8.Fishing.

 白い大きな建物のテラス席には、午後の穏やかな日差しが降っていた。

望む景色には綺麗に刈り込まれた芝生が広がり、奥には深い森が見える。

小鳥の鳴く声が響いた。草葉の揺れる音と微かに子供の声が聴こえる中、木製のひさしが張り出した下で、少年が本を読んでいた。

黒いポロシャツに黒いズボンを穿いた、十歳程度と思しきアジア系の顔立ちはどこか大人びて、テーブルに開いている本は辞書の様に分厚い。ずらりと並んだ英語と日本語の羅列を、焦げ茶色の目が静かに追う。時折、何かを呟く声を、子供ならではの柔い髪と一緒に風が揺らした。

「Haru, why are you still here?(ハル、まだ此処に居たの?)」

呼び掛けに、少年は顔を上げた。

同じ格好をした欧米人の少年が、日差しに目を細めて立っていた。

「そんな暗いところで読みづらくない?」

「光が反射する方がきつい」

素っ気ない返事に、欧米人の少年は事実を確認するように天を仰いだ。

蜂蜜のようなブロンドと灰青の目が透明感を帯びる。ほっそりした両腕を後ろに組み、少年はやんわり微笑んだ。

「そうだね。眩しいや」

「お前、暇そうだな」

呆れた調子のアジア人の少年に、欧米人の少年は軽く両肩を持ち上げた。

「君はいつも忙しそうだ」

「しょうがないだろ。世界屈指の難解な言語が相手なんだ」

「生まれた国の言葉なのに、不思議だね。イタリア語やスペイン語は上手だよ」

「フレディ……お前が言うと、嫌味にしか聴こえない」

「それこそ仕方がない。僕は天才だからね」

日向で可笑しそうに笑うのを、日陰からうんざりした視線が仰いでいると、誰かがぱたぱたと駆けてくる音がした。

「誰かな」

「ジョゼフだ」

本を見つめたままアジア人の少年が即答した時、一人の少年が栗毛を揺らして慌ただしくやって来た。

「居た居た……! フレディ! ハルも……!」

こちらも欧米人の少年は焦った様子だが、息は切れていなかった。同じ黒のポロシャツとズボンを身に着け、幾らかオーバーに腕を振って話し始める。

「今日、ミスターが来るみたいだよ! ケネスがハッキングしたって! どうする? 何か準備した方がいいのかな? 今度も抜き打ちなのかな?」

「ジョゼフ、焦らないで話してよ。偽の情報じゃないの?」

フレディと呼ばれた少年が両手を後ろに組んだまま優雅に問いかけると、栗毛の少年は小首を傾げた。

「僕にはわからないから……とにかく、フレディを呼んでこようって」

「ミスターが来るからって、臨時テストが有るとは限らないよ」

「そんなこと――……君は何が有っても良いだろうけど……僕は前みたいな痛い思いはしたくないもの……」

ウサギのような目をして呟いた少年に、フレディは笑い掛けると、本を閉じて立ち上がった少年を振り返った。

「ハルはどうする?」

「どうもしない」

面倒臭そうに首を振って重そうな本を抱えた少年に、遠慮がちな焦げ茶の目が向けられた。光に、目の色がコーヒーのように揺れる。

「ハル、お昼に見なかったけど、ずっと此処に居たの?」

「……ああ」

「何か食べておいた方がいいんじゃない? 持ってこようか?」

気遣う表情に向けられた鋭い目が、嫌そうにすがめられた。

「お前が用意したものを食うわけないだろ」

冷たい一言に栗毛の少年は臆したような表情になったが、一瞬の間を置いて、にや、と怪しい笑みを浮かべた。その様子をブロンドの少年が物柔らかな表情で眺め、

「行こうか」と白い施設内へと先に踵を返した。にこやかに従う栗毛の少年に続いて、アジア人の少年は溜息混じりに歩き出す。

どこかで小鳥の鳴き声がする。木々がさざめく音がする。

辺りはそれしか聴こえない。




 「……そういうわけだ。わかったか?」

気まずさを十年分は味わった気になりつつ、ハルトが運転しながら『リーフマン』が来日している情報を話し終えると、助手席でしかめっ面をしていた未春は剣呑な眼差しを数ミリ程度は和らげて頷いた。

