15.Unexpected.

 クリア樹脂の向こう側、緞帳どんちょうが掛かった更に向こう側――ひどく安全で、やけに快適な独房の中で、ロッキングチェアに揺られる老人は外の様子を眺めた。

外といっても、独房にあるまじき大きな窓の方ではない。

クリア樹脂を隔てた白い廊下の方だ。日頃、見る必要のないそこには、今日は珍しく客人が居た。それも、若者が二人。一人は蜂蜜色の髪をした利発そうな白人系の青年、もう一人はアジア人と白人の血を引くらしい肌以外は髪も目も服さえ真っ黒な男。どちらも彼には関係のない二人だったが、彼らが一つの情報を求めて訪れたのは間違いなかった。

情報そのものはどうでもいい。が、老人は久方ぶりに気になった疑問を口にした。

〈そこの君、どうやって入って来た?〉

黒衣の男は薄く笑い、熊のような大柄な体格で小さく肩をすくめた。

「悪いが、俺にはわからない。彼女に聞いてくれ」

そう言って振り向くのは傍らに浮いたドローンだ。施設内で用いている型で間違いない。この刑務所のシステムは、全て自身が中心であり、基本的には自動的オートマチックに運行している。囚人は侵入経路もわからぬまま施設内に運ばれ、ドローンの案内で自らの独房まで移動し、収容される。日常生活は無論のこと、出て行く時も、動作は殆ど変わらない。誘導をドローンが管理するように、食事を運ぶのも機械、仕事を指示するのも機械。外部アクセスは受け付けず、警察もにわかに入ることは不可。老人はただただ、此処に住みながら、この動作に不具合が生じた際に操作盤に命じるだけだ。

知恵を与えたひじりグループが生み出した檻に、これまで異常は無かった。

〈そのドローンに、男女の区別は無い筈だが〉

〈ジャンクはジャンク。男でも女でもないよ〉

不意に出た音声に老人が微かに驚いた顔をした。性別を否定したが、その音声はどこか幼い女性を思わせる。

〈……ジャンク? そうか……君は小牧こまきに行った――私のシステムに干渉するとは……よくぞ此処まで……〉

〈ジャンク、スゴイ? スゴイ?〉

「ああ、あんたはすごい。俺はただ歩いて来ただけだ」

黒衣の男が褒める調子に気付いてか、得意げな声を弾ませたドローンはクスクスと女が笑うような声を立てた。

「ハハハ、ブレンド社一の色男は機械まで口説くのか」

どこか嘲りを含んだ声は、蜂蜜色の髪をした青年だ。

「さすが、スターゲイジーのところは面白い社員が多いね」

「あんたは『オムニス』か」

すん、と軽く鼻を鳴らす男に、青年は首を傾げた。

「本当に匂いがわかるの? 不思議な才能だ……”僕でも”君のことはよくわからない。犬として生きてきたからかな?」

「俺としても、よくわからない男に知られずに済んで幸いだ」

ひりついた内容の割に、互いに浮かべているのは薄笑いだ。

「スターゲイジーも、目当ては僕と一緒かい?」

「グレイト・スミスの居所だ」

「へえ。機械で潜り込めるなら、その子に頼めば充分じゃないか。どうしてわざわざ来たの?」

「Well……女性を一人でこんな所にやるのは良くない」

ブラックの讒言めいた言葉にドローンが微かに〈キャッ〉と声を上げてからふらふらっと揺れ、すぐに正位置に浮き直した。それを呆れ顔で眺める青年をよそに、男は透明な壁の向こうに微笑みかけた。

「そちらはハーミットで間違いないか」

〈間違いない。君は〉

「ブラック・ロス。ボス・スターゲイジーこと、ロバート・ウィルソンの使いで来た」

〈ロバート……懐かしい名だ。彼も可愛がっていた。奔放で手を焼かせたが、賢く、人望を集める少年だった。何でもエディと張り合う子だったな……〉

チェアを揺らし、過去に思いを馳せる目が虚空を見、黒衣の男と青年に向き合う。

その目はゆったりと二人を交互に見た。やがて、何か精査する者の目が閉じられ、老人は聖職者のように両手を伸べた。

〈よろしい。偉大なる血に関わる子らよ、彼の居所を知りたければ、天気図を見なさい〉

「天気図?」

ブラックが繰り返し、フレディは唇を歪めた。

〈正確には気温分布図を含めて。彼は気温25℃以下となる地域には存在しない。空気も、動植物も、人も、街も、暖かく、穏やかなるを好み、多くを求めない〉

そこまで言うと、老人はゆっくりと元の様に椅子に寄りかかり目を閉じると、改めてチェアを揺らし始めた。

「それだけ?」

幾らかつまらなそうにフレディが問う。ブラックは何も言わずに廊下の奥をちらと見る。老人は目を閉じたまま頷いた。

〈お若いの、私は君とそう変わらない。彼について知ることはそれだけだ〉

「たったそれだけの為に、手間を掛けさせますね……」

髪を弄いながら、ふう、と溜息を吐いた青年がちらりと上げた目を見て、ブラックが低く言った。

「ありがとう、ジャンク。行ってくれ」

急に話し掛けられたドローンはヴー……とブレードの回転音を響かせてしばし空中で制止していたが、突如、電源を切られたようにガシャン!と落ちた。――が、すぐに再起動してゆらりと浮き上がると、何か用事を思い出した様に向きを変えて去って行った。

「紳士の前では、機械も女性ですか」

ハッキングから解放されたのだろう、従順なシステムに復帰したドローンを見送るフレディの言葉に、ブラックは笑みを浮かべたまま首を振り、老人の前に立つように移動した。

「彼を殺して、得が有るとは思えない」

「僕はまだ何も言っていませんが」

「わかる。フレディ……初対面だが、あんたは俺よりも命に対する意識が低い」

「君は僕の想定よりも人間らしいみたいだね、ブラック。とても同世代の子供を殴り殺し、婦女の頭を割った経験者とは思えない」

「英国紳士の努力の結果だ」

薄笑いを浮かべている男のバリトンに、フレディの目が二、三瞬く。

「君……僕がどうやって彼を殺すかわかるのかい?」

「さあ。正解はわからない。だが、見たところ、あんたは武器を持っていない。その状態で、厚さ50cm以上のアクリルガラスの向こうに居る男を殺す方法はそれほど無いと思う」

「”それ”がわかっていたら、そこに立つ意味は無いよ」

「確かにな」

不敵に笑うと、軽く黒髪を搔いた。

「だが、あんたのやり方なら、彼――或いは別の人間に扉を開けさせることも可能だ。そのマジックの種が声なのか言葉なのかは定かではないが、俺は戦場で音響兵器を幾つか見ている。LRAD、スクリーム……いずれも攻撃意欲低下などが主な目的だが、音声を届ける効果もある筈だ」

「記憶力が良い犬だったんだねえ、ブラック。そう、確かに僕の才能はそれらに近い。わかっても防ぐことができないのも同じだよ」

「一番簡単な方法が、耳栓かヘッドフォンなのも同じか」

「ハハハ、ハハハハハ」

急に蜂蜜色の髪を揺らし、青年は笑った。

「僕が『そうだ』と言えば信じるのか? 素直で愚かなところは治らなかったみたいだね」

「フレディ……俺はかつては馬鹿な猛犬だが、今はブレンド社の社員だ。此処に居るのは、あんたと言い合いをする為でも、ハーミットを守るためでもない。ボスが案じる世界の為に情報を集めるのが俺の仕事だ」

幾らも変わらぬ笑みで答えた男に、ふと、フレディの表情が変わった。

興が削がれた顔付きは、先程までの嘲笑が取り払われ、冷たい目が男を睨んだ。

「お喋りはそういう意味か。小賢しさも紳士仕込み……いや、スパイ仕込みってわけだ……女を何人もたらし込んだだけのことはある」

「お褒めに預かり光栄だ」

「褒めてない。君が知りたいのは、『スプリング』のことだろう?」

問い掛けに、男の笑みに闇が差す。

「そうだ。あの薬の開発はある瞬間、劇的に飛躍した。手を貸したのはあんたではないかとボスは見ている」

「仮に僕が手を貸したのなら、母の腹に居る頃になるじゃないか」

「さあ、俺にはわからないが――若干三歳で、実の母が恐ろしいものと感じて階段から突き落とした子供なら、常識の範囲を超えた行動を取っても不思議には感じない。現に、先程戦った相手は音の影響を顕著に受けていた」

