12.Chase game.

 白い施設の外には、雪が降っていた。

降雪すると、ろくなことがない。積雪したら、もっと最悪だ。

間違いなく午後が外訓練になるのを予想した少年は憂鬱だった。

憂鬱というものは、どうしてか別の憂鬱も引き寄せる。昼食を取り終わり、思い思いの時間を過ごす頃、中庭に面したテラスには、金属片かプラスチック片が触れ合う奇妙な音が響いていた。

「ねえ、ハル。お願い。次の時間、僕と組んでよ」

向かいの席からおっとりと話し掛けた金髪の少年を、雪を見るよりも嫌そうな視線が仰いだ。その前には、バラバラになった黒いパーツが積まれていた。その乱雑な山を掻き分けてひとつ摘まみ、嫌そうな顔をした黒髪の少年は手元のパーツにかちりと嵌めた。ちょうど、子供が組み立てブロックかパズルで遊ぶように、何気なく山から取り上げては嵌めていく。程なくして、少年の手にベレッタと呼ばれる銃が出来上がるまで、向かいの少年は穏やかな笑みで見守った。

「寒いのは苦手でしょう? 僕と組めば楽だよ、きっと」

「なんで俺と組みたいんだ?」

無視し続けるのもだるくなった黒髪の少年が、別のパーツを取り上げながら言った。

「知ってるくせに」

色白に蜂蜜のような金髪と碧眼の少年は、清楚と言ってもいいぐらいの笑みを浮かべた。

「知るか」

黒髪の少年は辛辣に吐き捨て、じゃらじゃらとパーツを探って取り上げる。

「ウソ。君は知っているから、別の理由が欲しいんだろう?」

「知らねえよ」

駄々っ子を眺める慈母のような笑みで、金髪の少年は首を振った。

「じゃあ覚えて。僕はハルが一番好きだから、一緒に居たいだけだよ」

カチ、と嵌めたパーツを見つめていた目がぎろりと睨んだ。

「だったら余所を当たってくれ。俺はお前が一番嫌いだ」

「好意を寄せる相手に随分冷たいじゃないか」

「悪いが、俺は嫌いな奴にも優しい聖人じゃない」

「僕だって傷付くんだよ、ハル」

「フレディ……好かれる気が有るんなら、今すぐ消えてくれ。俺は優秀な誰かと違って暇じゃないんだ」

言いながらも作業を進めていく手の中に、今度は別の拳銃が出来ていた。

すぐに新たなパーツを取り、次々に嵌めていく。手際は良く、一度も設計図らしきものに目を通さない技術は神業だ。しかし、この作業は学生で言うところの補習、或いは追試だった。

「別にタイムを競うわけじゃないんだから、手伝おうか?」

問い掛けに、先ほどよりもきつい視線が投げ掛けられた。

「やめろ。あっちに行け」

にべもない言葉に、金髪の少年は怯んだ様子もなく微笑んだ。

「行くから、僕と組んで」

「しつこい奴だな……」

少年はその年齢にしては重すぎる溜息を吐いて頷いた。

「組んでもいいが、ジョゼフや他の連中にぐちゃぐちゃ言われるのは――……」

「嬉しい!」

プロポーズを受けた女みたいに立ち上がると、金髪の少年は頬を上気させて身を乗り出した。弾みでガラガラと崩れるパーツの山に、黒髪の少年が開いた口で何か言い掛けたが、すかさずその冷たい手を冷たい両手が包む。

「約束だよ、ハル。――安心して。僕は何でも上手くやるさ」

「……そうだろうな」

机の上に散らばったパーツを眺めながら、黒髪の少年は憂鬱そうに言った。すぐに離れようとしない手を面倒臭げにひっぺがし、動物でも追い払うように片手を振った。

「わかったから、俺の気が変わらない内にとっとと消えろ」

邪険な対応に、金髪の少年はにっこり笑って席を離れた。

「そういえば、ハル――寒いのが苦手なのに、どうしてテラスに居るの?」

「お前も寒いのは嫌がるだろうが」

「そうだね、君と一緒だ」

「早く消えろ」

ぎろりと睨むと、金髪の少年は喜色満面に椅子を戻し、見張るような視線をチラチラ見ながら立ち去った。その姿が完全に廊下の向こうに消えると、黒髪の少年は重い溜息をこぼし、改めてカチリ、カチリ、とパーツを嵌め始めた。

外は雪が降り続けている。目前の二重ガラスには水滴が付着し、鉄製のパーツは既に氷のように冷たい。

こんなものを雪中で握る午後を思うと憂鬱だった。手袋が有っても、冷たいものは冷たいし、寒いものは寒い。

雪の中、殺し合いをするのは楽じゃない……




 DOUBLE・CROSSの店内で、遠くの音に顔を上げた未春みはるの手から、空のカップがするりと抜け落ちた。それは床に吸い込まれるように落下したが、達する前に大きな手のひらが受け止めた。

「おっとっと、セーフ~~……」

とおるだ。

椅子に座った状態の無理な姿勢から見事なキャッチをしてのけた叔父に、未春はぼうっとした顔で目礼した。

「……すみません」

「未春ったら、わかりやすいんだから」

カップを差し出す笑顔を、未春は無表情なアンバーの目でじっと見つめた。

「聞きましたか」

「うん」

「知っていましたか」

「何となく」

「そうですか……」

それならいいんです、とカップを受け取り、未春は強張った顔のまま頷いた。

「リッキーの件なら、心配しなくていいよ。おいちゃんは、お前が黙ってたことを喜んでるから」

「……そうすか」

頷いたが、未春の顔は青い。十が訝し気な顔をし、さららが不安げに声を掛けた。

「未春、どうかしたの?」

未春はどこか困惑した様子で首を振った。年始に見た、何かに怯える顔に似ている。

「……大丈夫です」

「具合が悪いなら、貴方も休んできていいのよ?」

無言で首を振るのを、果林も心配そうな目で見ていると、二階の扉が開いた。

未春の目が、出て来たハルトとブラックを見上げ、目で追った。

「十条さん、相談が有ります」

真っ先に十に話しかけたハルトを視線が追い、その隣の黒い視線を受けて慌てて逸らした。

――今、どうして逸らしたんだろう?

「未春」

低い声にぎくりと顔を上げると、薄い笑みが見下ろしていた。

「ブラック……」

「どうした。顔色が悪い」

「……何でもない……」

何故か、肺腑を覆い尽くすオークモスに、今は安心感より恐怖を感じて狼狽えた。

屈んで覗き込んでくる目から、何故か体が逃れようと後退る。

――……もしかして、俺が怖いのは……

「未春、ブラックも……ちょっと来い」

手招いたハルトの声に、未春は命綱でも掴んだような顔で歩み寄った。

ハルトの話を聞いたらしい十が、顎を撫でながら頷いている。

「なーるほどねえ……」

「ピオが居れば、上手くいくと思うんですが」

「うん、いーんじゃない? スターゲイジーはそっちは好きにしろって言ってたし、アマデウスさんには確認取ってね」

「はい。可能なら、優一さんも呼びたいんですけど」

「僕が居るのに?」

「貴方は此処に居て下さい。できれば、穂積さんと実乃里ちゃんの安全も確保した方がいい。『オムニス』の方は姿を現さないと思いますが、警戒し過ぎるぐらいが丁度いいです」

