
「私には限界というものはないわ。でも、自分の中にある何かの目標が達成されたその時には、看護婦というのを辞めることになるかも知れない」
と思うのだ。
それが何かということは、おぼろげにしか分からない。しかし、その時がくれば、ハッキリと思い出せるという意識はあった。
「怖い」
という気持ちがあるのは間違いないようだが、いかに自分が対応すればいいか。その時になって慌てないようにしたいと思うのだった。
ただ、
「その時が近いのでは?」
という思いがあるのも事実であり、徐々にそれが、
「白日の元と晒される」
というのが、怖いような楽しみなような複雑な思いであった。
そもそも、
「目標」
というものが、いいものだという根拠はどこにもないではないか。
目標というものは、
「達成することに意義があるわけではなく、持つこと自体に意義がある」
ということを言っていた人がいた。
それは、当たり前のことだといってもいいだろう
「目標というものは、達成すれば、達成感が得られるが、それ以上に、達成したことで、虚脱感があるというのも事実のようだ。
というのも、下世話な話になるが、男性がセックスしたあとで訪れる、
「賢者モード」
というのがあるらしい。
女性であるみゆきには、
「一生分かりっこないことだ」
ということであるが、どうやら、それまでの夢心地だった感覚が、急に冷めてしまうようだった。
もちろん、みゆきは処女ではないので、何人かと男性経験もある。その中でほとんど皆、
「果てた後には、身体が敏感になるようで、どこを触っても、怒られるというほどのようだ」
と思っていた。
そして、急に冷たくなる。
冷静になると言えば聞こえはいいが、要するに、冷めきってしまうのだった。態度もまるで他人事のようによそよそしくなり、そのまま爆睡しる人もいた。
本当に眠いというよりも、そのあとのコミュニケーションが鬱陶しいのであろう。
「オンナからすれば、この時間、可愛がってほしいと思う者なのにな」
と思う。
だから最初の頃は、冷めてしまった男は、
「なんてわがままなんだろう?」
とその男だけだと思っていたので、だんだん嫌いになり、こっちからふってしまった。
しかし、次につき合うおとこも、その次も、皆同じなのだ。
ここに至っては、遅まきながら、
「男というのは、皆あんな感じなのかしらね」
と思うようになった。
そういう意味で、
「最初の男がもったいなかったな」
と思い始めたのだ。
そういえば、中学時代の友達が、就職して、なかなか続かず、職を転々としていたが、
「転職するほど、どんどん、条件って悪くなるんだよな」
と言っていた。
「じゃあ、どうして、転職を続けるの?」
と聞くと、
「どうしてなんだろうな? くせがついてしまったのかも知れないな」
と笑っているが、本当に、
「能天気な男だ」
と思った。
中学時代から、能天気であったが、さすがに就職してまで、昔のままということはないだろう。
ただ、今の時代は、転職など当たり前で、派遣社員としてやっていく人も多い。世の中に、まったくといっていいほど期待をしているわけではないのだろう。
考えてみればそうだ。
昔の昭和の頃は。
「55歳定年まで勤めれば、そこから年金で、悠々自適な生活が送れる」
という時代だった。
しかし、今は、定年が60歳に引き下がり、しかも、年金受給が65歳からというのが普通になった。
「じゃあ、この5年間は?」
というと、
「企業の努力義務で、定年後の延長雇用で賄うしかない」
というのが、当たり前になった。
しかも、今は、さらに、もっと年金を引き下げようとしている、将来的には、
「国民は、死ぬまで働け」
と言っているようなものである。
「だったら、今まで払ってきた厚生年金を返せ」
というのだろうが、そんなことできるわけもないので、年金制度は何とか維持するのが、政府としての。
「歩み寄り」
というものであろうが、
「そもそも、消したのは、どこのどいつだ?」
ということであり、怒りは政府に向けられる。
しかも、やれ、
「増税だ」
「防衛予算の拡大だ」
と国民に負担ばかりをしいて、心の中では、
「国民などどうなってもいい」
下手をすれば、
「死んでいこうが関係ない」
と言われているのであれば、どうしようもないではないか。
それを思うと、世の中というのが、
「政府によって亡国の道、まっしぐら」
という青写真ができあがっていくのを、皆黙って見ているしかないということだろうか?
