16.With love.

 ブラックが何も変わらぬ様子で帰宅したのは、午後十時を過ぎてからだった。

既に室月むろつき明香あすかも帰った後だ。

「遅くにすまない」

例のメイソン一家が持たせてくれたという土産をさららに手渡して、自然に詫びた男に両手で受け取った彼女はにっこり微笑んだ。

「いいのよ。未春みはるとの約束なんでしょう? 守ってくれてありがとう」

ブラックもにこりと笑い返す。――全く、この家は未春ファーストである。

「それじゃ、私は先に休むわね」

部屋に辞していくさららを見送り、「待たせて悪かった」と告げた男に、立っていた未春はそっと首を振った。どこか緊張した様子だが、一体何を頼む気なのだろう。

さぞもてなされただろうに、ブラックは酒や煙草はからきしなのか、いつものオークモスが特徴の深い森のような香りしかしなかった。強いて言えば、湿布薬か消毒薬か――微かに薬品の匂いが混じっている。

「ハル、忘れない内にひとつ頼まれてくれないか」

「はあ、何だ?」

一応聞いてやったハルトに、彼はポケットを探った。

「うちの社員がファンだそうだ。サインを貰ってきてくれと懇願された」

そう言いながら取り出すのは、革製のキーホルダーだ。

「マクラーレンじゃねえか……価値が落ちるぞ」

「ダッドは良いと言っていた。頼む」

小首を傾げて差し出すそれをしぶしぶ受け取ったハルトは、イギリスを代表する高級車のマークの型押しを眺めながら言った。

「なあ、色男……お前も明日行くの?」

「ああ。俺はナンシーには見えない場所で待機だ。彼女とは相性が悪い」

「へえ……あんたを嫌う女なんて居るんだな」

案外、スターゲイジーが近付けたくないだけかもしれない――などと思っていると、未春が何処からかペンを差し出した。……全く、この家は未春の支配下にある。

「ブラック、何か飲む?」

「ありがとう。魔法はまだ残っているのか?」

「この間から何なんだそいつは?」

「あるよ」

一人、胡乱げなハルトを残して頷いた未春は、叔父には絶対やらんと言ったそれを冷蔵庫から取り出した。

「なんだ、アップルサイダーのことか……」

首を捻りながら『Freikugel』と書いたキーホルダーを返すと、ブラックは自分が貰ったように礼を述べた。

程なくして部屋を満たすリンゴとシナモンの香りの中、てっきり話したいことがあるのかと思った未春は、大人しくアップルサイダーを傾けながら喋らない。ブラックもブラックで、「美味いな」と言ったきり、膝に暖を取りに来たらしいスズを撫でるばかりだ。

「……お前、あいつに――……フレディに会ったか?」

こちらの膝の上に居るビビと一緒に、薄笑いの黒い目がちらとこちらを見た。

「ああ。会った」

「よく生きてたな」

抑揚も感慨も無い言葉のままの感想に、ブラックは小さく肩をすくめた。

「俺も原理はよくわからないんだが、彼の洗脳が効かない人間らしい。ボスは俺が殺されないと初めから知っていたようだ」

「あいつの”幸運”はお前にも通用しなかったわけか……」

気怠そうに見下ろすのは、端末の画面。映っているのは白い背景の中、不敵な笑みを称えた、蜂蜜のようなブロンドと青い目の青年だ。小牧こまきグループに居る未春のガールフレンド(?)であるジャンクが撮影してきたものだ。

まさかこんな形で何十年ぶりかの姿を見るとは思わなかった。

一体いつの間につるんでいたのかと呆れたが、例の刑務所のセキュリティを突破し、あの男の写真を撮るなどという芸当が出来たジャンクの性能は目を瞠るものがある。彼女(?)のお陰で小牧はスターゲイジーに恩を売った上、大いに技術アピールが出来たわけだ。無論、その小牧を擁するのは十条じゅうじょうとおる

利用し、利用されるのが悪党どもの協力関係だとするなら、今回の件で十は散々に押さえつけた小牧を、今度は引っ張り上げて面子を立て、フレディさえ利用した形になる。

「聞いた話では、BGMに協力していた警察官二名が、取り調べ中にフレディの犠牲になったそうだ。ミスター・十条は狙われる危険を察知した上で、処分予定のスタッフに切り替えたそうだが」

「あの人、切り捨てる時は思い切りがいいよな」

呆れ顔で、しかし憐れむ様子もなく言うハルトを、未春のアンバーがちらと見た。

「取調中に、どうやって殺すの?」

こちらも単なる興味で訊ねたらしい未春の疑問は尤もだ。取調室に入る前に武器の類を持っている筈がない。ハルトはむっつりと口元を真一文字にしてから口を開いた。

「不確定要素が多いが、奴は超音波によるマインドコントロールができると云われてる。奴の声さえ届けば、何らかの方法で自害させることが可能だ」

「超音波って、検査とかソナーに使うアレ?」

「そうだ。あいつは施設時代から――いや、或いは生まれた時からかもしれないが、声に特殊な波長が有って、その気になれば相手の思考を洗脳……支配できる。イメージとしちゃ……ずっと耳元でああしろこうしろ指示される感じらしい」

「うるさそうだね」

「だよな。俺もブラックと同じで……相性が悪いのか、一度も掛からなかった。アマデウスさんやジョン、スターゲイジー辺りもそうだから、誰にでも有効じゃない」

思えば、フレディが自分の周囲をウロウロしていたのはその所為かもしれない。

何かを試していたのか、本当に気に入っていたのかは不明だが。

「掛かった経験者に言わせると、不快ではないんだと。要は、自分が一生懸命にやってる思考をあいつに全部任せて、一番効率のいい状態にされるから、気が楽になるとか何とか……脳が解き放たれる、頭の中がすっきりするとまで言った奴も居る」

フレディが施設の連中にこれを使ったことは一度や二度ではない。後で気付いたことだが、中には常駐的にこの支配下にあった奴も居る。

実を言うと、ジョゼフはこの才能に一早く気付いた一人だ。臆病で逃げ腰の性格のこと、危険を察知する能力に優れた奴は、フレディに歯向かうのは無理だと判断し、腰巾着になることでなるべく支配を受けぬように回避していたようだ。そしていざ支配された際は、逆らわず、流れることで、神と悪魔の双方を崇めるようにしながら、不安定でも自我を保った。

未春は首を捻った。

「なんだか……ポイズン・テナーに似ているね」

「?……そういえば、そうだな……」

ポイズン・テナーは小牧さららが、身体機能向上薬『スプリング』に適合して得た特殊な能力だ。現在は使えなくなったこの能力は、彼女も仕組みがわかっていなかった無意識の発声により、相手の思考――つまりは脳に働きかける。クリアな思考の持ち主や耳の良い人間に特に有用で、超鎮静剤ともいえる『パーフェクト・キラー』を使って大勢の気を失わせたことや、彼女が恐慌状態となった際に同様の『スプリング』適合者である十を殺しかねない『声』を発したことがある。


――何故、聖景三は『スプリング』を作らせたのか?


