18.Hide and Seek.

 ブラックが挨拶に来た朝、御年二十八の男は妙にぐずった。

「別れが寂しい」と、年甲斐もなくぼそぼそ言い、終いには大型のぬいぐるみにするようにぎゅっと抱き締めて離れなくなってしまった未春みはるに、百戦錬磨の色男も困った笑みを浮かべた。

「未春には、ハルが居るじゃないか」

優しく背を叩かれ、彼は黒服に顔を埋めたまま頷いた。

初対面の敵意剥き出しのツラから大した変わり様だ。

彼が来ると言うので店に来ていた実乃里みのり穂積ほづみも居るというのに、全く気にした様子もない。初めて見る様子に、さすがの女性陣も驚いたようだ。代わる代わる、その背に声を掛けた。

「未春ちゃん、元気出して」

「そうよー……未春、また会えるわよ」

「未春、放してあげなくちゃ」

「……はい」

返事こそするが、穂積やさららが声を掛けてもこの有様である。

もう手を貸す気も失せて、二匹の猫と一緒に傍観者と化していたハルトだったが、苦笑する実乃里に手招かれてやれやれと腰を上げた。

「おい、そろそろ放してやれ」

「……」

「スターゲイジーは大らかだが、仕事に遅れるとうるさいぞ」

「……」

「お前の所為でカボチャを割るボディーブローを食らわす気か?」

「……」

名残惜しそうに離れた未春の頭に、ブラックはポンと手を置いた。

「大丈夫だ、未春。また会える」

「うん…………」

泣いてはいなかったが、その手はちゃっかりコートを摘まんでいる。

……どうやら今回の来日で、この男に最もオとされたのは未春だったらしい。

「いっそ端でも千切ったらどうだ」

投げやりになってきたハルトに、ブラックは微苦笑を浮かべていたが、ふと思いついた様にポケットを探ると、小さな瓶を取り出した。

「未春、あんたには似合わないと思うが、これを」

差し出されたのは、透明なガラスと黒のパッケージをした、半分は中身が残っている香水瓶だった。受け取りはしたものの、未春は戸惑った顔をした。

「でも……」

「開けたものですまないが、良かったら受け取ってくれ」

あろうことか女ではなく男に自分の香りを置いていくプレイボーイに、未春はタチの悪いストーカーと化しそうな顔で受け取った。

「ありがとう、ブラック」

「こちらこそ」

裾から離した手で握手を交わし、ようやく未春が落ち着くと見るや、実乃里が飛びついた。クレイジー・パパが見たら気絶しそうなハグをした女子高生に続き、妻やさららも笑顔で握手を交わした。

「ブラック、荷物になっちゃうけど、お礼を兼ねてお土産があるの」

実乃里が差し出したのは、彼女が抱えるほどの大きめの箱が入った袋だ。

「ありがとう。何だろう?」

素直に受け取った男が中を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「これは、あの機械か」

「そう、炊飯器だよ。未春ちゃんやママと相談して選んだの」

「素晴らしい贈り物だ」

シックスパッドが失われる予感がしたが、まあ危なければラッセルが取り上げるか、限界までトレーニングさせられることだろう。

「ハル、世話になった。また会おう」

最後に手を差し出され、ハルトは半ば呆れ顔で大きな手と握手をした。

「できれば会いたくないけどなー……」

「Oh……そうか。では、次の来日には師匠かペトラをパートナーにするよう、ボスに言っておこう」

「……せいぜい米食い過ぎてラッセルに吊るされろ」

睨んでやるが、彼は素知らぬ薄笑いで身を翻した。マーガレット夫人が運転する車に乗り込むと、各方面を騒がせた男は明日また会うような軽い調子で去って行った。

「空港まで行きたかったね」

呟く実乃里に未春も頷くが、ブラックはこの後、搭乗前に仕事が有る。

TOP13は元よりブレンド社の代表であるスターゲイジーがフライトする上、フレディは行方不明。恐らく、ナンシーが乗る便を含め、爆発物探知犬の如く航空機内のチェックをし、機長や添乗員、客を含めて総洗いするのだ。航空機に関わるスタッフは多い。そこそこ時間が掛かるだろう。

寒風の中、車が去った方を見つめる未春のゆらめくアンバーの視線は遠い。

……こっちも時間が掛かりそうだ。



 

 「よお、怠慢野郎」

画面越しにスターゲイジーが挨拶したのは、ゆったりと椅子に腰かけた金髪碧眼にスーツ姿の白人だ。初老の筈だが、妙な若さも窺える男は、心外といった様子で首を振った。

「失敬だね。私は何処かの暇なバイソン紳士とは違うんだ」

「誰が暇だって? 俺はお前の所為で忙しかったんだよ、この砂糖中毒め」

「人のことが言えるのかい? ”愛しのレディ”と日本のスイーツは堪能したかね?」

「アマデウス、俺に殴られたくなけりゃ黙っとけ。アルフレッドと一緒に叩き潰してパイにぶち込むぞ」

きつめのジョークに含み笑いを浮かべ、足を組み替えた紳士はのんびりと言った。

「ジョゼフの件はかねてより相談した通りだ。宜しく頼む」

治療もそこそこにいち早く強制送還で送られているジョゼフ・リーフは、ブレンド社の監視のもと、当局に一旦引き渡された後にスターゲイジーが預かる運びだ。あの性格は扱いに苦労するだろうが、ハルトが目に撃ち込んだGPS発信機も有る。こうなっては『リーフマン』も形無し……もはや如何にジョゼフが隠れようと、ブレンド社のイカレた連中からは逃れられまい。

「まったく、お前の教育が甘いからこういうことになるんだ。せいぜい扱き使うさ……ウチでラッセルに鍛え直させてからな」

「良いとも。変人揃いの君の部下なら相手に困るまい」

可笑しそうに笑うと、画面の青い目はすっと細められた。

「では、本題に移ろうか」

「ドイツ女の件だな?」

頷いたアマデウスの目は、もう笑っていなかった。

「今回お借りした君の部下――ペトラ嬢は有名人だというのに、実に見事だった」

「ドイツは野郎が入るには難しい支部だからな……ペトラほど上手くやる女は居ない」

「ああ。劇団員ブロードウェイだとしても、清掃員クリーナーには荷が重い調査だからね。レベッカは賢い故に気難しい」

「で? 俺の部下は何を掴んできた?」

「率直に言おう。ドイツ支部にフレディが入った形跡は無い。ジョゼフの腕を治療したのはドイツ国内のようだが、レベッカの病院ではなかった」

「……それを聞いて安心したぜ」

ストローイエローの顎髭を撫で、スターゲイジーは二、三頷いた。

「調査はともかく、昔馴染みを疑うのは気分が悪い。――だが、ドイツ女じゃねえなら、誰がフレディに手を貸した?」

「待ちたまえ。この話には続きが有る」

軽く片手を上げての制止に、紳士は片眉を跳ね上げた。

「続きだと?」

「”レベッカに関しては”、偽物の可能性も含めて調査してもらった。最終的にペトラ嬢はあのレベッカと会食まで漕ぎ付け、証拠の提示と本人の口からも確認を取ってくれた。”レベッカではない”が、彼女の周辺、或いは協力者に確実に”居る”」

優秀な部下の行動に満足げに頷きつつ、スターゲイジーは太い腕を組み合わせた。

「あの女が、身内の手綱を握れねえとは思えんが……」

「私も同感だが、フレディは例外だ。彼の才能は個人の意志に反するレベルの強制力が有るからね」

「恐ろしいが、奴のマインドコントロールは万能じゃねえ。今度のことでも乱用はできないのが確認できた。お前の予想通り、ハルと同様にウチのブラックには効かなかったし、ハーミットに仕掛けるには、あの厚い壁が幾らか邪魔をした。寒さに弱い点も変わっていない」

「うむ……マグノリア・ハウスで見せた効果は片鱗だと思っていたが、『全知』だけでは効果が薄いのだろう。今度の件も着込めば済む部分があろうに、その対策をしなかったことが見られたのも重畳だった。以前、小牧こまきの客船を襲った海兵隊は、殆ど廃人同然の状態から、かなりの時間を洗脳に費やしたと思われる。恐らく、短時間での洗脳では、彼がある程度近くに居る必要があるのだろう」

