9.Snow and Apple.

 「ただいま~……積もる前に着いてよかった~……」

果林かりん力也りきやを送った足でハルトが迎えに行ったさららは、荷を下ろして、コートに降った雪――だった水滴を払った。

「おかえりなさい、さららさん」

「ただいま、未春みはる。顔色良くなったね。調子はどう?」

「はい、大丈夫です」

出迎えた未春に嬉しそうにしたさららも、行く前より元気そうだった。

血は繋がっていないとはいえ、室月むろつきの家は、彼女にとって実家同然、室月哲司てつじは父親そのものに等しい。正式に娘となる手続きの話や、彼が好きなものを作り、ちょっぴり親孝行できたと満足そうに笑った。

「例のハンサムさんは出掛けてるんですって?」

「はい」

キッチンに向かい、白菜や豆腐がふつふつと煮えた土鍋に、練った肉団子を落としながら未春は頷いた。

「結局、修司もちらっと居ただけで、全然帰って来なかったのよね……うちの悪党たちは、何処で何してるんだか」

悪党を悪童と聞き違えたかと思うような気軽さで、さららはリビングに置かれた自分の椅子に座った。挨拶か要求かわからない声を上げてやってくる猫たちを撫で、膝に飛び込んでくる甘えん坊のビビを抱えてこちらを振り向いた。

「ね、ハルちゃん……哲司さんに聞いたんだけど、スターゲイジーって、私ぐらいのお嬢さんが居るの?」

買い出しの品を冷蔵庫に入れていたハルトは振り向いて頷いた。

「居ますよ。俺は会ったことはありませんが」

「仲が悪いって、本当?」

「ええ。BGM内では有名だと思います。スターゲイジーがスパイ時代に知り合った人とのお子さんだそうで、離婚していたようですが……母親が病死して、手元に引き取った後にブレンド社に勤めたんですけど、彼らの情報を持ってNCA――イギリスの警察に入って、スターゲイジーを捕まえようとしているとか」

「その人、日本に居るみたいよ」

「え、そうなんですか……スターゲイジーが行くところに何処までも付いていくって噂は本当だったんですね」

半ば感心した様子のハルトに、さららは呆れた溜息を吐いた。

「イギリス警察が居ても、貴方たちは気にしない感じねえ……」

「ああ、それなら多分、大丈夫ですよ。イギリス当局はスターゲイジーを敵視してはいませんから。その娘――ナンシーでしたっけ? 彼女が単独で動いている分には、問題はない筈です」

「フーン……」

テーブルに頬杖ついて顔をしかめたさららに、ハルトは目を瞬かせた。

「えーと……さららさん?」

「いいのよ、ハルちゃんは気にしなくて。私は個人的に、実の家族が上手くいっていない構図が気に入らないだけなの」

虚を突かれたようにハルトは押し黙った。さららも実の母は早くに病死している。同じく亡くなった父親の真意はどこまでが愛情だったのかは謎だが、娘が苦労と切ない思いをしたことは否めない。

「血の繋がりが良い絆ばかりじゃないのはわかってるわよ……『毒親』なんて言葉があるぐらい、優一さんを見てると、本当にそう思う」

毒親という言葉はピンと来なかったが、戦国時代からの暗殺一家といわれる千間せんま家を上げられれば察しは付く。幾らか吹っ切れたようだが、現在の当主を父に持つ優一は、”先祖返り”と呼ばれる実力者だった為に、今も実の両親の期待に囚われている。彼は自分の代で一族の歴史を終える決意をしているが、その思いは両親の理解には至っていないらしい。

「……でもね、それでも……実の親子が敵味方に分かれるのは、寂しいわ。優一さんだって、ご両親を恨みたいわけじゃないんだもの……」

さらら曰く、殺し屋の話をすれば極端だが、普通の家庭でも価値観の違いで親子関係に亀裂が入ることは珍しくはないという。確かに、一般人の間で起きる”殺し”は、人間関係の不一致からなる延長線上に有る。殺人に至るケースは最もひどいパターンだが、疎遠になったり、縁を切ることはよくあると言ってもいいのかもしれない。

彼女が自分の親で苦労しつつもこういう風に考えるのは、とおるの影響だろうか。人一倍、否、十倍は家族を重んじる男のことを考えていると、さららは溜息ひとつ落として未春の背を見つめた。

「美味しそうな匂いね……家に帰って、温かいごはんがあるって、ほんと幸せ」

聴こえているだろうに、未春は恥ずかしいのか、背を向けたままだ。

――家に帰ってごはんがある、か。

コトコトと煮える土鍋を見ていると、焼き目のついたチーズが沸々としているキャセロール鍋を思い出した。

――帰ったのか、ハル。ひどい顔だな。手を洗って着替えてこい。食事にしよう。

……くそ、いつも勝手に入りやがって。余計なお世話だ。

「ハルちゃん、どうかした?」

「いえ……何でもないです」

首を振って、ハルトはリビングの窓を振り返った。

曇り始めたガラスの外には一面、埃のような雪が舞っていた。




 「あら、雪……」

ベッドに腰掛けた女は、窓に向かって顔を上げた。

白っぽい灰色の空の中を、雪がはらはらと降っていた。

雪が降る程冷えていたのか。暖房が完備された都内ホテルの一室は、寒さは毛程も感じない。おまけに、隣にぴたりと座った男の体温は高い。

ふと、やましいことをしている気が甦った。フロントに居た人たちは、男の泊まるホテルに来た女は今頃、素肌を晒してベッドに寝転んでいると思っているだろう。

実際は上着を脱いだだけで、隣に並んでブルーレイで映画を鑑賞していたと知ったら、信じるだろうか?

あろうことか、良い年の男女がベッドで寝転んで、面白がって買ったポップコーンを摘まんだりしながら映画を観ただけだなんて。

彼の上司はホテルでゲームをしたがる変わった男らしく、滞在ホテルは部屋にその機能を持った場所を選ぶという。上司自身が泊まらなくとも、会社ではその機能を持ったホテルを贔屓にするらしい。

テレビ画面は、映画のスタッフロールが流れていた。ホーム・アローンの明るい曲調から、今は優しい旋律へと変わっている。

「東京は、降るんだな」

男は低く呟き、どこか懐かしそうに目を細めた。

「ロンドンは、降らないの?」

「ああ。俺はあまりじっとしていないし、稀に降るようだが」

「東京も同じ。珍しい事よ」

窓を見つめたまま、女は答えた。降り続く雪は不思議と、目を奪われる。

逸子いつこ、雪は好きか?」

男の静かな問い掛けに、女はぼんやりと振り向いた。彼は微笑していたが、どこか寒そうな目をしていた。

「どうかしら……子供の頃は、好きだった気がするけれど……」

「子供の頃。なぜ」

「なぜって……私、東京生まれの東京育ちだから、雪は珍しくて。積もったら何だか嬉しくなって、意味もなく雪の上を歩いたり、雪だるまを作ったり、雪合戦したりして遊ぶでしょう? 積もる地方に行けば、そりで滑ったり、スキーをしたり……」

