17.Here's looking at you.
「ハルちゃん、顔色悪いわ。どうしたの?」
店が休みの朝、二日酔いのような顔でリビングに現れたハルトに、顔を合わせたさららは「いつかの未春みたい」と心配そうに眉をひそめた。
「別に……どうもしないです」
顔を洗ったばかりの前髪はうっすら濡れ、返事まで未春のようになってしまった。
キリングショックの解消に氷をがりがり食べている時の顔に似ている。小首を傾げたさららがすっと手を伸ばしたが、目指した額に届く前にふいと避けられた。
「……何ですか?」
宙に浮いた細い手を見て居心地悪そうに言ったハルトをさららは覗き込む。
「熱があるのかなと思って」
「大丈夫です。何とも有りません」
「何ともない人はそんな顔しないのよ。未春みたいに眠れなかったの?」
「はあ、じゃあ……そういうことにして下さい」
「もー……ハルちゃん~~……」
「大丈夫です」
語調だけはしっかり答えたのは、そうした忍耐に慣れた人間のそれだ。
誰にも頼ろうとしない顔――こういうところは優一に似ていると思いながら、さららは唇を尖らせた。気怠そうに水を飲むのを見ていると、二匹の猫が足元をウロウロしては何かを訴えかけてくる。
「パパは何も教えてくれないねえ」
温かい二匹を撫でて話し掛ける頃、未春とブラックがやって来た。こちらはどちらも元気そうで、良い休日の朝といった風だ。
「おはよう」
さららの挨拶に、未春が折り目正しく「おはようございます」と言うのに対し、ブラックも朝から色気のある「Good morning.」を返す。
「ね、二人からも言ってあげて――」
「……ちょっと出てきます」
未春やブラックが止める隙も与えずにさっさとリビングを出て行くハルトに、仰天したのはさららだ。きょとんとする二人の合間をすり抜け、ハルトを追う。
「ハルちゃん、待って――」
呼び掛けに軽く片手を差し出し、「予定時刻には戻ります」と言うと、歩きながら上着を羽織り、流れるようにドアを開けて朝
「さららさん……どうかしたんですか?」
不安げな未春の問いに、さららは腰に手をやって息を吐くと、首を振った。
「あれが、ハードボイルドっていうタイプなのかしら……」
「見てこようか?」
訊ねたのはリビングから顔を覗かせたブラックだ。
「行った方向ぐらいはわかるが」
「ありがと、ブラック。……いいわ、あの感じは火に油だと思う。朝ごはんにしましょう」
未春はしばらくドアの方を見ていたが、食事を要求する猫の声に戻って行った。
家を出たハルトは、国道16号線沿いを歩いていた。
靄みたいな溜息が出て、うるさく稼働し始めた道路の中にたなびいて行った。
平日の朝、仕事に出る人々の車両が通る中、歩く人の姿は少ない。
すれ違う人の中に、車の中に、日本に居るだろう影は無い。
――殺しに来ればいい。殺しに来い。
そう思いながら歩いていると、不意に後方で犬が吠えた。
振り返った先から、飼い主を引っ張って白い犬が走って来る。
犬は、本当に鼻が利く。どうして今、このタイミングで来るのだろう……振り向いたことを後悔しながら、もう一度出た溜息を飲み込んでそちらに足を向けた。
「……Good morning, Max.」
声を掛けられた犬は白い羽箒めいた尾を振って喜んだが、連れていた少女は少しだけ臆した顔をした。昨日あんなことに巻き込まれたのに変わらず散歩をする姿は、この娘の芯の強さを思わせた。澄んだ目の少女の顔に、ほんのり浮かんだ愛想は、吹いてきた寒風とトラックの轟音に消えた。
「……おはよう」
「……おはよう、ミスター」
いつかよりも気まずい沈黙が落ちた。
「……その、昨日は――……」
言い掛けたハルトに、ソフィアは軽くかぶりを振った。
「あなたも、散歩?」
「ああ、そんなとこ……」
幾らか胡散臭い笑みになったと思ったが、少女は深入りせずに頷いた。
「ミスター・ノノ、ひとつ聞いていい?」
「……何?」
「マックスに、”あの
Bite――「噛め」のことか。そうだと頷くと、彼女は斜に構えた目を細めた。
「他にもある?」
わずかに問い詰める印象の問いに、ハルトはマックスに片手をかざした状態で静かな声で言った。
「Guard(守れ)、Track(追跡)、Bark(吠えろ)は教えてある」
「I see……」
曰くありげに頷くと、少女は冷たい風に負けないきりりとした目を上げ、言った。
「この子には、二度と使わないであげて」
はっきりした宣言の間を、大型車の轟音が駆け抜けていった。
「…… I got it.(わかった)」
苦笑混じりに頷き、じっとこちらを見上げる犬の頭を撫でた。
「悪かったな、マックス」
「彼は怒っていないわ。貴方のことが好きだもの」
「見る目ないな」
「そうね」
自分で自分に呆れるような笑みが出たハルトに、ソフィアは白い息と共に言った。
「貴方のことが好きだけど、今はうちの子なの。それはわかってあげて」
――その通りだ。彼女が言う事は正しい。
「……よくわかった。ありがとう」
「どうしてお礼を言うの? それは、私の方が――……」
「それは言わないでくれ」
今度はハルトが首を振って遮ると、まっすぐに見つめてくる少女と犬の目から逃れるように国道を見た。ふらりと行ったら、轢き殺されそうなその激流。
「どうしてかは、わからない。何となく……」
独り言のように答えて、でも、と付け加えた。
「俺にとって線引きしてもらうのは……有難いんだ。その方が、息がしやすい」
「息……」
「戯言だな。気にしないでくれ」
それじゃ、と踵を返す殺し屋に、少女はそっと片手を振った。
「……それじゃ、また」
微かな声は、国道の騒ぎに掻き消える。
カフェで会った時、お互いに元気がない気がした。
末永は空き時間を作って出て来た為、相変わらずのスーツだったが、ナンシーは前に会った際のスーツでもなければ、バイクジャケットでもない。シンプルなハイネックのセーターにジーンズ、ごく普通のコートを纏い、観光客のように見えた。
「……どうも、警部」
「こんにちは、ミズ・アダムズ」
挨拶も程々に腰掛けると、ナンシーは「先日は――……」そう口を開いて、そのまま空気を吐くような間を置き、ぐっと飲み込んでから言った。
「その――……下らない調査を頼んでごめんなさい」
硬い表情から出た言葉に、末永は首を振った。
「いえ、その件でしたら、特に問題は有りませんでしたから気にしないで下さい。今日はどういったご用件でしょうか」
「……まず、お礼と謝罪を。貴方には失礼なことも言ったし、迷惑も掛けた」
言うなりぱっと立ち上がり、床に膝を突こうとした女を末永は驚いて止めた。
「ミ……ミズ・アダムズ! こんな所で土下座は困ります!」
彼にしては慌てた様子で言うと、軽くざわついた店内で、女は怪訝な顔をした。
「日本では、これが正式だって――」
「まさか。確かに深い謝罪を示す行為ではありますが、多くの場合はここまでする必要ありません」
一瞬、ぽかんとした彼女は、不意に別の座席をぎろっと睨んだ。
視線の先で肩をすくめたのは、トイプードルのような髪をした日系らしき男だ。
「メイソンッ!」
悪戯した犬でも呼び付けるような鋭い声に、ふわふわの髪を搔きながら男は近付いて来た。そこで初めて、末永は男が誰だか気付いた。
「貴方は確か、ミスター・ロスと一緒に居たという――」
「Yeah, はじめまして、ミスター・末永。ウチのブラックがお世話になりました」
日本人を思わす皮肉混じりに握手をした男は、自然に名刺を差し出した。
「ブレンド社のハリー・メイソン・ジュニアと申します」
無地のトレーナーにコートというブラックよりもラフな印象の男を見てから、末永はナンシーを振り返った。
「では……彼が」
「……そうです。私が日本でのガイドと情報提供を頼んだ男です」
「彼女がウチに勤めていた頃、同じ部署の同僚でした」
「そうでしたか。貴方も私に何か御用でしたか?」
男は愛想笑いを浮かべたが、それはブラックよりも数段”わかりやすい”ものだ。相手を推し量り、人間らしい企みと思索を孕んでいる。
「著名な警部さんと、顔を合わせておこうと思っただけです。ウチのボスは、そう――自分のことは棚に上げて言うんですが――うやむやにするのが嫌いなんです。貴方は弊社とナンシーの繋がりに気付いていたでしょう? この程、日本に支社が出来ましたので、我々が怪しい秘密結社じゃあないとお知らせしておかないとね」
「さて、銃を持ち込める会社に何とお答えしたものか迷いますが」
「ご心配なく。弊社は反社会的組織や力で解決しようとする物騒な奴らとは違います。有する武力は、あなた方と揉める為のものではありませんよ」
「……確かに、身内がお世話になりました。”その点は”感謝します」
無感動なお礼にメイソンが苦笑を漏らし、ナンシーが座るよう促す。
「あなた方は、敵同士ではないのですか」
