11.Sweet deal.
いつか、来るとは思っていた。
小さな会議室内でテーブルを挟んだ大柄な外国人を前に、
四年前、法務省の矯正局長を任じられた際、”あの”聖グループのトップに会った。
良い表現をすれば老獪な――実際は、権威と金であらゆるものを操り、隠蔽と裏取引で日本を牛耳ってきた老人から、このポジションが守って来た切り札の話を聞かされた。聞いた日は、胸騒ぎで眠れなかった。「随分、美人の奥方じゃないか」と会わせたこともない妻のことを言われた際は寒気がした。悪党が、何を言いたいのかわからないほど、愚鈍ではなかった。
正しさを守る法の近くに居ながら、何がしかの犯罪に関与するのは後ろめたい気持ちだったが、一年も経つ頃には受け入れた。
誰かが死んだり、職を追われるわけではない……ただ、一人の外国人男性を、データに残らない資金で、データに残らない移送を手配するだけ。
それによって、何か酷い事は起きていない。起きていない筈だ。只の移送だ。
一年目、報酬と称してぎょっとするような金額が振り込まれた。こんな金に手は付けられない。妻にも、誰にも言えない。泡を食いながら、別の口座に移す他なかった。
二年目、三年目――時折、こちらを監視するように、聖家の会食に招かれた。
一体何をやらされているのか?――問い掛けようにも、前任者は不祥事を理由に退任後、家族と共に行方不明だ。喉を通る筈もない懐石は、美しく作られたサンプルのように味気なかった。家に帰っても落ち着きのない生活が続く中、四年後――見えぬ手でこちらを押さえていた老人、
やり手と聞いていた孫娘はあっさり身を引き、明快に後ろ暗いことをしていた関係各社は逮捕、起訴され、瞬く間にグループは解散した。
自分にも、何か影響が有るかと思っていたが、何も無かった。
定期的に届いていた、資金だけが途絶えた。例の外国人は生きていて、聖家が消えようとも何も変わらぬらしい。放っておいても良いのでは――……そう思っていると、刑務所の中から催促の手紙が届いた。一体、何者なんだ。
一生を二度過ごせるような刑期は嘘に決まっているし、罪状となっている殺人事件に関しては、どうも誰か別の事件を模倣したような文章が綴られていた。
何故、この男は刑務所から刑務所へ頻繁に移動したがるのか?
回せる予算など有るわけがない。例の報酬は――いや、あれは動かせない。一円でも使えば何が起きるかわからない。辞職する? 無理だ。急な人事など、不祥事を起こすか、仕事にならないほどの体調を崩すしか――……こんなわけのわからないことで、そんな目に遭う必要が?
……いつか、終わることなのに。
久我山はテーブルを見下ろした。
提示された写真には、妻と凄まじい美男が仲睦まじく食事をする姿や、散歩をする様、ホテルに入る背と、出て行く場面がはっきり撮られていた。
「これが、何だと言うんです」
眼鏡を掛け直して出した声は自分でも驚くほど冷静だったが、調査会社ブレンド代表・スターゲイジーと名乗った大柄な白人系男性はストローイエローの顎髭を撫でてニヤリと笑った。
「そうかい、写真ぐらいで音を上げた方が良いと俺は思うが」
「申し訳ないが、こうした用件には対応致しかねる」
「ふむ。見所のある役人だ。妻の様子も気にならない堅物とはね。嫁さんを家政婦か何かだと思ってやがんのか?」
「……余計なお世話だ。これでも、最近のAIによる
「フフン、俺は口の減らない奴は好きだぜ。負かしたとき、良い気分になるからな」
陽気に喋った白人の太い指先が軽快に端末を叩いた途端、場違いな音声が響いた。
久我山の顔色が変わった。密やかな会話の後、悩ましい女の喘ぎがどろりと流れ出す。――生々しい映像を含めて。
「女は定期的に可愛いがった方がいいぜ、ミスター」
一転して青くなる男の顔を愉快そうに眺めて、白人は言った。
「せっかく、日本の女は健気で思慮深いってのに、愛してやらねえからこういうことになるんだ」
見たくない。こんなもの。しかし、目は離せず、体中が怒りか恥辱かに震えた。
すると、男はひょいと太い指で端末を操作し、別の映像を流した。
今度は同じホテルらしいが、妻と男が和気あいあいと映画を観ていた。懐かしい映画だ。一緒に観たことが有るそれを、子供のようにポップコーンやドリンクを前に、声を立てて彼女は楽しんでいる。あんな楽しそうな顔……何年も見ていない。
ぷつりと映像が切れた。
徹夜明けのように血走った眼を上げると、男は片手のひらを差し伸べた。
「俺が欲しい情報を寄越せ。出せねえなら、これはこういうモノが大好きな連中に渡す。あんたは我慢できても、この繊細そうな奥方はどうかな」
「……止めろ! 何が……何が知りたい……!」
「『ハーミット』の居所だ」
「……!」
四年間、頭の片隅に居座った名に目を見開くと、男は先ほどの意地悪そうな笑みが嘘のように気の毒そうな顔をした。
「あんたの担当期間は四年だったな。一つ所にじっとしねえジジイで大変だったろう。聖家が手を引いた今、もうそんな我儘はオシマイだ」
「……ひ、ひと月前の急な移動が最後だ……一体、あの男は何なんだ……⁉」
「名前の通りさ。
何かを受け取ろうとする片手をもう一度見つめ、久我山は歯噛みした後に机のメモを引き剥がし、移送の度に頭に刻むそれを憑りつかれたように書いた。
押し付けるように手渡すと、男はくしゃりとしたそれを広げて頷いた。
「ほう、よりによって良い所に居やがる。景三の死に感付いたか、見ていたか……」
「どうするつもりなんだ」
「決まってる。会いに行くのさ」
「ま……まさか、不可能だ……!」
狼狽えた様子で、久我山は首と手を忙しく振った。
「今、あの男が居るフロアは鉄壁だ。役人も、私だって、中からの了解無くしては入ることはできない。看守はシステムなんだ……買収も脅しも効かない。そもそも――あのフロアが在る施設に入るには、それ相応の犯罪を犯さないと……」
「フフン、いいね。邪魔が入らなくて助かる」
「む、無理やり入るつもりか……⁉ 国際問題どころじゃ――……」
「安心しな。あんたに迷惑は掛けねえし、ジジイにはもう腰を落ち着ける様に言ってやるぜ」
立ち上がってこちらを見下ろす白人に、久我山は怯えた顔をした。
「わ……私をどうするつもりだ……!」
「ハッハッハ……どうもしねえよ。情報提供に感謝して飲みに誘いたいぐらいだが、俺は忙しい」
「は、話を聞いていなかったのか? あそこに入る方法は無い……!」
「心配することはねえよ、善良なる国民に手出しはしない。俺の部下はイカれてるが、言うことをよく聞くGood boyだ」
言うなり、男は画面を軽快にタップして端末のデータを初期化すると、暗い画面になったそれに拳を叩きつけた。ダンプに轢かれたような有様になる端末に、久我山が呆気に取られていると、男は拳をさすりながら言った。
「信じられねえと思うが、嫁さんのデータはこれっきりだ。悪いがアンタが処分してくれ。万一、データが外に出た際は連絡を寄越せ。俺が残らず潰してやる」
「貴方は……――いや、何故、この男に会いたいんだ……?」
「フフン、悪いがそいつは話せない。だが、ブレンド社は全てに通じる」
謎かけのような言葉を残して男は踵を返したが、部屋を出る前に振り向いた。
「……そうそう、帰ってから嫁さんを責めちゃいけないぜ? 濡れ場だけはフェイクだからな」
「な……なんだって……!」
眼鏡を落としそうになるほど仰天した男に、男は愉快そうに笑った。不思議と、その笑顔は先ほどまでの人を陥れる調子ではなく、不思議と紳士的だった。
「あんたの嫁さんは思慮深いイイ女だ。俺の部下と遊んだのは、淋しいからだよ。あんたが怒ったら離婚しちまうだろうが、花か甘いモンでも買って優しく話を聞いてやれば、全部上手くいく。ま……俺が言う事じゃないかもしれんが」
最後は苦笑混じりに言うと、じゃあな、と友人の部屋でも後にするように出て行った。久我山はしばらく立ち上がれなかった。夢でも見ていたような心地で、液晶が無残に割れた端末を見つめた。
……今まで、何に支配されていたのだろう。