「楽しそうだな」

「ブラックは……雪で遊んだことはないの?」

男はにこ、と笑ったが、何も言わなかった。

その瞳はどこか、寂しげな子供のようだった。雪にはしゃぐ子供ではなく、どこか、冷たいところに置き去りにされたような……

躊躇いがちに、女はその手に触れた。冷たくはなかった。むしろ熱いほど温かい。

「大丈夫?」

それでも訊ねずにおけなかった一言を告げると、男は軽く首を傾げた。

「ああ。どこかおかしいか?」

「なんだか、寒そうに見えたから」

「寒くはない。君は?」

「私も……寒くはないわ」

その微笑みにつられるように笑い掛けて首を振った時、スタッフロールが終わった。画面が切り替わると辺りは急に静かになる。空調の音だけが響き、都会に有る筈の喧騒はひとつも聴こえない。

女は窓を振り返った。雪は止む気配もなく、強くなっているように見える。

重い腰を上げる為に、無意味にそっと裾を払って立ち上がった。

「……帰らなくちゃ。東京の交通は、雪に弱いの」

ふと、移動しようとする手を触れる程の力で男の手がとった。

「なあに?」

男はしばし黒い目で女を見つめていたが、静かに笑い掛けた。

「いや、何でもない」

うっすらと笑い掛け、「送ろう」と男も腰を上げた。

女も微笑み返し、自分の名義で借りたディスクを取り出し、ケースに収める。

「帰る前に、片付けないと」

見下ろす小さなテーブルには、高校生でも集まっていたのかと思うような菓子袋と、何年ぶりかに飲んだコーラのボトルとコップが放置されている。男は同じように見下ろして微笑んだ。

「いや、このままで構わない」

「でも……」

「このままがいい」

薄く微笑んだ顔に、女は何故か言葉に詰まった。

部屋に来た時を逆再生するように上着を羽織らせ、バッグを差し出してくれた男に礼を述べ、女がドアの取っ手に手をかけたときだった。先に開けようとしたのか、男の手が上にかぶさる。不意に間近に見つめ合った。どちらも動かぬまま、互いの目の色を見つめた。

「ブラック」

高い位置にある目を見て呟いた声が、ゆらりと屈んで来た唇に呑まれた。

それは淡い熱を残して、錯覚かと思う程にすぐに離れた。

「行こうか」

颯爽と自分の上着を羽織り、男は言った。何でも無さそうに扉を開けたが、女の足が歩を進めることは無かった。

「……あの人、帰ってくると思う?」

女は唐突に呟いた。表情は凍り付いた様に硬い。肩にかけたバッグのショルダーを掴む手が、急に冷えた気がした。

「まだ、夕方にもなっていない。台風が来る時だって、早めに切り上げて帰ったことなんか無いの。そのまま、職場に泊まって……――本当に職場に居たのかは……知らないけど……」

何に動揺しているのか、声は微かに震えた。男は黙って、扉を開けたまま聞いていた。今、誰か通りかかったら何事かと思うかもしれないが、そんなことを考える余裕は女にはなかった。

「このまま雪が降ったら……タイヤを履き替えていない車は動かせない。電車は止まらないでしょうけれど……遅れるかもしれない。止まなかったら……もっと――タクシーを拾ってまで……帰るかしら? 眠るだけの家に……わざわざ……」

「逸子」

「なんであんな大きな家、買ったのかしら……? ソファーも、ベッドも、ダイニングテーブルも、冷蔵庫だって……みんなみんな大きすぎるの……! 私、……私しか、使わないのに……!」

扉が閉まるのと、抱き締められたのは殆ど同時だった。

大きな片腕に引き寄せられて、その身から香るオークモスを胸いっぱいに吸い込んだ。急に熱い体温を感じて、涙が溢れた。

「一緒に居て」

「君がそう言うなら、一緒に居よう」

優しく抱擁する相手が、頭の上で囁いた。穏やかで、何もかも任せていいと思える声だった。途切れがちな溜息を吐きながら徐々に落ち着く女に、そっと付け加えた。

「……だが、君がそれを言うべき相手は、俺じゃない。それはわかるか?」

女は顔を上げ、間近に微笑む闇を見つめて頷いた。

「では、もう少し一緒に居ようか」

大きな手が涙を拭いて、女はくすぐったそうに微笑んだ。




 「で、お前……今夜は俺と寝る気か?」

さららが早めに自室に引いてからのこと。

テーブルで向かい合った未春にハルトは訊ねた。未春は彼女が淹れてくれたハーブティーの残りを互いのカップに注ぎながら頷いた。

「大丈夫かもしれないけど、一緒に居たい」

迷いも遠慮もない一言に、ハルトは眉間を押さえて呻いた。これが体調を崩すほど思い詰めた案件でなければ、即座に頑張るよう突き放すのだが。

「この前みたいな拘束は御免だぞ」

「うん」

「添い寝以上は絶対やらねえからな」

「うん」

素直に頷かれると、これはこれで不安になるから不思議だ。視線から不信感が消えないハルトに、未春はぼそりと言った。

「約束するから、ハルちゃんのアレ飲まして」

瞬間的にハルトはざあっと青ざめた。

――え、アレ……? アレって……アレか?

露骨に動揺するハルトに、未春はきょとんとしてから、違うと片手を振った。

「こっそり作ってるリンゴのやつだよ」

「……あ、あー……アレって、アップルサイダーか。まったく……驚かすなよ……」

一体どんな要求を受けた経験があるのか、溜息混じりに呻いたハルトは、頭を掻いて脇を向いた。

「アレは……まだ納得がいかないんだけどな……まあ、いいか。雪降ってる日には丁度良いかもしれない」

リンゴやオレンジは買ってあるし、就寝時刻までには間がある。

作ってもいいかと腰を上げたハルトが鍋やスパイスなどを出していると、未春も横で作業を眺め始める。スズは知らん顔でいつもの一席にどっしりと座っていたが、ビビは何をしているのかと上を見ながら足元をうろうろした。

「これ、なんて言う料理?」

「アップルサイダー」

「炭酸?」

「あ? 炭酸?……ああ、日本じゃ、サイダーは炭酸なのか? これは炭酸じゃない。ホットで飲むジュースだ」

「ふーん……ホットのジュースは珍しいね」

日本で温かいジュースというとレモネードぐらいで、他はフレーバーティーや、酒がベースになったものが主流らしい。

「アメリカでは風邪を引いたときや、体を温めたいときに飲む定番なんだ」

オレンジの皮をするすると剥きながら答えたハルトは、手際がいい。皮を剥かないリンゴにシナモンスティックを突き刺し、澄んだリンゴジュースを入れた鍋にダイブさせた。オレンジの皮、シナモンパウダー、ジンジャーパウダー、スターアニスにクローブ、真っ赤なクランベリーが続く。コトコトと煮込まれるアップルサイダーから立ち上る芳香に、キッチンが満たされる。

「これ、誰かに教わったの?」

「……なんでそう思う?」

「本とかで見たものなら、ハルちゃんはそんなに試作しないと思って」

「勘が良いなー、お前……ジョンだ」

一旦、蓋を閉じると、未春は鍋から顔を上げた。

「ハルちゃんとジョンは、本当はどんな関係なの?」

「?……本当って、俺と奴は今の関係しかない。ミスター・アマデウス直下の同僚同士。今はBGMの一員ってことになるのか?」

「そうじゃなくて」

言葉を探すように未春は鍋の方を見つめていたが、ぽつりと言った。

「どうして、ジョンはハルちゃんの言う事を聞くの?」

同僚なら、上下関係はない筈。まして、向こうの方がずっと年上だ。

アメリカが年功序列を気にしないにしても、先日の電話もそうだが、ジョンに対するハルトの態度は他の者と相対する時に比べ、極めて横柄だ。

「お前には……言ったことなかったか?」

溜息混じりに言うと、ハルトは気怠そうに頭を掻いて、少々投げやりに言った。

「……両親が死んだ原因が、奴のミスだからだ」

町工場を運営していた両親が、事業に失敗して東南アジアまで夜逃げをした話は最初に話した通り。熱帯雨林に囲まれた小さな集落に潜伏していたBGMの標的と、両親は互いに旅行者とでも名乗ったか、たまたま気が合ったらしく、意気投合した。