スターゲイジーの謎かけが反芻する中、ふと視線を上げると、黒い目が笑っている。

「お前ら……もう調査は終わったんだよな?」

「ああ。日本での仕事は明日の会食で終了だ」

疑いの眼差しを向けるが、男は黒い前髪の下で薄く笑うばかりだ。その目をじっと見つめ、ハルトは言った。

「――グレイト・スミスってのは、誰だか教えろ」

冷たい一言に未春が目を瞬く。ブラックは曰くありげに視線だけ脇を向いてから答えた。

「伝説のスパイだ」

「そいつは聞いた」

「俺に訊くより、ボスやミスター・十条が妥当だと思うが」

「いつもの調査中云々のセリフが出ないってことは、口止めされてるわけじゃねえんだな?」

肩をすくめた男を睨んでいると、彼は軽く息を吐き、スズを撫でながら言った。

「俺が知っているのは、彼が世界大戦中に活躍した軍属のスパイという点と、とんでもない『幸運』の持主ということ、伝説のナマケモノということ、極めて寒がりな人間であること――そして、ボスやミスター・アマデウスの師だということだ」

ナマケモノという点は気になったが、『幸福』と最後の文言にハルトの顔色が変わった。一方、未春は「寒がり……」と呟いてハルトを見た。

「……あの二人の師……? いや、それより――どっかで聞いた特徴だ」

「そうだ。フレディ・ダンヒルはグレイト・スミスの一族の生まれだ。父方の祖父に当たる」

「ジョゼフがグダグダ言ってやがった『グレイト・スミスの血統』ってのはそのことか。その家系には、全知オムニスや人心操作の技術でも伝わってんのか?」

優一ゆういちの生家である千間せんま家のように、戦国時代から成る暗殺一族かと思ったが、ブラックは首を振った。

「いや、現段階でそういった情報は無い。遺伝的に何らかの優れた能力を持っている可能性は高いが、フレディ・ダンヒルの場合で言えば、父親は優秀だが妙な才能は無い。ひとつ……奇妙な性質は、才能を得た人物は総じて寒さに弱くなる点だな」

「変な一族だな……」

また、未春がちらりとハルトを見たが、何も言わなかった。

「フレディはドイツ出身って聞いてるが、グレイト・スミスってのもそうなのか?」

「彼のルーツはアメリカだが、ドイツ人の血は混じっていたと聞く。戦後、日本に駐留していたが、アメリカに帰国後に退役し、ドイツに渡ったそうだ」

不意に未春が、がばりと立ち上がった。

「What’s wrong?(どうした?)」

思わず英語が出たらしいハルトに対し、信じられんという顔で首を振った。

「先生が会ったエディは――その人じゃないの?」

ハルトとブラックは顔を見合わせた。先生――守村もりむら恵子けいこか。

未春が児童養護施設に居た頃の母に等しい彼女が、急に明かした謎の外国人との関係。この記憶が認知症を患う彼女の妄想なのか、事実なのかは不明だが、未春は息子、或いは孫の存在を信じ、守村の記憶が完全に失われる前に会わせたいと切望している。彼にしてはやや興奮気味の様子に、ハルトは思案顔で言った。

「未春、気持ちはわかるが……ピンポイントでその男ってことは……――」

声を掛けたハルトには目もくれず、未春はブラックに詰め寄った。

「写真か何か無いの?」

「すまない、未春。グレイト・スミスはスパイだったことも含めて、写真は残っていないと聞いている。五十代ほどの頃からは現在に至るまでの三十年近く行方不明だ」

「そんな……」

肩を落とす未春を見ていたハルトが、薄笑いだが心配する素振りのブラックを見た。

「フレディの実家はどうだ?」

「わからない。写真が現存しないという点も、俺が知り得ないだけかもしれない」

「そもそも、なんだってお前らはそのグレイト・スミスを探してるんだ? 理由もそうだが、顔もわからない相手をどうやって……」

言い掛けたハルトは気付いた。ブラックは薄笑いで見つめ返して来る。

会った事もないジョゼフとフレディを、”それだ”と判別した、嗅覚か。

「お前が現れたから……スターゲイジーは探し始めたのか?」

「ああ。彼の情報は殆ど残っていないが、持ち物は一部残っていたからな。だが、ボスはイレギュラーな話だと言っていた」

「イレギュラー……じゃあ、お前の嗅覚に頼らなくても、探す目的も当ても有ったんだな?」

未春が俯いていた顔を上げた。それに笑いかけながらブラックは頷いた。

「そう思う。グレイト・スミスを探す理由だが、それは彼がTOP13から見て危険だからと聞いている」

「危険……? 師だった人間が……?」

「BGMは、『世界を滞りなく回す』のが目的だが、グレイト・スミスは『世界を滞らせる』のが目的だそうだ」

「どういう意味だ?」

「俺にはわからない。そこはボスたちに聞いてくれ」

今度はハルトと未春が顔を見合わせ、短いアイコンタクトの後にハルトが言った。

「目当ての人物に、そいつの居場所は聞けたのか?」

「聞けたが……雲を掴むような情報だった。天気図と気温分布図を見ろと指示された。グレイト・スミスは気温25℃以下地域には存在せず、空気、人、動植物、街も穏やかで温かい場所を望むそうだ」

「なんだそりゃ……寒がりだから、単に過ごしやすい場所に居るってことか……?」

そんな情報の為にわざわざ刑務所に飛び込むとは、ブレンド社もフレディもご苦労なことだ。妙な情報を手に刑務所に居た人物も解せないが、その知り合いなら、グレイト・スミスとやらは温室にでも引き篭もっていそうだ。

「あいつが、こんな情報を欲しがるとは思えないが……」

腕組みしてハルトが唸り始めると、どこか途方に暮れた顔をしていた未春が時計を見て、ぼんやりと首を捻った。

「ブラック、怪我してるみたいだけど、大丈夫?」

急に甲斐甲斐しいことを言い出す未春に、男は頷いた。

「このぐらい、ヒグマと出くわしたときよりマシだ」

「What are you talking about……?(何言ってんだ……?)」

思わず思考から帰って来てツッコミを入れたハルトに、ブラックは首を振った。

「Well……俺も戦いたくはなかったが、調査で或る軍の部隊を追っていた際、奴らがテリトリーに踏み込み、冬眠しなかった個体が襲い掛かって来た。一人なら逃走したが、同行の非戦闘員を置いては逃げられない」

――同僚を守るために熊と戦う? 見上げた根性だが、ある意味、戦車と戦うより恐ろしい話だ。……後でスターゲイジーに聞いたが、傷を負い、片腕は折れかけたが、結果的にブラックはヒグマを倒し、追っていた軍隊からも賞賛され、穏便に情報提供を受けるという珍妙なシナリオになったらしい。

銃は持っていたというが、持っていても絶対に真似したくはない。ヒグマは大きな個体は300キロにも及ぶ上、走る速度は50キロ、巨体に似合わず機敏であり、言うまでもないタフネスだ。人を意図的に襲うケースは少ないが、殴られれば首がぼっきりいきかねない腕力だし、掴まったら最後、生きたまま喰われ続けた事例も有る。

スプリング接種者なら驚かない話だが……ブラックは傷が残る点で、接種者ではないのが証明されている。単なるバケモノ……そんな人間居るのか?

「お前、軍事会社に居た頃に変な物飲んだりしてないよな……?」

「変な物?」

「コイツが飲んだ身体機能向上薬の『スプリング』みたいなもんだよ」

未春を指し示すと、ブラックは同じように未春を見てから首を振った。

「さあ、覚えは無い。知らぬ間に飲まされていた可能性は否定できないが」

うーむ、ピオの話によると、かなり非人道的な組織だった様だし、自覚無くしてはわからないか。

「ハル、何故そんなことを聞く?」

「……嫌な予感がするだけだ」

『スプリング』と『パーフェクト・キラー』はついではないが、それぞれに波乱を呼ぶ意図をもって生み出された。小牧がスプリングに似せた『ギフト・ギビング』を開発したのは、十に対抗する手段の一つだが、最初の二つは十を倒すのが目的で作られたものではない。首謀者のひじり景三けいぞうは、戦時に諸外国から受けた屈辱を晴らそうと開発に乗り出したが、戦後は強化人間の輸出に舵を切っていた。……何故、『スプリング』を作ろうと思ったのか。

既にジャンクで確立している通信技術や兵器開発よりも、人体強化を優先した理由……?