「黙ってたんじゃなくて、忘れてただけなんだね?」

「そう言ってるだろうが……悪かったよ」

何回目かで面倒な調子になってきた謝罪に、未春はスンと鼻を鳴らした。

「トオルさんも知ってるの?」

「多分な。スターゲイジーと会ってたし……あの人は国内の事なら起きる前に気付くだろ」

「どうして言わなかったんだろ。実乃里みのりちゃんも来てたのに」

「さあな。お前の体調を考えたんじゃないのか」

「だったら尚更言わなくちゃダメだろ」

強い反発にハルトは肩をすくめた。まあ、確かにその通りか。

来るかもわからない敵を警戒する心労よりも、油断からの一大事の方が問題だ。

しかも異常聴覚を持つ未春は、生きたセンサーとも言うべき高性能の持主なのだから、報せておいた方が危険は少ない。

――それとも、十条じゅうじょうは、もしかしたら……いや、それは考え過ぎか?

「『リーフマン』って、どんな人?」

「は? さっき言った通り――……」

「見た目や、隠れたり逃げるのが上手いとか、そういうのじゃなくて、性格とか」

ハルトはハンドルを切りながら首を捻る。

「あいつは……大人しい奴だったよ。表面上の素行や見た目だけは」

脳裏に栗毛と焦げ茶色の目をした少年が浮かぶ。

「いつも小動物みたいな顔して、俺らの中で一番優秀だった奴にくっ付いてたな……同胞の中でもかなりの曲者だったが……」

「曲者?」

「相手を陥れるのが好きなんだ。遠慮がちな性格の反動らしいが、ちょっとしたイタズラをして喜ぶ厄介なクセがあった。俺も一度、奴の親切ヅラに騙されて、大量の砂糖が入った水を飲んだことがある」

殺人ストレスであるキリング・ショックの解消に、変な飲み物を必要とする未春はさほど共感しなかったようだが、拒絶反応を示すほどの砂糖味は生涯忘れまい。

「それ……危なくないの?」

「迷惑だが、セーフってとこかな……施設では毒物や薬物の管理は勿論、食品の規制も厳しかったから、命に関わるようなものは出せなかった筈だし、体調を崩すようなイタズラはしていないと思う。俺の時も、何かで出たスティックシュガーでもコツコツ貯めたんだろうな……そういうものを隠すのも上手い奴だった」

仲間にイタズラする為に、砂糖をこっそり集める少年を想像して、未春は目を瞬かせた。ハルトの話を聞いていると、シリアルキラーと化したおぞましい殺し屋を二十人以上輩出したマグノリア・ハウスは、規則の厳しい風変りな……しかし、ありふれた学校の様にも聞こえた。

27人の子供が暮らし、殺しを学んで卒業した家。

最初の一人が狂い、二人は失踪、23人はシリアルキラー化し、残る一人であるハルトに全て殺された。『リーフマン』は、失踪した二人の内の一人。

「ハルちゃんと、その二人はどうして……おかしくならなかったの?」

「さあな……わからない。原因についてミスター・アマデウスは調べただろうが、言及していない。俺が殺して回った時も、捕獲の指示は一切無かった辺り、一度狂った奴は治せないことはわかっていたと思うが……」

心の内を示すようなガラス越しの曇天を睨み、ハルトは溜息を吐いた。

「強いて言えば、『リーフマン』はともかく、『オムニス』の方は狂う気がしない。あいつは……なんていうか、全部を知っていた気がする」

「全部って……?」

「全部だ。奴が見ていた世の中の、全部」

自分でそう言って、ハルトは苦笑いを浮かべた。

「変な事言ってると思うよな。俺もそう思う……天才が考えることはわからない」

未春はアンバーの双眸をゆっくり瞬かせながら、話を吟味するような顔でハルトを静かに見つめた。前を見ている顔は、辛い思い出を振り返る顔ではない。一緒に寝食を共にした二十人以上を殺害した記憶は、決して良いものではないだろうに。