「
『いつか』は、今日なのだろうか。
「へー……そういう手で来るんだ。面白いなあ」
横田基地・第二ゲート前で、
「うん、そのまま監視して。警察は、あの警部さんが居れば大丈夫でしょ。気を付けてね」
電話を切る頃、待ち合わせの人物が視界に入る。その顔と出くわすや否や、十は目を丸くした。
「顔、どうしたの?」
久しぶりに会った友人にでも対するように言うと、気の毒そうに眉を寄せた。
「すごく痛そう。大丈夫?」
ひょろ高い位置からまじまじと眺めてくる男に、当の
「ほ、ほっとけよ……あんたに心配なんかされたくねえ……!」
「ええ? 僕も野郎の心配なんかしたくないけどさあ……目の前にそんな顔出されたら気遣いたくもなるよ。……あ、まさか今日の要件ってそれ? ウチのスタッフがやったから慰謝料出せってこと?」
「ち、違う! 誰がンなちゃちな金取るか!」
来て早々、早くも頭に血が上る男に、十は「良かった」などと言いながら笑った。
「じゃあ、今日は何の用だろ? 君が僕に一人で会いに来るなんて初めてだ」
「……けじめってのは、一人でつけるもんだ」
「ふーん? フフ、鷲尾くんは
一言多い男に鷲尾は剣呑な眼差しを向けたが、この男には全く無意味だった。ニコニコと微笑みながら、世間話でも始めようかという気配だ。
先に立って歩き出す長躯の背は隙だらけに見えた。後ろ姿だけなら先日の黒装束の外国人にそっくりだが、漂う雰囲気は驚くほど呑気だ。周囲に香るのも、肺腑まで森が茂るような香水ではなく、手にしたコーヒーと何かの甘い匂いだ。
「やー、ディック。度々悪いね」
ゲートの入り口に立っていた筋骨隆々たる外国人は、話していた男に手を振り、軽く手を上げた。ディック・ローガンか。親の代から
「よお、トオル。俺は貰うもん貰えりゃ何でも用意するぜ」
「あはは、ディックのそういうとこ好きだよ」
十は行こ行こ~、と友人のように鷲尾と呼び、停めてあったベントレーに伴った。
――この男を見ていると、悪党や殺し屋が何なのかわからなくなる。
並の悪党は、立場が上の者が自分のテリトリーに呼び付けて、優位な位置で話す。
聖家もそうだった。こじれれば容易に袋叩きか始末できるフィールドに、如何にも偉そうに呼ぶ。
……いや、悪党だけではない。自身をまともだと思っている一般人にも、そういう輩は見かける。ただ歳を重ねているだけ、女に生まれただけ、金をやたらに集めただけ……気を遣われて当然だと思っている人間たち。
それがこの男ときたら、自ら手土産を持参し、中立の場に徒歩でやって来た。
敵意を抱かれる相手に、ボディチェックさえしない。
「事務所で良いんだろ?」
「静かに話せるなら何処でもいいよ。ね?」
問い掛けに答えながら当然のように後部に乗り込む十に、ポケットの中の重い塊に手を当てたまま、鷲尾も頷いた。
「ディック、スターゲイジーが居座ってたんでしょ? 帰ったの?」
「帰っちゃいないが、昨日から出掛けてる」
「ふーん、じゃあ、あっちの目途はついたってことかな……」
景色を眺めながら十はぼやいた。
目的の事務所とやらにはすぐに着いた。工場とガレージがくっ付いたような建物に併設されたそこは、大きめのデスクとソファーが占めるそれだった。
「俺はそこで車いじってるから、終わったら声掛けてくれ」
「ありがとう。さらちゃんがドーナッツくれたけど食べる? コーヒーもあるよ」
「おお、Thank you.」
ワックスペーパーごと手で受け取ってすぐに齧り、コーヒーを傾けながら鼻歌混じりで外国人は出て行った。
「鷲尾くんのもあるからね」
コーヒーとドーナッツを前に、鷲尾は何やら疲れた溜息が出たが、十はさっさと執務用と思しき椅子に腰かけ、ソファーを指差しながらドーナッツに齧りついた。
「俺は別に……」
「毒は入ってないよ」
「そういう問題じゃ……」
「ダイエット中?」
こちらの前にコーヒーを置く傍ら、十が持っていたドーナッツは綺麗に消えている。ペーパーで砂糖を拭い、日本一の悪党は椅子にもたれて笑った。
「じゃ、先に話そ。君のけじめが、どっちに転ぶことにしたのか」
コーヒーを傾ける十を、鷲尾は渋面で包帯の隙間から見つめた。
“転ぶ”と表現した皮肉に気付かぬほど、脳無しではない。
……どちらにせよ、不条理は免れないのだ。敗戦国が悪条件を呑まざるを得ないように、敗れた悪に加担して築いた砦は、壊すか占領されるかの二つに一つ。
もし――敵のトップが死ぬという、奇跡のような逆転が無い限りは。
「……」
ポケットに突っ込んである拳銃をやけに重く感じながら、鷲尾はソファーに座った。
「答えの前に、ひとつ教えろ」
「うん、なーに?」
「
「へ? イトウさん? ああ、あのバイク屋さんの?」
ムッとした顔で頷く鷲尾に、十条は虚空を見上げて首を捻った。
「伊東さんかあ……今は何処だろう? 彼はね、ウチじゃなくて北米支部の管轄なんだ」
聞いてみるねとすぐに電話をかけ始めた男は、出た相手と滑らかに英語でやり取りすると、すぐに切って微笑んだ。
「番号送ってくれるって。直接話すといいよ」
「ち、直接……!?」
意外な対応に焦りを
「わ、今、モロッコだ。えーと、時差は……八時間か。けっこうあるけど、大丈夫かな?」
間髪入れずに入った着信画面と腕時計を眺めてぼやくと、ぽかんとしている鷲尾を前に電話をかけ始めた。
「あ、もしもし、ご無沙汰してます、十条です」
信じがたいほどの常套句を喋った十条は、電話向こうの相手にペコペコとお辞儀をしながら笑みを浮かべた。
「いやあ、とんでもない。いつぞやは助かりました。ああ、いえいえ、お元気ですか? はい、僕もおかげさまで……ええ、妻も娘も元気にしています」
「……」
「ミスターからご活躍は伺ってますよ。あ、そうだ! ハルちゃん、今、ウチの支部にいるんですよ~~そうそう! フライクーゲル。昔、貴方のお世話になったみたいで……ハイ、彼も元気です。――あはは、そうですね、相変わらずなんじゃないかなあ。だって今、猫飼ってますよ。そう! 面白いですよねえ」
「……」
「そちらはモロッコだそうですね。日本人にも人気の国ですが、どうです? あ、ですよね~……やっぱり治安がそこそこ安定してないと……あー、観光シーズンもあるのか――……」
「おい! いつまで世間話してやがんだ!!」
しびれを切らして喚いた鷲尾に、十条はニヤニヤ笑いながら電話に言った。
「あ、すいません、実は電話したのはですね、伊東さんと話したいって子が居まして。鷲尾くん、覚えてます?」
いざ、切り出されると鷲尾はぎくりと身を固くした。
「そうです。F市の。彼、ずっと貴方のことが心配だったみたいです。何処で元気にしてるのか知りたいって、それで僕のところに」
「よ、余計なこと――……」
「はい。代わりますね」
いきなり、ずいと端末を渡されて鷲尾は慌てて受け取るしかなかった。薄いそれを取り落としそうにしながら耳に近付ける。
〈もしもし〉
籠った低い声は、知ったそれよりも少しどっしりと感じた。
「……お、親父か?」
〈親父? 鷲尾、私にはお前みたいなでかい息子は居ないぞ〉
相手は仕方なさそうに笑ったようだった。ふと、胸が詰まって押し黙る鷲尾に、伊東は静かに話し掛けた。
〈久しぶりだ。元気か〉
「……お、俺は……いや、あんた本当に親父か? 証拠は?」
〈証拠?〉
やれやれという調子で伊東は苦笑した。
〈証明しようにも、お前はそれほど私のことを知らないだろうに。そちらの質問に答える他ないな……ああ、それとも、お前が気になっていた彼女の名前でも言おうか? 幼馴染の、か――……〉
鷲尾が変なものを飲み込んだような顔になり、無意味に咳払いした。
「もう、いい……! あんた……海外に売られたんじゃないのか?」
〈売られた? 私が?〉
「そ、そうだよ。急に居なくなるから……俺はずっと……」
〈売られてなどいない。自分の意志で引き受けた。後悔もしていないし、老体には十分過ぎる給与も頂いている〉
「……」
〈鷲尾、十条さんに突っ掛かったな?〉