「……何か引っかかるが……わからん。奴の所為か、どうにも気が散る」

疲れた溜息を吐いて、先に寝る、とハルトは席を立った。

「おやすみ、ハルちゃん」

「Good night.」

片手で答えた男が退室すると、それを待っていたようにブラックの膝からスズがぼとっと飛び降り、のっしのっしと付いていくのにビビがちょこちょこと従う。

そのふっくらしたスズの後ろ姿を見ていた未春が、「あ」と呟いた。

――どっしりしていて、物静かで、マイペース。

ブラックが誰かに似ていると思った時、最初に浮かんだ何者かの正体は……

何かに気付いた目がブラックを見、ビビを従えつつ、丸い尾をぴこぴこと動かしながら去るスズの方を見た。

「どうかしたか?」

「……何でもない。部屋、準備して来る」

不思議そうに首を傾げた男は、「Thank you.」と答えた。




 南国の海をそのまま切り取ったようにしつえられた大きな水槽の中を、カラフルな熱帯魚が泳ぎ回る。青く輝くアクアリウムに囲まれているのは、シックなレストランだ。いつもなら、カップルや若い女性が写真を撮りながらディナーを楽しむそこには、数名の男しか居なかった。

「さすが小牧グループ企業だねえ。シャレオツ~……」

古語を呟きながら、ひとりウロウロと写真を撮るのは十条じゅうじょうとおるだ。ひょろりとした長躯を曲げては伸ばし、自分の端末を掲げている。

「お待たせしてすみません」

品の良いスタッフに案内されてやってきたのは室月だ。それにうんざりした顔を向けたのは大きなテーブルの奥でソファーにもたれていた若い男である。一流のスーツを纏い、一日が終わろうとする時間帯に少しの乱れも隙もない。

「室月……お前の上司をどうにかしてくれ」

「申し訳ありません、要海かなみさん。何か粗相が?」

さっさと頭を下げる部下に、若者は鼻を鳴らして十の方に顎をしゃくった。

「若い女の倍はやかましい」

「それは失礼しました。よく言い聞かせておきます」

「む、室ちゃん……僕はペットでもお子様でもないんだけど……」

部下の謝罪にすかさず苦言を呈する上司に、別の呆れ顔を向けたのは、同じテーブルを囲む優一だ。

「十条さん、お掛けください」

「はぁーい」

よっこらしょ、と十が腰を下ろすと、要海の隣に控えていた秘書の加納かのうがタブレット片手に頷いた。その前には、一機の黒い小型ドローンが置いてある。

「では、手短に。――ジャンク」

呼び掛けられたドローンはジーという低いモーター音を響かせて喋り始めた。

〈こんばんわ〉

機械的ではあるが、幼い女性を思わす声が響いた。優一や室月が軽く会釈する中、十はドローンに向けてにこやかに手を振った。

「ジャンクちゃん、おつかれさま~」

直後、テレビ番組で使われるような〈ブッブー〉という音が響いた。

続けざま、〈キラーイ〉と発言したドローンはふわっと浮かび上がると、ホバリング状態からくるりと回転してそっぽを向いた。

つれない対応に、十が怪訝な顔をする。

「え、なんで僕嫌われてんの……? あ、ひょっとしてブラックくんと間違えてる?」

〈ブラックは怖いけど好ーき〉

語尾にハートマークさえ窺える声に、十は愕然とよろめいた。

「な、なぜ……⁉ いつの間に……!」

その様子に笑いを堪えられなかったらしい要海が口元に手をやって脇を向き、味方である筈の優一や室月からも笑いが出た。

「何だい何だい……君たちまで!」

心外とばかりに喚く十に、真っ先に優一が呆れ顔だ。

「ワールドクラスのハンサム相手に図々しいんですよ」

「そりゃそーですけどォー……」

ぶちぶちと文句を垂れる十が椅子に項垂れる中、室月がドローンに声を掛けた。

「申し訳ありません、ジャンクさん。どうか機嫌を直されて進めて頂けませんか」

丁寧な取りなしに、ドローンはくるりと振り向いた。

〈『オムニス』――フレディ・ダンヒルは行方不明。航空機・船舶への搭乗記録ナシ。国外に出た確率、5%。警察は指名手配中。監視カメラのチェック率90%……ジャンク、わからない。ナゾ。何度も”見つけたのに見つからない”〉

無感動だが困惑した様子のドローンに、加納が頷いた。

「各地の監視カメラにそれらしい人物は映っていました。しかし、足取りは掴めません。本当に、幽霊でも映したような状態です。例のジョゼフ・リーフが行うような現象が起きています」

「或いは、映ったこと自体、仕込みなのかもねー……」

十は諦め顔で言った。

「今回の件でもわかったけど、彼は超強制的なマインドコントロールができるんだ。例の元軍人が事前に数名入り込んでいた点からしても、あらかじめ国内に自分とよく似た背格好の人間を多数送り込むこともできるだろうさ……この後、送った人間が、ぽつぽつ捕まるかもしれないけど、単なる観光客とか、もともと日本在住だったとかそんなもんだろうねえ……どっかで恰好を変えたかもしれないし」

「服装程度なら、一度会ったジャンクは騙せない筈だ」

断言したのは、椅子に悠然と腰掛けている要海だ。上司の評価に、ドローンからクスクスと笑う声がした。

「要海くんがそう言うなら、フレディは間違いなく、国内に居るね」

難しい顔で十はボサボサの黒髪を搔くと、ふう、と溜息を吐いた。

「ジャンクちゃんには悪いけど……監視レベルはこのまま維持してくれるかい?」

十の頼みに、ドローンはもじもじと揺れてからくるりと要海の方を向いた。

「やってやれ。僕としても、そんな男がうろついているのは落ち着かない」

〈要海がそう言うなら、ジャンクがんばる〉

「わ、助かる。ありがとう~~」

「勘違いするな」

手放しに喜ぶ十に、顔中に不機嫌を描いた要海が釘を刺した。

「クルーズ船では例の軍人に世話になった。フレディ・ダンヒルが奴らを率いているなら、出国前に請求書を渡さねば気が済まない」

小牧が抱える豪華客船ホイットニーは、戦闘ヘリにやられた上、十たちが暴れた甲板と悪党に多数の死者を出したフロアの惨状もさることながら、各侵入者による損傷、調度品の買い替えも含め、現在も就航できずにいる。とはいえ、ヘリを率いた武装勢力は要海の所為で乗り込んできた麻薬組織ロスカ・カルテルだったし、劇場ホールを損壊させたのは未春と戦闘したジャンク、船内をバイクで駆け抜けて一部の絨毯を再起不能にしたのは部下の矢尾なので、全てが軍人らの仕業ではないのだが……

ハルトが現着直後に躊躇いもなくぶっ壊した操舵室ブリッジの窓を思い出しながら、室月は言った。

「――十条さん、フレディ・ダンヒルは泳がせる方向で大丈夫でしょうか?」

「他にどうしようもないからね……あ、でも――見つけても、捕まえようなんて考えないでね。熊やイノシシに会った感覚で頼むよ」

〈くま? いのしし?〉

不可解な表現だったのか、ドローンがジージーと変な音を立てる。

「刺激しないでそっと逃げること。安全圏に入ってから、或いは緊急性に従って僕に連絡して。要海くんたちも、ジャンクちゃんもだよ。いいね?」

有無を言わさぬ声音に、一同は頷いた。

「では、グレイト・スミスの件ですが……」

加納が引き取ると、申し合わせたようなタイミングでジャンクが録音を再生した。

厳かな老人の声が響いた。


〈……偉大なる血に関わる子らよ、彼の居所を知りたければ、天気図を見なさい〉

〈正確には気温分布図を含めて。彼は気温25℃以下となる地域には存在しない。空気も、動植物も、人も、街も、暖かく、穏やかなるを好み、多くを求めない〉


「良いトコに住んでるんだねえ」

十がぼやく中、加納が端末を操作した。

「25度以上を保つ地域を、ジャンクが割り出しています」

テーブルに映し出されたのは世界地図だ。よく見るそれだが、割り出した地域とやらがド派手なピンクに塗られていて、少々前衛的な絵面だった。要海が眉を寄せる。

「ジャンク……この色はお前が選んだのか?」

〈違う。やおやおが横で見てて、ショッキングピンクが良いってうるさかったのー〉

「……次から、矢尾やおはお前の作業中は出禁にしよう」

要海が頭を抱える傍ら、注意深くピンクに塗られた箇所を覗き込んでいた十は首を捻った。他にも様々なカラーに色分けされている中、ド派手なピンクの面は少なく、世界各地にポツポツと散っている。