「ハルちゃんがそう言うなら」

にっこり笑った十が連絡を取り始める間、ハルトがようやくこっちを向いた。

「どうした? 顔色悪いな」

「……平気だから」

かぶりを振る未春は蒼白だが、言葉は頑なだ。ハルトは首を捻り、窺う様子で見ていたが、もう一度片手を振られて頷いた。

「じゃあ、未春――……俺に手を貸してくれ」

「何すんの?」

「ブレンド社と協力して、『リーフマン』を始末する」

未春がちらと傍らのブラックを仰いだ。

「ブラックと?」

「ああ。コイツには奴を特定してもらう必要がある。仕事の前に手伝ってもらう――後は他の社員に情報操作と監視を頼む」

「『オムニス』っていうのは?」

「……遥かにヤバい奴だが、出てこないと思う」

歯切れの悪い返事をする顔を見つめると、ハルトは面倒臭そうに頭を搔いた。

「奴は……何て言うか、他の連中とは違う意味の異常者で……」

「異常者?」

「うむ……」

――僕はハルが一番好きだから、一緒に居たいだけだよ。

懐かしい記憶に歯噛みしながら未春を見ると、彼は微かに眉を寄せた。

「お前とは……違うんだよなあ……」

「?」

「いや、スマン……俺も上手く言えないんだが、えー……奴は同期で一番の天才だが……俺のストーカーみたいな変態というか……」

「は?」

きつめの返事に、何故かたじろいだハルトが目を逸らす。

「……俺にも理解不能なんだ。奴は他の誰もが認める一番だったのに、それほどでもない俺にやたら構いやがって……訓練でも自由時間でも付いて来るし、人の身の回りのもんを勝手に持ち出して自分のと交換するし、使用済みの薬莢だの、オイルで汚れた手袋も拾ってやがったし……」

「ハルちゃん……”みたい”じゃなくてストーカーだよ、それ」

ばっさり言った未春だが、よほど認めたくない事実なのか、ハルトは呻いて額を覆った。妙な挙動の男に、未春が傍らのブラックを見ると、彼も肩を上下させた。

「そんなにハルちゃんのことが好きなら、敵じゃないんじゃない?」

「……それは違う」

思い出したように厳しい目になったハルトの声は鋭い。周囲を憚って少し声を潜める顔は真剣であり――恐ろしいものを見ているようでもあった。

「俺にやられた連中だって、仲良しこよしじゃあなかったが、俺を殺しにこようとはしていない。制御の利かないシリアルキラー化したから、こっちが一方的に始末したんだ。想定の上で――……『リーフマン』は性格上、シリアルキラー化していても捕まらないだけだが、『オムニス』は平常心を保っていると、俺やミスター・アマデウスは見ている」

まあ、突き詰めれば平常心という言葉には語弊がある。こちらもあの施設の出は”全員”シリアルキラー化していると認識している。

それでも尚……『オムニス』だけを別に捉えるのは、彼は平常心でもシリアルキラーと言えるからだ。やっていることだけ見れば殺人鬼だが、他の者には無い意図と、とても特殊な思想の元に動いている。

「だから、『リーフマン』は始末するけど、『オムニス』は放っておくの?」

「そうだ。可能なら、始末したいが……あの施設で――いや、俺が知っている中では一番危険な男だ。そう安易にはいかない。単純な身体能力ならお前や十条さんの方が上かと思うが、あいつはそういう類の人間じゃないんだ」

未春は首を傾げ、二、三瞬いた。

「平常心で、ハルちゃんが好きなら……普通に会いに来るんじゃないの?」

「……わからんが、それも踏まえて、今回は無いと思う……」

理屈屋のハルトにしては曖昧な返事だった。

「お前が言う通り、会いに来るなら堂々と来る……と、思う。今回のように何も言わずに来日した場合、俺に会いに来たんじゃなく……他に目的がある筈だ。オムニスに限っては、無作為に蜂の巣をぶっ叩くのと同じだと思ってくれ」

「不意打ちはできないってこと?」

「Well……まあ、そうだ。奴は説明がつかないところが有る天才で……極端な言い方をすれば、とてつもなく幸運なんだ」

「幸運?」

ますます、非現実的なことを言い始めた男は、ジョークを言う顔ではなかった。

「その話は、当社のデータにも有る」

低い声で応じたのはブラックだ。

「『オムニス』こと、フレディ・ダンヒルは不可解な奇跡で生き延びた事例が数件確認されている」

ハルトは嫌そうな顔で頷いた。

「……奴は施設に来た五歳の段階で、大人に匹敵する頭脳の持ち主で……その所為で好かれた面もあるが、嫌われることの方が多かったそうだ。度々、命を狙われる程度には、奴は憎悪の対象だったらしい。そういう危険な状態が続いて尚、五体満足、おまけに施設での厳しい訓練でも、奴だけはケロッとしてた。それが不可解な奇跡――幸運の持主であり、『全知オムニス』と呼ばれる所以だ」

「優秀なのに、どうして嫌われるの?」

未春の素朴な疑問に、今度はハルトとブラックが顔を見合わせ、似たり寄ったりな視線を泳がせた。

「IQ100のそれなりに賢い大人たちの中に、IQ300の異常に賢い子供が居ると考えろ。この子供は何でも正しいことを言うが、社会的地位が高いわけじゃないし、神でも聖人でもない。モラルはガキだから、相手に失礼かどうかなんて考えないし、気も遣わない。そんなつもりはなくても、何年も努力や苦労を重ねた人間を嘲笑うように何でもすぐに理解でき、間違いは指摘する。奴の前に居ると、自分が使えない脳みそしか持っていない気がしてくるんだ。プライドが高い奴は怒り狂うし、自尊心が低い奴は落ち込んで力を発揮できなくなる。突出した天才は社会の役に立つと思う一方、自分たちの存在を脅かすのなら、居ない方が楽だと思い始めるんだ。地位がある人間は尚更な」

「最初に我慢が切れたのは実母だそうだ」

ブラックがおぞましい言葉をさらりと言った。

「日常の誤りや非効率を示し、耐えかねた母親に二階の階段から突き飛ばされたと記録されていた」

「……それ、俺も本人から聞いたよ。教官か誰かが奴から聞いたデータだろうな。ブレンド社は裏付けもするんだろ?」

「ああ。母本人の証言も有った。この時、彼はわずか三歳だが、落下したのに傷一つなかったそうだ。その上、母に対して、もっと効率的な突き飛ばし方と、此処で自身を殺した場合の隠蔽の難しさ、損失などを指摘したらしい。母親は彼がマグノリア・ハウスに収容されて以降、自由を獲得した気がしたと語っていた」

「なんとなく、わかった気がする」

人の事を言えた生い立ちではないが、この少年の異常性は別格のようだ。このまま大人になったとしたら、周囲が恐れた通りの存在かもしれない。

頷いた未春に、ハルトも溜息混じりに頷いた。

「こんな奴の命を狙うなんて、”その時”以外は避けたい。……あの施設は化物を量産したが、『オムニス』だけは最初からバケモンだった」

「そう、わかった……」

何やら不安そうな顔で頷く未春に、ハルトは眉を寄せた。

「本当に大丈夫か? 言っておいて何だが、奴と当たらない保証はない……嫌なら断っていいんだぞ」

「嫌じゃないよ」

「……未春、前に話した通り、俺の同胞はどいつもイカれてる上に厄介な強さだ。俺が他の連中を相手にしていた時のようにはいかないと思う。お前が居たら心強いが、標的にされる可能性もある……こいつは俺の問題だし、無理強いはしたくない」