ブラックも、犬以下に扱われた過去を薄笑いのまま話した。

二人に共通するのは……

「ハルちゃん、次の角曲がって」

「は? どこか用事か?」

「お昼はトオルさんの奢りにしよう」

運よくとおるの方が犠牲になった提案に、反対する理由は無い。

時計は正午を過ぎていた。ナビゲートする未春は元気だ。いや、いつもより二割増しは元気だ。到着した先は、錆びついた階段を備えた古いアパートだった。先に車を降りた未春はさささっと素早く店に入って行った。

……人の奢りで食うメシが旨いのは万国共通らしい。

「空いてるって」

一階にこじんまりと構えたビストロは、駐車場が店の入り口をギリギリまで封鎖し、隣の車とも、道路とも距離が近すぎるそれだった。ディックなら絶対に余所に停めたがるだろう場所に借り物の車をヒヤヒヤしながら停めると、未春が入り口で手招いた。外で十分わかったが、中も非常にコンパクトな店だった。ジャズが流れる店内は欧米の田舎風といったチークカラーの木で作られ、テーブルも椅子も木で揃えてあった。黒板にチョークで書かれたメニューが素朴な印象に対し、昼時もあってか満員御礼だった。ちょうど出た客との入れ替わりで入れたらしく、女将と思しき女性がせっせとテーブルを片付けて拭いていた。

「お待たせ、未春くん。どうぞー」

顔見知りらしい。どうも、とお辞儀をする未春に続いて頭を下げると、「お友達?」と女将は微笑んだ。

「久しぶりねえ。相変わらずカッコいいわあ……こないだ、十さんも来たのよ。穂積さんとお嬢ちゃんが一緒で、うちのと腰抜かしそうになったけど」

どうやら、こちらも”甦り”に驚かされたクチか。

「なんかスパイ映画みたいなことになってたんだって?」

緊張感が失われるワードは十が吹き込んだのだろうか。眉をひそめて、「大変だったのね」と労う彼女に未春は腰掛けてからこくりと頷いた。

「おったまげたけど、本当に良かった。あんなに良い人なのに、奥さんと娘さんまで死んじゃったらあんまりだもの……」

「お騒がせして、すみませんでした」

「いいのよ、うちのことなんて。何食べる?」

未春が日替わりの鶏を選び、ハルトが豚の方を選ぶと女将はにっこり笑って厨房へと入って行った。眺めるまでもない店内で先客がつつくメニューはどれも欧風の肉のローストや、こっくりしたソースが絡まったパスタが良い香りを漂わせていた。

「近くに美味い店があるなら早く教えろよ」

「忘れてたんだ。ハルちゃんが来てから、色々有ったから」

確かにその通りなので黙すと、無表情ながらもどこか照れ臭そうに言った。

「二人だけでごはん食べるの、久しぶりな気がする」

「そう言うのも、変な感じがするけどな」

「そうだね……ハルちゃんが来てから、まだ半年も経ってない」

未春は可愛いカーテンの掛かった窓の方を見つめたが、曇りガラスで外は見えない。

店のドアが開いて、いっぱいの客入りに目を丸くしたお客に、女将が申し訳なさそうに待つか尋ねて名前を控え始める。

「最近、こっちの仕事してる?」

世間話のように未春は言った。

「してない。……知ってるだろうが」

関係者の店でもなかろうに、隣とあまりにも席が近い為、わずかに声を低くしたハルトだが、未春は気にした様子はなかった。

「俺も、最近してない」

「知ってるよ。具合が悪かったからだろ」

「……うん」

未春が頷いてからのわずかな沈黙の内に、フレッシュなトマトやリーフのサラダと、湯気を立てる滑らかな白いスープが出て来た。

もうこのセットだけで十分わかる。間違いなく美味い店だ。

向かい合って、角切りのトマトとレタスをフォークで黙々と掬う。そんなに腹が空いていた気もしないが、美味いメシというものはどこからか食欲を呼び起こす。言葉の合間に踊る様なピアノとサックスの音が響き、周囲の客の他愛ない話が交わるが、未春の声はやけにはっきり聴こえた。