声量を落とし、アマデウスは溜息を吐いた。

「フレディはハルに執着している。動くまで始末できなかったのはこちらの落ち度だが、なるべく早く仕留めたい。造反者を含めて」

「協力はするが……アマデウスよ、ハルは日本でだいぶ気を揉んでるぞ。あれは荒れるぜ」

「わかっている。――だから、次の一手はハルに頼もうと思ってね」

静かに言う画面内の男を、スターゲイジーはじっと見つめた。

「トオルは了解したのか?」

「未春の為なら、彼は手段を選ばない」

「……ブラックが一押ししたが、足りんのか?」

「君の部下はよくやってくれた筈だよ、ロバート。トオルは感謝しているからこそ、君を娘と会わせたんだ。彼はそういう男さ」

褒められたはずだが、スターゲイジーはむっつりと首を振った。

「俺は個人的な意見じゃ反対だ。リスクも高い。お前もわかってる筈だ」

ここ一番の厳しい顔で言う男に、アマデウスはゆったり椅子にもたれて微笑んだ。

「フフ……君はトオルとは違う意味で優しい男だからね。ブレンド社のスタッフは皆、その人間らしさに付いて来る」

「よせ、娘はともかく、お前に褒められるのは気色が悪い。……言っとくが、少しでも狙いが外れたら、俺は計画からは降りるぜ。爺さんの件を抜きにしても、あいつは俺にとっちゃ、いつまでも可愛いガキなんだ。お前だってそうだろう」

「……もちろん。ハルが居たおかげで、私は戦える」

「ハッ……いいか、アマデウス――俺たちは悪魔かもしれんが、神じゃない。その上、悪党を裁くべき神ってやつはサボってばかりいやがる。目的の為に自分てめえを見失うと、何が微笑むかわからんぞ」

「忠告はありがたく受け取ろう。ハルが心配なら、君は早めに英国ホームに戻りたまえ。その方が力になれる」

「フフン、嫌味な野郎だ。俺に会った時に顔面殴られねえように気を付けろ」

「嫌だねえ、ロバート。そうならない為に通信してるんじゃないか。では失礼」

スターゲイジーが中指を立てるのが見えたか見えないかの辺りで、プツリと画面は消えた。難しい顔のまま、紳士は暗くなった画面を見つめていたが、思い直したように電源を落とすと、重い腰を上げた。

「あ、終わったんですか、スターゲイジー」

顔を覗かせたディックに、紳士はコートを羽織りながら頷いた。ようやく自分の事務所が解放されることに胸を撫でおろす男に、紳士はずんずんと近付いた。

「な、何です? お車なら、外にダッド・メイソンが――……」

その額に、紳士はおもむろにコートのポケットから取り出した札束をぴしゃりと当てた。筋骨隆々の癖に、恐怖か喜びか定かではない変な声を上げて狼狽えた男に、紳士は低く言った。

「――ディック、頼みが有る」

「……へ?」

「トオルの監視をしろ」

先日よりも厳しいオーダーにディックが息を呑んだ。TOP13の一人――しかも、優れた聴覚と予知のような計画能力を有した男を監視する?

「ト、トオルを俺が……ですか?」

「必要なら、ウチのスタッフも使え。メイソン家以外にも既に何人か日本入りしてる。なるべく、関与の無い人間を使う方が効果的だと思うがな。トオルも人間だ。存在は気付いても、全員は対応できん」

「そ、そりゃそうですけど、トオルにだってスタッフは居ますよ? 特に室月父子は目端が利きますし……」

紳士のポケットから二束目が出た。条件反射のように無言で受け取るディックに、スターゲイジーは渋い顔で頷いた。

「気付かれても構わん。痛い目を見てまで黙る必要もない。俺の名を出してもいい。……ただ、ムロ辺りの顔見知りには『ハルの為だ』と言え」

「ハルの……?」

先日も事務所を壊しかねなかった殺し屋の名に首を傾げる。

「ハルに有益な件なら……本人に頼む方が良いのでは?」

さりげなく札束の枚数をちらちら見ながらの問い掛けに、紳士は腕組みして唸った。

「……ハルは日本を出る。いや、”出される”」

「え?」

「すぐにわかる。『いつ如何なる時も慌てねえのが良い商売人』――お前の親父が言ってたことだ。ウチのスタッフみてえなスパイをしろと言ってるんじゃねえ……”前に連絡した通り”、トオルの周囲と親しくするんだ。特に女がいい――さらら、可能ならミノリをできる限り懐柔しろ」

「俺は頂けるものさえ頂ければやりますがね……お宅のハンサムを使う方がラクじゃないですかね……?」

「全くその通りだが、奴は奴でやることがある。今回はそれも踏まえて連れて来たんだ。時間が少なかったが、好印象は得た筈だ。後は頼んだぞ、ディック。俺が頼んだ通り、お前も見られる立場なのを忘れるな」

ダメ押しの三束めを押し付け、スターゲイジーはドアの外へ出て行った。

慌てて取り落としそうになる札束を拾い上げたディックが外に顔を出すと、もう黒のマクラーレンがエンジン音を立てている。あっさり走り去ったそれを見送って、素のままの札束を手に事務所に戻ると、ディックは溜息を吐いた。

「……これ、滞在費と片付け代入りですかね? スターゲイジー……」

テレビに接続したままそっくり残されたゲーム機に積み重なったソフトのケース、空のペットボトルに菓子の空き袋。DOUBLE・CROSSで販売しているドーナッツの紙袋。躾の悪い子供でも居た様な室内にもう一度溜息を吐いて、悪の商人は札束をポケットにねじこみ、片付けの為に袖をまくった。




 「おっつかれー!」

午後を回った頃。両手を挙げて営業中のDOUBLE・CROSSに飛び込んできたのは、日中に元気な状態が増えたとおるだった。そこに居たのは数名の客と、接客の合間にパソコンに何やら打ち込むさらら、いつもの清掃と接客に勤しむ未春だ。

「おつかれさま。元気ね、トオルちゃん」

可笑しそうなさららに恥ずかしそうに頭を掻きつつ、十は両手を掲げたまま、辺りをきょろきょろした。

「ハルちゃんは?」

「ラッコちゃんと果林かりんさんの新しい施設に出掛けました」

「あ、そっか……僕も後で手伝いに行かなくっちゃなー……」

ぼやいた十は思案顔で窓の方を振り返る。

「トオルちゃんはどうしたの?」

小さな子でも訪ねて来たような調子でパソコンを畳むさららに、十は頭を掻いて首を振った。

「ハルちゃんも……と、思ったけど、まあいいか。――ね、未春。これから守村もりむらさんとこに一緒に行かない?」

「先生の所に?」

「うん。僕と二人で。お店忙しいなら室ちゃん呼ぼうか」

「私は平気よ。今日は寒いし、のんびりした入りだから」

背を押すように言うさららに、未春は戸惑いつつ頷いた。

「さららさんが良いなら……良いですけど」

気の進まない顔はしたものの、ちょうど良いと思っていた為、頷いた。

認知症が緩やかに進行しつつある守村は、ここ最近「十と上手くいっているのか」という問いが増えている。一緒に行けば、それを証明できる。少しは安心してもらえるだろう。

未春が嫌そうにせず落ち着いている為か、さららも陽気に送り出した。

「なんか久しぶりだねえ、二人で出掛けるの」

楽しそうに運転する十をじっと見つめたが、恐怖は感じなかった。

――ブラックと話して良かった。

もう触れ合った熱は感じないが、胸にじんと残る熱が、心を守ってくれている気がする。自室の写真の隣に置いた香水は、開けることも無いままそこに在る。少し蓋を開けるだけで、夜も落ち着けた。