「大丈夫。俺は簡単に死なないよ」

その通りだが――……スプリング接種者には謎が多い。驚異的な再生力を有していても、原動力までは解明されていない。特殊な疾患や九割の人間が凶暴化した点も含め、人間である以上、どこかに無理が生じる筈だ。

非科学的な『幸運』よりも、科学的な『薬物』が信じられないのも珍妙な話だが。

「もう聞いたから、ハルちゃんが駄目って言っても付いていくよ」

「……それは、俺がお前の”家族”だからか?」

「……うん、……そう思ってくれてもいい」

「わかった。頼む。無理そうなら言えよ」

頷いた未春から、ブラックの方に視線を移すと、彼はにこりと笑った。

「では、俺は先に行って待機している」

「ああ、頼んだ」

片手を上げるのみのハルトに対し、のこのこと外まで見送りに出た未春は、後ろ手に引き戸を閉めながら言った。

「……ブラック、あのさ……」

店内を気にしつつ、消えそうな声で言う未春に、ブラックは女性にでもするように身を屈めた。

「なんだ?」

「その……あんたの仕事が終わったら、もう一晩、俺に付き合ってくれない? もしかしたら、面倒臭いことを頼むかもしれないけど……」

ブラックは未春を見下ろし、激しい騒音と共に吹く寒風にも柔い笑みを浮かべた。

「ああ、構わない」

二つ返事の男に、何故か緊張気味に未春は頭を下げた。

「……リッキーのこと、代わりに聞きたい?」

「それは別の話だ」

「そっか……ありがと」

「じゃあ、また後で」

ぽん、と優しく頭を叩いて立ち去る黒い背は、広く頼もしい。

その背に、二人――別の人物が重なった。一人は、若い頃の十だ。

そして、もう一人。

「……」

きゅ、と未春は唇を噛んで俯き、歯でも痛むような顔をしていたが、再び引き戸をカラカラと開けた。




 「今、なんて?」

ナンシー・アダムズは端末を耳に当て、突き刺すような声で言った。

〈鷲尾は動かないよ〉

通話相手は木陰であくびでもするように答える。

〈十条が上手く懐柔したようだ。ちょっとブラックがビビらせ過ぎたかなあ?〉

「あんたは丸刈り決定ね」

〈早とちりしないでよ、ナンシー。代表の鷲尾は動かないが、部下は何人か動くさ。ああいうやからはストレス・フリーになった瞬間が一番ハイなんだ〉

「ハイになった連中が、ボスが諦めた相手と、そう上手く争うと思う?」

〈そこは上手く焚き付けてあげるよ。ブラックは女を癒すのも上手いけれど、男を怒らせるのも上手だよ〉

ナンシーは呆れ顔で唸った。

「……とにかく急いで。さっきも言ったけど、あの『リーフマン』が出頭してきてるの。奴は本国で殺人を犯している可能性が高い。確保しないと……」

〈前にも言った気がするけど、そいつには手を出さない方が良いんじゃないかな。せっかく出頭してきたんだし、日本警察に任せなよ〉

相手は口調のわりに真面目そうだった。

「バカ言わないで。障害程度じゃ、すぐに釈放されるかも――」

〈そんなことがわからない程度の悪党だと思うのかい? 詳しく言えないけどさあ、奴はウチのデータ上でも上位ランクの危険人物なんだよ。”何かやる気”で来たに決まってるじゃないか〉

「フン、それなら望むところよ。私は悪党を捕まえる仕事してんだから」

〈ああ、しまった……やぶ蛇だったか。ねえ、ナンシー、真面目な話だ。そいつと戦う気ならお宅の精鋭を連れてこなくちゃ到底ムリだよ。その中にウチのブラックぐらいの男が居ないと話にもならない〉

「……あんた達は、どれだけそいつを知っているの?」

〈ブレンド社は世界の全てに通じる〉

社が掲げるモットーを述べた男は、苦笑したようだった。

〈……と、言いたいところだけど、弊社にも掴めていない情報はある。こいつはその領域の人間だ。君もウチの元社員なんだし、ブレンド社が掴めていない情報って辺りでヤバいと察して欲しいね〉

「そこまで聞いたら尚、凶悪犯は野放しにできない。あんた達だって、自分たちの足元で暴れた悪党を放置していいの?」

〈……フー、君の説得は気が滅入る。あのね、そこら辺もキナ臭いんだ。例の連続殺人はこの男が主犯の可能性は高いけれど、証拠らしい証拠は上がってない。”ブラックが”周辺を調べても、残滓が見つからなかったんだ。当局だって、共犯や協力者の存在も視野に……〉

「……あんたらは、どうする気なの」

〈ボスの指示無くしては情報収集を続けるだけさ。僕らは正義の味方じゃないんだから〉

「この悪党!」

怒鳴って電話を切った女が顔を上げると、末永すえなががこちらに鋭い目を向けていた。

「どうかしましたか、ミズ・アダムズ」

「……何でもないわ。わからずやの知り合いに苦情を言っただけ」

「そうですか。これから葉月さんをご自宅にお送りします。私も一度自宅に戻りますが、貴女は如何なさいますか」

「ホテルに戻って、すぐに例の男の所に行くわ」

間髪入れずに言う女に、末永は硬い表情で言った。

「恐れ入りますが、貴女は取り調べには参加できません」

「……被害にも遭った私を締め出す気?」

「前にも言った通りです。貴女はこの国で、警察として活動する権利はありません。同一犯かどうかを確認して頂けると有難いですが、それ以上はご遠慮ください」

女は眉を逆立て、苛立たし気に髪を搔き上げると、男を睨んだ。

「見込み違いだったわ、警部。もう結構。失礼するわ」

つかつかと前を通り過ぎる女を、男は静かな目で追い、肩をいからせる背に言った。

「ミズ・アダムズ――……此処は日本で、貴女は女性です。今回のことは、事が複雑になり過ぎています。スターゲイジーを狙うのなら、本国ホームに戻られてからが賢明と存じます」

紳士ジェントルマンも行き過ぎると煙たいものよ、ミスター。私は男の指図は受けないと決めてるの」

「指図ではありません。忠告です。私は貴女が仰る通り、煙たがられる人間です。その理由は、紳士故では無い」

喋る毎に、末永の語調は厳しくなった。尤も、顎を反らした女の目も、その生意気な喉笛を食い千切ろうかと云う様にきつい。

「忠告なら、こっちが言いたいぐらいよ。貴方はBGMを知らなすぎるわ」

「そうでしょうね。貴女と話していて、尚そう思いました。私は、彼らと戦うにはあまりに無知です」

嘲笑うように唇を歪めた女に、末永は異様な一言を付け加えた。

「故に、ブレンド社には興味がありますね。依頼をしたいぐらいです」

「……日本警察が……奴らに依頼を……?」

「いいえ、警察としてではなく、個人として。貴女もそうでしょう?」

反射的に端末をしまったポケットに手をやり、ナンシーは微かに後退った。

「……奴らは――……金だけでは動かないわよ。そう安易に協力は得られないわ」

「そうですか。では、裏切者ともいえる貴女に今もチャンネルを解放するのは、社長の娘だからでしょうか?」

女がカッと顔を赤くした。

「違う!……私は、奴らとは――……」

言い掛けたきり黙す女を、末永は静かに見据えて言った。

「どうか無茶はしないで大人しく帰国なさいますよう、お願い致します。私とて、正義を守ろうとする同志を取り締まるのは心が痛みます」

男は丁寧に頭を下げると、力也の待つ部屋へと踵を返して行った。

女はしばし、その背を睨んでいたが、こちらも髪を翻して反対側へと立ち去った。

物静かだが、力強い足音が遠ざかっていく。




 「あーあー……切れちゃったよ、全くもう」

シャッターが閉じたショップの前に停めたマーチンの中で、トイプードルのような髪の男は端末を置いて呻いた。そこへごく当たり前のように後部に乗り込んできた男が、真っ黒な目でミラー越しに笑い掛けた。