透き通った湖にも似た目が、明るい廊下に深い闇を落とす両眼を見つめた。

「フン、スターゲイジーだけの知恵じゃないだろ。ミスター・アマデウス――いや、それ以外にも……」

男の奥でロッキングチェアに揺られる老人を見つめ、フレディは呟いた。

「……只の犬だと思っていたが、君は生かしておく方が面倒な男のような気がしてきたよ、ブラック」

「気が合うな。俺も、あんたに同じ印象を抱いている」

互いに変わらぬ距離で向かい合ったまま、見つめ合っていたが――やがて、訝しげな顔をしたのはフレディの方だった。

瞬いた目が、変わらぬ様子の暗闇を仰いで小さく笑った。

「やれやれ……スターゲイジーもなかなかの強運だ」

「?」

「気にしないで、ブラック・ロス。君も呪いを受けた一人ってことさ……」

独り言のように言うと、フレディは目を伏せ、軽く両腕を抱いた。

「なんだか涼しいね……そこの爺さんも油断ならない」

そう言われてブラックは腑に落ちた顔になる。此処にはない匂いがし始めていたのはわかっていたが、空調かと思っていた。しかし、それは左右の廊下の奥からだろうか――じわじわと冷たい空気に変わり、徐々に勢いを増している。

〈……気付いたのなら、早く此処を出るといい〉

眠っていたかのようにしわがれた声が響いた。老人は相変わらず、チェアにもたれて目を閉じている。

〈早くしないと、此処はマイナス50度を切る〉

「伊達に、グレイト・スミスの相棒じゃあないわけか……」

微かに声を震わせ、悔し気に呻いたのはフレディだ。その細い髪を吹き付ける冷風に目を細める。ブラックは足元を見た。廊下の行く手を示す光がぽつぽつと輝く傍には、炊事場や道路にあるような排水設備と思しき蓋が連なっている。水を撒いた掃除が楽、というならわからなくもないが、こんなところでそんな掃除は滅多にすまい。その隅には既に霜がり始めていた。

「こんな設備を用意しておいて、よくも世を捨てたなんて言えるね。その部屋も含めて無意味だ」

〈お若いの……君に理解は求めない。それがわかる頃に、君が生きているとは限らない。今、死ぬ気が無いのなら出て行かれよ。此処は刑務所だ。受刑者が、静かに己の罪と向き合い、学び、考え、償う場所……〉

もうその頃には、廊下を雪山めいた冷風が襲っている。

歯噛みしたが、耐えかねたらしいフレディが身を翻すのを見送り、ブラックは吹雪のような風の中、老人を振り返った。

「グレイト・スミスの血筋は、本当に寒さに弱いんだな」

〈既にマイナス30度――その血筋ではなくとも過酷だ。君は随分、我慢強い〉

「子供の頃から、寒さとは付き合いが長い」

〈そうか……興味深いが、もはや私には関与はない。凍えぬ内に早くおかえり〉

ブラックの笑みにわずかに思案する色が浮かんだが、吹雪いた風に掻き消えた。

「ハーミット、ひとつ――ロバート・ウィルソンから伝言が有るんだが」

〈……何だね?〉

「『あんたの部下は俺が貰った。いつでもくたばっていいぞ、ジジイ』だそうだ」

薄笑いで述べられた言葉に、老人は初めて乾いた声で笑った。

〈異なる人種が混ざり合って調和する――BLEND社、良い名だ。好きにするよう、ロバートに宜しく伝えておくれ〉

刹那、さあっと足元の光が、行く先を示して輝いた。

修験者が瞑想するように黙した老人を、ブラックはほんの数秒見つめてから、廊下の奥へと消えた。やがて真っ白になるアクリルガラスの中、薪が爆ぜる暖炉の部屋でロッキングチェアを揺らしながら、老人はすう、と息を吐いて目だけをそっと開いた。

〈行くがいい……おぞましき血筋の者達よ。暖かく、愚かしく、美しくも移ろいやすい世界に〉

白く染まったガラスを、勝手にするすると動いた緞帳どんちょうが覆い隠す。

ぱちり、と炎が爆ぜた。



 刑務所周辺を囲む高い壁の外側――入り口の門扉の傍で待機していたSATの車両の後ろに、一台のパトカーが停まった。

既に日は暮れている。周囲に何も無い為、辺りは灯りもまばらで、静かだった。

関東とはいえ、夜になる頃にはいっそう寒さが厳しくなるだろう。

末永すえなが警部」

幾らか緊張した顔で声を掛けて来た隊員に、丁寧な物腰で挨拶した若い警部は、その車両に伴われた。中は狭いが、座席を含め、小さな作戦室のようになっている。

「館内通路の温度が急激に下がっているんです。例の管理者の仕業だと思われます」

「通路……」

示される館内の見取り図と、その温度変化を見つめ、末永は呟いた。

外気温は11度。冬らしい寒さだが、生活に支障が出る程ではない。それに対し、館内通路の気温はとうにマイナスを切り、冷凍庫に変わった様に急降下していく。

一方、囚人が収容されている各部屋や、管理者が住まうとされる部屋は、過ごしやすい気温、或いは温暖に過ぎるほどだ。

刑務所の入り口が大きな門で閉ざした一ケ所なのを確かめ、末永は顔をしかめた。

「その管理者とは、交信できませんか?」

「実は……例の二名を収容する段階から呼びかけているのですが、一向に返事がありません。この管理者を担当している久我山くがやま氏に確認を取りましたが、彼の側から連絡を取れたことはないそうです」

「……本人確認ができないのなら、下手にやり取りしない方が良いか。周辺は、他に何も――……」

言い終わらぬ内に、地鳴りのような音が響いて来た。

「何だ……?」

「警部……‼」

外を張っていた刑事が焦った様子で飛び込んできた。

「どうした?」

都内を騒がせた暴走トラックかと思ったが、予想外の一言が出た。

「か、観光バスです……‼ 三台……! 外国人客ばかりです……‼ 他にも一般車らしき車が……!」

「観光バス……⁉」

――何故、こんな何も無い場所に?

様子を窺った外では、暗闇にぽつぽつと浮かぶ街灯の下、並んで停車した大型バスから、続々と観光客が降りてきた。三台とあっては、百人は居るだろうか。更に数台の一般車。皆、様々な色柄のコートやダウンを羽織り、楽し気な様子で意味のわからない外国語の歓声を上げながら、小さな光をちらつかせるスマートフォンやカメラを手に、何かを撮影しようとしているらしい。

注意を呼び掛けつつ、末永は慎重に車を降りた。

観光客たちは一様に刑務所の上空を眺め、何やら指差したり、肩を組んだり、或いは鼻歌混じりに何かを待っている。

「――Excuse me, May I ask you something?」

末永の問いに、陽気そうな男が仲間と共に軽く頷いた。

「此処で、何かあるのですか?」

「知らないの? ドローン・ショーだよ!」

男の返事に、再び周囲が盛り上がる。

「ドローン・ショー?」

光を点灯させながら飛んだドローンが、フォーメーションを組みながら夜空に絵を描くものだ。アミューズメント施設やライブ会場などではゲリラ的に行われるものもあるが、刑務所にそんなものを持ち出すとは一体誰が……

「それは――いつ決まったことですか」

「さあ? ツアーを予約した時にはもう有ったよ」

それじゃ、と仲間内で空を見ながら離れていく男に会釈してから、末永は添乗員らしき女性を呼び止めた。彼女の回答はもう少し詳しい。そもそもこの場所はドローン・ショーのメイン会場ではなく、此処よりもっと離れた位置で開催されるものが、此処はよく見えるという穴場だった為、ツアーに組み込まれたらしい。

確かに、やや高台であり、周辺に大きな建物、明るい施設や住宅があるわけでもない。おあつらえ向きの場所だ。そうこうする間にも、更にバスや一般車両が現れる。

明るい場所でコンバットスーツにヘルメットのSATがうろつけば何事かと思われるが、こう暗くては、せいぜい警備に出て来た程度だと思っているのだろう、こちらを、見て慌てる者は誰も居ない。

「警部……」

「……出入り口は警戒し、誰も近づけないようにしよう。停車中のナンバーは全て控える。この周辺から出て行った車両全てを当たるのは無理だが、別の検問でチェックすることは可能だ」

