10.Normal.

 「本当に、これは“保護”なんですね?」

夕飯時を過ぎ、普通の家庭なら寛いでいる夜半。

自宅の玄関先で顔中に渋面を描いた葉月はづき氏に、末永すえながは頷いた。

隣には、割に落ち着いた顔をしている息子の力也りきやが居る。

話の当事者だが、先程から父親と、如何にも実直そうな警察官とを交互に見ているだけで、慌てる素振りも無い。片頬に真新しいガーゼと絆創膏が貼られている青年を視界の端に、末永は改めて言った。

「先ほど申し上げた通り……逃走中の暴行犯は、息子さんとよく似た容姿をしていたことが確認されています。理由は不明ですが、犯人の行動によっては息子さんが狙われるかもしれません」

「昼間、喧嘩した話は聞いてるんだが……」

日常茶飯事なのか、困り顔で息子を振り返る父親は、首を振った。

「昔から正義感が強い子なんでね、逆恨みは覚悟でやるように言ってるんだ。自分のことじゃ喧嘩しないが、人の為だとすぐに手が出る。家族もこの子が正しいと思った行動を信じてますから、今さら悪党が難癖付けて来ても驚きはしませんがね」

「素晴らしい行動だと思いますが、相手が悪いと思います。暴行犯は殺人も辞さない様子でした。御同行頂ければ、人違いで逮捕されることも回避できます」

「……あんたみたいなしっかりした人には言いたくないが、警察は信用が低いんだ。その犯人の映像などは無いんですか?」

「付近の防犯カメラに映像は有りましたが、雪が降っていたのでフードを被られてしまい、顔は見えませんでした」

「なるほど、犯人になる人間てのは白昼堂々、顔を見せてやるものだからね」

面と向かってのあからさまな皮肉に、末永は反論せずに頭を垂れた。

「ご子息の安否を気遣われるのは、ご尤もだと思います。私がしっかり守りますので、どうかお願いできませんか」

「だとよ。どうする、力也。後はお前が決めなさい」

「お、俺?」

力也は、自身を指して呻いた。

「お前が行きたくないってんなら、父ちゃんはこちらの警部さんに塩や水を撒いてでも帰って頂く」

力強い一言に、力也はしばし父親を見、深く頭を垂れたままの末永を見、頷いた。

「俺、行ってくるよ」

「そう言うと思った……」

溜息混じりに言って、父親はあべこべに警察官に向かって頭を下げた。

「こういう子です。御迷惑をお掛けするかもしれませんが、宜しくお願い致します」

「責任を持ってお預かり致します」

準備してきなさい、と言う父親に頷いて、力也は奥に引っ込んだ。

「……冷静なご子息ですね」

「とんでもない。真逆です。考えるより先に動く」

「いえ、普通は警察がこんな風に訪ねてきたら、もっと慌てるか慄くものです」

「さあねえ……単に事の重大さがわかっていないだけじゃないかな。うちのおふくろが詐欺に遭った時も、犯人かもわからんヤクザ者のとこにすっ飛んで行っちまって、危うく袋叩きに遭うところだったし……運良く助けてもらったからいいものの……」

呆れた様子ですらすら話す父親に、末永は詐欺に対しては気の毒そうな顔をしたが、奥に向けた眼差しは、それこそ冷静だった。

「助けたというのは、警察ではなく……?」

「ああ、いまアルバイトさせてもらってるとこのスタッフさんが通りがかって。もともとオーナーさんとは知り合いだったんだけどさ、バイトはこれが縁でね。何君だっけな、芸能人みたいなイケメンの……」

――十条未春じゅうじょうみはるか。

内に呟き、末永は眉をひそめた。芸能人と言う程ハンサムなのは、いつか店で顔を合わせた彼で間違いないだろう。

拳銃の怖さをよくわからないと表現し、異様に落ち着いていた青年。

腕っぷしが強いのは十条もちらと述べていたが、葉月氏の言う事が本当なら、数名のヤクザ者を相手に力也を助けたことになる。それは言う程、簡単なことではない。

攻撃する意図を持った大人数名が相手では、訓練した警察官でも多勢に無勢だ。

この件が縁でアルバイトを始めたということは、ここ二、三年内の出来事だろうが、そんな暴力事件が有ったか?東京の郊外であるF市は、米軍基地に隣接した特殊な環境のわりに治安はそれほど悪くない。数十年前ともなると、暴力団やドラッグの影は有った様だが、今では長閑な方――故に拳銃の件は目立ったのだが。

思案の最中、力也は戻って来た。

やや早い気もしたが、女性のように時間が掛かることはないかと思い直し、末永は声を掛けた。

「では、参りましょうか」

「はい」

大人しく従う息子に対し、父親は「気を付けてな」とだけ告げて見送った。

改めて丁寧にお辞儀をして葉月家を辞した末永は、パトカーを前にそわそわしている力也に後部座席を勧めた。運転席に待たせていた部下と二、三言交わし、末永は自分も後部座席の反対側に座った。ランプはおろか、サイレンも鳴らさずにパトカーは静かに滑り出した。雪は弱まって雨混じりになってきていたが、慎重に走る物静かな車内で、力也は言った。

「警部サンて、カッコいいスね」

小学生のような物怖じしないお喋りに、末永は微苦笑を浮かべた。

「只のくたびれた公務員ですよ」

「くたびれては見えないスけど、そんぐらい働いてるんでしょ? カッコいいスよ」

率直な褒め言葉は、お世辞には聞こえなかった。ありがとう、と末永は述べ、窺うように力也の顔を盗み見た。そこに居るのは純粋無垢な様子のひとりの青年だ。悪事になど関りそうにない――漂う子供っぽさは、そのまま誠実に繋がっている。

「不躾な質問と存じますが、その怪我は今日の喧嘩の痕ですか?」

丁寧な問い掛けをした警部に、力也は照れ臭そうに頷いた。

「……警察的には、ダメッスよね、喧嘩」

「警察ではなくても感心はしませんね」

付き合う様に微笑した末永は、でも、と首を振った。

「その行動が、誰かを守る為のものでしたら、一概に異を唱えることはできません。勿論、暴力に訴えないことが何よりですが」

「はは、ですよね……わかってるつもりなんスけど……手が出ちゃうんです」

「今日も、どなたかの為に?」

「男三人掛かりで、急に女の人の手を掴んだんで……なんだっけ、何かの……暴走族みたいな連中で。向こうにも、なんか事情があったみたいですけど」

「暴走族ですか。確かに、男三人で女性一人をというのはまともな行動ではありません」

――ナンシーが『リーフマン』と名乗る男と接触した際に居合わせた三人だろう。

どうやら彼女が聞き出した通り、東部鷲尾連合会の下っ端は、『リーフマン』を葉月力也と勘違いして襲撃し、逆襲されたものらしい。

「襲われた女の人とは、お知り合いですか」

「えーと、俺はそうでもないっていうか……顔見知り程度です」

「なるほど。その方は、何かトラブルを抱えておいででしたか」

「んー……そうじゃないみたいでした。心当たり無いって言ってたし」

そうですか、と答えて末永は内心、首を捻った。

東部鷲尾連合会が接触した女性は、高梨たかなし果林かりんと聞いている。要件は代表の鷲尾が呼んでくるように指示したのみ。彼女は前科というほどのことはないが、若い頃に鷲尾らと共にスピード違反で補導された経歴が有った。現在はすっかり落ち着き、犬猫の保護施設を運営中。経営は火の車ではあるようだが、借金や周辺とのトラブルも無く、きちんとした手続きで犬猫を譲渡するクリーンな会社だ。