野党は腐り切っているので、与党に票を入れるしかない。そうなると、あの、
「くそソーリ」
みたいなやつが、またソーリになるという、この腐った状況を、誰が止めてくれるというのか、
政治家に、根性ある人がいないので、亡国の一途である。
「あの時のあのソーリがこの国を壊したんだ」
ということの、歴史の証言者にならないことを祈るしかない。
それを思うと、
「国家というものが、庶民を助けてくれるなどというのは、お花畑的発想でしかないということなのだろうか?」
と思えてならないのだった。
「政治家も警察も、同じ穴のムジナだ」
と、みゆきは感じ、
「お兄ちゃんは、そんな社会の犠牲者なのかも知れない」
と、昔感じたことだけは思い出していた。
そんなことを思いながら、みゆきは、見回りをしていた。
すると、一つの病室から、何か音がしたような気がしたのだ。
その部屋は、
「確か、今、誰も入院患者がいないんじゃなかったっけ?」
と思うことだった。
その部屋は、数日前に元気になって退院していった、確か、30代後半に差し掛かったくらいの男性だったのだ。
仕事中に怪我をしたようで、会社から見舞いの人が来ていたようなので、
「よかったですね。会社からもお見舞いに来てもらえるなんて、さぞや会社で、必要とされている人なんでしょうね?」
というと、その人は、複雑そうな表情で、こちらを見たのだった。
患者さんは確か、
「高持さん」
と言ったっけ。
「いや、別に会社でそんな慕われることなんかありませんよ。形式的に来ているくらいですよ」
というので、
「そうなんですか? 仕事中に怪我をした人というのは、今までに何人か見ましたけど、わざわざお見舞いを持ってくる人なんて、そんなにいませんよ」
というと、
「看護婦さんは、純粋な気持ちをお持ちなんですね?」
と高持は言った。
「そうですか?」
というと、
「そうだよ。だって、普通、そんなに会社が何度も来るということは、後ろめたいからだって、普通なら思わないかい? 口止めだったり、監視しておかないといけないということで来ているだけだったら、来られるだけで、すごいプレッシャーですよ。僕が嬉しそうにしているとでも、思っていました?」
と高持はいうのだ。
そこまで言われると、何も言い返せなかった。
確かに言われてみれば、高持の言う通りであり、なるほど、
「確かに、高持さんのいう通りだわ」
ということになるのだった。
みゆきだって、そのくらいのことは分かっている。しかし。それを認めたくないのは、きっと、高持を見ていて最初に感じたのが、
「お兄ちゃんが生きていれば、同じくらいの年だわね」
という思いであった。
確かに、兄が生きていれば、30代後半くらいだろうか? 最近はあまり思い出さなくなっていた兄のことをいまさらながらに思い出すと、今まで思い出さなかったことに対して、
「申し訳ない」
という思いが募ってくるのを感じていたのだった。
「高持さんは、おいくつなんですか?」
と軽い気持ちで聞くと、
「34歳ですね」
という。
兄よりも少し若いようだが、十分、想像に値する年齢であった。
真面目そうに見えるのだが、何か影を感じる。今まで付き合ってきた男にはいないタイプで、それは、今までは学生だったという意識はいなめない。
だが、それだけではない何かを感じるのは、
「やはり、高持さんの後ろに、お兄ちゃんを見ているからなんじゃないのかな?」
と感じた。
最近、お兄ちゃんのことを思い出していない自分に、何か後ろめたさを感じたことで、余計に、高持に対して、
「お兄ちゃんとかぶる」
というイメージが焼き付いているようだった。
だから、彼の部屋に回ってくるのが嬉しくて、もちろん恋愛感情ではない何かを感じていたが、まわりからは、
「みゆきが、高持を意識している」
という感じに見えたことだろう。
高持が入院していたのは、一週間足らず。最初は時間の感覚がなかったが、退院が近づいてくると、時間があっという間に過ぎてしまうことが、恨めしく感じられるのだった。
実際に、退院まではあっという間だったのだが、なぜか最後の日だけは、そんなにあっという間という気がしなかった。
というのも、
「何か気分が違った気がするんだよな。焦っていないような」
と思うと、
「きっと、何か吹っ切れたんだろうな」
と感じ、それが納得に繋がった気がしたのだ。
だから、最後の日も、寂しいという気はしなかった。
というよりも、
「高持さんだけを意識しているわけではないんだわ」
ということに気が付いた。
そもそも、仕事なので、
「一人に思い入れをしてしまうと、他の人がおろそかになる」
ということであろうが、みゆきの場合は、却って一人に思い入れした方が、他の人にも注意がいく方だったので、そのあたりは問題なかったのだが、それでも、最後の日は、寂しさでやるせなくなるだろうということは分かっていた気がする。
そのくせに、退院すると寂しくなると思いながらも、そこか、気楽な気もした。
連絡先を教え合うようなこともなかったのは、あくまでも、
「気にしていたのは、美幸だけだ」
という思いがあったからだろう。
実際に、高持の方も気にしていたのかどうか。誰も分からない。だから、高持が退院してから、誰も二人のことを気にする人もいなかった。
「ただの一過性の話題」
というだけで、まるで、SNSの、
「タイムライン」
が流れてきたという感覚と同じではないだろうか?
そんな高持が退院してから、しばらく、他に入院患者がいなかったこともあって、この部屋に入る人もいなかった。
そのおかげか、この部屋に入ることはなかった。見回りの必要がないからだった。
この部屋が使われなくなって久しいという感覚は誰も持っていないだろう。
それよりも、最初から、
「開かずの扉」
という感覚だったといってもいいくらいかも知れない。
もっともそれは、この部屋に限ったことではなく、病室全体に言えることだった。
一か所が、
「開かずの扉」
となっても、誰も意識などしない。
それだけ、病院というのは、その時々を小刻みに動いているのかも知れない。
そう、まるで、
「金太郎飴」
のようではないか。
「どこを切って絵も金太郎」
時間というものが一番曖昧に感じられることではないだろうか?