「ハルちゃん、前に辞めたいかどうか、俺に聞いたの覚えてる?」

主語は無いが、何のことかはすぐにわかった。

そういえば、あの時も向かい合って、スパムの炒飯を食った後だった。

「覚えてるよ」

「ハルちゃんは、辞めたくなったことがあるって言ったよね」

「ああ」

「あの時は俺、本当によくわからなかったんだけど……」

カラン、と店のドアが開いて閉じる音がした。女将と客の挨拶が店内を飛び交って、食器が触れ合う音や、生肉が焼ける景気の良い音と香りがした。

「今は……辞めるか聞かれたら……辞めるかもしれない」

「そうか」

ハルトはスープを掬い取り、淡白な返事を返す。

「さららさんが喜ぶな」

ジョークめいた一言に、未春はようやくわかる程度の苦笑いを浮かべて首を振った。

「無理だっていうのも、わかってるよ」

「わかるよ。お前の顔付きは大体覚えた」

軽く溜息を吐いて、ハルトはしばし迷ったが、テーブルから顔を上げた。

「無理じゃないかもしれないぞ」

「……そんなこと」

「普通は、無理だ。だが、お前に限ってはわからない」

未春が不思議そうに目を瞬かせた。ハルトはそのアンバーを見つめ、声のボリュームを絞った。

「この前、十条さんはお前を『断固、人間にする』と言った」

知らぬ人が聞いたら、変な言葉だと思うに違いない。実際、変な事ではある。

未春は人間だ。ここ最近は、感情を欠いていることが信じ難い程度には。

「俺は言葉のままと解釈した。あの人が言う『人間』の概念は、BGMとは無縁の……真人間の筈だ。お前が辞めたいと言ったら、反対しないと思う」

恐らく、『人間に成った』と判断する瞬間は、未春の感情が一般的な正常値になること。既に喜怒哀楽は存在していると思うが、十が納得する領域には達していない。

確かに、人間の感情は喜怒哀楽だけでは単純すぎる。リリーの件で現れた嫉妬や、今回向き合っている恐怖などもあれば、こちらが理解できない愛もある。

「辞めたいって言う前に……俺が『人間』になったら、どうなるんだろう?」

「それは俺にはわからない。……だが、最終的に辞めさせる気だと言われても驚かない。そのぐらい、あの人がお前にしていることはBGMらしくないんだ」

また、扉が開いた。座席数が割に合わない人気店らしい。

黙っている間の周囲にはソニー・ロリンズの Tenor Madnessテナー・マッドネスが流れていた。テナー・サックスの軽快な音が響き渡る中、食器の触れ合う音や人々の楽し気なお喋りが演奏の一部みたいに入り混じる。

「ハルちゃんは……辞めないの?」

ハルトが何か言う前に、良い香りの皿が二枚、テーブルに舞い降りた。

「はーい、おまちどうさま」

鶏も豚もまだ焼かれているような湯気と音を立てている。色よくローストされたそれから胡椒のスパイシーな香りがした。確実に美味いとわかるものを前に、しけた会話は止まった。何となく久しぶりに感じるナイフとフォークのセットで食事をすると、アメリカで贔屓にしていた店を思い出した。あの店もこんな風にこじんまりとしていて、肉はたっぷりのスパイスで調味され、店内にはニューオーリンズ・ジャズが流れていた。