座るや否や訊ねた末永に、ナンシーとメイソンは顔を見合わせ、先に男の方が首を振った。
「ミスター・末永、弊社にとって最も優先するのは、ボスの意向なんです」
両の手を開いて出た言葉に、ナンシーはテーブルに肘をついてそっぽを向いた。
「彼女は随分前からこういうスタンスですが、ご存じの通り、ボスにとっては実の娘です。厄介だと思いつつも、嫌ってはいませんし、力になれるなら助けてあげたい。我々も同様です。それに、弊社は基本的に『調査』を頼みに来る人間は何者も拒みません。例えば、貴方であってもね」
「……なるほど。ミスター・ロスも名刺を下さいました。何か有れば連絡をと」
「へえ、ブラックが。男に渡すのは珍しいですよ。彼の名刺は日本じゃあイマイチですが、出すところによっては役に立ちます。持ち歩くといい」
変なアドバイスに末永が首を捻ると、ナンシーが溜息混じりに口を開いた。
「警部、引き合わせたのは貴方の為になると思ったからだけれど、こいつらとなれ合う必要はないわよ」
「ええ、わかっています。今回、貴女が声を掛けて下さったのは、良い勉強になりました」
「勉強……?」
「あなた方は、魅力的なんです」
場違いな一言を吐いた男に、同じテーブルの男女はきょとんとした。
「私の仕事は、日本で起きた事件や有事に対応することです。その多くは、起きてしまった後のことで、ご遺体や犠牲者を前に無力を嘆くこともしばしば有ります。……その点、あなた方は起きる前の行動が可能であり、我々が法の下に踏み止まらねばならない場所にも踏み込める。踏み込むことを躊躇わないと言いましょうか……それは時折、とても魅力的に感じます」
「なあるほど。警部は生き辛そうな人だねえ」
「メイソン……失礼なことを言うのはやめなさい」
「良いんです、ミズ・アダムズ。その通りだと思います。ミスター・ロスも同じようなことを仰って励まして下さいました。あなた方のように、知り合えたことを前向きに捉え、”その時”に備えたいと思います」
そう言うと、警視庁が誇る堅物は硬質の表情を少しだけ和らげた。
それをぼんやり見つめた女の肩を、隣の男が腕時計を見ながらそっと小突いた。
「ナンシー、見惚れてる場合? そろそろ言うこと言って行かないと」
「み、見惚れてなんか……!」
「ハイハイ、こういう人がタイプなんだねえ、ブラックになびかないわけだよ」
「メイソン……!」
「――失礼、言うこと、とは何ですか?」
何とも言えない表情のナンシーがぐっと堪えて、言い辛そうに脇を向いた。
「大したことじゃありません……誰かに見られた時、弁明をしたくないだけ……」
「?」
「警部……驚かないで聞いて頂けると嬉しいわ」
「まだ驚くことがあるのなら、そのことに驚きますね」
穏やかな表情で促す男に、ナンシーは唇を引き結んでから俯きがちに言った。
「スターゲイジーと……食事をすることになったの」
末永はわずかに目を見開いたが、批判的な様子はなかった。
「……仲直りをするわけじゃない。丸め込まれるつもりもない。折角の機会だから、言いたいことを言ってやるつもりです。――この様子を万一、関係者が見た時に勘繰られては困るから、貴方には言っておこうと思ったの」
「そうでしたか。プライベートな情報を恐れ入ります」
「プライベートってアナタ……」
「親子で食事をすることに、私が口を挟む必要はありません。そこで不正な取引が行われるのなら別ですが」
「そんなものあるわけないでしょ……」
些か呆れた溜息を吐いた女は、真面目な顔でコーヒーを飲んだ男をちらりと見た。
「なんだか警部……、雰囲気が変わったわね」
「そうですか? いえ……そうかもしれません」
カップを置いて、苦笑した。
「今回の件で、未熟さを痛感したところです。彼らと戦うには力が足りないのも。――他にご用件は」
「……無いわ」
「では、私も失礼します。フレディ・ダンヒルの行方も依然、不明ですし、他の事件もありますので」
静かに椅子を引いて立ち上がる男に、二人の男女も立ち上がった。どこか恥ずかしそうにナンシーが片手を伸ばす。
「……お世話になりました。お元気で」
「こちらこそ。貴女も」
確と握手を交わした警察官らの傍ら、呑気な様子で立っていた男は、握手を控えて、舞台でするようにお辞儀をして微笑んだ。
「ミスター・末永、僕もこの出会いを良い機会にしたいのです。弊社は組織の垣根に縛られません。正しい情報を求める者は皆兄弟です。何か有ればお呼び下さい」
警部は苦笑して頷いた。
「わかりました。ミスター・メイソン」
「それと――良い叫び声を上げる者が現れたら、是非ともご一報を」
「叫び声?」
「警部……聞き流して下さい。この男は叫び声を集める悪趣味があるんです」
「いいかい、ナンシー、僕の趣味は人の命を救うこともあるんだよ」
「あんたは本当にイカれてるわ」
額に手をやって首を振る女に笑みを返し、丁寧にお辞儀をした末永はカフェを後にした。コーヒーの温かく芳しい香りから一転、厳しく引き締められた頬を冷たい風が打ち付けた。
「よお、ハル」
ゲーム機のコントローラーを握った紳士は振り向きもせずに言った。
昼を回って尚、帰宅する気も起きずにうろついていたハルトが何となく来てしまったディック・ローガンの事務所は、完全にテレビゲームに興じる紳士の私物と化していた。室内に響くのは、画面内の戦士が振り回す巨大な武器のやかましい効果音と、何なのかわからない異形の怪物が咆哮を上げて尾や羽を振り回す音だ。壁には仕事に使ったのだろう、上等なコートやスーツが吊るされ、事務用の机はゲーム機とソフト、クリスプの袋と炭酸飲料のボトルが散乱している。
「どうかしたか?」
「どうもしません……」
本日二回目の言い分を吐き出し、画面を眺めながら空いたソファーに腰掛けた。
紳士は依然、画面内で激しく戦いながら、ニヤリと笑った。
「シケたツラだ」
「見ないでわかるんですか」
「わかるさ。家出か? ハグしてやろうか」
「No thank you……勘弁して下さい」
「フフン、ディックが淹れてったコーヒーがあるぜ。一服しろよ」
忙しくコントローラーを操作しながら顎をしゃくる先には、コーヒーメーカーがある。溜息と共に立ち上がったハルトが、ポットを持ち上げて注ぐ音が、火花と閃光入り混じる戦いの音に混じった。少々時間が経ったと思われる酸味に何となく顔をしかめると、スターゲイジーは機械のように指を動かしながら言った。
「ブラックが世話になったな」
舌打ちが出そうになるのを抑え、ハルトは首を振った。
「俺は何も……未春が甲斐甲斐しく世話しただけです」
「あいつら、俺やトオルの予想以上に相性が良かった様だな。お前は気にならなかったか?」
「誤解を招くことを言わんでください。俺とあいつは只の同居人です。気になるわけがない」
「そうじゃねえ、ブラック自体がだよ」
「恐ろしいこと言いますね……どうでもいいです」
紳士が歯を剥いて笑ったとき、画面からは断末魔の悲鳴が響き、部屋のドアは勢いよく開かれた。
「スターゲイジー! ペットボトルと菓子袋は分けろって言ったでしょうッ‼」
筋骨隆々のボディをしたオッサンが、コントローラーを置いたオッサンの親のように吠えた。
「まーた、うるせえのが来やがった。お前は俺の母ちゃんか?」
クリア画面を眺めつつ炭酸を呷って文句を呟く紳士を、ディックはゴミ袋を手に勇猛果敢に怒鳴りつけた。
「もう我慢なりません! イギリスだって分別はするでしょうに! 時代はエコなんですよ! サステナブルなんです!」
「おーおー、貰うもん貰ったらすっかりでけえ態度になりやがって」
「ハルも何とか言ってやってくれよ!」
「……スターゲイジー、分別はして下さい」
「元気のねえ援護射撃だなあ」
紳士が無造作に空にしたペットボトルをディックに投げつける。綺麗に額にヒットしたそれに悲鳴を上げた男が文句を言おうとしたときだった。
何の前振りも無く、事務所の扉が開いた。
「あれ? ハルちゃん?」
此処に来ていたのかと、ドアを開けた姿勢できょとんとしていたのは未春だ。その後ろからは更にブラックが顔を覗かせている。
「何してんの?」
「別に何でもいいだろ。お前らはまたセットになってんのか」
「俺はトオルさんのお使いでディックに会いにきただけだよ」
「え、俺……?」
一気に不安げな顔になるディックに、未春はさして厚くもない封筒を手渡した。
「今回の件でスターゲイジーのこととか、お世話になったお礼だって」
「あ、あ~~……なんだ……ハハハ……脅かすなよ、もう~~……」
一転して嬉しそうに受け取る男を余所に、未春はハルトを胡乱げに見た。
「ブラックとは、此処でちょうど会った」
「……別に弁解しなくていい」
「俺は日本の拠点に行った帰りだ」
穏やかなバリトンで捕捉する男に、ハルトは面倒臭そうに片手を振った。
「わかった、お前まで言うな……」