受付に居たスタッフは、先日、そのブラックに声を掛けた女性だった。

彼女は別段、平素と変わらぬ様子で受付を済ませた。

「あの……ノノさんて方は、来ていますか」

十の手前、躊躇いがちに訊ねた未春に、スタッフは「ああ」と気付いた顔をした。

「ノノさん、別のとこから熱烈オファーがあって、つい先日、移っちゃったんです」

「えっ……」

「何かご用でした?」

不思議そうに聞き返されて、未春は一瞬迷ったが、首を振った。

「いえ、大丈夫です」

そのやり取りを見ても、十はにこにこするばかりで何も言わない。彼も勝手知ったる様子で受付を済ませ、手土産を片手にのんびりと廊下を歩き出す。

「あの、十さん……」

「何だい?」

「此処に居た、ノノさんという人は、ハルちゃんの――……」

「違うよ」

厳しくも優しくもない声で答え、十はおっとりした笑みで答えた。

「彼は、ハルちゃんのおじいちゃんでもなければ、親戚でもない」

「そう……なんですか……?」

「何なら野々ののさんでもない」

「え……」

「ある程度は想定の範疇で似ているかもしれないけど、守村さんの記憶に呼び掛ける為に僕が用意したBGMの清掃員クリーナーだ」

息を呑んだ未春の整理が追い付かない状態で、十は人けのない廊下を渡り、エレベーターのスイッチを押している。

「先生の記憶って……どういうことです?」

「野々の名前に反応するかと思ったけど、ダメだったんだ。同様の目的で配置したスタッフは他にも居る。ハルちゃんの実家に関わったと想定できる名前も含めて」

淡々としていたが、十は少し残念そうだった。

「本物の野々家に関わった連中が接触してくることもなかった。こっちの手に気付くほど勘が良いのか、相手にする気が無いのか、もう組織的には稼働していないのか……この結果は無駄にはならないから良いけど、収穫らしい収穫も無かった」

エレベーターに乗り込みながら言う十に、続いた未春は詰め寄る。

「よくわかりません。どういう意味ですか。先生の記憶って……」

「ハルちゃんのヒミツ」

「秘密……?」

薄気味悪い謎を残し、短い浮遊感と共にすぐに着いた階に降りると、十は綺麗に掃除された無機質な廊下を先に歩いて行く。

「十さん――……俺、この間……」

「大丈夫。わかってるよ、未春。お前が、ハルちゃんだけじゃなく、ブラックくんも連れて来たのはちょっと驚いたけど、あれは良い対応だった。”彼でも”駄目だったのは残念だけど……良い参考になった」

穏やかな溜息を吐いて、十は守村の部屋を優しくノックした。

「こんにちは、守村さん」

入るなり、目尻に皺が寄る笑顔をいっぱいに浮かべた男に、その男がプレゼントした大きな椅子にぽつねんと座っていた婦人は嬉しそうに微笑んだ。

「こんにちは、十さん。あら……未春ちゃんも一緒なの」

「……こんにちは、先生」

いっそう目を細めた守村に未春が頭をゆっくり下げる中、十はにこにこと婦人の様子を眺めた。

「やあ、良かった。年明けよりお元気そうですね」

「おかげさまで……皆さんのおかげですよぉ」

微笑み合うと、十はいつもの通り、小ぶりの和菓子と、買ってきた温かい茶を茶碗に満たしたセットを三つ作ると、盆に乗せた。家事の一切が壊滅的な男にしてはなかなか手際良く、一つを守村に渡し、もう一つを未春に渡す。

促されるまま甥が空いた椅子に座ると、自分は隅から運んできた椅子に座り、当然のように守村と「いただきます」と笑い合った。不思議なものを見る目をしていた未春だが、やはり促されて茶に口をつけた。

「十さん、未春ちゃんは本当に良い子なんですよぉ」

「そうですね。この間も来たんでしょう?」

「ええ、ええ……未春ちゃんはほんとによく来てくれますよぉ」

「ハルちゃんも来ていましたね」

不意の言葉にぎくりと顔を上げる未春だが、十の目はまっすぐ守村に据えてある。

「ハル……? そう、誰だったかしらねえ……」

「思い当たりませんでしたか」

「ええ……最近、忘れっぽくて」

「うーん、彼は男だからお母さん似かなあ……僕は息子さんの面影もあると思いますよ。エドワードさんには、似てないのかな?」

未春が呼吸を止められたような顔で十を見た。持っていた茶碗の中の茶が小刻みに揺れる。守村はひなたぼっこでもしているような顔で首を傾げた。

「十さん、それはどなたのこと?」

「貴女のお孫さんのことです」

「……孫? あらやだ、私に孫なんて……」

「いいんです、守村さん。思い出せなければそれで。……でも、思い出したら教えて下さい」

優しい声で言うと、十はそっと茶碗を置いた。

「未春は、貴女のことを母か祖母のように慕っています。この子が不完全なりに、人を思いやれるのは貴女のおかげだ。僕は恩が有る貴女に危険が無いことを願いますが、望まれるなら、お孫さんと一緒に居させてあげたいと思います」

十の言葉に、守村は強張った表情の未春を見てから小首を傾げた。理解が及ばなかったか、聞き取れなかったか、ともかく不思議そうにしつつ、彼女は微笑した。

「十さん、未春ちゃんは本当に良い子なんですよぉ」

「そうですね。未春が良い子なのは貴女のおかげです」

「いいえぇ、私なんて何も……この子は初めから、とっても良い子でしたよぉ……」

守村の頬が緩むのに、十は笑い掛けてから静かに見つめた。

「僕は、貴女にとって、未春が心和む存在ならそれで良いと思っていました。この子も貴女を大切に想っている。だからハルちゃんを連れてきた。素晴らしいことです」

「優しい子ですから」

「ええ。貴女が居たから、未春は救われ、ハルちゃんは、エディに“見つからずに済んだ”。ありがとうございます」

「……エディ? あの人、帰ってきたの?」

急に瞳に光が戻ったような守村に、未春がはっとするが、十はそっと首を振った。

「いいえ、まだ。来るとすれば、日本が暖かくなる頃じゃないかな?」

「ふふ、彼は寒がりだったものね……雪が降る空にはNO、冷たい風が吹いてもNO、冬の水道の前でNO、冬は文句が多い人だった」

クスクスと笑い、守村は窓の方を見た。

「十さん、“あの子”のこと、宜しくお願いします」

「はい。任せて下さい」

守村はにっこり笑って、喋り疲れたような溜息を吐いてお茶を飲んだ。

「お菓子もどうぞ」

十が勧めるままに包みを開き、雪をまぶしたような生菓子を守村は「綺麗ねえ」と言いながら上品に摘まんだ。

「まあ、美味しい。こんなお菓子初めて」

初めてではないだろう生菓子に嬉しそうに言うと、守村は微笑んだ。呆けた顔をしていた未春を振り返り、にこにこする。

「十さん、未春ちゃんはとっても良い子で、いつも来てくれるんですよ。この間も来てくれたんです」

十は笑顔を返した。

「ええ、未春が良い子なのは、守村さんのおかげですよ」

繰り返す。時が何度も止まっては巻き戻されるような部屋の中、二人は会話を続けた。未春はそれを遠い世界の出来事のように見つめながら、突如降ってきた秘密を噛み締めた。

守村が言うエディの正式名は、エドワード。

野々という人物名を、守村に接触させた十。

――エドワードさんには似ていない。エディに”見つからずに済んだ”。

これだけ聞けば、巡りの悪い者でもわかる。


ハルトだ。


彼が、守村恵子の孫。

……でも、じゃあ、どうして……?

