13.Mad dogs.
寒いのは嫌いだ。
寒いと思考が鈍る。手がかじかむ。指の感覚が無くなる。
寒さはほぼ全ての生物にとって厳しく、否応なしに死に引っ張る。
昨今、厳しい暑さでも人は死んでいるが、死亡率では明らかに冬が上回る。
雪が降っていれば尚更だ。分厚い雲の下、はらはらと埃が降って来るような雪は遠くから見る分には綺麗だが、降り積もる中でじっとせねばならないのは億劫だ。
……これなら、潜伏より攻める側の方が楽だったかもしれない。
「ねえ、ハル。離れていたら寒いよ」
鬱蒼とした森の中、隣に座ったフレディが伸ばした手を、ハルトはうるさそうに払いのけた。
「触るな」
「君は寒いのが苦手な癖に、どうして誰かと居るのを嫌がるの」
「うるさい。騒いでリチャードに狙われたいのか」
「大丈夫だよ、彼は”見えていないと”撃てない」
苛立ち混じりの溜息が白くなって消えていく。撃たれて死ぬことはないが、寒さで死ぬ気がする。ペイント弾とて当たれば痛いし、この時期は冷たいという嫌なオプションが付いて来るが、とっとと見つかって補習をする方がマシかもしれない。最初からうんざり顔のハルトに、フレディはにこりと笑い掛けた。
「君は人間なんだから、暖を取らなくちゃいけないよ」
言うなりぎゅっと手を握ってきた手袋越しの手を、ハルトは毒虫でも付いたような目で睨んだ。
「あいつらをやる前に殴られたいのか」
「ハル、考えたことはある?」
問い掛けを無視して覗き込んでくる青い目を、焦げ茶混じりの黒い目が見返す。
「……何を」
「自分が何者か」
「お前がさっき言っただろうが」
「ははは。それはそうだね。僕たちは人間だ。一人では生き難い、弱い生き物だ」
手を握られたまま、気味悪そうな目が仰ぐ。
「離せ」
「やだ。寒いもの」
「フレディ、そういう話はジョゼフとでもやればいいだろ。あいつはお前の言う事なら喜んで聞く」
「僕は喜んでもらいたいから話してるんじゃないよ」
「……俺の言い方が悪かった。とにかく、黙れ」
きつい口調と共に片手を振り解き、ハルトは小銃にかぶせた布の雪を払ってスコープを覗き込んだ。隣の少年は先ほどの一言など全く意に介さぬ様子で同じ方角を見た。
「ハル、君は特別なんだよ。僕にはわかる」
「うるさい」
全く取り合う気のない少年に、駄々っ子でも見るように少年は苦笑した。
「ハル、そろそろ五十メートル以内にBグループが入る。あと三分後にDが右方向」
「空に目玉でも付いてんのか。気持ち悪ィな」
悪態にも、金髪の少年は嬉しそうに微笑むだけだ。
「何笑ってんだよ……」
「嬉しいんだ。君は”絶対に”当てる。見えなくてもね。さあ、地図だと此処だ。行こう、ハル――僕と君が一緒なら、全員倒せる」
遊びに行くような気軽さで言う少年に、ハルトは憂鬱な溜息を吐いて銃を持ち上げた。行く先を示すのは、自分が居なくても全員倒せる、『全知』の才を持つ少年。
「どうかしたの?」
サイレンが喚いている中、顔をしかめていると、
そんな音さえ轢いていく国道16号線沿いを一緒に歩いていたハルトは、何気なく音のする方を振り返ったが、特に感想は述べずに溜息を吐いた。
「……寒いと思っただけだ」
いつの間にか憂鬱な曇天になっている空の下、風はきりりと冷たい。
もう雪は降らないというが、容赦のない寒風は吸い続けたら肺に霜が生えそうだ。
「本当に寒いの苦手なんだね」
よほど青白い顔で言われて、ハルトは肩をすくめた。
「何でだろうな……単純に嫌いだし……嫌な事を思い出すんだよ」
「暑い方が嫌なのかと思ってた」
「ああ……お前たちに話した内容じゃ、確かにそうだよな」
両親が死んだのは虫がさざめく青いジャングルを抱く東南アジア、熱砂と乾燥が支配するアフリカ大陸のリビア。質は違うが、どちらも暑い国としてハルトに嫌なトラウマを刻んでいる。確かに、似たような状況に置かれると胸の内が捻じれる感覚はあるが、寒さはトラウマというより、根本的な敵であり、脅威だ。
「人間は、寒冷地向けの体じゃないだろ。それだけだ」
「ふーん……」
「……なんだよ、お前だって苦手なものぐらいあるだろ」
「無いこともないけど」
寒いことに関しては何故か意固地になるハルトに、未春は無表情に頷いた。
その横を、サイレンを激しく鳴らすパトカーが行き過ぎた。
「一体、何やってんだろうな……イギリス紳士共は……」
呆れたような顔で眺める先に、一体何台のパトカーが呼び出されていったのだろう。
派手なトラブルが起きるのはスターゲイジーが来日した段階で決まっていることだが、これでは帰る頃に『紳士』が『トラブルメイカー』と同義語に成り兼ねない。
傍らを歩く未春は、サイレンには何の感想も洩らさなかったが、どこか不安げに眉を寄せた。DOUBLE・CROSSには
「ブラック、大丈夫かな」
寒風にぽつりと言った未春に、ハルトは苦笑いを浮かべた。
「あいつは大丈夫だろ。戦車でもくたばらないらしいぞ」
「……うん」
大人しく頷いた未春だが、何となく表情は晴れない。年明けの状態に戻ったような顔つきだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「今、自分で言ったろ」
「ブラックじゃない、お前だ」
「……俺は大丈夫」
どうにも信用ならない具合の悪さを覗かせつつ、足取りは軽快だ。
「それよりハルちゃん、スターゲイジーが連れてくるって言ってたけど……ブラックが居ないのに、本物かどうか確かめられるの?」
「さあな。あの人はやると言ったらやると思うが……」
今回、こちらがブラックの使用に乗ったのは、それだけ特定が難しいからだ。
『リーフマン』こと、ジョゼフ・リーフは、性格的には殺し屋だが、才能は
スターゲイジーはブラックの嗅覚を犬に匹敵すると言った。
犬は人間の数千倍から一億倍の嗅覚と持つというが、それは象のように遠方の匂いを嗅ぎ取れるかというと、少し違う。匂いが残った足跡を辿れるから、犯人を追跡できるのだ。つまり、どうしても近付く必要が生じる。
「スターゲイジーさえその気なら、向こうが釣られると思う」
「じゃあ……『リーフマン』にとってTOP13は邪魔ってこと?」
「自分を追って来る場合は。ただ、奴は来日した目的を達成するまでは逃げると思う。それがスターゲイジーに関わるなら争う可能性もあるが、まあ、直接対決は避けるんじゃないか……奴だって、あの
少年期とはいえ、施設時代に顔を合わせた仲だ。そして、スターゲイジーは元とはいえ世界屈指のスパイ。部下の優れた嗅覚以外にも、見分ける方法は持っている筈だ。
あとは、正体を見破られた獲物を、猟犬のように追い込めばいい。
「スターゲイジーは、ハルちゃんに協力的だね」
「……確かに。アマデウスさんとの仲というか、駆け引きもあるだろうが……あの施設を出た奴は『死すべき』と考えるTOPが半数以上らしいから、自分で動くのは破格の対応だよな」
「……『死すべき』って、ハルちゃんも?」
「ああ、一応」
自分が死んだ方がいいと思われている事に対して淡白に答えると、ハルトは深刻さを感じない顔つきで首を振った。
「俺の場合、ミスター・アマデウスや十条さんが登用する内は、処分に乗り出すTOP13は居ない筈だ。俺としては、そういう意見の相違で彼らが揉める方がおっかない。仮にも悪党の集まりだ……強引な手を使うとも限らない」
未春は納得した顔で二、三頷いた。以前の南米支部代表クリス・ロットが公的機関からも注視される爆弾魔だったのは記憶に新しく、亡き北欧支部代表・ステファニー擁する殺し屋・スパイダーがほぼ独断でハルトの殺害を目論んでいたのはつい最近のことだ。
「スターゲイジーは、個人的にハルちゃんのことが好きみたいだけど」
「うぬう……そうかもな。あの人はもともと、アマデウスさんとは悪友というか、お互いに悪口言いつつ長い付き合いらしいし……スパイ関連のスキルを買われて、施設の指導員をしたこともある」
――そういえば、最初からスターゲイジーは友好的だった。
今回会った時と同様、初対面でもずしんずしんと近付いてきて強烈なハグをお見舞いしてきた。その愛情表現はどうかと思うが、仮にも殺し屋になる予定の子供に対し、あからさまな歓迎を表した要人は彼ぐらいだし、全員にしたわけではない。
「それは、ハルちゃんが優秀だったからじゃないの?」
「……前にも言ったが、俺はそれほど優秀じゃない。今回の『リーフマン』が『逃げること』に特化している様に、俺の同胞には皆、誰にも負けない特徴が有った。だが、俺がモノになったのは銃ぐらい……それも、命中率ならもっと凄い奴が居たし、早撃ちが得意な奴も居た。『
「ハルちゃんは、優秀だと思うけど。エリートだったんだから」
「おい、『だった』は余計だ」
苦笑しながらやって来た米軍基地のゲート前で、ハルトはベントレーの傍らでぽつねんと立っていた男に目を留めた。事前に呼び出していたディック・ローガンだ。しかし、何故かこちらに背を向けて基地の奥を見ている。その片手には犬のリードを握り締め――足元には同じように基地の奥に向いて走り出しそうな恰好の白い犬が居た。
「マックス?」
男よりも先に犬の名を呼んだハルトに、犬がくるりと振り向いて尾を振った。
間違いない。ソフィアが飼っている元保護犬のマックスだ。釣られるように振り返ったディックが、今しがた幽霊でも目撃したような青い顔で呻いた。
「ハ……ハル……ど、どうしよう……」
「どうしよう? なんでお前がマックスと居るんだ?」
散歩代行サービスじゃあるまいし、などと言いながらマックスに近寄ると、犬は挨拶代わりにかハルトの足に頭を押し付け、何か訴えるように足元にきちんと座った。
「ソ……ソフィアが……連れて行かれちまった……」
「あ?」
普通の好青年から殺し屋の調子になるハルトに、ディックは既に肝を潰した顔で身を縮める。その様子に、未春がハルトの袖を引いた。
「ハルちゃん、今はディックを脅しても意味ないよ」
少々含みのある忠告だったが、ハルトが鼻を鳴らして怒気を引っ込めると、ディックはホッとした顔になる。
「お、俺だって止めたかったさ……でも……」
「わかった、お前の抗弁なんか聞いても仕方ない。何が有ったか話せよ」
ちっとも労わる気のないハルトに対し、ディックはぶつぶつと語り始めた。
10分も経っていないと豪語する過去、ゲートの外からソフィアが愛犬と共に歩いて来たという。
「お、ソフィじゃないか」
気さくな笑みを浮かべた伝説の傭兵みたいな欧米人に、ソフィアも笑い掛けた。
「こんにちは、ディック」
「やあ、元気かい? バーガー屋の親父が喜んでたぜ。ソフィが来てから売上が伸びたって」
「伸びるわ。夢でもバンズにパティを挟んでいるもの」
肩をすくめて微笑んだ少女はひと頃に比べれば随分明るくなった。ひと役買っているらしい愛犬のふわふわと白い毛並みをした頭を撫で、ディックは頷いた。
「ハハ、元気そうで良かった。今日は散歩?」
「そんなところ。貴方は待ち合わせ?」
「ああ、俺は――」
言い掛けたディックが、国道からすっと曲がってきた車に目を留めた。ナンバーは基地関係者のYから始まるが、ゲートの辺りで停車した。
「お? 見かけない車だな」
ソフィアは同じように振り向いたが、格別、特徴があるわけでもない黒の普通乗用車にしか見えない。ディックが聞いてもいないのに店先で語った、大好きな高級車の類ではなさそうだ。
「珍しい車なの?」
「いーや、日本じゃポピュラーなヤツだが……此処に入ってくる車にしちゃあ、匂いが違う。車ってのはさ、乗り手で雰囲気は変わるもんなんだぜ」
無論、物理的な匂いの話ではない。変な嗅覚を持つ男にソフィアは相槌を打たなかったが、何となくわかる気もした。ゲートのスタッフ相手に何やら話している運転手の奥――後部座席に座った女に目を凝らす。
「あれは……」
金髪に理知的な目をした欧米人は、先程別れたばかりのナンシー・アダムズではないか? 不意に隣の男が「げっ!」と呻いて同じ方を見つめ、ぴしゃりと己の額を叩いた。
「ど、どういうことだ? なんでスパイシー・ナンシーが?」
「スパイシー・ナンシー?」
「あ、ああ――人違いじゃなけりゃ、あの後ろのシートに乗ってる女はイギリス警察でさ、悪を逮捕する為なら、かなり強引なことも辞さないピリ辛レディでね……」
――イギリス警察というのは本当だったのね。
ソフィアが内に呟いていると、微かにマックスが唸り声を立てている。
「どうしたの?」
訊ねたところで犬は喋らないが、ふわふわの羽箒みたいな尾を下げ――しかし、毛先まで神経を尖らせるようにピンと伸ばし、威嚇するような姿勢をした。
先ほど、ナンシーには警戒こそ見せたが、唸ったりはしなかった筈だが。
……あの運転手が気になるのだろうか?
「おいおい、まさかあの運転手が“そう”なんじゃないだろうな……! まだハルも来てないってのに……!」
ディックの呟きにソフィアは訝し気な顔で車を見つめた。運転手はゲートのスタッフと何かやり取りを続けているが、静かなそれはトラブルが起きる様子ではない。
「……奴はともかく、ナンシーが一緒だなんて聞いてないぞ。これだから海外の連中ってのは!」
髪をひとしきり掻き回し、ディックは焦った様子でソフィアに振り返った。
「ああ、ソフィ、呼び止めて悪かった。早く家に帰った方がいいよ」
悪党の親切な呼び掛けに、ソフィアは顔をしかめた。
「ディック、何かしたの?」
「Well……Ah……ちゃんと説明してやりたいのは山々だが、とにかく此処には居ない方が良い――俺と一緒に居て、巻き込まれんのは御免だろ?」
「それは……そうだけど――」
言いながら、ソフィアは今にもゲートを抜けそうな車を振り返った。
「ちょっと待って、ディック……あの車、どっちからゲートに入ったか見た?」
「へ? えーっと……俺たちから左――あっちからだよ。ほら、タイヤの向きが自然だろ――」
「それは、ヘンよ」
細かな講釈を遮ったソフィアに、ディックがぽかんとする。
「何が変なんだい?」
「私、ついさっきナンシーと会ったわ」
「えっ! ソフィ、彼女と知り合い?」
「この間、偶然……マックスが襲われていた彼女を助けたの。顔と名前が一致する程度の知り合いよ」
軽く説明を聞いたディックが世間の狭さに唸るのも束の間、ソフィアはゲートを見て左側を指した。
「さっき彼女と会ったのは、左側だったの」
「? それなら別に……」
「有り得なくはないけれど、不自然よ。彼女、数分前に右手に向かってバイクで走って行ったの。少し前にバイク集団が通ったでしょう? それを追って行ったのに、もう一度戻ってから別の車で来るのは変じゃない?」
「た……確かに。じゃあ……君が会ったのが本物のナンシーだとして、あの車は……乗ってる女はそっくりさんか?」
そっくりさん、と口にしてからディックはやおら青くなった。
「ひ、ひょっとして……”そういうこと”?」
嫌な予感に突き当たったとき、車は何事もなくゲートを抜けて来た。
ソフィアがディックに素早く耳打ちし、その後ろに控えるように下がり、飛び出しそうな唸りを上げ始める愛犬のリードをぎゅっと握った。
緩やかに滑って来た車は、彼らの前で停車した。開いた窓から、マスクをした運転手は緊張気味のディックを見上げて目を細めた。
「Hi, ディック・ローガン。貴方が此処に居るということは、ハルはまだ来ていませんか?」
気軽な調子で話し掛けてきた運転手に、ディックは頭を掻きながら問いかけた。
「あ~……どちらさんかな?」
とぼけた対応に、男はマスクの上の目を細めた。
「僕はあなた方が『リーフマン』と呼んでいるジョゼフ・リーフです」
怒った様子は無いが、ひどく淡白な回答にディックは口元を歪めた。
「お……おお、あんたがそうか――お会いできて光栄と言いたいトコだが、先に教えてくれねえか……後ろのレディはどなたかな? 無関係の人間は連れて行けないんだ、が……」
「ナンシー・アダムズです」
ディックはやや引きつった顔で両手を軽く挙げて笑った。
「ハハハ……ジョークかい? スターゲイジーの娘はイギリスに居る筈だぜ?」
「……貴方は何も聞かされていないんですね」
「少なくともスパイシー・ナンシーが来てるのは知らないね。まさかイギリスから拉致してきたんじゃないだろ? 知ってると思うけどさ、ハルに人質は通用しないぞ。あいつはプロで、盾を無視して狙える
「知ってますよ。盾にするつもりなんかありません」
早口で言った武器商に少々気の毒そうに答えると、男は後部座席を振り返った。
「自分で証明して頂きましょうか」
後部の窓がゆったりと開き、女が顔を覗かせた。ソフィアが息を呑む。
”わかっていても”――ドッペルゲンガーか何かだ。うかと自身を疑いたくなるのを抑えるソフィアに対し、女は何も言わずにディックを見た。
「どうも――ミスター・ローガン。私の心配をしてくれるなんて優しいのね」
何故か生唾呑んだディックが何か言う前に、女がソフィアに目を留めた。
「あら、アナタは……」
「こんにちは、ナンシーさん……”一日”ぶりね」
幾らか硬い表情で言った少女に、女はにこりと微笑んだ。
「ええ、そうね」
何でもない返答をした女をじっと見つめ、少女は小さく愛想笑いを浮かべた。
「アナタたち、知り合いなの?」
女の問い掛けに、ディックは軽く首を捻った。
「知り合い……って程じゃないかなあ。同じ基地内の顔見知りってとこだよ」
「そう。まあ、アナタたちが親しいと言うには歳が違い過ぎるわね」
さらりと言う女に、「じゃあ、私はこれで」とソフィアが立ち去ろうとしたとき。
「待って」
呼び止めたナンシーに、振り返ったソフィアとディックは同時に目を剥いた。
その手には、当然のようにキンバー・イージス――キンバー社製の小型拳銃が握られていた。その銃口は、驚いた顔の少女に向いている。
「お、おい! こんなところでそんなもの振り回すな……!」
慌てつつも強い口調で指摘する武器商に、ナンシーは素知らぬ顔で言った。
「ディック・ローガン、その犬を預かって。お嬢さんは車に乗って」
ソフィアはじっと拳銃を見つめたが、首を振った。
「結構です。歩くのが好きだから」
「私、お誘いやお願いをしてるわけじゃないのよ。乗って」
有無を言わさず命じる口調に、緊張が走るソフィアの前で犬が歯を露出させて唸り声を上げた。その犬の方へと銃口をずらし、ナンシーが言った。
「リードを彼に渡して」
「……」
厳しい表情でソフィアはリードをディックに渡した。物言いたげな犬を見てから、戸惑った顔で受け取る武器商に無言で頷いて、示された後部座席に乗り込んだ。
「か、彼女をどうするつもりなんだ……⁉」
どうにか言葉を発したディックに、拳銃を下ろさぬまま女は言った。
「答える必要はないわ。貴方は予定地を教えなさい」
「……こんなことをして、タダで済むと思ってねえよな? BGMの流儀を知らんとは言わせねえぞ」
「アナタ達は、世界のルールを支配しているつもり? 拳銃一つで揺らぐものなのに、偉そうに言わないで」
つんと反らした顎で促されるのに、ディックはぐっと押し黙り、運転席のカーナビに映る場所を指し示した。それを見るや、ナンシーは後部座席に乗り込み、車はソフィアを乗せたまま、基地内へと滑って行った。
「……」
ディックの話を厳めしい顔で聞いていたハルトは、重い溜息を吐いた。
「ご、ごめんよ、ハル……俺が……」
「黙ってろ、筋肉ブタ野郎。お前を責めたって仕方ない」
辛辣な返答に泣きそうな顔になる武器商に、マックスの顎を撫でていた未春がぽんと肩を叩く。
「ディック、ハルちゃんは怒ってないよ」
「おい、未春……甘やかすな」
「いま自分で『責めたって仕方ない』って言ったじゃない」
「お前だんだん、あの人に似てきたな……」
しれっとしている顔を嫌そうに眺め、ハルトは軽く息を吐いてから途方に暮れた様子の男を振り返った。
「奴はタチバナさんのお陰で、借り物の顔を晒しやがったんだな。スパイシー・ナンシーを真似たのは、スターゲイジーを嵌める気だったんだろう」
「だ、だよな……でも、スターゲイジーは出てったきり、居ないぜ?」
その問いに答えるように、ゲートからすうっとやって来た一台の車が居た。未春が「あ」と呟く。ハルトも見たことがある車だった。
「急に呼び出してすみません」
「いや、呼んでもらって正解だった。例の軍人二名と当たった」
事と次第を手短に交換すると、車を降りた紳士がむっつりとストローイエローの顎髭を撫でた。
「俺の素晴らしい直感の所為で、罪なきレディが攫われちまったわけか」
「ええ、スターゲイジーが引っ掛からなかったのが悔しかったんでしょうね。多分、彼女に見抜かれていたのも気付いたんでしょう」
「全く、いつまでもガキで参るぜ……だが、連れていった理由はお前を引っ掛ける為じゃねえだろ」
「十中八九、俺に銃を捨てさせる気だと思います」
「そうとわかった上で、お前が追うのか」
「はい。何か問題が?」
曰くありげに顎を撫でる紳士を見上げると、彼は小さく鼻を鳴らした。
「依存があるわけじゃねえ。だが、ブラックに話は聞いたろ? 『リーフマン』が此処に居るってことは、『オムニス』は此処には来ない。奴は離れた場所で何かする気だ。……お前にとっちゃ、いじけたガキの始末より、奴の方が重要だと思うがな」
「……放置の危険度は、『オムニス』が圧倒的に上です」
頷いたハルトを、未春や優一も静かな視線で見た。
「でも、奴が来ないのなら、追っても無駄です。俺がそうと考慮するところまで計算尽くでしょうけれど、どちらを選んでもリスクが生じる場合は、近い方、又は取りたい方を取る方がいい」
「長年追ってる身内より、無関係の少女を取るか」
「……満更、無関係でもない。俺は彼女の父親を殺しています」
「フフン、俺はお前のそういうとこは好きだぜ。行動には理知が伴わねえとな」
顎から外した手をハルトの肩へと力任せに叩き付け、スターゲイジーは笑った。痛そうに顔をしかめる青年の肩を抱えたまま、紳士はペットシッターと化しているディックに振り向いた。
「ディック、事務所を貸せ。面倒だが、俺は方々に連絡を取らねえと」
「は、はあ……どうぞ」
戸惑うディックから、ハルトがリードを受け取った。白い犬が急に水を得たようにウキウキと尾を振り始め、行こうと言う様に足踏みをした。ハルトはその頭を撫で、優一を振り返った。
「優一さん、すみませんが、スターゲイジーのお
大の男に『お守り』と言ったハルトに優一は苦笑してから頷くと、ぼんやりしていた未春へと振り返った。
「少しはマシになったか?」
問い掛けにやや気まずそうに頷くのを確かめ、レクサスのキーを手渡した。
「どうせ修理費は十条さんが持つが、室月は気に入っている。大破しない程度にしてやってくれ」
「はい」
大人しくキーを受け取り、未春は頷いた。
――少しはわだかまりが溶けたのだろうか。それとも、先日の優里が指示した荒療治が効いているのか、以前のような剣呑さは感じない。何やら子供の成長でも見守る心地になっていると、また別の車が入ってきた。今度はタクシーだ。こちらに緩やかに曲がって来たそれから降りた長躯はピオ・ルッツだった。運転手がトランクから取り出したスーツケースを転がしながら片手を上げた。
「悪いな、休暇中に呼び出して」
犬を連れているハルトの呼びかけに、ピオは不思議そうにしながら微笑んだ。
「いいさ。君の役に立っておくのは良い経験だ」
「そうかよ。俺は助かるが、
殺し屋の役に立つということは、進んで荒波に飛び込むも同然だ。ハルトの苦笑いに、ピオも同じような笑みを浮かべた。
「誰の手伝いでもできるわけじゃない。僕らには僕らのプライドがあるからね。認めた相手だけに限らせてもらうよ」
「そう言われちゃ怪我させるわけにいかないな……急に出来るもんなのか?」
「知らない相手じゃない。任せてくれ」
頼もしい返事に頷くと、片手に冷たいものがツンと当たった。
白い犬が鼻面を押し付けて尾を振る。早く行こうと言うような黒い目に、殺し屋は頷いた。
ハルトらが出て行った直後のこと。
DOUBLE・CROSSの店内では、数名の客が不安げな面差しでガラス越しの外を見たり、各々の端末で情報を探したりしていた。
ひっきりなしに通過するパトカーや消防車の所為だが、東京郊外のことなど、そう安易に発信されることもなく、真相不明の呟きやTAKEなどのSNS情報ぐらいしか見当たらない。勢いよく車が走るのが日常茶飯事だけに、一車が高速で駆け抜けようが、大型トラックが無茶な運転をしようが、気にしない人間も多いのだが――まさか、海外映画並のカーチェイスが行われていたなどと思う人間は居ない。
「なんか騒々しいねえ」
呑気にコーヒーを傾けながら言うのは、
「ハルちゃんたち……大丈夫でしょうか?」
心配そうに身をすぼめるのは
「あの二人は平気だよ。ミサイルが落っこちてもピンピンしてそうだもん」
「トオルちゃん……あれでも二人は人間よ」
さららの冷静なツッコミに十は頭を掻いてから、果林に向き直った。
「それより、さっきの話……どうかな、果林さん?」
「あ、はい……良い話ですけど……本当に大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫じゃないことは勧めないから安心して」
にっこり笑い掛けられたが、果林とて事業が関われば冷静だ。思案顔で口元を押さえると、嘘を探る様な目で十を仰いだ。
「十さんのことは、信頼してるんです。でも、
「鷲尾くんのことは、僕より果林さんの方が知ってるものね」
否定も非難もせずに微笑む十に、むしろ果林は狼狽えた様子で首を振った。
「私は……そんなことないです。あいつのしんどい気持ちはわかってるのに……付き合いきれなかったんです。似た者同士だから嫌だったっていうか……自分の嫌なとこ見せられてる気がして、縁切っちゃったというか……」
「わかるよ。果林さんはそれで良かったんじゃないかな。だから今、彼を助けられるんだと僕は思うよ」
「十さん……――そうですね。噛んだり吠えたりしちゃうワンちゃんだって送り出してきたんだもの……私ぐらいじゃなくちゃ、あんな猛犬ムリですよね!」
どうやら鷲尾は人慣れが難しい犬と同一視された様だが、十はにっこり頷いた。
「良かったー。いやいや、意外と彼らには動物と触れ合うの、合ってると思うんだよ。ハルちゃんの方が手が掛かったんじゃないかなって思うんだけど」
「ハルちゃん?」
口元に手をやった果林が首を捻る。
「ハルちゃんは……意外と扱いに慣れてましたよ。ワンちゃんも、猫ちゃんも」
「え、そうなんだ。飼ったこと無いって聞いたけど」
猫と関わった過去があるのは知っているが、それもたかが数日の出来事であり、献身的に世話をしたのは別の人間だ。アメリカではセントラル・パークなどの公園に散歩やジョギング目的で通っていたというから犬と無縁ではあるまいが、せいぜい、触ったことがある程度の筈だが。
「ええ……私もそう聞きました。だから触れ合い方は一通り教えたんですけど、接し方は知っていたみたいなんですよね。なんていうのかな、ウチのスタッフが、飼い主と愛犬っていうより、トレーナーと訓練された犬みたいだって」
「へー……よっぽど慣れた人間っぽいんだ。なるほどね」
「そうなんです。だから、慣れにくくて吼えちゃったりするワンちゃんも、ハルちゃんの言う事は概ね大人しく聞くんですよ。もちろん、ハルちゃんは怒ったり乱暴な事はしないから、怯えてる感じではなくて――頼れるボスが来た……みたいな感じかな? マックスみたいに、喜んで近付いていく子も居ますから」
「ハルちゃんは犬にもモテモテなのね」
さららが可笑しそうに笑うと、果林も微笑んだ。
「そう思います。あ、そうそう……マックスに英語のサインを教えてもらった時、なんか珍しいの教えてたんですよね。ガードとか、何だっけ……トラ……とか、バイ……何とか?」
果林がそこまでぼやいたとき、十は笑顔で聞いていたが――不意に外へと目を向けた。
「おっと……こっちに来ちゃったか」
彼がそう呟く頃には、さららも同じ方へ厳しい目を向けた。まだ何もわからない果林がきょとんとする中、十が立ち上がり、さららはカウンターを回って来た。
二人の耳には、店内に流れるジャズや他愛ないお喋りとは別に、独特の轟音が聴こえていた。
「トオルちゃん……」
「うん、大丈夫。僕のお客さんだと思う」
「え……それならトオルちゃん、早く出て行って。お客さんの迷惑になるわ」
あっさり寒空の下へと促すさららに、十はちょっぴり悲し気な顔をした。
「……さらちゃん、あの二人から悪い影響受けてない?」
「どちらかというと、違う人かも」
後ろ手に肩をすくめたさららが苦笑すると、得心がいった十も苦笑いを浮かべた。
「なーんだ、そっちかあ……」
「ごめんね。トオルちゃんの悪口なら、気負わずに盛り上がれちゃうの」
「うーん、怒るに怒れない。若者の未来の為に犠牲になるなら悪くないか……」
ぶつぶつ言う十が引き戸を開けて外に出る頃、計ったようなタイミングで神経質な音を響かせる数台のバイクが店先に殺到した。国道の音を考慮したガラス戸だけに、そこまでの轟音ではなかったが、状況が状況だ。果林はもちろん、店内の客もびっくりしたが、さららが落ち着いた声で声を掛けた。
「お騒がせしてすみません。お気になさらずごゆっくりなさって下さい。お帰りの際は別の出口もご案内できますからご安心を」
オーナー仕込みのおっとり声に、店内はすぐに静かになった。当事者らしき十が落ち着き払うどころかへらへら笑っているからかもしれない。不思議と、今すぐ帰ろうとする客はおらず、むしろ騒ぎを撮影しようとスマートフォンを向ける者や、巻き込まれるのを避けるように自分たちの話に戻って行く者も居た。
「さ、さららさん……あれって……鷲尾のとこの?」
一人、危険を察知した果林が声を潜めるが、さららはカウンターへ戻りながら首を傾げた。
「さあ。その鷲尾さんて、来ています?」
「え、えーと……居ない……みたいですけど……」
「それなら果林さんに任せるのとは別のグループじゃないかしら。トオルちゃんの用なんて放っておきましょ。おかわりはいかが?」
唖然として視線を泳がせる女に、全く動じないさららはにっこりと微笑みかけた。
その頃、ベースサイドストリートの狭い道には数台のバイクとそれらが奏でる騒音で溢れ返っていた。国道に比べて人通りの多い道ではないにしろ、通りかかった自転車が慌てて方向転換していく。
「これこれ君たち、歩道に乗り上げたら迷惑でしょ。下がって下がって」
親戚のおじさんみたいな調子で言う十に、男たちは明らかに反抗的な目つきをした。
「十条……!」
先頭の男がバイクに跨ったまま睨んだ。
「鷲尾から聞いた……アンタ、うちを潰す気らしいな……⁉」
「ハハハ、潰すなんてとーんでもない」
両手を軽く挙げて十はにこやかに言った。
「とぼけんじゃねえよ‼」
怒鳴りつける男に、十のにんまりした笑顔はいっかな揺るがない。
「誤解だよ。僕はさ、鷲尾くんに
「ふざけやがって……! 俺たちのやり方にケチつけんじゃねえよ‼」
「やり方ね――」
やかましい音の中、何故か凛と通る声だった。
「それは、例えば”こういう”こと? 大勢でうるさいマフラー付けたバイク乗り回して、大きい音とか派手な格好で威嚇して、それでダメなら拳銃を持ち出して、欲しいものを奪い取るってことかい?」
「だったら何だって? あんただって、暴力を使うだろうが!」
「フフフ……そうだね。自分を棚に上げるつもりはないよ。ただねえ……君たちと僕じゃあ、目的も、使いどころも違うんだよね。――君たち、”世界の為に”力を使ったことはある?」
「は……?」
思いもよらない問い掛けに、アウトロー共は狂人でも見る目で十を見た。彼は穏やかに微笑み、首を振った。
「その様子だと無さそうだね。……さて、僕もそれほど暇じゃない。君たちは鷲尾くんに付いていく気は無いってコトでいいかい?」
「当り前だ! あんな腰抜け、あんたが済んだら俺たちが――……」
「オッケーオッケー、それじゃ、
指を輪にして言う男に、一瞬、心動かされたような顔をした奴も居たが、幻でも振り払う様に首を振ったり、睨みを利かせてやり過ごす。
「行かねえよ……あんたに下った小牧なんて冗談じゃねえ……!」
一人が言うと、そうだそうだと頷く。
「うーん、なるほど。つまり君たちは、此処で僕を叩きのめして、鷲尾くんも叩いて、それで日本の裏社会の実権を握れると思ってるってこと?」
十が思案顔で言った言葉に、三、四人がサッと青くなった。一方、多くはその言葉の重みに気付かない。彼らを率いて来たらしい中央の男に至っては、威猛々しい様子で頷いてしまった。
「あんたも、家族や自分の店は可愛いだろ? あそこの女や、娘が大事なら――」
今、この場にハルトが居たらむしろ止めたかもしれない。絶対に言ってはならない一言を容易に吐いてしまった男に、十の笑顔が向いた。
――否、”笑顔に見せかけた”クレイジー・ボーイのそれだ。
「ンー……君たち、なんか勘違いしてない?」
「勘違いだと……?」
「僕が悪党だって、ちゃんとわかってる?」
そっと、正面の男のバイク――ライトの辺りに、十は手を乗せた。
「僕は、君たちが知る……どの悪党とも、違うんだよ?」
ぎ、ぎ、ぎ、と音がした。車の走行音やエンジン音に紛れて、嫌な音が響く。
――なんだ?
わずかに下げた視線の先――十が掴んでいるバイクのライトに目を剥いた。ぎ、ぎ、ぎ、と音を立てていたそれに、拳などでは入る筈のないヒビが入る。
「僕は、君たちを攻撃せずに注意する警察とも、違うんだよ?」
ぐぎっ、とひときわ嫌な音がしたと思った刹那、ライトはぐしゃりと破砕した。無傷の長い指の下から、ばらばらになった金属片とプラスチック片が路面に落ちるのを、信じ難い物を見る目が追う。
「な、何を……!」
「ごめんね、壊しちゃって。でも、君たちのしょうもない”おつむ”でも理解できたろ? 僕は”こういうもの”なのさ。バケモノとか、モンスター扱いする人が居るけどね、一応、人間だよ」
言いながら、十はひょいと屈みこみ、砕け散った金属片を拾い上げた。
「ただし、君たちとは”違うもの”だ」
その手が、軽いスナップで振られた途端、バンッと何かが弾ける音がした。何かと思う隙も無い――大きな風船でも割る様な音は連続し、歩道に乗り上げていたバイクが次々とタイヤをバーストさせて傾いた。更にもう一つ、破片が十の手の中でちゃり、と鳴ったのも束の間、他のバイクも他愛ない音を立てて潰されていく。
急に気落ちしたようによろめくバイクに、男たちは驚きか怒りか、声も出ずに支える他ない。
「う……訴えてやる……!」
ようやく誰かが言った一言に、十は呑気な笑顔だ。
「ハハ、それはやめた方がいいんじゃないかなあ……僕が”どうやって”バイクを潰したのか、理解不能だろうから。それより、君たちが此処でどや騒ぎしたことは、写真にも撮られているし、証言できる目撃者もいっぱい居る。きっと、過去の事例も調べられちゃうよねえ……正規の場で、僕に勝つのは厳しいと思うよ」
歯噛みする悪党に、悪党がご丁寧な忠告をした時――中央に居た男がポケットに手を突っ込んだが、それを取り出すよりも早く、十がふと上げた視線の先からバイクが一機――流れるようにやって来て路肩に停まった。
ヘルメットを脱ぐ前から、男たちは「あっ」と声を上げ、十は「おや」と呟いた。
「Hi……Mr. 十条」
排ガスと冷風の中、金髪を晒した女はつんと顎を反らせて言った。
「いやあ、どうも。警部はもう飽きちゃいましたか、ナンシーさん」
女はきつく眉を寄せ、舌打ちしそうな顔をした。バイクをもたついた様子で支える男どもをうんざり顔で眺め、只中でニヤニヤしている男を睨む。
「スターゲイジーはどこ?」
十はお辞儀と共に道路を挟んだ基地を示した。今度こそ、女は舌打ちした。
「ブラックは?」
「さあ、彼はどの辺りかな? そう遠くはないと思いますが、派手に事故が起きてるとこですよ、きっと」
「……全部、アナタね。あいつらが動きやすいように糸を引いて、私から遠ざけたのは」
「イギリス紳士たちは、好き勝手してたと思うけどなあ」
肩をすくめて微笑んだ十は、中央でポケットに手を入れたまま固まっている男にひょいと視線を移した。
「えーと、君は確か、
菅谷と呼ばれた男は、冷や汗が垂れそうな顔で硬直した。一歩押されたら転落する崖に立たされているような顔で、尚も十を睨んだ。
「coward……(腰抜け)」
ナンシーは細く白い息をなびかせて呟くと、ヘルメットも被らぬまま突如ハンドルを握り、ぐるりと小回りして来た方へと突っ走った。その行く手を見て、十がわずかに顔色を変えた。向こうから走って来たのは、力也だ。
意図を察した十が声を掛ける暇もない。いや、仮に掛けたところで間に合わなかっただろう――驚いた顔で立ち止まった力也の前に、トライアンフ・ボンネビルT100は素早く滑り込むと、運転手はその首元を片腕で捉えた。
「えっ……ちょ、ナ、ナンシーさん……⁉」
驚きに声をどもらせる力也に、ナンシーは答えない。力也は辺りをきょろきょろと見渡すが、目の合う男たちの視線さえ、状況把握に追い付いていない。唯一、十だけがいつもの笑顔ではなく、溜息を吐く前のハルトのような顔をしていた。
「ナンシーさん、それはどういうアピールかな?」
「この子を助けたければ、私に破片でも何でもぶつければいいわ」
「ご存じだと思うけど、その子は悪党じゃない。一般人だよ。自分の誇りを傷つけるつもりかい?」
「……多くの組織は、内から崩す方がラクなものよ。アナタの手で私が傷ついた場合、あの男がどう思うか――娘の私が期待するのは、自意識過剰かしら?」
「フフ……いーや、貴女の想像は正しい。僕も娘が居るからわかる。傷なんて付けようもんなら絶対に許さない。紳士とケンカする羽目になるだろうね」
「十条十――BGM内でもトップレベルの武闘派と聞いているわ。老いたスパイ如き、物の数ではないでしょう」
「僕とやり合わせて、自分の父親を殺させるつもりですか。嫌だなあ……そういうの。ナンシーさん、僕はね……トップレベルの武闘派以前に、トップレベルの家族愛の持主なんです。そこの彼も含めてね」
未だに状況が呑み込めないらしい力也を指差す十に、ナンシーはまなじり割いて吠えた。
「悪党が家族愛ですって? 笑わせないで!」
「そんなこと言わないで。貴女のお父さんも、貴女のことをとっても愛してる。その気持ちを利用して殺し合わせようなんて考える方が、よっぽど悪党じゃない?」
「うるさいうるさいうるさいッ!」
女が髪振り乱して怒ったとき、十が何か言おうとし、力也はその背後で動いた者にハッとした。
「十条サン、危な……‼」
「十条ォォッ‼」
殆ど同時に響いた声の直後、タイヤがバーストするよりも甲高い音が響いた。
赤いランプは別の場所でも回転していた。音こそ控えていたものの、パトカー数台がひしめく中で赤い光がめまぐるしく動いている。
「ど……どうしてこのまま見ているんですか!」
若い警官の指摘に、上官は白い息と共に首を振った。
「上の命令だ……! SATが到着するまでは手を出すなと――……大体、俺たちが“あれ”に手を出せると思うか?」
「し、しかし……」
ダァン!!と銃声がした。反論し掛けた警官も思わず身を縮めて頭を引っ込めた。
音のした方は大きな工場の角地で動かなくなったトラックによる、バリケードの反対側だ。反対側に回ったパトカーは行こうと思えば行けるが、道路の真ん中に陣取ったマーチンが待つように警告して居座っているという。
「た、戦っている相手は……民間人では……!?」
どうにか言った言葉に、上官は心底呆れた顔をした。
「そんなわけあるか! さっきの男相手に一人で戦うような人間が、只の民間人に見えるのか!?」
今度こそ若手が息を呑んだ頃、人間同士というよりは猛獣同士の争いが起きていた。
黒いコートに黒髪の大男と、作業着のような上下に筋肉質の体を納めた男は、殆ど殴り合いになりつつあった。互いにコートや作業着は千切れたり穴の開いた箇所が有り、黒コートはよくわからなかったが、作業着の方は所々が赤く染まっている。
「タフだな」
黒コートを着たブラックが薄笑いで述べた感想に、作業着の欧米人は答えない。だが、喋ると明快に反応する。対象を凝視しているようで、その実何も見えていないようなガラスめいた目玉は平坦だが、剥き出された歯の隙間から涎と白い呼気を垂らして唸り続けている。撃ち尽くしたアサルトライフルを鈍器として握り、斧か棍棒のように振り回す姿は蛮族さながらだ。痛みを感じていないのか、腕を撃たれようが横っ腹を蹴られようが、幾度となく頭を殴られようが一向に怯まない。
さすがに頭部に弾丸を食らえば死ぬだろうが、なかなか素早い為、照準を合わせる間にこちらが攻撃されかねない。懐に誘い込むのも手だが、まだ本命の仕事が残っている――それまでに重症を負うわけにはいかないし、弾丸も限りがある。
思案する中、ふと、ブラックは相手のブツブツ喋る内容に気付いた。
声がガサついている為によくわからなかった言葉は、ある一言を繰り返していた。
「……Hey, monster?」
ブラックが呼び掛けるが、男はやはり答えない。だが、返事の代わりに目の色が不機嫌そうに変化し、攻撃が鋭くなる。……見たところ、まともな思考力は無さそうだ。先程、警官が呼び掛けていた声にも応じる様子はなかった。
声には反応している……いや、むしろ音に鋭敏に思える。一方で、音を立てた者に無差別に襲い掛かるというより、こちらを目標と定めて向かってきている。
では、最初に警官に発砲したのは、まさか……
「メイソン!」
振り向かずに呼び掛けたブラックの顔面に向け、男がアサルトを振りかぶる。マーチンの運転席に待機している同僚は、トイ・プードルが窓から顔を覗かせたような状態で声を張り上げた。
「ど、どうしたのー⁉」
空いた片手で銃身をがっしり受け止め、みしみしと音を立てると相手は一撃を食う前に
「ボスの悲鳴を持っているか!」
「ボスの悲鳴? え――いつの!?」
「何でもいいが――いや、二年前の誕生パーティーのだ!」
お喋りが気に入らないのか、相手が苛立たし気に顔をしかめて軍用ナイフを抜き取り、間合いを計り始める。
こちらに安易な近距離射撃を撃たせるつもりはないらしい。
「誕生パーティー?……あ、ああ――アレか! あるけど……どうするの!?」
「大音量で流せ!」
唸り声と共に向かってきた相手を、ブラックが薄笑いで迎え撃った時だ。
<Arghhhhh―――!!!! What the hell are you guys doing⁉(ギャーーー!!!! お前ら、何てことしやがる‼)>
野太い悲鳴が上がった刹那、男は捻れるようにぐるりとマーチンを振り返った。目の前の強敵を放り出してでも進もうとした、その隙だらけの後頭部に44口径の冷たい銃口はゴツ、と押し当てられている。
重い銃声が響いたとき、男は血を吹く頭から地面に倒れた。
「 Hoorayー!(やったー!) 」
ガッツポーズをしてから手を叩く同僚に、薄笑いを浮かべた男が軽く片手を上げた。
コートを軽く払い、遺体を注意深く見下ろし、絶命していることを確かめると、ほったらかしてマーチンへと戻って来た。
「あいつ、ボスの声に反応したんだね?」
「ああ。ずっと何かブツブツ言っていると思ったが、近付いたらわかった。『BGM』と繰り返していた」
「え、BGM? どういうこと……?」
「奴は思考や目より、耳が敏感だった様に思う」
コートのあちこちを確かめながら、低い声は答えた。
「理由まではわからないが、標的を忘れない様に自分に言い聞かせているような調子だった。最初に警官に発砲したのは、自分の声を掻き消す拡声器の音がうるさかったんだろう。銃声やサイレンの方がよほどうるさいと思うが、トラックを駆ってきていた辺り、機械音は別らしい」
「えー……大事なことを覚えてるときに周りのお喋りは鬱陶しい、ってこと?」
「そんな具合だろうな。そうまでして狙う相手がBGMなら、優先順位が有ると思った」
「そこでTOP13のボスの声ってわけか……君もよく覚えてたね? 誕生パーティーのサプライズ」
「もちろんだ。あの時、ボスのクリスプに混ぜる食用タランチュラを買って来たのは、先生と俺だからな」
「ハハ、懐かしい。発案者のニムはこってり絞られたっけ……いやあ、僕の趣味がこんな風に役立つとはね。感謝したまえよ、ブラック」
ここぞとばかりに胸を張る同僚に、ブラックは肩をすくめて微笑んだ。
「感謝するが、その趣味が高尚と言える理由にはならないぞ」
「そうかなあ。君を助けたって聞いたら、少なくとも社内評価は高まると思うんだけど……――」
呑気に言いながら、同僚は急に後ろから叩かれたように目を瞠った。
「ちょっ……そんなことよりブラック! 君、平然と立ってるけど怪我してるんじゃないの……⁉」
「Well……酷くは無い」
そう言いつつも、歩いて来た路面には点々と血が落ち、コートの袖から覗く片手からは赤い糸が垂れている。
「わわわ、早く病院に行かないと……!」
「メイソン、先にボスに報告だ」
「そ、そりゃするけどさあ……!」
言い掛けた同僚があたふたと端末を持ち上げたとき、拡声器を通した声が響いた。
〈そこの二人! 武器を捨てて投降しなさい!〉
「何か言ってるな」
「投降だって?……あー……これだからウチの常識が通じない国はイヤだよ……!」
クセっ毛を振り回して憤慨する男に対し、ブラックは微笑んだ。
「四分の一は母国だろう。平和でいい」
「もー……君にそう言われたら言い返せないじゃないかー……」
〈聴こえているだろう! 早くしなさい!〉
メイソンはうるさそうに警察の方を見ると、端末を叩きながら言った。
「しょうがない。大人しくして、ありがたくない同郷達に救急車回してもらお……」
「中身は俺が預かろう」
「オッケー、頼んだ」
報告の済んだ端末からデータの詰まったそれを受け取ると、ブラックは迷わず口に入れた。真っ暗になった画面のそれは、ぽいと地面に落としてぐしゃりと踏み潰す。
その拍子にわずかによろめく男に、クセっ毛の男は支えきれぬ様子で手を貸しながら警察の方へ声を張り上げた。
「おーい、投降するから救急車呼んでくれー!ボサッとしないで急いでよー‼」
その頃。
警視庁に戻って来た
「
警視を伝言に使う友人に苦笑しながら一礼すると、田城は辺りを憚る様子もなく付け加えた。
「例の奴はお前を指名してるそうだ。……綿摘が言う通り、傍に待機させた方がいいと思う。どうも気味が悪い」
「わかりました」
「指示しておく。気を付けろよ」
挨拶ほどの軽さで言うと、返事を待たずにそのまま踵を返して庁内に戻って行った。
その背にお辞儀を返し、まっすぐ取調室へと直行した。
オフィスとそう変わらない廊下を渡る中、誰かが付いて来たり、視線を送ってはいまいかと気にしたが、特に目立った動きはなかった。
”奴ら”は、そんなわかりやすい手段は取らないのだろう――仮に取る場合は、先程の田城ほど、簡単に近付いて来る筈。だから、彼も玄関先には普通に顔を出し、回りくどい伝達方法は省いた。
――少し、神経質になり過ぎているのかもしれない。
そう思いながら目的の部屋に辿り着くと、担当した刑事が頭を下げた。
「警部……妙な奴です。証言とは明らかに様相が違うのに、例の『リーフマン』だと言って聞きませんし、何故、貴方を指名しているのかも言いません。ボディチェックはしてありますが……」
相手にしない方がいいかもしれない――そう伝える男に、末永は頷いた。
「気を付ける。……SATが数名待機するが、周囲が慌てない様に頼む」
男がやや緊張気味に頷くと、末永は扉を開けた。
机と椅子だけの素っ気ない空間には、書記官と、見張る様に立っていた警官、そしてこちらを向いて一人の男が座っていた。よほど怪しまれたのか、何者かも不明なのに手錠を付けられている――にも関わらず、男はうっすら笑みを浮かべている。
立っていた警官が末永に目礼し、ドアの脇に背を預けた。書記官も、末永と視線を交わして小さく頷いた。
男の前に座ると、相手は待ち侘びた様子で微笑んだ。
「お待ちしていました。はじめまして、ミスター・末永」
末永は瞠目した。『リーフマン』と名乗って出頭した青年はどう見ても葉月力也には似ていない。それどころか日本人ですらない。欧米人――金髪碧眼の穏やかな印象の男だった。しかも、その口から出たのは、滑らかな“日本語”だった。
「お呼び立てしてすみません」
顔を見なければ日本人としか思えない口調で頭を垂れる青年に、冷静な警部も思わず言った。
「……随分、日本語がご堪能ですね」
「ありがとう。友人と話したくて訓練しましたが、まだまだです。貴国の言葉はとても難しい」
恥ずかしそうに答えた青年に、末永は何か既視感のある薄気味悪さを感じながら、机を挟んだ真向かいに腰かけた。
「……ところで、貴方はどなたですか?」
「フレディ・ダンヒルと申します」
柔和な笑みで青年は名乗った。
「それはつまり……『リーフマン』とは別称という意味ですか?」
「ええ、それは間違いないことです。しかし、警部、僕が何者かは、今はそれほど問題ではありません」
妙なことを世界の真理のように口走る青年を、末永はじっと見つめた。
出頭してきた際、落ち着いている人間はわりと多い。しかし、この青年は全く異質だ。少なくとも、これは出頭ではない。此処は青年の自宅で、こちらがお茶に招かれているような振る舞いだ。
「私に何の御用ですか」
硬い声音で訊ねた警部に、フレディは微笑んだ。
「僕と取引しませんか、ミスター・末永」
「……取引?」
「BGMを逮捕する為に」
それ自体が悪事であるかのように、告げた唇の口角が持ち上がる。末永は微かに背後の警官と書記官を気にしたが、既に散々な狂言を吐いている為か、警官は眉を寄せたのみで、書記官は素知らぬ顔でパソコンに向いている。
――或いは、二人とも奴らの関係者か。
「失礼ですが……ご自身が何をしに此処に来たかお分かりですか?」
青年は実に朗らかそうに微笑んだ。
「出頭です」
「申し上げにくいのですが、出頭は罪を認めて来ることです。貴方が本当に『リーフマン』なら、取引などという話ではなく、起こした事件の経緯と動機をご説明頂きたい」
「僕にそれを訊ねるのは無意味ですよ、警部。僕は『リーフマン』以外の事件経緯も日時、場所、被害者含めて“真実”を把握しています。それを述べたからといって、僕が『リーフマン』である証拠にはなりません」
「……よくわかりませんね、貴方は私に会うために此処にいらしたようですが……」
「ええ、そうです」
にこりと頷いた。
「貴方はBGMという組織を潰す為に、とても有用な御方です」
「そう仰有る貴方は並の人物には見えませんが、BGMでは無いのですね」
「違います。僕は彼らと関係は有りますが、手下でも協力者でもない。彼らが在ることは世界の為にならないと思うだけです」
「内部告発のようなものでしょうか?」
「少し違いますが、それでわかりやすいのでしたら、そう解釈して下さって構いませんよ」
末永は少しだけ青年をじっと見つめた。その最中、震えた端末を取り出し、失礼、と呟いて軽くタップしてすぐにしまった。
「ミスター・ダンヒル……私には貴方が此処に居る理由が今一つ理解できませんが、貴方が仰るBGMというものを、どのように逮捕なさるおつもりですか」
「
自らの胸に手を宛がい、青年は笑った。
――野々ハルト? 十条ではないのか……?
胡乱げにした末永をよそに、青年はどこか恍惚とした様子で言った。
「ハルをご存知ですね?」
「……存じていますが、犯罪者としてではありません。一市民として把握しています」
「そうですか。でも、絶好の場を整えれば、彼は必ず僕を殺そうとするでしょう……貴方はこの機会に、彼を逮捕すればいい。彼を動かすと、BGMも揺れ動く。彼は一見、それと見えない、とても重要なピースですから」
――普通に見える、稀有な者。
力也と話した際の感想を思い出しつつ、末永は首を振った。
「折角ですが、私は民間人の命に関わる捜査は行いません」
「僕が民間人ですか」
青年は薄ら笑いを浮かべた。
「貴方は警察官に相応しすぎる人ですね。ご心配なく。僕は場を用意するだけですし、仮に殺されたとしても相手が彼なら本望です。ハルは僕と会うなら、必ず拳銃を所持しているはず。日本は非登録のものを所持しているだけで罪になるんでしょう?」
「確かに、銃刀法ではそうなります。しかし、彼が所持していると、何故あなたはわかるのですか?」
青年は答えずに微笑んだ。
何かを覆い隠す十条の笑みに似ているが、この青年はもっと何か――得体の知れないもの……覗いてはいけない何かを隠している気がした。
「こんなことを申し上げるのは不適切かと存じますが、貴方が仰った法の抑止力により、日本で殺人を犯そうとした場合に銃殺を選ぶ人間はそう居ません」
「でも、銃犯罪はゼロではありませんよね」
「……その通りです。暴力団による密輸や、猟銃による事件、自作するパターンも過去に有りますが、あくまで一部の話です。何故、彼が銃を所持していると思うのか、根拠をお聞かせ下さい」
「フフ……真面目というのは、時に融通の効かないものですね」
この青年が喋ると、冷たい雰囲気の取調室は静かな高原のようだ。澄み切った湖水と木立に鳥の囀ずりを聴くように、青年はおっとりと天井の隅を眺める。
「彼が拳銃を所持するのは当然です。世界でも十本、いえ――五本の指に入るガンマンですから。勿論、その殺人は全て秘密裏、或いは揉み消されていますから、彼がやったという記録は一切残っていませんが……真実は変えられません」
「貴重な証言ですが、我々にとって、証拠は必須です」
同じ静けさを以て、末永は言った。
「改めて問いますが、貴方は東部鷲尾連合会の三人と、ナンシー・アダムズさんへの暴行を起こした『リーフマン』ですか?」
「イイエ、違います」
あっさり認めた男の前から、末永はすっと立ち上がった。
「それなら、この出頭は無意味です。他に犯罪への関与があるなら伺いますが」
「日本では”まだ”ありませんね。せいぜい、犯罪幇助でしょうか」
含みのある回答だが、末永は頷いた。
「……では、こちらで海外でのご活動を調べさせて頂きます。少々お待ち頂いて、問題がなければお引取り頂きましょう」
「ミスター・末永――裏社会の更に背後に在る組織を、暴きたいとは思わないのですか?」
「そんなものが存在するのなら、逮捕できるに越したことはありません」
はっきり言い放ち、末永は首を振った。
「ですが、疑わしきは罰せられない。それが罷り通った歴史を繰り返さぬよう務め、目の前の悪を捕らえるのが、我々に課せられた役目です」
「正しさは不自由を強いられるのですね」
同情するような目で言うと、フレディはのんびりと首を傾げた。
「ところで警部、此処は随分、警備が手薄な感じがしますね。僕なら容易に制圧できてしまいます。ゆっくり、じっくりと、イージーに」
刹那、妙な声が響いた。弾かれたように振り向いた末永が見たのは、書記官が開いたパソコンに向けて自らの頭を振り下ろす姿だ。声を掛ける間もなくガシャガシャガシャガシャガシャガシャ!!と壊れた機械人形のように打ち付ける動作を繰り返すと、すぐに机に伏して痙攣した。
息を呑んだ末永が駆け寄るが、血まみれの顔の中で既に眼球は裏返っている。
「お気の毒に」
おっとりした溜息が吐かれる中、いま一人の警官が詰め寄った。
「おい……何をした……⁉」
胸倉掴んだとき、フレディがにこりと笑う。
「大丈夫。貴方も解放されますよ」
妙な一言が囁かれた。やめろ、と末永が言うよりも早い。
くぐもった嫌な音がした。ぼた、ぼた、と机に血が落ちる。小刻みに震えた警官ががくりとバランスを崩し、口からどっと血を溢れさせる。
殆ど飛び掛かるように支えた末永が、その口の中――自ら噛んだ舌へと己のハンカチを押し込み、足りないとみて外したネクタイも詰めるのを、フレディの柔い笑顔が見守る。その両手は手錠をはめたまま、何かした様子は無い。
「彼らはBGMのスパイです。日本語だと……手下というのも正しいのかな? この国の正義を裏切る罪の呵責に耐え兼ねたのでしょう」
末永はそれには答えず、血濡れた手で同僚の傷を圧迫したまま、もう片手で端末を操作した。フレディは微動だにせず、その様子をゆったり眺める。
「BGMは概ね、警部の正義に近い思想を持っています。例えばお亡くなりの彼は、先日、横領の罪で逮捕された警察官を内部告発しています。その前は飲酒運転者、その前は婦女暴行者。今、貴方が救おうとなさっている彼もBGMに従い、罪を免れようとした犯罪者を殺し屋に差し出しています」
「……」
殺し屋の件は定かではない。だが、警察内部に不祥事が有ったのは本当のことだ。
横領した男はギャンブル中毒者、飲酒運転は同僚の常習犯とで口裏を合わせ、暴行された被害者女性の訴えは一度は揉み消された。
――彼らは、誤りを正したのか? 正義を裏切った者を、悪の力で。
「貴方がやったんですか」
視線を同僚に置いたまま、末永は言った。フレディはそれには答えず、ドアの方を向いた。
「おや、武力を用意していましたか。ふむ……そういうところも貴方は彼らに近い。僕とどちらを選ぶか、聞くまでも無かった気がします」
その言葉が終わらぬ内に、ドアは勢いよく開いた。
黒いコンバットスーツに身を包んだ数名が銃を掲げている。警察内でも極めて危険な事例に駆り出される彼らも、目に飛び込んだ光景には動揺したらしい。
「警部……! 血が――」
「私は無傷だ。彼を頼む」
意図を察した一人が素早く警官を引きずり出し、外はにわかに騒がしくなり始めた。
「なぜ、こんなことを……」
幾分、青ざめた顔で末永は問うた。
「僕を知って頂くため。僕は日本の正義を知るため。僕にとって、知ることは全て。生きる上での呼吸であり、喜びでもあるのです」
「……話になりませんね。一体、どうやって――……」
「警部、それは些末なことですよ」
穏やかな声が、幾らも変わらぬ様子で指摘する。
「その仕組みがわかったところで、あなた方に理解はできないし、使用することもできません。ご心配なさらずとも、今日はこれで失礼します」
「そんなことが出来るとお思いですか」
「できますよ。この場で貴方が彼らに引き金を引かせれば、少し変わった未来が有りますが、貴方は”丸腰の犯人は殺せない”。よく、理解できました。僕は今日、日本が抱く、醜くも美しい正義を見せて頂いた。有意義でした。警部、感謝します」
「……フレディ・ダンヒル、警官二名への暴行の疑いで現行犯逮捕する」
充分な注意を促す末永に従い、SATが取り囲むように腕を捉え、男を連れ出す。フレディは大人しく従った。何か起きる気配はない。
「警部、貴方はもう”知った”一人です。よく見ていて下さい」
フレディは、歌うように言った。
「”その時”、貴方が力に頼るのか。僕はとても興味が有ります」
そっと言い捨てて連れられる男を、末永は見つめた。
言いようのない不快感と憤りを、どうにか抑えて、血に濡れた拳を握りしめた。
SATと入れ違うように入って来た救急隊に、怪我が無い事を告げ、わけもわからぬまま死んだ仲間に手を合わせると、すぐに後を追った。
何が起きるかはわからない。
だが、この狂った事態が只で済まないことは、間違いない。
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