この時、振舞われた酒が毒入りだった為、当時は子供だったハルトだけが飲まずに生き残った。この作戦の指揮を執っていたのが、当時は殺し屋だったジョン。

「じゃあ……ジョンはハルちゃんにとって、親の仇ってこと?」

「極端な言い方をすればそうなる。俺は……そういう気はないが……」

「きつく当たるのは、そう思ってるからじゃないんだね」

なかなか痛いところを突いてくる未春に、ハルトは首を振った。

「正直言うと、わからない。リアリティーが無いんだ。俺はあの時、うとうとしていて……楽しそうに騒いでる声と、草木の音や虫の声とか……誰かが頭上で喋ってる声ぐらいしか聴いてないんだ」

「喋ってる声って?」


――What a hell you gonna do……!

――Needs must when the devil drives……Let's take it……


正確ではないかもしれないが、何度か夢に訊いた言葉だ。

どうしてこうなったのかと焦る声と、背に腹は代えられないから連れて行こうという声。連れて行こうという対象は幼い自分のことだと思うが、この声がジョンなのかはわからず、何ならこの二言が同じ人物の声なのか、別人の声なのか――本当にこの時に聞いたのかも判然としない。

こちらが聞かないからなのか、この時のことに関して詳しい説明は受けていない。

結果と、謝罪だけだ。

「要は、俺は両親が殺される様を見たわけじゃない。苦しんでる声も聞いていないし、寝て起きたら死んだことを告げられた」

「……遺体は見たの?」

一般人なら聞かないだろう一言を問うた未春に、ハルトは曖昧に頷いた。

「見た……が、何故だろうな……俺は、それが親の遺体だと言われても、釈然としなかった気がする」

奇妙な述懐に、未春はハルトの目を見つめた。その目には、悲しみの色も無ければ、狂人の色もない。事実を、事実と信じて疑わないそれを喋っているだけに見えた。

「それ、本当は……死んでいないとは、思わなかった?」

「思わなかった」

やけにはっきりと言うと、ハルトは鍋の蓋を開け、湯気と一緒にリンゴとスパイスの香りがふわりと立ち上り、徐々にとろりとした香ばしい橙色に変わっていくそれの具合を確かめた。

「少なくとも、あの時はそう思わなかった筈だ。どうしてか説明しろと言われると、もう二十年以上前のことだし、わからない。俺が忘れただけかもしれないが、BGMを恨んだり、泣いたりした記憶もない。ふざけんなとは思ったけど」

――それは、おかしい。

未春はそう思ったが、言えなかった。

ハルトは両親の死をきっかけにBGMに入った。それは聞いた。

殺し屋として鍛えられた後に、肉親の死に対して淡白になったというのならわかる。

だが、この反応が事実なら――ハルトはあらかじめ、異質であったかのようだ。

『人間性』を欠いて生まれた自分と同じ……或いは、それよりも、もっと――……

「だからなのか知らんが……俺は奴を恨んでるわけじゃない。一般人を一緒に手に懸けた凡ミスには嫌気が差すが、罪人ヅラされるのも、世話を焼かれるのも、親切の押し売りって言うのかな……見当違いに思えてイライラする。まあ、そんなところだ」

「……ちょっと似てるね」

「何と?」

「俺ととおるさんの関係に」

反射的に異論を唱えようとしたが、うまい否定は出てこなかった。

十は叔父であることを隠し続けて未春を擁護し、正体を明かした現在も見守り続けている。

「ジョンは、アマデウスさんとは、ずっと一緒?」

「ああ……その筈だ。十代から知ってるってミスターに聞いた気がする。最初は殺し屋で……俺の件で引退して、秘書になった」

「そういうところは、ハルちゃんに似てるね」

「俺とジョンが……?」

「うん。ジョンはアマデウスさんの親戚とかじゃないんだろ? 十代から殺し屋なんて、俺たちみたい」

「……」

考えたこともない言葉に、ハルトは唖然とした。

自分が如何に他人のルーツを気にしないで生きてきたか思い知らされる。

そうか……多分、どうでもいいと思っていた。マグノリア・ハウスに居た時も、同胞の奴らが何処から来たのか、どんな理由で此処に居るのかなど気にしなかった。

強いて言えば、一人だけ……しつこく聞いた奴が居たが。

「……気にしたこと、なかったな……」

鍋を見下ろして呟く頃、橙色は良い色になってきている。

十年前――あのリビアでの出来事の後は、明快に避けていた。

知ると、仕事に支障が出る……そう思い定めて、知ろうとしなかった。

「ハルちゃんは……仇だってわかってて、ジョンのことは怖くなかった?」

「……さあ、どうだろうな……あまり覚えてない。少なくとも、あいつは俺の両親を殺したくてやったわけじゃないし、口封じすることもできたガキをわざわざ拾ってきて、援助した。俺には選択肢が無くて、奴らの指示に従うしかなかったし……殺し屋にしたってのは、まともな対応じゃあないとは思うが……」

怖いなどと思ったことは、無い。

何故、拒否しなかったのか。

何故、暮らした故郷を思わなかったのか。

何故、強要されたわけでもないのに受け入れたのか。

疑問視されたところで答えは無い。抵抗するほど、嫌ではなかった。

――親殺しの殺し屋を前に? どんなガキだよ全く。

異常なのか頭が悪かったのか、知っているのかもしれない過去の自分が見当たらない。当時のことを考えると、深くて暗い、奈落に通じるような倉庫の前に立っている感じだ。しまい込んで、見ないようにしている奥底。可能なら、ずっと鍵をかけて封印しておきたい場所。トラウマだから閉じ込めたのではなく、単にカビ臭く、埃をかぶった闇にあると感じるそれを、できることなら見たくない。

「Nice to meet you, Haruto.」

あの時、目を覚ました後に会った大きな体躯の欧米人は、しゃがみこんで挨拶した。

差し出された大きな手。確と掴んだものの、遠慮がちに感じた握手。

記憶というよりも、記録のように浮かぶ。

マグノリア・ハウスに入る前――今の自分より若いジョンと過ごした短い期間。

日記のような羅列の日々は、捲っても捲っても、ただ、大きな欧米人と小さな日本人が同じ空間に居て、食事をし、買物をし、向かい合って互いの仕事と勉強をした。

出会った時から、殺し屋よりも敏腕秘書のイメージが定着していたジョン・スミス。

最初に、英語を教わった。彼はどうしてか日本語も上手かった。

やがてその教師はアマデウスに代わるが、基礎を教えたのはジョンだ。

厳かに聴こえた低い声は、申し訳なさそうでもあり、穏やかに振舞おうと懸命に励んでいるようにも見えた。

意味がわからなかった最初の挨拶。知ってからは妥当ではないと思った挨拶。

言葉が通じるようになると、彼は事の経緯を改めて説明し、謝罪した。

怒りも涙も出なかった。呆れた気がする。こんなにしっかりした男が、なんでそんな凡ミスをやらかしたのか、子供の自分は呆れた。

外国人同士なのに、一緒に居て違和感はなかった。

一人で居ることは寂しくなかった。親を恋しいとも思わなかった。

それがこの男が居たからなのかはわからない。そもそも、そんな感情を抱いたことがあるのかと疑わしくなって、考えるのが怖くなってやめた。

ジョンは知り合った時から、器用な奴だった。何でもできると言われても頷けた。

どうして、自分の両親が居た時の仕事は失敗したのか理解できない。

子供なんか世話したことがなさそうな男は、朝な夕な、こちらの顔色を窺った。

それは、両親のことがあるからだと解釈していた。

やがて、生活する術を教わった。最低限のルール、買物、料理、洗濯、掃除、銃器の扱いに至るまで。生きていくのに彼の助けが必要では無くなると、懺悔のつもりかと苛つくようになった。反抗期のようだとアマデウスが笑った。