未春が殆ど呆然自失状態で守村の部屋を辞した後、十は来た時と変わらない様子で館内を抜け、車に戻って口を開いた。

「面識が無いと、意外とわからないものだよねえ……」

エンジンをかけながら、十は主語を述べずに静かに言った。

「ハルちゃんに話すかは、未春の自由だよ。でも、今のお前なら、ハルちゃんにそれが容易に通じないのはわかるね?」

「……はい」

家族。友人。恋人。そうした当たり前の人間の繋がりに、ハルトが拒絶反応を示すのは、既に何度か見て来た。

別の理由で、守村にも通じるのは難しい。

「僕の考えは、さっき守村さんに言った通りだ。できることなら、ハルちゃんときちんと会ってもらいたい。それは難しくなってしまったけどね……」

「アマデウスさんは、知っていたんですか」

「うん。……だって、”だから”アマデウスさんは、ハルちゃんを連れて行ったんだ」

「それは――ヘンです。アマデウスさんは……」

「彼に愛情を持って接したって?――そうだね。ハルちゃんは、特別だったから。そこは、僕がお前にしたことと、少し似ていると思う。彼の才能に気付いた以上は放置できなかっただろうし……」

――才能? 『魔法の弾丸フライクーゲル』の跳弾射撃のことだろうか。

「エディ……エドワードさんって、”誰”なんですか?」

十は車を発車させ、緩やかに滑らせながら答えた。

「エドワード・スミス。元アメリカ軍人。BGMの礎を作った人だ」

「それって、まさか……」

「ブラックくんに聞いたんだね。そう、彼こそ、グレイト・スミスと呼ばれる伝説のスパイだ。アマデウスさんやスターゲイジーにとっては戦場の師でもあり、裏切った相手でもある」

「裏切った……?」

「今のBGMは、アマデウスさん達がグレイト・スミスの思想に反発して奪い取ったのが元なんだ。その時、グレイト・スミスは行方不明になった。そして今、世界には彼が動き始めた気配がする」

「……俺には、世界のことなんかわかりません」

厳しい顔で言った甥に、十は面白そうに声を立てて笑った。いつかのように嫌な感じはしない笑みだが、バカにされている気がして少々むくれると、彼は声をひきつらせながら言った。

「ハハ……いいさ、未春はそれで。僕は正直、お前が関わり合いにならずに済むなら、その方が良いんだ。皮肉なモンだけどさあ……お前を人間にする為にハルちゃんが必要だと思った時、それが無理なのもわかっていたけどねえ……」

眼前に広がる憂鬱な寒空にも、十の表情は晴れ晴れとしていた。

「僕にとって重要なのは、穂積に実乃里、未春も、さらちゃんも……ハルちゃんも、あの店に関わる人達、室ちゃんや優一くん、僕を助けてくれる人たち皆が幸せになること。できることなら、アマデウスさん達にも争ってほしくない。今の未春なら、わかるよね。本当の家族と戦うなんて……酷くて悲しい事だって」

「……はい」

数カ月前なら、首を傾げたかもしれない事に確と頷くと、十は前を見ながらにっこり笑った。

「未春、ハルちゃんはきっとこれから、すごく大変だと思う。お前が助けてあげるんだよ。お前なら、できるからね」

いつだったか、十より助けは要らないと思ったハルト。

――今は。

昨日、出て行った寒々しい背。未来なんて考えるなと怒った姿。

そして、温かくて良い香りのアップルサイダーを思い出しながら、未春は頷いた。

「はい」




 「見送りなんかいいのに」

搭乗口の前で、バッグ片手にツンと顎を反らせた女に、プードルみたいな髪の男は両手を軽く挙げた。

「ボスに頼まれてるからね。君は怒るかもしれないけど、フライトはテロの可能性もあるから気を遣うんだ。搭乗する機体はブラックにも調べてもらったし、機長も信頼できる。安心して帰ってよ」

「お宅の犬は爆発物探知機でもあるってことね……」

「そういうこと。だからってわけじゃないが、ジョゼフ・リーフの件は頼んだよ」

「わかってるわよ、ラッセルが引き取りに来るんでしょ」

「急に物分かりが良いと気味が悪いなあ」

「あんな男、置いておかれる刑務所の方が迷惑よ。エサ代もタダじゃないんだし」

以前よりもサバサバした様子でふっと息を吐き出し、ナンシー・アダムズは頷いた。

「……色々どうも。バイクも良い乗り心地だったわ」

「どういたしまして。輸送手配しておくよ。あれはボスのポケットマネーで買ったから。ドレス一式は社の皆からだよ」

知らぬ間に乗り回していたプレゼントと綺麗なブルーのドレスに、ナンシーはぐっと唇を引き結んで頷いた。

「――ありがと……」

「ボスに言ってよ、ナンシー」

「わ、わかってるわよ。じ、じゃあ……マーガレットにも宜しく……」

耳を真っ赤にして去っていく背を苦笑混じりに見送ると、完全に見えなくなったところで、周囲から飛び抜けて大柄な二人組がやって来た。

「ご苦労だったな、メイソン」

声を掛けて来たストローイエローの髪と髭の紳士は、一仕事終わった顔で搭乗口を見た。

「ボス、一緒に乗らなくて良かったのか?」

傍らで問い掛ける黒コートに黒髪黒目の男を、紳士はじろりと見て首を振った。

「これ以上、気まずい思いをさせるんじゃねえよ」

「そんなつもりは無い」

「よく言うぜ」

目前の黒髪をわっしと掴んでぐしゃぐしゃにしてやると、部下は薄笑いで髪を直す。

「それじゃあボス、僕は拠点に戻ります。今回は社の出張扱いなのでビジネスクラスですからね? ファーストと間違えないで下さいよ」

「間違えるわけねえだろ。――日本を頼んだぞ。現地スタッフを雇う時はトオルに一言通せ」

「Yes, Boss.お気をつけて。――またね、ブラック。ニムに宜しく。彼の新刊が出る時は教えてね」

「ああ、またな」

軽く片手を上げて別れると、両腰に手をやった紳士はハルトのように大仰に溜息を吐いた。

「はー……まったく……久しい出張は疲れるぜ……」

顎髭を撫でて呻く上司に、ブラックは穏やかな笑みで言った。

「良かったな、ボス」

「何がだよ、裏切者め」

「ナンシーも楽しそうだったと聞いたが」

「ええい、黙っとけ!」

チンピラのようにポケットに手を突っ込んでブツブツ言っていたが、薄笑いで従う部下の前では無意味と知ってか、憂さを溜息と共に吐き出す。

「そう言うお前は……日本はどうだった?」

「とても楽しかった。何でも美味かったし、親切な人も美人も多かった」

「俺にまで常套句を言うこたぁ無えぞ、ブラック」

「ボス、これは本心だ。先生も連れてくれば良かった」

「フフン、ニムなんか連れてきても妙な昆虫探しか書店巡りに付き合わされるだけだぜ。ま、お前はアジア人の血が流れてる様だからな……シンパシーってもんがあるのかもしれん」

納得顔でストローイエローの顎髭を撫でていた紳士が、ふとラウンジの前に立つ人影に気付いた。その頃にはブラックも気付いている。

白のふっくらした毛のコートを纏って尚ほっそりした立ち姿は、久我山くがやま逸子いつこだ。

「いつものことだが、上手くやれよ」

「Yes, Boss.」

薄笑いで答えた部下の肩を叩き、スターゲイジーは先へと歩いていった。一方、ブラックは真っ直ぐに女に向かった。

「ブラック」

やや気弱にはにかみ、逸子は駆け寄った。

「どうしても見送りたくて……ごめんなさい」

「謝らないでくれ。来てくれて嬉しい。よく、便がわかったな?」

「ブレンド社っていう調査会社に問い合わせただけ」

いたずらっぽく笑った女に、ブラックも微笑んで頷いた。

「それは確かな情報だろうな」

女は眩しそうに微笑み、スターゲイジーが去ったラウンジの方を見た。

「さっきの人は、同僚の方?」

「ウチのボスだ」

「だと思った。すごく頼りになりそう」

微笑んだ逸子の肩越し――ずっと離れた先に、こちらを見ている男が居た。眼鏡の奥の真面目そうな双眸は睨んでこそいなかったが、何となく挑むような視線だ。ブラックは特に何も言わずに女に笑い掛けた。