「こうやって見ると……年間通して温暖って国は意外と少ないんだね。30度以上の暑すぎるところとか、日中は良くても冬や夜にぐっと冷えるところは沢山あるけど」

「雨や乾燥を考慮すると、更に狭まります。18度前後なら変化の少ない地域は在りますが……」

「だね。日本の沖縄だって冬は20度以下になることあるしなー……」

頬杖をつきながら、十は広い太平洋の真ん中にある島を指差した。

「やっぱさあ……怪しいのはハワイとかじゃない? 要海くん、行ったことある?」

「何故、僕に訊くんだ?」

「一番行ったこと有りそうだから。別荘持ってそう」

「優一もあるだろう」

面倒に顎をしゃくった男が示す先にばっと振り返った十に、たじろいだ様子の優一は鬱陶しそうに眉をひそめた。

「……僕は仕事だけですよ」

羨ましさを越えて恨めしそうな顔をした十に、再び「何とかしろ」の視線を受けた室月が、静かに言った。

「十条さん……ハワイ以外にも候補地はありますので、こちらはブレンド社の協力も得て捜索をしましょう」

頷いた十の心が常夏の島を旅している中、要海は室月の方を向いた。

「室月、ブレンド社はこれで撤収するのか?」

「その予定です」

「え、要海くんもブラックくん狙い……? 彼、ゲイにもモテそーだよねー……」

「十条……貴様は何故いつも要らん方向に逸れていくんだ?」

歯軋りせんばかりにご尤もな意見を述べた要海は、傍らの加納と顔を見合わせた。主人の意図を察した秘書が、操作した画面を提示する。

「実は、今回の刑務所へのハッキング以外に、ブレンド社に協力要請を受けました」

表示画面には、社から届いた英文によるメールが載っていた。それを十たちが眺める中、やや困った様子で加納が付け加える。

「スターゲイジーは了承の上だと思いますが……お受けして良いものかと……」

「なになに……『ドイツ企業の情報を教えて教えて要海くーん』?」

「貴様の英語力には著しい問題が有るようだな。それとも目か脳が腐ってるのか?」

こめかみをひくつかせて言う要海をよそに、大体の言い分を察した優一と室月が顔を見合わせる。両名を見た加納が言った。

「皆さんはご存じの通り、当社の『ギフト・ギビング』の製造や、ジャンクの生体維持装置、矢尾が率いるライダーの義足等はドイツ企業の力を借りています。ブレンド社が欲しがっているのはこの企業との取引情報なのですが……これらの件は裏取引等ではなく、表に露出して難のない紙面上のやり取りです。ギフトに関してはわかる人間が見れば危険ですが、何故、こんなものを欲しがるのかと……」

「ま、表の取引でも、裏で使われると見込んでの、でしょ? スターゲイジーはドイツを睨んでるから、入手できるものは集めておきたいんだよ。彼の知識欲は今に始まったことじゃないしね……」

あくびをしながら呑気に答えた十に、従う様に室月が言った。

「今回、ハルトさんもドイツのTOP13に疑いを持っていました」

「さすがハルちゃん。レベッカさん”らしくない”ってことも言ってたかい?」

「はい。マグノリア・ハウスの子供に彼女が手を貸す可能性は低いと見ていました」

「だよね。僕も同意見。スターゲイジーたちもそう思ってる筈。ってことは、彼女自身が心配なわけ……心配すると怒られそうだけどさ~……」

また、あくびが出た上司をちらと見て、要海と視線を交わした加納が頷いた。

「……では、当社では可能な限り、情報提供を致します。後で確認を頼みます」

「おっけー」

指で丸を描いた十だが、片手で目を擦る。優一がその肩を軽く叩いて言った。

「十条さん、もう少し頑張って下さい」

「ういー……あと何だっけ……?」

「スターゲイジーがディック・ローガンに探らせていた件です」

「あ、ハイハイ……ハルちゃんの件ね」

もそもそと自身の端末を取り出し、十は老眼かというほど目を細めて画面を見た。

「今回、スターゲイジーの来日はこの件が最重要案件だったみたい」

大事おおごとに紛れて何か企むのは貴様らのお決まりだな」

要海の皮肉に、十は褒められたみたいに照れ臭そうに笑うと、ひょいひょいと端末を操作して言った。

「探ってたのは、ハルちゃんの生家――野々のの金属加工に出入りしていた業者情報。僕らもとっくに調べた件だけど、ディックはやればできる!って感じで、物流の面から怪しい人物を一人絞り出したよ」

「そう言う貴方は、スターゲイジーの知識欲を利用して出資を促し、タダで絞らせたんですね」

「おお……相変わらず優一くんは僕のことを知り尽くしてるねえ……」

十の感心したような言葉に、何故か優一は身の毛もよだつといった顔をした。

「絞ってもらった一人が、三澄みすみつかさ。優一くん程じゃないけど、けっこうイイ男だね。死亡時に30歳だから、生きていれば僕の一回り上かな」

「”生きていれば”?」

気になる言葉に反応したのは要海だ。十が、眠そうにとろんとし始めた目を細めた。

「そうさ、要海くん。”生きていれば”、ね」

含みを残し、十は続けた。

「野々金属加工については、君の親父さんの代の話だ。加納くんは僕と同世代だし、ちょっと心当たりあるかい?」

「……先代は、東京支部の壊滅後、この会社との関りを禁じていたと聞いています。その後、一年も経たずに会社は倒産し、一家は夜逃げしたと」

「なるほど。ひじりを見限り、貴様をフった会社というわけだな」

ここぞとばかりに言ってのける要海に、十はへらへら笑った。

「ま、そういうこと。僕が東京支部を潰した前後で、彼らは聖家と縁を切り、多くの企業に情報を散り散りにし、それらも解散させることで行方をくらました。三澄はその首謀者だと思うけど……野々家との繋がりはわかってない。ハルちゃんの両親が亡くなったフィリピンの危険地帯・ミンダナオ島にも行ってるだけに、只の出入り業者じゃあなさそうだけどねえ」

要海が胡乱げな顔をする。

「大体察しはつくが……野々家は聖と何をしていたんだ?」

「ご察しの通りの武器製造さ。改造や特殊加工って言えばいいかな」

十が差し出す端末画面に映っていたのは、ハルトの愛銃・ベレッタM8000クーガーFだ。

「例えば、ウチのハルちゃんの拳銃は、このモデルの通常より装填数2弾多いんだ。前に聖さん……ていうかウチの清掃員クリーナーの前で15発+1発をご披露したけど、実際は15発+2発。全部見せたフリして一発残すって……ハルちゃんらしいよね~!」

一人盛り上がった十を、周囲から冷たい視線が射貫いた。ドローンさえも無言の事態に、この中で最も上役である筈の男はコホンと咳払いした。

「……なかなか高度な技術でしょ? 下町の技術はスゴイよねえ」

日本の中小企業の技術力に着地した話に、要海が顔をしかめた。

「核心を言え。三澄という男は、現在もこの技術を持って何処かで活動しているということか?」

「要海くんたらウチのハルちゃんみたいに、せっかちさんっ」

言われた本人が何か言うより早く、ジャンクの〈ブッブー〉という音が響いた。

それに苦笑を浮かべつつ、十は言った。

「僕らに今わかるのは、この三澄って男に限らず、日本から持ち出された技術が、世界のヤバい誰かの所にあるかもしれないってこと。野々家が僕をフッた理由はわからないけど、BGMとは意見が合わなかったんだろうね。そのパートナーは、グレイト・スミスかもしれないし、フレディかもしれない、または別の誰か、或いは……」