実の親よりも長く過ごした、たった一人。

「ハルちゃん?」

リンゴやクランベリーが沸々と揺れる鍋から、ハルトは顔を上げた。

「……本当に、俺はどうかしてるな」

自嘲気味に笑んで、溜息を吐いた。未春が何か言う前に、鍋をゆっくりひと混ぜすると、カップに注ぎ、軽く吹いてから含む。

「どう?」

ハルトは首を捻り、別のカップに注いで差し出す。未春が几帳面に「いただきます」を挟んでから飲む傍ら、納得のいかぬ顔で鍋を見つめた。

「なんか……足りない気がしないか?」

「美味しいよ」

「お前が良いならいいけどな……ピオはラブを入れろとか言うし……」

「愛?」

ほんの少し、未春が笑った。

「穂積さんも言ってたことある。言いたいことは何となくわかるけど……俺も愛の味はわかんないや」

「まあ、確かに」

互いに苦笑していると、未春はカップを眺めながら小首を傾げた。

「ハルちゃんのことだから、足りないのはお酒じゃない?」

「酒か……それは考えたんだが、アルコールの匂いがした覚えはないんだよな……こいつはそもそもノンアルコールが普通だし。余計に入れると、更に味がばらつきそうじゃないか?」

「じゃあ、みりん入れてみる?」

思いもよらぬ一言に、ハルトが硬直した。

「みりん?……って、あの”みりん”?」

「他に何のみりんがあんの?」

御尤もなセリフを吐いて、未春は調理台の下の引き出しからみりんを取り出す。

日本に来て以降は見慣れた、もち米由来のアルコール調味料は主に和食の煮物やお浸しなどに利用する筈だが。

「煮物以外も使うよ。ハルちゃん、おせちの栗きんとん覚えてる? あれにも入れるし、穂積さんはどら焼き作る時に入れてるよ」

「臭み消しとか照りだけじゃないのか……」

何やら感心した様子でまじまじとみりんのボトルを見るハルトに、未春は頷いた。

「先生がよく足してたんだ。お味噌汁でも、パスタソースでも。なんか一味足らないな、って時とか、味が纏まってないなって思ったときに、ちょっとだけ、追いみりんする。これは本みりんだから、火を通すものぐらいにしかやらないけど、みりん風調味料ならそれ以外にも使えるよ」

「お、追いみりん……??」

不思議そうにする帰国子女の手前、未春は淡い黄金色のそれを本当にひとさじ程度、鍋に垂らした。微かにみりん特有の甘いアルコールの香りがしたが、それはすぐにリンゴとスパイスの中に溶けて、何もなかったように消えた。

「お前もしかして……カレーの時もやってる?」

「そういえば、いつもじゃないけど、たまに」

シンプルゆえに、素材によって味が決まらないことはあるらしい。中毒性カレーの正体を見た気になりながら、しばし温め直したそれを飲んでみて、ハルトは「Oh」と呟いた。

「なんか纏まった気がする」

「気がするね」

「すごいな。魔法かよ」

「魔法?」

先日も聞いた言葉に、未春は小さく笑った。ブラックも似たようなことを言っていた。外国育ちは皆、素直で可愛らしい感想が出るものなのだろうか。

「……ね、ハルちゃん」

「ん?」

「これ、俺の為に作ってたの?」

「え、あー……ああ、まあ……」

ハルトは恥ずかしそうに目を逸らし、視線はあちらこちらをゆらゆらと彷徨って手元のカップに落ちた。それを覗き込むように見つめて、未春は言った。

「なんで濁すの」

「別に……濁してない」

「俺の目を見て言ってよ」

「……な、なんだよ、お前、元気になったらグイグイ来るな……」

身を引き気味に言うハルトに、未春は一歩、距離を詰めた。磁石が反発するように離れた男の目を見つめ、誰かのようにやんわり言った。

「ありがと、ハルちゃん」

カップを持ったまま目をしばたいたハルトの手前、自分のカップの中の温かいアップルサイダーを未春はぐっと呷り、静かにカップを置いた。

「ごちそうさま」

先に歯磨くね、と言い残していく背を、阿呆の様に目で追ってから、ハルトは自分のカップの中身を飲んだ。ビビが足元で八の字を描く。

「It's like magic……」

外ではまだ、雪が舞っている。




 「くそォッッ‼」

椅子を勢いよく蹴飛ばし、鷲尾は吠えた。

「女ひとり連れて来られねえのか⁉ このクズどもが‼」

悪罵を吐き捨てる顔は中心部に絆創膏にガーゼを貼られ、はみ出た紫が痛々しい。喋る度に皮膚の奥底まで痛むそれが更に男を苛つかせていた。

「舐めた真似したガキも放置かよ?」

「で、でも……今日は警察が張ってますし……雪でバイクも出せねえし……」

しょっぴかれて散々に釘を刺された男たちの顔色は、出て行った時より倍は悪い。

おまけにハルトや未春に捻られ、蹴られた手足や体はしくしく痛い。情けない声を上げる連中を睨みつけ、鷲尾は誰かがテーブルに乗せていたペットボトルを弾き飛ばした。少し中の減っていたそれは床でバウンドしてから虚しく転がった。

「此処はよお……お前らみてえなシケたツラの奴らが居ていいとこじゃねえんだよ……役立たずは出て行け‼」

狂犬じみた咆哮に、部下が蜘蛛の子を散らす。痛みと怒りでぎりぎりと歯軋りした男に、申し訳なさそうに一人の部下が声を掛けた。

「あの、わ、鷲尾さん……」

「ああ⁉」

「お、お客ですけど……」

客の言葉に鷲尾が頬をひくつかせた。軋むように顔が痛んだが、案内人を無視してさっさと扉を蹴り開けた男にハッとした。

「いよ~~ッス、鷲尾ォ~~、お元気~~?」

長い脚と軽薄な声で察しがついた相手は、呑気な様子で入って来た。金髪に赤いメッシュ、カラフルなポップアートを殴り書きにしたようなド派手なライダースーツを纏った男は、片手に紙袋を提げ、ピースサインなぞしながら笑っている。