「パートナーとは、上手く話せたか?」

問い掛けに、女はにこやかに頷いた。

「話し合って、一緒に食事をして、犬を飼うことを決めたの。貴方の会社が調べてくれた保護施設から、受け入れるつもり」

「それはいい。素敵な思い付きだ」

「ええ。貴方みたいな、大きな子にしようと思う」

「そうか。良い番犬にはなると思うが、悪戯坊主でも俺のせいにしないでくれ」

ちゃんと躾けるわと苦笑した女は、雪の日の切ない顔が嘘のように明るい。手に提げていた上等そうな紙袋をそっと差し出した。

「本当はもっと沢山あげたいけれど、貴方は結局のところ、私を利用したでしょう。だから気持ち半分」

「ありがとう。まだこんなに取り分が有ったとは光栄だ」

「ひどい人ね」

クスクスと笑い、逸子は首を振った。

「夫は私のフェイク動画を見たときは、死のうかと思ったみたい」

「良いパートナーだ。あの動画はだいぶ雑だったんだ……素直に受け止めた彼に感謝したい」

「雑?」

「ある映画のシーンをそのまま加工したと聞いた。声は一部、叫び声を集めるのが趣味の奴のコレクションを調整して差し替えたが、君の加工に力を入れた分、俺の肌が綺麗なままだった」

首から下の全身に、生きているのが不思議なほどの傷があるという男の言葉に、逸子は笑った。脅しに使う映像にも関わらず、見る人によっては一目瞭然だったということだ。

「でも、夫が本当に堪えたのは写真の方だそうよ」

「そうなのか? 欲しいなら撮ればいい。君が居るんだから」

「……そうね」

何でもなさそうに言う男に、くすぐったそうに笑い、女は片手を差し出した。

「ありがとう。とても楽しい時間だった。貴方のおかげで……私も夫も、忘れていた大切なことを思い出せたと思う」

「礼には及ばない。俺も楽しかった」

穏やかな握手を交わし、あっさり離れる手に少しだけ、女は寂しそうに微笑んだ。容易に抱き合える距離だ。しかし、確かに触れた手も、唇も、どこか遠い。あれほど胸に迫った香りが、既に此処を発ったように仄かに感じる。

「……今度は、何処に行くの?」

何気なく訊ねた女に、ブラックは変わらぬ笑顔で答えた。

「悪いが、調査内容は話せない」

女は小さく苦笑し、もう何も訊ねなかった。

男も明日また会うような気軽さで片手を上げ、黒いコートを翻した。

見送る視線を、振り返ることはなかった。

「まーた貰ってやがる」

先に搭乗口に居た上司が見せろ見せろとせがむ手から紙袋をやんわり避けつつ、ブラックが共に席へ行こうとしたときだ。

タイミングを計ったように、後方で子供がむずかった。

振り向くと、目的のビジネスクラスではなく、奥のエコノミーの方だ。泣いているのは一人ではない。同じように振り向いていた上司と軽く視線を合わせたブラックは、添乗員に断って、一人で声のする方へ歩いて行った。

どうやら幼い姉妹を若い母一人で連れているらしい。茶髪に色白の母に似た娘たちは欧米人のようだが、先程別れたメイソンのようにわずかにアジアの血を感じる。ようやく小学生に上がるか程度の子達だろう、ベルトや閉鎖空間がストレスらしく、姉妹同士で揉め、困り顔の母親には文句を言った。フライト中にも泣かれたらたまらない――そんな周囲の視線の中、母親は慌てて機嫌を取ろうとするが、慣れない環境の為か、少女らは不快そうに身をよじり、手や首を振って抗議し始める。

「Hi, princes.」

低いバリトンが響いたと思った刹那、少女らの上から綺麗な紙袋が降りてきた。中には様々な色と模様のキャンディが詰めてある。癇癪は歓声に変わり、小さな手が万歳するみたいに受け取った。母親は突然の美男と贈り物のセットに頬を赤くして遠慮したが、男が何でもなさそうに促すと、小鳥のようにお礼とお辞儀を繰り返した。

来た時と同じように席に戻って行くと、先に座っていた上司は手ぶらの部下に呆れ顔をした。

「良いのか、あげちまって」

ブラックは薄笑いを浮かべたまま頷いた。その手には、ロリポップが三つだけ残っている。

「ボスと先生の分は確保してある」

「そういうことじゃねえや、薄情モン」

差し出されるまま受け取って、席に寄り掛かって苦笑し、スターゲイジーは不思議そうにキャンディを眺めた。

「それにしても今度の女は随分、可愛いもんを寄越したな」

「ミスター・十条のお嬢さんに貰ったキャンディが美味かった話をした。同じ店の物の様だ」

「フフン、思った通りの細やかな気遣いができるイイ女だ」

包みを剥がして煙草のように口に咥えた上司が、ストローイエローの髭を撫でてニヤついた。

「美味い。お前みてえな男にやるもんじゃねえな」

苦笑いでぼやく上司に、席に座った部下もキャンディを咥えて低く答えた。

「Yes, Boss.」




 空港ではもう一件、別れの舞台が有った。

「寂しいよォ~~ピオ~~」

周囲の目も気にせず、いつかの十のように喚いていたのは明香あすかだ。

その前では北米支部のアマデウス直下たる劇団員ブロードウェイのピオ・ルッツが、荷物を手に苦笑している。

今日の彼は”パスポートに合わせた”ピオ・ルッツの姿だが、髭は剃り、DOUBLE・CROSSに来ていた時よりも更にラフなTシャツやジーンズ姿はかなり若い印象だ。メジャーリーグのキャップが如何にもアメリカからの旅行者を思わせる彼は、他国の同業者としっかりした握手を交わした。

「僕も寂しい。またアメリカにおいでよ、トリックスター」

「行く行く! ホント、俺もアポロのメンバーもすごく勉強になった。ありがとう」

もう一度強く握り返して離すと、明香は急に思い出した様にポケットから端末を取り出し、何かを探した。

「そうだ、コレ、室ちゃんに頼んで貰ったんだ。餞別に送ったげるね」

不思議そうにするピオに送られてきたのは動画だった。

「これは――……フライクーゲル……じゃあないな? 誰?」

そう言う間に、見た目だけはハルトにそっくりな男が本人なら絶対に言いそうにない「Oh my God!」とジェスチャーを披露し始める。耐えきれずに明香がひゃっひゃっひゃと怪しい笑いを吐き出し、ピオもニタニタ笑いながら口元を押さえて肩を震わせた。

「コイツ含めて、今回の偽物騒ぎの連中は雇おうと思ってるんだ。面白いでしょ?」

「面白いが、フライクーゲルには会わせない方が良いかもね」

賢明な忠告に、明香はにんまり笑った。

「鍛えて、ハルトさんのダミーになるレベルにしたら色々使えそうじゃない?」

ピオは涙を拭きながら首を傾げた。

「こうして見ると、改めて彼の役が難しいのがわかる」

「ピオでも難しいと思うのか。やっぱりハルトさんは、普通に見える超非凡な男ってワケか~……」

「そうだね……彼はとても掴み辛い。君もそうだと思うけど、僕たちは演じる相手のことを徹底して調べるだろう? 彼の場合、その要素が多い上に、まだ全てが見えないんだ。声の音はコピーできても、抑揚、調子、切り方で全ては狂ってしまう」

先日、未春の声真似でハルトを見事に騙した明香は頷いた。

一言なら出来る。だが、人は一言では成立しない。

「アマデウスさんも、そういうとこあるんじゃない?」

「ミスターか。彼はね、あれ以上は徹底して見せていないからいいんだよ。彼を知る誰から見ても、彼の印象や姿は変わらない。僕は君より付き合いが長いけれど、君がイメージするミスターと同じ姿しか知らないよ」

「なーる……演じられるリスクはあるけど、ダミーも増やせるってわけかァ」

そこは、劇団員ブロードウェイという特殊な清掃員を作っただけの事は有る。

簡単に言うが、今回、ジョゼフを騙したミスター・アマデウスの演技は決してイージーではない筈だ。ハルトが居た影響は大きいが、ジョゼフはアマデウスをよく知る人物だと聞く。少しでも怪しまれたら殺されかねない相手を前にして演じ切るのだから、やはりピオの肝の座り方は尋常ではない。

「俺も見習わなくちゃ。お互い頑張ろ」

笑顔で頷いたピオは、明香の顔を見つめて言った。

「トリックスター、君は……何の為にそんなに頑張るんだい?」

「俺はフツーに芸事でヒットしたいから。トオルさんの手伝いすんのは、世の中には良い事だと思うから手伝ってる。金回り良いし、アマデウスさんのツテとか、ピオみたいに凄い人とも会えたし、メリット多いからさ」