あの時、向かいに座っていたのは、未春の倍はある巨体だったが。

「美味いな」

「うん」

「なんで車で来たんだ。飲ませない気か」

「俺が運転しようか」

「それはそれで悪酔いしそうだな……」

健全に感じる締めのコーヒーを含む頃、また店の扉が開いた。

「早く出た方がいいか」

レシートを摘まんだハルトに頷いた未春だが、ふと自分の端末を取り出して小首を傾げた。

「ハルちゃん、店にリッキーが来てるみたい」

「は? 休みに?」

「めんどくさそうな相談みたいだけど、帰る?」

「……お前、帰らない選択肢があるのか……?」

意外な薄情者に呆れると、未春はぼんやりと首を振った。

「相談に乗れそうにないから、意味ないと思って」

差し出される画面に映っていたメールの末尾は、仰る通り、面倒臭そう……且つ、他を――例えばあの黒い紳士を頼ってほしい案件だった。


〈未春サン~~……どうしたらモテるか教えてください~~!〉




 ビジネスホテルの一室で、電話が鳴った。

朝のシャワーを浴びたナンシー・アダムズは、ブロンドを拭いていたタオルを肩に乗せたまま端末を手に取った。ディスプレイに映っていたのは未登録ナンバーだ。

「Hi.」

末永すえながです〉

「こんにちは、警部」

警戒心を抱きつつも、ナンシーは陽気に答えた。大丈夫。この電話は日本での活動用に購入したものだ。この男以外にナンバーは提示していない。

〈今、宜しいですか〉

「ええ、もちろん」

ソファーに腰掛けて足を組むと、男は事務的な声で続けた。

〈先日の御返事をしようと思いましてご連絡しました〉

真四角の言葉に、女は苦笑いと共に了承した。

〈協力させて頂こうと思います〉

「ありがとうございます。そう仰って頂けると思いました」

第一関門を突破できた安堵に、ナンシーは微笑んだ。

〈それに関して、幾つかお伝えすることがあるのですが〉

「なんでも仰って」

〈まず、私の使用端末は所属する組織内に広く知られています。この番号は貴女との連絡に新たに購入したものです。端末は人づてに買いました。信頼が置ける人物なのでご安心ください〉

「お気遣い、感謝いたします」

〈では、貴女が何から始められるつもりか伺ってもよろしいですか〉

「その前に、貴方はどの程度、協力して頂けますか。直接、動くことは――」

〈それは無理です、ミズ・アダムズ〉

「……何ですって?」

〈この件は正式な捜査ではありません。私は現時点で担当している事件も有りますし、他の件でも現場に赴かねばなりません〉

真面目であるが故の回答に、ナンシーは絶句した。思わず眉逆立てる。

「世界的な悪よりも、優先される悪が居ると?」

〈目先に事件が有る以上は。警察は罪なき一市民の為にあると存じます〉

手強いどころではない。こいつは一度決めたらテコでも動かぬ堅物だ。

「――貴方が十条に辿り着かない理由がわかった気がします。いいですか警部、奴らを野放しにすることで、やがてその罪なき市民が被害を被るのですよ?」

〈仰る通りだと思います〉

すんなり認めた男に、女がほっとするのも束の間、末永はこれまたあっさり言った。

〈しかし、私は、正義は大義ではなくても良いと考えます〉

「どういうことです」

〈権力の悪い所は、目の前が見えなくなるということです。高い場所に上がると執行する力は増しますが、上り過ぎると、下の方は見えません。本来、気にするべき最下層が見えなくなる。悪が生まれるのは下層――最も罪なき場所から生まれます〉

説得は無理だと悟り、ナンシーは舌打ちしそうになる唇を噛んだ。

「わかりました。職務をおろそかにしない日本警察に賛辞を贈り、私が動きましょう。警部には情報提供と、私が当局に咎められた際のサポートをお願いしたいのですが」

〈承知しました。具体的に、貴女はどのように動かれるのですか〉

ナンシーは微かに迷ったが、この男を選んだ自分の勘を疑うのは癪だった。

「先日お話しした、東部鷲尾連合会――彼らとスターゲイジーの部下が接触しています。近日中に、武器、或いは何かの企みで十条とも関わる事でしょう。その時を狙い、現場を押さえます」