「あっれれ、見ねェ内に男前になっちまってェ」

矢尾やお……何しに来た……?」

「お見舞いってヤツ?」

かつて、兄弟のように付き合っていた男がヘラヘラ笑いながら、手近に居た男に紙袋を渡して言う。鷲尾はぎろりと睨んだ。

小牧こまきの犬が何の用だ……!」

「イヒヒ、お前だってひじりのジジイの犬だったろォ? 随分、クソみてえな運び屋やってたじゃねえか。楽しかったかァ?」

長い脚で悠々と部屋を渡り、片手をピストルの形にして笑いながら、ソファーにどっかと腰掛けた。

「俺ァ、別に要海かなみチャンの犬でも結構結構。最近、ちょっと丸くなって可愛くなっちまったけど、上司が優しいのは良いことだろ? ブラック企業なんて流行らねえぜ」

ブラックという言葉に何故か頬をひくつかせた男は痛みを堪えて怒鳴った。

「何しに来たって聞いてんだよ……!」

声を荒げた姿を面白そうに仰ぎ、矢尾は笑った。

「ジジイが死んじまって、景気が悪くなったと思ったが、そうでもないじゃねぇの?お前が持ってるモンだけでもイイ値段だよなァ」

「喋る口を増やしてやろうか?」

「ヘッヘッヘ、お前はいつまでも喧嘩っ早くていけねえわ。大人になれよ、鷲尾」

「説教しに来たなら帰れ……! お前と俺はもう義兄弟でもなんでもねえんだ!」

「寂しい事言うじゃねえか。変なイギリス女と外国企業に目ェつけられちまってそのツラなんだろ。まあ座れって。短気は損気だぜ」

「……」

舌打ちして椅子を蹴る様に座った男に、矢尾はニヤニヤと笑い掛けた。

「ブレンド社も十条もヤバい相手なのはわかったろ? お前が一人でキリキリしたって無駄だ。一体、お前ら何がしてえのよ? 生き残りに関しちゃ、うちのボスが聞くって言ってる」

「……小牧は、十条と組んだだろうが」

「はーん、やっぱ気に入らねえのは十条か。しょーがねえじゃん、対抗意識燃やしたって、あんなバケモンが相手じゃ、やられんのがオチだぞ 。強ェのは十条だけじゃないしよォ」

「そんなこと……わかってんだよ……!」

行く当てのない拳をテーブルに打ち付けて鷲尾は身震いした。

「ただ……俺は……十条と組むのは御免だ……! あんただって知ってるだろ! 奴が何処に店作ってんのか……!」

矢尾は返事をせずにニヤリと笑った。

逆恨みといってもいい話だが、それを言ったらこの男は怒り狂うだけだろう。

現在の十条宅こと、DOUBLE・CROSSがある場所――前身は、『little』という十条穂積が十と結婚する前にケーキ屋を営んでいた場所だ。

その後、ケーキ屋と並ぶように十条家は二世帯住宅型の家を建てるのだが、この住居が建つ前――ケーキ屋の隣には、別の建物が在ったのだ。

「なあ、鷲尾……伊東いとうの親父は円満退職だって聞いてるぜ? 息子のことで落ち込んじまってたし……奴を恨むのは筋違いじゃねえかなァ……」

「……あんなのは買収だ!」

かつての弟分が苛立ちと共に放った言葉に、矢尾は気の毒そうな苦笑いを返した。

もう二十年以上も前になる。

十条宅の前に在ったのは、こじんまりとしたバイク屋だった。当時、四十代程度にも関わらず”親父”の愛称がぴたり合う伊東という男が趣味のようにやっていた店は、地元のバイク乗り以外にも、二輪車や車を愛する様々な人々が訪れていた。大抵、ツナギ姿でバイクや車をいじっていた伊東は、どんな客――いわゆる悪童や不良が来ようと、店先で揉めようとも、何食わぬ顔で受け入れてきた。免許を取るや否や好き勝手にバイクを走らせ、誰かが待つ家を持たずにフラフラしていた矢尾や鷲尾も、この男の世話になったことがある。寡黙だが、器用で面倒見の良い男は、ろくでもない若僧が訪れると、何も言わずにバイクの具合を見てくれたり、寒い日には温かい茶を出し、暑い日には冷えた麦茶を出した。何をどう見破るのか、腹を空かしているとおにぎりを出す。誕生日に、ケーキを置かれた時は、さすがの悪童たちも仰天した。

自分たちでさえ、どうでもいいと思っていた誕生日も、誰かに祝われることのない虚しさや寂しさを、みんな知らず知らず、喋っているのだ。

誰も聞こうとしない身の上話を、この無口な男の背に向かって。

そんな伊東は、突然、店を畳んだ。

男やもめで育てて来た、たった一人の息子――真面目で良い子だった――彼がブラック企業に耐えかねて自殺した後だ。相変わらず何も言わなかったが、明らかに元気を無くしているのはわかった。鷲尾などは腹を立て、この企業の重役をぶっ殺してやると叫んだぐらいだ。伊東は絶対にやめろと怒った。彼が怒るのを見たのは、後にも先にもその時だけだったと思う。

十条が、この界隈をウロウロし始めたのはその頃だ。

隣のケーキ屋の女店主に気が有るだけかと思いきや、伊東の所にも顔を出し、あの胡散臭い笑顔であれやこれやと喋っていた。

伊東の息子が亡くなって約ひと月後、彼にハラスメントをしていた上司と社長が食中毒で死んだことが報じられた。既にBGMと関わり合った矢尾も、直接は知らずにいた鷲尾も、これが誰の仕業なのかは直感した。

そして、伊東は消えた。息子の仇討ちを見届けてから、出て行ったかのように。

「親父は十条に売られたんだ……‼」

「”あの”十条が親父を売るかねえ……そんなことして、奴に得なんかねえよ」

「だったらなんで海外なんかに行った⁉ 日本追い出されて、犯罪の片棒担がされてんだろうが……!」

「伊東の親父が何をしてたって、いつかの俺らみてえな悪ガキも受け入れるような人だ、自分で決めて、自分で出て行ったって俺は思うぜ? お前こそ、いつまでも親父の名を理由に突っ張ってんのはどうかねェ」

口元を歪めた矢尾の言葉に、鷲尾は音が鳴るかと思うような歯軋りをした。

「……十条は、ウチも潰す気だ……‼」

「ヒヒヒヒ……そりゃそーだ。お前がヘンなとこに兄貴分見せやがって、聖のジジイが適当に飼ってた悪ガキをみんな引き受けちまったもんなァ。もうジジイは死んだぜ、鷲尾。交通ルールを守れって言う悪党がルールになったんだ。俺もちゃァんと、スタッドレス履いてきたんだからウケるけどよ、お前が守らなけりゃならんと思ってた義理も悪意もとっくに無いぜ」

説き伏せる調子の男に、鷲尾は痛々しい顔を伏せた。

「今居る奴らになんて言うんだよ……出てけって言うのか?」

「お前は、行く当てのない犬や孤児でも飼ってんのかァ?」

笑い飛ばしながらも、矢尾の目は確と鷲尾を見つめていた。

「なあ、俺は今日、説教や説得に来たんじゃない。バイク乗りのよしみで来たんだ。お前の真っすぐなトコは好きだけどよ、これ以上、海外の連中と関わるのはやめとけや。奴らにとっちゃ、お前らなんかどうだっていいんだ。一人残らずしょっぴかれるか、殺されるぜ」

「……」

「考えてもみろよ、十条がその気になりゃ、お前らを片すのなんて朝飯前だぞ。奴が手を出さねえのは、でっけえガキどもがケジメ付けんのを待ってんだって俺は思うぜ。自分のことは自分で考えなくちゃってなァ」