「メイソン、ボスは?」

「ん、君のおかげで上手くやった。今、うちのマムの車でこっちに戻って来てる」

「そうか。先日、青山でお見掛けしたが、君のお母さんは変わらないな」

「ブラック……僕のマムまで口説かなくていいんだよ」

車を国道の激流に向けて発進させながら苦笑した運転手に、もはや女を褒めるのがクセになっている男も苦笑いだ。

「スパイシー・ナンシーはどうだ?」

「ああ、ブラック……僕に彼女の相手は荷が重いよ」

うんざり顔で文句を言う男に、ブラックは薄笑いを浮かべて肩を揺らした。

「自信を持て。ボスは俺よりも適任だと言っていた」

「そりゃあ散々煮え湯を飲ませた君よりはマシだろうけど……そっちはどうだい?」

「ハルと未春は乗った。ギムレットも出すそうだ」

「え、凄いね。ギムレットのブランド好きなんだ。サイン貰えないかなあ」

「気持ちはわかるが、先に仕事を済ませよう」

「ハイハイ。ディックのとこに『リーフマン』を誘導すれば良いんだろ? 今、ダッドが他のメンバーと追ってるから上手く囲うように指示するね――」

物見遊山にでも行くような顔の男に、ブラックは頷いたが、ふと――その黒い目が前方にすっと細められた。

「――メイソン、左に切れ!」

鋭い声に、運転手は焦りを露わにしながらもハンドルを切った。刹那、隣の車線から来た大型トラックがガクンと折れるような角度で曲がってきた。マーチンは左の狭い歩道に左タイヤのみで乗り上げ、傾いた状態で素早く走行すると、前方の空いた車間に飛び込んだ。トラックは恐ろしいスピードでマーチンが居た場所――後方から来た車の鼻面をぐしゃりと蹴飛ばし、米軍基地を隔てる壁にぶち当たると、コンクリート壁と車体を強かに破損しつつ停車した。

「Great.(素晴らしい)」

後ろを向いてトラックを確認しながら出た賛辞に、運転手は冷や汗混じりといった調子でプードルめいた髪をぶるると振った。

「何だい、今の? 飲酒運転?」

「平和慣れしてるな、メイソン。運転を代わる。ボスに連絡を取ってくれ」

「うう……最悪だ。僕の恋人を壊さないでよ、ブラック!」

「Oh, この車はレディか。善処する」

軽口と共にコンビニの駐車場に急停車すると、即座に入れ替わる。自身の端末で連絡をとり始めるメイソンを尻目に、ブラックは彼には小さすぎるようにも見えるマーチンを素早く発進させた。

「あ、どうも、ボス。問題発生です」

その声がするや否や、視界に先程のトラックが現れた。片側が無残に潰れているが、勢いは変わらない。他の車を避けたり擦ったりしながら無茶な走行で向かってくる。

先程とは違う車のようにマーチンは急発進すると、青信号に滑り込んだ。既に何処かからサイレンが響く中、物みな蹴散らしそうな音をがなり立て、トラックは追って来た。

「あの違反者は何処のどいつだい?」

電話の合間に言うメイソンに、ブラックは表情だけは薄笑いのまま、軽快にマーチンを走らせた。

「知り合いじゃあないが――見た目からして、小牧こまきグループのクルーズ船を襲撃した一味じゃないか?」

メイソンがミラーを確認すると、運転席に座る男はサングラスをかけていたが、厳つい容貌と体格の欧米人だ。髭を生やした口元は引き結ばれ、機械仕掛けのような硬質さを感じる。

「例の元軍人? ミスター・十条も手こずったっていう……?」

青くなる同僚に、ブラックは前を向いたままにこりとした。

「メイソン、念のため、イーグルだけ出しておいてくれるか」

「いいけど……公道で発砲する気?」

「非常事態になれば。俺は非戦闘員の社員を守る義務がある」

〈ブラック、俺だ〉

同僚が持つ端末の向こうから響いた声は、スターゲイジーだ。

「ボス、聞いた通りだ。どうする?」

〈おう、想定以上にハデな手で来やがったな。『リーフマン』の件はこっちでやる。建物は気にしなくていいが、民間人や警察は傷付けるな。後はいつも通りにやれ〉

「相手の処理は?」

〈お前が仕留めろ〉

端末を掲げている同僚が生唾呑んだが、ブラックは薄笑いで即座に答えた。

「Yes, Boss.」

マーチンのスピードが上がる。国道を外れ、大きな道路を制限ギリギリと思しき速さで駆け抜け、運が良いのか、殆ど信号に引っ掛からぬまま走行した。

「メイソン、この先に都合が良い場所はあるか」

「あるよ。ナビする」

背後を気にしつつも、さすがにブレンド社、落ち着いた様子でナビのマップを確認しながら言う最中、あちこちからサイレンの大きな音が響いて来た。

「おっと、ブラック――相手のトラックの情報が来た。積載量10トンの荷台に何本かガスボンベが積んであるらしい。どうやら、お酒を運んでたのをパクったみたい」

「用意周到だな」

「燃やしちゃ勿体ないね」

軽口を言える元気がある男にブラックも鼻で笑ったが、安易に事故を起こさせては大惨事に成り兼ねない。日本の治安を守る義務は無いが、上司からは民間人を傷付けるなとのお達しだ。

「……ボスが戦車なんて言うからいけない」

スピードに似合わず呑気にぼやいた男に、同僚は端末を耳にあてたまま前を指した。

「何の話? あ、その角だ! 工場があるからそこに入れて!」

「稼働中じゃないのか?」

「親会社の不祥事で停止中!」

「それはいい。無人じゃなさそうだが」

後方のやかましいエンジン音とサイレンがいよいよ激しい中、マーチンはドライブスルーめいた運転で入口のゲートに付けた。何事かと顔を覗かせた警備員に、メイソンは名刺を差し出した。ブレンド社ではない――ナンシーが見たら眉逆立てるだろう、彼女の名刺そっくりの、名前だけ差し替えられたそれを手に、社交的に微笑んだ。

「どうも……急にお騒がせしてすみません。我々、イギリス警察関係者なのですが、今、凶悪犯を確保する為に行動していまして」

口からでまかせも滑らかだが、ブレンド社は事後処理も滑らかだ。警備員は怪しいものを見る目をしたが、運転席の美男が浮かべた微笑に惑わされた様子で、名刺片手に言葉は出なかった。

「もう騒ぎは聴こえてますかね? 犯人がトラックで暴走してるんです。民家や民間施設を襲撃しないよう、日本警察に追われてるので、程なくこちらに逃げ込むでしょう――ゲートを開けて頂き、貴方は安全な場に避難して頂ければと思います」