時間というものが、毎日、同じように過ぎていくと感じていると、
「誰もいない病室で、23時59分から、日が変わるまでを、じっと、横になって目をつぶってやり過ごすと、本当に日にちが変わっているのだろうか?」
という思いに駆られるのだった。
「時間が過ぎたその瞬間、本来は、開かないと先に薦めない扉があって、それをタイミングよく開けることができないと、また同じ日を繰り返すことになる」
という考えである。
人間は、自分の中に、
「もう一人の自分」
がいて、その自分の役目は、
「その日付が変わる扉を、タイミングよく開ける仕事をする人であり、あくまでも無意識の状態であるために、その存在すら意識していないのだ」
ということであった。
よくいうのは、
「その存在を自分で意識させてはいけない」
つまりは、
「ドッペルゲンガーであれば、自分が見てはいけない」
ということになるのではないかということであった。
そう考えると、
「ドッペルゲンガーの伝説も、分からなくもない」
ということである。
「もう一人の自分」
という定義が難しいところである。
特に意識してしまうのは、
「夢の中に出てきた自分」
というものであった。
「夢を見ていて、一番怖いと思う夢って、どういうものですか?」
という質問をされたとすると、みゆきは、漏れなく、
「もう一人の自分が出てきた夢」
と答えるであろう。
「もう一人の自分、それは、夢の中だけに出てくる自分であって、現実世界でもし出てきたとすれば、それは、違うもう一人の自分ではないか?」
と思っていたのだ。
最初は、
「現実で見るのが、ドッペルゲンガーである」
と思っていた。
というのは、
「ドッペルゲンガーを見たら、近い将来に死んでしまう」
という伝説があるからだった。
怖い夢ということではあるが、もう一人の自分が出てくる夢を見たといっても、それで死んでしまったというわけではないと感じたからだ。
しかし、最近少しおかしなことも考えるようになってきた。
「ドッペルゲンガーを見て、死んでしまうというのは、間違ってはいないが、夢の中でのドッペルゲンガーは、死んだその端に生まれ変わるというものではないか?」
という思いであった。
「すぐに生き返るのに、どうして、死ぬことが必要になるのか?」
ということであるが、考えてみれば。
「夢というものは、いつも、ちょうどいいところで眼が覚めるではないか?」
ということであった。
いい夢でも。
「もっと見ていたかった」
と想ったり、
怖い夢であれば、
「よかった。ちょうどいいところで眼が覚めてくれて」
と思いながらでも、そのトラウマからか、
「これ以上に怖い夢というものはない」
と、感じるようになったのだろう。
そんなことw考えていると、
「ひょっとすると、一度死んですぐに生まれ変わるということがあるのではないか?」
という発想であった。
これはいわゆる、
「死」
というものだろうか?
どちらかというと、
「幽体離脱」
に近いものである。
死んだと思っているのは、錯覚で、一旦肉体から離れ、死んでいる自分を見たことで、また元に戻り、目が覚めた瞬間に、その記憶が封印されるというものであれば、今度は、
「幽体離脱に何の意味があるというのか?」
ということである。
しかし、誰もが、大なり小なり、
「生まれ変わりたい」
という意識を持っていることだろう。
何が原因なのかということはハッキリとはしないが、
「死を迎える」
ということが、何かの人生の起点になるのだとすれば、
「一度死んで、すぐに生まれ変わる」
ということも、決して、考えられないことではない。生まれ変わったという意識を持つことは許されないので、その思いを感じないような暗示として、
「人間は、死んだらそのまま、死後の世界に行くものなのだ」
ということを、洗脳されているのではないかと感じるのだった。
もちろん、本当に死んでしまうことだってある。病気で死んだり、事故で死んだり、あるいは、殺されることもあれば、自分から死を選ぶこともある。
大往生以外は、
「寿命」
とは言えないところで、命を落としたということだろう。
宗教によっては、
「寿命をまっとうできなかった人は、人間に生まれ変われない」
などというのを聞いたこともあったが、それは、どこまでが本当だろう。そうなると、
「人間に生まれ変わるのは、奇跡に近い」
といってもいいだろう。
人間が人間に生まれ変われる確率と、人間が神になる確率とではどちらが大きいのか、それを考えると、皆、地獄行きということになる。そして、地獄に行くと、
「人間には生まれ変われない」
ということになるのだが、
「だったら、人間って、数百年もすると、一人のいなくなるかも知れない」
ということになるのだ。
だが、
「一人もいなくなるということはないだろう」
というのは、無限に時間が続いていく中で、人間が滅亡しないと考えると、世の中は終わってしまうのだ。
というのが、
「自然界の摂理」
というもので、
「皆が死んでしまい、人間がいなくなると、人間がいることで命を長らえていた生物が起き残れなくなり。その動物によって生きている生物も死滅することになる」
というのが、
「自然界の摂理」
というものである。
ということは、どの種族も、絶対に絶滅はありえないということになるのだ。
それをコントロールしているのが、神なのか、それとも、未知の生物なのか、それとも、まさかとは思うは人間なのか?