両の手をきつく噛み合わせ、鷲尾は脇を向いた。その目に有るのは強い憤りだが、苛立ちだけではない。迷いや不安が入り混じって揺らぐそれを眺めてから、矢尾は長い脚をばねに立ち上がった。

「んじゃ、言うこと言ったんで、帰るわ。……さっきも言ったが、俺の上司はそこそこ話がわかる。十条がキライなトコなんか、馬が合うと思うぜ」

去り際にぽんと肩を叩いていく背を、鷲尾は黙って見つめた。




 闇に覆われた路面は、うっすらと白くなり始めていた。 

はらはらと降るわずかな雪でも、音を吸い込み、辺りを静けさに包む。

道路に残ったわだちを踏みながら、国道16号を三台のバイクが走っていた。

かっ飛ばそうにも、路面は滑るし、車は少なくてもゼロではない。

恨みつらみでも言いたい気持ちでDOUBLE・CROSSの前を通り過ぎた辺りで、折悪しく、パトロール中か何かの帰りか、パトカーとすれ違い、三台は逃げるように道を逸れた。駅の方面へ向かう道はゆるりと下る坂が続いている。

無理やり安全運転させられる状態は苛つくし、体の節々も痛い。もうさっさと何処かの店でも入ってゆっくりした方がいい――……

そんなことを考えた先頭車が、今しがた――ネオンサインやライトアップが小劇場のようなアメリカンダイナー風の店から出て来た青年にハッとした。

後ろにサインを送って道を逸れると、どうしたという仲間に大急ぎで振り返った。

「あれ……さっきのガキじゃないか?」

果林を連れ出すのに最初に邪魔をした青年だという。他の二人も指し示す方を見たが、青年はこちらに背を向けて16号の方へと一人歩いて行く。うっすらと降る雪に傘はささず、黒っぽいスポーツ・ジャケットのフードをかぶり、ぶらつくような足取りだ。何処にでも居そうな今風の青年に、仲間は半信半疑に眉を寄せた。

「暗いし……後ろ姿じゃわかんねえな……確かか?」

「殴られた相手は忘れねえよ」

三台は方向を変えて付いていった。下手に手を出すと、またあのバケモノじみた二人が出てくるかもしれないが、このままでは気が修まらない。雪道だから慎重であると言わんばかりに付いていくと、青年は何故か人通りの少ない道へと入って行った。行先には、住宅街にしては大きな公園がある。既に夜半――雪にはしゃいだ子供が居るような時間帯ではない。

街灯が照らして尚薄暗いそこに入っていくのを見て、男たちは顔を見合わせた。

――誰かと待ち合わせか?

公園といっても緑地系の公園だ。雪を凌げるような遊具があるわけでもなし、女や悪党が相手だとしても酔狂だ。単に反対側に通り抜けるだけのつもりだろうか?

十分に中に入ったのを確かめ、進入禁止であるバイクで追うと、こちらとしては非常に都合が良い――何も無い位置に青年は立っていた。当然だが、この程度の雪ではバイクの爆音は消えない。青年はくるりと振り向いた。

フードを下ろしたままの顔に慌てた様子は微塵もない。バイクを下りて近付くのを逃げる素振りも無く待っている。

「何か用?」

降りしきる雪の中、フードを下げたままの問い掛けに、男たちは違和感を覚えた。

――何か、変だ。

さっきの正義漢丸出しの青年とは様子が違う。

「お前……DOUBLE・CROSSのガキだよな?」

「ああ、うん……そうだね」

他人事のように頷いた青年は、やはり何だか変だった。

どことなく、言葉のイントネーションもおかしい。それとも、単にこの状況に緊張、或いは恐怖しているだけだろうか?

「やけに落ち着いてるじゃねえか……さっきはよくもやってくれたな……!」

「さっき?」

首を傾げた青年に、鷲尾の部下は青筋を浮かせて白い息と共に怒鳴った。

「忘れた振りなんかしてんじゃねえよ! ボケ老人かてめぇはァ!」

勢いのまま、襟首を掴む。刹那、とてつもなく嫌な予感に襲われた。ウサギを掴んだつもりが、何をどう誤ったか猛獣を掴んでいたかのように。

手を放して後ずさろうとしたが、それはもう遅かった。凄まじい力が、男の首元をあべこべに掴んでいた。

「『ボケ』ってどんな意味?」

「ひ……!」

「ねえ、どんな意味だい?」

間近に訊ねられて初めて、青年の顔が素顔ではない――何か精巧なメイクによって作られていたことに気付いた。

――こいつ……あのガキじゃない……!?

「『頭が悪ィ』っつう意味だよ!」

声は別の方から降ってきた。青年が振り向いた顔面に向け、拳が振り下ろされた。

「日本語は奥深いなあ」

ぼんやりと出た呟きを聞きながら、拳を繰り出した男は息を呑んだ。力任せに殴り付けたのは青年ではなく、仲間の頭部だった。大の男の体を軽々と振って盾にした青年は、痛みに呻くその首元を掴んだまま首を振った。

「他の言葉はドラマや映画を見ればわかるんだけどな。日本語は発音も難しいや……ハルが苦労してたのがわかるなあ」

「は、放せよ……!」

仲間を殴打して狼狽した男が掴んでいる手に両手を掛けたが、石のように動かない。まして、片手で男一人持ち上げているに等しいにも関わらず、腕は同じ角度のまま静止している。

「君たち、反社会主義っていうのでしょ? 世の中に付いていけない連中が、寄り集まって悪あがきしてるんだよね? あ、さっきの『ボケ』って言葉、ぴったりじゃないか」

青年は唇だけ笑った。

もうすっかり仮面は剥がれ、見た目を似せただけの別物だというのはわかる。

だが、それにしたって……コイツは何者だ?

「お前……誰だよ……」

「誰だと思って手を出したのさ? そんな人たちに『ボケ』扱いされるのは心外だなあ。あ、あー……シンガイで合ってるよね? 君たちに聞いてもわからないかもしれないけれど」

「黙れよクソがッッ!!」

ぺらぺら喋っていた背後――今度こそ隙を突いただろう位置から、三人目がナイフ片手に襲い掛かった。刹那、青年は掴んでいた男をとりすがっていた男ごと振り回すように投げ捨て、その腕でナイフを掴んだ。

「……!?」

襲い掛かった方は目を剥いた。肉を突いた感触は微塵もない。

微かに刃が埋まったが、硬いシリコンに覆われたコンクリートにでもぶつかったような感覚だ。驚愕する前で、己の片手でナイフを受け止めた青年が笑っている。

「特別なんだ、これ」

見た目には普通の手にしか見えないそれにナイフを握って、青年は笑う。

「昔、逃げるときに怪我して、僕の腕、取るしかなくてさ。ひどいよねえ。代わりの腕はさあ、暑いのはダメ、寒過ぎるのもダメ、じめじめすると痛むし……最初はよく卵を割っちゃったり、コップにヒビが入ったり、大変だったんだから。こんな時ぐらいしか良いことないんだよ」

ごちゃごちゃ言いながら、掴んでいたナイフを柄の部分でぼきりと折った。

もうその頃には男たちは大人しくなどしていない。何かおぞましい化け物に出会した顔で後退り、雪に足を取られながら踵を返していた。青年は折ったナイフの柄を手に、にこりと笑った。