真正直な意見に苦笑したピオは「なるほどね」と頷いた。

「ピオは?」

「僕は、ミスターに恩がある。彼が明瞭に道を外れない限りは付き合うさ」

「そっか……なんかイイね。信念って感じで」

「ハハ……君は大物になると思う。ぜひ、平和な社会で成功してくれ」

「ありがとう、ピオ」

改めて握手すると、ピオは周囲をちらと見渡してから、明香にそっと耳打ちした。

「――君には世話になったから、教えよう。今回はイギリス支部が動いたけれど、次はドイツだ。大都市に医療を中心とした支部が在る……」

ドイツの首都ベルリン。出番は無いということかと思った明香だが、ピオは思案を滲ませて言った。

「きっと、フライクーゲルはあちらに呼ばれる筈。個人的な憶測だが、ひじり茉莉花まりかを演じた君も可能性が高い……準備はしておいた方が良いよ」

気になる一言を残し、明香の返事を待たずにスッと離れた男は、慣れた様子でにこやかに去って行った。

思い出した様に片手を軽く振りながら、明香はニヤッと笑った。

「次は、オーケストラやオペラハウスを観に行けるのかなあ……」

楽しそうに独りごちると、舞台でターンするみたいに踵を返した。




 「あねさん、これはこっちでいいんスか?」

ダンボールを持って話し掛けたスキンヘッドの男を、それを上回る視線がねめつけた。

「誰が姐さんですって?」

うっと言葉に詰まった相手に、ぽちゃっとした体形に似合わぬ迫力の女が自身に指を向けて言った。

「私のことは『果林かりんさん』。いい? 次に姐さんなんて呼んだらひっぱたくわよ!」

「は……はい!」

軍隊顔負けの気を付け姿勢になった男は、彼以外にも数名居る。

十が、暴走族だかギャングだかよくわからない東部鷲尾とうぶわしお連合会から拾ってきた男たちだ。不慣れな様子ながらも、男たちは力仕事だのを引き受け、よく働く。最初は胡散臭そうにしていた『かりん』の施設スタッフの面々も、徐々に彼らを顎で使い始めている。

――と、いうのも、今居る場所は彼らの元・事務所なのだ。

小さなビルの内部は、ブレンド社の日本拠点で行われた魔法のように素早いリフォームと同様に、アウトローの事務所だったとは思えない変貌を遂げていた。駐車場やエレベーターに陰湿な雰囲気は残るものの、それも徐々に変える予定だという。建物に染み付いていたに違いない煙草臭さや厳つい家具などは綺麗さっぱり払われ、すっかり清潔感のある犬猫の保護施設に受け入れられたのは、以前、果林が話していた崩壊寸前の個人営の施設から引き受けた犬猫だ。他にも、大型犬などはこじんまりした果林の施設からこちらに移り、あちらに居た頃よりものびのびとしている。

更に、この施設は簡単な仮眠室や休憩所に等しい部屋、譲渡会に使う為の部屋も整備され、屋上には芝を敷いたドッグランも造られた。

「果林さん、元気になって良かったね」

引っ越し作業の時から手伝っていた倉子くらこの言葉にハルトも頷いた。

もともと明るい方だと思っていた果林だが、珍妙な新規スタッフ達にてきぱきと指示を出し、犬猫との触れ合い方から世話の仕方まで細かく指導する様子は、前より清々しい。懸念していた施設のことが解決したのもあるだろうが、もしかすると、幼馴染である鷲尾が足を洗ったことが影響しているのかもしれない。

――それにしても、十はどんなマジックを使ったのやら。

引っ越し作業ぐらいならまだしも、生き物を受け入れるということは、移動したら終わりとはいかない。いくら十が給与を支払うとはいえ、常に世話する必要が有る上、物言わぬ動物は体調を崩すことも、何かが苦しい故に暴れることもある。

命を預かり、育み、委ねる仕事に、よくまあ悪党が就こうと思ったものだ。

「人間が怖い子も沢山居るからね。赤ちゃんにするみたいに丁寧に、大事に、躾けるときはハッキリと、でも優しく接するのよ」

果林の説明に聞き入る悪党たちを眺め、……はて、赤子も世話したことが無さそうな連中に通じるのかと、ハルトが自身を棚に上げて考えていると、片手にポインターにも似た茶色い雑種犬を抱えた男が入って来た。足元にはもう一頭、後ろの男にリードを引かれた同じような犬が不安げな茶色い眼差しをこちらに向けている。

「……おい、リン……戻ったぞ。こいつらどうすりゃいいんだ?」

部下らしき男と入って来たのは、この小ビルのかつての主にして代表だった鷲尾だ。

顔にはブラックにやられたという傷に絆創膏が貼られ、痛々しい青痰が見られる上、まだまだワルの形相が残っている男だが、容赦なく顔を舐めてくる犬に困った様に顔をしかめた様子は満更でもない。

そこへ果林が面倒臭そうに近付いて犬を抱き上げた。――犬には優しく笑い掛け、男には疑い深そうな視線を投げた。

「あのねえ……私のことは『果林さん』って呼びなさいって言ってるでしょ?」

「チッ……上司ぶりやがって。どーすりゃいいんだ、『果林さん』?」

「よろしい。こっちで足洗ってあげましょ。ちゃんとお散歩できた?」

「ヨタヨタしてたが、ちゃんと歩いたぞ。こっちは事務所……じゃねえ、ビルの前でリタイアしたが」

「ふーん、歩けたんだ。エライね~~モカ、ラッテ~~」

尾の下がっている両犬をそっと褒める果林に、鷲尾はうんざりした顔をする。

「いいけどよ、何なんだよ、その浮ついた名前は……外で呼びづれえったら……」

「何よ、シロートの癖にケチつけないでくれる? 新しい飼い主さんに出会うには掴みが大事なの。あんたは一服したら次の子よ」

「クソ、人使いが荒い上司だ……次はどいつだ?」

一体どうやって懐柔されたのか、なんだかんだ真面目な元・悪党をハルトが清掃がてら感心して見ていると、別のスタッフがひょいと顔を覗かせた。

「果林さん、お客さんです!」

「あっ、いけない、もうそんな時間?」

犬たちを慌てて倉子に手渡し、鷲尾を突き飛ばしながら、あたふたと果林が髪やエプロンを直していると、スタッフに伴われて妙齢の美女が現れた。

「こ、こんにちは! 代表の高梨たかなしです!」

ぱたぱたと走り寄った果林に、美女はコートを腕に手挟んで上品な笑みを浮かべた。

「久我山です。お忙しいところ、すみません」

――久我山?

最近聞いた珍しい名にハルトが振り向くが、無論、知り合いではない。

「とんでもない、どうぞどうぞ!」

先程の迫力から一転、笑顔になった果林と美女は楽しそうに並んだケージを覗き込む。

「えっと、ワンちゃんをご希望でしたね。お好きなように見て頂いて……気になる子は出しますので。どんな子が良いとか、ご希望は有ります?」

「できれば、大きい子が良いと思っているんです。若しくは大きくなりそうな子」

「わ、嬉しい! 大型犬は敬遠されがちなので……」

「飼うのが難しいのでしょうか」

果林は腕組みして難しい顔で頷いた。

「そうですねー……抱っこするのも一苦労ですし、力が強いと散歩が大変だったり、シャンプーも重労働です。当然、体が大きいとエサ代も高くなりますし、体型だけで病院代が多く掛かることも有ります。でも、すごく可愛いですよ! おおらかで優しい性格の子も多いですから、大変でも、やっぱり大きいワンちゃんが好きって方、沢山居ますよ」