急なお祭り騒ぎにも確と言った末永に隊員は頷くと、急いで他の者と警戒に向かった。傍目には誰も出入りしていない、門扉に閉ざされた入り口を見つめ、末永は虎狼のような目を細めた。

誰も出入りしていない筈だ。

門は収容以降ずっと閉じているし、その間に新たに入った車両も無い。例のブラック・ロスのような高身長でも、塀を乗り越えるには脚立か、かなり大きな踏み台が要る。まして、フレディ・ダンヒルはそこまで背は高くないし、壁面にはよじ登れるような取っ掛かりは無い。

やがて、冬の空に光の粒が舞った。歓声が上がる中、末永は静まり返った門を見つめ続けた。


 


  「役者が揃ったな」

スターゲイジーがそう言ったのは、筋骨隆々とした男が泣く泣く事務所に戻って来たときだった。その愛車から降りたのは怠そうなハルトだ。明らかに不機嫌な彼が眺める中、後に続いてきた車からは片眼を赤く染まった綿布で押さえ、居残りでも命じられたような顔のジョゼフが降りた。

更にいま一人の所在を報せるように、救急車が通り過ぎたが、見向きする者は居なかった。一歩遅れて、もう一台の高級車が停まると、隣に居た優一がそちらに近付く。

スターゲイジーはストローイエローの顎髭を撫でて首を捻った。

視線の先では、ハルトを降ろしてから愛車の周りを涙混じりにウロウロし、そのボディをチェックする男だ。

「ディックは何をメソメソしていやがるんだ?」

「うう……スターゲイジー……ハルに改めて英国紳士のマナーを躾けてやってくださいぃ……!」

どうやら、危うく蹴られかけた恋人(車)に身を呈し、向こう脛に一打見舞われたらしい。紳士は知らぬ存ぜぬといった顔の青年を見下ろしてからニヤニヤ笑った。

「やなこった。ハルの上司はとおるだし、前の上司はそこに居るだろうが」

顎をしゃくった先の高級車の人物は、優一と何事か言葉を交わしてから軽く片手を上げた。にっこり笑っているのは”居る筈のない”アマデウスである。

「やあ、バイソン紳士。悪いが私も忙しい」

「フン、そんならとっとと行っちまえ、このドーナッツ中毒め」

「そうさせてもらう。ハルはもう大人だしね」

穏やかな皮肉に紳士は苦笑いだが、ハルトはわかりやすく舌打ちした。その様子を無事な片眼で窺うようにジョゼフが見たが、特に何も言わなかった。

優一が離れると、高級車は滑らかに去っていった。苦い顔で見送るハルトが声を掛ける間も無い早業だ。……おかげで、暮れた空気にいつにも増して重い溜息が出た。

「……人が悪いですよ、スターゲイジー」

代わりに文句を言った相手は大きな手でバンと肩を叩いた。

「フフン、ハルに悪を褒められんのは光栄だぜ」

「褒めていません……まっっったく!」

「悪いな、これからの時代、人が要るんだ。そうでなけりゃ、俺たちは小牧の坊主んとこの装甲レディに弟子入りせにゃならん」

「ああそうですか……そんな面白い状況が拝めなくて残念です」

「怒るなって。お前は期待通りの成果を上げた。イライラするなら考えとけ、ハル。何故、聖グループが人体強化の薬品なんか作ったのかってな」

「は……?」

身体機能向上薬・スプリング。あれが存在した理由?

思わず、数少ない適合者であり、開発者を祖父に持つ優一を見たが、彼は軽く肩をすくめただけで何も答えなかった。

「それは――出資者の聖景三が、世界に出せる殺し屋集団の創造を目論んだからでは?」

「おかしいだろうが。時代は機械化、自動化を通り越してAI化の流れだ。その片鱗は世界大戦の頃でも見えていた筈だぜ? 小牧にはドローン兵器を操るレディが居るが、あの娘はもともと聖が東京支部で育てていた者だ。何故、あっちを放置してまで人体強化にこだわった? いくら薬物に明るい奴が居ても、世の流れで言やあ、人間を強くするより、通信技術や半導体技術に力を入れる方が現実的だ」

「……何が言いたいんですか、スターゲイジー」

「俺もお前は大人だと思ってるんでな、説教はしない。頭を冷やせってことだよ、ハル」

ぽんと肩を叩くと、紳士は気まずそうにこちらを見ているジョゼフに向いた。

「ジョー坊、お前は別だ。俺が叩き直してやる。覚悟は良いな?」

「……あーあ……そういうとこがイヤなんだよ……めんどくさあ……」

目玉を押さえ、俯きがちにブツブツと文句を言う青年に、紳士はずんずんと近付いてわっしと両肩を掴んだ。思わずウサギの目になる男を、カッと開いた目が見る。

「遠慮するな。娘が世話になったからなァ? お前の腕の話も聞かせてもらうぜ?」

ぐっと唇を震わせ、ウサギは観念したらしい。

「……い、言う事は聞くからさあ……教えてよ……スターゲイジー……フレディはどこに居るの?」

「『ハーミット』が在留している刑務所だ」

ぱっと手を放してあっさり喋ったところを見ると、既にこの情報は済んでいるか、開示可能らしい。

「誰だよ、それ?」

「伝説級のスパイだ。グレイト・スミスの所在に繋がる情報を持つ、唯一の男だよ」

グレイト・スミスの名に、ジョゼフは少しだけ息を呑んだようだが、納得した様子で押し黙った。

「ブラックもそこですか」

「おう」

ハルトの言葉に頷いた紳士を見て、ジョゼフは小首を傾げた。

「ふうん……捨て駒? フレディの邪魔をしたら殺されちゃうのに」

「ウチの社員を甘く見るなよ、ジョー坊。お前だって奴の捨て駒じゃねえか」

「僕は捨て駒じゃないよ!」

いきり立った拍子に押さえた箇所からじわっと血が滲むのを見て、スターゲイジーはやれやれと溜息を吐いた。

「ったく、元気なのは悪くねえが、怪我人はとっとと病院に行った方が良いな」

「……イヤなんだよ……病院……消毒臭いし、なまあったかいし……」

片眼が潰れているくせに四の五の言う男を、紳士は有無を言わさずでかい手のひらで押し、彼が乗って来た車の後部に押し込んだ。

「スターゲイジー、僕が送りましょう」

もはや打ち合わせ済と思しき優一が運転席に乗り込むと、紳士は頷いた。

「”世話になった”な、ギムレット。式が決まったら教えろよ」

たっぷり祝ってやる、という男にこちらも苦笑を返し、ハンドルを握る優一にハルトも歩み寄った。

「どうも、お世話になりました」

「礼には及ばない。既に頼まれていたことだ」

そうでしょうね、と頷いたハルトは、むくれている同胞を見た。

「この人は俺より強いぞ。そんな腕も役に立たない。迷惑掛けるなよ」

「うるさいなあ……ギムレットは知ってるよ……年上みたいに言わないでくれる?」

「もうお前の目の中は普通じゃないんだからな。逃げても無駄だ」

「わかってるってばあ……! ハルが僕に撃ち込んだ物は変な白い弾だけじゃないのぐらいわかるよ……!」

ここ一番の文句を捨て台詞に、車は走り出していった。

それと入れ替わるように事務所前に滑って来たのは、例の凹んだレクサスだ。やはり些か乱暴に感じるブレーキを掛けて停まったそれから降りた未春は、いまだベソべソしているディックを見て不思議そうな顔をした。

「ディック、なんで泣いてんの?」

「う、う……ミハル……俺は恋人は守ったぜ……」

顔面に「意味不明」と描いた未春が振り返った先では、ハルトも渋面だった。

「ハルちゃん、怪我は?」

「無い。なんも無い」

「……何怒ってんの?」

「俺、もうブロードウェイとは仕事したくねえわ……」

溜息混じりのひどく正直な感想に未春は眉を寄せ、スターゲイジーは豪快に笑った。

「ミハルよ、うちのおてんば娘は店に居るのか?」

「はい。実乃里みのりちゃんと何か喋ってました」

「トオルの娘と?」

「喧嘩はしていませんけど、少し揉めているように聞こえました」

「ふむ……そうか。まあいい。――さて、後はウチのブラックが戻れば終いか」

顎髭を撫でたスターゲイジーを、恨めしそうにハルトが仰いだ。

「一応聞きますが、フレディはどうするつもりですか」

「最初からウチはタッチする気は無えよ。こっちの目的とぶつかりゃ対峙する他ないが、日本に害が及ぶならトオルに任せる。そういう約束だ」

台風ハリケーン扱いってわけですね……」

思った通りの対応策、且つ、一番安全な選択肢である。

例によって、元上司は安全圏に居ながら、厄介な誤算を一つ片づけたわけか。

「スターゲイジー……ミスター・アマデウスは……」

「ハル、お前が”そう”だと思ってるんなら大体”そう”だ。奴の汚い手も、上手い手も、よーく見て来ただろ?」

「全くその通りですね……」

先日の事件後、ブロードウェイ――演技に特化した劇場型・清掃員クリーナーであるピオ・ルッツを日本に残したのはこの件を見越してのことだ。

演技させたのはミスター・アマデウスであり、こちらがジョゼフ対策にその役を宛がうことも予想済み。こちらはジョゼフが大人しくなればそれで良いが、ピオがアマデウスに指示されたのは、ジョゼフをスターゲイジーの配下に吸収させることだ。