厳しい声音に、鷲尾は叱られる前の子供のように包帯の下の表情を強張らせた。
〈そうか。お前には説明していくべきだったんだな……心配を掛けてすまなかった〉
「よ、よせよ……俺は……心配とか、そんなんじゃ……」
〈遅くなったが、よく聞きなさい。彼は確かに私を北米支部に紹介したが、無理強いは一切していない。さっきも言った通り、私は自分の意志で協力を受け入れた。十条さんはな、決定後は海外生活のノウハウを教えて下さり、店の解体費用も含めて、土地は高値で買ってくれたんだ。盆や命日には息子の墓参りもしてくれている。私にとっては恩人だよ〉
思わず鷲尾は十条を振り返った。彼はニコニコ笑うばかりだ。
「お墓参りの時にテレビ電話してるんだ。ちゃんと見ないと安心できないと思って」
今時のサービス会社のような対応に唖然としていると、その顔が見えるように伊東が笑った。
〈鷲尾、お前は今、どうしているんだ〉
「……お、俺は……別に何でもいいだろ……」
〈相変わらずの様だな。つまらん意地を張るのはやめて、困ったことは人に相談して、顔を上げて暮らしなさい〉
「……困ったことなんか……」
〈それなら良いが、私は近くで助けてやれない。何でも一人で抱えると、息子のようになるぞ〉
「……あんたの息子は――……俺みたいなクズじゃない。バカな連中に真面目に付き合って殺されたんだろ……俺なら、すぐに殴って逮捕されんのがオチだ」
〈威勢が良いのは悪いことではないが、お前の生き方は損が多い。もっと、自分の事を考えるんだ〉
「……」
〈鷲尾。まだ何も遅くはない〉
「……わかったよ、説教は程々にしてくれ……」
疲れた調子で言うと、鷲尾は重い溜息を吐いた。
〈他にも何かあるか〉
「無えよ」
〈何か有れば、また連絡しなさい〉
「……ああ」
低く答えて、鷲尾はニコニコしている十条に電話を返した。彼は変わらぬ表情で二、三言葉を交わすと、電話を切ってから番号をメモした。
手渡すそれを素直に受け取った鷲尾がポケットに収めると、十はにっこりと小首を傾げた。
「さて、鷲尾くんの答えを聞こうかな」
「……」
ポケットの中の拳銃に手は触れている。目の前の十条は丸腰だ。只のボールペンこそ有るが、他には武器も、それになるような物もない。
鷲尾は拳銃を握ったまま、無造作に取り出した。十条がぱちりと瞬く。
構えれば撃てる持ち方で、鷲尾はポケットから引き抜いたそれを、こん、とテーブルに置いた。
「……あんたに、処理を頼みたい」
「処理?」
「連合会は解散する」
あっさり言った鷲尾は、顔が痛む様な目で首を振った。
「だが、俺は全員の面倒は見切れない。聖のジジイが居なけりゃ、取引してくれる奴も居ない、脅しに乗る奴も居ない……俺は所詮、奴のパシリだったってことだ」
握った拳を更に握り締め、鷲尾は悔しげに呟くと、すっと床に膝をついた。
「……今さら、どのツラなのはわかってる。
「それは――……殺人も辞さないってことかな?」
「……そうする他ないなら、仕方ない。もともと、貧乏だの、学業や仕事で挫折して、文句だけ言って突っ張ってるような奴らだ。中途半端に刑務所に入ったところで、反省するとは思えねえよ……」
「いいよ。力を貸すよ」
これもあっさり出た言葉に、鷲尾は瞠目した。
「本当か。俺は……あんたに払えるもんは何も無いが……」
「何も要らないよ。ただし、条件がある」
鷲尾の目の前に人差し指を立て、十は言った。
「死んでラクになるって発想はナシ。できれば全員、生きて仕事をしてもらう。鷲尾くん、君もね」
「警察に……突き出すんじゃないのか?」
「しなーい。もう十分に反省してる君を、長時間取り調べさせたり、拘束しておくなんて時間と税金の無駄だからね。それより、社会の役に立とうよ」
「だ、だが……俺たちみてえな連中、雇うとこなんか……」
「今すぐに、僕が手配できる行き先は三ヶ所。ひとつは僕のスタッフの勤め先。ひとつは小牧グループ。で、もうひとつは鷲尾くんの知り合いのとこ」
「お、俺の知り合い……?」
「そうだよ。とてつもなく人手を必要としてる。とりあえず、この三ヶ所を目安に一人ずつ面談しようかな。三ヶ所の何処にも行けそうにない子は再検討ってことで」
するすると進む事案に鷲尾はポカンとしていたが、正座したまま頭を垂れた。
「……わかった。あんたに任せる」
「じゃ、この件を連合会の皆に話さないとね。僕も一緒に行こうか?」
「いや……さっき言った通りだ。けじめは一人でつける」
「そう。気を付けるんだよ。殺されないようにね」
気軽に笑い掛ける十に、鷲尾は頷いたが、変なものを見る目で十を仰いだ。
「どうして……そんな風に言えるんだ?」
にこりと首を捻る男に、鷲尾は呻いた。
「普通は、断るだろ。そうでなくたって、嫌な顔ぐらいはするもんだ。なんで……あんたは俺を笑って許せるんだ?」
「僕、別に許してるわけじゃないもん」
おどけた調子で答え、十は微笑した。ずいと身を乗り出し、両手をぱっと掲げた。
「『許す』なんて、神様もしないようなこと、僕はしないさ。鷲尾くん、人間なんてね、二本しか無い手で握手したって嘘をつけるんだよ」
「……?」
「君が言う通りってこと。せっかく、綺麗に生まれてきた子供の大半を不誠実にする程度に、人間社会はしょうもない。……僕はただ、失った家族の想いを尊重してるだけ。彼女が皆を大切に思っていたから、僕は二本しか無い手で、殺し過ぎずに済む」
ふと、鷲尾は背筋が寒くなった。十が背もたれにバックするのを見つめて呻く。
「殺し過ぎないように……」
「そ。僕みたいなのが一時のつまらない感情に流されてたら、あっという間に死体の山ができちゃうよ。それは結果的に、しょうもない人間社会を助長する。家族四人が死んだ事実が、今の僕を生んだように」
十は両手を組み合わせて笑う。
「だからね、なるべく死なせたくないんだ」
「それ……殺し屋が言うことなのか……?」
「ハハハ、だよねえ。ンー……つまりね、僕はなるべく死なないように殺してるってこと」
いよいよ意味不明だという顔をした鷲尾に対し、十は指でとんとんと机を叩いた。
「例えば、無差別殺人鬼や独裁者を生かしておいたら、何人も人が亡くなるでしょ? ストーカーとか性暴力者、悪徳企業のトップ、詐欺グループも同じこと。自殺者、復讐者、ゆくゆくは殺人者を作り上げる連中を生かしておいても、下らないマーケットが動くだけなんだよね。僕らBGMはそれを認めず、『世界を滞りなく回す』……人殺しを肯定して世界平和なんて言えないし、僕らが幾らかの悪党を減らしたところで些末な話といえばその通り」
ふっと前髪を吹いて、十は悪党というよりは悪童めいた顔で、にやあと笑った。
「最近さ、僕の先輩が、ひきこもりだった人達を百人、海外に連れていったんだ。『何もしないなら、殺し屋やる?』って。呼ぶ方も呼ぶ方だけど、行く方もだいぶ狂ってるよね。で、もう半分以上がへばってリタイアして、麻薬治療薬なんかの検体をやってるんだ。……これってさ、日本が百人を無駄にした社会損失になると思わない? 別に百人だからってわけじゃないし、特定の誰かの責任でもない。単に本人含めて多くの人が、一人の価値がわかっていない。君たちもそう。健康で素晴らしい自己を持っているのに、自分を無駄遣いしてる。無駄遣いさせるのが自分なのか、社会なのかはともかくとして」
ぼやきながら十は箱からドーナッツを取り出し、半ば呆気にとられている鷲尾に差し出した。
「人として生まれたのに、人として生きられないのはかわいそう。だから僕は見えたものは一人残らず拾う。せっかく授かった奇跡が、人として存在しないなんて切ないよ。僕は姉が残した命を見つめ続けて生きて来た。無駄にしないと誓って」
――奇跡を、人として。
『人』とは、正義にしろ、悪にしろ、この男が在るべきと判断した者。
負け犬は、どちらを語る資格もないが、頭を垂れて尾を振ることはできる。
「……」
立ち上がり、一見、体に悪そうな艶めくグレーズがかかったそれを、鷲尾は黙って受け取った。
「甘そうだな……」