正直な果林の明るい笑顔に、美女は頷きながら微笑んだ。

「とても素敵」

一緒に犬を眺める二人の女を、モカとラテをケージに戻してきた倉子がハルトに並んで眺めた。

「珍しいね、大型犬希望のお姉さん」

「へえー……珍しいのか」

「人気が根強い種類もいるけど、日本はアメリカみたいに広くないからね~……」

「まあ、そうだろうな」

「それにさ、ああいう綺麗なお姉さんが連れてる犬って、トイプーとか、テリアとか、ダックスフンドやポメちゃん……あ、パグやパピヨンも居るね。まあ、小型が圧倒的多数だよ。高い首輪したり可愛い服着せたり、カットも見映え重視っていうか」

「日本だから柴犬とかじゃないんだな」

「柴ちゃんは一度飼ったらやめられない人が多いかも。でも……やっぱり映え狙いのお姉さんはトイプーな気がする。トイプーちゃんも定期的なカットが必要だから、トリミング代が掛かっちゃうけど」

「なるほどなー……」

「ハルちゃんは興味無いのがわかりやすいねえ」

「Oh……sorry……」

「いいよ。慣れたもん」

ハルトは頭を掻き、傍目にはのんびりした調子で犬猫を眺める倉子を見下ろした。

「……ラッコちゃんは、銃撃事件のこと、まだ思い出すか?」

「へ?」

急に出て来た場違いな問いに倉子は目を瞬かせた。

「銃撃って……お店で女子高生が撃ったやつ?」

「ああ」

あの時のターゲットはハルトであり、倉子は直接的に銃口を向けられてはいないが、彼女は初めて間近に銃声を聴き、ショックを受けた顔はしていた。

「今は全然平気だよ。大きい音にはびっくりするけど、普通に驚くレベルだし」

「そうか……」

「どうかしたの、ハルちゃん?」

「……いや、何でもない」

首を振ったハルトをじいっと見た倉子が、首を捻った。

「ねー、ハルちゃん。みーちゃんとは遊びに行ったの?」

「え、えーとだな……」

むしろ、傷付けることを言ってしまった男は、申し開きの猶予もない。

「……メシには行った、けど?」

約一名、色男が混ざっていたが嘘ではない。嘘ではないが……こちらを睨み据える倉子の目は猛禽類のそれだ。野生の勘を持つ女子高生は、殺し屋の小賢しい言い逃れなど容易に見抜いているらしい。

「『けど?』ってどゆこと?」

鬼教官・ラッコの厳しい目にハルトがひるんだとき、果林の声がした。

「ハルちゃんー、ちょっと来てー」

「あ、ハイ」

天の助けとばかりにそそくさと果林に近付くと、彼女はケージの方を示した。

「オセロを出したいの。大丈夫だと思うけど、興奮しちゃうかもしれないから、リード持っててくれる?」

そのご指名に、ハルトは一瞬、硬直した。

オセロは名前の通り、真っ黒な毛並みの中、喉元から腹の一部だけが白いという組み合わせ故に、元の飼い主に名付けられた保護犬だ。シェパード系の血が通った大型の雑種で、鼻筋が通った顔や賢そうな焦げ茶の目がなかなかのイケメンだ。

例の色男に雰囲気が似ている犬を美女が指名――愛に疎くても、さすがに解る。

「どうかした?」

「ああ……いえ、何でもないです」

気を取り直したハルトがケージを開くと、彼は嬉しそうに出て来た。リードを付けると、大好きな散歩に行くのかと尋ねるように居合わせた人の顔を仰ぎ見る。

「どうでしょう? この子は飼い主さんの急逝でレスキューされた子なので、まだ寂しそうですけど……大事に飼われていたので、人は大好きなんです。嬉しいと興奮しちゃいますが、基本は落ち着いていて、性格も優しい子です」

ハルトがリードを持っているからなのか、大人しく鎮座している犬は、見知らぬ女性を仰ぎ、あの色男がするみたいに口を開けて笑うような顔をした。

「すごく可愛いです」

美女は懐かしい知り合いに会ったように微笑むと、目線に合わせて屈んだ。

「はじめまして、オセロ。良かったらうちに来てほしいの」

犬は小首を傾げ、愛らしい目で美女をじっと見た。

「上のドッグランで一緒に歩いてみましょうか」

果林の提案ににっこり微笑んだ彼女は、思ったより落ち着いた様子の犬と一緒に歩いて行った。――たぶん、オセロは彼女と行くだろう。

そんな気がしながら背を見送ると、背を指でズムと押された。

「ハルちゃん? 話は終わってないんだけど?」

「う……ラッコちゃん……それに関しちゃ、また今度……」

「今度? 今度ってどゆこと?」

倉子は監査官や検察にでもなったら大成するかもしれない……

要らぬことを考えつつ、弁明とも誤魔化しともつかないことをブツブツ言っている間に、鷲尾が再び、犬を伴って散歩に出て行った。

それを見て、元・部下の連中が揃って頭を下げる。

『鷲尾サン! いってらっしゃいませ!』

「おい、でかい声出すんじゃねえ……! こいつらが驚くだろ!」

目をまん丸にした犬を抱えながら、よっぽど怯えさせはすまいかというドスの利いた声が注意する傍らでは、現役殺し屋が掃除をしながら女子高生に睨まれている。

……変な保護施設だが、主役の犬猫が元気なら……これで良いのだろうか?




 その声は、窓の外の凍てつく寒さよりも冷気に満ちていた。

「――それはどういうことなの、アマデウス?」

一人、事務机の前で椅子にもたれ、ブルーのスクラブスーツを着た女は、書類――患者のカルテも混ざっているそれと、開いたパソコン画面を見ながら、机に放置した電話と話していた。プラチナブロンドを後ろにまとめ、青く厳しい目の女は、およそセクシュアルな印象の強いドイツ人女性の中ではストイックな雰囲気を漂わせる。

妙齢の顔は気難しい様子だが、常に練磨し、美しく歳を重ねた仕事人のそれだった。

〈言葉のままだよ、レベッカ〉

電話から響いて来る声に、女は顔をしかめた。

「あのエセ紳士の部下が来たと思ったら、次はアンタのクソガキが来るって?」

〈安心したまえ。ハルはそれなりに紳士だよ〉

「お黙り。マグノリア・ハウスのガキなんか送ってきたら、腕を落としてシュプレー川に捨ててやるわ」

〈フフ……相変わらずだね、レベッカ。でも、君はそんなことはしない。医療に携わる君は命の重さを理解している〉

女は額に手をやって疲れた溜息を吐いた。

「アマデウス……私はバカな男ほど嫌いなものは無いの。そしてあんたやエセ紳士は男の中でも極めてバカな部類よ」

〈レベッカ、私はバカなりに、君が女性の中でも極めて聡明であり、世界的な名医であると知っているよ〉

「ああ、そう――もう一つ覚えておきなさい。私は男の誉め言葉は信用しない」

〈おや、君は昔から頑固だが、更に硬くなったようだ。では、先にカードを提示しよう――レベッカ、スプリング適合者に興味は無いかい?〉

女は眉吊り上げていたが、訝し気に皺を寄せ、放り出していた電話を見た。

「トオルのこと?」

〈いや、彼の甥。十条未春だ〉

「……トオルの甥……」

興味が引かれたらしい女の様子に、電話の声は静かに続けた。

〈今の彼は、ハルさえ動けば叔父に逆らっても付いてくる。君がハルに協力すれば、未春はデータ提供に協力するだろう〉

「トオルの妨害が無いとは思えないわね。私はあの施設のガキも、殺し屋のガキも、どうなろうと何とも思わないのよ?」

〈言ったろう、賢いレベッカ。君がハルに協力すれば、未春の協力もまた100%保障できる。彼らの関係性を読み違えるとまずいことになるかもしれないが、賢い君には問題あるまい。大事なスタッフを傷付けることなく、”獅子身中の虫”を始末できるというものだ〉