「忘れ物」

軽いスナップで放られたそれが元の持ち主の後頭部を強打した。一撃で倒れて動かなくなる一方、一人が一人を抱えるようにバイクに乗り込んだ方にはナイフの刃が投じられている。空気を唸って飛んだそれは、艶々とした塗装に覆われた燃料タンク部に突き刺さり、ガソリンをどろどろと垂れ流す。

「な、何てことしやがる……‼」

引火でもしたら炎上する――慌ててバイクから離れる男たちに、青年は笑った。

「大きな音をたてると警察が来ちゃうからさ。君たちにはまだ聞きたいことがあるし……」

などと言いながら、怪しい右腕を持ち上げた時だった。

「Freeze!」

唐突に響いた甲高い声に、青年は振り向いた。

立っていたのは、ライダースジャケットを纏い、ヘルメットを被った人物だった。片手には拳銃、片手にはスコットランドヤードの警察手帳を掲げている。

「警察よ。手を上げて」

青年は目を細め、首を捻った。

「What brings the yard here?(どうしてヤードが此処に?)」

「Hold your hands behind your back.(頭の後ろで手を組みなさい)」

冷たい女の声に、青年は肩をすくめて言われた通りに組んでから言った。

日本ここではその手帳に権限はないと思うけれど――えーと、ナンシー・アダムズさん」

「警察は権限を振り翳すと思ってるの? これは宣告よ。BGM」

つんと顎を反らして言ったのは、どうやら女らしい。拳銃を向けたまま首を振った。

「正直、驚いたわ。データでは、貴方は“違う”筈だったけれど……まあ、そんなこと、お宅にはまま有ることね」

青年はわずかに首を傾げて笑うだけだ。

何か異様なものを察知したが、ナンシーは言葉を続けた。

「ノーマークのボーイが派手にやってくれて有り難いわ……貴方の過失から十条を括れば、日本警察も少しは腰を上げるでしょう」

鷲尾のガキ共を張っていて正解だった。行動を起こさなければ、わざわざスタッドレスに履き替えて雪の中を見張っていた甲斐が無くなる。

青年は手を組んだまま、おっとり答えた。

「BGMねぇ……ヤードの犬が、ロンドンの事件を追ってきたんじゃないんだね」

「ロンドンの事件ですって……?」

女の声に疑念が混じる。

「どの事件を言っているの?」

「連続殺人事件だよ。ああ、公開された情報では同一犯と断定していなかったね。報道規制は、市民を怖がらせない為? それとも自分たちの手際の悪さを隠す為かな?」

――どうして、このガキがこんなことを言うの?

自問自答し、女は拳銃を握る手に力を籠めた。

ビッグベンのお膝元が最後だった事件だ。当局は確かに報道規制をしたが、それは市民の為と同時に、犯人の特定が困難だった為だ。人間とは思えない馬鹿力で殴られた撲殺体や、片手で絞められた絞殺体、普通は被害者が防御などした際に犯人の皮膚片などを指に残したりすることがあるが、一切残っていない点。そして全ての件で、怪しい目撃情報、逃走する人物の情報はなし。むしろ気味が悪いほど、被害者の身辺からはトラブルがあった人物が多数確認され、どの件についても怨恨や遺産問題などの線が絡んで泥沼化している。

「……悪いけれど、私は管轄外よ。あれもBGMの仕業なの?」

「BGMなものか。連中は一銭にもならない殺しなんかしない。あれは僕が僕の良心に従ってやったんだ」

恍惚と喋った青年の言葉に、女がメットの下で眉を寄せた瞬間だった。

ヒュッと音を立てて何かが飛んできた。女が驚く間もなく、拳銃を掲げていた手にぶつかった。鋭い痛みに取り落とした拳銃が落ちるのを目で追い、女はハッとした。薄く積もった雪の上に、拳銃と共に落ちていたのは、根から断ったような指先――否、指の形をした何かだ。ほんの数秒、気を取られ、しまったと顔を上げたときには万力のような力が首を掴んでいた。人間とは思えない冷たさと強さに声も上げられずにもがいた女の手前、奪った警察手帳を眺めた。

「ナンシー・アダムズ。ああ、何処かで聞いた気がしたと思ったら……そうか……君がスターゲイジーの面倒なお嬢さん。なかなか理想的な体格だ。君も貰おうかな?」

「お前は……一体、だれ……⁉」

「リーフマン。僕が名乗ったわけじゃあないけど、僕を知る人はそう呼ぶ」

「リーフ、マン……?」

首元が締まる苦しさに耐えながら、ナンシーが呻くと、青年はにこりと笑った。

「噂通り、かなり考えナシのお嬢さんみたいだね。僕のことを知っているならともかく、日本人に海外の警察手帳を見せてどうするのさ? それこそ正義の名を借りて権限を振るうを良しとした人間の行動だよ」

「お喋りね……!」

忌々し気に呟いた女の足が勢いよく振られた。横っ面を狙った一撃は空いた左手が軽々と押さえた。こっちは普通の手――その事実に気を取られた時だった。

突如、目の前に白い何かが飛び込んできた。

「!」

驚いたらしいリーフマンが女の首から手を離して飛び退く。

四つ足のそれは、軽やかに着地した。たっぷりの重量と太い手足を真っ白な長毛で包んだそれは、一頭の犬だった。低い唸り声を上げるそれを見つめ、リーフマンはどこか複雑な表情をした。

「……なんだって、犬が来るんだ……!」

ひどく嫌そうにぶつぶつと呟いた。首を押さえて咳き込んだナンシーも、先程から一部始終を見守るしかなかった男たちも緊張気味に犬を見つめた。白い毛に見え隠れして首輪がある。飼い犬。しかし、リードは付いておらず、傍に人影は見当たらない。唸っていた犬が吠えた。

追い立てるような力強い響きに、徐々にリーフマンは後退りした。

「ああ、うるさい……嫌だ……だから犬は嫌なんだ……!」

またぶつぶつと呟くと、男は後退しながら注意深く腰を屈め、路面に右手を伸べた。先ほど落ちた指がフッと浮かんでもとの位置に戻ると、その手で拳銃を掴んだ。

撃つ気か、と思ったナンシーが思わず犬の前に身を投げ出したが、銃声はしなかった。代わりに雪を踏む音が連続し、植え込みの合間に消えた。

雪の所為だろう、すぐに足音は遠ざかり、辺りは静まり返った。

小さく溜息を吐いた女の頬を、不意に犬が舐めた。

「……Thank you……Good――あぁ、どちらかしら……勇ましいから、boy?」

撫でられて嬉しそうに尾を降る犬が遊ぼうとでもいうように前足を上げてくるのに苦笑して立ち上がると、「Max,sit.」と声がした。

大人しく座った犬からナンシーが顔を上げると、ダウンを纏った人物がリードを手に立っていた。フードを下ろしていたが、色白の顔はティーンエイジャーらしき少女だった。

「Your dog?」

「Yes.」

ネイティブの発音が返ってきて、ナンシーはどこかほっとした。

少女は辺りの惨事に顔をしかめながら、ざくざくと雪を踏んできた。近付いてわかったが、日本人と欧米人のハーフらしい。短いショートヘアや整った鼻筋の大人びた印象の少女に、ナンシーは片手を伸べた。