粗野な言い方に未春が押し黙り、ブラックがその顔をちらと見てからスターゲイジーに向き直る。
「ボス、メイソンが来ている。そろそろ着替えを」
「あん? トオルと会うのにめかし込むこたあ無えだろ?」
コントローラーを手放す気のない男に、ブラックは薄笑いで首を振った。
「他の者なら良いが、ボスがそれでは困るとマーガレットが」
「今日は母ちゃんが多いなあ……」
ハルトに勝るとも劣らない気怠さで席を立つと、掛かっていたスーツを取って、紳士はのっしのっしと別室に消えて行った。
「大丈夫?」
未春が問い掛けると、ハルトは「何が」とカップを手に聞き返す。
「ごはん、食べた?」
「……お前も母ちゃんかよ」
鬱陶しそうな溜息を吐く姿はバーで飲み過ぎた様な状態だ。いつにも増して多い溜息に、未春は不安げな表情を浮かべたが、気を取り直した様に言った。
「ハルちゃん、ブラックが来年のお正月、来られたら来てくれるって」
親戚が遊びに来るような調子で言う未春に、ハルトがもたげた視線はひどく暗い。
「何の為に」
「おせちが気になるからって――」
言い掛けたところに、「はあ?」と嘲るような声が出た。
「なんだそりゃ……」
渋面に小馬鹿にした笑みを乗せ、コーヒーを含んだハルトに未春は眉を寄せた。
「なんだって……何?」
「――何じゃねえよ」
ガン!とカップを置いたハルトの声は、脅しの時の倍はドスが利いている。
部屋の端で脅され慣れているだろうディックが震え上がり、ブラックは薄笑いの目をすっと細めた。
「未春――お前、勘違いしてないか? 俺たちはそう遠くない先で殺されるかして死ぬんだぞ?」
詰問するような口調に、未春はきゅっと唇を噛んだ。
「そんなこと、わかってる」
「わかってるなら、未来の話なんかするな」
ハルトの声は一切の熱を欠いていた。
「俺たちには、無駄な話だ」
「無駄……」
「そうだよ……お前、やっぱり勘違いしてるな? そりゃそうか……十条さんがアレだからな……」
「トオルさんが、何……?」
「その発言は、生きようとしてる奴のものだ。俺たちはな……殺した分だけ痛い目を見て死ぬのが相場なんだ。明日どうする程度の未来ならまだしも、将来の展望なんか無い。一年先もあるかわからない先のことを考えるのは無駄だ」
「ハルちゃんは……一度も考えたことないの? 来年はこうしようとか……」
「無い。……意味がないことはしたくない。そんなことをしてたら頭がおかしくなる……」
「どうして。おかしくなんてない。俺は明日もハルちゃんとごはんが食べたいし、来年もハルちゃんとお正月を祝いたい」
「Stop it……!」
いつかのそれより鋭い声が告げた。
「やめろよ。バカかお前は……! そんなこと考えて何になるんだ? 」
「考えてよ。ハルちゃんが生きられる方を選択してほしい」
「何の為に? お前の為にか? なんで俺がお前の為に生きる未来を選ぶんだ?」
未春が細い息を吸って瞠目した。
目線がどろりと揺れて俯き、それきり唇を噛んで押し黙る。ハルトは苛立たしげに言葉を続けようとしたが、ブラックが未春を庇うように割り込んだ。
「――ハル、その言い方は良くない。未春が辛そうだ」
「……お前まで、何なんだ?」
ハルトの声が苛立たしげに荒くなる。早くも嫌な予感に行き着いたディックが「まずい」と顔に描いたが、ブラックは幾らも変わらぬ薄笑いのまま、素直に答えた。
「俺は思ったことを言っただけだ。あんたたちの関係以前に、その発言は思い遣りに欠けると思う」
「へえー……そいつも仕込まれた“紳士”か? 気に入らねえな」
再び嘲る調子が出た。いよいよまずい。ディックが止めに入るかという手前、ブラックはすんなり言った。
「ハルは意外とつまらないことを気にするんだな」
穏やかな口調に対し、ハルトの目付きがぎらりと剣呑なそれに変わった。
部屋の主は青くなった。――おい、それはいかんぞ色男。ハルのスタンスに意見するのは非常にまずい!
「お、おーい……修羅場なら俺んち以外で頼むぜー……」
どうにか言った家主の忠告の、なんと弱々しいことか。案の定、癪に障ったらしいハルトが、手近な机の脚をガン!と蹴飛ばした。
終わった。
この状況を予報する仕事があるなら、「今日も家具のどれかが壊れるでしょう」だ。いや、諦めるにはまだ早い。ディックは慌ててもう一人を振り返った。
「おい、未春……! なんとか言ってやってくれ! うちが被害を
“被る”などという難しい日本語を唱えて懇願する外国人に、未春は眉をひそめ、どこか途方に暮れた顔をした。その寂しい眼差しに悪の商人さえ臆す中、ハルトは頭ひとつは高い位置にある顔をぎろりと睨んでいる。
「なあ、英国紳士……知らない様だから教えてやる。俺は同業者の正義ヅラと、生き方に四の五の言われんのが大嫌いなんだ」
「それは知らなかった。俺の無礼は認めても構わないが、未春は家族だろう? 彼にはあんたの生き方に口を出す資格があると思うが」
「なるほどな、無知な紳士に教えてやるよ。俺とこいつは只の同僚。家族ってのは便宜的な同居人というだけだ」
未春の表情が微かに強張った。ブラックは眼下からねめつけてくるハルトから、そちらへと視線を向け、薄い笑みのまま戻した。
「ハル、あんたは優しい男だと思うが、少々、幼稚な面が有るようだ」
ハルトの頬がひくつくより早く、ディックがさあーっと青ざめた。
「一応聞くが、殴られる趣味は無いよな?」
「無い。あんたの為にもやめた方がいい。俺は素手の喧嘩で負けたことはないし、そちらとは体格差がある」
「さっき言ったぞ……四の五の言われんのは大嫌いだって」
ディックが天を仰いだ顔を手のひらで覆うより早く、背丈の差など物ともしない顔で、ハルトの手はブラックの襟首を引っ付かんだ。一方、ブラックは乱暴な手を退けようともせず、首を差し出すような姿勢で薄笑いのままだ。
「俺に殴られても何ともないって顔だな?」
「そんなことはないが、ハルの右ストレートには興味があるな」
「つくづく仕事熱心な野郎だ。歯ァいっちまっても知らねえぞ」
ぐっと拳を握り締めるや、殆ど躊躇いなく素早いモーションで振られたそれがヒットする手前、未春がやめろと叫ぶ。ディックが息を呑む。
次の瞬間、四人の視線の先には忽然と現れた大柄な紳士が居た。否、実際は隣の部屋から悠々と入ってきたのだが――流れるようにその片手はハルトの拳をがっしり受け止め、もう片手は未春を制止していた。
「まったく、呆れた奴らだ」
良いスーツの前を開け放ち、ネクタイは引っ掛けただけの、筋肉で膨れたシャツの紳士は言った。
「……スターゲイジー……」
怒れる目玉をそのまま向けるハルトを紳士はじろりと見下ろし、防御する素振りすらなかった部下から引き離した。思ったより大人しいハルトの肩に手を添え、スターゲイジーは何も言わずに軽く襟元を直す部下に静かに言った。
「ブラック、未春を送ってからメイソンと先に行け。俺は後から行く」
「Yes, Boss.」
見向きもせぬ指示に、ブラックは全く反することなく頷くと、雨ざらしに遭ったような顔の未春の肩を叩き、後ろ髪を引かれる様子のそれを伴って出ていった。
「ディック、一台あっためといてくれ」
「は、はい……」
ディックがほっとした様子でこそこそと出ていくと、部屋は唐突にがらんとした。
暖房の音だけが響き、ハルトは拳を握って突っ立ったまま、彫像のようにぴくりとも動かない。
「前にもこんなことがあったな。お前は冷静に見えて、気に入らんことには断固反対する。俺は自分を曲げない男は好きだぜ」
強めにその双肩を叩くと、スターゲイジーは苦笑した。
「どれ、久しぶりにイギリスのダディが遊んでやろう、付き合えよ」
顎をしゃくる方向には、スイッチが入ったままのゲーム機がある。
「……嫌です。ゲームはしません」
「なんだ、お前まだ下手クソなのか。やらにゃ上手くならんぞ」
施設に居た頃、訪ねてくる毎にゲームを持ち込む紳士は、一体どれだけ打ち込んでいるのか、何をやらせても上手かった。大人げない大人は、子供相手にも手を抜かず、ほぼ全員を負かしては喜び、フレディに敗れた時は本気で悔しがって再戦を要求した。あの頃といつかのゲームセンターの惨敗を思い出しながら、ハルトは呆れ顔で首を振る。
「こんなもの、暇つぶしの遊びでしょう。上手くなってどうするんです?」
「フフン、お前はそういうところがいかん。ゲームだぜ? 上手くなるのが目的じゃねえ。楽しんでる内に上手くなる。反対に言や、上手くならんでも楽しいのがゲームってもんだ。コイツは人生と一緒なのさ」
「ゲームが……人生ですか?」
「そうだ。真面目な奴は、上手くできねえからってやめちまう。やめたら終いだ。だが、お前が言った通り、ゲーム如き上手くねえからって何なんだ? 下手でもいいだろ。下手でも楽しんだ奴が正しい。人生も一緒だ。上手な奴は有利かもしれねえが、下手でもやめねえ奴に勝機もチャンスも巡るもんだ。お前は何でも上手くやろうとするから、要らんツケが回るんだ」