ふわわ……と、あくびをして、十は椅子に深くもたれた。

「……この方面も、雲を掴む話というわけか」

忌々し気に呟いた要海に、「仕方ないよ」と十は微笑んだ。

「野々家が在ったのは、神奈川県の西区なんだ。此処は湾岸地域で、有名ホテルもミュージアムもある人気の観光地。国際客船のターミナルもあるし、臨時だけどヘリポートもあるんだ。おしゃれなトコだよね~……昼もいいけど夜景もキレイでさ~……あああ……こんなとこで実乃里がデートするとか言い出したらどうしよう……‼ ねええええ優一くん……‼ どうしたら良いと思う……⁉」

眠そうにしていた癖に、急に隣の優一の肩を掴んでがくがくと揺さぶるクレイジー・パパに、無心で揺さぶられる優一を含めてもはや誰も突っ込まない。

「もういい。僕は疲れた。帰るぞ――」

「えええええッ⁉」

乱れた着衣を直すのも億劫といった顔の優一を掴んだまま大声を上げた十に、立ち上がろうとしていた要海も仰天して固まった。

「な……なんだ、十条……! いい大人が大声を出――」

「なんか飲もうよ~~……こんなシャレオツなとこで乾杯しないのつまんないよう」

「……」

一転してパパから幼児に退化した男に要海は頬をひくつかせたが、既に室月が丁寧に頭を垂れている。

「要海さん、一杯だけお付き合い頂けませんか」

「…………」

もう何もかも諦めた顔で座った要海が、返事の代わりに頭を抱えた。

「要海くん、心配なら僕が毒見しよっか?」

「もういいから黙ってくれ……」

「ねー、ねー、優一くん、僕コレ食べたい。一緒に食べよ」

目玉商品なのだろう、ブルーキュラソーを使ったカクテルに、パイナップルやオレンジ、カラフルな丸いゼリーがアクアリウムのように浮かんだそれは、花瓶かと思う程、巨大なグラスに入っている上、ご丁寧にストローが二本ささっている。

「……貴方なら一人で食べられますよ」

唇を尖らせて不平を言い始める上司となだめる室月を残し、席を立った優一は店内のひときわ大きな水槽に近付いた。現実の海はこんな風にライトアップされてはいまいが、青に光が揺らめくそこは、おとぎ話に出てくる楽園を思わせた。

「空気も、動植物も、人も、街も、暖かく、穏やかなるを好み、多くを求めない……」

呪文のように唱えた先では、冬の街には居る筈のない温かい海の魚が、人工のサンゴ礁で優雅に舞っている。水槽を見ていた目が、席で要海をつついている十を見た。

――穏やかなるを好み、多くを求めない。

視線の先では、十が目尻に皺を寄せて笑っている。




 静まり返った室内に、タイプの異なる美男が二人。

未春とブラックはいつかのようにベッドに並んで座っていた。夜中に、カーテンを閉め切った部屋に二人きり。男女、或いは男性同士でも間違いが起きそうな状況下で、異常者と異常者は幼い子供よりも純朴に喋った。

「この間は、何が怖いのかわからなかったんだけど……」

話し始めた未春にブラックは頷いた。

「理由がわかったんだな」

言い辛いのか、未春は膝を見つめ、唇を軽く噛んだ。

「もしかしたら……俺さ……」

未春は口許を押さえた。気持ち悪いわけではないらしいが、色白の頬や耳が赤い。

「トオルさんを……好き……だったってことかもしれなくて……」

ブラックは薄笑いを浮かべながら小首を傾げた。

よほど恥ずかしいことらしい。一世一代の告白でもした様子で未春は沈黙した。

十のことが好きだった。”だった”ということは、そうではなくなった。

「俺、香港に行く前に、トオルさんと、その――……」

「いい。それは言わなくてもわかる」

片手でやんわり遮った男にこくりと頷いて、未春は続けた。

「……その時はわからなかったけど、ショックだったんだと思うんだ。“あの時”まで……トオルさんには、ひどいと思う事なんかされなかったから」

なるほど、と腑に落ちた顔でブラックは頷いた。

「本人というよりは、信頼していた人間が変わってしまったのが恐怖ということか」

未春は頷いた。

恐怖の在処は性行為そのものではなく、信じた相手による裏切り。

あの時、自覚に至らなくても心がダメージを受けた。脳震盪と同じだ。気が付かなくても得ていたダメージは後遺症となって、ルーツのわからない恐怖心が居残った。

当時、十を信じ、仮に本心を聞かされていたとしても、”その”痛みや恐怖を越えて、彼の複雑な意図を理解するのは難しかっただろう。

「娼館でも同じことが有ったのか?」

「……うん……」

そうだ、間違いない。

娼館に入ること自体は、恐怖でも何でもなかった。十の想定通り、感情の抑止は上手くいっていた。しかし、いくら未春が上手くやっていても、それが大丈夫かどうかは周囲にわかる筈もない。乱暴な客や感じの悪い客、嫉妬や嫌がらせをする同僚など、感情的な人間に囲まれる中、何かと気にかけて守ってくれた世話役の男が居た。

目尻に皺の寄る笑顔や優しい雰囲気が、十に似ていた。

彼は生活面も何かと気遣い、学業に支障が出ないようシフトを調整し、暇さえあれば食事に誘ったり、買物に付き合ってくれた。現地の習慣や言語を父のように教え、兄のように気さくに、時に頼もしく接した男は、“未春にとっては”ある日突然、変化した。酒、或いはドラッグによる突発的なことだったのか、ずっと蓄積した何かだったのかは定かではない。男は仕事後、自宅に招いた未春に手を出した。

何故か、振り払えなかった。それは、『優しいと思っていた大人』による二度目の裏切りだったから。

「あんたを裏切った男はどうなったんだ?」

「……知らない。俺が目を覚ます前に居なくなって……それっきり」

何となく、生きていない気がした。

今思えば、十は未春を異国に置いて尚、注意深く監視していたに違いない。それは逃げ出さぬよう見張るのではなく、安全を守るため。案外、あの世話役も彼が選んだのかもしれないし、そうではなくても行き届くように頼んだ筈。……仮に、薬や何者かにそそのかされた行為だとしても、『家族』への暴挙を十は絶対に許さない。

「気に病むことはない。BGMはそうした悪にこそ有用だ」

さらりと言うブラックを、不安に揺れた目が見上げた。

「ブラック、聞いて良い?」

男はほんの少し肩を上下させて促す。それは数年来の知己のように見えて、未春は心の内が身震いするのを感じた。自分は今、この男の裏切りに遭ったらと恐れている。

彼が怖いのではなく、むしろ好ましいから、この関係性が失われるのが恐ろしい。

力也の件について彼が黙っていたのは、悪いとも何とも思っていなかったからだろう。それを理由に自分に近付いたわけではないと言ったが、そうではないと言い切れない程度には、この男の判断基準は自己よりもブレンド社に委ねられている。

問い掛けておいて押し黙った未春を、薄笑いに怪訝そうな瞬きを含んだ男が見下ろした。

「大丈夫か?」

「……うん……」

「遠慮することはない。俺が喋れないのは仕事の調査内容だけだ」

その懐が深く見えたからだろうか。

子供じみた好奇心で、未春はえぐい質問を安易に投げた。

「愛が無いセックスはしない方がいいと思う?」

薄笑いのまま、黒い目が不思議そうに瞬き、数秒、虚空を眺めて頷いた。

「可能な限りは」

「じゃあ、愛が有るセックスしたことある?」

「相手はそう思ったかもしれないが、俺は無い」

今度は未春が無表情に目を瞬いた。ブラックは何か面白かったのか、平素の薄笑いに加えて微かな忍び笑いを洩らす。

「未春、愛し合うことについては、もっと崇高な人物か、望んで子供をもうけた人に聞いた方がいい。愛と性交渉の関係に置いて、子供は奇跡であり、証明でもあると聞いている」