「助けて下さったのは、職場の方ですか」

「ハイ。未春サンとセンパイが」

「先輩?」

「あ、えっとー、野々ハルトさんです。店では俺の方が先輩なんスけどー……」

「けど?」

「えと……なんていうか、歳上だし……帰国子女ってやつで、英語もペラペラなんで、憧れがあるっていうか……最初からセンパイって呼んでます」

名前で呼ぶと変な感じだなあと付け加える力也をよそに、末永は予想通りの人物の名に頷いた。

野々ハルト。

帰国子女に至る特殊な経歴と、些か潔癖すぎる生活に違和感がある青年だ。

人に向かって手を上げるような連中を退けるだけの強さがある人間は、一般的には格闘技などのスポーツ選手や、警察、ガードマンなどの特殊な訓練を受けた人間が自然だ。十条未春同様、この青年にも、そういった公的な履歴は無い。

特殊なのは、一般家庭に生まれたが、借金を抱えた両親が夜逃げをし、海外で他界した為、保護した団体の伝手でアメリカに渡っている点だ。両親の他に身内が居なかったことを踏まえ、日本に強制送還した際のトラブル回避策というが、異例中の異例と言って良い。本来、両親の借金は両親のものであり、子供に返済義務は無い。ただし、保証人になっていたり、相続していれば義務が生じ、両親が死亡した場合は相続を放棄しなければやはり返済義務が生じる。彼を保護した団体はこの仕組みをよく知っているらしく、相続は放棄させた上で、違法な借金――所謂、サラ金まがいのものは出すところに出して処理、または肩代わりし、後にハルトが団体に向けて自ら返済している。当初、この子供支援団体をBGMの組織母体かと思った末永だが、協賛する企業・国家機関はあまりに多く、主要な先進国は無論のこと、世界的な大手企業も含まれ、どこをどう疑ったら良いのか見当がつかなかった。

何しろ、団体そのものに怪しい行動は見られない。日本には現地法人がない為、わざわざ海外の知り合いに見に行ってもらったが、オフィスは整然とした綺麗な建物で、スタッフも至って普通、保護された子供たちは清潔な場で生活し、虐待のような行為、怪しい物品の搬入や搬出も見受けられなかった。無論、人間の行き来も同様である。これならいっそ、一般企業の顔をして外国人労働者を受け入れては行方不明にしている企業の方がよほど怪しい。

「憧れ、と仰いましたが、彼がアメリカで何をなさっていたかはご存じですか?」

「えっ」

ひどく意外そうに力也は目を瞬かせた。

「それって、アメリカで何の仕事してたかってことスか?」

「ええ、そうです」

経歴上、アメリカを拠点にした世界的音楽企業ジングシュピール社に入社しているのはわかっているが、社内情報は秘匿されており、具体的な仕事内容は不明だった。

「そういえば……知らないッス」

「知らない?」

「ハイ。会社もなんだっけ、難しい名前で……」

「と、いうと……憧れの理由はお仕事ではなく、お人柄ということでしょうか」

「そっか、そういうことになりますね。センパイ、カッコいいスから」

先程、自分もそう評価された言葉に嘘は無いように見えた。

一見、浅慮にも見えるが、この青年は目の前の人間を疑ったり深読みすることなく、ありのままを見つめ、あくまで素直な感想を述べているだけに思えた。

……と、すると、彼が『カッコいい』と評する着眼点は、何処にあるのだろう?

顔や服装はどちらかといえば一般的だった。仕事風景も、日本での行動しか知らないとすると、堪能な英語か? ……それとも、半グレに負けない腕っぷしの強さか。

「貴方がこうした状況で落ち着いているのは、その方の影響ですかね」

「え、うーん……それは無いと思いますけど……」

力也は頭を掻きながら、ぼんやりと虚空を見つめた。焦ったり、話題を逸らそうとする様子は無い。いざ振り返ると、その目は潔いほどまっすぐにこちらを見た。

「センパイは……『普通』っぽいですけど……”ぽい”だけで……なんか上手く言えないスけど、俺には成れる気がしないです」

末永はその表情を見て、「そうですか」と答えたが、内心ひやりとした。

成れる気がしない、『普通』。

末永は思案顔を前に向けて押し黙った。

――以前にも、女性とはいえ拳銃を持った相手に臆すことがなかった『普通』の男。

この素直な青年の目から見て、憧れであり、成れる気がしない『普通』の男。

違和感さえ、辻褄を合わせるように、ある筈の優秀さが見えない『普通』の男。

野々ハルトか。あからさまに異質な十条十とは別のタイプだ。

まるで、稀有な身に『普通』を羽織って歩いているような……




 一方、十条宅では、ささやかな宴会が開かれていた。

十条が眺めるテーブルに、妻子と相対する形で室月と明香が座っている。

妻の穂積や実乃里が可笑しそうに眺める手前、明香は健康な若者宜しく、「美味しい」を挟みながら出されるままにむしゃむしゃ食べている。

傍らで美しい所作で食事をしていた室月が、少しは遠慮しろと小突くと、明香は口を尖らせた。

「ムリだよ、室ちゃん。めっちゃ美味しいもん」

「そうよ、遠慮しなくていいわよ。男の子はいっぱい食べなくちゃ」

「さすが穂積さん、わかってるゥ。ブタ箱行きになったリッキーに悪いけど、俺は存分に食べさせて頂きまーす」

悪びれる素振りも無しに明香の箸は止まらない。十がグラスに注いだビール片手にへらへら笑った。

「あっくん、ブタ箱までは行ってないよ。警察がそれやったらマズいでしょ」

民主主義の日本で、今回の件は任意同行ですら無い。

犯人でもなく、関与さえ不明な青年をいきなり拘置所にぶち込んだら、当の警部が処分される。明香は咀嚼しながら首を捻った。

「でもさ、トオルさん。リッキー連れて行かせたのはマズいんじゃないの? 俺ン時みたいに、BGMのこともペラペラ喋っちゃうんじゃない?」

「あっくんは誘導尋問だったじゃないか」

「尋問じゃないよ。誘導はしたかもしれないけど」

口達者な明香に微笑み、十は肩をすくめて首を振った。

「良いんだよ、リッキーが喋る分には」

「良いの?」

「良いんだ。警察が誘導尋問なんかしたら訴えちゃうけど、リッキーの場合はそういうことも起きないと思うよ」

あのガチガチの正統派である末永がそんな愚は犯すまいが、そもそも力也は駆け引きができない――否、駆け引きに発展しない。

「葉月くんの良い所は、嘘がつけない点ですからね」

箸置きにきちんと揃えて置いた室月の言葉に、ビールを含んで十が頷いた。

「そういうこと。リッキーは嘘がつけないんだから、喋った全部が真実になる。じゃあ、喋った分だけ情報を引き出せるかといったらそうじゃない……リッキーにとって真実ではなくても、真実だと信じていれば、それが真実なんだ」