「ありがとう。命の恩人よ」

微かにはにかんで首を振った少女は、軽く握手をし、犬の頭を撫でた。

「私は散歩をしていただけ。お礼なら、この子を躾けた人に言って」

「警察犬か、猟犬のような迫力だったわ」

「そうね。彼の指導が、日本で暮らすペットにはちょっとズレていたのかも……こんな日でも散歩に行きたがるし、危険を感じると、うまくリードを外してしまうの」

苦笑した少女は、得意気な犬にリードを繋ぎ直しながら、ガソリンの匂いを撒くバイクと、雪の中に伏した男を助け起こそうとする男たちを見て、首を傾げた。

「一体、何があったの?」

「……私も、全部は見ていないの。貴女も見なかったことにした方がいいわ」

「そう。この子が吠えたのはあの人たち?」

どこか途方に暮れた顔をしている男たちを指す少女に、ナンシーは首を振った。

「いいえ……別の男よ。歳は二十代ぐらいの日本人……警察に連絡しないと……」

痛む首筋をさすりながらナンシーが呟く頃、曖昧にサイレンが聴こえてきた。確かにあれだけ犬が吠えれば、近隣の誰かが只事ではないと思うかもしれない。

「じゃあ、私は行くわ。この子は証言なんかできないし、警察は苦手なの」

とてもそんな風には見えない品の良い少女に、ナンシーは頷いた。雪の中から落としていた警察手帳を拾うと、氷の粒を払って提示した。

「イギリス警察所属のナンシー・アダムズと申します。勇敢なボーイに、何かお礼をしたいのだけれど……」

「ソフィア・タチバナです。この子はマックス。気にしないで下さい。この子は私がうんと褒めておくから」

そう言って少女は軽やかに犬と共に踵を返した。

犬は気になるのか、後ろを振り返りながら従った。ナンシーは苦笑混じりにそれを見送り、目が合うとぎくりとした様子の男たちを見つめた。

「さて……被害者同士、情報交換をしましょうか」




 同時刻、現場の公園のすぐ脇、細い道路を挟んだところにある駐車スペースに一台の黒いレクサスが停まっていた。両隣にも車は停車していたが、いずれも無人だ。

こんな日に出歩く車は少ないが、レクサスは無人ではなかった。

エンジンを切った車内の冷気に白い息を吐きながら、後部座席で窓に向かって双眼鏡を手にした男は言った。

「まさかタチバナさんが来るとは思わなかったな~~……」

痩身がもこもこに膨れ上がる程着込み、呑気に観戦していたのは明香だ。運転席では長いこと小銃を携えていた室月が物をケースに戻している。

「室ちゃん、腕に自信あるでしょ? 撃っちゃえば良かったじゃん」

「必要なかった。どちらもウチが庇護する対象ではないし、俺如きが仕留められるなら既に誰かが殺している。見られる方がリスクだ」

「室ちゃんはそういうトコが悪党だね~~」

冷たい一言にか、単に車内の寒さか、明香は身震いして手袋をした手に息を吐いた。

民間人が巻き込まれるようなら撃つと言っていた男は、一発も使うことなく、あっさり片付けたものをシートの下に押し込んだ。

「イレギュラーだったが、思わぬ収穫だった。明らかにリーフマンは犬を避けた」

「見た見た。犬嫌いなのかな? マックス可愛いのに」

「良い犬だ。さすがハルトさんが仕込んだだけのことはある」

本人が聞いたら身を縮めるだろう賛辞を言いながら室月は頷いた。

仕込んだといっても、ハルトは外国人の手に渡ると知ったマックスに、英語での合図コマンドを教えただけだ。……確かに、所謂、お座りやお手、伏せ以外にも、本人がスタンダードだと思って教えていた合図があるようだが。

「ハルトさんが教えたから~……って苦手意識じゃないよね?」

「そこまでは気付かないだろう。……しかし、意外だな。マグノリア・ハウスでは訓練の一環で犬を導入していると聞いているが」

通常、犬とまともに戦って勝てる人間は居ない。スプリング適合者ならいざ知らず、体格で劣るサイズの犬でも、訓練されたそれや野生化したものは油断できない。襲われた際の対処法や、逃げ方などを指南する為だったようだが、この時に苦手意識を示せばハルトの記憶に残っている筈だ。

「施設出た後に噛まれたとか」

「ああ……あの”手”も含めて、可能性はありそうだな」

「お、パトカー来たよ。スターゲイジーのお嬢さんはどうすんだろね?」

「彼女が我々の想定以上に迂闊ではなければ、彼らが東部鷲尾連合会だというのは確認した筈だ。あとは警察の聴取を手帳で切り抜け、末永と連絡を取るだろう」

「なーんかホント、トオルさんのシナリオ通りだねえ……リーフマンがあの通りの店に入ったのも、公園に入ったのも偶然っしょ?」

「茶話、十条さんの中で八割を超える可能性は確定に等しいと思え」

辺りがにわかに騒がしくなるのに合わせ、室月はエンジンを入れた。フルパワーで入る暖房の凄まじい音の中、明香は首を捻った。

「どゆこと?」

「今回、ブラック・ロスの来日によって、リーフマンの所在が明らかになったのは大きな収穫だった。彼は『かくれんぼの天才』だが、その性質故に想定しやすい行動もある。十条さんは、GPSやレーダーのように捕捉し続けることはできなくても、対象の行動を理解し、高度な予測を立てることができる。AからCのどの店に入る可能性が高いか、Aに入った場合の入店から退店までの時間はどれほどか……あの人はそういうことを積み重ね、一人の人間の行動はおろか、全体の動きも把握する。鷲尾連合会の連中は元よりわかりやすい行動をとるし、ナンシー・アダムズも、スターゲイジー並びに悪が関わると単純化する」

「うちのボスは明晰ですなあ」

感心する明香が双眼鏡で眺める中、ナンシーは首尾よく信用を取り付けたらしい。文句を言っているらしい三人をパトカーに押し込み、自身は乗車をやんわり断ると、公園の外に停めてあった愛用のバイクに乗り込んで彼らについて走って行った。

それを見送った後、レクサスはするりと駐車場から抜け出た。

「念のため、ソフィア・タチバナがゲートを通る所を確認しよう。お前は葉月くんと国見に連絡を取れ」

「アイアイサー。その後は? 店に寄ってくー?」

「もう遅い。迷惑だろう」

「えー、じゃあどっかでゴハン食べようよー……あったかいものが欲しいよう。お腹もぺこぺこ」

「報告を済ませてからな」

「お、トオルさんとこ行く? じゃあきっと穂積サンが何か用意してくれてるね」

「……そうだな。何か買って行こう」

当然のように言った室月に、明香が「ウフフフフ」と気味悪く笑った。

「何だ?」

「べーつに~~……室ちゃんは真面目で偉いねってハナシ。まだこの時間なら、実乃里ちゃん起きてるかな」

室月がちらりとバックミラーを見た。

「……実乃里さんに何か用か」

「べーつにィィ~~? 安心してよ、俺は年上のおねーさんの方が好きだから」

「だったら何なんだ?」

「べーつにィ?」

髪を弄いながら、明香はニヤニヤ笑うばかりだ。

その手がスマートフォンを取り出し、かじかんで仕方ないといったふうに緩慢な動きで画面を操作すると、耳に当てた。

「お、リッキー? オレオレ、あっくん。今、ダイジョブ? おー、実はさあ」

国道16号に滑り込むと、怪しい笑みを浮かべた明香の顔をオレンジの光が照らす。

室月が無言で運転を続ける中、トリックスターは気楽に言った。


「リッキー、逮捕されるかもしれんわ」

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