それを考えると、
「人間が眠っている夢の世界」
というのは、一種の、
「並行世界」
つまりは、
「パラレルワールド」
のようなもので、それが、
「種の保存を守っている」
と言えるのではないだろうか。
そう考えると、人間にあるのであれば、動物のしゅぞおくごとに、パラレルワールドが存在していると思うと、
「マルチバース理論」
も、ここで結びついてくるということになる。
つまり、
「世の中が無限である以上、パラレルワールドも、マルチバースもあり得るのだ」
ということになる。
「無限の証明は、種族の種類であったり、決して止まることのない、時間の流れであったりと、無限を表現するものは、果てしなくある」
それこそが、
「無限」
というものなのであろう。
そんな無限というものを考えていると
「そういえば、最近、同じようなことを考えた気がするな」
ということを思い出した。
あれは、確か自分の部屋で寝ている時だっただろうか? 久しぶりに、
「金縛り」
に遭って、目が覚めた時だった。
足が攣った状態で夢から覚めるというのは、今までになかったわけではない。むしろ、看護婦になりたての頃、いつも足が攣って痛かったのを思い出していたのだった。
足が攣る時というのは、
「普段から運動不足のくせに、急に運動してみたり、毎日緊張感で張り詰めた気分の時、夢の中で、ふと気を抜く時などに多い」
と考えている時だった。
だが、いつも、脚が攣って目を覚ました時、
「前にも、しかも、直近で、同じような思いをしたような気がする」
と感じるのだった。
しかし、目が覚めるにしたがって。
「同じ思いをまたするんだろうな」
と感じることもあり、この思いは、
「今に始まったことではない」
という、まるでデジャブのような感覚になるのだった。
将来と過去というものを、同じ感覚を味わっている時、感じるというのは、自分的に信じられることではなかった。
瞬間が違うといっても、まるで夢の中にいるのであれば、
「大きな一つの瞬間と感じるので、その思いが、錯覚ではないか?」
と感じるのだった。
実際に、
「過去と将来」
というものを結びつけるのは、現在でしかない。
しかし、瞬間というのは、必ず移動するものだ。そうでなければ、時間が動いていることにならないからだ。
未来が現代になって、過去になる。現代だけが自分で動くことができるもので、未来は現代になることを待っているだけで、過去は、現在がやってくるのを待っているだけだ。
ということになると、
「もし、寿命のように、明来に限界があるのであれば、未来というのは、確実に、減っているということになる。一つだけ言えるのは、過去だけは、絶対に増えるものだということになるのだろう」
と考える。
だが、これを、
「自然の摂理」
に似たものだと考えるとどうなるのだろう?
過去もある程度までいけば、リセットされて、未来に回っているのかも知れない。
ということになると。
「限界のある世界が存在し、そこの過去がリセットされて、未来にくっつくという考えを持っているとすれば、同じ世界で繰り返されるものなのか、それとも、別の世界で繰り返される。いわゆる、パラレルワールドのようなものがあって、それも一つではなく無限にあると考えれば、マルチバースになるのだ」
しかし、別の考えから、
「現代の時系列が無限にあるとするならば、マルチバースや、パラレルワールドの理屈は成立しない」
ということにもなるだろう。
それを考えると、
「並行世界」
や、
「無限の宇宙」
という考えが、
「無限の時間や時系列」
というものとでは、
「共存できるものではない」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、実に面白いのだが、そおカギを握っているのが、
「夢の中の世界だ」
と言えるのではないだろうか?
夢の中の、
「ドッペルゲンガー」
も、本当に死ぬことになるのだろうか?
というのも、これは他の人の考えであるが、
「夢というのは、死後の世界として見ているものではないのかな?」
という発想だったのだ。
死後の世界という表現を聴いた時、何か違和感を感じた。
というのは、
「死後ではなく、生前ではないか?」
ということであった。
ただ、生前という言い方をすると、
「死んだ人が生きていた時のこと」
ということになるのだが、ここでいう生前というのは、
「あくまでも、前世の世界で生きていた自分の夢」
ということである。
だから、あくまでも、
「自分ではない、自分の夢」
という、まるで禅問答のようなおかしな言い回しになるのだが、それこそ、理屈としては、
「ニワトリが先か、タマゴが先か?」
というような発想であった。
つまりは、
「今生きている自分は、以前違う人間だった」
ということであり、その人は少なくとも、地獄には行っていないということであるが、果たして、死後の世界を見たのかどうかも怪しいものである。
もっと言えば、
「死後の世界を見ずに、いきなり、この世で転生した」
とでもいえばいいのか。
「死んだその瞬間に、生まれ落ちるはずの魂が、間違って、いや、言い方が悪かったが、吸い寄せられるかのように、予定ではない人の身体に入り込んでしまうという偶然があったのだとすれば、元々、生まれ変わるはずだった人はどうなるというのだろう?」
ということである。
そうなると、
「新規で、生まれた人間」
ということになるのではないだろうか?