「フフ、『酸いも甘いも』って言うでしょ。ひとつで丁度いいのも良いけど、組み合わせて美味しいのは、もっと良いって思わない?」
愉快気な男が、コーヒーを指差す。ひとつより、ふたつ。有った方が良いもの同士。
「思わせてくれるか」
「勿論さ。ようこそ、鷲尾くん」
包帯に覆われた顔が、ドーナッツを齧った。
不慣れな甘さが、傷と脳に沁みる気がした。
仏頂面のハルトを、未春が不思議そうに見やること一時間。
DOUBLE・CROSSの店内は、雪解けを待っていたような客で、午前だというのにそこそこ賑わっていた。
「ハルちゃん、なに怒ってんの?」
朝が早かったさららを休憩に送り出した後、未春はぼそりと訊ねた。
ハルトは裏から持って来たストックのドーナッツをショーケースに移しながら面倒臭そうな顔をした。
「怒ってねーよ」
「俺のせい?」
「違うし、怒ってないっての」
「トオルさんのせい?」
「……怒ってないっつうに」
「じゃ、その顔やめて」
ぴしゃりと言われたハルトがうんざり顔になったところで、入り口の引き戸がカラカラと音を立てた。滑らかに入って来たのは、真っ黒なコートに身を包んだ大男だ。
「ブラック。おかえり」
語調を弾ませて嬉しそうにする未春が歩み寄ると、冷たい空気とオークモスの香りを纏った男は、例の薄笑いのまま、例の低いバリトンで「Hi,Miharu.」と答えた。反射的にか、こっちを向いた男は黒髪の下の黒い目を瞬かせた。
「やあ、ハル。腹でも痛いのか?」
「よお、色男。片腹痛いんだ、ほっといてくれ」
「それは気の毒だ。お大事に」
皮肉が通じない男が目前のカウンターに腰を下ろすと、女性客の視線も同じ場所に着地した。仕方なさそうにコーヒーを注いでやると、彼はにこりと笑った。
「お前、仕事は済んだのか?」
「半分ほど」
「半分ね……律儀に泊まる気で帰って来たのか?」
ブラックは肩を上下させて未春を振り返った。
「すまないが、今夜は用事が有る」
「俺は大丈夫だよ」
「そうか、良かった。魔法が効いたんだな」
意味不明な言葉に、未春はどこか照れ臭そうに頷いた。
「何だよ、魔法って」
「……なんでもない」
例のテコでも動かん面構えになった未春はぼそりと答えると、入って来た客の方へと赴く。
「何だよ」
詰問する調子の問い掛けに、ブラックは改めて肩を上下させて微笑んだ。
「ったく……泊まる気ないのに、お前は何しに来たんだ?」
彼は無言でショーケースを指差した。今日のケース内には、先程足されたグレーズドドーナッツの他に、アーモンドチョコレートドーナッツ、シナモンロール、バナナブレッド、さららが最近ハマっているアメリカンワッフルが有る。
「おもしれー奴……どれだ?」
「全種くれ」
「おい、ラッセルに叱られるぞ……」
「大丈夫だ。どうせすぐに次の場所に行く」
呆れ顔でスイーツを取り出し、ワッフルはトースターで温め、ホイップバターとメープルシロップをたっぷり乗せてやった。本日のラインナップが勢揃いしたテーブルに、接客を終えて戻って来た未春が少し驚いた顔をした。
「全部一度に頼む人は初めてかもしれない」
美味しい?と尋ねられた男は切り分けたワッフルを口にして大きく頷いた。
「美味い」
「さららさんが喜ぶね」
などと言っている内に、当のパティシエが部屋から出て来た。階段を下りながら、こちらも振り向いた目がみるみる内に丸くなる。
「全部一度に頼む人、初めてかも」
コーヒーとドーナッツを持って引き返していった未春と同様のコメントをした彼女に、色男は先程よりも優雅な笑みを浮かべた。
「とても美味しい」
「ありがとう。お腹壊さないでね」
さららはクスクス笑うと、それは絶対に大丈夫という顔をしていたこちらに振り向いた。
「今、リッキー本人から連絡があったの。釈放ですって」
「良かったですが、それってつまり……」
さららは眉をひそめたが、出てきた言葉は少々予想外だった。
「それがね、その――『リーフマン』って人が、出頭してきたそうよ」
「Sure……?(本当に?)」
食い気味に言ったハルトを未春が見た。『リーフマン』の言葉に、ちらりとブラックも顔を上げた。彼から急に英語が飛び出る時は、大抵驚いている時だ。さららが相手だからか、ソフトな言い回しになった様だが、表情は硬い。
「なんだって……警察に?」
――てっきり、衝動的な暴行に及んで、勝手に
「リッキーはそこまでしかわからないみたい」
ジョゼフめ……一体、何を考えてる?
警察署内で暴れる気か?まさか。こっちを警戒して捕まる気? いや……そんなことを気にする奴じゃないし、現在わかっている上では傷害と監禁、力也を騙った行動が詐欺や名誉棄損になるかどうか……それほど重い罪にはならない。長くても数日で拘束が解かれるか、本国に送られる。
もし、ロンドンの件が奴の仕業で、イギリスに国籍が有る場合は終身刑だ。そうなれば始末は難しくなるが、外に出ることもできなくなる。
……あのかくれんぼ野郎、最終的に、ブタ箱に逃げ込む気か?
だったら何の為に日本に来た? こちらを狙う為に、力也を模していたのではないのか? 学び、鍛え、心に根を張った矜持に従って、目に付いたものを殺してしまう男にしては、やけに理性的に……何か目的を持って行動している。
これは、”奴”の気配だ。
「この事、十条さんには?」
「トオルちゃんは、話し合いが済んだらこっちに寄るって」
「そうですか。……おい、色男、とっとと食って退散した方がいいぞ」
既に半分以上を平らげていた男は紙ナプキンで口を拭ってにこりとした。
「ミスター・十条が来るなら、挨拶しておきたい」
「命知らずな奴……俺は知らないからな」
修羅場は余所でやってほしい、と思っていると、またカラカラと扉が開いた。
全員が振り向いた先で、ウサギがピンと耳を立てるような顔で立っていたのは
「おはようございます、果林さん」
ハルトが声を掛けると、彼女は我に返った様子でペコペコとし始めた。
「ど、どどどうも……」
「こっちにどうぞ」
別に他意は無いが、真っ黒なハンサムの隣――空いた席を示すと彼女は妙にジタバタしながら首と手を忙しく振った。
「え、ええ? だ、だだ大丈夫! 今日はハルちゃんたちと――葉月くんにお礼に来ただけだから……こ、これ皆さんでどうぞ……!」
菓子の紙袋を持って、果林の視線はハルトと未春をふらふらと彷徨い、やりやすいと思ったか、がばりとこっちを向いて突き出した。
……少々、釈然としないが有難く受け取った。
「ありがとうございます、気を遣わせてしまったみたいですね」
「全然……大したものじゃないし、葉月くんは、今日はお休み?」
「はい。果林さん、その後、変わったことはないですか」
「うん、おかげさまで何も無いよ。鷲尾から連絡もなかったし……」
ブラックが視線だけ果林に向け、すぐにドーナッツに戻って行った。
「そうですか。良かったら一杯いかがですか? 俺が持ちますよ」
「え、悪いよ。こないだも頂いちゃって……」
「いいわよ、ハルちゃん。私が付けとくから。何でもどうぞ」
果林はさららに遠慮がちな目を向けたが、優しい笑顔につられるように笑った。以前から友人だったようにメニューを挟んで喋り始める二人を眺めていると、つんと指先で肩を押された。振り返る先には、暗闇から這い出たような薄笑い。
「ハル、そちらの美人は君の知り合いか?」
「だったら何だよ、プレイボーイ」
「君の周囲には美しい女性が多いと思って」
「羨ましいだろ」
面倒臭さを隠しもせずに言うと、男は口角を妖しく歪めた。
「彼女は君の恋人じゃないのか?」
「バカ言え。彼女はシングルだが、まともな一般人だ。手を出すな」
「シングルか」
「おい、手を出すなよ」
「意外だと思っただけだ」
「手え、出すなよ……?」
指さしと共に念を押したのをゆるい笑みが仰ぐ。こんな男に迫られたら果林は舞い上がるかもしれないが、脳がシャットダウンする方が早そうだ。実際、席一つ空けた同じカウンターに居るだけで、ガチガチの緊張感が伝わって来る。
「来てくれて嬉しいわ。誘えばいいのに、トオルちゃんたら全然連れて来ないんだから」