電話の向こうで、思案する様子を窺わせ、末永は慎重な声を発した。

〈その情報、どうやって得ているのか伺っても?〉

「協力者が居ます。私から言えるのはそれだけです」

〈どなたか伺わずとも構いませんが――……有事の際、その方の安全を確保することが難しくなりませんか〉

「スパイに保障は要りません、警部」

なるほど、と小さく呟いた。

「警部、連中の中には普通ではない身体能力の者が居ます。貴方も仰る”有事”の際、貴方はそれなりの部下を動かせるのかしら?」

無論、それを見込んでの声掛けではある。

この男が組織内でも、かなり踏み込んだ捜査をやるのは有名だし、それに賛同する猛者と部署を越えた繋がりがあるのは調査済みだ。過去の事件で、警察内の特殊部隊・SATと協力しているし、彼らを通じて自衛隊との関与も有る。真面目で正しいが故の敵も多いようだが、足を引っ張られるほど迂闊でもない。

〈部下に限った話ではありませんが、それ相応の事件が起きていれば可能です〉

まあまあの回答にナンシーは鼻で笑いつつ、「それは有難い事」と応じた。

つまり、日本警察が動く為、或いは動いた際に必要なのは誰が見てもわかる『現場』だ。東部鷲尾連合会は格好の標的になる。

まして今回、スターゲイジーが連れてきたのは”あの”ブラック・ロスだ。

彼の履歴は名前通りの黒に塗り潰されている。過去の戦争犯罪だけでも相当な罪に問われることになるだろうし、彼をそうと知って雇っているスターゲイジーも無事では済むまい。仮にブラックを切り捨てるつもりだとしても――いや、それは有り得ない。あの男は優秀な者が多いイギリス支部内でも生え抜きだ。安易に捨て駒にするには惜しい筈。

「近日中に『それ相応の事件』が起きます。その時、踏み込んで頂ければ万事うまくいきます」

〈……念のため、お伺いするのですが〉

「なんでしょう」

〈その事件は、貴女が起こすのではありませんね?〉

「――ええ、もちろん」

間髪入れぬにこやかな返答に、勘繰るような沈黙が流れた。

〈わかりました。私はその時に備えて準備をしておきます。お察しの事と思いますが、日本警察の動きはさほど早くありません。なるべく、連絡は密に頂けると有難いのですが〉

「そうですね……可能な限りは」

〈では、また〉

素っ気なく通話は切れた。

ナンシーはしばし暗い画面を見つめていたが、別の人物に電話をかけた。

〈Hi.〉

「ガキ共はまだ動かないの?」

〈せっかちだねえ、ナンシーは〉

「よく言うわ。こっちは呑気にしていて給料が出るあんたとは違うの――バットでケツを叩くぐらいしなさいよ」

〈そりゃ良い悲鳴が聞けそうだね〉

少年の様に明るい声で怪しい笑い声を立てるのに眉をひそめつつ、ナンシーは髪からぽたりと落ちた雫を拭った。

「あんたの趣味を推奨するつもりはないけど、急いだ方がいいわ。あんたが紹介した日本警察はとんでもない堅物よ。こっちのやり方に反発するかも――」

〈ナンシー、真面目で裏のない男が良いって言ったのは君じゃないか。そういう男が希少だってことぐらい、君は知ってるだろ?〉

ムッとした女の雷が落ちる前に、電話の相手は素早く割り込んだ。

〈呑気な僕にも仕事はあるんだからね。”休暇中の”君とは違うんだ。連中は思った以上にチキンなんだから、叩かれたぐらいじゃ動かないさ。ブラック一人にすっかりビビっちゃってるもの〉