つまりは、死んだ人間のうち、人間に生まれ変われる人の数は絶対に減るわけである。しかし、新たに生まれてくるのでなければ、永遠に減り続け、
「絶滅を待つだけ」
ということになってしまう。
それを考えると、
「新規で生まれる人が、本来なら入るはずの身体に入れずに、新たに生まれたのだとすれば、減ることはないので、辻褄が合うだろう。
しかし、自分だけが、前世がなかったということを知ってしまうと、生きている人間の中で、
「前世というもののせいで、争いが巻き起こる」
ということで、それをまずいとするならば、
「それなら、前世があったという発想を人間に植え付けなければいい」
という神様の思いから、
「こんな曖昧な、前世や夢という概念しか、人間は持つことができないようになってしまったのだ」
ということにあるだろう。
それを思うと、
「前世や夢、パラレルワールドや、マルチバースなどという曖昧なものは、どれか一つでもハッキリしたものがあると、せっかく合わせた辻褄が崩れてくる」
ということで、
「曖昧なものは、曖昧に済ませる」
という考えが世の中を支配していると感じさせることで、納得できるものがあるのではないかと感じさせるのであった。
「自然界の摂理」
と同じ、循環を、果たして、無限という感覚と結びつけて考えていいものなのだろうか?
なぜ、その時、みゆきがその部屋に入ってみようと思ったのか、自分でも分からっていないだろう。
特に怖がりなところがあるみゆきだったので、普段なら入ることはしない。それなのに、真っ暗な下手の中に入るというのは、
「自分の性格を疑ってみてしまう」
という気持ちにさせられるものであった。
そういえば、その時に思い出したのは、田舎のおばあちゃんから昔聞かされた話だった。
まるで、昭和の時代のドラマで、
「田舎の村」
とでも紹介されそうなところが、いまだにあるようで、そこは、閉鎖的なところで、実際に都会に出るためのバスが、朝晩に、5往復だるだけで、昼間は、2時間に一度という提訴で、完全に車がないと、普通に生活できないようなところだった。
おばあちゃんは、
「若い頃は、都会に出たこともあったけど、結局戻ってきて、見合いして結婚したんだけど、相手も同じ、都会からの出戻りで、当時の結婚というと、そういうのが多かった」
ということであった。
おばあちゃんが子供の頃の話だったというから、都会では、工業が発達したりして、田舎の方の安い土地で、ゴミ処理を作ったり、工業用品や、日常電化製品のいわゆる、スクラップの、
「一時置き場」
のようなものがあったのだという。
その置き場には、冷蔵庫などもあった。ただ、今の冷蔵庫のような大きな立派なものではなく、子供がやっと入れるくらいの小さなもので、かくれんぼをしていた子供が、そこに隠れていて、急に扉が閉まり、閉じ込められたのだという。
「その時、皆、その子がどこに行ったのか分からずに、皆が探していたが結局見つからず、最終的にどうしたのか分からないが、子供が衰弱した状態で、冷蔵庫から助けられたという」
という話だった。
助け出されたのも、どうしてそこにいるのが分かったのか、そこもハッキリとしないというのだ。
その子は、まったく意識がなかったというのだが、どうも本人の話を聴いていると、夢を見ていたようで、その話を聴くと、明らかに、
「あの世の世界を見てきた」
といってもいいような感じだった。
あの世の世界というのは、誰が見たわけでもないのだが、どうやら、鎮守として祀られている氏神様の祠の中にある絵とそっくりの場所にいたのだという。
「昔の時代などを知っているわけではないのに、あれは、江戸時代の」
などというのだ。
「江戸時代?」
と聞くと、その子は、急に我に返って、
「えっ?」
と聞き返す。
「おかしいな」
と皆は感じているのだが、
「今江戸時代って言ったよね?」
というので、
「江戸時代って何?」
と聞き返した。
すると、また少年が、口にしたのが、この村に伝わる、伝説と言われる版画師の人であった。
それを指摘すると、また、とぼけられる。
それを、そのうちに、
「誰も知るわけはない」
と考えているのか、口調が、昔の人が、村人を説法しているかのようだったのだ。
「誰かが乗り移ったということかな?」
と考えるのだが、子供を見る限り、そんな様子はまったくなく、ただ、疲れたのか、眠っているだけだったのだ。
「あの世の世界って何だろう?」
と誰かが口にしたが、一斉に口をつぐんで、考えてしまうのだった。
「十万億土から、極楽浄土に続く道」