嬉しそうなさららに対し、果林はシナモンを振ったカプチーノを両手に、身をすぼめて微笑んだ。
「トオルさんは何度も誘ってくれたんですけど、私が遠慮してたから……」
「どうせ何かのついでみたいに言うんでしょ。今日もちょうど、同じような感じで来るのよ」
「え、そ、そうなんですか?」
これ以上、精神的に揺さぶるのは果林の心臓に悪いかも……などとハルトが考え始めた時、折悪しく(?)その男は姿を現した。
「はー……外さむーい……!」
貴様は女子高生かと思うような語調とポーズで現れた気味の悪い中年は、一瞬、ブラックの方にぴくりと頬が動いたが、すぐに果林に気が付いて表情は崩れた。
――全く、運の良い色男である。
「おや、果林さん。こんにちは~、いやあ、ちょうどよかった」
へらへらっと笑いながら手を振り振りやって来た十は、果林がやっぱりつられた手を振り返す方へと歩み寄り、どう見ても目立つ男をスルーした上、空いた中央に背を向けて座った。
「男には無視されるんだな、プレイボーイ」
「ミスター・十条はレディーファーストなんだろう」
……ポジティブな奴。
動じない男に肩を上下させ、ハルトはさららの視線を受けて、オーナーにコーヒーを注いでやった。
「ありがとー、ハルちゃん」
受け取ろうとした手からひょいとカップを持ち上げ、ハルトは意地悪く言った。
「どういたしまして、と言いたいとこですが、貴方に挨拶する気の人間を俺に丸投げしないでくれませんかね」
「えー……ハルちゃんは几帳面だなあ」
上司はぶつぶつと文句を言いながら、気怠そうに似たり寄ったりの男を振り返る。
「どーもォ……はじめまして。君の事はスターゲイジーや、”僕の”妻と”僕の”娘から聞いてるよ、ブラックくん」
十にしてはおぞましい程、愛想に欠ける挨拶だったが、ブラックは笑顔で応えた。
「お会いできて光栄だ、ミスター・十条。俺も各人から貴方の話は聞いている。特に、美しいご家族には素晴らしい夫であり、父親だと伺った」
ぴくりと十の頬が動いた。
「ス……スバラシイって、言ってた? 穂積が? 実乃里が?」
「ああ。二人は貴方をとても愛しているのがわかった。素敵な家族で羨ましい」
「フ……フフフフフ!……そ、そおっかァ~~……いや、知ってるけどね! 知ってるけど! ハハハハハ、いや~~……君、噂通りのハンサム君だね!」
何故か頭を抱えたくなってきたハルトは、単純極まりないおべっかを上手に使った色男と、わざとかと思う程うまく乗せられた上司を交互に見た。
「……Well……」
やれやれ、といった調子で、上司の前にコーヒーを置いたハルトの視界に、すっと入って来たのはこれまで沈黙していた未春だ。
「ハルちゃん」
「今度は何だ……?」
彼は微かに眉を寄せ、ピースサインをした。
「注文。ブレンド二つと、グレーズ二つ」
「あ、ハイ……You got it.」
あっちに流されこっちに流され……精神が忙しい職場だ。
用意してやった盆を捧げて真面目に給仕する未春の背を見送っていると、十を丸め込んだブラックと目が合った。
「ハル、少し良いか」
「へいへい、何だよ?」
「来る途中、リーフマンを見たんだが」
「You could have told meッッッ!(先に言え!)」
唐突に英語を喚いたハルトに店内の視線が集まったが、気にしている間は無い。
胸倉掴まんばかりの勢いに、少しも態度を崩さない男はやんわり言った。
「落ち着け、ハル」
「ええい、この呑気者! いつだ! 今朝か!?」
息まいた刹那、こめかみにズンと手刀が振り下ろされた。
「ハルちゃん、うるさい」
御尤もな注意をした未春に言い返す言葉も無いまま衝撃に呻いていると、呑気者が綺麗に空になった皿を押しながら言った。
「今朝だ。人と会っていた。両者共にうちのスタッフが追っているが、別の尾行も付いていた。あれはミスター・十条のスタッフじゃないか?」
痛みを堪えてハルトが上司を睨むと、こっちも呑気にひらひらと手を振った。
「
その肩より向こうのびっくり顔の果林と目が合い、ハルトは溜息と言う名の苛立ちを吐き出すと、額を抑えて唸り声のような声を搾った。
「さららさん……休憩……頂きたいんですけど……!」
必死に怒りを抑えた猛獣からの要求に、さららが冷静に応じると、ハルトはぎろりとブラックを睨んだ。
「ツラ貸せ、色男!」
まんま悪党のセリフを吐いて、二階を示した。大人しく腰を上げた男と共に去るのを、おろおろとした目で見るのは事情を知らぬ果林だ。
「ハ……ハルちゃん、どうかしたんですか?」
「大丈夫だよ、果林さん。ちょっと昔の知り合いのことが気になってピリピリしてるんだ。ね?」
にっこり笑った十に促されて、さららも神妙な顔を微笑ませて頷いた。
「トオルちゃんが言う通り、心配は要らないわ。普段のハルちゃんはけっこう、ああいう感じよ」
「え、そうなんだ……うちに来てくれる時は、いつも穏やかだから」
「猫被ってるんだよ、ハルちゃんは」
すっと割り込んで言ってのけるのは未春だ。あれは猫被りというよりは
「もしかして、たまにブツブツ言ってる英語って、悪態か何かなの?」
三人が顔を見合わせ、未春以外の二人がプッと吹き出した。
「そうかもしれないわね」
「そうそう。ハルちゃんは根は優しいけど、治安の悪い海外仕込みだからねえ。揉めても、未春が此処に居れば大丈夫。でしょ?」
にっこり笑い掛けた叔父に、未春は上を見上げてから、こくりと頷いた。
「言っとくが、俺はだいぶ頭に来てる。はぐらかすな。嘘をつくな。下らないジョークは言うな。順を追って全部話せ。いいな?」
足元で笑われているとは知らずに、ずかずかと歩いた後、テーブルで向かい合って指を繰る男に、対岸のブラックはにこやかに頷いた。
「了解した」
「じゃ、聞かせてもらおうか。お宅らのボスは今、何してる?」
「法務省・矯正局長、
「OK……お前らが調査内容をスラスラ喋り出したら、もうその件は済んだか、誰の妨害も受けない状態ってことだな」
ブレンド社は、調査中のことについてはどんな下らない話でも頑なに喋らない。
――が、終わった調査に関しては、情報に姿を変えたとみなし、急に口が軽くなる。
無論、依頼された件は金銭取引や交換条件を果たした上でだが、そうではない場合や今度のような”特例”は別だ。
「ハルは勘が良いとボスに聞いていたが、その通りのようだな」
「おい、俺は下の単純なパパとは違うんだ……下手なお世辞はやめろ」
「安心してくれ、俺も男に世辞など言わない。正当な評価だ」
先程の下りを完全にリップサービスと認める発言に、ハルトは目をすがめたが、そこを指摘している場合ではない。
「ハル、気付いたのなら聞こう。俺は君と情報交換をしたい」
「……スイーツの”ついで”かよ。正当な評価に値するか知らんが、もともと、お前たちが警戒していたのは、『リーフマン』じゃあなく、『オムニス』だろ」
「
「”どっちも”来日してるんだな?」
「ああ」
「『リーフマン』が葉月力也を真似るのは予想通りだった」
「ああ」
はー……と、息を吐いたハルトは、眉間に手をやる。
「よくわかった。『リーフマン』は”二人以上”居る」
「見事だ」
本心からの賛辞らしいが、褒められた方はあまり良い顔をしなかった。
「本人以外にダミーを一人確認している。ハル、何処で気付いた?」
「お宅らのアクションと、奴の行動から……まあ、今回、あんたが初対面だったのが難の有るポイントだった。おかげさまでわかったこともあるが、例によってややこしいことになった面もある……」
ブラックが明かした通り、スターゲイジーの来日目的は、その久我山という男に接触すること。だが、着いて真っ先に彼がしたのは、こちらとブラックを会わせること。
その理由は『リーフマン』を見たから。
これはこちらへの牽制であり、陽動であり、注意喚起だ。
勝手に動くと、糸を引いている『オムニス』の動きが変わる。こちらが騒ぎを起こして警察が動けば、更にブレンド社にとって邪魔になる。だから、ブラックの特定方法を提示し、その判断の特異性と、何か有るなら一緒に行動するのが都合が良いように仕向けた。