「チキンでもピッグでも構うもんですか。垂れ込んだのはあんたでしょ! 何とかしなさいよ!」

〈わかったわかった、怒鳴らないでよ。癇癪は嫌いなんだから……〉

だるそうに返事をすると、相手はしばしの間を置いてから答えた。

〈ンー……明後日かその翌日には動けるんじゃないかな〉

「何故、明後日なの?」

〈明日は雪の予報が有るんだよ、ナンシー。日本の都心は雪に弱いんだ。一センチでも積もれば色んなことが遅れたりストップする〉

「そんなバカな。経済大国でしょ? お得意の24時間サービスはどうなるのよ?」

〈安全第一ってやつさ。どうせ土日だ、君も休暇らしい休暇を取ったら?〉

女はうんざり顔で天を仰いだ。

「上手くいかなかったら、あんたの髪をバリカンで刈ってやるわ」

〈そうならないのを祈るよ〉

切れた電話をソファーの端に放り投げた。腹立たしい。こんな島国まで出張ってきて、収穫無しだったら同僚に笑われるだけでは済まない。

溜息を吐いて、冷え切った髪にドライヤーを当てようと立ち上がると、窓の外に目が留まった。いつの間にか、空は分厚い灰色の雲に覆われ、ガラス窓は曇り始めている。滅多に降らないと聞いた雪に出くわすとは、なんて運が悪いのだろう。

ふと、バッグに入れてあった手帳を取り出す。

開いた箇所に挟んでいた写真を眺めながらソファーに座り直すと、先程より細い溜息が出た。写真には、幼い自分と一緒に金髪が美しい妙齢の女性が微笑んでいた。

「ねえ、ママ……ひょっとして反対なの? あの男を捕まえるの……」

これまでも、スターゲイジーを捕捉しようとして下らない邪魔やトラブルに見舞われたのは一度や二度ではない。当然、ブレンド社の仕業もあるだろうが、今回のように天候に恵まれなかったケースもある。

「ママがあの男を愛していたのは知ってるけど、お願いだから邪魔をしないで。正しい方へ導いて」

祈る様に写真に話しかけると、そっと手帳を畳み、一息ついてからドライヤーを取りに立ち上がった。




 「ブラック」

新宿駅の出口のひとつで待っていた女は、大勢の利用者の中に黒服の大男を認めると、ほっとしたような、気恥ずかしそうな顔で微笑んだ。

「来てくれると思わなかった」

薄笑いを浮かべた紳士は、微かに眉を下げて首を振った。

逸子いつこ、それはないだろう? 俺は君を優先して、急いで此処に来たのに」

「そうね……ごめんなさい。来てくれて嬉しい」

「良かった。誘ってくれてありがとう。この間より綺麗だ」

浮ついたセリフを何なく言ってのける男は、むしろ誠実に見えるから不思議だ。

本当のことに気付いてくれたからだろう。化粧も衣服も、先日よりずっと念入りに支度をした。逸子は素直に「ありがとう」と笑って、男を伴って歩き始めた。

「新宿御苑は初めて?」

「日本は初めての場所ばかりだ」

「もっと花の多い季節に招待したいけれど、冬は冬で良いものよ」

生憎、空気は冷たく、空は雪が降りだしそうな曇天だが、都会のビル群の合間に広がる新宿御苑では、綺麗に整備された芝生に幾つもの巨木がそびえ立ち、シンボルであるユリノキに至っては30メートル級の高さを誇る。歩みを進めると、この季節にはどの木よりも華やかなヒマラヤ桜が咲いていた。ピンク色の花が赤みがかった葉と共に輝く姿は、ソメイヨシノとは異なる風情がある。蝋細工のような姿がしとやかな黄色い蝋梅の下では、品の有る香りがした。

「優しい香りだけど、貴方の香水にも負けないわね」

「この香りが売られるなら買いたいな」

「気に入った?」

「君が好きなんだろう?」

「あら、それなら私が買うから駄目」

小さな花の下で笑い合い、のんびり歩き出す。時折、他の散策者とすれ違うが、桜やバラの頃には及ばない。訪れているのは観光よりも、日常的に此処を散歩する人々が多い様だ。中にはジョギングや写真撮影を楽しむ人や、外国人のカップルや家族、国際結婚と思しき一家も居た。

日本庭園の辺りに来ると、外国人らしく「Beautiful」と呟いて辺りを見渡した。

「素晴らしい庭園だ」

「イングリッシュガーデンとは趣が違うけれど、素敵でしょう」

「日本は美しいものばかりだな」

そうね、と同意こそしたが、自分を見つめる黒い瞳に逸子は自信なさげに微笑んだ。

静けさに包まれた広い池と、映り込む松の木を見つめながら、逸子はそっと呟いた。

「……ブレンド社のこと、調べたの」

男は何も言わずに微笑み、同じ景色を眺めている。

「貴方は、私の夫のことを知りたいのでしょう?」

久我山くがやま 長道ながみち。四十五歳。法務省・矯正局長。今年で四年目。前任が刑務所内で起きた不祥事により退任後に任命、真面目で誠実な人柄だと内外の評価は高く、絵に描いたような官僚タイプ。元・キャビンアテンダントの妻が美人であることも有名だ」