「……」
どっかと座ってソフトを挿し替えた男が差し出すコントロールを、嫌そうにハルトは受け取った。
「やっぱお前とやんならガン・シューティングだな!」
始まる前から楽しそうな男をちらと見て、ハルトは溜息混じりにコントローラーを握って座った。本物によく似せたシューティング・ゲームは、どこかで呼吸をしていても驚かないリアルな人物や、音も現実そっくりの武器が有った。
「……下手でも文句を言わないで下さいね」
「誘っておいて言わねえよ。安心しろって」
しぶしぶスタートしたそれは、まあ、わかっていたが、現実の半分ほども動けない。コントローラーの操作法を覚えるだけでも一杯一杯だ。こっちが醜態を晒す中、スターゲイジーは次から次へと敵を撃つ。連係プレーではなく、完全たるお荷物を抱えてのそれに、何が楽しいのか、紳士はニヤニヤ笑っている。
「ハル、ジョンかアマデウスと話したんだろ?」
急に降って来た現実に、ハルトがぎくりとして硬直した。立ち止まるプレイヤーを狙った相手を、あっさり撃ち取り、スターゲイジーはハルトの肩をばんと叩いた。
「隙を狙うのはコンピューターも一緒だぜ」
「誰の所為ですか……!」
「話したんだろ。わかりやすいツラしやがって」
その間も、紳士の指はコントローラーを複雑に操作し、流れるように銃撃する。
一体どれだけそうしていたのか。何分も経ってはいまいが、テレビから発せられるBGMと派手な効果音を聴きながら、ハルトは長い時を過ごした気がした。
「……スターゲイジー……BGMは――ジョンの親を殺す為に行動してるんですか」
「おう」
あっさり頷いたが、紳士は画面を見たまま、すんと鼻を鳴らした。
「爺さんがやる気なら――と、言いてえとこだが、俺らはグレイト・スミスの怖さを知ってるんでな……迎え撃つような気分じゃ、こっちがやられちまう。現実にコンティニューが無い以上、絶対に仕留める気で行くぜ」
「何者なんですか」
「伝説のスパイってのは聞いたか?」
「ええ……貴方やアマデウスさんの師匠だとか、『世界を滞らせる』のが目的とか……部分的に」
「あの爺さんはな、トオルと似たタイプの”天才”なんだ。フレディも同系だな。仕組みは各々違うようだが、こいつらは世界の流れが見える。トオルが見えたそれを奴が信じる良い方へ運ぼうとするように、爺さんもそれを企んでる」
「それが、『世界を滞らせる』ことなんですか?」
「ああ。爺さんは、それが世界を平和にすると思ってやがるんだ」
答えたスターゲイジーは笑んでいるが、画面を見る目には軋るような感情――鬱陶しいものを見るようでもあり、救い難きものを見る憐憫にも似たそれが見え隠れする。
「仕方ねえんだ、爺さんには爺さんが信じる矜持ってもんがある。俺らも『世界を滞りなく回す』のが正しいと思うからやる。世界に働きかけられる者同士、対話解決できりゃあ一番良いが、俺らはよーく知ったモン同士なんでな……無理なのはわかってる。やりあうしかねえのさ」
ちら、と紳士の目がハルトを見た。
「ハル、『世界を滞らせる』ってのは、何をどうすると思う?」
「さあ……」
「加速し続けて来た世界が、スローダウンするんだ。自然な傾向じゃ、人口減少だな。人口が減ると、市場が縮小していく。家だの土地だの、買う人間が減るから資産の価値が下がるわけだ。極端な話、技術革新に歯止めが掛かるのさ」
想像もつかない話に、ハルトは目を瞬かせた。
「この変化は放っといてもいつか起きると言う有識者は居る。爺さんは、これを今世紀に無理やりやる気なんだ。常に新しく有ろうとハイスピードで走ってる世界に急ブレーキをかけ、見直しを迫る」
「一体、どうやって……?」
「主に三つ。天然資源の占有と、半導体企業の掌握、そして、要らん人間を減らす」
恐ろしい発言に瞠目した。天然資源は、半導体にも使われるシリコンやゲルマニウムなども含まれる。半導体を押さえられたら、多くのデジタル製品が影響を受ける。スマートフォン、パソコンのCPUはもちろんのこと、テレビに冷蔵庫にエアコン……――生活に支障が出るばかりか、データ通信の要を握られるも同然だ。
もう一つはBGMも同じことをしているが、人口レベルでは話の規模が違う。
「まさか……そんなこと、できるわけが……」
「フフン、そこは俺らBGMと同じだぜ。既にレアメタルの発掘場と米国とアジアの半導体企業が一つずつ落とされた。頭もすげかえねえで、本人は姿を見せずに社員丸ごと懐柔しやがったんだ。トオルやフレディがやると思えば、まあ不可能には感じねえだろ?」
嫌な表現だが、確かにそうだ。やり方こそ違うだろうが、あの二人ならやりかねない。同様或いはそれ以上の力を持つという男なら……――
寒気がするように表情を強張らせると、スターゲイジーはニヤリと笑った。
「爺さんだけでも手一杯なのによ、フレディも動き出したし、面倒な相手は悪党以外にも居やがる。おまけにあっちこっちで下んねえ紛争騒ぎだ……体が幾つ有っても足りやしねえ」
「ゲームばっかりしてる人が言うことですか」
「フフン、調子が出て来たな」
ゲームを進めながら、スターゲイジーはしばし黙した。
効果音やBGMで劇的に聴こえる空想の戦闘を見つめ、ハルトも同じように淡白な顔つきでゲームを続けた。
「ハル。ジョンの親を殺すのは嫌か?」
不意に出た問いに、ハルトはコントローラーをぐっと握りしめた。
「俺は…………違う、そうじゃないんです……あいつ……、俺に……『殺しが嫌になったのなら』って言ったんだ……なんで……なんで、そんなこと言うんだって――……俺はもう……殺し屋でしか無いのに――……」
意図せず、語尾が震えた。視界の端で、スターゲイジーが頷く。
「確かにな。手前勝手だ。悪党は皆そうだ」
「そうです……! そうじゃないと割に合わない……! 勝手で居てくれればいい……今さら――……相手がどこの誰でも、俺は殺すしかないのに、余計な事を言いやがって……!」
震える声とは裏腹に、画面のプレイヤーは敵をダン!と吹き飛ばす。軽快に金属の杭でもぶっ叩くように、ガンガンガンガンと次々に仕留めていく。ヒュウとスターゲイジーが口笛を吹き、ニヤッと笑った。
「いい調子だ、ハル。ゲームはストレス解消でもある。お前の人生なんだ、お前の憂さは、お前のやり方で晴らさねえとな」
「……たかがゲームです。死んでも次があるもので慎重になんかやる必要はない」
「わかってきたじゃねえか。お前はいつも難しく背負い過ぎなんだ。楽しむ要素を足せよ」
舌打ちしながら片っ端から撃っていくハルトに対し、それを守りながら効果的に敵を落とす紳士は言った。
「ハル、安心しろ。お前に首輪を掛けたアメリカ野郎はやる気だし、爺さんはお前を放っておかねえよ。仮にお前が逃げようと、絶対に対峙する日が来る。だからアマデウスはお前を育てたんだ」
「……俺が、あの人たちのミスの上に居るからじゃないんですね?」
「そうだ。そう思ったって構わねえが、勘の良いお前は気付いてんだろ……アマデウスもジョンも、安易に天涯孤独のガキを作る様なマヌケじゃないってことは」
言葉にならない感情を飲み込んで、ハルトは敵を撃ち抜いた。
「お前は生まれる前から策謀の上に居る。その始まりがグレイト・スミスと言ってもいい。そこでゲームみてえに、ラスボスを倒して終わるんなら楽なんだが、現実はそうはいかん。俺は支えてくれる社員の為に働かねえとな。お前が背景の側に立っていたい気持ちはわかるが、あくまで”BGM”の俺たちが大っぴらに動くと世界戦争になっちまう。俺たちは俺たちらしく、潜んで機を待ち……時が来たら確実に仕留める」
最後の大物に集中砲火を浴びせ、徐々に良い動きになるプレイヤーにスターゲイジーは笑った。クリア画面を見つめる目には、怒りも憂いも喜びも無い。コントローラーを投げ出し、ここ一番のバカでかい溜息を吐いた。
その肩を叩いて、紳士は声を立てて笑った。
「オイオイ、こいつは驚いた。ハイスコア更新じゃねえか」
祝杯と言わんばかりに開いたボトルを一息に飲み、良い大人は心底楽しそうに声を上げて笑う。ハルトは面白くなさそうな顔で画面を見ていたが、纏っていた嫌な空気は消えていた。疲れたように落ちる肩に手を置き、スターゲイジーは言った。
「お前はプロだ。俺もアマデウスも、お前を必要としてる。体が思い通りに動く内は続けりゃいい」
ゲームのスイッチを切りながら、急に静まり返る中、紳士は厳かに言った。
「――だがな、お前がこれまで生きて来た中で、出会ってきた連中の中には、お前のことが好きな奴が居るんだ。俺もそうだ。何を選択しようがお前の人生だが、孤独と一人で生きるのは意味が違う。それは忘れるな」
すう、とハルトは息を吐いた。先程の未春の表情が脳裏に浮かんで消えた。
「……わかりました」
「おし、行くとするか」
余っていた炭酸を呷って、手早くネクタイを締めた紳士が立ち上がったとき、再び、扉がバン!と開けられた。
「スターゲイジー! そろそろ行かないと間に合わな――ああっ! もう~~行く前に片付けて下さいよ!」
紳士はそれに答えず、ニヤニヤ笑いながらハルトにぽいと空のペットボトルを投げた。受け取ったハルトはそれを一瞥して苦笑した。次の瞬間、何事か喚きながら入って来た筋骨隆々の
「大丈夫か?」
洒落たマーチンの後部席に乗り込み、隣に座ったブラックの問い掛けに、未春は人形めいた動きで頷いた。
「……ありがとう。ごめん、ブラック。俺がいけなかったんだと思う……」
俯いて言う声はひどく暗い。その肩を労わる様に叩いて、低く穏やかな声が言った。
「俺は何ともない。気にしないでくれ」
その様子をミラー越しに見た助手席から「あらまあ」と声がした。
「ブラック、貴方またずいぶん可愛い子を泣かせてるのねえ」
呆れたように言う相手は、輝く白髪を綺麗に纏め、柔らかそうなコートに身を包んだ妙齢の婦人だ。彼女もブレンド社なのだろうか。運転席のプードルみたいな髪の青年は日本の血を感じさせる容貌だが、肌の白さや目鼻立ちは婦人と似ている。彼はハンドルを握りながら、仕方なさそうに首を振った。
「マム、それは普通のことだよ。ブラックは一度の出張で男女問わず、五人から十人は泣かすんだから」
「誤解だ、二人とも。そんなに泣かせた覚えは無いし、泣かせたのは俺ではない」
薄笑いでそう答えてから、ちょっと考える顔をしたブラックは未春に振り返った。
「いや、ひょっとして、俺の所為か?」
自分を指して首を捻る男に、未春は目を瞬かせて首を振った。そもそも、落ち込んではいるが、泣いてなどいない。
「違う。ブラックは悪くない」
「それなら良いんだが」
「寛大な坊やで助かったわね。いくら貴方でも、クレイジー・ボーイの怒りを買うのはまずいものねえ」
婦人が愉快げに笑うのに、ブラックは敵わないといった苦笑で肩をすくめ、未春は不思議そうな顔をした。
「トオルさんを知ってるんですか」
「もちろん。『ブレンド社は世界の全てに通じる』……貴方のことも知っているわ、ブレイド・ウォーカー。BGMの中では、貴方は有名人よ」
そうこうする間に、たちまち辿り着いたDOUBLE・CROSSの店先で、未春はぼんやりとCLOSEの看板を見つめた。
すぐに下りられるドアを前に、未春はぐっと唇を噛んだ。
「あの……一緒に連れていってくれませんか」
護衛の体で呼ばれているのはハルトだけだ。十は行方不明のフレディを警戒して店に残そうと思ったのかもしれないが、残れという指示は無かった。さららも今夜は外出するし、相手は優一だ。わだかまりが無いわけではないが、彼と一緒なら、彼女の身の心配は不要だ。
それに、十に指示されなかったのだから、大丈夫な気がした。
――十を、信じれば。
「ハルが心配なんだな」
ブラックの問いに頷いた未春に、先に同意したのは婦人だった。
「いいじゃない。連れて行くぐらい。ボスが抵抗したら手伝ってもらいましょうよ」
「そもそも何の揉め事なんだい? ホントに色恋沙汰じゃないんだろ?」
未春とブラックが顔を見合わせ、殆ど同時に首を捻った。
「ハルちゃんに、来年の話をしたら……」
「未来の話はするなと怒りだしたな?」
事の顛末を話すと、今度は前席の二人が顔を見合わせる。
「噂のフライクーゲルは、philosopherなのかしら?」
「フィロソファー?」
耳慣れない英語を未春が訊き返すと、運転席の男の方がハンドルを切りながらのんびり答えた。
「哲学者のことだよ」
「哲学者? ハルちゃんは哲学者って言うより……理屈屋って感じだと思う」
「理屈屋ですって? ウフフ……ラッセルが育てたからじゃないの? 会うのが楽しみだわ」
ウキウキと言う婦人に、未春はぱちぱちと目を瞬かせた。
ブレンド社の人間は、皆こういう感じなのだろうか。厄介事を前に動じず、ユーモアが有って、常に何かを楽しむ余裕がある。
「せっかく一緒に行くんだもの。貴方のお話を聞きたいわ、ブレイド」
「……はい。あの……未春でいいです」
頷いた未春に婦人はにっこり笑った。
「マーガレットよ。こっちは息子。――ハリー、何か音楽をかけて頂戴。ドライブは楽しくなくっちゃ!」
運転手がスイッチを入れると、ロックだろうか、やや気怠くも陽気なミュージックが流れ出した。レッドツェッペリンの「Good Times Bad Times」だ。マーガレットが年齢を感じさせないテンションで口ずさみ、BGMに肩を揺らす。
「歌いなさい、ブラック!」
「Oh……マーガレット、俺にはロバート・プラントは音が高い――」
「女の頼みにつべこべ言わないの。さ、ミハルには喋ってもらうわ。何から聞きましょ――」
すっかり主導権を握る婦人の言葉に、未春はブラックと顔を見合わせて小さく笑い合うと、ジミー・ペイジのギターに乗せて仕方なさそうに歌い始める彼の声を聴きながら、質問攻めに答え始めた。
「はー……」
此処にも溜息尽きぬ男が一人居た。
「リッキーさ~……それは”見当違い”ってヤツだと思うけどなあ」
居酒屋のテーブルを挟んだ
相談がある、と言われた時は何事かと思ったが、何のことは無い……例の恋の悩みだ。ようやく打ち明けられた意中の女性を聞いても、国見はピンと来なかったのだが、同じく呼び出されて同席した明香はその相手を知っていた。
米軍基地に住んでいる高校生の女の子だ。さして歳が変わらないのに、女子高生が好き、というと何やら怪しい文言に聞こえるのが不思議だが、明香曰く、ハーフの彼女は同世代よりも達観していて、大人っぽいそうだ。
ひとつ問題なのは、存在を危惧していたライバルである。
「ウン……わかってるんだけどさー……」
摘まんだまま冷えたポテトを持ち上げる元気も無さそうな力也に、ビールジョッキ片手の明香は、国見を見た。
「くにみんもそう思うっしょ?」
「えっ、あ、ああ……まあ、うん……」
「ほら。リッキー、心配することないって。ハルトさんは女子高生にも美人にもキョーミないよ。ミーくんのアプローチで一杯一杯なんだし」
――最後の一文が気になったが、それはさておき、力也がこの恋にコソコソしていたのも、今、溜息を吐いているのも、あのハルトをライバル視しているからだった。
ますますピンと来ない話なのだが、
そしてつい先日、やはり妙な偶然で、彼女はハルトに纏わる危険な事件に関わり、
命の危険に晒されたが――……ハルトと未春に救出されている。
「俺にはよくわかんないんだけど……ライバル視するってことは、彼女はハルトさんが好きってこと?」
国見の疑問符に、明香はビールを飲みながら片手を力也に差し伸べた。
話せと指示された力也が、冷めたポテトみたいにもそもそと答える。
「うん……俺はそんな気がしたっていうか~……」
「な、なんで……?」
聞き返した国見に、力也が「え?」と聞き返す。
「えっ、って……イヤ、おかしくない? 自分の親を殺されて、仇を討とうとしたら逆に捕まって、今回は全然関係ないのに殺されるかもしれなかったって? それのどこで原因の男を好きになるんだよ?」
畳みかけた国見に、力也は目が点になったが、明香はニヤニヤ笑った。
「くにみんの言うことが正論じゃない? ハルトさんがミーくんとかブラック並のイケメンなら、映画やコミックスみたいなワケのわからん恋に落ちることは有りそうだけどさ」
「センパイはカッコイイけどなあ……」
「そ、ハルトさんは俺らにとってはカッコイイ。前にもミーくんと、こんな話題したっけ……俺もなんでか説明できないとこがあるけどさ、仕事人的な意味で理想的だよねー。男としちゃ、ブラックのが断然イイと思うけど」
ふと息を呑んだ力也と国見に、明香が頬杖ついて唇を歪めた。
「あ、俺はゲイじゃないから安心してよ」
含み笑いしてからビールを飲む明香に、正直な不信感を見せた国見に対し、力也はまたうわの空になってしまう。
「もー、リッキー元気出せよー。リッキーはリッキーらしく行けばいいじゃんか」
「う、うん……それはわかってる」
「ところで、いつ好きになったの?」
国見の問い掛けに、力也は例のもじもじを始め、無意味にグラスを指で擦ったりし始めた。
「……え、えーとお……お、俺さ~……基地でやるマラソンに毎年出てたんだけど……その練習でランニングしてて……散歩してるの見て……」
上手い説明ではなかったが、要は寒風の中で短い髪をなびかせ、白い犬と共に颯爽と歩く姿に惹き付けられたという。
「一目惚れかあ」
明香が口笛を吹き、「へえ」と国見があまり興味がなさそうな相槌を打つと、顔を赤くした力也がバタバタと手を振る。
「さ、最初は知らなかったんだよ! 未成年だから事件の時も顔や名前は出なかったし……」
「おりょ? じゃあどこで、彼女が
「去年の年末辺りに、DOUBLE・CROSSの前に立ってたんだ。早朝で……OPENしてない暗い中を見てるから、何してるのかなって思って……声掛けて……」
ソフィアは犬を連れ、物言いたげな表情で店を見ていたらしい。
用が有るのかと尋ねた力也に、彼女は戸惑いつつ、首を振ったという。
――用は無いけど、此処には迷惑を掛けたから気になって。
「詳しく聞いたら、教えてくれた。ちょっとだけ喋って……」
いくら力也がDOUBLE・CROSSの関係者でも、自分の犯罪の話をしたのか。殆ど初対面だろうに、こういう話をすんなりさせるのは力也の才能かもしれない。ソフィアから事のあらましを聞き、その凛とした態度に好感を持ったが、同時に――相手を知りたいが為に、力也の勘は違う方面に働いた。
「なんとなく……センパイのことが好きなのかなあ……って思った。未春サンや十条サンのことが好きな人は、瑠々子ちゃんみたいに沢山居るからわかるんだ。だけど、彼女はちょっと違うから」
「リッキーに恋愛の機微を聞く日が来るとはねぇ……」
しみじみ言う明香に対し、力也はちょっぴり縮こまった。
「俺、センパイとは全然タイプが違うからさ……せめて、きちんと喋りたいなって思って英語頑張ってみてるけど、なかなか上手くいかなくて……」
「リッキーはリッキーで勝負すんのが俺はイイと思うけどなあ」
唐揚げをもぐもぐやってから明香が言うと、国見も頷いた。
「俺もその方が良いと思うな……あの偽物騒ぎでも思ったけど、ハルトさんは真似してどうにかなる人じゃないと思う。なんかこう……すごく計算して出来てる人って感じがする」
「フフフ……くにみん、けっこう鋭い。ほれ、リッキー、自信持ちなって。仮にハルトさんが彼女のコト気になってても、俺はリッキーの味方だからさ~」
軽薄丸出しのエールだったが、力也は目をぱちぱちさせた。
「でも、あっくんは、センパイの――……」
「リッキー、ソレとコレは話が別」
箸で空中から空中へ振ってにこやかに言うが、その言葉はどこか冷たい。
「俺はさ、リッキーみたいな正義感も無いし、トオルさんみたいな博愛主義者でもないんよ。あの人たちに協力すんのは、俺がやりたいことは世界が平和でなんぼだから、利害の一致ってヤツ? お金持ちだし、おもろいってのもあるけどね」
非常に素直な金の亡者は、ビールをぐいと呷って笑った。
「んで、ハルトさんは好きだけど、優先順位つけたらリッキーのが圧倒的に上。困ってるときどっち助けるって聞かれたら、俺はリッキーを取るよ」
「う、嬉しいけど……なんか複雑だなあ?」
人の良い力也が困り顔で頭を掻くが、国見は何となくわかると思った。
明香の評価はそのまま、最近見えた来た日本BGMの構図だ。新参者として聞いた時には驚いたが、ハルトが日本のBGMに加入した時期は自分とさして変わらない。にも関わらず、彼はDOUBLE・CROSSに来てひと月も経たぬ内に皆の信頼を得、もうずっと前から居たように馴染んだ。彼が常人ならざるを知って尚、奇妙なことではある。いくらハルトが良識的でも、世界屈指のガンマン且つ、『
ハルト自身はこの点、距離を置くようにしているようだが、力也は既に人生レベルの先輩だと思っているようだし、さららのセコムでお馴染みの未春は、彼を友人――或いはそれ以上に考えている。一方、BGMのメンバーを始め、DOUBLE・CROSSに関わる人間は十条十を中心に、他人とは思えない絆で結ばれている。それは数年、或いは十年以上かけて培ったものだ。そこに難なく入り込んだハルトは――そう、一見、”入り込んで見える”ハルトは、本当はたかが数カ月の付き合いに過ぎない。
――それは……代表の十条十の匙加減で、安易に変わる関係性なのでは?
店の入り口が開いて、吹き込んできた冷たい風に国見が身震いしたとき、明香は新たに運ばれてきたジョッキを掲げて言った。
「よっしゃ、今日は飲もう! リッキーの想いが届きますよーに!」
くすぐったそうにはにかんだ力也と、周囲に注目される恥ずかしさを露わにした国見もグラスを上げた。
到着したレストランを、車から降りたスターゲイジーは呑気に見上げた。
「男と会うには色気が有るじゃねえか」
シックな様相の建物は、小さな看板と入り口のみを橙色の照明が照らし、黒い枠で仕切られた窓にも淡く灯った照明が幾つも見えた。DOUBLE・CROSSもそうだが、シンプルな外装に洒落た照明と多くの観葉植物を配するのは、日本の流行らしい。
「何が食えるんだろうな。トオルも甘党だから楽しみだ」
「そうですね」
ひとつも興味が無さそうに言ったハルトに紳士が苦笑いしながら入って行くと、扉の傍には親子ほどの年齢差の二人組が立っていた。
「ああ、来たのね、ボス」
往年の皺も美しい婦人は、艶めく白髪を綺麗にまとめ上げ、ターコイズグリーンのワンピース姿でにっこりと微笑んだ。隣にはトイプードルのような髪の男が、スーツとよく似合うチェックの蝶ネクタイを締めて立っている。
「……マーガレット? 何処のファーストレディかと思ったぜ」
「ありがと、ボス」
手慣れた様子で返事をする女に、スターゲイジーは訝し気に首を捻った。
「お前も付き合うのか?」
「私は付き添いよ。男だけにコーディネートを任せるわけにはいかないもの」
「ああ? コーディネート?」
胡乱げに言った男が、ふと背後のハルトを振り向いたが、こちらは明後日の方を向いて目を逸らす。
「さあさあ、急いでボス」
「なんだなんだ、お前ら寄って集って何の――……」
婦人に腕を引かれてフロアに入ってきた大柄な紳士は、先にテーブルに着いていた人物にぎょっとした。その目の先に居るのは、満面の笑みでひょろ長い手を振る十と、その傍らの愛らしい笑みを浮かべた少女ではない。
「ナ、ナンシー……!」
せっかくのエレガントなブルーのドレスを纏ってなお眉を逆立てている女は、”一目でわかる程”ナンシー・アダムズだった。ジョゼフが真似たのが比較にならない怒りをあらわに、それでもどっしりと椅子に身を置いているのは、さすがは親子だろうか。
父親とよく似た貫禄を持つ娘は、舌打ちしそうな顔でぷいと目を逸らした。
「ち、ちょっと待て? 俺が予約したのは此処じゃない筈――」
「スターゲイジー、嵌められたんですよ、貴方も」
ごく少量の哀れみを示したハルトに、紳士はらしくもなくポカンとした。
「……有り得ん……! 俺は正規のサイトからアクセスしたんだぞ? それがどうやって別の店になるんだ? ……いや、待て……内装は合ってるか……?」
辺りを見て混乱を示す男に、ハルトは頷いた。
「そのサイトが、偽物だったんですよ。候補から全部」
紳士は阿呆みたいに口を開け、しかしそこは世界クラスの悪党、誰の仕業がすぐに気付いた。
「……バカな……アルフレッドか?」
現クリス・ロットであるアルフレッド・ヘス――世界的SNS・
「そうです。十条さんが候補に上げたお勧めの店”全て”の偽サイトを南米支部――というより、彼が自分で作ったんでしょうが……さも貴方が予約を取ったかのように本物の店を予約して、領収書を送ったんです。墓を暴いたお礼だそうですよ」
「クソ……! そいつはブラックの――あぁ、奴もグルか! お、俺は座らんぞ!」
地団駄踏む紳士に、当然のようにハルトはひょいと本物の拳銃片手に席を示した。
「どーぞ、大人しく座ってくれませんか。俺はこんな高そうな店で何か壊して弁償したくないので」
「ハッ……随分と雑な脅しじゃねえか、ハル」
「何とでも。脅しの辺りで手を打って下さい、スターゲイジー。俺は、貴方のことが大好きなブレンド社と喧嘩するのは遠慮したい」
ハルトの言葉に振り返ったスターゲイジーは、味方である筈の社員たちに目を剥いた。婦人とその息子はにこやかな顔だが、滲み出る毒と企みを隠しもしない。
ナンシーをドレスアップしたのだろう婦人は、女王の様に品よく微笑んだ。
「ボス、これは社の総意よ。ちゃんとアンケートを取ったから神妙にしなさい」
「い……いつの間に……!」
悔しげなスターゲイジーだが、そこは無理もあるまい。一般人でも、素知らぬ顔でアンケートぐらいできるし、音声ナシでの打ち合わせも可能だ。それを踏まえて、ブレンド社は一人一人が優秀な調査員なのだから、社長の目を盗んで社員の総意を固めるなどわけもないだろう。無論、これは一人として社長に気取られるミスを犯さず、社員全員が同じ気持ちで社長を愛していなければ実現しないが。
「そ、総意なのはわかったが、俺が娘と食事をするってのはだなぁー……」
この期に及んでグダグダ言う男に、男の方がしれっと言った。
「そう仰ると思いまして、ボスが最後まで穏便に食事が出来るのか、社内で賭けています」
「うぐう……」
「九割はボスを信じて賭けましたが、途中退場しますと、ニムやグリーク辺りが総取りです。ボーナス全額賭けた奴もいるので、寛大な対応を頼みますよ、ボス」
……ブレンド社は社長愛で繋がる一方、これがあるから怖い。
「バカどもが……なんつう割に合わねえ賭けをしやがる。ブラックはどっちに賭けた?」
「もちろん、最後まで食事をなさる方です」
「へっ……ニムと分けやがったか……全く、仲が良い奴らめ……!」
呻いた紳士は大きな手で額から顎髭までを撫で付け、落ち着かない様子で腰に手をやって視線を床にうろつかせ、無意味に靴を鳴らし、泳いできたかのように息を吐き出した。
「ボス、ナンシーは席に座った。貴方も座らなくちゃ」
「……クソ……わかったよ、こんちくしょう共……俺も男だ、腹を括る!」
意を決した男は、試合に向かう格闘家のように大股でずんずんとテーブルに近付いた。にこやかに席を勧めた十を殴りそうな顔で見たが、それでも実乃里には笑い掛けてきちんと会釈し、席には行儀良く座った。ナンシーと向かい合う形だが、対岸の娘もまるで殺し屋の表情だ。
ひとまず、席に着いただけマシだと思ったハルトの傍ら、婦人が忍び笑いをもらす。
「とりあえずは良しとしなくてはね。お手伝いありがとう、フライクーゲル」
「お安い御用ですが、その呼び方やめて下さい……レディ・スラスト」
「あら、坊や……お若いのに、私の懐かしいあだ名をご存知なの」
「……ナチとカーチェイスの話を聞いて思い出しました。あのラッセルが恐怖体験と語る出来事が、当時、最速のスパイとあだ名された貴女が運転する車で戦闘域を駆けたことだと聞いたことがあります」
「嫌ねえ……彼は攻撃でバラックみたいになった車に怯えてただけよ。エンジンと車輪が無事ならどうにかなるのに、小さい男」
この婦人の前では鬼教官も形無しらしい。ハルトも苦笑するしかない。
「貴女が日本にお住まいだとは知りませんでした」
「夫の母が日本人だったの。とてもステキな人で、彼女の生き方を見習いたくて来日したら、あらゆるものにハマってしまって」
目を輝かせる婦人に、息子は肩をすくめた。
「マムは多趣味過ぎるよ。お茶に習字に、着物に日舞……梅干しに梅酒作り……」
指を繰る息子から出るワードはしとやかで手まめな趣味だが、次の瞬間、和の雅な雰囲気は途絶えた。
「あと、居合だね」
「本物の刀を持ってみたかったのよ」
ハルトがこの親子とはなるべく関わるまいと胸に誓ったところで、食事は概ね和やかに始まった。十が居れば――いや、この場合は実乃里か。妻ではなく娘を連れてくる辺りが十らしいが、彼女がニコニコしていれば、英国紳士はジタバタすまい。
「ハル、貴方も一緒にいかが?」
空いたテーブルを示す婦人に、ハルトは首を振った。
「結構です――この辺で座ってますから」
普段は待合に使われるのであろう椅子を指す青年に、婦人は片手を頬にやって呆れ顔をした。
「ま。ラッセルが育てた子はこれだから……玄関先は冷えるわ。あちらの部屋に居て頂戴」
「はあ……」
本来はその部屋が予約に使われる個室らしい。
「ついでに持って行ってもらいましょう」
婦人の言葉に頷いた息子が厨房の方へと歩み寄り、声を掛けたスタッフから平箱が幾つも入っているらしい大きな紙袋と、瓶が数本入った袋を受け取った。それをハルトに手渡しながら、口元に片手を添えてこっそり言う。
「中にブラックが居るんだ。彼はナンシーに嫌われてるから目に入らない所で待機になったんだけど、ディナーが食べられないのはかわいそうだから。君が付き合ってあげてよ」
受け取りながら、なかなかの重みにハルトは面倒臭そうに婦人を振り返った。
「四、五人分は有りそうですが」
「それはそうよ。ブラックだもの」
「まあ、それもそうですね……」
……こんなものを間に置いて殴り合う羽目にならないといいのだが。
そう思いながらハルトはドアに近付き、軽くノックしてから開け――唖然とした。
確かに、ブラックは居た。
洒落たシャンデリアの元、テーブルを囲むソファーが占める小さな部屋で、彼は座っていなかった。例によって真っ黒な姿で壁の前に立っていたが、片腕の肘を壁に当て、壁との間に挟んだ”相手”に向けていた笑みをこちらに振り向かせた。
「ハル」
あのオークモスが香ってきたが、顔をしかめる間もない――荷を下ろすのも忘れて、思わず言った。
「What are you guys doing……?(何をやってんだ、お前らは……?)」
壁を背にブラックの前に立っていたのは、つい最近、十に壁際に追い詰められていたのと同じ状態になっている未春だ。両者は額が触れる程の距離に接近していたが、表情はあの時のように強張ってはいない。
「ハルちゃん」
至っていつも通りの未春の声がしたので、溜息を吐いたハルトは扉を閉め、重たげに袋を持ち上げてからテーブルに置いた。がちゃがちゃいう瓶を落ち着かせる頃、まろやかな低音が響いた。
「ハル、これは違うんだ」
「何がだ……? ……いや、もう何も言うな……俺はお前らがどうなろうがどうでもいいんだが、公共の場ではだな――……」
「誤解だ」
「ブラック……俺は何も誤解してないと思うぞ……?」
「そうじゃない。ハルと揉めた件をミスター・十条とマーガレットに相談したら、あんたの気を引く為に色々やれと指示を出されたんだ」
頭が痛くなってきて額を覆う中、未春がやや困った声で言った。
「……トオルさんにイチャイチャしろって言われたんだけどさ、俺もブラックもよくわからなくて……マーガレットさんと実乃里ちゃんが色々考えてくれて、『壁ドン』が良いってことになったから――」
「その脅されてるようなポーズが『壁ドン』だってのか? 大体、壁ドンってなんだよ……壁のマフィア?」
「マフィア?」
「『ドン』はマフィアのことだろうが」
「『ドン』は効果音だよ」
久しぶりに感じる専用辞書の訂正に、ハルトが硬直して思案顔になる。彼は胡乱げな顔で未だ同じ姿勢でいる二人に向けて指を向け、呟いた。
「壁に――」
その声に、意図を汲んだブラックが壁に当てていた片腕を離す。
「ドン?」
スッと切られた指に合わせ、彼は再び腕を壁に当て、未春に言い寄る様なポーズになった。
「……なんっっだそりゃ……」
やらせておいて、ハルトはうんざり顔になると、「いいから離れろ」と指示した。気怠そうにソファーに座ると、あっさり離れた二人も席に着く。
「ハルちゃん、まだ怒ってる?」
未春の窺うような問いに、ソファーにもたれてもう一歩も動きたくないといった顔のハルトは低い天井を仰いで片手を振った。
「怒ってねえから蒸し返すな。俺は来年の話はしないし、未春とは同僚ってだけだ……お前らがくっ付こうが何しようが関係ない」
ブラックは相も変わらぬ笑みを称えて頷いた。
「ハル、あんたにはあんたの矜持があるのは俺にもわかる。好意が相手に届くとは限らないこともわかる。ただ、ハルは未春に敬意を持って然るべきだと俺は思うんだ」
これには未春の方がきょとんとした。ハルトも訝し気な顔で真っ黒な紳士を見た。
「敬意?」
「そうだ。未春は、あんたが一番美味いと思う食事を作れる男じゃないか」
ハルトが胸撃たれたような顔になり、未春は目を瞬かせた。
「殺し屋でも、食うことは絶対に必要だ。ハルは未来の話をするなと言ったが、今日明日のことは良いと言った。それなら、あんた達は向かい合って食事をしながら、それを積み重ねればいい。それだけのことだ」
呆然としたハルトが何か言おうかと口を開けたが――……何も言葉は出てこなかった。殺し屋だろうと、一般人だろうと、食事をする。それだけのこと。
「……食うぐらい、一人でも出来るだろ」
負け惜しみの様に言うハルトに、ブラックは微笑を浮かべて、ディナーが詰まった箱の方を見た。
「俺も、昔は一人で良いと思っていた。今は違う」
「一人が寂しくなったってか?」
あくまで反発する気の視線に、黒い目は全く揺らぐ様子の無い笑みで首を振った。
「寂しくはない。一人より楽しいだけだ。ボスもよくそう言う。彼は一人の気軽さも大勢の煩わしさも知っているが、人間は一人で生きるものではないと俺に言った。単独で生きる生物なら、必要な時に仲間を見つける能力を持つというが、人間は持っていないからと」
「お前は犬並の嗅覚があるだろ? コイツも優れた聴覚がある」
「ああ。あんたも特別な視力があるな。誰かを見つけるのに役立つ。俺たちは普通を逸脱した為に一人を恐れなくなったが、それはいつでも一人をやめられるのと同じだ。――ハル、あんたがイライラしているのは、主義に反しようとする自分に気付いているからだろう?」
「……」
これが公共のレストランではなければ、テーブルに足を投げ出すぐらいはしたかもしれない。反論の代わりにそっぽを向いて不貞腐れたハルトを未春が見、薄笑いで座っているブラックに視線を移す。
「……食べようか?」
幾らか遠慮がちな問い掛けに、ブラックはにこりと笑った。
「そうしよう。せっかくハルが持ってきてくれたからな」
すぐに腰を上げて箱を開け始める二人を、ハルトはぼんやり眺めた。