「……じゃあ、望まれない子は、愛が無いの?」

「Oh, I see……だから俺に聞くのか」

「そういうわけじゃないけど……ごめん」

俯いて頭を垂れた未春に、出生の一切が不明の男はどこか仕方なさそうに微笑んだ。

「俺は望まれたかどうかは知らないが、望まれなかった証拠も無い。あんたがそんな顔をすることはないさ」

「うん……」

「未春が苦慮するのは、ハルのことだろう?」

「……やっぱり、わかる?」

「ああ。彼は賢い男だが、人間関係には疎いようだな。俺もよくこの点を叱られるが、彼もなかなかだ」

「……」

肯定は、そのまま溜息になって消えた。

「……ハルちゃんは、やめておけって」

「それが彼の気遣いなんだろう」

「うん……」

そうだ。ハルトが嫌だと突っぱねるのは、気遣いでもある。それが気遣い一割の面倒九割だとしても、彼は一割の中で相手の為の最善を模索する。それは“効率”なのかもしれないが。

「俺が、変なんだと思う……隣に居ると、抱き締めてほしくなるし、他の誰かと親しくしてるとイライラする」

DOUBLE・CROSSの常連客が聞いたら卒倒しかねないセンセーショナルな言葉だったが、同じ変わり者は笑顔で受け止めた。

「おかしくはない。あんたはまともだ。俺やハルのような連中と居るからおかしく感じるんだ」

「……?」

何処かで聞いたようなセリフは、穂積の言葉だ。

「言うまでもないが、俺は変人揃いの同僚が口を揃える異常者だ。今、あんたの傍に居るのは、ボスと師匠が求める『英国紳士』のルールに従っているだけで、そこに俺自身の意志は殆ど無い」

微かに未春が目を瞬かせた。ハルトが動物に対して明かした言葉を思い出す。

彼になついた動物は皆、ただ静かに在るハルトに落ち着きと安らぎを見出だした。それは愛が無いからだとハルトは言う。可愛いからと抱き上げたくなる気持ちも、特別なことをしてあげたくなる気持ちも無いから、彼らに何も求めず、押し付けない。

けれど、ハルトは心に傷を負ったマックスが寄り添えば優しく撫で、ビビが抱っこを望めば悠然と抱え上げるのだ。

今のブラックと、似ている。

「ブラックは、何の得にもならないのに俺に付き合ってくれてるよね……?」

「Well……紳士は奉仕に得は求めない。それもボスたちの教えだが、俺の場合はそんな美しい価値観で行動していない。未春と親しくなるのは俺自身や弊社にとってプラスになると思う」

悪怯れることもなく言うと、瞬くアンバーに黒い紳士は微笑んだ。

「不誠実ですまないが、俺の価値観はボスと師匠に基づく。それしか知らないんだ。彼らの倫理観と指導に従い、行動する。俺にとって、それは一種の安心であり、心地良い事でもある。仮にこの場に未春よりも弱い立場の人間――例えば実乃里が居て、同じような状況ならばそちらを優先するだろう。或いは、ボスが禁じれば、あんたがどれほど辛そうにしていても関わることはない。相手との関係性を念頭に置かず、年齢や状況にて判断するのは、あまり人間的な行動ではないと思う」

「そう……かもしれないけど……」

「恐らく、ハルも同様だ。彼は周囲の状況をよく見ているが、行動そのものはタスク処理に近く感じる。やるべき事を箇条書きにし、必要最低限の労力で済まそうとしている感覚だと思う」

さすがは調査会社のスタッフか。よく見ているし、的確な表現だ。

「未春を見ているとよくわかる。自身が生きる上で、迷ったり、悩むことは人間にとって必要な感情だが、俺やハルはそれを何処かでやめてしまった人間だ。そうしなくても、身に沁み付いた指示と規則が行動を促す」

未春が瞬いた。その行動は、まるで……さっき話していた……

「そうだ。フレディが行う支配的なマインドコントロールに近い。俺たちは比較的まともな人間の支配を受けているから、異常に見えないだけだ」

――既に他の強烈な支配を受けているが為に、フレディの洗脳が通じないのか?

「ハルちゃんは、けっこう反抗的だと思うけど……?」

ハルトがアマデウスから小金と言って大金をせしめたり、事ある毎に悪態をつく例を挙げると、ブラックは面白そうに笑った。

「未春、俺たちは自我がないわけではない。最も極端な行動原理が異常なだけだ。俺もボスを裏切ることはある」

「えっ?」

「そうだな……前に話した気がするが、俺はボスや師匠以外に尊敬する友人が居るんだ。彼はウチのスタッフだが、作家でもある。非常にユニークな思考の持ち主で、一緒に何かするのはとても楽しい。だが、その行動は大抵、ボスには歓迎されない。サプライズで、ボスのクリスプの中に食用タランチュラを仕込んだり、新種の甲虫を探しに行って遭難したこともあるからな」

『紳士』とはかけ離れた無鉄砲さに、未春も少し笑ってしまった。どうやら虫が好きな相手のようだが、一体どんな友人だろう。

「いつも面白い話を書く。敬意を込めて『先生』と呼んでいるんだが、あまりそう呼ばれるのは好ましくないようだ」

その表情からは好きな相手を困らせて楽しむような子供っぽさが窺えて、彼を人間らしくしている気がした。

「俺やハルが、稀に良い人間だと勘違いされるのは、そういうふうに独自の価値観から尊敬を示すからだろうな」

「尊敬……」

「俺は先生のように無から有を生み出す人間や、美味いものを作って、且つ誰かに提供する人間に最大限の敬意を払っている。未春、ミズ・穂積、ミズ・さららも尊敬に値する。ハルも誰かに感心や感服することはないか?」

「有る、かも。……ううん、有る。ハルちゃんは、自分がやらないことや、できないことをする人をよく褒めてる」

「なるほど。ハルの価値観はそこにあるんだな。愛と尊敬は近しい。あんたの場合、ミズ・守村に両方を抱いている筈だ」

その通りなので頷くと、ブラックは愛が無いとは思えない穏やかな笑みを浮かべた。

「それが真実ならば、未春はまともだ。持たざる俺が言うのは説得力に欠けるが、もっと自信を持った方がいい。ハルとの関係も、焦ることは無い」

「……ありがとう」

よくわかった、と頷いた未春は、だからこそ首を傾げた。

「じゃあ、ブラック……俺が持ってる愛は、移すことはできる?」

「移す?」

「俺は……先生やさららさん、穂積さん、実乃里ちゃん、……トオルさんや周りの皆に愛を貰ったから、今の俺が居るんだと思う。それを、皆みたいにハルちゃんにあげることはできないのかな?」

穴だらけの受け皿を、皆が埋めてくれたように。受け皿そのものを持たないと称されたハルトに、一から作ることはできないのか。

ブラックはしばし、答えを探すように虚空を見つめ、首を振った。

「申し訳ないが、俺にはその答えはわからない」

首を振ったものの、その薄笑いは否定的な冷笑ではなく、穏やかなままだった。

だからだ。未春は言った。

「……試すことは、できる?」

「俺でか」

意味を察した闇が瞬き、思案するように自身の顎を撫でた。

「あんたには美味い食事の恩がある。協力してもいいんだが……本当に気になる相手が近くに居る場合は、控えた方が良いのではないか? 存外、ハルは不快に感じる気がする」

その部屋の方を見て言う男に、同じようにそちらを見て、未春は首を捻った。

確かに、ハルトは男娼の件でやけに十に噛み付いていたが、それは十のやり方が気に入らなかっただけで、嫉妬したわけではない筈だ。

「それは無いと思うけど……」

目の前の異常者が、健常者の意志に従って行動するなら、これ以上ないアドバイスかもしれない。受け取る異常者は頷いた。

「単にうるさいって言いに来るかも」

何か面白かったか、ブラックは密かな笑みを洩らして頷き返した。

「未春、性交渉には色々ある。子を成す目的以外なら、ただ触れ合うだけで十分らしい。俺は体が大きいからな……此処ではかなり揺れてしまう」

ベッドを軽く叩いて言う男に未春は首を捻った。

それは所謂――本番ナシというやつか?