明香も口の中のものを飲み込んで頷いた。

「”リッキーの前での”日頃の行いがよろしければ、何の問題もないってことか」

「そうだよ。リッキーにとって僕たちは悪党だけど、敵じゃない。彼がそう思ってくれている内は大丈夫。今度何か美味しいもの御馳走しよう」

納得した顔で、明香はごちそうさまーと手を合わせてお辞儀をした。

「あっくんは綺麗に食べるわねえ。室ちゃん、足りた?」

「はい。手伝います」

「だーめ、座ってて。あっくんもね」

「そうそう、私が手伝うから休んでて」

待ち構えていたように白く細い手が食器を下げていくのを、室月は会釈と共に見送り……ふと、隣で明香がニヤニヤしているのに気付いた。

「……なんだ?」

「えー? 実乃里ちゃんは良いお嫁さんになりそーだと思ってさ」

「あげないよ!?」

がん!とグラスをテーブルに打ち付けて叫んだ十に、どうどう、と明香が両手を振った。

「トオルさん、落ち着いてよ。俺は年上派でしょ」

「穂積もダメッッ!!」

「はーいハイハイ……ホント、二人が絡むと幼児なんだからー。安心して下さい、人妻には手出ししません~~年の差も、許容範囲はさららさんぐらいまでだから――」

「さららもダメだからな」

隣からじろりと睨んでくる室月に、明香は身を縮めて嫌そうな顔をした。

「もう、何なのこの話が通じない人たち……実乃里ちゃんも大変だねえ」

「なーに?」

項垂れる明香の視線を受け、茶器を盆に乗せて戻って来た実乃里が笑った。

「すみません、実乃里さん」

「いいんです」

にこにこしているが、どこか伏し目がちに実乃里は茶器を準備した。母親がやるのを見ているのだろう、慣れた手付きで淹れていく。

「実乃里は良いお嫁さんになるねえ……」

娘が淹れたお茶をしみじみと頂く父親に、明香は呆れ顔だ。

「自分で言うのはアリなんだあー……」

「その日を思うだけでパパは胃が痛いよ」

「胃痛と引き換え……」

「お茶持ってたら相手の顔にかけそう。多分かけちゃう」

「……室ちゃん、大事な話は夏にした方がいいよ」

肩を叩かれた室月が怪訝な顔をした。

「何故、俺に言うんだ」

「ッかー……こっちはハルトさんと争える鈍感ちゃん? もーええわ!」

明香が椅子にもたれて天を仰いだとき、胃痛がする妄想から帰って来た十がその顔を窺うような顔をした。

「そうそう――あっくん、どうだった? ハルちゃんの同期の演技は」

「十条さん、実乃里さんの前では……」

すかさず口を挟んだ室月に、十は微笑した。

「いいんだよ、室ちゃん。こういう話は、もう”わからない”で通らない年齢だから、変に秘密にしない方がいいんだ」

「しかし……」

「室月さん、私、大丈夫です。聞いてるだけだから」

にこりと笑った実乃里に、まだ何か言いたげな顔をした男は黙した。それを合図に、明香に片手で促した十に、こちらは遠慮なく口を開いた。

「俺は~……殺し屋のレベルは”ヤバい”しかわかんないですけど、アレは演技じゃないです。変装です」

日頃、ちゃらけた様子の明香も演技の話になると真剣だ。

「親しい人にはわかる程度の変装ですかね。挨拶するぐらいの人じゃわかんないかなー……ぐらいの精度は有りますが、声はアポロの新人以下だと思います。ただ、語学はめちゃくちゃハイセンス。彼、欧米人でしょ? ピオもそうだけど、あんなに日本語上手いのは珍しいんじゃないかな。声真似はできないけど、言葉の訓練は相当積んでるって感じ」

「だろうね。ハルちゃんも、実はバイリンガルじゃなくて、マルチリンガルだから」

「マルチ?」

疑問符を出した明香に、室月が十と視線を交わして引き取った。

「多言語を話すことだ。二ヶ国語ならバイリンガル、三ヶ国語ならトリリンガル、四ヶ国語ならクァドリンガルなどと呼ぶが、ハルトさんはマルチと言って難が無い。例の施設出身者は全員がそうだったらしい」

実乃里が感心した顔で聞く中、明香も素直に驚いた顔をした。

「んじゃ、ハルトさんは俺らにバイリンガルって思われてるけど、訂正してないってこと?」

「そうさ。ハルちゃんはそういうとこあるでしょ? 彼は開示しない方が都合が良い事は言わない。”面倒臭いから”って理由だろうけどね」

「施設の必須課題では、英語と、各自の出身国の言葉、加えて別の言語を最低一つ以上はマスターさせたそうだ。ハルトさんは語学は優秀な方で、英語、日本語、スペイン語、フランス語、イタリア語、発声の面で苦手だそうだがドイツ語も習得している」

「うっわ……これだからハルトさんは嫌だよ……しれっと『普通』の顔してんだからさあ……」

嫌そうに頬杖つく明香に、十と室月が苦笑を漏らす。”それ”がわかる明香も明香だ。

「ま、世の中の『普通』じゃ、優秀な人間は優秀さを表に出して生きるものだからね。ハルちゃんはそういう意味じゃ、『普通』を演じる天才かもしれない」

「言えてる。そこ行くと、『リーフマン』はちょっと違う印象だったね。隠してない感じがするもん……見えちゃいけないもんが見えても、別に気にしないっていうか」

「あっくんが言う通りだろう。見られて困るなら、消す」

さらりと残酷な表現を匂わし、十は残ったビールをすっと飲み干した。

室月が厳しい目を十に向ける。

「今回、”見た”人間に、『リーフマン』はアクションを起こすでしょうか?」

「彼が起こさなくても、見た方のスターゲイジーのお嬢さんが起こすだろうね。スパイシー・ナンシーの名は伊達じゃあない。末永さんに押さえてもらいたいとこだけど……彼は忙しいからなあ。リッキーのお守りもお願いしちゃったし」

いたずらっぽく言うと、十は肩を揺らして笑った。

「『リーフマン』の目的がハルちゃんなのは確かだ。僕としちゃ、先に”あっち”が連絡をくれると助かるんだけど」

十が言い掛けたときだ。申し合わせたようなタイミングで電話が鳴った。十だ。

着信ナンバーを見た男が、画面を見たまま「おお」と呟きながら立ち上がる。

「ナイスタイミング。ちょっとそこで喋って来る。あ、実乃里に手出さないでよ!」

「此処で口説いたってトオルさんには聞こえちゃうでしょーが」

尤もなツッコミをした明香と、実乃里と室月の苦笑に見送られて十は廊下に出た。

しつこく鳴り続ける着信に、微笑を浮かべて出た。

「はーい。……わわ、大声出さなくても聞こえるよ」

電話越しに殴り掛かってくるような声に、十は壁にもたれて楽しそうに笑った。

「まあまあ、怒らないで。電話をくれて嬉しいよ、鷲尾わしおくん」




 ディック・ローガンの事務所は荒廃の一途を辿っていた。

三日前は、デリバリーされていた老舗割烹の重箱弁当が食い散らかしてあった。

二日前は、新しいゲーム機が包装箱を投げ出した状態でテレビに接続されていた。

昨日は、新品と思しきスーツが届けられたが、ビニールを掛けられたままの姿で掛けられ、それが見下ろす下には何が入っていたのか不明な段ボール箱や紙袋が転がって――いや、その中身は執務用デスクに広げられた書籍の山だろう。週刊誌に情報誌、どういうわけか若い女性が読むようなものまで有った。

そして今日は、図体のでかい紳士がスナックの袋と空のペットボトルに囲まれて、ゲーム画面のムービーを繰り返すテレビの前でイビキをかいていた。食べたと見られるピザ箱の数、オードブルが載っていたであろうひなびたサニーレタスが残された皿は、明らかに一人では無かった形跡だ。

ディックは我が部屋の惨状にうんざりしつつも、身だしなみだけはきちんと整えている紳士の肩をゆすった。

「あのお……スターゲイジー?」

「うぬ……ドロシー……勘弁してくれ、もう食えん……」

「もー……スターゲイジー、調べもの済みましたよ、起きて下さい」

「レバーだけはやめてくれ……」

「スターゲイジー!」

「うるせえ‼」

間髪入れずに飛んできたパンチから尻もちをつく形で避けたディックは、頭の上を薙いでいった剛腕に冷や汗を垂らした。

「なんだ、ディックじゃねえか」

「なんだじゃないでしょ‼ ここは俺のオフィスなんですゥー‼」

「あー、ハイハイ……うるせえ、うるせえ……」

叫ぶ家主に対し、スターゲイジーはストローイエローの髪をわしわしと搔き、髭を撫でつけてあくびをした。

「やけに静かじゃねえか……集中して寝入っちまった」

「はあ、雪が降ったんです。もうやみましたけど、少々積もりました」

「どうりで冷えるわけだ。頼んだ仕事は出来たか?」

「出来たから来たんですよ。まあ、掃除もしなけりゃなりませんがね……」

ぶつぶつ言いながら立ち上がると、ディックは片手に持っていた薄いメモ帳ほどの冊子を差し出した。受け取った紳士は、あたかも部屋の主のように椅子にもたれて足は机に引っ掛けた姿勢で捲り始める。一方、本物の部屋の主は、チーズやソースに汚れたピザ箱からゴミ袋に放り込み始める。

「ほう、一人に絞ったか。やればできると思ってたぜ」

「スターゲイジーの車が掛かっちゃあ、やるしかないです。あ、警察関係の情報にはアクセスしていないのでご安心を」

せっせとゴミを集めながら、無類の車好きは言う。どうやら、守銭奴を動かすには十分な報酬だったらしい。

「警察にアクセスしなかった、か」

つまり、この一人は間違いなく”ヤバい奴”でありながら、警察のお世話になることはおろか、マークもされなかったということだ。

「フフン、じゃあ、コイツに絞った理由を聞かせてもらおうか」

「出入り業者の中で唯一、アフリカと東南アジアへの渡航歴がありました。別の行先に変更されていましたから、確定でしょう。他の連中も業者としちゃ取引してましたが、足を運んでたのはコイツだけです。恐らく、数社がコイツを立てるダミーです」

「コイツもダミーじゃねえのか」

ディックは太い首を振った。

「出張先で死亡してます。”したことになった”って言った方が正確ですかね。マークのある企業は後日、廃業や合併で消滅しています」

「セオリー通りにやりやがって」

笑い飛ばし、喋りながらメモを撮影した男は、そのまま電話をかけた。

「おう、俺だ。今送った男を調べてくれ。ギブソンの手が空いてたら印のある企業も調べさせろ。廃業先は関係者の家族まで洗え。金のルートは漏らすなよ」

簡素に命じて電話を切ると、新聞でも見るように改めてメモを眺め始める。

そこには、一人の男のデータが子細に書かれている。

三澄みすみ つかさ。死亡時の年齢は三十歳。日本人によく見る髪や目、やせ型だが引き締まった体形に精悍な容貌をした、なかなかいい男だ。

記録を偽装してまで渡航したアフリカの各地は、モロッコ、ケニアにタンザニア、南アフリカと各所に渡る。更に東南アジアには危険地域も明記されていた。

「……フィリピンのミンダナオ島が入ってんな」

ぼやくように言ったスターゲイジーに、ディックもどこか苦い表情で振り向いた。

「そうです。ハルの両親が死亡した場所です」

「イスラム過激派が入った後、ずっと治安が良くねえ地域だ。ハルに関しちゃ、どうにも言い訳に聞こえるが」

フィリピン・ミンダナオ島。フィリピン南端に位置し、豊かな自然と農場、ビーチがあるが、一部はテロ組織が拠点を置くが為に現地人も近寄らない無法地帯と化している。犯罪発生率が極めて高く、誘拐や爆弾テロ、銃器による事件も多い為、渡航中止勧告が出ている地域だ。

並の仕事はおろか、夜逃げしたとはいえ”一般人が行く場所ではない”。

「スターゲイジーは、ハルの両親のことはどこまでご存じなんです?」

「お前こそ」

「俺はまあ……そこそこ……」

ゴミ袋の中に喋る様に濁した男に、スターゲイジーは笑った。

「フフン、お前と腹の探り合いなんかしたって意味がない。――野々ノノユタカが意図をもって”夜逃げ”したのは知ってるぜ。嫁がどこまで知ってたかは知らねえが、ついていくんだから大した女だ」

「そりゃ……ハルは連れて行くに決まってますからね……女は子供の事になれば、嫌でもそうするでしょうよ。ウチのカミさんだって、娘のことになるとやかましいったら……」

別居状態の妻への愚痴に発展しそうな男へと苦笑混じりに片手を振り、スターゲイジーはメモに視線を戻した。

「ハルの両親の死亡記録は確かだ。この件に関しちゃ、アマデウスは隠し事が無い事をアピールする必要があった。 だから遺体のDNA鑑定はドイツ女が担当した――あのバカでかい病院は遺体が一つ二つ紛れ込もうが、わけもねえからな」

几帳面に別の袋にラベルを剝がしたボトルを放りつつ、神妙な顔でディックは頷く。

「それでも、他のTOP13は難色を示した出来事です。トオルが、かつての東京支部を潰したのと同時期に、野々金属加工はひじり家と縁を切ってる。このタイミングは偶然じゃあないでしょ……豊は入り婿ですけど、それも仕組まれたって言われた方がしっくりきますよ」

「”あの血筋”には常識に嵌まらねえ部分がある。表側と裏側、どっちの事実も事実じゃない可能性が捨てきれん」

残っていたボトルを呷り、スターゲイジーは髭を拭ってメモを掲げた。

「聖と縁を切ったのは、急に出て来たトオルを警戒してジジイに見切りを付けたんだろうが、そのトオルには接近しなかった。代わりにこれだけの業者を手懐け、証拠は消した……勘が良い上に思い切りも悪くねえ。あのトオルに気付かれない内に鞍替えする機転は、普通の感覚じゃできないだろ?」

「ええ、ウチだって取引相手には慎重ですよ。長く付き合えば尚更です。だからトオルが出て来た時には、アマデウスに相談しましたし……」

親の代も武器商の顔を持つディックも、悪の商人ならではの勘は悪くない。

しかし、長いこと日本の裏社会を牛耳って来た組織を、十条十というポッと出の少年が潰したことは判断に戸惑うセンセーショナルな事件だ。勿論、それでも素早く手を打った方だが、野々家はそれよりも更に早い選択をしたことになる。

「指示したのは……この三澄って男でしょうか?」

「わからんが、コイツの死亡時期はハルの両親と同じだ。一緒に逃げたか、手引きしたか……或いは――」

髭を撫でて笑った紳士の顔を見て、ディックは身震いした。

「ま、とにかくコイツを捜せば、ハルの両親が何故死んだかわかる筈だ」

「……そこを知って、スターゲイジーはどうするんです?」

「ブレンド社は世界の全てに通じる。ディック、俺はな、お前が車を集めたくて仕方ねえのと同じく、他の連中が知りたいことは何でも知りたい。アマデウスが隠したがってる事なら尚更な」

知識欲よりも、情報欲とでも言うべき欲求。スターゲイジーを悪党にしたのは、この欲求かもしれない――集めたゴミの袋を閉じ、ディックは曖昧に頷いた。

「ハルは未だにジョンが仇だと思い込んでる様ですね」

「フフン、そう教育したんだからそうだろうよ。今のハルとジョンを見る限りじゃ、アマデウスの判断は概ね正しかったと言っていい。あの当時は、ハルを壊しちまわないことが重要だった。なんにせよ、”身内”ってのは、相性が良いんだろうさ……それと知らなくてもな」

――そうとも限らないんじゃないか。

ディックは内に呟いたが、察しのいい悪党は口には出さなかった。

身内だからこそ分かり合えないこともあるし、故に激しく衝突することもある。

目の前の男の娘も良い例だ。

「そういえば……スターゲイジー、お嬢さんはどうしてるんです?」

「ハルの同期相手に日本警察と遊んでる。見張らせてるから、心配いらねえよ」

世界屈指の殺人者と遊ぶ――圧倒的に危険な状態にディックが何か言い掛けたが、紳士が手にしたままの電話がくぐもったバイブレーションで遮った。

「おう、どうした――撮れたか。そうか、よくやった」

今度は薄笑いを浮かべて、届いたらしいデータを見ながらストローイエローの顎髭を撫でる。

「いいだろう。ブラックは適当に引き上げさせろ。俺は明日中にはターゲットに接触する」

電話を切った顔は、自信に満ちた往年のスパイのそれだった。

「ディック、うちのGood boyが戻ってくるまでに格納庫をひとつ空けておいてくれ。ガキ共が暴れられる程度の空間がいい」

「は、はあ……良いですけど、あんまり壊さないで下さいよお……?」

「馬鹿め、だから格納庫なんだ。それとも、お前のオフィスで暴れさせるか?」

ぶるぶると首を振った男に笑みと共に報酬のキーを渡し、紳士はコートを羽織って出て行った。




 「We can’t have that.(それは受け入れられません)」

警察官の厳しい言葉に、金髪の女は冷ややかな目を向けた。

F市の警察署内の廊下だ。既に窓口は閉まっている時間帯、署内の殆どのフロアは暗く、人気も少ない。営業の終わったオフィスさながらの場で、警察官は座っていた簡素なパイプ椅子から立ち上がり、読みさしの本をそこに置いて女に向き合った。

「Why?(なぜ?)」

女が威圧的に問うのに、男は冷静に首を振った。

「彼は保護の名目で此処に呼びました。取り調べはできません」

「取り調べじゃないわ。日本の学生とお話しするだけです」

「しかし、貴女がしたいのは大学生の流行や好みの話題ではないでしょう」

生真面目に言った男に、女は軽やかに笑った。

「面白いジョークね、末永警部」

キュ、と廊下にブーツの踵を擦らせ、女は腕組みして首を捻った。

「許可はした方が良いと思うけれど。真面目な貴方が席を外す時に、勝手にやる方が困るのではない?」

末永はしばし、女の強い目を見つめていたが、細く息を吐いて頷いた。

「……わかりました。ですが、私が同席致します」

「は? どうして?」

「彼は英語が堪能ではありません」

視線を上部にぐるりと回し、女は呆れ顔で両手を軽く上げた。

「大学生でしょ? 日本の学生は何を勉強してるのよ?」

「語学に弱いのは同意致しますが、日本は英語圏ではありません。日常会話のレベルはそれ相応の訓練をした学生に限られます。貴女が日本語を完璧に理解できないのと同じですよ、ミズ・アダムズ」

「失礼ね。私は少しは話せるわ」

「では、正確かどうかを確かめる為にも同席しましょう」

テコでも動かない頑固者に女が眉をひそめて仕方なさそうに頷くと、末永は扉をノックした。

「すみません、末永です。少し宜しいですか」

中から応じる声に扉を開けると、簡易ベッドに腰掛けてスマートフォンを持っていた青年――葉月力也が目を瞬かせていた。

愛想笑いを浮かべて歩み寄った女は、「Nice to meet you.」と片手を差し出した。

「なるほどね。よく似ているわ」

条件反射のように握手した青年は、きょとんとして末永と見比べた。

「え、と……どなたですか?」

「イギリス警察のナンシー・アダムズさんです」

「え、イギリス? スコットランドヤードとかいうやつスか?」

どことなく高揚した様子で腰を浮かす力也に末永が苦笑し、丁寧に答えた。

「スコットランドヤードはロンドン警視庁の事ですから、彼女の所属は少し異なりますね。国家犯罪対策庁NCAの方なので、英国版のFBIといった方がわかりやすいかもしれません」

「そんな凄い人が、俺に何の用ですか?」

率直に訊ねた力也に、ナンシーはルージュを引いた唇を微笑ませた。

「只の世間話よ。リラックスして」

「世間話スか」

大人しく頷いた力也の目を見つめ、ナンシーはさらりと言った。

「最近、アナタの勤め先で外国人を見なかった?」

「DOUBLE・CROSSで、スか? 外国人は普段からまあまあ来ますけど」

「体の大きい麦わら色の髪の男か、長身の黒髪の男は?」

「あ、黒髪の人なら……あの俳優さんみたいにカッコいい人ッスかね?」

「ブラック・ロスと名乗ったかしら」

末永が少し表情を厳しくしたが、力也は気にした様子もなく頷いた。

「ハイ、そんな名前だったと思います」

「それ以外、何か話した?」

「いえ、何も」

すんなり首を振った力也に、ナンシーは怪訝な顔をした。

「何も?」

「ハイ」

「……男同士では、興味が無いのかしら」

「え?」

意味が通じなかったか、力也は不思議そうにし、末永は眉を寄せた。

「ミズ・アダムズ……その男のことを彼から聞いてどうするのですか」

「どうもしないわ。この子がどの程度知っているのか聞きたいだけ」

うるさそうに末永を振り返り、ナンシーは目を細めた。

「貴方だって興味があるでしょう? 警部、連中を捕まえる気なら、私のせいにして聞き出すぐらいの図太さは持って然るべきよ」

「……違法捜査はしません。それを許すなら、私はもはや警察ではありません」

何となく不穏な空気を察してか、力也がきょろきょろと両者を見比べた。

「あの、俺なんかマズイこと言いました?」

「――いいえ、葉月さんは何も。我々の間に意見の相違があるだけのことです」

まろやかに答えた末永に、力也は少しほっとした様子だった。

「その……ナンシーさんは、あのカッコいい人に用事があるんスか?」

力也の質問を、末永がやや躊躇った様子で訳すと、ナンシーは頷いた。

「あっ! やっぱり? カッコいいですもんね……!」

お似合いかも、などという力也の言葉に、末永は少々面食らった様子で黙したままナンシーを見た。訝しそうに眉を寄せる女に言い辛そうに伝えると、気の強いイギリス警察は額に手を当てて唸った。

「日本人から見てどうだか知りませんけど、私はあの男を犯罪者として追っているの。数十もの女性を騙し、戦争犯罪、殺人も犯しています」

「えっ、女の人を?……騙して、お金を取ったりしたってことスか?」

「お金? ……いえ、お金は取っていないわ」

女たちの証言では、むしろ彼女たちと関わる費用は彼が支払っているし、高価なものを買い取らせたことも無い。

「じゃあ……どうして騙すんですか?」

「情報の為です。主に要人の妻に近付き、夫を脅迫して情報を得ます」

「女の人を人質に取るとか、酷い目に遭わせることは……?」

「……いいえ、そういうことは無かった筈だけど……」

どうしてか言い淀むナンシーを、力也の純粋な目が見つめる。末永は冷静な眼差しで両者を見ながらありのままを訳した。

「えっと……じゃあ、その情報?で、何か悪い事をするんスか?」

「それは――……あらゆる情報を集めて利用します。彼らの情報一つで戦況が変化したり、倒産する企業が出ることもあります」

「へえ……」

悪事のイメージが違うのだろう、力也の反応は薄かった。

確かに、末永もブレンド社に関しては同意見だ。代表のロバート・ウィルソンこと、スターゲイジーがイギリス王国からナイトの称号を得ているのは事実であり、それは相応の働きと利益をもたらしたことに他ならない。

ブレンド社の情報網によって動いた戦局や倒産企業も確かに存在するが、それは世界的な規模で見れば、独裁政治による戦争に待ったをかけ、雇用問題や不祥事を起こした企業相手であり、悪事というよりは善行に近い。無論、公的機関がそうしたことをやれば国際問題だ。情報の得方も正攻法ではないし、いわば抜け穴に等しい活動をしている点では、悪党といって難は無い。

「ブラックさんって、悪い人には見えなかったですけど……」

殺人の文言は聴こえなかったのか、ぽつりとぼやいた力也の言葉を女は何となく察したらしく眉を寄せたが、意見はしなかった。

末永も調べたが、実のところ、ブラック・ロスの女性遍歴は少々異質だった。

関わった女たちはナンシーが言う通り、大抵がターゲットである要人の妻や愛人。

彼女たちは浮気・不倫をネタに取引材料にされたことになるが、全員が彼を恨むどころか擁護している。女の誰一人、暴力は振るわれていない上、弱みを握られたわけでもなく、この件を後悔さえしていない。強請られた意識さえない為、何の訴えも起こしていないのだ。

ナンシーも、聴取を思い出すとうんざりする。

「彼はとても楽しい時間をくれたの。貴女も女ならわかるでしょ?」――女は皆、口を揃えてそう言った。しかも異様なことに、ブラックと関わった女たちはほぼ全員、夫や情夫との関係が改善している。浮気をしたのは女性側にも関わらず、急に男性側がパートナーを気遣う姿勢を見せるようになったり、毎日のように夫を怒鳴りつけていた女が別人になったように温和になった例もあるらしい。

「悪くなくても……心を盗んだとでも言えばいいのかしら……」

つい呟いてしまったらしいナンシーの言葉を、末永がそっと訳すと、力也はどこか楽しげに驚いた。

「わっ、ホントにあるんだ。そういうの。あるかあー、あんだけカッコいいと……スゴいなあ」

感心する力也に他意はなさそうだった。ナンシーは溜息を吐いた。

なんだって『リーフマン』は、こんな一般人さながらのお子様を真似たのだろう?

「質問を変えましょう。貴方は十条十が犯罪に加担するところを見たことはある?」

「ミズ・ナンシー……それは――」

「いいッスよ、俺、何でも答えます」

むしろ力也に促され、末永が訳すと、青年は首を傾げた。

「十条サンの、犯罪ですか? 見たこと無いッスよ。ボランティアは沢山してますけど。あ、娘サンには、過保護っていうのかな? 愛が重くて犯罪スレスレらしいス」

「……こっちもバカな父親ってワケね」

嘲る調子でひとりごちると、ナンシーは頷いた。

「最後に一つ、いいかしら」

「あ、ハイ」

「あなた、人を殺したことはある?」

末永は咎めるような目でナンシーを見たが、力也の視線を受け、戸惑いつつも訳した。力也は質問内容に目を瞬かせた。

「葉月さん、答えたくなければ答えなくていいですよ」

葉月力也に犯罪歴は無い。この青年の様子からして、その記録が操作されたものとは考え難い。まともな一般人なら名誉棄損だと怒ってもいい問いだ。気遣う末永に力也はしばし考え込むような顔をしていたが、首を振った。

「……多分、無いです」

「多分?」

含みのある答えに、末永が先に問うた。

「多分とは……どういうことですか」

「え、だって……俺が殴っちゃったりした人が、脳の後遺症とかで死んじゃうこともあるかもしれないですよね?」

「後遺症……? ええ、まあ……打ち所が悪ければ……」

恐らく、頭部へのダメージ――脳震盪などのことを言っているのだろう。確かに、脳震盪はスポーツの最中や転倒などによっても起き、頭蓋内で出血すると死亡することはある。力也のように巻き込まれる形での突発的な喧嘩では、相手との因果関係が薄い為に事後どうなったかわからないケースもあるだろうが――……

「葉月さんは、相手の頭部を攻撃することは有るのでしょうか?」

「え、顔って頭に入りますよね?」

「厳密には。しかし、頬や顔面への打撃で死亡するのは稀です。勿論、一点を集中的に攻撃する場合や骨が折れるほどなら話は変わってきますが、これが駄目ならボクシングは非合法でしょう。相手が肉体的に劣る子供や高齢者なら十分有り得ますが、日常的に喧嘩をするような大人の男が相手の場合、一発や二発の打撃で死亡することはあまり無いと思われます。殴った衝撃で硬い物に頭部をぶつけていると、わかりませんが……」

そうかあ、と何処かホッとした顔をする力也の意図を訳されると、ナンシーは鼻で笑った。

「……律儀な子ね」

半ば呆れ顔で微笑んだナンシーが、頷いた。

「とても有意義でした。アリガトウ」

「あ、良かった。どうも……あの、俺もひとつ聞いていいですか?」

意外な申し出に、女は驚いた様だが頷いた。

「何かしら?」

「えっと――……海外の女の人が、言われて嬉しい言葉って何ですか?」

これには末永も意外な顔をしつつ訳し、ナンシーは更に困惑した顔をした。

「嬉しい言葉って……誉め言葉ということ? それは人によって違うと思うけれど」

「ナンシーさんは、どんなことを言われたら嬉しいスか?」

「わ、私? 別に私は……そういうの、あまり無いし……」

目に見えて動揺するイギリス警察に、力也はきょとんとして末永を見た。

「え、どうして。美人スよね?」

曇りなき目で同意を求められた末永は、そこは冷静に頷いた。

「ええ、お美しい方だと思います」

「貴方まで何を言い出すのよ!」

末永は日本語だったが、そのぐらいはわかるのだろう、何故かいきり立つナンシーに、力也は瞬きながら首を傾げた。

「やっぱ、ただ綺麗とか言うのは軽いのかなあ……」

「葉月さん、外国人に気になる方がいらっしゃるんですか」

力也は照れ臭そうに頭を掻いて頷いた。

「そうですか。貴方は素直なところが魅力的です。気負わずに、思ったことを伝えた方が良いと思いますが」

「そっかあ……そうですね。ありがとうございます」

はにかんだ力也に別れを告げ、何やら肩をいからせて廊下に出たナンシーは溜息を吐いた。

「……ガセネタ掴まされた気分だわ」

「ええ、十条には有意義だったと思いますが」

「なんですって?」

咎める調子の女をちらと見て、末永は力也の部屋の扉を眺めながら答えた。

「彼は本当に、素直で表裏の無い青年だと感じました。今回、我々が行った会話は、全て脚色されることなく十条に通るでしょう。これは聴取ではありませんが、手続きを踏まずに行った会話としては聞き逃せない内容も含まれました。証拠は有りませんが……我々に不利に働くことも考えられます」

「あの子にそこまでの諜報能力は無いと思うけれど……」

「諜報ではありません。貴女もそう仰いましたが、ただの会話です。だから問題なんですよ。葉月さんはあくまで一般人なんです。名目は保護ですが、こちらの一存で連行しているのですから、彼が不当な扱いだと感じれば容易に訴えられますし、口止めすることもできません」

「十条が、あの子を通して私たちの話を聞くつもりだったと言うの? それなら十条は……『リーフマン』の行動も仕組んでいたことになるじゃない」

「『リーフマン』と十条の関係はわかりませんが、今のところ、私は彼らに協力関係は無いと見ます」

「……理由を聞きたいわ」

「葉月さんが連行されることになった際、十条は妨害しなかった。まずいことがあるのならそうする筈と踏んでいましたが、彼本人は勿論、何人も居るという協力者も現れていない。一見、妨害とは思えないやり方で回避することも可能ですから、連行前の事故や事件、彼の体調不良などを警戒していましたが、杞憂でした。仮に『リーフマン』と十条が協力関係に有るのなら、葉月さんを拘束させる為に組んだことになりますが……これ自体も無駄な手間に感じますし、その為の行動として、『リーフマン』には余計な発言が多いと思いませんか」

解説に、ナンシーもハッとした。

『リーフマン』は葉月力也に変装していた。葉の英訳はリーフ。一見、関与があるように思えるが、これが力也を逮捕させる為なら、顔を確認させれば済む。

……にも関わらず、自ら『リーフマン』と名乗り、攻撃的な行動に移った上、ナンシーの素性にも触れた。葉月力也が、警察の行動を諜報するでもなく、”ただ”捕まっただけの現状を見れば、彼はやり過ぎだ。

末永は首を振り、殊の外静かに言った。

「ミズ・ナンシー、今回のことは私も好奇心に便乗してしまいましたが……お互い、こうした行動は控えた方が良いと思います。『リーフマン』の件はともかく、十条やブレンド社のことはみだりに話さない方が良い」

「……」

女は唇を噛むと、ふいと背を向けた。

「一体何が、貴女をそこまで動かすのですか」

「……貴方にはわからないわよ、警部」

肩越しに振り向いた女は、冷たく言った。

「親が犯罪者と知った子供の気持ちなんて。……しかも、全ての悪行は裏側で済み、表側で裁かれることはない。だけど、世界には表も裏もないのよ……全部同じ場所、同じ時間の中で起きていることなの。私たちがつまらない悪党を捕まえる中、彼らはバックミュージックのように別の悪事を犯している。それは表側にも聴こえているけれど、聴こえるだけ……触れられない音しかしない」

「貴女がブレンド社について話すと、悪の質に違和感を覚えます。彼らの目的は、単なる利益追求や、私怨などではないと感じますが」

「素人発言はやめてちょうだい。BGMは悪。動悸は捕えてから聞くものよ」

冷徹に言い放つと、女は背を向けて歩き出した。

「どちらに?」

「あっちのベンチで休むだけよ。さっさとホテルに戻りたいけれど、今夜は貴方の目の届くところに居た方がいいんでしょ……」

うんざりした声を響かせた女の腕を、末永は唐突に掴んだ。

「な……なに?」

狼狽えた様子で振り向いたナンシーに、末永は変わらぬ表情で言った。

「廊下は冷えます。あちらの部屋を使って下さい」

「と、特別扱いしないで。貴方だって此処に居るつもりなのに……」

「私は彼に責任を持つとお約束してきましたが、貴女は違います。できればホテルに戻して差し上げたいのですが、貴女の警護に付けられるほど空いた人材が居ない。申し訳ありませんが」

紳士な言葉に、ナンシーはしばし開いた口が塞がらぬ様子だったが、腕を振り解いて首を振った。

「警護なんて要らないわよ……これでも凶悪犯を何人も検挙してるんだから」

「貴女が如何に優秀でも、相手が悪い様に思われます。男女に優劣を申し上げるつもりはありませんが、殺人をも辞さない男に対し、逮捕を考える女性は些か不利です。頼る場面を、少し変えるのをお勧め致します」

「……」

女は反抗的な眼差しで男を見ていたが、ブーツの音も高らかに、示された部屋に入って行った。見送った末永は静かに椅子に腰を下ろすと、薄暗い廊下で再び文庫本を開いた。中の力也も静かだ。何処かに電話をする様子もない。

SNSを使うだろうか……いや、この状況で仮に使ったところで何だというのか。

葉月力也は、『普通』だ。

傍観者になりがちな一般人よりも、遥かに理想的な『普通』。

警戒すべきは、むしろ――……

末永の鋭い目は、イギリス警察が引っ込んだ部屋に置かれた。

恐らく、彼女は連絡を取るだろう。自身が動けない状態に合わせ、こちらとは別の協力者に。その相手は、行動が制限される公的機関ではない。

何度かのやり取りで、日本警察がそれほど柔軟ではないと印象付けた筈だ。

加えて、この雪にもめげずにナンシーは動いた。事件現場に居合わせたのは、偶然と言っていたが、当てずっぽうではないだろう――こちらとしても、忠告を聞かなかった以上、じっとしていられない性分なのはよくわかった。

『それ相応の事件が起きる』と言ったが、この件は彼女自身が襲われた為、異なる。

――それなら……明日だ。絶対に動くだろう。

末永が本を開いたまま、自らの端末を取り出そうかと思ったとき、女の部屋の扉が開いた。

「……どうかしましたか?」

女は何故かムッとしていたが、片手に持っていた毛布を唖然とする男にぽいと放り投げた。

「いくら男だって、冷えるのは同じよ、警部」

「しかし、貴女が――」

「二枚も要らないの……!」

さっさと背を向けた女は言い捨てるや否や、幾らか乱暴に部屋に引っ込んだ。

末永はしばらく毛布を持ったまま立ち尽くしていたが、改めて座り直すと、膝に毛布を掛け、端末を手にしたが――……ポケットに戻し、本を開いた。




 翌朝のF市は、路面以外は砂糖をまぶしたような街並みだった。

空は時折陽が射すものの、仄明るい白に覆われ、空気はきりりと冷たい。あちらこちらから水が滴る音と、湿った道路をタイヤが踏む音が響く。

「はあ?」

騒音鳴りやまぬ国道16号前。DOUBLE・CROSSの店頭で、走行音にも負けない声を上げたのはハルトだった。

未だに午前中に起きているのが奇跡と称されるオーナーの現れるや否やの発言に対し、持っていた雪掻き用のスコップを武器にしなかったのはまあまあ冷静だ。

「リッキーが逮捕って、何のジョークですか?」

今にも雪ごと掻き出してやろうかという調子のハルトに、十は両手を前に苦笑混じりに首を振った。

「逮捕じゃないよ、保護」

「いや、それは建前でしょう……一体何をやらせたんです?」

「僕じゃないってば。君の同期の所為だよ」

辺りの湿った音に紛れて、スコップの柄がミシリと鳴った。

寒風より冷たい目に、十は両手をポケットに入れて微笑んだが、一連の説明を受けたハルトはもろに嫌そうな顔をした。

「毎回毎回……俺に報せないのは嫌がらせですか」

「ハルちゃんに報せたら、銃殺事件起こしちゃうじゃん」

「人を殺人鬼扱いしないで下さい。許可はとります」

「じゃー、僕は許可しないからダーメ」

両手でバツを描く男をじろりと睨み、ハルトはうんざりと言った。

「……じゃあ、奴は貴方が始末してくれるんですか」

「ンー……君の同期の実力に興味が無いわけじゃあないけどさ、コワイ顔しなくてもリッキーは無事だし、一般人の死者も出てないんだし、放っといてもいいじゃない。さすがの『リーフマン』も日本警察にそう安易に手は出さないでしょう?」

「……無意味ですからね」

溜息を吐き、ハルトは厳しい顔つきで首を振った。

「だからって、あいつは危険だ……予測ですが、シリアルキラー化している可能性が高いんです。放置するべきじゃない。俺も此処に居ない方が良いかもしれない」

「彼は、君を狙いに来たと思う?」

「それ以外、日本に用事があるとは思えません」

断言するハルトに十は笑い掛け、今日も騒がしい国道の方に白い息を吐き出した。

「ね、ハルちゃん……君も気付いてるでしょ。『リーフマン』が来日したのは、彼の意図じゃないって」

「……」

「『オムニス』に関しては、僕も君と同意見。『リーフマン』の才能は逃亡なのに、敢えて君と戦いに来るのは異様だ。もう一人が彼を君の同期という”リーフ”として、その陰に隠れようとするんじゃないか――そう考えたから、君は彼の来日を知りながら捜す為に動かなかった。違う?」

「……ひとつ、訂正させて下さい。俺が動かなかったのは、未春が使い物にならなかったからです。あいつが万全なら、俺は此処を離れた」

「フフフ、違うね。ハルちゃんは此処を離れないさ。未春が万全でも」

反抗的な目になるハルトに、十はあくまで穏やかに笑い掛けた。

「『オムニス』が考えそうなことが、君はわかるんでしょ? だからこの場を心配して居てくれたんだ。僕はとっても嬉しいよ」

チッとハルトがわかりやすく舌打ちし、スコップを雪に突き刺した。

「十条さん……今度は何を企んでるんです?」

「それは僕の解消法だもん。しょうがないじゃん」

ハルトは開き直る上司を睨む。――恐らく、未春がBGMとして活動していない間、十はかなりの仕事を担当している筈だ。優一も同様だろうが、彼のキリング・ショック解消法が『読字』に対し、十のそれは『計画』と使い勝手には差がある。

「『オムニス』を、甘く見ない方が良いですよ」

「わかってるさ。だからいつも言うんじゃないか。『待ってて』って」

「今回は言われていません。居所を掴んでいるんですか」

「まーだだよ。……ハルちゃん、あっくんから受け取ったアレは持ってる?」

「……持っていますが、あんなもので奴らは殺せませんよ」

「受け取ったならいいさ。役に立つから」

「役にって……俺はあいつらが死亡したのを確認できればそれでいいんですが」

「フフ、僕は皆が元気で楽しく暮らせればいいんだ。ハルちゃんも含めてね」

再度、舌打ちしたハルトは店内に向けて顎をしゃくった。

「仕事の話は聞きます。そういう話は余所でやって下さい」

「ハルちゃんのいけず~~」

『いけず』の意味に疑問符を描いた帰国子女を置いて、十はヘラヘラしながら店内へと入って行った。まだ開店前だ、薄暗いそこを抜けて階段を上がった玄関を開くと、十は「おや」と首を捻った。

室内には、リンゴとシナモンらしき香りが漂っていた。

「あら、トオルちゃん。早いのね」

キッチンから顔を覗かせたさららに挨拶しつつ、十がのんびりと入って行くと、マグカップを片手に立ち尽くす未春と目が合った。見慣れたアンバーには、以前のような恐怖は無い。が、どことなく決まり悪い様子だ。

隠していた秘密を見られたような未春に、十は呑気に片手を上げた。

「や、未春。調子どう?」

「どうも……ないです」

変な返答をした甥を十はまじまじと見つめ、その片手に有るカップに目を留めた。

「それの匂いか。何飲んでんの? 良い匂い」

「あげません」

「え、まだ何も言ってないじゃん……それ、何? いつもの変なのじゃないよね?」

「……あげません」

壊れたスピーカーのように告げ、すすす、と冷蔵庫の前にずれた甥は頑なに首を振る。気になる、と呟いた十にさららが苦笑した。

「駄目よー、トオルちゃん。甘いの淹れてあげるから、それは諦めて」

「嬉しいけど、未春は冷蔵庫の何を庇ってるの?」

ぷいとそっぽを向いてカップに口を付ける未春を見て、さららがクスクス笑った。

「これは、ハルちゃんが未春に作ってくれたアップルサイダー」

「アップルサイダー?」

未春に冷蔵庫の前から避けてもらい、牛乳を取り出しながらさららは言った。

「アメリカで風邪の時とかに飲む、体を温めるものの定番なんですって。冷蔵庫に置いて、ちょっとずつ温めて楽しんでるの」

ココアを鍋で煎り、牛乳で練り始めたさららの言葉に十は少し驚いた顔をした。

「未春が頼んだんじゃないよね。体調悪いのを見て、作ってくれたの?」

問い掛けられると、甥は気恥ずかしそうに叔父を横目で見て頷いた。

「優しいよね、ハルちゃん。今日も寒いの苦手なのに、私たちの代わりに雪掻きしに出てくれて」

さららが楽しそうに微笑みながら、鍋に牛乳を足す。甘く香ばしい香りが立ち上り、リンゴとシナモンの香りにふわりと入り混じった。

「私にもくれるか聞いたら最高に困った顔したから、トオルちゃんも遠慮してね」

今度こそ未春は顔を赤くして背を向けてしまった。初めて見る反応に、十は感慨深そうに頷いた。

「なるほどねー……二人とも、可愛いことするようになっちゃって」

手渡されたココアを仰々しく受け取る十に、さららは自分のカップ片手に首を傾げた。

「トオルちゃんは、早くからどうしたの?」

「うん、ちょっとディックのとこ借りてお客さんに会うんだ。まだ時間あるから店の様子でも見ようかと思って」

「そう。ドーナッツ持ってく?」

「わ、もう出来てんの。嬉しい」

「だから休憩してるのよ。グレーズだけだけど。お客さんは何人?」

「一人。ディックのも頂戴」

「はいはい」

軽やかに会話をし、さららは店に降りて行った。

気まずそうな未春とカップを持った同士で向かい合い、十は面白そうに笑った。

「それ、美味しい?」

問いかけると、無言でこくりと頷いた。

「そう。前に比べたら顔色も良くなった。良かったね」

「……はい」

「変な夢はまだ見るのかい?」

「……いいえ」

「そっか。安心した」

にっこり笑ってココアを美味そうに飲む十を、未春はどこか面映ゆい顔で見つめた。

「じゃ、おいちゃんは行こうかな。ディックに用もあるし」

流しにそっとカップを置き、キッチンを出て行こうとするのを未春は静かに見つめた。

「……あの、トオルさん」

「うん?」

ほんの数歩の距離から、訴えるような目が十を見ていたが、すっと差し出したのは、冷蔵庫に貼ってあったらしきレシートだった。

「何……? ビストロ・カエデさんのレシート?」

「ハルちゃんと行きました。出して下さい」

「……え、なんで僕が奢るの……?」

「『リーフマン』の件を、俺に黙っていたからです」

「……ぐえ……」

妙な呻きを漏らした十が、肩をすぼめて「先にこっちだったか」などとブツブツ言いながら財布を取り出し、カツアゲの一場面のように大人しく札を出す。当然の顔で受け取った未春が、興味が無さそうにそれをテーブルに置くと、まだ何か文句を言っている十を振り返った。

「――トオルさん」

「うう……まだ何かあるのー?」

未春はオヤジ狩りに遭ったような顔の叔父をじっと見ていたが、ふいと視線を逸らした。

「……――すみません、何でもないです」

「ん? そお?」

覗き込む視線からうるさそうに目を逸らす甥に、十が首を傾げて背を向けると、小さな声がした。

「……また今度……聞いて下さい――……」

十は振り返らずに唇だけ微笑ませて片手を上げた。

「いいよ。いつでも聞くよ、未春」

そっと呼び掛けると、返事を待たずに十は部屋を後にした。

ドアが閉まる時、アップルサイダーの香りがふわりと香った。

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