……それを踏まえて動かないで居てやったのだから、有難く思ってほしい。
「見かけたのは嘘じゃないんだろうが、見た場所は東京駅じゃあないな? 恐らく、ロンドンの何処かで接触した。違うか」
東京で確認したばかりでは、ブラックが新しい支店に出向く暇はない筈だ。
イギリスを発つ前なら、スターゲイジーは行きがけに対策を立て、スタッフに指示も出せる。
「正解だ。ヒースロー空港だった。便は違ったが、搭乗前に『リーフマン』と『オムニス』の双方を確認した」
「それは、お前が居たから確認できたんだな」
恐らく、『オムニス』も匂いで捕捉されるとは思わなかっただろう。
目立つスターゲイジーの陰に入るつもりが、影を踏まれた状態で来日する羽目になった。スターゲイジーはブラックを『ラッキーだった』と評したが、こういう時に”持っている”のは彼の方だろう。
「すぐにうちのスタッフが調べたが、彼らも便は別々だった。謎のもう一人に関してはノーマークだったが、俺たちと同じ便に搭乗していたから、尾行を察知して捕捉した。俺は目的が済むまでは、接触したのは『リーフマン』のみで、東京駅と答えるようボスに指示されていた」
「順序で言えば殆ど似たようなもんだが、お宅らの行動が変わるな」
ノーマークだったダミーは、『オムニス』の指示或いは誘導でスターゲイジーをマークする為に同じ便に乗ったのだろうが、元スパイを尾行するのは至難の業だ。
スターゲイジーの場合、一見、豪快に生きている様に見えるのも罠だ。少しでも怪しいと思われたら最後、あの紳士の目からは逃れられない。
「ボスは日本に到着後、『オムニス』とダミーは泳がせ、追うのは『リーフマン』だけにするよう指示した。俺たちの目的に障害となりそうなのは『オムニス』だが、
「お前らのボスは賢明だ。俺でもそうする」
「奴らとお宅らが同時にアクションを起こしたきっかけは何だ?」
「
ハルトは少し意外な顔をした。
てっきりロンドンの事件かと思ったが、違うらしい。
聖景三といえば、十が席巻する前の日本のBGMを仕切っていた、古参の悪党だ。十や未春に規格外の身体能力を与えた薬物・スプリングの産みの親である
「聖グループの解体と……法務省に何の関係があるんだ?」
「法務省が管轄する日本の刑務所に、ある外国人が収容されている。本名不詳・通称『ハーミット』。この男は戦後の頃から、聖家の支援を受け、日本の各地にある刑務所を頻繁に移動し、身を隠し続けている」
「
「スパイ業界では伝説級の人物だそうだ。ボスは、我々が求める”世界唯一の情報”を持っている男だと」
「知らん……そんな男が、なんで聖家に匿われていた?」
「俺はこの男と聖家との因果関係は知らない。だが、敗戦国である日本で、戦犯に等しい聖家が生き残り、その後も栄華を極めたことと関係があるのではとウチのスタッフは言っていた」
聖景三が、何らかの手で戦犯を逃れたという話は聞いている。賄賂や買収によるものだけかと思っていたが、この男との取引も原因なのだろうか。
「つまり、ハーミットってヤツは聖家の援助が失われたから、移動手段が無く、何処かに留まった状態ってことか?」
「そうだ。彼が新たなスポンサーを得る前に、接触するのがボスの狙いだ。その居所を把握しているのは、現行の法務省・矯正局長だけだ」
「ふうん……『オムニス』が、その接触を阻止したがる理由は?」
「本当に阻止するかは不明だが、ブレンド社では二つの可能性を推測している」
ブラックは指を立てながら言った。
「一つは、ハーミットが持つ情報を彼も欲しがっている場合。もう一つは、彼がその情報を我々に渡したくない場合だ」
「なるほどな。……まあ、前者なら奴はそれほど強い手段には出ないだろう。誰かを懐柔すれば済む」
「ああ。ボスも後者を警戒していたが、どうやら前者のようだ。我々を泳がせ、彼の情報を引き出すのが狙いだろう。ロンドンの事件は、『オムニス』の指示か、『リーフマン』の独断行動の何れかとボスは見ているが、どちらにせよ、我々の一部をロンドンに留め置きたかったのではと推測している。俺も幾つかの現場を回ったが、あの事件には証拠が皆無といっていいほど残っていなかった。相手が何者か不特定の状態では、スターゲイジーが離れるロンドンを
確かに、ブレンド社のスタッフは一般人も居るし、どちらかというとスパイやハッカー集団に近い為、ブラックのような武闘派のスタッフは少ない。
スターゲイジー以外に、ラッセルやペトラまで呼び出すと、別の悪党、或いは行政機関がよからぬことを考えるかもわからない。そのリスクを踏まえても、スターゲイジーは代理ではなく、本人が来日したわけだ。
「一体、お前らはどんなヤバいものを欲しがってる」
ブラックの薄笑いが、少しだけ真剣なそれに見えた。こじんまりとしたキッチンに面したリビング&ダイニングで話すには、重い空気を感じた後、彼は低く言った。
「グレイト・スミスの居場所」
「グレイト・スミス……?」
ふと、スミスのファミリーネームを持つアマデウスの秘書が浮かんだが、スミスという名は日本で言うところの『佐藤』や『鈴木』に等しい。
誰だ、と呟くと、ブラックはこちらをじっと見つめ、軽く肩を上下させた。
「知らないんだな、ハル」
「お前は知ってんのか」
「いや。俺も会ったことは無い。伝説のスパイだそうだ」
「スパイねえ……スターゲイジーの知り合いか?」
「ボスもそうだが、ミスター・アマデウスや『オムニス』、そしてハル……あんたも関り有る人物だ」
「は? 俺やアマデウスも?」
「ああ……だが、ハルが知らないのなら、彼の話は置いておこう。俺より、ボスの方が詳しい」
ゆるく首を振り、黒い前髪の下の黒い瞳が温和に歪められる。
「俺たちの来日後の行動は、ハルも知っての通りだ。俺はボスが久我山に接触する為に行動し、準備が整ったところで待機していたボスが出た。それが現在の状態だ」
「スターゲイジーが引きこもってたのは、ナンシーが居たからか?」
「ああ。ボスが久我山と接触する前に日本警察と構えるわけにはいかない。だからミスター・十条と相談し、ナンシーの遊び相手を手配してもらった」
「遊び相手、ね……そいつが鷲尾連合会と日本警察ってわけか」
ブラックは静かに頷いた。
「当社の窓口を日本に作るのは初だが、在日スタッフは以前から居る。今回はナンシーにスターゲイジー来日の情報を流し、取引を持ち掛け、二重スパイとして活動した。ナンシーも気付いているだろうが、彼女は日本には不慣れだ。協力者は必要だし、単独で協力要請できるほど、日本警察に伝手は無い」
日本警察の担当者に
「あの警部にBGMの情報を流すのを、よく十条さんが許可したな……?」
「ボスの話では、いつか話すつもりだった様だ」
自ら悪党と名乗り出る気だったか。まあ……日本のシステム上、現行犯以外の検挙は非常に難しい為、聞いたところで彼のストレスが増すだけだ。
「本来なら、鷲尾連合会は
「厄介者を同時に片付ける気だったわけか」
帰って来た十の様子からして、解体の運びになったのは間違いなさそうだ。
アマデウス同様、十も始末よりは有用を選ぶ。だが、仮にも”あの”十に反発していた団体だ、そう安易に組織解体を受け入れるとは思えない。代表の鷲尾が納得しても、離反者が出る可能性が高い。
十は、この離反者を文字通り炙る気だろう。
……と、いうことは、鷲尾が果林に接触しようとしたのは、自分の身の危険を予感してのことだろうか? ……いや、それなら紛らわしい行動で連れ出すより、直接、連絡を取る方が良い様に思えるが。
「お前が、会に発破かけてきたのか?」
「想像に任せる」
何やら含みのある回答をした男に呆れ顔を返し、ハルトは首を捻った。
――先程、果林について聞いたのは、彼女が鷲尾の名を出したからだろう。
「まあ、いい。出頭してきた『リーフマン』はダミーの方だな?」