であったり、逆に、
「地獄絵図」
と呼ばれるものであったり、世の中の誰もが想像する、寝物語があるが、基本的には、誰かが想像したものを、子供の頃などの感受性がハンパではない時に見せられて、トラウマと化したことで、記憶の奥に残ってしまった場合のことをいうのであろう。
だから、見たものすべてが、まるで絵の世界でしか表現できないから、もし、テレビのセットなどで、どんなにCGを駆使したものであっても、
「絵の世界以外は、すべてが贋者に見えてきて、リアルさがまったく湧いてこないのだ」
と言えるのではないだろうか。
だが、そう考えると、時代劇などでも、同じように、リアルさが分からないとなると、どのようにして、視聴者に、リアルさを感じさせるかというと、考えられたのが、効果音ではないだろうか。
刃の重なる音、火花が散るかのような演出が見えてくると、本当に斬られているわけでもないのに、苦しみながら倒れるだけで、リアルさが演出されているのだった。
「あの世の世界を、演出し、いかにリアルさを生み出すか?」
ということを考えると、それは、効果音と、光による演出ではないだろうか。
刃が重なった時に飛び散る火花であったり、鮮血が、襖や障子に飛び散る時など、さらには、倒れこみながら、障子を爪でひっかくようにして倒れる時など、その迫力が最大限に表現される。
だが、どうしても、
「これがウソだ」
と感じる時がある。
それが、
「夢を見ているのではないか?」
と感じ時であった。
というのも、どういう時なのかというと、
怖いものを見ている時というのは得てして、まず最初に、
「これは夢なんだ」
と自分に言い聞かせようとするではないか。
つまり、
「夢だと自分に思わせたいと感じる時ほど、自分が一番怖がっているという時ではないだろうか?」
ということであった。
夢というものを感じる時、普通は、リアルさを求めるのに、そのリアルさが浮かんでこない時こそ、
「これは夢だったんだ」
と思う。
どんなに怖い夢を見た時でも、それが夢だと分かって、
「ああ、夢でよかった」
と感じるだろうか。
それよりも、
「ああ、やっぱり夢だったんだ」
ということで、間違いがないことを確認できただけで、ホッとするのではないだろうか?
つまり、夢であることに安心する方が、夢でなかったことがよかったというよりも強いからだ。
「どっちも同じでは?」
と思うかも知れないが、同じことをしているようでも、向いている方向が違えば、まったく違うものになってしまうことだろう。
それを思うと、
「夢というものを、リアルに感じるということは、夢でよかったという感覚を感じた時と、いかに違うことなのであろうか?」
それを考えると、
「夢というものは、感じることができないというもので、見えていたり、痛かったり、臭かったりなど、普段と変わりはないと思っているはずなのに、感じることができないのかというと、本当に夢ではない世界でも、本当に五感というものを自分で感じることができているものなのだろうか?」
と感じさせるものではないだろうか?
夢ということで、すべての言い訳をするための、何かをでっち上げるにふさわしいものが、夢以外にはないからではないか?
と感じるのだった。
その最近見た夢に、
「もう一人の自分」
が出てきて、誰か知らない人に寄り添っているようだ。
「誰なの?」
と、声を掛けたが聞こえないようだった。
その人に見覚えはあるのだが、シルエットになっていて、誰だか分かりそうな雰囲気は、喉の奥まで出てきていて、少なくとも、嫌いな人ではないことはよくわかった。だからこそ、苛立ちを覚えるのだった。
「これが嫉妬というのかしら?」
と、今までみゆきは、嫉妬というものをしたことがなかった。
男とつき合ったことはあったが、次第に気持ちが萎えていく。最初は百点だった相手が、気が付けば、赤点になっていて、そこまでくると、男性と付き合っている理由は、
「自分にとって、利点となるかどうか」
ということなので、赤点の時点で、利点を考える以前となったのだ。
つまり、
「好き嫌いはもちろん、肉体的にも満足もできない。そもそも、肉体の満足は、安心感がなくては成り立たないと思っていたので、精神面で自分の中で、少しは譲歩しているつもりでも、さらに、価値観が減ってしまうと、そこから上がってくることなどない」
ということになる。
そのうちに、男性に対して、嫌悪感しか残らなかったのだが、それでも決定的な、嫌悪にならなかったのは、自分のまわりにいた二人の男性のおかげだった。
一人はいうまでもない、兄だった。