何故、アマデウス役が適任なのかは、ジョゼフの得意技に由来する。

アマデウスの秘技とも云える『One Shot One kill』――『一撃必殺』の才は、かつて世界中の悪党や要人を震え上がらせたが、要は逃げ隠れしたところで見つけ出し、確実に仕留める脅威のスナイプ技術なのである。「かくれんぼの天才」であるジョゼフには最悪な相手で、過去に彼がサプライズで参加した訓練では痛い目を見ていた。

では、本件もアマデウス本人が来れば済むではないかと思う所だが、そこがあの男の狡猾さだ。居なくても成功する事例に、わざわざ勇んで出るような真似はしない。

――『I’m crazy busy!!』で何でも罷り通ると思われるのは癪だが。

「フレディを殺しに行きてえか?」

「……語弊があるんですよ、スターゲイジー。俺は奴の死を確認できればそれでいい。事故か災害かで逝ってもらうのが一番良い」

「フフン……まあ、そういうことにしておいてやる」

含みのある笑みを浮かべる紳士を睨み、ハルトは未春に向き直った。

「タチバナさんは、大丈夫だったか?」

「うん。怪我はしてないし、冷静だった。家まで送る予定だったけど、帰る前に何処かで落ち着きたいって言うから、店に置いて来た」

「ああ……そういうことだったのか。十条さんが居るなら心配ないか……」

ばつの悪そうな顔で髪を搔く男に、未春は小さく付け加えた。

「ハルちゃんのことは、怒ってなかったよ」

「……それは別にどうでもいい」

正直言うと、いっそ、倉子のように叩いてくれる方が気楽なのだが。

「スターゲイジー、ブラックは?」

「奴はまだ仕事だ。何か用事か?」

「用は……ちょっと約束してることがあります」

「ほう?」

面白そうに顎髭を撫で、スターゲイジーは自身の端末を取り出して何かを確認した。

「今日明日には出られる筈だ。当局がごねるかもしれんが、もしもの時は俺が入るから気楽に待っていろ」

「そんな暇あるんですか?」

スターゲイジーやブラックの発言が本当なら、今回のブレンド社の目的は済んだも同然だ。フレディが依然として行方不明だが、彼らはこの件に関与する為に来日したわけではない。ブレンド社の働き方に準ずるなら、とっとと帰還するか、次の調査地へ飛ぶ筈だ。ハルトの胡乱げな問い掛けに、紳士は大様に頷いた。

「トオルが用が有るんだと。まあ、ちょうどいいさ。今回はブラックも、当局の顔を立てて一旦は帰国せにゃならんからな」

「十条さんが用事ですか……」

どこか嫌そうな顔で呟くハルトに、紳士が首を捻る。

「なんだ、ハル。心当たりがあるのか?」

「いえ、有りませんが……」

寒風に身を抱いて、ハルトは結局は嫌そうに言った。

「嫌な予感がするだけです」




 たかが10分程度のドローン・ショーに沸いた群衆は、熱気に包まれながら来た時と同じように大興奮で去って行った。彼らに紛れて逃げた者が居ないかチェックしたが、離れた箇所で行った検問でも、怪しい者は見つからなかった。

かといって、沈黙し続ける刑務所内の様子はわからず、収容された人間に関する情報は、『収容』のステータスのままだ。

一度はマイナス50度近くまで下がった館内通路は、緩やかに気温を戻したものの、依然としてマイナス数値だ。只でさえ寒い季節、看守は廊下には暖房を入れる気もない様で、自然任せにしている。ショーを一瞥することなく、入り口を見張り続けた末永は、同じ方を見つめたまま、不意に鳴った電話に出た。

〈警部、例のホテルの捜索が済みました〉

「ご苦労様です。何か出ましたか」

〈それが……事件性が窺えるものは、何も〉

「そうですか」

何となく察しは付いていたことだ。さして落胆することなく頷き、報告を聞いていたが、ふと気になる言葉に気付いて止めた。

「すみません、その――スターゲイジーの部屋から出た領収証とは、何ですか?」

〈えっ、ええと……〉

英語で書かれていたらしく、部下がたどたどしく読み上げたものを聞いて、末永は門を見つめたまま瞬いた。

「……わかりました。ご苦労様です」

労った後に電話を切ると、同じ姿勢のままでナンシーに電話をかけた。

〈……Hi.〉

どこか臆したような応答に、末永はそっと話し掛けた。

「お待たせいたしました、先程、捜索が済んだとの連絡が来ました」

〈どうだったの……?〉

一世一代の試験結果でも訊ねるような女には、先程までトランプなんぞに興じていた者たちの視線が集まっていた。実乃里みのりがにこりと笑って言った。

「ミズ・アダムズ、黙っているから、私たちにも聴こえるようにしてね」

小賢しい注文に、ナンシーは舌打ちしながら通話の設定を変えた。

末永の硬質の声が辺りに響く。

〈包装されたプレゼントらしきものはありませんでした。未開封のゲームソフトは色々有ったようですが、これは私物と思われます〉

「……ああ、そう――、そうでしょうね。そうだと思ったわ……」

バカらしい。小娘の口車に乗って、微かに何かを期待した自分が阿呆のようだ。

「ありがとう、警部。後はもう――……」

〈お待ち下さい、ミズ・アダムズ〉

「……はい?」

〈私は“包装されたプレゼント”は無いと申し上げましたが、プレゼントが無いとは言っていません〉

――コイツまでおかしくなったの?

「仰る意味が、よく……」

〈では率直に。貴女の為に都内のレストランが貸し切られています。支払い済みの領収証と、予約票らしきものが一緒になっているそうです〉

「な……」

〈予約の名義人は、ボス・スターゲイジーこと、ロバート・ウィルソン。……予約項目も聞きますか?〉

「……ちょっと待って――そ、それが何故私の為とわかるのよ……!?」

〈デザートが予約されています。ハッピーバースデー・ナンシーとメッセージを入れるようにとの指示が――〉

「嘘よ!!」

娘は吠えた。

〈ミズ・アダムズ、私がそんな嘘をついても何の意味もありません〉

「貴方も――買収されているんじゃ……」

〈即席の仲間を信じられないのは無理もないでしょう。それなら私も言わせて頂きますが、ミズ・アダムズ……貴女は今、どちらに? この調査は、何の為に依頼したのですか。よもやまた、勝手な捜査や、民間人を巻き込んではいませんよね?」

青くなるナンシーの泳いだ視線が、実乃里に留まった。

――何てこと。

「こんなこと……捜査なものですか……」

呻くようにナンシーは言った。

「下らない賭けよ……!」

こんな小娘に!

言い捨てて電話を切った女に、娘は天使のように微笑んだ。

「私の勝ち」




 妙な叫びと共に切れた電話を前に、しばし末永はぼんやりしていたが、隊員の上げた声に現実に戻された。

「警部! 施設から応答です!」

中の管理者から、と付け加えられる前に、末永は電話を手に取っていた。

〈Are you the commander?(君が指揮官か?)〉

響いて来たのは、しわがれた英語だ。

「……Yes.」

正確には異なるが、今はそんな細かな命令系統の話をしている場合ではない。

相手も誰でも良いらしく、それ以上は訊ねることなく言った。

〈こうした事はとても稀なのだが、囚人を一人連れ帰ってくれないか。法務省には話を通してある〉

いつもの末永なら、理路整然とした説明を求めるところだが、つい言ってしまった。

「それは……フレディ・ダンヒルですか?」

〈違う。彼はとうに消えた。施設内には居ない〉

はっきりと述べられた言葉に、どこかそんな気がしていた末永だが、それでも唖然とした。この男がフレディを庇う意味も、狂言を述べる意味もない。

……仮に逃がすつもりなら、この事実はなるべく長く伏せた方が効果的だ。

フレディ・ダンヒルは消えた。

文字通り、影も形も無く。

一体どうやった?――唯一の出入り口である門扉は一瞬たりとも開いていない。

只でさえ、不可能と思われる壁を乗り越える術はない。穴を掘った形跡、壁を傷つけたり、縄をかけた痕跡、梯子や脚立も見つかってはいない。

「では、その……囚人というのは?」

〈ブラック・ロス〉

微かに呆れた様な、仕方なさそうな溜息をこぼし、管理者は言った。

〈彼の罪は此処では償えない。退去を命じたが、眠ったまま動かない。どうやら彼は主人の命令以外では御しえないようだ。当方の力では管理しきれず不適切故に、日本国内での罪状は無効にしてもらった。速やかに連れ出し、自由にするように〉

信じ難い処置に末永は息を呑んだ。

そもそもブラック・ロスの殺人罪は、無差別殺人の容疑が掛けられた暴走トラック犯を倒したもので、正当防衛に値すると言うのだ。

違法な銃で人間を一人殺しておいて正当防衛?……法も常識もあったものではない。

確かに、彼が警察官を庇うように発砲したところは多くの身内が目撃しているし、ブレンド社の同僚が手を出さない様に指示したおかげで被害者はゼロ。銃が命を救った例になるのかもしれないが、それが罷り通るのなら、銃刀法も警察も、何の為に有るのかわからない。

「連れ帰った後は、どうするのですか」

〈私には関係ない。こちらが放り出した彼を、君たちが此処に放置していこうとも〉

「……わかりました。引き取りに参ります。脱走者が出ない様、警戒をお願い致します」

不気味な注文に応じると、相手はどこか煩わしそうに言った。

〈入り口に迎えが居る。同行者は君を含めて二名までだ〉

有無を言わさぬ相手に了解し、隊員を一人連れて門扉に向かうと、それはじっくりと開いた。他のメンバーがライトと銃を掲げて警戒する中、踏み込んだが、周囲にはフレディはおろか、人の気配も、何なら隠れる場所さえ無かった。

門を抜けた末永は、施設の入り口で待っていたドローンに従った。

初めて入るオートシステムの刑務所は、他の場所と似てはいるが、とにかく生き物の気配が無い。本当にデータ通りの人間が収容されているのかも怪しい中、一つの独房の前でドローンは停止した。

促すように待つそれの手前、鍵が掛かっていなかったドアを開くと、真っ黒な巨体が片腕を枕に四畳半もない小さな部屋に寝転がっていた。同時に、中からふわっと漂うのは深い森と濃密な花の香を合わせた様な香りだ。

ドアが開いたことにも頓着しない様子だったが、末永が「ブラック・ロスか」と声を掛けると、うっすらと目を開き、こちらを見てどろっとした笑みを浮かべた。

「Yes, I am.」

ぞっとするようなバリトンに頷くと、出るように促した。

彼は眠そうな顔つきで起き上がり、ゆっくりとあくびと伸びをしてから立ち上がった。日本人の平均身長から見れば、恐ろしい巨漢だ。男性でも軽々と持ち上げそうな片手を上着のポケットに押し込み、更に出そうなあくびを噛み殺しながら、もう片手で髪を搔いた。

「あなた方は警察かな。俺に何の用だろう?」

「貴方を連れ帰るよう、管理者に求められた。大人しく付いてきてほしい」

「そうか。貴方は?」

「警視庁の末永と申します」

「了解した、ミスター・末永」

驚くほど聞き分けの良い男は、廊下にやって来て、軽く両腕を持ち上げた。

どうやら、「ボディチェックをするか」という意味らしい。顔を見合わせた隊員が念のためチェックしたが、一度は護送車に乗っていた筈の男のこと、コートもズボンもポケットはすっからかんで、ハンカチ一枚出なかった。

手錠は、と訊ねる男に、末永は首を振った。

「貴方が暴れるつもりなら考えますが」

実際、それは虚勢に見えたかもしれないが、男はずっと浮かべている薄笑いで肩をすくめた。

「鍵が開いているのに、何故出なかったのですか?」

独房を振り返って訊ねると、彼は見上げる位置で首を捻った。

「ん? 了解が出ない状態で出たら、脱獄になってしまう」

確かにその通りなので末永は頷いた。何故連れ帰る話になったのかは訊ねなかったが、施設を出る頃に暗い空を見上げ、一言喋った。

「今、何時だろう?」

おっとりと出た問い掛けに、末永は自身の時計を確認して静かに答えた。

「午後七時半だ」

「ああ……どうりで腹が減ると思った」

曖昧に苦笑すると、辺りを見渡した。

「ミスター・末永、此処で何か有ったのか?」

「……何故、そう思うのですか?」

「ものすごく大勢が居た匂いがする。駅――いや、空港に似ている。最初に来た時は、こんな匂いはしなかった」

「匂い……ですか」

先程まで居た外国人たちの香水や整髪料の匂いは、緩やかに吹き抜ける寒風で、もう認識できない程に薄れている。門扉に向かいながら、問題は無かろうと先程の様子を説明すると、彼は今は何も無い天空を見上げて言った。

「ドローン・ショー……なるほどな。フレディはその間に逃げたのか」

「いま……何と仰いました?」

「仮定の話だ。ミスター」

「構いません。お聞かせください」

「Well……彼はショーの最中にドローンを使って壁を越えたと思う」

一緒に居た隊員も驚いた顔をした。

一般的なドローンの積載量は大型でも50キロ程度が相場だ。人が乗車できるレベルも既に作られているが、開発途中であり、仮にそんなものを持ち込んだとしたら、ブレードが回る音だけでも大いに目立つ。ドローン・ショーの最中に逃走するのは、全員が空に注目しているだけに見た目は有利かもしれないが、LEDを積んだそれらはかなり上空を飛ぶため、騒音は殆ど無い。

「ドローンの騒音は、バスや群衆の歓声に紛れるのも、難しいと思いますが……」

ましてや、此処はもともと静かな場所だ。唯一の出口である門扉も、一度たりとも開いてはいない。

末永の言葉に、男は薄笑いのままかぶりを振った。

「パルクールに、ウォールランという技がある。達人は身長の二倍以上の壁を身一つで登ることが可能だ。これには片足で壁をしっかり踏み込むこと、片手をしかと壁の頂点に掛ける必要がある。だが、この周囲の壁は滑りやすく、最初の一歩を踏み込むのが難しい」

「つまり、一歩さえ乗れば越えられるんですか」

意図に気付いた末永が訊ねると、男は頷いた。

「越えられる。彼がその技術に明るいかはともかく、その一歩を手助けするのは大人を持ち上げるほどの力はない小型ドローンでも足りるだろう」

一機のドローンが真上に飛ぶ推進力に合わせ、ちょうど、人間が両手を組み合わせ、ジャンプに合わせてタイミングよく持ち上げるのと同じ要領で跳ぶ。

フレディが格別に運動能力が優れているのかは不明だが、少なくとも愚鈍な様子には見えなかった。

「ドローンを操作したのは、観光客に紛れた何者か、ですか……」

「俺もそう思う。皆が天を仰いでいる状態で、辺りは暗闇だ。皆が撮影機材を持った中なら、何か機械を操作していても怪しまれることは無い。タイミングは、それこそショーに合わせたかもな」

小型のドローン程度なら、逃走する際も車の走行音に充分紛れられる。

後は検問に掛かる前に捨てるか、別の人間に持ち去らせるか、分解してしまえばいい。仮にジャンプの衝撃で故障してこの場に落ちていても、施設内には日常的にドローンが常駐している。入口から遠い場所なら、確かめる人間は居ないし、腐るものでもなし、セキュリティ上の問題が無ければ、落ちたままでも不都合はない。

無論、規制線が張られたわけではない為、フレディ自身も壁を越えた後、検問に引っ掛からぬよう、どこかで離脱すれば済む。

不可能ではないが、タイミングは非常に難しい。ショーの日取りは前々から決まっていたことだろうし、観光客に情報を流すにしても数日前では間に合わない。

刑務所に収容されるまでの時間も一日ズレたら終わりだ。

にわかには越えがたい壁を視界に、末永は言った。

「貴方は上がれますか」

「ああ。だが……俺の場合はそんなもの使わずに、壁に二、三、傷を付けて上がるか、門扉のロックを壊す方にするかもしれない」

これにはさすがの警部も苦笑した。

「そうならなくて幸いでした」

男も柔い笑みを返し、促されるままパトカーに乗り込んだ。




 〈済んだ。早急な対応、感謝する〉

「いえ……」

〈先程申し上げた通り、移動は控える予定だ。そちらのサポートは変わらぬ対応を期待する〉

「……わかりました」

ひどく淡白な応対の末、電話は切れた。

溜息を吐いた法務省・矯正局長である久我山くがやま長道ながみちの前には、電話が済むのを突っ立ったまま見つめる妻の逸子いつこが居た。

コーヒーテーブルの前には、何も無い日に買うなど初めての花束。チューリップやラナンキュラスのピンクや白が愛らしく束ねられたそれの隣には、バターが香る人気の焼き菓子。そして、数枚の写真。

見下ろしたそれに息が止まるかと思ったが、計ったように掛かって来た電話に妨害され、帰宅時の姿のまま、身動きもできずにいた。

見下ろす写真には、自分とブラックが写っている。

写真から会話は聴こえないが、仲睦まじいカップルが写っているようにしか見えないそれを前に、夫は立ち尽くす逸子に顔を上げた。

「待たせてすまない」

女はゆるゆると首を振った。

これから、見たことがないほど怒り狂うか、いつものように冷静に苦言を述べるのか――もう、弁護士や離婚届も準備しているのかもしれない……何も言えずにいると、夫は罵声よりも先に溜息を吐いた。

「……これを持ってきた男に、随分叱られたよ」

「え……」

「お前は、妻を家政婦だと思ってるのかって」

苦笑混じりに言った夫に「座ったら」と促され、逸子はのろのろと隣に座った。

ソファーに並んで座るなど、何年ぶりだろう?

そう思っていると、夫も呟いた。

「並んで座るなんて、久しぶりだな」

「……そうね」

「珍しい匂いがする」

「その人の香水かもしれない」

「……そうか。落ち着く香りだ」

妙な沈黙が落ちた。数年ぶりに隣に座って、浮気相手――そんなつもりはなかったが、別の男の香水について語るなんてどうかしている。

「逸子、寂しかったか?」

しばらくして、夫は独り言のように呟いた。

「……寂しかった」

「どうして言わなかったんだ」

「……こんな……良い暮らしをさせて貰って、そんな我儘言えないわ。子供が出来ないのも……私のせいだから……」

「……不妊は君だけのせいじゃない」

「でも……ごめんなさい」

「謝らないでくれ」

また、沈黙が落ちた。ブラックと居たときの甘い空気は微塵もない。隣に居て尚、どうしてか触れ難い。法的にも、両親にも、周囲にも、祝福され、許された仲なのに。

「私のせいで……何か困ったことになったの……?」

「……いや。そうでもない」

「そうでもないって――……」

「大丈夫だ。詳しくは話せないが……もともと、手の付けられない案件だった。むしろ良い方に解決したと言っていいかもしれない」

「……そうなの」

再び、沈黙が落ちる。夜が帳を下ろした外は静かだ。空調の音だけが響く室内は広々している分、何となくうそ寒く、葬式の真っただ中といってもいい静けさだった。

「逸子、提案が有るんだが」

どきりとした様子の妻が不安げな表情になるが、夫は首を振った。

「早合点しないでくれ。提案というのは、その……ペットでも飼わないかと思って」

「……ペット?」

「その……以前から周りには言われていたんだ。子供が無理なら別の家族を迎えたらどうだって。……結局、殆ど君に任せることになるだろうから、僕はどうかと思っていたんだが……」

「か、飼ってもいいの?」

「ああ。まあ……爬虫類やそういった類いのものは遠慮してほしいが……普通の犬や猫、鳥なんかなら構わない。飼いたかったのか?」

「飼えたら……素敵だと思ってた」

「それも言わなかったんだな……いや、言えなかったのか」

「ごめんなさい」

再び謝ると、俯いた。ひとつ済むごとに、気まずい沈黙が落ちる。

「……聞かないのね、あの人のこと」

「聞いても仕方がない……君が彼とベッドに居るフェイク動画を見せられた時は、死にたくなったが……」

「そんなものまで用意したのね」

「正直、こっちの方が堪えるけど……」

切なげに笑んだ夫が見下ろすのは、別の男と楽しそうな妻の写真だ。

「……楽しかったかい?」

「……うん。ごめんなさい」

何度謝っても胸はじんわり痛んだが、告げる一言は本心でもあった。それがわからない筈がないだろうに、一体何を吹き込まれたか、怒ってもいい立場の夫は首を振るばかりだった。

「……なあ、逸子。君と僕は夫婦で……僕の役職的な世間体はあるけれど、だからって家の中まで我慢しなくていいと思う。格別、監視されていなくても、外での視線は窮屈だろう……」

逸子は少しだけ鼻をすすった。気にし過ぎた感はあるが、それは事実だ。

買物ひとつ取っても、安売りに手を出したら領分が狭いと噂され、高級品を買えば金があるのを妬まれる。養われているくせに、なんて陰口をたたく人も居る。兎角、人の目はマイナスに捉えがちだ。受け取る側も、相手の顔色を疑えば、嫌な想像が浮かんでしまう。

一番、幸せに感じた愛を疑う程。

「今回のことは、僕にも非が有る。仕事に関しては何も教えられなかったが、それ以外も伝えるのを忘れていた」

「……いいの。貴方は言わなかったけど、私も言わなかった。お互い様だったのに、裏切ってしまったのは私の方。本当にごめんなさい」

膝に重ねていた逸子の手に、ぽた、と涙が落ちた。その手に手を重ねて、夫は静かに言った。

「もう止そう。お互い様で充分だ。犬に噛まれたと思って……食事にでも行こう」

「ありがとう」

ようやく涙を拭いて妻は微笑むと、テーブルに広げられた写真を見た。

「これは、処分しなくちゃ」

「……良いのか?」

「もちろん。たぶん……彼は――ブラックは、そんなこと気にしないと思う」

「ブラック?」

長道は訝し気に呟いた。

「ブラックって……まさか、ブラック・ロスって……」

「彼を知っているの?」

「知らない……だが、そうか……そういうことだったのか……」

急に額を抑えて呻くと、どっと疲れた溜息を吐いた。どこかであの紳士が大口開けて笑っている気がした。……全く、なんという悪党だろう。

「大丈夫?」

今度は心配する側になった妻に、夫はどうにか頷いた。

「大丈夫……でも、癒されたい気分だ。早くペットを飼った方がいいかもしれない」

「そうね。犬なら……こんな私たちのことも変な目で見ないわね」

「犬が良いのか」

「犬がいいわ。どうせなら、保護施設や保健所で貰いたい」

「ああ、いいんじゃないか。イメージアップにも繋がる――」

つい言ってしまった夫を、妻は笑いながら軽く押した。

「大きな子でもいい?」

「大型犬か。構わないが、大変じゃないか?」

「その方がいいの」

いつの間にか、萎んでいた逸子の声は弾んでいる。

「大変な思いがしたいの」




 ブラック・ロスに関する事件は不起訴となった。

被害者が事件を起こした側であり、身元が不明だったのもある。結果だけ見れば、彼は民間人に危害を加えていないし、危険運転こそ行ったが、暴走トラックに追われてのことである。銃の所持に関しては50万近い罰金が生じたが、こちらはブレンド社が当然といった様子で肩代わりした。ロンドンの本社は現地時間で午前5時という非常識な時間にも関わらず回答し、「押収された銃に関して文句は無い、保釈金でも何でも払うから、とにかく社員の身柄は返還するように」と求めた。

異例のことではある。だが、ブレンド社に突っかかるとイギリス政府が口を出して来る可能性が高いらしく、現に上層部は釘を刺されているらしい。

――しかし、肝心なのはそこではない。

道々、ブラックを伴ってきた末永は複雑な心境で警視庁に帰還した。

既にあらゆる部署が退出し、消灯している為、先程の刑務所に勝るとも劣らぬ静けさだった。終始大人しく従ったブラックは、物腰は同僚やそこらの社会人よりもきちんとしていた。

――ブレンド社は社員の来日理由を日本の拠点整備の為と言い張っている。

これは書類上――表向きとして譲らない様子だったが、或いは殆どのスタッフは本当にそうだと思っているのかもしれない。

無論、実際は異なる。

それは此処に来るまでにブラック本人が明かしてくれた。

事件を起こした理由を尋ねると、彼はずっと剥がれない薄笑いで首を振った。

「銃撃戦は予定外のことだ。目的は先ほどの刑務所の管理人に会うことだった」

「刑務所に入ってまで……ですか?」

「ああ。それが最も有効な手とボスが判断した。通信では別人を使われる可能性が高く、生存確認にもならない。会ったところで本人確認ができるわけではないが、直接会うことで得られる情報は多い」

「そこまでして、何の情報を――」

彼は愛想よく、かぶりを振った。

「悪いが調査内容は話せない。知りたければ社に問い合わせてくれ」

「……会社の指示で刑務所に入ることに、抵抗は無いのですか」

「無い。ボスがやれと言うなら、俺は火の中にも行く」

さらりと答えた男は、形の上では国外退去を命じられ、今は押収されていた所持品を受け取っていた。逮捕時も殆ど手ぶらだった彼はこうした事態に慣れている様子で、担当者にも穏やかに笑い掛けた。

末永が玄関まで送ろうとすると、男はにこりとした。

「警部殿に送ってもらえるとは光栄だ」

呑気なことを言う男に、末永も苦笑した。残念だが、今、できることは殆ど無い。

空港や道路にはフレディ・ダンヒルに対する緊急配備が敷かれたが、情報は上がっていない。おかげで、仮にも人殺しである男を見送る他ない。

「ミスター・ロス……先程、社長命令ならば火の中にも行くと仰いましたが」

「ああ、言った」

「何故……そこまで出来るのか伺っても?」

――人を、殺すことさえ厭わずに。

何か迷うような顔で訊ねた末永に、ブラックは高い位置で首を傾げた。

「俺はボスと社に恩がある。それは働きでしか返せない」

「恩……」

「軍事会社で、命令で人を殺すしか能がない犬以下の俺を人間にしたのは、ボスと社の皆だ。彼らは俺を使う為に連れ帰ったろうが、普通の人間を育てるよりも根気の要る作業だったと聞いている。そこまでやってくれた人間に報いようと考えられるようになったのも、ボスのおかげだ。その期待には応えたい」

「期待……報酬の如何ではないということですか」

「給料はもらっているが、俺は食うに困らなければ額にはこだわらない」

末永の脳裏に、収賄、買収、贈賄、徴収などの言葉が不気味にうねって消えた。正義を司る機関にさえ潜む、損得勘定と欲、これに伴う怠惰に怠慢、不正、偽装……

警察が最も身命を賭すべき相手は国民だ。だが、その一市民の為に、火の中に飛び込む覚悟のある人間が、どれほど居るだろうか。

「……仕事の性質はともかく、ブレンド社は働き甲斐のある企業の様ですね」

「国家の安全を守っている仕事ほどじゃない」

薄笑いと気軽な様子で返って来たリップサービスに、末永は弱い苦笑を浮かべた。

「……少し、羨ましく思ってしまいました」

「俺が?」

「ええ。貴方の会社も。……組織は生き物です。自分のことだけ考える人間が行き詰まるように、組織も同じことになりやすいものですから」

フレディの件で亡くなった二名が、内部告発をしていた証拠は見つかっていない。

BGMとの関連は勿論、十条に繋がる情報も何も無い。だが、代わりに――両名の素行に関しては、気になる情報が入っている。片方は不良少年グループや暴走族と日常的に揉めていたらしく、彼らを軽んじる発言も多々有ったという。もう片方は酔うと暴れる傾向があったとのことで、飲酒を控えていた筈が、またにわかに飲み始め、妻子は豹変する夫の暴力に怯えて別居していた。

――知ってしまうと、考えてしまう。”だから”、消されたのではないかと。

正常に流れていたBGMに混じったノイズを、取り除くように。

「同じ目的を持って集まった筈の組織が、あなた方のように上手く行かないことを憂うのは、弱音になってしまいますね」

「いや。目的が高尚であるほど難しいだろう。人間は、正しい教えが有ってこそ人間でいられるが、今は情報が多すぎる」

「……そうかもしれませんね」

今の日本は、戦争時に軍部が関わった悪しき教育は行われていない。罪なき人々を吊るし上げ、権力で押さえつけた”正義”はもはや無い筈。不正や事件を起こした彼らも、初めは……子供の時に教わった正しさを信じ、誰かの為になりたいと、この場所を志した筈だ。ごくシンプルに……世の中を良くしたいと。

「『誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない』」

不意に男が呟いた言葉に振り返ると、彼は薄暗い廊下を渡りながら薄笑いのまま低く言った。

「トルストイの名言だ」

「トルストイ……ロシアの文豪ですね」

「そうだ。――警部殿、流れに身を任せるのは簡単だろう? 荒波を泳いでいこうとする方が大変だ。命を落とすこともあるかもしれない。ただし、泳ぎ切れば行きたい方へ行ける。そこが楽園ではなくてもな」

励ましなのだと理解して、末永は頷いた。

「ありがとうございます」

「それでも羨ましければ、転職をお勧めする」

「私がですか?」

「ああ。警部殿は今の姿が合っていると思うが」

自然な調子で言われたことに何も返せずにいると、暗い玄関に辿り着いた。別れ際、男は一枚の紙を差し出した。

「良ければ受け取ってくれ」

名刺だった。末永はそれを見つめ、男の薄笑いを仰いだ。

「……なぜ、私に?」

「大抵、知り合った人間には渡す。必要がなければ処分して構わない」

「……いえ、ありがとうございます」

「調査は捜査には及ばないと思うが、何かあれば連絡してくれ」

軽く片手を上げた男に、末永は言った。

「その時は、貴方を逮捕できるといいのですが」

自然と笑顔が出た。少しだけ覇気を取り戻した声に男もにこりと笑った。

「また会おう、警部殿」




 「へー……それでハルトさんはイジケてんの?」

思わず呟いた明香の額にパンッと当たったのは白いラムネ弾だ。悲鳴を上げてうずくまるのを見向きもしないハルトは玩具の拳銃をしまい、モップを持ち直した。

舌打ちするのは、閉店したDOUBLE・CROSSである。

店内に居合わせたのは、閉店作業に勤しむさらら、のこのこやって来た明香、一連の処理を終えて戻って来た室月だ。未春は二階の自宅でキッチンに立っている。

最も締め上げたかった上司は、こちらが店に戻るや否や、入れ違いに出て行った。

来店していた実乃里や力也、ソフィアを連れて帰路に就いたと言えば聞こえはいいが、単なる逃走だ。

ハルトは恐らくこちらのフォローの為に寄ってくれた室月の手前、怒るに怒れない。その溜息に、座っていればいいのに、上着を脱いであちこち拭いた上、今はカウンターを拭いていた彼は人の良い苦笑いだ。

「すみません、ハルトさん」

「……Please don’t be sorry(気にしないで下さい)……謝るのは室月さんじゃないでしょう……約三名の悪党です」

床にモップをかけながら答える。言うまでもないが、どっかのTOP13達だ。

ピオにミスター・アマデウスの役を頼んだのはこっちだが、それがあらかじめ決まっていたことで、彼がジョゼフ・リーフの殺害ではなく確保の為に日本に残っていたと知って、冷静でいろと言う方が無理が有る。

「優秀な清掃員ブロードウェイが日本に残ったことに関して、俺の考えが甘かったのは間違いないですし……」

「ハルトさんは、ご自身に腹を立てることが多いですね」

室月にしては突っ込んだ物言いに、ぐうの音も出ずに押し黙ると、彼は丁寧に布巾を折り畳み、笑いかけた。

「十条さんの最優先事項は、BGMではないんです。そうだと思って当たる方が、気は楽になると思いますよ」

わかっている。

十にとっての最優先は家族であり、隣人であり、世界中の同じ願いを持つ人たち。

もう当然だと思っていいことなのはわかるが、こっちは両極端に居た人間だ。

”ありがたい”アドバイスの意味は理解できても、それによる錆びつきや綻びのおかげで、色々なことが疎かになっている気がしてならない。

現に、”あの”『オムニス』ことフレディが近い場所でうろついている事態に、銃も持たずにモップをかけている自分は何なのだろう。

「『オムニス』は、”こっち”でも見つかって無いんですよね?」

「はい。警察も空港や港を張っていますが、行方はわかっていません」

「……十条さんは、そういうのもわかるんじゃないですか?」

「そうですね……私が思うに、仮に居場所を察していても、仕留めるのに難があると見れば指示は出されないと思います。”その時”以外に知らぬ存ぜぬを貫くのは、十条さんらしい行動ではないでしょうか」

全くその通りなので嫌そうに頷いたハルトは、溜息も程々に床掃除を続けた。

ジョゼフ・リーフに関しては、スターゲイジーの依頼通り、出国手続きが行われた。

さぞかし文句を垂れたろうが、奴の扱いは強制送還――要するに、ナンシー・アダムズの名を借り、ブレンド社が後押しする”逮捕”だ。父親を捕まえようと国外まで追って来る娘がどう思うかは知らないが、手柄は手柄だ。

しかも、連続殺人事件。かなりの評価が与えられるだろう。

……まあ、ジョゼフの身柄はそのまま、素行不良だとか刑務所暮らしはできないとか難癖付けてスターゲイジーが預かることになるので、これを逮捕と言っていいのかは怪しいところだが、逃がすわけではないので有用だ。

奴の片目に撃ち込んだのは、ラムネではなくGPS発信機。無論、手術で取り出すことはできるが、その手術で新たな発信機――或いはもっと物騒な物を取り付けられてはたまらないとジョゼフは思っている筈。少なくとも、スターゲイジーの元には鬼教官にして一流エージェントのラッセルが居る。彼の目が黒い内は、根は臆病な奴のこと、勝手な行動は慎むに違いない。

「……そういや、あいつの”腕”に関しては、十条さんは目星が付いてるんですか」

何気なく聞いたつもりだが、微かに室月の顔が厳しくなった。

「ハルトさん、その件は後で十条さんが話して下さると思います。私から申し上げるには憶測の段階なので」

「それでもいいですけど。俺も何となく、気になる事が有るので」

「――と、仰いますと」

「はあ。スターゲイジーが来日する一方、ミスター・アマデウスが来なかった。リリーの件で来た人が、ですよ? あの時はスパイダーの件も有りましたが、それにしたってあの施設に関わることで、この対応はどうかと思う。『オムニス』を警戒しているのか、スターゲイジーに気を遣ったかと思っていましたが、本当は……――」

「……恐らく、ハルトさんの予感は当たっています」

室月は顔を上げて、こちらの話など聴こえているだろうさららを見た。彼女は気にした様子もなく、上手いこと明香を使いながらCLOSE作業を進めている。

「ジョゼフ・リーフの右腕は、過去の逃走時にハルトさんの銃撃を受け、使い物にならなくなった為、現在の義手を付けたと思われますが――あれだけの電動義手は普通の医療機関には存在しません」

その通り。対峙してわかったが、あの右腕は見た目も性能も、一目では義手とわからないほど精巧だった。フレディは天才だが、医療技術は無い筈だ。仮に技術を習得したとしても、高度な医療施設や技師が必要となる上、とんでもなく金が掛かる。彼だけでどうにかなる話ではなく、それはジョゼフも同じ。

室月は静かに頷いた。

「例の元軍人の件もそうですが、『オムニス』に潤沢な資金等を提供する何者かが存在するのは間違いないでしょう……問題は、それが”誰か”という点です」

「ブラックやジョゼフが言っていたグレイト・スミスってのは、違うんですか」

「ハルトさんは、それとは別の可能性をお考えでは?」

はぐらかされた気がしたが、ハルトは頷いた。

「……一番怪しいのは、TOP13の”誰か”です」

さららがそっと振り向いた。何も言わなかったが、わずかに驚いた様子が窺えた。

「個人的な見解ですが、私も同じ意見です」

「奴が人心を操作した可能性は否定できませんが……表社会の軍隊や軍事会社が、権力者でもない個人に手を貸すことは、手続き上も国際法上も有り得ない。一国のブレーンを全て操作するか懐柔しないと、実現できないと思います。他の組織では武器の入手は難しいし、裏社会の組織ではBGMを恐れない程の力が要る。奴を手助けするということは、少なくともミスター・アマデウスと反目するも同然ですからね。更に医療技術に秀でて、そこに容易にアクセスできる組織はそう多くはない」

「条件を満たす人物は、ドイツ支部代表のレベッカ・ローデンバックですね」

すぐに名前が出る室月に、ハルトは顔をしかめて頷いた。

レベッカ・ローデンバックは、スターゲイジーが『ドイツ女』と呼び、度々ぶつかっている犬猿の仲である女性だが、BGM草創期のメンバーの一人だ。世界的な医療大国をフィールドにする彼女は表向き、現役のベテラン外科医師でもある。

医療に携わるとはいえ、同時にBGMのTOP13――当然、思考は過激だ。

このドイツ支部はBGMの中では清掃員クリーナーを含めて女性比率が高く、レベッカ自身、女性蔑視の社会を実力で生き抜いてきた為、男女格差には人一倍うるさいらしい。

「ハルトさん、彼女と面識は?」

「俺は映像で見ただけですが、正直……彼女は条件に合うだけで、奴に懐柔されるとは思えないんです」

条件は完璧。だが、レベッカとは思えない絶対的な理由がある。

「彼女はミスター・アマデウスやスターゲイジーとは古い協力関係ですが、マグノリア・ハウスに関しては反対派と聞いています。ステファニー同様、施設の子供は『全て死すべき』と考えている筈の人間が、その出身者に容易に手を貸すのは少々無理があると思う」

「尤もなご賢察だと思います」

「持ち上げないで下さい。全部、仮定の話です」

「そうですね」

あっさり頷いて、室月は椅子に掛けてあった上着を羽織った。その仕草に、いつの間にかさららが仕事を済ませてこちらに来ていた。傍らで明香もニヤニヤ笑っている。

「また難しい考え事?」

微苦笑を浮かべるさららに、室月はすました微笑で返し、ハルトは頭を掻いた。

彼女は多くを尋ねずに、義弟に向き直った。

「修司、食べていくでしょ?」

「俺より他の人を誘ってほしいな」

さららの前では素直な弟の調子になる男に、姉もフンと鼻を鳴らした。

「優一さんとはちゃんと別の機会に行きます~」

「それならいいけど」

「あっくんもどうぞ」

「え、いいの? やった!」

断わらない男を呆れ顔で見ていると、さららが首を傾げた。

「そういえば、あのハンサムさんは帰ってくるの?」

「……帰るけど、夕飯は知り合いの家に誘われてるんだって」

上から響いた声に振り返ると、さららの問いに答えたのは階段の上に居た未春だ。

「知り合いの家、か……」

女だろという顔をしたハルトに、どこか咎める顔の未春が言った。

「家族全員がブレンド社の家だって聞いたよ」

「げ……絶対呼ばれたくない家だな……」

お化け屋敷でも想像した顔のハルトだが、明香は両手を頭の後ろにやって笑った。

「おもしろ。家族全員、BGMってこと?」

「どうだろうな……? ブレンド社には表向きを担当する一般スタッフも居るが」

「恐らく、メイソン一家でしょう。彼らは一族全員がBGMで、全員が優れたドライバーと伺っています。マーガレット婦人にはお会いしましたが、スターゲイジーと共にナチスとカーチェイスしたとか」

――絶対呼ばれたくない家、確定だ。

「明日、一族のどなたかにはお会いするかもしれませんね」

不穏なことを言い出す室月に、うんざりしたハルトだが、明日の仕事は上司命令だ。BGMの仕事ではない点で断りたいところだが、フレディが現れる可能性がある以上、手伝わねばなるまい。

「十条さんが居れば、護衛なんか要らないと思いますけどねー……」

思わず呟くと、室月は温和に微笑んだ。

「ハルトさん、十条さんにとっては重要な案件なんです。絶対に成功させたい会食ですから、”念には念を”ということだと思います」

「絶対って、十条さんとスターゲイジーが食事するぐらい何でもないでしょうに」

「そんなことはありません。大切な家族が同席するんですから」

「家族? 奥さんとかですか?」

普通の要人なら、会食に妻が同席することは有るが、スターゲイジーに妻は……

あ、と声が出た。

「スターゲイジーに用事って……もしかして……」

「ええ」

室月は頷いた。もう知っているのか、さららや明香は小さく笑った。

嫌な予感は、スターゲイジーのものだったか。

上司はどうやら、世界的な悪党を嵌める――否、大々的なお節介をする気らしい。

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