「ああ。ダミーを用意したのは『オムニス』と思われる。『リーフマン』の為と、ナンシーの対策、更にハーミットに接触する為の布石である可能性が高い。引き続き、監視を続ける」
「本物は、何処に行った?」
ブラックは自身の端末を取り出し、軽く操作してから言った。
「今朝はT市の駅で確認したが、現在はこちらの方面に車で移動中だ」
「追っているスタッフと連絡は取れるか」
「ああ」
「OK……そいつの処理は後だ」
軽く片手を振って、ハルトはやや視線を厳しくした。
「『リーフマン』が葉月力也を真似るように仕向けたのは、お前らか」
「ウチのスタッフだ」
「どうやった?」
「ハルは、想像が付いているんじゃないのか」
返って来た問い掛けに、ハルトは渋面になった。
「俺の予想通りなら、そのやり方は少々気に入らねーな」
「あんたは思ったより、優しい男だ」
今、殴り掛かっても笑っていそうな男を睨んで、拳を溜息に変えた。
「リッキーの偽物をやっている男が居るのは聞いていた。そいつが誰の子飼いで、何の目的で行動していたかはどうでもいいが、同じ人間が二人が居る状態なんて、『リーフマン』にはとんでもなく気楽な筈だ。奴の得意技は、あくまで隠れることと逃走だ。アマデウス配下の他者に化ける『ブロードウェイ』には遠く及ばない。成り代わるのではなく、目晦ましになればいいんだからな。あんたらはただ、奴の目の届くところにその情報を置くだけだ」
こちらが対象を追いかけているとして、分かれ道で背格好がそっくりな人間が二人も三人も現れたら、正否がわかっていても混乱する。しかも、『リーフマン』はあちらも本物とダミーと二人。結果、力也が合計四人居た状態が存在する。只でさえ、力也に似た学生や若者は大勢居る――目撃情報や監視カメラ映像を精査しなければならない程度の”森”が作られる。
「情報の置き方は色々あるな……この店はスタッフの顔写真なんか公開しちゃいないし、偽物が出現している話なんか普通は信じない。だが、お宅らはもともと、調査の上で情報を売るのが仕事だ。世界経済や戦況に影響が出るような情報には慎重だが、この程度の話は人を介して買うこともできる。世界中の窓口に知らん顔でぶら下げて、”買わせる”ことも可能だ」
ブラックは否定せずに薄笑いを続けた。
「ウチのやり方に関してはほぼ正解だ。しかし、一つだけ訂正がある」
「訂正?」
「葉月力也に関しては、都合が良いから巻き込んだのではない。彼が当社の調査対象になっているからだ」
「What……?」
どういうことだ。腰を上げそうになると、ブラックは何でも無さそうに答えた。
「彼に関して、不明瞭なデータが存在する。今回、日本在住のスタッフから、葉月力也の過去のデータに穴が有る為、埋めることを要求された」
「おいおい、リッキーは一般人だぞ? 情報なんて、本人に聞けばわかる筈だ」
過去、BGMの情報を余所に漏らしてしまうほどの力也だ。恋愛に関しては頑張ったようだが、相手は安易に特定できたし、ちょっと誘導が得意な人間が相手をすれば、聞けば聞いただけ喋ってしまうだろう。
「それはできない。その情報を持っているのは、本人じゃないからな」
「は……? 本人じゃない……?」
「穴となっている情報は二年前。彼がヤクザと揉めた際に起きた喧嘩だ」
祖母が騙し取られた金を力也が取り戻そうとした件か。
「彼は何らかの障害によって、その時の記憶を殆ど失っているそうだ。だが、彼の事前の行動、その後の行動と身体ポテンシャルを鑑み、当社は”その時”に有った出来事には別の真相が有ると見ている。その情報を持っているのは只一人、未春だ」
――未春……確かに、あの件で路地裏で絶体絶命の力也の前、急に現れた未春がヤクザをばっさり……じゃない、ぐさりとやったと言っていたが。
つい、嫌なものを飲み込んだ顔になった。
「まさか、お前が未春に近付いたのは……」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。親しくなれば何よりだが、最初に彼に俺を近づけたのはハルだ」
これには思わず歯噛みした。状況が状況だったのは間違いないが、お膳立てを手伝わされたということか。しかし、真相とはどういうことだろう。
「もう、その情報は聞いたのか?」
「いや。まだ」
「先に言っていいのかよ。あいつは此処の会話も集中すれば聴こえる筈だぞ。俺が今から、喋るなとあいつに釘も刺せる」
「それは無い。あんたはこの情報に興味が有る筈だし、見た限り、あんたが促せば、未春は喋ると俺は思う」
「俺が興味が有るって何でわかる」
「想定では、彼は怒りを起点に忘我状態、又は自身をコントロールできない状態になると見ている」
「リッキーが、我を忘れて暴れるってことか……?」
そんな姿は見たことが無い。
先日の果林のときは無論のこと、リリーらを守るために争った際も、彼は手こそ安易に出たが、無作為に暴れる様子は無かった筈だ。これは
「彼の場合、日常生活に問題がない点からして、生まれながらというわけではなさそうだ。何かのきっかけで生じた精神疾患とウチのスタッフは見ている。多大なストレスを負った経験から、似たような状況に陥る、或いはその様な現場を見た際に起きるようだ」
――ストレス……十代の時に受けたいじめか?
校舎を見て吐く程の重い症状は、十に会ってから緩和されたというが……
どう見ても殺し屋向きではない力也を店に置いているのは……それが原因か?
では、二年前の事件は、本当は……?
「リッキーの”それ”を引き出す為に、巻き込まれるのを考慮しやがったか」
「ハル、それは不確定要素だ。あんたが言った通り、『リーフマン』は成り代わるのが目的ではない。せっかくの葉を自ら焼くのは、彼の望むところではないだろう」
「よく言う。そいつは『リーフマン』に限った話だ。お前らの狙いは、奴が各所で暴れた際の相手だ。警察に被害届出すより、先に手が出る連中は少なくない」
「ミスター・十条は、その辺りは心配要らないと言っていたが――……ハル、俺に文句を言うのは筋違いだと思うな。此処に一般人を置くことが非常識だ」
「おーおー、テメーが言う通りだよ……俺も全くもって同意する。この支部は根っからクレイジーだ!」
ドン!と拳をテーブルに叩き付け、苛立った目が微動だにしない男を見据えた。
「お前らは……その情報を得てどうする?」
「どうもしない。ブレンド社は全ての情報に通じる。社員はその為に動くだけだ」
「いつ、売り時が来ても良い様にか」
真っ向から皮肉ってやると、真っ黒な目が薄笑いで答えた。
「――わかった。ちょうど、下の上司も聞いてるだろ。リッキーのことは二人に確認すればいい。……それで? お前、俺を手伝う気はあるか」
「ボスが『使え』と言った通りだ」
「そいつはどーも……戦車と戦える実力は頼りにしてる」
「戦車?」
「スターゲイジーが、一門ぐらいはどうにかするって言ってたぞ」
「ボス……」
苦笑いと共にゆるゆると首を振ったが、否定しない辺りに、この男の底の知れないところがある。
「軍隊とやり合わずに済むのを祈るよ」
「俺もそう願う。最後に、お前の『半分』残った仕事の話を聞こうか」
何だか慣れてきてしまったオークモスが、ふと、肺に流れ込む気がした。
にこりと微笑んだ唇が、ぞっとするバリトンで答えた。
「悪いが、調査内容は話せない」
ハルトはしばし、その薄笑いを見つめ、唾吐くように言った。
「悪党め」
電話から響いてきたのは、軽やかな声だった。
〈ああ、鷲尾さん。メイソンです。こっちの用が済んだから準備できそうだけど、いつにしましょうか?〉
「……十条
〈おや? ……というと、十条はそちらで抑えられるので?〉
「奴と争うのはやめた。悪いが、俺が協力できることは何も無い」
〈ほほう、それはそれは〉
一転した返答に対し、あまり残念そうでもない声を出すと、男は天気の話でもするように問うた。
〈バイク女の件も宜しいんですか?〉
「ああ。警察が銃の件で検挙すんなら俺だけで済む。あんたらの名を出す気もない」
〈まあ、出されたところでウチは痛くも痒くもありませんが。お宅は殴られ損ですねえ〉