「兄にかなう人は誰もいない」
と思ったのだが、そこは、どうしても血を分けた兄妹ということで、兄に対しての思いは特別の唯一無二だといってもいいだろう。
だが、それは、
「異性に対しての思い」
とは少し違うものがあった。
「どんなに好きになっても、兄妹で、愛し合うことはできない」
という、モラルという意味での貞操観念は、みゆきのような女であれば、余計に強いことだろう。
まるで、聖書の中の、
「モーゼの十戒」
のようなものだ。
だから、兄に対しての感情をなるべく誰にも言わないように、悟られないようにしていたのだが、そのことを看破する男が現れた。
それが、幼馴染の新開だった。
新開のことを、みゆきは、嫌な印象を持ったことがない。
それに、
「彼氏にするなら、新開君がいいな」
と、子供の頃から思っていた。
それは、まだ異性に興味を持つ、思春期よりも前だったことで、必要以上に意識はしていない。
ただ、最近は、新開のことを思い出すこともなかった。彼は大学に進学し、そこで彼女もできたりして、普通の大学生活を謳歌しているようだった。
彼の方からも、何となく疎遠になり、みゆきの方も遠慮することで、二人の接点はなかなかなかったのだ。
ただ、気を遣っているのは、彼の方であって、
「忙しくしているみゆきに、俺のような遊んでいるようなやつが近くにいたら、集中できないよな」
と感じたのだろう。
卒業後は、地元企業に就職し、営業をしているという。
中学の同窓会で、2年前に久しぶりに会ったが、まったく変わっていなかった。
「新開君、久しぶり。まったく変わっていないわね」
というと、
「お前だって変わっていないじゃないか」
といつもの笑顔を投げてくれる。
「お前」
という言い方も懐かしく、思わず嬉しくなってしまったのだった。
その頃から、お互いに遠慮が目立つようになった。その感覚を、
「お互いに好きあっているからなのかしら?」
と感じるようになったが、その思いがあるからなのか、
「今度は却って、恋愛感情を持ってはいけないのではないか?」
と感じるようになったのだ。
そのおかげで、
「これ以上近づいてはいけない」
という微妙な距離が分かったような気がする。
それなのに、高校時代、
「新開に彼女ができた」
という話をウワサで聞いた時、顔が真っ赤になり、感情を抑えきれなかった自分を感じた。
まわりの人に悟られたくないという思いと、
「私の気持ちを分かってほしい」
という不可思議な気持ちが重なってか、何も言えなくなったのだ。
そんな思いを今さら思い出すと、夢の中で、もう一人の自分と一緒にいる人が、亡くなった兄か、それとも、新開なのか、二択であることは分かったのだ。
だが、それを感じると、ツーンという汗の臭いを感じるようになった。何とも隠微な臭いで、それは、身体を重ねた時の男の臭いだった。
最近、男に抱かれたことがないみゆきが思い出したのは、誰だったのか、
「いや、そもそも、夢の中で、臭いなど感じるはずないのに」
と思うと、我に返ったかのように、一瞬にして夢から覚めた。
「いい悪いに関係なく、夢というのは、ちょうどのところで覚めてしまうものだ」
と感じたが、まさしくその通りだった。
もう、この夢を二度と見ることはできないだろうから、結局自分と一緒にいた男が誰だったのか、永遠に分からなくなってしまったのだ。
「誰だったのか、きっと、しばらくの間、事あるごとに気になるんだろうな?」
と感じるのだった。
「感じても、それが誰かを知るすべもない」
と考えると、
「何か嫌だな」
という思いが頭をよぎるのだった。
この部屋に入ってきてから、我に返るまで、どれくらいの時間が経ったというのだろう。「まるで数時間経ったような気がするが、実際にはあっという間のことだったんだろうな?」
と考えると、まるで、浦島太郎になったような気がした。
まさか部屋を出ると、知っている看護婦は誰もいないのだろうが、逆に自分を知っている看護婦はいるような気がする。まるで、違う世界に紛れ込んでしまったかのように思えるのではないだろうか。
そんな風に考えると、
「そういえば、どうして私この部屋に入ってきたのかしら?」
と、この部屋には入院患者のいないことを思い出すくらいまで、意識は回復してきたのである。
ただ、真っ暗な部屋に電気もついていない。
ということは、
「電気をつける前に意識が飛んでしまったということかしら?」
と考えた。
ただ、今は目が慣れている。
少なくとも目が慣れてくるほどの時間は経っているということであろうか?
目が練れてきたと思ったのが、
「目の錯覚だ」
と感じたのは、
「部屋が明るい」
と感じたのが、一か所から眩しい光が差し込んでくるのが分かったからだった。
その光の正体が何かということは、すぐに気が付いた、
なぜかというと、
「その正体が何かということを、最初から分かっていたか」
のように感じたからだった。
その光は、ナイフだった。
鋭利なナイフが光を放ち、眩しく見えていたのだ。
ただ、冷静に考えるとそれもおかしな感覚で、
「この部屋には発する光がまったくないのに、この光はなんだろう?」
ということであった。
そういえば、みゆきは中学時代に読んだ探偵小説で読んだ内容を思い出していた。
そもそも探偵小説を読みだしたのは、新開の影響だった。
彼が、昔の小説をよく読んでいた。特に、
「戦前戦後の探偵小説が好きだ」
といっていて、その時代を代表する、2,3人の作家の本を、貪るように読んでいたのだった。
一人は、トリックを駆使したストーリー展開で、そのリズミカルなその作法に魅了される、一種の、
「光を想像させる作家」
であり、もう一人は、
「耽美主義や、猟奇殺人、変質者などをモチーフにした、異質の小説ばかりを書いていることで遊泳な作家」
だったのである。
思い出したのは、後者の作家の本で、その作品は、珍しく、探偵が出てきて事件を解決するという、オーソドックスな内容だった。
ただ、この作家がオーソドックスな作品を書く時というのは、サスペンスタッチのものが多く、
「探偵と犯人の鬼気迫るお互いの知能を削った、騙し合い」
のようなものが、必ずあった。
ただ、この作品は、それまでも、トリックに組み込んだ、いつもよりもさらに、
「正統派」
といってもいい作品に仕上がっていた。
そこで出てきたのが、
「光を放たない星」
という発想であった。
「星というのは、自らが光を発するか、それとも、光を発する星の反射を受けて、光るかというものである」
という、
「恒星と惑星、衛星との関係」
というものを表していた。
「しかし、この広い宇宙には、自ら光を発しない星があるということを発見した博士がいる」
というのだ。
「その星というのは、邪悪な星で、近くにいても、誰も気づかない。それだけ、気付かれずに相手に近づいて、邪悪なことをする。ここには二つの利点がふくまれていて、一つは、決して自分が見つからないこと。そして、見えないことをいいことに、他人にその責を負わせることができる」
というものだった。
しかも、その相手というのが、
「自分が恨みに思っている相手であれば、これほど実にうまくことが運ぶということもないだろう」
ということであった。
そんな邪悪な星になぞらえた犯人の、その凶悪性を表現した話であったが、今回のこの部屋にあるナイフの存在は、まったく逆ではないか。
もっとも、この発想は、この小説家とすれば、
「専売特許」
ともいうべき話であり、
「隠れようとするわけではなく、自分が目立ち、そして、いかにもこの私が犯人であるということを宣伝しているようなものではないか?」
ということであった。
それは、いわゆる、
「美というものを、最優先とし、それが殺人であっても、美のためということであれば許されるというような異常世界」
という、いわゆる、
「耽美主義の世界」
ということであった。
変質的な小説には、大なり小なりの、この、
「耽美主義」
という考え方がある。
つまり、
「自分が美というものに造詣が深い。そして、その美というものを他の皆にも味わってほしい」
ということで、それが犯罪であっても、悪いことではない。
と言いたいのであろう。
それが耽美主義であり、
「美こそ何にも増すものはない。人が死ぬことによって、美を表現できるのであれば、それは美のために殉ずるという素晴らしいものではないか」
とまるで、宗教の考え方と似ている。
それが、団体となっていないだけに、他の人からは理解できない考えであろう。もしこれが集団であれば、その考えに傾倒する人が出てくるのかも知れない。
昔、テロ行為を行った宗教団体が、集団殺人を行ったが、それはあくまでも、
「保身」
ということが明らかに分かったので、
「人類すべてを敵に回した」
ということであったが、もしこれが、
「美を追求する」
というものであれば、一定数、この宗教に脅威を持ち、信者の数が増えたかも知れない。
こういう宗教団体は、
「信者の数が減るということはない。増える一方だ」
と言えるのではないだろうか?
宗教団体としては、そういう意味では最悪だった。
自分たちだけの保身のために、テロ行為を起こす」
信者が離れて行ったり、世間に後押しされ、警察の追及を受けることは免れないので、後は、逃避行しかないだろう。
実際に、逃げ出して、指名手配になった連中もいる。やつらは、ひょっとすると、保身を企んだ、教祖の被害者なのかも知れない。
教祖に洗脳されていたということで、とにかく、自分だけの保身のために、部下を犠牲にしてまで行ったテロ行為。そんな連中に正義の2文字は存在しないといってもいいだろう。
ただ、あの宗教団体のテロ行為ですら、保身のためだったのだ。そういう意味での、本当の耽美犯罪というものは、存在したのだろうか?
あくまでも、探偵小説の中だけのことで、
「耽美主義犯罪というものは、その人間の血と肉によって完成する」
などという考えに元図くのは、耽美殺人であった。
あくまでも、
「美というもののために、身体を投げ出し、その美を追求する」
とおいことで、犯人は、犯罪を美徳化し、自分の正当性を訴えているのかも知れない。
ただ、一ついえば、
「美というものが最優先」
ということなので、感情は出てこない。
つまり、動機という、いや、言えるものは存在しないのだ。
あくまでも、
「恨みがあるから」
ということでの正当性ではないのだ。
裁判になると、
「情状酌量の余地はない」
ということになるのだろうが、それ以前に、当然のことながら、行われるのは、
「精神鑑定」
であろう。
「耽美主義」
などに取りつかれているというのは、
「まるで、悪魔に魂を売った」
ということで、
「身体を流れる血や、人間らしいという情というものすべてを、悪魔に売るのだ」
ということで、
「血の通わぬ冷徹人間」
と言われるのであろう。
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