只の食事。高かろうと安かろうと、作ろうが買おうが、只の食事。一人でも、二人でも、それは変わらない筈”だった”。
「……その香水、どうにかなんねえのか……」
溜息混じりにハルトは言った。唐突な難癖に聞こえるそれに、ブラックは薄笑いだ。
「ハルの好みではなかったか」
「俺はお前と密室に居ると、鬱陶しさと恐怖を感じる」
「あんたに意識されるとは光栄だ」
「お前の方が大概、誤解してると思うぞ……」
「ハルちゃんもハグしてもらえば? あったかいよ」
「バカ言え。ノーサンキューだ」
「Oh……未春とは抱き合ったことがあるのに俺はダメなんだな」
なかなかの挑発にぎりりと歯噛みしたハルトの前に、未春が軽快に瓶――ご丁寧にノンアルコールのそれをスパッと開封して置いた。
「乾杯しようよ、ハルちゃん」
「何にだよ……?」
「何がいい?」
「俺たちの出会いにかな」
薄笑いを睨みつけ、ハルトは瓶を引っ掴んだ。
「……クソ、お前らの神経はどうかしてる……!」
わりと本気の怒りを示したつもりだったが、未春がちょっと嬉しそうに言った。
「良かった。いつものハルちゃんだ」
ガチャン!と幾らか乱暴に瓶がぶつかり合い、水滴がキラキラと舞った。
ハルトが未春とブラックのペースに唸っている頃、スターゲイジーも唸っていた。
テーブルを挟んだ対岸からヒットマンのような目で睨んでくる娘と、日本で食事をする羽目になるとは思わなかった紳士である。
「お前もミノリくらいの時までは可愛いかったがなあ……」
ストローイエローの顎髭を撫でて思わずぼやいた男に、実乃里はにっこりしたが、実の娘はまなじり吊り上げた。
「悪かったわね……!何も知らないティーンエイジャーはとっくに過ぎたのよ!」
「怒るなよ……よちよち歩きのナンシーがいつからそんな恐ろしい金切り声になっちまったんだか……」
しみじみ嘆く男に、隣席の十がひょいと顔を覗かせた。
「レディになんて失礼なこと言うんですか。貴方が育てたブラックくんなら絶対言いませんよ?」
「当然だ。あいつは俺が女装したような女でも、プリンセスみてえに褒めちぎれるように育てたからな」
くそ真面目に答えたスターゲイジーに、ナンシーが本当に“それ”を見たかのようにうんざりしたが、想像したらしい実乃里は口を抑えてクスクス笑った。
「スターゲイジー、お味はいかが?」
可愛い問い掛けに、紳士は色とりどりの野菜とサーモンをケーキの様に組み合わせた前菜を咀嚼し、ユーモアを含めて吟味すると頷いた。
「美味いぜ。俺好みにはヘルシー過ぎるが」
「ナンシーさんに合わせてくれたんだよね?」
優しいパパね、と話しかける少女に、ナンシーは居心地悪そうに目を逸らす。
「……アナタのパパ程じゃないわよ、ミノリ」
気怠そうに皮肉を言う女に実乃里は小首を傾げて微笑んだが、彼女が何か言う前に「そいつは聞き捨てならん!」と声を上げたのはスターゲイジーだ。
「な、何よ、急に……」
「何じゃねえよ。俺はこのクレイジー・パパよりは数倍はイイ親父の筈だぞ」
「は……ハァ? 変な対抗意識はやめてくれる?」
「ちょっとちょっとスターゲイジー、それは僕も黙っていられませんよ? 僕の実乃里は世界一なんですから、僕も世界一のパパじゃないとおかしいでしょ」
「なんだと? オイオイ、トオル……さりげなく俺の娘を下に見るんじゃねえよ。はねっ返りだが、ナンシーはお前の天使に負けねえ美人で優秀な娘だぜ?」
「ほっほーん? スターゲイジー、そう言われちゃあ僕も黙っていられないですね。僕の実乃里は世界の宝なんですよ? 人類の尺度じゃ計り切れない天使なんです!」
変な空気になってきた。
天使と称される娘は楽しそうに食事を頬張り、美人で優秀な娘はみるみる内に顔を赤くした。目の前でヒートアップする父親たちなど屁でもない様子の少女に対し、ナンシーは唇をわななかせながら異様な言い合い――いや、只の娘自慢を見つめた。
にわかに騒ぎ始めるテーブルから離れた席で、息子と食事をしていた貴婦人はワインを含んでから鼻で笑った。
「娘の父親ってのは万国共通ねえ」
「仕方ないよ、マム。ボスとミスター十条は親バカにかけても世界トップクラスだから」
「聴こえてるぞ、メイソン!」
がばりと振り向いて怒鳴った紳士に、婦人がひらひらと片手を振った。
ついには半ば立ち上がり、互いの端末で赤ちゃんの頃の写真を持ち出してああだこうだと喚き立てる父親らを前に、ナンシーが両の拳をテーブルに叩き付けた。
「いい加減にしてちょうだい! もう沢山……!」
ぴたりと停止した二人を見て、ナプキンで口を拭った実乃里が言った。
「楽しいけれど、ちゃんと座ってね、パパ」
「はあい……」
頭を掻きながら着席した十に続き、
「ママのこと、どう思ってたの……?」
切り分けた肉を口に入れた男が顔を上げる。咀嚼して呑み込むと、ソースが優雅なラインを描く皿の上を見つめながら言った。
「そりゃあ……ドロシーは良い女だった」
むっつりと言う男の目が、娘に向く。その面影を見るように、小さく笑った。
「俺には勿体なかった。絶世の美女とは言わんが、俺の中じゃあ、そこらの女優よりよっぽど別嬪だった。気立てはいい、度胸が有って、しっかり者だ。俺が卒倒するまで野菜を食わそうとするのには参ったが……」
「……それは貴方の健康を心配したからでしょ」
「わかってるって……ドロシーは健康マニアだったからな。良い事なのはわかるぜ。だが、お前の管理も凄まじかったろ。着色料入りの菓子は食うなとか、甘い炭酸は一日何ccまでにしろとか、キャンディはダメとかよ……」
家に巨大なキャンディ入りの瓶を配置し、甘い炭酸で乾杯する父と娘が顔を見合せた。ナンシーは思案顔で父親の目を見つめた。
「終いには、紫外線を防御しろって、五歳のお前にウェットスーツみてえなの着せて、でっけえ帽子をかぶせてサングラスまでかけやがった」
「それは……そうだけど……」
「散々、喧嘩しちまった。お前に良かれと思う方向性で俺たちは食い違った。だから別れた。信用ならんだろうが、俺は引き取りたかったんだぞ。……だが、ドロシーから――母親から子供を奪い取るのが酷なことぐらい、俺にもわかる……つまらん口出しはやめて、養育費を払うだけにしたんだ」
「……」
「……この話はしたくなかった。すると、お前が自分のせいだと思うだろ。まあ、結果的にはこれで良かったと思ってる。お前は立派に育ったし、悪党にならずに済んだ。最後まで育ててくれたドロシーに感謝したい」
ナンシーが深い溜息を吐いた。
「……知ってたわよ」
「?」
「知ってたわ。……ママは、死ぬ前に話してくれたから」
微かに鼻を啜って、ナンシーは言った。
「ママは、”パパ”を恨んでなかった。病床でも『愛してる』って、ずっと言ってた」
紳士が、肉の皿も隣の悪党も忘れたように呆けた。そのよく似た目を見つめて、娘は静かに続ける。
「パパを許せなかったのは私。パパを悪党で居させるブレンド社なんか嫌い。パパと一緒に楽しそうにバカ騒ぎしてる奴らなんて嫌い。……ニムやブラックなんか最悪よ。親無しだからって、付きっきりで色んなこと教わったり、遊びに行ったり……私がしてないこと、あいつらがしてるなんて……腹が立って仕方なくて……」
「ナンシー、お前……」
「わかってるの。パパを憎んでるのは子供の私。その子はずっと私の中に居るけれど、私はもう子供じゃない……わかってるのよ……――」
額に手をやり、疲れた溜息を吐くナンシーの肩に、そっと実乃里が手を添えた。
その優しい目に、はじめて女は笑い掛けた。
「そう、私は子供じゃない。ドロシー・アダムズとロバート・ウィルソンの娘なのは間違いないことだけれど、私は私が信じる方へ行く。父親だから捕まえるわけじゃない。これでも、パパとやりたいことは沢山あるの。買ってもらいたいものもね。だからさっさとやることを済ませて、足を洗ってくれると助かるわ」
「やれやれ、参ったな……」
顎髭を撫でて苦笑いを浮かべた男が首を振る。
「俺もドロシー・アダムズの夫で、ナンシーは永久に可愛い娘だ。それは一度も変わったことはねえが――……俺にはやることが残ってる。済むまで捕まるわけにはいかねえな」
「そう。では、これは一時休戦ということね。明日からはまた追いかけさせてもらう」
「ハハハ……それでこそ、俺の娘だ」
十と実乃里が微笑み合い、十が言った。
「貴方がお嬢さんの為に予約したデザートが来る前に、乾杯しませんか、スターゲイジー」
「何にだよ、トオル」
「そりゃあもちろん、我々の天使にです」
「フフン、悪党め。いいだろう」
実乃里がにっこり笑ってグラスを持ち、少しぎこちない笑みを浮かべたナンシーもグラスを掲げた。紆余曲折の末に綺麗にまとまったテーブルを、抜かりの無いメイソン母子が写真に収めた。
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