「ブラックは、それはできる?」

「よく使う。愛が籠っているのかは不明だが、それで嫌われたことは無いと思う」

「試してみたい」

「そうか。俺も愛などない人間だが……少なくとも、美味い食事を作れるこの手は愛せる」

そう言うと、ブラックは女にするように未春の手を滑らかに取り、甲へと接吻した。そのまま、指に、付け根に、音もなく唇を当てるだけの口付けをする。ぼんやりと眺めていた未春だが、不意に男の舌から伝わった熱に微かに身震いした。急に湯を当てられたように熱く感じるそれは、じっくりと口付けた箇所を追う。何とはなしに見守ってしまった未春の顎にもう一方の手が添えられ、軽く上向かせた刹那、熱い唇が触れた。思わず深く吸い込んだ空気に馴染んだ彼の香水が、瞬く間に肺腑に満ちた。オークモスのはびこる森のような深みは、一呼吸で酔いが回るようだ。背に回った手と重力に従うまま、押し倒すと云うより横たえられる形で仰向けになると、熱い手が肩に掛かる。

……やっぱり、嫌じゃない。怖くもない。ブラックだから? いや、違う。彼に対する安心感があるのは間違いないが、きっと、他の相手でも……

思考を奪うように口付けられた。食むようなキスが、唇に、首筋に、耳許に降る。それに答えるように未春が両腕を伸ばし、広い背から首の付け根へと這わす。

他に例えようのない浮遊感が体に満ちる。整っていなくて、ばらばらで、空気とは違う何かが胸の内で膨れるようで苦しいが、別の何かが心を満たす。

――あの頃、どんなふうにしていたっけ。

記憶よりも体が覚えているそれに従って、服の上から相手の逞しい肌をなぞると、彼はあっさりシャツを脱ぎ捨てた。あらわになった肌に、未春は目を見開いた。少し見えていたが首から、何となく想像はしていたが――その皮膚は、腹に至るまで――否、恐らくその下も、双肩も両腕も薄暗がりにもわかるほど傷だらけだった。殆ど全て、うっすらと白い筋となった古いものらしい。刃物による傷とわかるものから、何が原因かわからない多くの裂傷や打撲痕が身体中にある。はっきりした歪な白や濁った色の大きなそれは深手だろう。更には火傷や銃創らしきものまである。よく、こんな傷を全身に受けて生きていたものだ。

「……痛くないの?」

「痛くない。途中からよくわからなくなった。強いて言えば、付いたばかりのものは少し痛む」

笑顔の男が、未春のシャツをくつろげて、こちらはこちらで感嘆した。

「あんたは最近見たどの体より綺麗だ」

「そう……?」

スプリングのせいだが、そういえば娼館でも奇妙に思われた。擦り傷はおろか、斬られたとて数日もかからずに治ってしまう為、口付けの痕など残る隙もない。

「面白いな」

本当に面白いと感じているらしく、ブラックはどこか研究者のような眼差しで皮膚をなぞった。マッサージとも違うようだが、その手のひらは温かく、じんと身の内に熱が迫る。油断したら体の何処かがほどけてほつれていくのではと思うような感覚の中、未春は細くも深い溜息を吐いた。

「未春、俺も聞いていいだろうか」

「……? うん」

「俺が記憶しているデータ上、あんたはハルとは会って数ヶ月の同僚ということだが、その関係は今はどうなんだ?」

「俺のデータ……?」

「派遣先で必要な情報はなるべく頭に入れるんだ。今だから言うが、この支部は俺にとって人間関係が複雑で、来る前はあまり寝る間がなかった」

出会った頃のブラックがやけに眠そうだったのはそれが原因か。ハルトが初めて会った際も机に突っ伏して寝ていたと言っていた辺り、こちらに来てからも詰め込んでいたらしい。

「そうだったんだね……色々、面倒なこと頼んでごめん」

普通は腹を立てたり気味悪がるのが相場だが、反対に謝った未春を眺め、ブラックは首を振った。

「謝ることはない。行きの飛行機で、ハルの同期を警戒して眠れなかったのが利いたんだ」

一笑に伏し、「答えを聞かせてくれるか」と促された未春は自信無さげに答えた。

「……俺とハルちゃんの関係は、最初からあんまり変わってないよ……」

意外そうに瞬いたブラックに小さく付け加える。

「俺は、ハルちゃんを家族だと思うようになったけど、ハルちゃんはそうじゃないし、そうなりたくないんだと思う……」

改まって言うと、喉元が苦しくなる。ブラックは視線を宙に置いてから言った。

「ハルは、何故そうなんだろうな」

「BGMの……教育のせいだと思うけど」

「未春、それは欲求面での話だ。俺は違うと思う」

「え?」

聞き返した未春から一度身を引いて、ブラックは壁を見てから静かに言った。

「マグノリア・ハウスの子供たちが、総じて強い欲求を欠いているデータは俺も見た。性欲や食欲、金銭欲、出世欲などを抑止する教育は施されているようだ。生きる上で必要な分や、それを過剰に求める人間が居るのは理解できるが、自分たちは求めない……全員が聖職者に程近い禁欲的な生活も可能なレベルだ。しかし、それは人間関係の希薄を望むこととはイコールではない。だとしたら、フレディがハルに近付いた件に説明が付かないと思わないか?」

アンバーの双眸を瞬かせて未春は頷いた。そうだ。フレディがハルトと同じなら、彼と持ち物を交換したり、くすねるなどのストーカー的な行動を起こすのはおかしい。

「ジョゼフはこの点でハルに近いと考えられるが、彼は逃走中、好ましい人間とは付き合っていたそうだ。その相手には女性も居たし、ジョゼフを友人だと思っていた人物も見つかっている。悪に限らず、悪であれば尚、嘘であっても良好な関係は増やした方が都合がいい。同じ施設で育った人間なのに、ハルだけが愛想笑いしながら他者との関係を避けるのは、妙な感じがする」

もうジョゼフから情報を吸い上げているのには驚いたが、ブラックの見解は正しい。

「……俺も、最近なんとなく気にはなってたんだけど……」

ハルトは“普通”の顔をして、何かが異質なのだ。この“普通”は殺し屋の彼が一般人の顔をしているが為の“普通”だと思っていたが、どうもそれだけではない気がする。

「ハルちゃんは……いつも、今居る場所の外に居る感じなんだ」

「?」

「えーと、ハルちゃんは同じ家に居るのに、外から俺たちを見てるみたいな感じ」

「面白い表現だ」

「ブラックも、そう?」

同じく愛なき男は首を捻った。

「どうかな。俺は社の皆が好きだし、出張が無いときは先生と一緒に居たいと思う」

「そっか……ハルちゃんとは違うね」

ハルトは協力を求めることはあっても、一緒に居たいとは思わないだろう。

何か掴めそうな気がした額の髪を大きな手がそっと払い、愛が無いとは思えない温かな黒い目が見下ろす。それを見上げ、未春は訊ねた。

「その『先生』とは、一緒に寝たいと思わないの?」

「先生と? 切望はしないし、先生も歓迎はしないが……落ち着く相手ではあるな」

「あ、じゃあ、寝たことあるんだ……」

いくらか驚いたが、ブラックは間近な薄笑いで頷いた。

「もちろんだ。山で遭難した際に、可能な限りで密着した」

あっけらかんと出た回答に未春は微かに笑った。

「そうだった。その時みたいにしてくれる?」

「了解だ」

ぎゅっと抱き締められ、圧迫感に胸が詰まったが、それを瞬く間に押し広げるほどの温かさが満ちた。

「なんか……俺の方が移されてる気がする……」

先日の比ではない。密着した皮膚から直接伝わる熱は、冷気が滑り込む隙も無い。傷のざらつきやねじくれて盛り上がった感触のする広い背を抱き締めて呟くと、低い忍び笑いが聴こえた。