甚ださっぱりした調子で嫌味を言うと、思った以上に簡単に男は了承した。
〈良いでしょう。お互い口約束なのはこうした場合の為ですし。ところで鷲尾さん、十条と争うのはやめたと仰いましたが、その質は如何程で?〉
「質?」
〈例えば、何かの契約をしたとか、条件付きの調停なのか、買収とか、色々有るでしょう?〉
「……ウチが解散する形で
〈はあ……なるほど。それはお宅の総意なんですか?〉
微かに鷲尾は舌がひりついたが、邪魔をするように甘い味が帰って来た。
「さあな。話すのはこれからだ。俺にもわからない……」
〈なあるほど。正直な解答の様ですね。いや、参考になりました。ありがとうございます。貴方もご苦労なさると思いますが、どうぞお元気で〉
珍妙な労いを残し、電話は切れた。
椅子にどっかと座った状態で端末を鬱陶しそうに耳から離した男を、呆気にとられた顔が取り囲んでいた。
「ど……どういうことですか、鷲尾さん……!」
最初に噛みついたのは、以前、実乃里を連れ去ろうとした男だ。
「……言った通りだ。十条と組む」
「はァ⁉」
約束を反故されたような顔をした男の声に、周囲の男たちも殺到した。
「あ、あんた……どうかしちまったのかよ!?」
「もしかして、脅されたんですか……⁉」
口々に言うのに鷲尾は首を振った。
「何度も言わせるな。連合会は解散する。お前らの身の振り方は、奴が手配する」
「そ……っ……そんな話、信じられるんですか⁉」
悲鳴のような声に、鷲尾が返事をしようとする前に、大声が響いた。
「ふざけんなよ‼」
身に着けたシルバーアクセサリーをじゃらつかせ、最初の男が吠えた。
「良い子ちゃんに働くってんならあんたのとこなんかにいねえよ! 満員電車乗るとか、暑い中で力仕事するとか……偉そうな金持ち連中の為に社畜やんのが嫌でバイク飛ばしてたんだろ!?」
「
包帯から覗く白けた目に、呼ばれた男は怯んだ顔をしたが、拳を握りしめた。
「あ、あんたは……恨んでたじゃねえか……! 伊東の親父の件だって……」
「親父とは話した。……十条は恩人だってよ」
疲れた様な溜息を吐いて、鷲尾は言った。
「お前らの気持ちはわかる。俺だって十条は気に入らねえ。……だが、俺たちがこのまま居座れねえのは、お前らもわかるだろ?」
全員が呻き声のような声を立てて押し黙った。
「不正だの、下請けイジメだの、そんなことばっかして儲ける連中は、いつか潰れる。聖のジジイも同じだ。俺たちはそんなクズ共より更に弱い。やりたくねえことに文句言って、逃げ続けただけだ」
菅谷と呼ばれた男が、きっと顔を上げて鷲尾の胸倉を掴み上げた。
「だからって……十条は”違う”だろうが……‼」
抵抗しない男の視線を睨み、今にも殴りそうな勢いで怒鳴る。
「奴が俺らにしたのは何だよ? 騒音反対とか喚く奴らと仲良くして、片っ端から取り締まったじゃねえか! バイク取られた奴も、殴られた奴だって……!」
「そんなもん、十条がやらなくても、いずれ警察にパクられたろ」
「なンだよ……その言い方……‼」
「……あいつらは市道で爆音走行して、注意した一般人に手をあげた。悪党と一般人の線引きができねえ奴は、やられて当然なんだ。そのぐらいは俺も教えたぞ」
鷲尾の目に、菅谷は悔し気に震えるしかない。手負いでも、長年アウトローを纏めて来た男だ。その辺りのチンピラが敵うような迫力ではなかった。
「『悪』で居てえなら強くなれ。危なくなったら誰かの陰に隠れるような奴は、俺と同じザコだ。どんなに見た目や威勢で突っ張ったってな、悪徳企業でおべっか使ってる奴と同じなんだ。お前が言う、満員電車に揺られて、汗水垂らして働く社畜の方がよっぽど偉大だ」
掴んでいる手が震え、歯軋りした口からは不規則な呼吸だけが漏れた。
「俺を殴って気が済むならそうしろ」
命じるような口調に、カッと目を剥いた菅谷は拳に力を込めたが、殴る代わりにどんと突き飛ばした。
「偉そうに言うんじゃねえよ‼ 腰抜け野郎が……‼」
椅子にどさりと落ちつつも、猛獣めいた目が、見下ろす側をねめつけた。
「お前らが何と言おうと、東部鷲尾連合会は解散する」
誰も、声を上げる者は居なかった。いっそ、すすり泣きでも始めそうに目を赤くしている者も居る。
「お、俺は……鷲尾サンに付いてくよ……」
か細い声で言ったのは、学生時代からの古参の仲間だった。
「難しい話はわかんねえけど、俺らがこのままで居たら、十条か……あの外国人たちみてえな奴らに潰されちまうんだろ? そうならないように……解散するんだよな? 戦国時代みてえなことだよな?」
何やら子供じみたことを言い始めた男に、鷲尾は苦笑混じりに頷いた。
「そうだ、石田、お前は賢い。聖のジジイが死んだ今、もう俺らに余分な金は下りて来ない。生きるつもりなら、働くしかねえんだ。裏だろうが表だろうが、生き残れる場所で」
「ウン、わかったよ」
大人しく頷いた石田に続き、数名が頷く傍ら、この場に耐えかねたように菅谷がずんずんと出口に向かった。
「菅谷!」
先に声を掛けたのは石田だ。
「鷲尾サンは……腰抜けなんかじゃねえよ。どこ行っても煙たがられる俺らの為に――嫌いな十条に頭下げてきてくれたんだ……!」
その声に男は立ち止まったが、拳を握りしめたまま振り向かなかった。鷲尾もそちらを向く。
「菅谷、俺は確かにクズだ。聖のジジイの寄生虫だった。自分が何者か気付いていないバカだった。お前は俺と同じものになるな。死ぬぞ」
「ならねえよ‼ 誰が……誰がお前なんかに……‼」
背を向けたまま吠えると、その勢いのまま菅谷は走り去った。
他にも数名が、歯噛みし、青い顔をしてその後に付いていった。石田が不安そうに見送りながら言った。
「良いんですか、あいつら……ヤバいことをするかも……!」
「言う事は言った。聞いただけマシだ……後は、成る様にしか成らねえ」
どっと疲れたように言う鷲尾に、残った男たちもすっきりとはいかぬ顔つきだった。
数名が、不安げな顔で見るのは部屋の隅――隠された金庫の位置だ。入っているのは、これまで安心材料だった拳銃だ。今はただ、問題を起こす厄介ものに感じた。
鷲尾も同じ方を見てから、溜息を吐いた。
「残る奴が居て助かった。念のため、皆身辺に気を付けろ。事が片付くまではなるべく一人になるな……この事務所も常に四人以上待機する――ブツは今日中に、残らずディック・ローガンの所に移動だ。早いとこ、手を離すに限る」
「だ、大丈夫ですかね? 菅谷たちが奪いに来たら……」
「十条だって……俺たちが丸腰になるのを待ってるんじゃ……」
不安は疑念を呼ぶ。鷲尾は静かに首を振った。
「菅谷たちが取りに戻るなら尚更、ブツは無い方が良い。十条が俺らを殺す気なら、拳銃なんか有ろうが無かろうが関係ねえよ」
落ち着き払った調子で言うと、鷲尾は人が変わった様に火元や危険物の注意喚起をし始めた。彼を昔から知っている者から見ると、懐かしい雰囲気ではあった。ガキの頃から頼り甲斐のある兄貴分で、自分に冷たい大人や社会を憎んでいて、乱暴者だが、同じ境遇の仲間を放っておけない。そんな彼を持ち上げ、背中に隠れながら此処まで連れてきてしまったことを、古参の仲間は少なからず恥じていた。
十条は一体どんなマジックを使ったのだろう。ここ数年はいつも苛立っていた鷲尾が、急に理知的で――そう、素直な大人に変わっていた。
「ここも……閉めちまうんですよね?」
誰かの切なげな呟きに、鷲尾は重苦しい、ヤクザ丸出しの部屋を見渡して頷いた。
「十条が買い取って、リフォームするってよ……」
「はあ、何にするんですかね……?」
「社宅兼、動物保護施設だそうだ。お前らが勤める気なら、そのまま住むのもいいってさ……」
『へ?』
全く予想外の発言に、男たちは間抜けな声を発した。
「……知り合いが、困ってるんだと……」
鷲尾はどこか、気恥ずかしそうに呟いた。
うかとすると戻って来る甘い香りは、甘い話しか連れてこないらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます