14.Gimmick.

 「末永すえなが警部、収容できました。すぐに出発します」

SATのスタッフの声に、末永は頷いた。

「宜しく頼みます」

敬礼した男が護送車に乗り込んで発車していくのを見送ると、電話が鳴った。

〈大変だったみたいだな〉

綿摘わたつみ、おかげで助かった。そちらも酷かったと聞いているが」

〈酷いなんてもんじゃない。リアルなアクション・スリラー映画だ〉

現場の被害状況は深刻だが、操業停止中の工場だったのは幸いだった。死者は事件を起こした犯人らしき外国人一名、彼を殺した外国人が怪我をしてその仲間と共に搬送されたが、民間人並びに身内の怪我人はゼロ。

銃が使われ、且つガスボンベを積んだ大型トラックがカーチェイスしたにも関わらず、この結果は奇跡に等しい。

――これが……奴らのやり方なのか。

気後れしそうになる末永に、電話向こうの同僚は冷静に言った。

〈そっちの犯人――……”あそこ”に収容するんだな?〉

「それが良いと思う。……なるべく、人間を相手にさせたくない。彼がどうやって二人殺したのかは、居合わせた私にもわからなかった」

〈そっちはSFかホラー映画ってわけか。まあ、こっちの外国人もそうなるだろうな。連行する際は大人しかったんだが、並の手錠じゃ相手にならないのがわかった〉

「ブラック・ロスと言ったか。……ブレンド社は何も言ってこないのか」

〈俺が聞いた上じゃ、何も。プードルみたいな相方はキャンキャン吠えてたが、あれは情状酌量を願い出るっていうより……俺らへの注意喚起みたいだったよ。メシはちゃんと与えろとか、頑丈だからって粗野に扱うなとか〉

まるで凶暴な大型犬を預かるみたいだ、と冗談混じりにこぼした同僚に、末永は笑えなかった。

「そうか……可能なら、別々にした方が良いように思えるが」

〈お前の気持ちはわかるが、そいつは難しいだろうな。俺たちがどうこう言える話じゃないし……田城たしろさんでも厳しいだろ。理由が無い以上、お偉方はどっちも頑丈なところに閉じ込めたいだろうから〉

「……そうだな」

頷きながら、末永は腹が冷えた。何をする気かはわからないが、確実に、誰かの思索の上で転がっているのがわかる。

それはBGMなのか? ブレンド社なのか? フレディと名乗ったあの男なのか?

それとも……彼らの動きさえ支配する誰かの計画なのか……?

ふと、日向じみた笑顔の男を思い出したが、振り払って眉間に皺を寄せた。

様子が見えるように、電話向こうで呆れ声がした。

〈末永、逮捕後のことまで気に病むなよ。法務省ご自慢のセキュリティは厳重だ〉

「ああ……」

答えつつも、末永は独り言のように言った。

「綿摘、護送後のメンバーをそのまま待機させられないか」

〈言うと思った〉

やれやれといった調子で相手は答えた。

〈一日以上は無理だ。”何か”起きない限りは動かせない。それで良いなら手を打つ〉

「充分だ。ありがとう」

〈礼はいい。良い酒だぞ、忘れるな〉

指さすような指摘に苦笑しつつ、電話を切った。




 何が起きたのか、わからなかった。

力也りきやが大声を上げるか上げないかの刹那、とおるが肩口から後ろに向けて何かを放った気がしたが、直後にすぐ傍で小さな悲鳴が聞こえてそちらに注意が逸れた。その後だ。身を穿つような轟音がしたが、誰も倒れてはいなかった。

「ハルちゃんの真似は上手くいかないねえ」

ひょいひょいと片手を振りながら、場違いなほど呑気に十は言った。

「射角は悪くないと思うんだけどな……後ろ手じゃ、弾丸の推進力には到達しないのか――優一ゆういちくんなら出来そうな気もするけど……」

意味不明なことをぼやく十の後方では、拳銃を握っていた男が片手を押さえて呻いている。その傍らには、力也と同様に何が起きたかわからずに慌てる男たち。

「……う……」

再び傍で呻いた声に、初めて力也は拘束が解けているのに気が付いた。

呻いているのが、自分を押さえていた女だと気付いて慌ててそちらを振り返る。

「ナ、ナンシーさん……大丈夫スか?」

女は片手の甲をもう片手で押さえていた。バイク用のグローブをしたそこに血は見えないが、革製と思しきしっかりした造りのそれに裂傷が走っている。

自分を気遣った若者を、女はじろりと見たが何も言わなかった。代わりに歯を食い縛って、ひょろっとした長躯でこちらに笑い掛けている男を睨んだ。

「十条……!」

ねめつける女の怒りもどこ吹く風の男は、先に不安げな面持ちの力也に振り向いた。

「リッキー、大丈夫?」

「は、ハイ……俺は何ともないスけど……」

「良かった。ねえ、ナンシーさーん? 僕いい加減、寒いんだよ。中で話そうよ」

言うなり、ナンシーの腕を取る。

「さ……触らないでよ! ちょっと……!」

がなる女が暴れようにも、見た目よりしかと掴んだ手は万力のようで全く動かない。

「リッキー、悪いけど彼女のバイクここら辺に寄せといて」

「は、ハイ!」

良い返事の力也がいそいそとバイクを動かし始め、抱えるように軽々と女を連れた十条は、のんびりとDOUBLE・CROSSの引き戸を引いている。

その後に力也が付き従い、一瞬、ぽかんとした男たちは慌てた。

「ま……待て、十条……!」

追い掛けるように響いた声に答えたのは、十ではなくサイレンだった。

振り向いた十がニヤニヤする。

「君らは僕と来ないんでしょ? ま、とりあえず公的機関の御厄介になっておいで。そのまま賊を辞めるならヨシ、続けるなら、ちゃあんとバイクを駐輪場に停めてからお店に来てよ」

バイバーイとふざけた調子で言い捨てると、悪党はぴしゃりとガラス戸を閉じた。

怒りに震える男らの声が殺到したが、赤い光をまき散らして喚くサイレンが全て掻き消していった。

「結局、大騒ぎにするんだから」

DOUBLE・CROSSに入るなり、呆れ声で言ったのはさららだ。ぺこりとお辞儀をした力也には微笑んだが、頭を掻く十には子供を叱る母親みたいな顔をした。

「トオルちゃん、いつまで触ってるの? 放してあげて」

「はあい」

「わ、私は――……」

頑なに抵抗しようとする女に対し、今度はさららの方が十から奪い取るように手を取る。その異様に強い力にナンシーが瞠目し、さららは手袋の傷を見て顔をしかめた。

「さららです。はじめまして。……もう、乱暴なんだから。ちゃんと弁償してね」

「はあい……」

こちらは抵抗する気が全くない十である。

「さあ、どうぞ座って。リッキーも」

髪を掻き毟りたい衝動にかられつつ、伴われたカウンターを前にナンシーは座る他ない。力也は端の席に居た女性に何やらお礼を言われてペコペコとお辞儀をした。

「トオルさん、私そろそろ帰ります」

その女性に言われた十は時計を見て髪を搔いた。

「そうですか。引き留めちゃって悪かったなあ……送りますよ」

「あ、いえいえ! 裏に車停めてますから。こんなに警察が来てるんだし、大丈夫」

じゃあ裏口まで、という男に従いつつ、女はさららと力也に遠慮がちに手を振った。

「……」

ナンシーは店を見渡した。

事前調査で知っていたが、半分は椅子の売り場、半分はカフェという業務形態こそ変わっているが、何の怪しいところも無い店だ。ダイニング用の椅子、一人用ソファー、スツール、大型のソファー等々、幾つもの人物や家庭を見るように綺麗に並び、カフェの方には同じように様々な種類の椅子で囲むテーブルが並んでいる。

それなりに騒いだつもりだったが、居合わせた客はこちらを気にするどころか、外で行われる暴走族vs警察のやり取りに目を奪われているか、我関せずといった様子で端末を見たり、お喋りしたり、コーヒーやドーナッツを楽しむ。

つられるように外を見て、自分の愛車がついでに持っていかれはしまいか――……などと思っていたところ、そっと肩を叩かれた。

振り返った先で、なんとも温厚そうな女がにっこりしている。

「What would you like to drink?(何を飲みますか?)」

――殺し屋の店で、飲食すると思ってるの?