「安心しろ、未春。俺が移せるのは熱だけだ」

「じゃあ、ブラックがハルちゃんと寝たらいいのかな……?」

寒がりだし、などと本人が聞いたら眉逆立てそうなことを言う未春に、ブラックは苦笑混じりに耳元に唇を落としてからそっと言った。

「それは、ハルと遭難するまでやめておこう」

「……そうだね」

「もう、落ち着いて眠れそうだな」

未春は頷いたが、小さな溜息を吐いた。

「イギリスに……帰っちゃうんだね……」

「ああ。すぐに余所に飛ぶと思うが」

「もう日本には来ないの?」

「それはわからない。ボスの指示次第だ」

「そっか……」

「気を落とすことはない。俺にボスや社の皆が居るように、未春にもハルや皆が居る。優しい人間ばかりだったと思う。何も不安に思うことはない」

「うん、わかってる。……でも、ブラックは近くに居ると、何だか落ち着いた。居なくなるのは寂しいよ」

間近に思案顔になりつつ、ブラックは微笑した。

「俺に用が有るなら連絡してくれ。大概は、電波が届く場所に居る」

「ありがとう」

自然にそう答えてから、未春は目を瞬かせた。

「……?」

「どうかしたか」

「俺、さっき……寂しいって言ったよね……?」

「ああ。言った」

「……寂しい……そっか……寂しいって……こういう感じか……」

不思議そうに呟いて、広い背を抱き締めた。ブラックも不思議そうにしたが、穏やかな力でハグを返すと、未春はぼそりと小さな声で言った。

「苦しいけど……あったかい」




 壁一枚隔てた向こう側で、ハルトはベッドに腰掛けて端末を見つめていた。

就寝時にくっ付いて来るのが習慣付いている猫たちは、ど真ん中を陣取って仲良く丸まっている。

未春が際どい接触を試みる中、ハルトは完全に別のことを考えていた。

見ていた画面はTAKEテイクだ。倉子や十にせがまれて已む無く始めたその画面には、未春に聞かれるのを避けた文字での会話が並んでいた。

口頭ではない分、いつもより冷静で淡白なやり取りだったが、不穏な空気までは隠し切れない。現に画面を見るハルトの目は、拳銃を構えている時と大差ない。


〈グレイト・スミスは、お前の親族か?〉


ハルトの問い掛けに、アマデウスの秘書であるジョン・スミスの回答が続く。


《父だ》


何故か、恐ろしい秘密を聞いた気がした。

TOP13が危険因子と考えるグレイト・スミスという男。

その息子が、TOP13の一人であるアマデウスの秘書?


〈なんでお前の父親がTOP13と反目している?〉

《意見の相違だ》

〈お前もそうなのか〉

《そうだ。俺はミスターの考えに準ずる》


父親を裏切って?――そう打とうとして、ハルトは首を捻ってからメッセージを消し、打ち直した。


〈グレイト・スミスは何をしようとしてる?〉

《世界を滞らせようとしている》

〈それは聞いた。具体的に言え〉

《何らかのインフラを独占或いは支配することで、世界の発展を止めようとしている。それがエネルギー資源なのか、通信関連なのかはまだ定かではない》


思いもよらない単語に目を疑う。――世界の発展を、止める?

続けて舞い込んだメッセージに唖然とした。


《BGMはその目的の為にグレイト・スミスが作った。だが、彼の危険思想に気付いたミスター達が、彼を倒す為に奪って作り直した。そしてお前たち、マグノリア・ハウスの子供たちは、その為の牙だった》


不意に、端末の画面をオフした。

見てはいけないものを見た気がして、妙なえずきを感じて口元を覆う。

隣から微かに響く話し声が穏やかで、何故かそれが気持ち悪かった。しばしの間を置いて画面に戻ると、冷静というよりも冷淡に〈今は違うのか〉と打つ。

壁の向こうで、ベッドが重い物に軋む音がした。視界の端でスズの耳がぴくりと動く。


《YESであり、NOでもある》

〈それは、フレディたちの所為なのか?〉

《それも、どちらとも言える。トオルが現れたこと、ステファニーが亡くなったこと、スターゲイジーが今そちらに居るブラック・ロスを拾ったこと、他にも、我々が方向転換を余儀なくされた事態は数多い。ハル、お前や未春の行動にも関係するが、ここ数年……ミスターは迷っている》

〈アマデウスさんが? そんなタイプじゃないだろ?〉


出会った頃から、彼はいつだって悠々としている。自分の信じる方へ、行きたい方へ、難なく向かっているように見える。


《そんなことはない。ミスターも、TOP13も、新しい者たちに翻弄され始めている。恐らく、グレイト・スミス本人も》

〈どうも最近、お前に連絡するともやが濃くなる〉

《すまない、ハル。俺はミスターよりも迷っている。ミスターに従う事を決めて、ようやく此処に居る程度の凡人なんだ》

〈悪いがお前の悩みは俺にはわからない。わかるのは、俺が何も知らないマヌケってことだけだ〉


切り捨てるようにメッセージを送ると、矢継ぎ早に質問を投げた。


〈フレディはグレイト・スミスの孫だと聞いた。お前の子供か?〉

《違う。父の子は俺だけではない。縁者には当たるが、他に何人も居る》

〈俺は、奴に会ったら殺すぞ〉

《わかっている》

〈わかってる? なめてんのかお前? 自分のとこの面倒を俺に押し付けるな〉


メッセージにはすぐに既読の表示が付いたが、返事の代わりに電話が鳴った。

思ったより静かな壁の方を見てから、ハルトは電話に出た。

「……なんだよ」

〈すまない、ハル〉

「謝るのはやめろ。俺には毒にも薬にもならない」

〈俺は、できることなら……自分で片を付けたいと今でも思っている。だが、俺は才に恵まれなかった。幼少期のフレディにさえ、敵わなかったろう〉

「……お前が言ってることは、金払うから殺せと言う奴らと同じだ」

〈その通りだ。日本語で言う、他力本願だ。俺にできることはせいぜい、お前のサンドバッグになる他ない〉

「クソ、自意識過剰なんだ……! お前を蹴ろうが殴ろうが俺には何の得もない。サンドバッグは謝罪も泣き言も言わねえよ」

隣に聞こえるのを考慮してか、いつもよりソフトな怒りを呻くと、ジョンは変わらぬ静けさと低い声で答えた。

〈……ハル、殺しが嫌になったのなら、その時は――〉

総毛立つように息を呑んだハルトは、察した言葉の前に電話を切った。ベッドに端末を捨てるように置くと、顔を覆い、走って来たかのように肩で息をした。スズとビビが、それぞれにアーモンド形の目を向ける。

しんと冷え始めた部屋で、全身に嫌な汗が浮かぶ。身の内に気色悪い寒気が広がる。

それは言うな。

絶対に言うな。

それを言うぐらいなら――……

「No……」

最初の同胞は後ろから撃ち殺した。次の奴は正面で挨拶をした直後に頭を撃った。

狙撃に優れた奴は近距離で撃った。迷わなかった。教わった通りに。同じ教えを受けた奴らを。頭を、顔を、狙うなら上半身。殺して、殺して、殺して――……


――Nice to meet you, Haruto.

――ハル、君は特別なんだよ。僕にはわかる。

――ハル、既に君は素晴らしい殺し屋だ。プロフェッショナルとして歓迎するよ。

――君は、皆が大好きな“ハルちゃん”なんだから、此処に居て。

――ハルちゃんは、家族だから。


うるさい!

うるさい、うるさい、うるさい……!

「Noだ……! No, No, No……!」

ひとり、呼吸程に小さな声が呟くのを、猫たちの瞬かぬ視線が見つめた。

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