穏やかに忠告する頃には、怪物めいた走行音とサイレンが四方八方で喚いている。警備員はたちまち青くなり、慌ててゲートを開けると、一目散に頑丈な建物の方へと消えた。どうやら、常駐していたのは彼だけらしい。

「なんにも確認しなかったね」

後ろを気にしながらの呆れ顔に、ブラックは頷いた。

「彼は賢い。悪徳企業を本気で守るなど馬鹿げている」

「それはいいけど、お出ましだ」

サイレンと停止を呼びかける声が響く中、モノクロに赤いランプを唸らせた数台のパトカーに追われた大型トラックが現れた。マーチンは開いたゲートから工場内に入って行く。大きな建屋の脇、ゴミ一つ落ちていない平坦なアスファルトを走行し、角で急カーブを切った。フェンスと建屋の間にある道路は、普通乗用車二台がようやくすれ違える程度だ。フェンスの傍らには白い蓋が被さった側溝が列を作っている。大きな建屋の陰になったところでマーチンは急停止した。

「メイソン、代わってくれ」

ブラックはベルトを外しながら言うと、用意されていたデザートイーグル44を無造作にコートのポケットに突っ込んだ。

「ど、どうする気だよ、ブラック!」

「デカブツは足元を狙うに限る」

「え、君も?」

「ジョークを言ってる場合か?」

苦笑しながら降りた男は、勝手知ったる様子でマーチンの後部座席の下から大きなバールを引っ張り出し、すたすたと側溝に近付いた。すぐ傍に大型車の唸りとサイレンの騒ぎが近付く中、大人二人掛かりで持ち上げるような側溝の蓋を手際よく三つ外して車の方へ戻る。その影を踏むように角から飛び出してきたトラックが、肩越しに振り向いた黒い男を轢く勢いで曲がろうとして――ぐらりと傾いだ。

片側の前輪を側溝のわずかな窪みに取られると、自身の重みに耐えかねてフェンスをめりめりと潰しながら斜めに倒れた。何とか走り出そうとタイヤを回転させるが、只でさえ狭い空間、その上曲がり切れていない状態では後ろにさえ身動き取れない。

助手席のドアを開けた状態で、ブラックは乗車しないままそちらを見て言った。

「メイソン、頭は下げていろ」

「もう警察に任せとけば~?」

ハンドルに頭を垂れて言う同僚には答えず、ブラックはトラックを見つめている。

姿は見えないが、その後方には続々とパトカーが停車したようだ。赤い光がトラックを照らし、降車を呼び掛ける声が響いたが、車内は不気味に沈黙している。

じっとそちらに目を細め、低い声が呟いた。

「やる気か」

直後、トラックのドアが蹴破られるように開いた。

穴から這い出るように出て来た男は、サングラスが割れたのか、顔に擦り傷を負い、恐ろしい目玉を覗かせていた。欧米人によく見るブルーグレーの目だが、中央の黒目が異様に黒く、一瞬、人間かどうか疑う程度には生気がない。

警告を響かせる警察の方へは目もくれず、不安定なトラックの上、まっすぐにこちらを見つめている。

「なんだい、あれ……」

頭を伏せたままサイドミラーを見つめ、振り向くのも恐怖といった様子の同僚に、黒衣の大男は変わらぬ顔付きで言った。

「危険と判断したら、俺に構わず行ってくれ」

「大いにそうしたいけど、あの彼、悲鳴を上げると思うかい?」

「お前が上げるのも手だ」

怯えつつも言ってのけた同僚に幾らか呆れた微笑を返してドアを閉じると、ポケットに手を突っ込んだままトラックへと近付いた。

向かう先の男は何かブツブツ言っている。親し気に近付いていると言ってもいい男を瞬かぬ目が見つめていたが、警察が拡声器で喋った瞬間、ぐるりと動いた首と片手が警察の方へ向いた。握っていたのは黒いアサルトライフルだ。

凶暴な音が響くのと殆ど同時に、サッと持ち上がったデザートイーグル44が吠えた。拳銃内でも随一の破壊力を誇る44口径からの弾丸は、ライフルもろとも男の腕を抉った。同僚が期待する叫び声ひとつ洩らさず、男がガッと振り向いた。歯を剥き出した口が、言語を持たぬ獣らしき咆哮を上げた。

「Come on, monster.」

黒い猛獣が薄笑いで応えた。




 「ボス、息子は大丈夫でしょうか?」

グレーのシックなベントレーの運転席から問う妙齢の婦人に、後部座席にどっかと座った大男は頷いた。

「心配要らねえ。ブラックが付いてりゃ、戦車に追われても五体満足で帰るさ」

ストローイエローの顎髭を撫でてニヤリと笑ったスターゲイジーに、庭でバラでも育てていそうな婦人は、白く輝く白髪をふんわりと整えた髪を振って眉をひそめた。

「いえ、ブラックの迷惑になるんじゃないかって。あの子は我が家の中でも特に趣味に我を忘れる粗忽者ですから」

「フフン、さすがマム・メイソン――いや、スラスト・マーガレットだな。息子より仕事か。大丈夫だろ、息子もブラックも俺が認めた優秀なスタッフだ。上手くやる」

「ボスがそう仰るならいいですけれど」

「迷惑は俺の方になるかもしれん。こっちも面倒になりそうだ」

「ご安心を、ボス。私は如何ほどもにぶっていませんわ」

「そりゃあ助かる。ナチを出し抜いたドライブテクニックは健在ってわけか。ダッド・メイソンには退いてもらったぜ、旦那が居なくて大丈夫か?」

「当然。あの人は尾行は上手くても”安全運転”だもの」

ハンドルよりも紅茶のポットが似合う女は、品良いルージュを引いた唇を歪めた。

互いに落ち着いた姿勢で座っているが、捕捉している車がいつ襲い掛かって来るともしれない。婦人はそんな中、買物にでも行くような顔つきで運転し、スターゲイジーは自身の端末を耳に当てた。

「よお、ハル」

〈スターゲイジー? 何ですか〉

「悪いが、ブラックは野暮用が入った。『リーフマン』は俺が連れていってやる」

〈ブラックが?……さっきからサイレンが凄いんですが、何が有ったんです?〉

「こっちも”調査中”だ。いいからイギリスのダディを信じて待ってろ」

何か言い掛けたハルトを無視して電話を切ると、運転手が落ち着いた口調で言った。

「ボス、スピードが上がった。気付いた様です」

「相手が俺だとわかりゃ容赦しねえだろ。頼んだぞ」

「お任せを」

頷いた婦人がピアノのペダルでも踏むようにアクセルを踏んだ。次々に前方車を抜き、瞬く間に追跡していた車に並ぶ。運転席の人物は、マスクをした男だった。ちらとこちらを見たが、前方に視線を移す。それを見てから、スターゲイジーは再び電話を掛けた。

〈Hi.〉

「よお、『リーフマン』。いや、ジョゼフ・リーフ。俺が誰だかわかるか?」

〈もちろんです。スターゲイジー。施設では諜報活動について教えてくださいましたね。女性の落とし方や、駆け引きも。貴方の訓練はとても助かりました〉

スピーカーで話しているらしく、抑揚のないくぐもった声が静かに答え、再びマスクの男がちらと振り向く。やや怯えた様な小動物めいた目だ。

〈僕に何か御用ですか?〉

「俺は無えな。誰の用だか知ってるだろうに」

〈ハルですか〉

「おう、俺の可愛いハルが会いたがってる。逃げずに付いてこい」

〈逃げる? イイエ……僕はずっと逃げていましたが、今回来たのは仕方なかったんです。僕はちっとも来たくなかった。でも、仕方ないでしょう。フレディが言うんですから……〉