ナンシーが答えに窮すると、戻ってきた十がぬっと出て来て言った。

「ナンシーさん、コルタードが好きでしょ。さらちゃん、作ってあげてよ」

「は……⁉ なんで貴方がそんなこと知ってるのよ⁉」

「そりゃあ君のパパに聞いたから。違った?」

「ち、違わないけど……」

言ってしまってから、違うと豪語すれば良かったと後悔したが、既に遅い。

日本ではあまり馴染みのないそれを、十が意気揚々と端末で示す作り方に、さららは頷き、声を掛ける間もなく牛乳を温め、エスプレッソマシーンのスイッチを入れている。ナンシーは頭が痛くなってきたが、芳醇な香りが疼痛をたちまち攫って行ってしまった。

「お待たせ。お口に合うかしら」

穏やかな湯気を立てるそれを、力也が物珍しそうに見つめる。頼んだわけではないが、此処で飲まないのも何やら負けた気がして、ナンシーは口を付けた。

好みの通りにコーヒーとミルクの割合は一対二。ちょうど良い事にはイライラしたが、無理やり落ち着けられた気もした。

「……It sucks……(サイアクだわ……)」

カップに向けてぼそりと呟いたナンシーに、えっ!と声を上げたのはドリンクを作ったさららだ。

「美味しくなかったですか?」

申し訳なさそうに尋ねられ、女はもう溜息しか出ない。

「……美味しいわ。母好みの味を思い出す」

何かが美味しいということは、著しく戦意を喪失させる――そう思いながら、ナンシーは自分のコーヒー片手にニコニコと笑っている男に振り返った。

「私、こんなことで誤魔化される気はないわよ」

「フフ、わかってますとも。ナンシーさんはそれでいいんじゃないかな。君のパパもそう思ってるから、警察に置いてるんだし」

「それは――……」

立ち上がりかける女をそっと押し留め、十は微笑んだ。

「怒っちゃダメだよ。貴女はわかってる筈。スターゲイジーにとって、貴女を辞めさせるのなんて簡単だ。でも、そうしないでいる彼の気持ちがわからないほど、貴女は子供じゃないでしょう?」

「……」

ルージュを引いた唇を噛む女をおっとり眺めてから、十は自分のカップに溜息を吐いた。

「ナンシーさん……僕は貴女の正義の有り方に文句は言えない。でも、家族は恨まないであげて。末永さんは、犯人を憎んだりしてなかったよね?」

「貴方……彼のことも知ってるの?」

「うん。彼は僕を”正しく”捕まえたいと思ってる。それは彼の私的な感情じゃなくて、彼がこの国の正義を守る仕事に誇りと責任を持っているからなんだ。だから貴女とは分かり合えなかった。違う?」

返事の代わりに、女はヤケ酒のようにコルタードを飲んだ。

「……この国の男は、どいつもこいつも説教臭い」

「あはは。そうかもね」

外ではサイレンを鳴らしてパトカーが走り出していく。レッカー車が現れるのを見て、十はすっと立ち上がって外に出て行った。居合わせた警察官と何か話し、店に横付けしてあるトライアンフ・ボンネビルT100を示し、頷きながら会話をする。

「お節介ね……」

「そうね」

くすくすとさららが笑った。

「ナンシーさん……私の父も、悪党だったの。もう居ないけれど」

「……それは、お気の毒」

二重の意味で答えた女に、さららは小さく苦笑した。

「ええ。父は幼い頃に会ったきり、病気で逝ってしまった。恨み言ひとつ言えなかったけれど、憎むこともなかった。私にそうさせたのは、あの人なの」

視線の先には、厳めしい顔の警察を前に、お辞儀しながらへらへら笑っている男だ。

「彼のご両親とお姉さん夫婦は、彼が十代の時に事故で亡くなった。でも、彼は事故を起こした人も恨まなかった。悲しんで、悲しんで……何をすべきか考えて、今、此処に居るの。私や、たった一人の甥と、大切な人、そうではない人、無関係の人のこと、出会う度に全部背負って」

「だから、彼を許せというの?」

「いいえ。許すなんて、誰にも出来ないことよ」

不意に鋭い声で言うと、さららは穏やかだが、凛とした目でナンシーを見据えた。

「私が言うのは、只の経験談。出会った貴女に、同じ後悔をしてほしくないだけ」

「……」

黙したナンシーが、入り口を振り返ると、交渉を済ませたらしい男が店に戻ろうとして、不意に脇を向いた。急に顔中に満面の笑みを浮かべると、子供みたいに飛び上がった。走り寄る方向から、長い黒髪をなびかせて一人の少女が歩いてきていた。

ふと、同じような満面の笑みと、ばかに大きな両腕を広げて、窒息しそうなほど抱き締めてきた男が、脳裏に浮かんで消えた。

実乃里みのりってば~! 一人歩きは危ないでしょ! パパ迎えに行くって言ったじゃない~~!」

過保護丸出しのセリフを吐く男と、くすくす笑いながら一緒に入って来た少女がこちらを見た。日本では定番と思しき制服姿にコートを羽織った少女は、サラサラの黒髪と愛らしい黒目をした天使のような娘だ。

「こんにちは」

隣で嬉しそうな男とそっくりな笑顔をした少女を、ナンシーは見つめた。

さららや力也と愛想よく挨拶してから、当然のように少女は隣に座った。

「はじめまして、ミズ・アダムズ。十条実乃里です」

にっこり笑って手を差し出す少女の素性に、そうだと思っていたが――……異様な空気を感じつつ、ナンシーは握手をした。

「ミスター・十条のお嬢さんなのね」

「はい。今日は貴女に会いに来たの」

「わ、私に……?」

何故、この娘がそんなことを?

それに……どうして今日此処に来ると知っている?

薄気味悪い物を見る目で、そんなものとは全く無縁に見える少女を見つめると、彼女はうっすらしたルージュで充分彩られた唇を微笑ませた。

「ミズ・アダムズ。私と、賭けをしましょう」




 そこは、格納庫の一つだった。

入ったことはある。友好祭の時には解放されて、ライブやダンスが行われる場所だ。

今は奥に何やらコンテナが積まれ、分厚いカバーが掛けられた何かが置いてあるが、他はがらんどうで、薄暗いライトの元、車一台入るために開いた入り口から吹き込む風は冷たい。

ソフィアはじっと座っていた。

両手と両足は縛られたものの、痛い程ではない。その状態で椅子に腰掛け、不自由ではあるが不都合ではなかった。

そうしているように、と言い残した女が金髪のウィッグを外し、メイクを落とし、別人の男に戻るのをじっと見つめる。一方、隣に立っている男は、なんだか人間味を感じない。明らかに人間だが、機械のような感じがした。

「君、ソフィア・タチバナだっけ」

栗色の髪を撫でつけ、タオルで顔を拭いた男――白人系の欧米人に話し掛けられ、ソフィアは頷いた。

「どうして、私の名前を?」

「フレディは何でも知ってるもの。特に、ハルのことなら何でも」

――フレディ? 急に出た知らない名前に内心首を捻りつつ、ソフィアはそっと尋ねた。

「ハルって……貴方は、ミスター・ノノの知り合いなの?」

「僕らは同輩さ。同じ場所に集められて、同じ場所で育って、同じ場所で腕を磨いた」

腕。それはつまり……

「貴方は、何をするつもり?」

「君には関係ないよ」

「……じゃあ、何故連れて来たの。名前を確認した意味は何?」

「うるさいなあ。犬みたいに騒がないで」

男は苛立たしそうに首を振り、乱れた髪を撫でつけた。

犬。ナンシーを助けた際の反応もそうだが、この男、犬が嫌いらしい。

「僕は君が誰でもいいし、居なくても良かったんだ。でも、フレディが言うから。たまたま君が居たから、君にしただけなんだよ」

「私以外は誰が此処に座る筈だったの」

「そんなのどうでもよくない?」

自分が話したいこと以外は極端に面倒臭がる男は、どこか小さな子供みたいに感じた。

「……フレディというのは誰?」

「フレディは」

男は急に食いつくように喋った。

「フレディ・ダンヒルは”僕ら”の中で一番。『全知』の才能を持つ天才。誰も敵わない。誰も逆らえない。彼に話し掛けられたら、誰であろうと従う他ない」

狂言としか思えない言葉に、ソフィアは顔をしかめた。

誰も逆らえない人間? 神じゃあるまいし、そんな人間が居る筈がない。

「……でも、ハルだけ違った。どうしてなんだろう。不思議だ。僕にはわからない。彼は最強ではなかった。完全ではなかった。完璧ではなかった。『魔法の弾丸フライクーゲル』しか持たない筈なのに」

「……フライクーゲル?」

「確かにアレはハルしか出来なかった。彼は他のことでも全員を唯一、一度以上倒した男だ。フレディさえ、ゲームで負けた……どうしてだろう。わからない。ハルは、やっぱり”そう”なのかな? ハルは知らなかったと思ったけれど、僕たちを騙していたのかな? それともミスターが隠していたのかな?」

男の内から、ずるずると引き摺られてくる言葉は、取り留めもなければ、理解も及ばず、気持ちが悪かった。

「ハルはね、昔から”関係ない人”に甘いんだ。大事な試験で、殺し屋の子供のことなんか考えたのはハルだけだった。君も”関係ない”。ハルは僕らと”関係ない人”が関わるのを嫌がる。そんなに人のこと考えてるのに、ハルはいつまでも、誰とも、”関係ない”ままで居たいんだってさ……」

――関係ないまま……

ソフィアがその意味を噛み締める間もなく、表で車の走行音がした。

静かに停車した後、ドアが開く音が一ドア分響いた。

殆ど無造作な様子で、その男は現れた。

片手に犬を繋いだリード、もう片手には黒い拳銃を認めて、ソフィアは息を呑んだ。

リードの先には白いふわふわの尾を振る愛犬が居たが、彼はひどく落ち着いて見えた。羽箒のような尾はピッと伸び、四肢はしかと地に付いている。前をしっかりと見る目は飼い主を見たが、怯えた様子でもなく、喜びを露わにすることもなかった。ふと、別の猟犬のように見えたそれに、ソフィアも声は出なかった。

「ハル」

男が言った。

「久しぶりだね」

その声は、久しい人に掛けるものにしては単調だった。昨日会ったばかりのような声に、ハルトは片側に重心をかけた気怠い体勢で男を見た。

「女装はやめたのか」

「君が驚かないなら、意味が無いから」

「相変わらずだな」

「そう? 君にはそんなに仕掛けなかったと思うけれど」

「ジョゼフ……冗談だろ? 俺は砂糖水の件は死んでも忘れない」

ぶっきらぼうな言葉に、初めて男が小さく笑った。内側から叩くように出たそれは、心から可笑しかったとみえる笑い声だ。悪戯っ子がその成果を見て喜ぶようなそれに、何故かソフィアはぞっとした。

「来てくれてありがとう、ハル。その銃は捨ててくれるよね?」

子供のまま、ジョゼフが訊ねる。ソフィアの傍らで黙っていた男が、彼女の頭にすっと当てたのは拳銃だ。こめかみに触れた冷たい金属に、ソフィアは冷静を保とうとする心の臓が跳ね上がるのを感じた。少しだけ、犬の耳がぴくりと動いた。

ハルトは無言でそれを見て、持っていた拳銃――ベレッタM8000クーガーFをぽいと放った。足元に滑って来たそれを見て、ジョゼフは満足げに微笑んだ。

「もう無いの?」

「調べるか?」

両手を軽く掲げた男を――否、実際は犬の方だ。じいっと見つめてから首を振った。

「いいよ、ハル。君が正直なら嬉しい」

「そうかよ。山ほど持ってくりゃ良かった」

舌打ちするハルトはポケットに手を突っ込み、顎を脇にしゃくった。

「それで? どうする。そいつで俺を撃つのか?」

「そんなことしたら、僕がフレディに殺されてしまうよ」

「じゃあ何しに来たんだ。俺をお前の神のところに連れて行くのか?」

異常な会話に、口を挟む者は居ない。それも異様な状態だった。

「僕は、君と時間を過ごすようにしか言われてない」

「はあ……時間稼ぎそういうことか」

舌打ち混じりに言ったハルトが、ソフィアに銃を向けている男を見た。

「出頭したのは”そいつ”だと思ったが、フレディの方だったか。奴は警察に何の用がある?」

「知らないよ。僕は何も聞いていない」

「よくまあ、あんな奴の腰巾着野郎イエスマンなんかやってられるな。お前に情緒の話をしても仕方ないが、やめた方がいいぞ」

「やめる? ねえ、ハル……僕にそれが出来ると思う? 君だけじゃないか。フレディに反抗できたのは……」

「知るか。あのサイコ野郎が構ってくるのが鬱陶しかっただけだ」

ぞんざいな調子で言うと、ハルトは大人しい犬の頭にポンと手を置いた。

「お前が何も知らないなら、もう話すことは無い。どうだ、ジョゼフ――久しぶりに、犬と遊ばないか?」

そう言ったハルトの顔を見て、ソフィアに緊張が走った。同様に、ジョゼフにも動揺が走る。

「……イヤだ。ハル……君はフレディじゃないんだ。君の言う事は聞かない……」

「俺は命令してるんじゃないぞ、ジョゼフ。お願いする気も無いが」

――……変だわ。

銃口を当てられながら、ソフィアは直感した。

ゆるゆると首を振るジョゼフは、明らかに優位な立場に居る。銃を取り上げ、人質も居る。それなのに、犬一匹を前に怯えている。

「そのリードを外したり手を離したら、この子の頭を吹き飛ばすよ……!」

急に大きな声を出す男に、ハルトは苦笑いを浮かべた。

「おいおい、この可愛い顔が見えないのか? こいつはお前に噛みついたシェパードじゃない。人間にいじめられた経験を持つ、賢い犬だ」

「……ハル……君は”あの時”も犬を使ったろ……僕を捜す為に……!」

ジョゼフが呻きながら首を振る。不安定な目に映るのは、恐怖だ。

それに対するハルトは、水のように静かに答えた。

「仕方ないだろ。俺は”お前ら”とは違って才能が無いんだ。使えるものは使う」

微かに後退るジョゼフの目に、あの日の猛犬が甦る。自分が悪戯の為にこっそり砂糖を集めたりした様に、ハルトは食事に出た肉や果物を少しずつ施設の猟犬に与えていた。子供たちと同じぐらいはあるシェパードたちは、猟犬として本当に狩りに使うこともあったが、要は脱走者を防ぐ、或いは捜すための番犬だ。

ハルトはその内の一頭を馴れさせ、『Dog Fight』と称した、追う者と追われる者を主体とする戦闘訓練で使ったのだ。まさか犬に追われる羽目になろうとは思わなかったジョゼフは大いに慌て、完璧に隠れた筈の場所から燻りだされ、それまでフレディにしか見つからなかった記録を破られた。あの時、迫って来た犬の恐ろしい俊敏さと牙といったら……! けしかけておいて、関与の無い顛末を眺めるような目のハルトといったら……!

「犬を使うなってルールは無かったぞ。お前に怪我もさせていない」

今も同じようにせせら笑う男をジョゼフは睨んだ。

怪我こそ負わなかったが、追い掛けられ、死に物狂いで逃げた上で噛まれる恐怖は体験した者にしかわからない。以降、ハルトは訓練での犬の使用を禁じられたが、こちらを牽制するように犬とは親しくしていた。

あの犬の目は、こちらを見る――白い犬の目と重なる。

主人の命令に従い、敵に牙を剥ける目だ……!

その黒い目を震える眼差しで見ていたジョゼフは、ポケットから拳銃を抜いた。

恐慌状態に近い男の意図を察したソフィアが息を呑んで叫んだ。

「やめて!」

「黙ってろ!」

引きつった声でジョゼフが怒鳴る。拳銃が自身の方に向いたことも、ハルトは気にした様子は無く、静かに言った。

「なあ、ジョゼフ……お前、逃げてから何人殺した?」

「なんでハルがそんなこと言うのさ?」

子供のようにつっけんどんな調子にソフィアはぞっとした。

「ねえ? おかしいだろ? フレディじゃない君が、何もかも知ったようなことを言うのはおかしいよね?」

「答えろよ。何人殺した? その腕、俺に撃たれたわりには元気そうだな」

ぎくりとした顔になったジョゼフが青ざめた。拳銃を持っている右手が震え、神経質な動きに銃口がブレる。それを慌てて左手で押さえるのを、ハルトは無表情に見つめた。

「フレディは天才だろうが、医療技術があるわけじゃない。お前に新しい腕を与えたのは何処のどいつだ?」

「うるさいよ……‼ なんでそんなこと言うんだ‼」

唐突に激昂したジョゼフが吠えた。

「腕の事は言いたくないってか。じゃあさっきの質問に答えろよ」

「おかしいって言ってるだろ! それは……その言葉はフレディに聞いたよ! どうして君が同じことを言うんだ! 飛び抜けたところなんか何も無かった君が……!」

「そうだな。俺は飛び抜けてはいなかった。お前が言う通りだ。おかしいな」

ハルトは苦笑した。

何故か、ハルトが喋る毎に落ち着いていくのに対し、ジョゼフは余裕を失い、どんどん焦りや苛立ちが募っていくようだ。

「ジョゼフ、どうなんだ。何人殺した? お前が衝動的に殺さずに生きていけるのなら、俺はお前を殺す理由はない」

「確実に僕を殺せるような言い方はやめろ! 『魔法の弾丸フライクーゲル』を使えない君に、僕が殺せるもんか……!」

「ああ。俺は、無理かもしれない。此処は銃刀法がある国だ。お前も撃ったら最後、捕まるぞ。こんな呑気な国で、殺す気にもならない犬や女の子を殺して捕まるのは屈辱じゃないのか?」

「ハハ、ハハハ、……殺す気? そんなものいちいち考えていない。僕たちはそういうものに育てられた筈だよ。ハルだってそうだろう? 僕らはすぐに要らない命がわかるんだ。ロンドンで刺し殺したカップルは、老夫婦の家に強盗に入って彼らを縛って口と鼻をガムテープで覆って窒息死させた。路地で絞め殺した爺さんは良い歳して少女をレイプしたあと絞殺して海に投げやがった。テムズ川に蹴落としてやった悪ガキも、僕の前で犬を蹴り殺すからいけないんだ。どうだい、ハル? 君にもわかるだろ?」

「わかるさ。お前が始末するほか無いほど、イカれちまってることは」

「クソ、クソクソクソッッ……違う! 違う違う違う違う!! ハル!! 君は、君は何もわかってなあああい!!」

絶叫と共に銃口がガッと頭にめり込んでソフィアが声にならない悲鳴を上げた時だった。

ハルトが「Bite!」と鋭く言うのが聴こえた。犬が白い風の様に地を駆け、ジョゼフが悲鳴を上げる。銃声が響く。そこに突如、タイヤを激しく擦らせて一台の車が入って来た。そこからはもうよくわからない。

何もかもが殆ど同時に起きた気がする。車がぐるんと回転して停まり、誰かが飛び出すのは見た気がしたが、隣の男とジョゼフが何故か苦鳴を上げたのに気を取られている内に、ソフィアは絶叫マシーンのような勢いで掻っ攫われていた。一体何が起きたのか、かろうじて見えた先では、機械人間のような男とジョゼフの両名が片目を押さえてよろめいている。その指間から、みるみる内に血が滲んで垂れ落ちた。ジョゼフに至っては、拳銃を握る腕も奇妙に揺れている。

更に奥では――ハルトが持っている筈のない銃を掲げていた。しかし、銃声はおろか、花火ほどの音もしていない。

「大丈夫?」

真後ろから頭と背にぼそりと響いた声に顔を上げると、ソフィアは掠れ声で呟いた。

「貴方は……」

一体いつの間に傍に来たのか?

ソフィアの体を軽々抱えていた未春――以前、親指を切り裂いた相手は、無表情だが優しい調子で頷いた。

「怪我ない?」

ぺた、とソフィアは恐る恐る銃口が触れていたこめかみに触れ、何度も触感を確かめて頷いた。

「大丈夫……」

「良かった」

未春はソフィアを抱えたまま、他のことにはまるで頓着しない様子で車の扉を開け、カチコチになっている少女を押し込んだ。そこへするりと乗り込んできたのは白い犬だ。飼い主を案じるように尾を振りながら鼻をすり寄せた。

「じっとしてて」

短い忠告の後に、拘束をナイフが切り裂く。少女は冷えた手で愛犬を抱き締めた。

「マックス……」

その柔らかく温かい毛に頬を埋めて呟くと、犬は静かに身を寄せてすすり鳴いた。

未春は運転席に乗り込み、ハルトを振り返ると、彼は「行け」と軽く手を振った。

返事もなく頷くと、静かに車は発車した。

「お……置いていくの?」

震える声で訊ねた少女に、未春は振り向かずに「うん」と答えた。

「で、でも……相手は二人なのに……!」

「ハルちゃんは、大丈夫だよ」

「……」

ソフィアが思わず振り返るが、もう格納庫の中は見えず、後にはエンジン音のそれよりも激しい怨念のような声が響いていた。

「ハル……ハルゥゥゥ……!! なんで……なんで僕がこんな目にィィ……!!」

たかがラムネ菓子に潰された目玉から、ぼたぼたと血を流しながらジョゼフは獣のように唸った。もう一人の男は当たり所が悪かったか、跪いて目を押さえたまま動くこともできない。

「自業自得を俺のせいにしないでくれ」

ハルトは見向きもせず、手元の拳銃――愛用のクーガーそっくりの模造品を眺めた。

「1センチはズレたか……跳ね方が違うんだよなあ……2度修正するか……」

ぶつくさ言う男に、怒りに震えた本物の銃口がサッと向けられたが、次の瞬間にそれは立て付けの悪い扉を無理やり開けたような音を立ててから暴発した。嫌な音と火花に弾かれた拳銃が地に落ちる。それを見下ろし、ジョゼフは目を剥いた。銃口からぼろぼろとこぼれ落ちたのは白い玉だったらしい破片。一体、いつの間に銃口に詰めて――……動悸に喘ぎ始めた顔を上げてハルトを見ると、彼はいまだこちらを見ずに玩具の拳銃をいじくっている。

「やっぱり三発までだな。四発目は明後日にいっちまう……ひとつ間を置いてからなら――……」

「ハル……!」

「うるせえな。お前とお喋りしてると頭がどうにかなりそうなんだよ」

「なんだって……? 僕に……君が僕にそんなこと言うなんて――……ハル、君は……君はそんな奴じゃなかったのに……!」

片眼を押さえ、残った目の光をぐらぐらと揺らしながら唇をわななかせた男に、ハルトは鬱陶しそうに顔を上げた。

「お前、本当にフレディの目的は知らないのか?」

「知るもんか……フレディは全知だ……僕は違う……君も違う……!」

「じゃ、お前は奴に売られたんだな。俺と戦わせる為に」

「知ってるさ!! だから来たんだ! 他にどうしろって言うのさ!」

「そうだな。腰巾着野郎イエスマンには、どうすることもできないな。来なけりゃ、お前は奴に殺されたろうから。――いや、もっと前かもしれない。俺に殺されないように逃がしたのは奴だろ? いくら俺が飛び抜けていなくても、手負いのお前を逃がすほど能無しじゃない」

「僕は知らない……従うしかない……ひどい……ひどいよ、ハル……僕らは一緒に暮らした仲間じゃ――……」

ジョゼフの言葉が言い終わるより早く、ハルトが無造作に撃った白い弾丸がその額を打ち据えた。

「仲間じゃない。下らねえ嘘はやめろ」

ジョゼフはぴたりと泣き言をやめた。恐ろしい程の無表情の中、額に小さく赤が滲んだが、触れもしない。

「何が君をそうした……? 誰かのせいなの? さっきの女? それとも、さっきの男?」

見開かれた片眼が、車の去った方を見た。ハルトは気のない調子で首を振った。

「本当にわかってねえな。俺は変わったかもしれないが、お前たちに対する気は一切変わってない」

「君は……どうしても僕を殺したいの?」

ハルトが口を開く前に、その声は響いた。

「二人とも、喧嘩はそのぐらいにしなさい」

コツコツと床を踏む音がした。入口に翻ったのは、良い仕立てのコートだ。

「ミスター……?」

信じられない、といった表情でジョゼフが喘ぐ。霞む片眼に映る白人は、BGM北米支部を束ねる辣腕家、ミスター・アマデウスだった。

「やあ、ジョー。久しぶりだ」

陽気に片手を上げた男に、ジョゼフは首を振った。

「……おかしい。貴方が居る筈がない。フレディはそんなこと……一言も……」

その喘ぎの最中、がばりと顔を上げたのは目を押さえて俯いていた男だ。まるで、見えない手に無理やり動かされたようにおぼつかない手が白人に拳銃を向ける。

が、構える暇も与えずにもう片眼を白い粒が襲った。コン!と跳ねた白い粒に付着した血が垂れ落ち、そこからは人とも思えぬ唸り声しか出なかった。撃たれた拍子に取り落とした拳銃か、はたまた殺す相手を探すように、何か唸りながら地面を這う。

その様子を狙われた白人は静かに見つめ、仲間と思しきジョゼフも無言で見下ろした。

「……ハルが、ミスターを連れて来たの? それともミスターがハルを連れて来たの?」

「お前は嵌められたって言ったろ。”こうなる”ことをフレディが予測できなかったと思うのか?」

素っ気ないハルトの言葉に、ジョゼフの目には失望がありありと浮かんだ。

「……君たちは、なんてひどいんだ。僕をいじめて楽しい?」

「いじめる、か。お前はそういうところが見当違いなんだよ……ウサギだってもう少し勇敢だ」

「ハルはいいよ、ミスターのお気に入りだったもの。僕たちは見捨てられた……あんなに頑張ったのに。苦しい思いもした。痛い思いもした。それなのに……」

「見捨てたと感じたのなら、申し訳なかったね、ジョー」

慈父のように答えたのはアマデウスだ。ジョゼフがちらりとそちらを見ると、彼は年齢不詳の父か教師のように微笑んだ。

「我々はヘンリーがおかしくなった時、もう少し君たちと落ち着いて話をすべきだった。結局、フレディに妨害されたかもしれないがね」

ハルトはつまらなそうに拳銃を模した玩具を眺めながら、鼻を鳴らした。

ジョゼフは片眼を押さえ、置いてけぼりにあった子供のような顔だ。

「ミスター……教えてよ……マグノリア・ハウスは……”僕たち”の為じゃなくて……グレイト・スミスの血筋の為だったの……?」

妙な問い掛けにハルトは眉をひそめたが、アマデウスは首を振った。

「ジョー、それはもう過ぎたことだよ」

「わかってるよ、ミスター……そうだけど……じゃあ、僕はどうしたらいいの? 逃げ続けるの? 死ななくちゃならないの?」

「君の才能は非常に惜しい」

今度はハルトがちらりとアマデウスを見たが、何も言わなかった。

「殺意さえコントロールできるのなら、君は世界の役に立つ。――どうだね? 君の才能を欲しがっている男が居る。元々、施設に居た頃から彼は君に目を掛けていたよ。知っているだろう?」

「スターゲイジーでしょ……」

ふう、と溜息を吐いた。

「僕、あの人は苦手なんだよ、ミスター。豪快なトコとか……僕をガキ扱いするとことか……あの会社のわけわかんない連中も、パーティーも……」

「ハハ、詳しいね。さてねえ、ジョー……社会に出るということは、ある程度の枠に入らねばならない。ままならぬ環境で堪えるのも、新たな環境に適応するのも大人の証だよ。少なくとも、スターゲイジーの元に居れば、ハルは君を追うまい。フレディとて、手を出し難くなるだろうね」

「僕、あそこの社員を殺しちゃうかもしれないよ」

「どうかな。ブレンド社はそれほど穏やかな組織ではない。君を痛い目に遭わせたラッセルも現役だ。今は彼に匹敵する恐ろしい男も居る。その目を治すまで、片眼で世界最高峰の調査会社を眺めるのも悪くないと思うよ。此処でハルに殺されるより、幾らか楽しい生涯になると思うが」

もう一度、溜息が出た。

「わかったよ、ミスター……」

諦めに近い声を発すると、ジョゼフは持っていた拳銃をすっと掲げた。

一息もつかぬ内に、傍らで悶えていた男の頭を吹き飛ばす。悲鳴も上げずに倒れた男を前に、ハルトもアマデウスも驚かなかった。

「フレディの洗脳に掛かった奴は普通のお喋りもできない。退屈だったよ」

それはひどく淡白な説明だったが、悪党しか居ない場で反論する者はなかった。

「お前は洗脳されていないのか」

幾らか見下した調子のハルトの問い掛けに、ジョゼフは批判的な目で唇を尖らせた。

「ハルは意地悪ばっかり。僕はフレディが”言う事”には逆らえないけど、”洗脳”はされない。そうじゃなかったら、とっくにマグノリア・ハウスはフレディのものじゃないか」

「正論が出るのも気色悪いな」

ジョゼフはムッとしたが、アマデウスが軽く手を上げた。

「これこれ、やめなさい。武器を持ったまま喧嘩をするのは君たちの悪い癖だ。その物騒なものは私が預かろう」

「結構です。これは玩具ですから」

ぷいとそっぽを向くハルトに、ジョゼフが嫌そうな顔をした。

「君はなんでそういつも横柄なんだよ」

「うるせえな。怪我人がガタガタ言うな」

片手に玩具とのたまう銃を持ったまま、ハルトは電話を掛け始めた。

「ディック、終わった。一台回せ。それと救急車も。――ああ、精神病の奴も居る」

「ハル! 僕は病気じゃない!」

子供みたいに文句を言う男をうるさそうに見ながら、ハルトは更に付け加えた。

「それと、スターゲイジーに代わってくれ。俺が”おかんむり”だと伝えろ」

いっそうドスの利いた声を発したハルトが、アマデウスをちらりと見た。

白人はにこりと微笑むだけだ。

――高級そうなコートがよく似合う男――を、完璧に演った男は、どうやら”その為”に残留していたらしい。




 「賭けって……私と何を賭けるの?」

ナンシーの問い掛けに、実乃里はにっこり笑った。力也に比べれば堪能な英語だったが、至らぬところを過保護の父親が訳す上、似たような雰囲気の父娘だけに、会話の相手が二人に増えたようだった。

「確か、イギリスの人は賭けが好きよね?」

物怖じしない少女の態度に、異星人にでも出会したような顔でナンシーはどうにか頷いた。イギリスでは、賭けは日常茶飯事だ。競馬のようなレースは勿論、身籠った王妃の子が男女何れかなのか、名前は何になるのか、何ならそのベビー服に選ばれるブランドまで賭ける奴が居るくらいだ。

「だからって……悪党と賭けなんかしないわ」

「私は悪党じゃないよ、ミズ・アダムズ」

「十条のお嬢さんが?」

「そう言っちゃうと、貴女も悪党でお揃いだよ」

上手いこと揚げ足を取る娘をナンシーは睨んだ。

「……ナンシーでいいわ。ねえ、お嬢ちゃん――」

「じゃ、私もミノリにして」

マイペースにうんざりと天を仰いでから、ナンシーは頷いた。

「オーケーよ、ミノリ……何を賭けるおつもり?」

「それなんだけど、ナンシーさん、明日バースデーなんでしょう?」

やや虚を突かれたが、ナンシーは窺うような顔で頷いた。

「そうよ。それが何?」

「お誕生日に欲しいものはある?」

「そんなの……スターゲイジーを連行できるなら、最高の贈り物が手に入るも同然よ」

実乃里は小鳥のように首を傾げた。まっすぐな黒髪が絹糸のように揺れた。

「ナンシーさんは、お父さんのスターゲイジーが捕まるのが、最高の贈り物なの?」

「……そう言ってるでしょ」

「どうして?」

「は? どうしてって……あの男は悪党で、私は警察だもの。在るべき場所にブチ込むのは最高だと思うけれど」

「ふーん……私とはちょっと違うね」

おっとりと言って、実乃里は天使のように微笑んだ。

「私はね、世界中がパパを嫌いになっても、私だけはパパを好きでいてあげようと思ってるの」

すぐ隣に座っている十が、プロポーズされた女みたいにワッと両手を口にやる。

「実乃里……! もう一回、もう一回!」

ちょいちょいと袖を引く父親に、実乃里は「静かにしてて」とすげなく言う。

残念そうに引っ込む父と、物静かな娘をナンシーは蔑む目で見て首を振る。

「……お嬢ちゃんはどうかしてるわ」

「ナンシーさんは、自分のパパが嫌い?」

「大キライよ」

「どうして?」

「ハア? なんでそんなこと聞くのよ!? 当たり前でしょう!?」

店内だったからか、女はどうにか吠えるのを抑えたが、カウンターは強かに叩いて唸る。

「殺し屋で、悪党なのよ!? それなのに、何でもない顔して歩いてるそいつが自分の父だなんて最悪よ!」

「そうだね、殺し屋だし、悪党だね。でも、それだけ? ナンシーさん……本当は違うんじゃない?」

「……何が言いたいの……?」

「パパが言うの。女性が不安そうな顔をしたり、怒ったりする時は、愛を疑う時だって。貴女も、スターゲイジーが、自分を愛してるか不安だからそう言うんじゃない?」

「ば……バカなこと言わないで……!」

女は見るからに狼狽えて首を振った。

「私が――……あんな男、父親だなんて思ってない! おかしな冗談はやめて!」

「本当に? 私には、貴女はとっても寂しそうに見える。お父さんが悪党だから嫌なんでしょう? それって……スターゲイジーをお父さんだと思ってるってことだよね」

「……」

「独りで居たら駄目だよ。独りで考えるとね、悪いものが集まりやすいんだって」

「……もう沢山! 十条! あんたの娘を静かに――……」

「私もそう思うわ」

そっと響いた声に振り返ったのは、怒れる女だけではなかった。実乃里が不思議そうに仰いだのは、今しがた入ってきた少女だ。傍らには羽箒のような尾を振る白い犬、隣には未春も居た。怪訝な顔をしたナンシーが小さく呻く。

「ソフィア?……どうして……」

「僕が呼んだんだ」

立ち上がりながら、のんびりと十は言った。その向こうで力也がガタガタと異様な音を立てたが、咎める者は居なかった。

「家に帰る前に、何処かで落ち着きたいってことだったから」

「ど……どういうこと? 何か有ったの?」

「貴女と別れた後、『リーフマン』に誘拐されたの」

密やかな声の説明に瞠目したのはナンシーだけではなかったが、よほど落ち着いた様子でソフィアは首を振った。

「怪我はしていないし、それほど危険な目にも遭っていないわ」

「思ったより落ち着いていてよかった。どうぞどうぞ」

十は自分が座っていたそこに少女を伴い、非常に紳士的に座らせると、立っていた甥に笑いかけた。

「未春、ごくろうさん」

「はい……俺、戻ります」

「ハルちゃんが心配かい?」

こくりと頷いた青年は、「大丈夫だと思いますけど」と付け加えた。

「いいよ、行っといで」

すぐに引き返していく青年を、つい見送ってしまったナンシーが、はたとソフィアに視線を戻した。彼女は隣の実乃里にニコニコと話し掛けられ、やや戸惑った表情で返事をしていた。

「どうして貴女が奴に? イイエ、奴は出頭した筈じゃ……」

「さらちゃん、カフェオレひとつお願いします」

話を進めんとする女に、マイペースな実乃里が割り込む。物言いたげな顔をした女警察だが、直前まで誘拐されていたとあっては黙す他ない。

「……アリガトウ」

ほんの少し微笑んだソフィアに、古い友人のように実乃里が笑い、床で大人しくしている犬を見下ろした。

「可愛い。お名前は?」

「マックス」

呼んだ?というように顔を上げる犬に、実乃里がキラキラした目を向けた。

「賢いねえ」

「ええ、とても良い子よ」

渋面を隠しもせずにナンシーは少女たちの会話を眺めた。もう何もかも投げ出して帰りたい気持ちにかられていると、出て来たカフェオレによって、ようやくペット談義が一息ついた。

「ナンシーさん、賭けのことだけど」

「……忘れたかと思ってた」

「ごめんね。スターゲイジーが貴女の為にプレゼントを用意しているか、賭けようと思うの」

「はあ?」

この世で最も愚かに感じる言葉にぞんざいな調子で答えるが、実乃里はいくらも動じない。

「 用意していたら私の勝ち。もし、忘れていたら貴女の勝ち。どう?」

無謀な娘の挑戦に、一方の娘は鼻で笑った。

「本気なの? 『悩んだけど用意していない』は無効よ」

「そうだね。理由が有っても、無いのは良くないものね」

歌うように答える娘を、ナンシーは嫌そうに見下ろした。

プレゼントなぞ、有る筈がない。ブレンド社に居た頃はともかく、退社後は敵の立場でしか対面していない父娘だ、この間にプレゼントを贈られたことなど一度もない。まして、此処は彼にとっても出張先の日本。悪行とはいえ仕事の鬼であるあの男のこと、せいぜい社員か自分用の甘い土産物を物色した程度だろう。

「その賭けで……お嬢ちゃんは何を賭けるつもり?」

「私が負けたら、パパやスターゲイジーと一緒に警察に行く」

ショッキングなセリフを実の父親が訳し、実乃里以外の一同は驚いた。

「特に何もしてない私を逮捕してもらうには時間が掛かるかもしれないけど……私の賭けで、二人だけ行くのはかわいそうだから。いいよね?」

厚顔無恥も甚だしいお願いに、ナンシーは嘲笑か苦笑かを抑えて頷いた。

「……良いでしょう。私が負けたら何をすればいいの?」

「スターゲイジーと仲直りして、ディナーに行って」

「な……なんですって?」

「あ、やめておく? 私はどっちでもいいよ」

小生意気というよりは何か異様な余裕に満ちた娘を、ナンシーは改めて気味悪そうに見た。

――何なの、この子は。

悪党が何なのかわかっているの?

「どうする? ナンシーさん?」

「やるわよ。やればいいんでしょ? でも、プレゼントの有無をどうやって調べるつもり?」

「日本警察がやればいいんじゃないかな?」

これにはナンシーは無論、ソフィアやさらら、力也さえポカンとした。

なんと豪胆な娘だろう。賭けの為に、警察を使う?

「だって、私が動いたら不正を疑われちゃうし、パパの手伝いをしてくれる人は沢山居るから、連絡するのもダメでしょ? 貴女が確かめに行くのも同じ。だから、ナンシーさんがお友達に頼んでよ。スターゲイジーの荷物を調べてって」

「あの男の潜伏先は一つじゃ……」

呟いてみて、まるで自分がプレゼントがあるのを期待するように聞こえて、ナンシーは口をつぐんだ。実乃里は気付かぬように人差し指を顎に当て、首を捻る。

「場所がわかるなら、警察は調べられるよ。ちょっと強引なことなのかな? 捕まえるつもりならいいんじゃない? あ、それとも……場所がわからないのかな?」

「……」

無邪気なぐらいの挑発に、ナンシーはぐうの音も出ない。

こんな下らない賭けで逮捕できるとは思えなかったが、こんなことで逮捕に繋がる情報を得られれば儲けものだ。こちらを見据える黒い瞳を見ながら、電話をかけた。

〈Hi、ナンシー。まだ何か用かい?〉

「……メイソン、丸刈りになりたくなかったら答えなさい。スターゲイジーが宿泊しているホテルは何処?」

〈ボスの? 今はそっちには居ないけど〉

「いいから答えなさい!」

しょうがないなあ、などと言いながらもホテルと部屋番をあっさり喋った男に、二の句も告げずに電話を切ると、今度は別のところにかけた。

〈はい〉

堅物と罵った通りの硬質の声に、ナンシーは少し緊張したが、厳しい声で言った。

「ミスター・末永……ナンシーです。その……お願いがあるのですが……」

〈私にですか〉

真面目に返される中、こちらを見ている連中の純真な目に何やら屈辱を感じた。

まさか賭けの話はできない。どう誤魔化すべきか考えてからかければ良かった。

スパイシーとあだ名される己のせっかちに呆れつつ、要領を得ないナンシーに末永は言った。

〈申し訳ありませんが、私は今、東京を出るところです。急用でしたら、他の者に頼みますが〉

「そ、そうですか……あの――……『リーフマン』の件はどうなりましたか……?」

〈……ああ、そうでしたね。貴女には関与のあることでした〉

車内なのか、道路の傍なのか、時折、走行音のような音を挟みつつ、末永は言った。

心なしか、その声は元気が無いような、疲れた具合に思われた。

〈あれは『リーフマン』ではありませんでした。それ以外のことは不明瞭な点が多く、憶測として申し上げるわけにはいきませんが……出頭した男は別の暴行の疑いで逮捕されています〉

「そう……ですか」

〈それで、ご用件は〉

半ば仕方なさそうにナンシーが用向きを告げると、末永は軽く面食らったような間を置いた。無論、賭けの話は伏せ、スターゲイジーの荷に自分に関わるものが混入していないか調べたいと言ったのだが、彼は思案の末にぽつりと答えた。

〈それは……令状を取るのが少し難しいかもしれませんが……〉

断わるかと思いきや、末永は「しばしお待ちを」と言って一度切った。何故か見守る様な一同の視線を受けつつ、五分も経たぬうちに着信が入る。

〈令状が下りそうです〉

「な……ど、どうやって……?」

〈別件で車両事故と殺人容疑で、ブレンド社のブラック・ロスが逮捕されています〉

「え……⁉」

まさか、と知らぬ間に思惑が成功していたことに驚くと、末永は冷静に答えた。

〈起こした件の危険性と現行犯である等の理由から、特例と判断し、既に別の施設に移送されました。供述通りなら、彼のホテルも同じ場所ですから、上司であるスターゲイジーの部屋も調べられる筈です。こちらとしても、”何か”出れば有難いことですから、下り次第、部下をやります――少々時間が掛かるかと思いますが、またご連絡致します〉

「ど、どうも……」

電話を切ると、待ち侘びた様子の実乃里が問い掛けた。

「どうでした?」

「時間が掛かるけど……調べるそうよ」

「わ、良かった。じゃあ待っていればいいのね。何しよっか。ゲームでもする?」

楽しそうな女子高生を眺めながら、ちらと見た先で、十がにこにこ笑っている。

「いいねえ、実乃里。ほら、リッキーも縮こまってないでこっちおいで」

その笑顔には、悪党の様相など微塵も無く――ナンシーは舌打ちした。




 「スターゲイジー! やっぱりハル怒ってますよ!」

電話を切ったディック・ローガンの悲鳴のような声に、ソファーに腰掛けていた優一が文庫本から顔を上げ、主を差し置いて事務所の椅子を占拠している男は豪快に笑った。

「ハハハハ、それでこそ俺のハルだ」

「何を呑気な……! ハルがキレたらどうなるか知らないんでしょう⁉ 俺の事務所の家具が壊れるんです! 若しくはカワイイ車がミハルの練習台になるんですゥゥ!」

いつかの十のように悲壮な叫びをする男にニヤニヤ笑いながら、英国紳士は「いいから迎えに行け」と追っ払うように片手を振り、掛かって来た電話に出た。

「おう、メイソン。どうなった?」

〈予定通りです。ブラックが怪我をしたんですけど、軽傷と見なされて例の刑務所に”送還できました” 〉

「そうか。病院送りにならんで幸いだった。お前はどうした」

〈ダッドが上手くやってくれたので、武器の所持に対する罰金だけで釈放してもらいました〉

「ほう、トオルの手が回ってやがるな。ご苦労だったな、ブラックが出るまで待機してろ」

〈Yes, Boss. あー……それと、気になる動きが。ブラックよりも厳重警戒の護送車が出ましたが――あれは『リーフマン』ですか?〉

「違う。そいつは『オムニス』だ」

〈げ、大丈夫ですか? 一般的にはまあまあの怪我ですけど……〉

「構わん。”その為の”ブラックだ。どちらかといえば警察が気になる――万一の場合は俺が間に入ろう。小牧こまきの小僧が協力してくれる。連絡は密にやれ」

〈了解です〉

電話を切った紳士に、文庫を置いた優一が歩み寄った。

野々ののくんは何と?」

「ハルの方は済んだ。”こっち”の計画通りにな。やはり、あいつは理知的だ。こればっかりはアマデウスの手腕に感心するぜ」

「……本当は、殺したくないと思っていたのでは?」

問い掛けに、スターゲイジーは笑みを浮かべたまま首を振った。

「そいつは違うぜ、ギムレット。ハルはGOサインさえ出れば殺す。今日はピオが持って来たアマデウスの指示に気付いてやめたんだ」

「彼は時折、猟犬のようですね」

「いーや、ハルは犬ほど従順でもなけりゃ、穏やかでもねえさ。あの強いこだわりも、溜息吐かねえと家具蹴りつける凶暴なところもな」

付き合うように、優一が不敵に笑った。

「所詮、彼も殺し屋ですか」

紳士の目が、笑みと共に細められた。

「”お前も”だろ?」

「ええ」

頷いた男の手には、瞬きひとつで一本の針が現れている。

「フフン、油断も隙もねえな。トオルの指示か」

「はい。スターゲイジーから、野々くんに関するデータを徴収してくるようにと」

「全く、恐ろしい奴だ。俺が一人になる瞬間が此処だとわかってたんだな」

「あの人の思考回路は僕にはわかりません。それに、貴方もお気付きでしょう――スターゲイジー。”だから”部下を置いて、僕と二人になった」

「タイミングってのは肝心だ。……だがな、俺らはビジネスパートナーだぜ。そう安易に脅しに乗っちまったら、よその連中にも舐められちまう」

手元の針を緩やかに回転させながら、優一は苦笑した。

「開示しないと仰るなら、”例のレストラン”を休業させるそうですよ」

脅しにしては呑気な一言に、紳士は厳めしい顔で顎髭を撫でた。

「うーむ……日本じゃあ、トオルが一枚上手うわてか……」

呟いた一言が宙に浮いて消える頃、紳士は椅子にもたれて頷いた。

「ま、いいだろ。肝心なのは知る順番だからな」

少々悔し気に言いながら、大きな手に握り潰されてしまいそうな端末を取り出す。操作を眺める優一の目は静かだ。

「ギムレットよ、お前、いつ結婚すんだ?」

太い指で操作しながらの一言に、殺し屋は吹き出しそうになってむせた。危うく取り落としそうになる針を袖に収めて、端末に向き合う紳士を睨む。

「何ですか、急に……」

「急なもんか。ジジイの件が片付いて何日経ってんだよ。俺ァ、働き者は好きだけどよ、良い男が良い女を待たすのは感心しねえ」

「貴方が言う事ですか?」

「へっ、若造がオッサンに言ってくれるな。俺は”幸せにしたこと”はあるぞ」

「……余計なお世話です。良い男なら、貴方の所にも居るでしょう」

「ブラックか? あいつはダメだ。ハルと同じものだからな……」

どこか侘しく言うと、紳士は端末を置いた。

「ほれ、送ったぞ。確認しろ」

促す言葉の最中、優一が自身の端末を取り出すと、先に着信があった。TAKEテイクに、女子高校生かと思うような御礼メッセージと可愛い猫の画像を確認し、何故か襲い来る疲労感にギムレットは顔をしかめた。

「トオルのお守りは大変そうだな」

ニタニタ笑う紳士に、優一は溜息混じりに首を振った。

「僕はあの人の世話などしていません」

「ま、人が好いのは悪いことじゃねえな。……さて、取引も済んだことだし、のんびりクソガキを待つとするか……」

椅子にもたれて目を閉じる紳士を、思案顔の優一が見下ろした。

「……スターゲイジー、野々くんは――敵になると思いますか」

「さあなあ……」

返事は、昼寝でも始めようかという調子だ。

「そうならんように、俺たちはそれなりにやったつもりだがな。後はトオルが――いや、今はミハルか。あいつが何処までやれるか……それに尽きると俺は思うぜ」

「……そうですか」

頷いた優一がソファーに戻る頃、紳士の電話が激しく震えた。叩き潰してやろうかと言う目で忌々しげに見たスターゲイジーは、大きな手で取り上げた。

「ええい、惰眠も許されん……――おう、何だ?」

相手は社員なのか、ふんふんと頷いていたスターゲイジーが胡乱げな顔をした。

「俺の部屋にか。まあ、ほっとけ……調べたところで何も出ない。ブラックはそれこそ何も無いだろ……おう、じゃあ頼んだ」

「何かトラブルですか」

「ブラックが捕まった関係で、ホテルに捜査が入ったらしいが、ついでに俺の部屋も見る気らしい。ゲーム機ぐらいしか無えのにご苦労なこった」

呆れ顔であくびをする紳士に対し、優一は何か思いついたように虚空を見たが、すぐに開いた文庫に目を落とした。




 その施設は、一見、工場か講堂かといった平凡な建物だった。

周囲を取り囲むコンクリートの高い塀は圧迫感があるが、あからさまな鉄条網や、電気柵があるような物々しさは見当たらない。

シェードに覆われた車を降りた時には、もう施設内だった。

手錠を掛けられた青年は、とろける様な蜂蜜色の髪を揺らし、辺りを見渡した。

車内ではぴたりと両左右を挟んでいた男たちは、降りる際、一人も付いてこなかった。代わりに行く手を示すのは、一体の白いドローンだった。

独特のモーター音を立てながら、浮遊しながら前を行くそれは案内人さながらだが、当然、一言も発しない。示されるまま、病院の様に物静かで飾り気のない白い廊下を歩く。いくつかのドアを通り過ぎたが、人の気配はおろか、生き物の息吹は感じなかった。

「へえ……面白い所だね」

〈フレディ・ダンヒル。黙って進みなさい〉

周囲を見渡す青年に、前を進むドローンが静かに命じた。青年が首を捻る。

「喋るんだ。君はAIか何かかい? それとも誰かが通話してるのかな?」

〈フレディ・ダンヒル。黙って進みなさい〉

抑揚を欠いた声は先ほどと何も変わらない。

「うーん、どっちかな?……話しても無駄みたいだけど」

三度目の警告をしたドローンに肩をすくめて付き従うと、一つの部屋の前でそれは停まった。

勝手に、カチャリと錠が外れる音がした。

「やけに上等じゃないか」

青年がくすくす笑いながら覗いた独房は、三畳間程度のそこに、格子のない小さな窓、トイレ、洗面台に机、布団、壁に小さな棚さえ付いている。

〈入りなさい〉

「いいけど、先に会いたい人が居るのですが」

〈入りなさい〉

「ハーミット、聴こえてるんでしょう?」

〈入りなさい〉

三度目の警告後、ドローンからスッと伸びたのは短いスティックだ。傍目にはただそれだけのものを見て、青年は微笑んだ。

「スタンガンですか。コンパクトで良いですけれど……それで僕を気絶させたら、誰が中に運び入れるんですか?」

〈入りなさイ、ィ、ィ……〉

ガガガガガガ、と恐ろしい音を立てるそれの面を手錠が掛かったままの手が鷲掴みにしている。そんな力が有るとは思われない白い手がみしみしと機械にヒビを入れる。

〈Stop your violence.(乱暴はやめなさい)〉

急に館内の何処からか、厳かに響いた声に、手の力を緩めることなく青年は顔を上げた。

「ハーミットですか」

〈まず、彼を放したまえ〉

「そうはいきません。機械は嘘も誠も有りませんから」

〈これはこれは、稀に見る乱暴者だ〉

突如、ドローンからフッと力が抜けた。ぱっと手を放すと、ガシャン!と鉄くずの様に落ちる。それを合図にするように、ゆっくりと薄暗くなった廊下の足元に奥に向けて光が灯った。ぽつぽつと光る石でも落ちているような廊下を見て、青年は笑った。

「ハハ、おとぎ話みたいだ」

〈来なさい〉

青年は苦笑すると、陰った森を行くように歩き出した。同じ場所にしか見えない白く短い廊下を幾度となく曲がり、行き着いた先は先ほどの独房とは明らかに様子が違っていた。突き当りの壁は左右に幅広くガラス張り――と思ったらクリアな樹脂製の壁らしい。ふと、思い出すのは動物園や水族館に見られる展示室だが、中は分厚いカーテンに覆われて見えない。いや、臙脂色に金のふさ飾りまで付いたそれはカーテンというよりも、さながら劇場の舞台の緞帳どんちょうのようだった。

前に立つと、一部のカーテンがやはり幕のように左右にするすると開いた。

〈何か用かね、お若いの〉

そこは、少なくとも独房ではなかった。

ヴィンテージと思しき家具が並び、奥には洒落た格子がはめられた大きな窓、板間には絨毯まで敷いてある。その上、刑務所に有る筈のない暖炉の前、その老人はロッキングチェアに揺られていた。皺だらけの浅黒い容貌に短くカットされた縮れた白髪と口髭を生やした男は、アフリカ系アメリカ人だろうか――ごく普通のシャツとズボンを纏い、膝には大きなチェック模様のひざ掛け。

言うまでも無いが、刑務所とは思えない光景に、フレディも些か面食らった。

「貴方が、ハーミットですか」

問い掛けると、中の老人はゆったりと椅子を揺らしながら頷いた。その視線はひざ掛けに置かれた分厚い本の上で、見向きもしなかった。

〈懐かしい名だ〉

老人の音声は、上部のスピーカーから響いた。見た目よりもしっかりした声だ。

「僕が誰だか訊ねないんですか」

〈何の意味も無い。君がフレディ・ダンヒルと名乗って此処に来たのは知っている。が、その君がハービー・ハンコックと名乗ろうと、ウェイン・ショーターと名乗ろうと、意味は無い〉

幾度となくグラミー賞を獲得している著名な音楽家の名に、白人系の青年は笑った。

「僕が、グレイト・スミスの孫でも、意味は無いですか」

〈意味は無い〉

男はにべも無く言うと、初めて視線を向けた。茶色の瞳は、穏やかなのか冷たいのかよくわからない静けさを保っていた。

〈お若いの、見ての通り、私は世捨て人の隠者だ。何か訊ねたところで役には立たない〉

「貴方は、彼の一番の理解者だと伺っていましたが」

〈理解すれば尚のこと。私が彼に出来ることはもう何も無い〉

「僕はただ、グレイト・スミスの居所が知りたいだけです」

老人は静かな瞳で青年を見ていたが、ゆっくりと椅子にもたれて虚空を見上げた。

〈それを知ってどうするのかね?〉

「僕は、祖父の血筋によって『全知オムニス』の才を持って生まれました。だから会ったことのない祖父が何をしようとしていたかを知っています。しかし、それは他者と記録上の祖父のことです。本当の彼に会ったことは無い」

青年の講釈を、老人は聞いているのかいないのかわからぬ様子で椅子を揺らす。

「『全知』の僕でも、彼の居所は知覚できなかった。多分、彼が持つ才能が原因なのでしょう。僕は祖父に会わなくてはならない。今も、彼がやろうとしていることが記録上のものと一致するのなら」

〈……つまり、君は記録上の彼とは意見の相違があるということかな?〉

「そうです。僕は、今の世界を成り立たせる多くの非効率を憂いています。祖父の計画はそれをおよそ半分解決しますが、半分を無駄にする。たかが半分の成功の為に半分が犠牲となるのは非効率だと考えます」

〈君は、彼に意見を?〉

「僕は提案します。意見なら誰にでもできますから」

〈やめておきなさい。『全知』だけでは戦えない〉

「ええ、そうでしょうね。ですが、僕はその対処法に心当たりがあります」

〈『全知』の成せるわざか〉

どこか憐れむように老人は呟くと、何かに気付いた様子で視線を動かした。

〈今日はやけにお客が多い〉

靴音が響いた。

暗がりから現れたのは、薄笑いを浮かべた死神の様に真っ黒な長躯だ。不思議なことに、フレディは壊してきたドローンが、傍らに従う様に浮いている。

「Hi.」

低い声と共に、オークモスの香りが辺りに漂った。

振り向いたフレディが微笑んだ。

「鼻が利くね、スターゲイジーの犬」

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