「……あんたは人の揚げ足を取るだけなら天才ね」

鼻を鳴らした女は、椅子にもたれて腕組みしていたが、しばしの沈黙の後に言った。

「――いいでしょう。今回はバカの頼みを聞くわ。間違いだった場合は五割増、このガキ共がウチの支部を荒らそうものなら八割増。両方起きたら本格的に慰謝料請求」

〈いいとも。こちらの依頼だけは完遂してくれたまえ〉

「あんたの依頼料は別精算よ。ガキ共の滞在費なんて絶対払わないから」

〈君のしっかりしているところはハルと気が合いそうだ。交渉成立だね〉

いくら罵声を浴びても楽しそうに笑う電話向こうに、女はうんざり顔をした。

「それで……まだ何か用がある?」

〈身辺に気を付けてほしい。君は”彼”の関係者だ――用心に越したことはない〉

「余計なお世話ね。父が何をしようと、私は自分の仕事をする」

〈そうかい。私もいずれ顔を出すから、レベッカ、たまには食事でも――〉

言葉の途中で女は通話を切った。

静まり返る室内で、鋭い目がパソコン画面を見つめた。表示されていたのは、十条未春の身体的なデータだ。そこには過去の怪我、病のデータも含まれるが、いずれも一日足らず、或いは三日から一週間以内に完治している。

スプリング。魔の薬物を、神の妙薬に昇華させた青年。

『レベッカ、宜しいですか?』

控えめなノックに応じると、金の巻き髪を肩口に束ねた若い女が二人、入室した。

レベッカ同様にスクラブスーツを着たその容姿たるや、鏡に映した様にそっくりだ。看護師と思しき、区別の付かない女たちは、片方は白い花の髪留めを、片方は青い花の髪留めをしていた。

「どうしたの、エマ、ラナ」

「もう終業時刻を過ぎていますから」

「無理をすると、明日に支障が出ますよ」

物静かに伝える二人は、機械仕掛けの人形を思わす淡々とした口調で言った。

「そうね。働き過ぎは良くないわね」

同僚であり、BGMでは秘書に等しい女たちに頷くと、レベッカ・ローデンバックは電話への冷たさが嘘のように微笑んだ。

「エマ、外から患者が来ることになったの。来週の予定を少し調整してくれる?」

「かしこまりました」

「ラナ、財団や各方面に備えを頼んで。ラファエラには例の件を」

「かしこまりました。どちらからお見えに?」

「日本。少し厄介な事になりそう。皆にも用心するように伝えましょう――交通機関にも断らないとね……全く、バカな男が関わると、面倒なんだから……」

ぼやいた上司に微笑み、女たちは揃って頭を垂れた。

Alles klarアレスクラー(了解です)。仰せのままに』




 「ハルちゃん、コンビニ行くけど何かある?」

スターゲイジーらが帰国して、数日後。

夕食が済んだ後の午後七時半。自室に顔を覗かせたのは未春だ。

……あれから、特に現状は変わっていない。フレディは行方不明、未春と出掛ける話は宙に浮いたまま、十は間近に控えたバレンタインがどうとか言って忙しそうで、アマデウスはだんまりを貫いている。

そう。何が起きようと、指示に従い、翻弄される生活はどうせ変わらない。

強いて言えば、未春は少し変わった気がする。不調は無くなり、BGMの仕事も再開している。だが、何かが違う。何がとは言えないが――……

「ハルちゃん?」

「あー…………」

間延びした考えは天井に吐かれたまま着地せず、ハルトは手の中の本を置き、腹の上のビビを脇に置いて起き上がった。

「俺も行く。外の空気吸いたくなった」

「16号沿いの空気を?」

外寒いよ、と付け加えて未春は聞き返した。未だハイブリッド車に混じる、排ガスを吐き出す車両と、コンクリート面を吹き荒ぶ埃と砂が混じる夜の空気を吸いたいとはどういう心境かと言っているのだろう。

ご尤もだが、生憎そういう日もある。

「旨くないけど、落ち着くんだよ」

ニコチンアレルギーみたいなセリフになるが、自分で言っておいて意味不明だ。

未春はゆっくりした瞬きに「理解不能」を描いていたが、異論は唱えなかった。

年が明けても冬真っただ中の余所余所しい空気の中、車以外と出会わない道に肩を並べた。

「落ち着く?」

しばし歩いて、未春が尋ねた。

「……まあまあ」

正直、何がまあまあなのかもよくわからなかったが、ハルトは頷いた。

道路ばかりが明るくて、町は日本側もアメリカ側も暗い。何処までも続く道路を、トラックが、乗用車が、バイクが、いつまでも駆け抜ける。

流れる。淀み無い、流れ。その左右の世界は人が生きる社会でありながら、生活の息吹は感じられず、今は暗く息を潜めている。流れの音をBGMにしながら静かに佇み、夜明けを待つ。見上げた星だけは、よく見えた。

「……じゃあ、俺たちが歩いてんのは……何処なんだろうな……」

無意識に呟いたハルトに、未春はきょとんとした。

「?ベースサイドストリートだよ」

ベースサイドストリート。本通りと平行した脇道。

ハルトは息を吐いた。凍えそうな溜息だった。

「なあ、未春……俺たち、どういう関係に見えると思う?」

「……?」

「似てないから、兄弟じゃない。親戚ってのも無理がある。只の同級生なんて歳でもない。職場の同僚も無いな。同じ制服かスーツでも着てりゃ見えるかもしれないが……」

「ハルちゃん……どうしたの?」

「俺たちはその内、サイドストリートを外れて牽き殺されるってことだ」

ハルトの顔つきや口調は落ち着いていたが、内容は支離滅裂だった。

「もし、俺たちが『友達』や、互いに思い合える関係に見えていたら、お前……どう思う?」

ハルトが何を聞いているのかわからず、未春は立ち止まった。三歩先でハルトも立ち止まり、振り向いた。

未春が何か言い掛けたとき、ハルトが何かに瞠目した。

かちゃり、と金属音がしたと思った。聴こえる筈のない音を感じた直後、ハルトは未春の肩を押し退けるようにしていた。頭の中で、顔も覚えていない教官の声が、早送りするように喋った。


――銃撃を受けたら伏せるのは基本だ。


――しかし、諸君らは這いつくばるだけではなく、反撃及び撃退、又は無傷で逃走するのが望ましい。もし、二人以上の人間と行動していた場合、先に銃撃に気付いた方が気付かなかった方を盾にするのも宜しい。

TOP13のように世界に有益な相手ならともかく、基本的には誰も庇うな。

同僚だろうと、上司だろうと、無いとは思うが親しい人間だとしても、庇うな。

何故か? BGMは仲間を守る為の組織ではない。

生き延びて、銃撃した人間は必ず捕縛、若しくは仕留めろ。

我々の目的は『世界を滞りなく回すこと』。

この安定を守る高尚な魂を以て、犠牲の上に安寧を。

全て、裏側にて事を成せ。


パン、パンという気の抜けた二発の音は、轟音と共に通り過ぎた大型トラックが、小さな風船でも踏んだような音だった。

バランスを崩しつつも倒れることなく未春が振り返った先で、ハルトは道に膝を付いていた。腹痛に屈み込むように身を折り、両手で脇腹とその裏を挟むように押さえている。”それ”に対してお手本のような仕草をした指の隙間から、右の肩から、どす黒いものがたらたらと溢れ出た。

不思議だ。

金属バットで勢いよく殴られたような衝撃はわかるのに、痛みは感じなかった。

手を濡らす血の感覚も曖昧だ。肩の方に至っては熱さを越えて冷たいぐらいだ。

自分を呼んで近寄った人影が未春なのはわかったが、顔を仰ぐことはできなかった。声はくぐもってよくわからない。聴こえるのは、車の走行音ばかり。


――多分、狙われたのはお前だ。


口に出せない言葉は冷静だった。方向は、基地側じゃない住宅街側。二発以上撃つ気配なし。距離、狙いからして、プロだ。

なんだ、日本にも良い腕の奴が居るじゃないか。ジョゼフより、上手い隠れ方だ。

蜂蜜色の金髪が揺れた気がしたが、実際はその姿は何処にも見えない。

ぐらり傾いだ視界に、蒼白な未春がちらと見えた。


――ヘンだな。お前なら、撃たれても平気なのに。俺は何をしてるんだ?


口端に、ここ一番の際どい嘲笑が浮かんだと思ったところで、ハルトは倒れた。





……To be continued.

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BGM 3 ‐Dog Fight‐ sou @so40

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