変な言い回しだった。切羽詰まったというより、何もかも諦めた口調に、スターゲイジーは眉を寄せた。

「来日は、フレディ――『オムニス』の指示なのか?」

〈スターゲイジーは、お気付きでしょう? フレディは、貴方の為にもそうしたんです。僕がうろつけば、貴方はハルに気付かれずに彼の過去を調べられるって〉

紳士の顔つきが変わった。車内にひりついた空気が滲む。

「言ってくれるじゃねえか。俺が何をしようが、お前らには関係無いと思うがな」

〈ええ、僕には関係ないです。僕如きが関係しようなんておこがましい。貴方は別だ。ハルが信頼する大人の一人だから、フレディはその秘密を探るのを許したんです。貴方がグレイト・スミスの関係者でも、フレディは許します〉

「お前と話すと気が動転しそうになる。『オムニス』は何処で何をしてやがる?」

〈知りません。彼は僕には教えてくれない。今回だって、指示だけです。航空券、ホテル、準備すべきもの、ああ、彼に指示されるのは久しぶりでした。穏やかな大河を流れゆく気分です〉

やけに恍惚とした口調は、内容にそぐわない。

「……気に入らねえな。お前、何を企んでる?」

〈企む? 逃げるしか能のない僕は、あなた方を相手にそんなことできませんよ。BGMに携わる大人たちや、グレイト・スミスの血筋に歯向かうなんて〉

「謙遜する人間には二種類居るんだよ、ジョゼフ。一つは、本当に慎ましい奴、もう一つは、毛程も思ってねえのに建前で言う奴だ。お前は後者だろ?」

〈誤解です、スターゲイジー。僕はただ、静かに暮らせればいいんです〉

「フフン、お前の”静かな暮らし”の為には、何人死ねばいいんだろうな?」

そこで初めて、マスクの上の目が感情らしきものに歪んだ。笑みのようでもあり、狂気のようでもある。

〈僕、それほどご迷惑は掛けていないと思いますけど……〉

「迷惑だと? おいおい、ジョー坊……あまり愉快なことを言ってくれるなよ。人間の存在意義はお前の尺度で測るもんじゃない」

〈あなた方は、自分の尺度で人を殺すじゃないですか〉

「否定はしないぜ。が、お前とは違うな。ジョー坊、世界の為を思って殺したことはあるか?」

男は振り向きもせずに沈黙した。

〈仕方ないや。スターゲイジー、後部座席をご覧ください〉

「あ?」

後部に目を移したスターゲイジーの顔色が変わった。

うっすらとスモークがかった窓の向こうで、貼り付くように顔を出したのは口を塞がれた女だった。縛られているのか、誰かに後ろから窓に向けて身を押し付けられた顔が苦悶に歪む。

「ナ……ナンシーお嬢様?」

驚愕の声を上げたのは運転席の婦人だ。無言でそちらを睨んだ紳士に対し、音声が響いた。

〈幾つになっても、実の娘さんはかわいいんでしょ?〉

「……舐めやがって」

忌々し気に呟いた紳士に、わずかに楽しそうな声がした。

〈スターゲイジー、貴方に案内して頂かなくても、僕は行くべき場所を知っていますし、ハルにも会います。せっかく、僕たちは久しぶりに会うんです、無粋な覗き見はお控えください〉

「俺の娘の”恰好”でか?」

低くドスの利いた声に婦人がハッとし、通話相手は沈黙した。

「ジョー坊、あんまり俺を甘く見るな。いくら見た目を似せようが、目の前に居んのが自分の娘かぐらいわかる」

続いた沈黙を破ったのは、異様な声だった。

〈なああああんだ…………つまんなああああい…………〉

失望を喚いたのは、窓に顔を見せた女の方だった。鬱陶しそうに口を塞いでいたものを外すと、にわかにはナンシー・アダムズにしか見えない顔で唇を尖らせた。

〈引っ掛かると思ったのにいい……あーあーあー……〉

「相変わらずうるせえガキだ。覚えとけ、ジョー坊――俺の娘はな、どんな窮地だろうが、俺と顔合わせた瞬間にゴミ屑を見る目になるんだよ」

〈ひどいなあ、スターゲイジー……こんなにさあ……こんなに大変な僕のイタズラぐらい許してくれたっていいのに……なんてひどい親子だろう……〉

スターゲイジーが何か言う前に、運転席から冷静な声が響いた。

「――ボス、前後車両の動きが変だわ」

鋭い目が確認すると、いつの間にか大型トラック二台が前と後ろに迫っていた。二台は言われなければわからない程度の減速を続け、ゆっくりとベントレーを挟むような姿勢をとる。

「……ほう、これほどオトモダチが居たとは知らなかったぜ」

薄い笑みを浮かべて言う紳士の耳に、小さな含み笑いが響いた。

〈貴方がいけないんだ、スターゲイジー。大人しく引っ込んでればいいのに、”僕ら”の邪魔をしようとするからいけないんだ〉

「フフン、目を塞ぐには随分、乱暴じゃねえか。お前も甘く見られたもんだな、マーガレット?」

「Yes, Boss.」

ルージュが微笑んだ刹那、優雅な靴でアクセルが踏まれた。まるでスケート選手がリンクを滑るように片輪で道路を滑ると、隣の車線のギリギリ一台入る隙間に入り込む。周囲が驚く中、流れに乗りながらスピードを緩めると、獲物を潰し損ねた後方トラックの真横に付ける。開いた窓の外――燃料タンクに向けて、ニヒルに笑った紳士は車内で構えたワルサーPPKを発砲した。相手のトラックが立てる轟音の中、狙い違わず穴を開けると、今度は前のトラックに素早く近付き、ぴたり寄せた場から再び発砲した。この間、わずか三分にも満たない。微かに金属の跳ねる音を爆音が掻き消し、すうっとベントレーは先に走り出していく。

「毎回、車に跳ねないか不安な射撃ね、ボス」

「お前に言われちゃ形無しだ」

両者の苦笑を交え、滑らかに路地に入ると、通りを緩やかに走行した。ナビに映るマップでは、捕捉したトラックがじりじりとスピードを落とし、路肩へとずれていくのが見えた。

「ボス……よく、ナンシーじゃないとわかったわね」

「それを言わんでくれ、半分勘だ」

「ま。呆れた人」

「勘弁してくれ。見分け方は本当だぜ?」

「そんなことばかり言ってるからでしょ」

婦人の指摘に、紳士は肩をすくめてから頭を掻いた。

「ボス、第二ゲートから基地に入ったわ。追うの?」

「いや、後は他に任せよう。俺たちは先にこっちを片さねえと」

溜息混じりの声に、婦人も気付いた。路地の向こうからハンドルを切って来たのは、この場には大きすぎるトラックだ。普通車二台がすれ違うのがギリギリの道路上、民家やアパートの合間を我関さず走って来る。もう一台は後ろ――どちらも燃料を垂れ流し、手負いの獣のようだ。ベントレーが素早くバックして脇道に逸れるのを、凶暴なタイヤ音と共に向かってくる。

〈勘なんてズルいですよ、スターゲイジー〉

電話から響いた抗議の声に、紳士は懐の拳銃を再び抜きながら顎髭を撫でた。

「ズルじゃねえよ。運も実力の内って言うだろ」

〈そんなの、世界最高峰のスパイが使う手じゃない〉

「ジョー坊、そいつは過去の話だよ。俺は今、調査会社BLENDブレンドのボスだ。優秀な部下が居なけりゃ、口ほどにもねえ只のオッサンさ」

運転席の婦人がクスリと微笑む。

〈……僕にはどうでもいいことですね。言っておきますけど、彼らは貴方を殺すまで止まらない。女性と二人でどうにかなります? 通報してあげましょうか?〉

「フフン、オッサンにはオッサンの勝ち方があるんだぜ――ところでよ、そっちの運転手はやけにお前に似てやがるな。さては、出頭した『リーフマン』ってのは……」

〈僕は知りません。何も。せいぜい頑張ってください〉

素っ気ない返事は、むしろわかりやすい答えアンサーだった。

「ああそうかい、吠え面かかせてやるよ、Bad boy!」

吐き捨てた紳士が通話を切る頃には、トラックが場違いな轟音と共に差し迫る。

「ボス、まさかと思うけれど、優秀な私頼みじゃないでしょうね?」

「うーむ、お前にそんなこと言われちゃあ男がすたるな」

その言葉に被せるように、後方から銃撃音が連続した。これには紳士も後ろを振り返る。トラックの窓から覗いた腕にはアサルトライフルが握られている。

「おお、撃ってきやがったか」

後方へと目を細めた紳士に、婦人が小首を傾げた。

「パンツァーファウストよりマシかしら」

「そんなもん市街地で撃ったら国際問題だぜ」

「配慮の有るドライバーには見えなくてよ」

冷静な言葉とは裏腹に、ベントレーは凄まじいスピードで駆け抜けていく。弾丸が外装を掠める音が鈍器で強打するように響く中、婦人は似合わぬ舌打ちを漏らす。

「修理費は取るわよ、ボス!」

「わかってるって――マーガレット、此処に向かってなるべく走らせろ」

身を乗り出してナビを操作した男に、目の端で確認した婦人は瞠目した。

「正気なの?」

「俺はいつだって正気だ」

ストローイエローの髭を歪めて言い切ると、拳銃を手にシートに低く屈む。

「頼むぜ、スラスト。お前のテクニックに勝つ男は居ない」

「ま、口達者なboyですこと。静かに座ってらっしゃい!」

更に激しいエンジン音に震えて速度を増すベントレーが車体を浮かさんばかりに走行し、やや広い道路に飛び出ると、抉る様にカーブを曲がった。トラックは二手に分かれたらしく、一台が荷台を振り回し、燃料をボタボタ落としつつも付いて来る。道路の真隣には堀を流れる川があった。フェンスを挟んだそこは大人ならば腰にも届かない水深だが、堀そのものは深く、一車線ほどの幅がある。やがて片側も道路から沈み込んだ緑地公園に挟まれたとき、大型車は進入禁止である正面からもトラックが現れた。このまま突っ込まれたらベントレーは押し潰されるか、アサルトで蜂の巣になるかだ。だが、紳士はニヤリと笑って拳銃を窓から覗かせた。

「さあて……ハルやアマデウスのようにはいかんが――」

正面のアサルトに向かってワルサーが吠えた。一見、大型犬に向けて小型犬が吠えるようなそれだが、たかが数発の銃撃を浴びたのはアサルトを握る手の方だ。怯んだ手のアサルトが銃撃を止めたとき、婦人が勢いよくハンドルを切っている。ベントレーはスリップしたかのような勢いでぐるりとターンし、公園へと下る階段の為の空きスペースに、ガードレールを押し倒してぴたりと停まった。

一方、正面のトラックは思わず追おうとしたか、対向車の身内を躱そうとしたか、ブレーキを踏んだのか――ぎくしゃくとした動きをし、不安定な姿勢になったところで荷台の重みに吸い込まれるようにフェンスを突き破って堀へと落下した。

後方のトラックは、先の銃撃をした紳士を狙おうとしてアサルトを構えていたが、不意に横から何かに追突されてバランスを崩し、横倒しになるようにして同じくフェンスを押し潰しながら堀に落ちた。水の跳ねる音と衝撃音がする中、スターゲイジーはホッとする運転手の肩を叩いてから外に降りた。

「よお、ムロ。助かったぜ」

片手を上げた紳士の前に車体を強かに凹ませてやってきたのは、黒のレクサスだ。

「ご無事で何よりです。お怪我はございませんか」

運転席から顔を覗かせた室月むろつきが、厳しくも礼儀正しい様子で目礼した。

「おかげで何ともない。付いてきてんなら言ってくれりゃいいのによ」

「申し訳ありません。そちらの連絡の邪魔をしてはと思いまして……貴方なら、付いていけば気付くと思いました」

「フフン、良い腕だ。マーガレットに付いてこられる男は珍しいぜ」

軽口を言いながら、紳士は散々に穿たれたベントレーを撫でてから堀の方を見た。隣の道路を走る走行音と川のせせらぎに混じって、何かが唸る声が聴こえる。

「おい、ムロ……暴走トラックはともかく、ドライバーは這い上がってきそうだな。俺はあんな話の通じねえモンスターとは戦いたくねえんだが」

「ご心配なく。お連れしましたので」

室月が言う中、後部座席から降りた人物に、紳士はストローイエローの顎髭を撫でて笑った。ベージュのコートを纏ったすらりとした男――千間せんま優一ゆういちは、愛想こそ無い顔つきだったが、綺麗なお辞儀をした。

「ギムレットか。でっかくなったな」

「貴方はお変わりないですね、スターゲイジー」

挨拶が済むや否や、ポケットに手を突っ込んでぐしゃぐしゃに裂かれたフェンスから下を覗き込んだ。すかさず、一歩退いた場を弾丸が掠めた。

ベントレーにもたれ、腕組みした紳士はニヤニヤ笑った。

「相手は二人だぜ。トオル抜きで大丈夫か?」

「大丈夫です。カボチャを割るという拳も見てみたいですが」

振り向きもせずに言うが早いか、その両手が目にも止まらぬ速さで振られた。幾筋もの銀光が閃き、見えない堀の内で水音とスクラップ工場でしそうな金属音が連続した。何かがバシャバシャと跳ね回る異様な音と、機械がガチャガチャと喚く音がしていたが、やがて静かになった。

改めて下を見下ろしたとき、そこに在ったのは落ちたトラックの傍ら――冷たい川面に向かって腹ばいになっている二人の男だ。その服や手足、首には幾つもの針が穿たれ、さながら昆虫標本のようにピン留めされている。息苦しさに暴れた為だろう、突き刺さった箇所から流れた血が川の流れに尾を引いている。

「モンスターも、陸の生き物ってか」

一緒になって覗き込んだスターゲイジーがどこか苦々しく言うと、同じように静かな眼差しを向けていた優一が、車内に待機していた室月を振り返った。

「済んだ。清掃員クリーナーを回してくれ。僕は野々くんの手伝いに戻る」

「はい。スターゲイジーは如何なさいますか」

紳士は夜景でも眺めるように眼下に視線を置いていたが、振り向くとベントレーを顎で指した。

「ムロ、あの車と中のマダムを頼んでいいか。俺もハルの様子は気になる」

「かしこまりました」

室月は頷くと、車を降りて優一にキーを渡した。

「私は此処の処理を済ませます。この車をお使いください……少々凹みましたが」

「助かる」

「お気をつけて」

ホテルマンのようなお辞儀をする男を残し、レクサスは国道へと引き返した。

薄ら寒い中、ようやく辺りにサイレンが響き始める。




 遡ること三十分ほど前。

「ちゃんと髪拭かないと風邪ひくわよ!」

母親の注意を背に聞きながら短髪をキャップに押し込み、家を飛び出した力也りきやは国道16号線沿いまで走って来ていた。末永に送り届けてもらった後、荷物を放り出し、シャワーを浴びるのも慌ただしくやって来たところだ。

事件に巻き込まれたのは理解したが、恐怖や不安は如何ほども無かった。

警察に連行される前、十条から連絡が入っていたのもある。

末永に聞くより早く、自分が何故連れて行かれるのかという説明と、「絶対に大丈夫」という言葉が綴られ、力也は素直に納得した。

――十条サンが言うなら、何も心配いらない。

思えば、妙な信用では有る。だが、親や教師が言うより、それこそ神が否定しても、十条が大丈夫だというなら問題ない――力也はただ、一途にそう思った。

他にも、国見くにみ明香あすかは勿論、未春やハルトからもメッセージが入っていた。皆優しい。皆心配してくれる。何もできない自分を。

自分も、彼らに何かできたらいいのに。

白い息を吐きながら来た国道は、なんだかいつもにも増して騒がしい気がしたが、気にせず走って行く。

フェンス越しの米軍基地は、身近な海外だ。

……いつもの時間じゃない。会えるかなんてわからない。

でも、時間が有ったから。家に居たらゼロの確率を、1%でも増やしたい。

……別に、会ったからどうしようって事は、ないけれど――……

「――……!」

寒風に、力也は目を見開いた。

ゲートのすぐ傍に、彼女は立っていた。耳が覗くほど短い髪を冷たい風に揺らし、誰か待っているのか、道路の向こうを見ている。いつも傍らに控えている白い犬が、揺らしていたふわふわの尾の動きを止めてこっちを見た。

黒い瞳が警戒するように見つめてくる。つい、立ち止まって思わず息を呑んだ。

よろめくように一歩進んで、背後からの爆音に振り返った。

「Hi.」

鼓動にも似た音を立てて現れたバイクに跨り、ヘルメットを脱いで軽快に言った相手に力也は驚いた。

「え、ナ……ナンシーさん?」

金髪からシャンプーか何かの良い香りを漂わすのは、少し前に別れたばかりの女だ。自分と同じように大急ぎでシャワーを浴びたのか、冷たい空気の中、微かに上気した感が有る。

「What are you doing here? 」

「え、えっとー……」

「Are you going to a cafe?」

「は、はい?」

昨夜よりもずけずけと出る英語のラッシュと何と答えたものか迷う回答に戸惑っていると、女は斜に構えた目で力也を見つめていたが、不意に別の方へと逸れた。

「Hello.」

後ろから響いた声に、力也は飛び上がりそうになりながら振り向いた。

彼女と、白い犬がこちらとナンシーを見上げて立っていた。

「こんにちは、ミズ・アダムズ」

彼女がナンシーに向けた一言に、さすがに聞き取れた力也が三度目の驚きを顔に描いて両者を見比べた。

「し……知り合いなんですか?」

日本語で呻いた力也の一言を、何となく察したらしいナンシーが頷いた。

「She is a lifesaver.(彼女は命の恩人です)」

「え……」

「命の恩人って仰ってるけど、そんなことないのよ。マックスが偉かっただけ」

苦笑混じりに首を振りつつ、日本語で答えてくれた彼女に力也はどぎまぎする。

「顔、どうしたの?」

「え……えっと……ちょっと……」

「今日は珍しい時間に居るのね。仕事?」

「え、えっと……! ま、まあ……!」

先程から同じような文言しか出てこない力也はかくかくと頷いた。乏しい語彙力に背中の冷や汗が止まらない。その様子をじっと見つめたナンシーが、顎をつんと反らせて言った。

「ソフィア、この坊やと知り合いなの?」

「ええ、知り合いというのが正しいかもしれない。この子の散歩の時によく会う、顔見知りです」

「ふうん……この坊やが何処の誰だかご存じ?」

どこか咎めるような声に、ソフィアは臆した様子もなく頷いた。

「向こうにあるカフェでたまに働いているのは知ってるわ」

国道の先を指すが、DOUBLE・CROSSまでは視界に入らない程度の距離がある。

力也は何だか赤くなって縮こまった。ナンシーはわかりやすい反応の青年をちらりと見やり、再びソフィアを見た。

「DOUBLE・CROSSを知ってるのね」

「ええ……」

微かに言い淀むソフィアに、白い犬が尾を振ってぴたりと擦り寄る。その頭をそっと撫で、ソフィアは顔を上げた。

「ところで、ミズ・アダムズ……私に何の用? 急に家に電話が掛かって来たから、驚いたわ。連絡先を教えたつもりは無いのだけれど」

「不躾な対応は謝るわ。そのボーイにお礼をしたいと思っただけ」

「この子に用があるのなら、犬笛で呼ばなくちゃ」

ジョークを挟んだソフィアは、リードを持った手で腕組みした。

「貴女が用が有るのは、私みたいね」

「ちょうどいいわ。坊やの勤め先でお話しするのはどう?」

「DOUBLE・CROSSに……? それは――悪いけど、遠慮します」

さらりと断るソフィアに、力也は引き留めるような視線で言った。

「き……気にすることないと思うよ……センパイだって、きっと……!」

精一杯の気遣いに、彼女は決まり悪そうな顔をした。

「……I know……but――」

自然に出たらしいソフィアの英語に、理解した力也が言い掛けた時だった。

「――What……?」

ナンシーが道路に鋭い視線を向けた。激流にも負けない独自の重低音をまき散らし、続々と行き過ぎていくのは数台のバイクだ。まともな団体ではなさそうな連中はこちらをちらと見たようだが、そのまま国道の向こうに消える。――が、その目立つ音はわりと近くで途絶えた。

「……カフェの辺りじゃない?」

ソフィアの呟きに、力也はハッとした。

「――失礼するわ。また会いましょう」

こちらも何を察してか、素早くヘルメットを被った女がエンジン音も高らかに国道の波に乗っていく。触発されるように走り出そうとして、力也は振り返った。

「あの……こ、今度来てください! 歓迎するから!」

変な誘い文句を残し、力也は逃げるようにナンシーの後に続いて走って行く。

その背を見つめながら、ソフィアは立ち尽くした。

風にほつれた髪を耳に送り、細く白い息を吹いていると、リードがくいと引っ張られた。見下ろす先で、白く愛らしい顔の中、澄んだ黒い目が見上げていた。

「マックス……”あの人”が心配?」

問い掛けに犬は答えないが、ふわふわの尾を振った。

「……たぶん、大丈夫よ。彼の方が心配だけれど……帰りましょう。何かあるといけないから」

何もかも知った様な犬と共に、真隣のアメリカに続くゲートへ少女は歩いて行った。

遠くで、赤く唸るサイレンが鳴り始めている。

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