ひやりとする空気に日本語を交えながらすらすらとそらんじて、男は首を振った。

「逸子、弊社は君の伴侶パートナーの事は既に知っている。俺が改めて調べる必要はない」

「……夫のことか、仕事について調べさせる気で、私に近付いたのではないの?」

「そんなことをするのはフィクションのスパイか悪党だ」

可笑しそうに笑う男に、逸子は不安げに瞬いた。何処かで良い声の鳥が鳴いた。

「仮にそうだとしても、優秀な局長クラスの人間が、妻の目に留まる様なところに情報を置くことは有り得ない。それとも、日本の公務員は職場から気軽に情報を持ち出せるのか?」

女は虚を突かれた顔で首を振った。有り得ない。

機密情報は無論のこと、個人情報も、直接的な危険がないあらゆる情報が、持ち出し厳禁だ。仮に盗まれたり紛失しなくとも、持ち出した時点で罰せられる。

「真面目で誠実な官僚は、美人の妻が頼んでも情報を漏らすことはない筈だ」

「私に限っては、もっと有り得ないわ。あの人は……脅迫されたって無いと思う」

「CAだった頃の君が世界を飛び回るスパイなら、夫を手玉に取ったかもしれないな」

「それ、いいわね。……そうだったら良かったのかも」

どこか寂しい苦笑いで言うと、女は胸に手をやって溜息を吐いた。

「ごめんなさい。貴方が言う通り。私、映画やドラマの見過ぎね……」

「気にすることはない。こちらも怪しく見られやすい仕事だ。――映画はよく観るのか?」

「ええ、家に独りで居ることが多いから……」

「映画館はそれで良いだろうが、家で独りはつまらないな。うちの社は月に一度、ムービー・デイがあるんだ。参加希望の社員が集まって、ボスが推薦する映画を一本観る。俺は出張が多いから、あまり参加できていないが」

さらりと話題を移した男に、逸子は毒気を抜かれたように微笑んだ。

「楽しそう」

「楽しいが、ルールがある」

「何かしら」

「映画に沿った感情を最初に示した奴が、その日の会の費用を持つ。涙を誘う映画なら最初に泣いた奴が、ホラーなら最初に悲鳴を上げた奴、コメディなら最初に笑った奴という風に」

逸子は笑った。

「素敵な会社ね」

「ボスが社員と楽しいことを共有するのが好きなんだ。ゲームをする会もあるし、スポーツをやったり、観戦に行くのもあるな……下らないことが好きな奴ばかりだが、みな陽気で面白い連中だ。君の夫を調べたのも、何か起きた時の為の保険に過ぎない」

「それじゃ、貴方は日本に何を調べに来たの?」

私の事なんて言わないでね、と付け加えた女に、男は薄い笑みに思案顔を浮かべた。

「調査内容は話せない。……が、何をしに来たのかは教えてもいい」

すっと屈んだ男の顔が女の耳元に寄せられた。身を引く間もなく赤くなった耳元に、低い声がそっと囁いた。

「Hide-and-seek(かくれんぼ)――俺は、日本に隠れた鬼を探しに来たんだ」

きょとんとした女の間近で、男は薄い笑みを浮かべた。

その様子に池の対岸――遠い木陰から、シャッターが切られた。

見つめ合う似合いの男女にしか見えないショットを撮った男は、トイプードルめいた髪を風に揺らしながら少年のような目を細め、掛かって来た電話に出た。

「Hi, Boss.」

「どんな具合だ」

男は首に提げたカメラを切り、男女から見えない位置に身を引いた。

「予定より早く済みそうです。彼はカサノヴァにも負けないんじゃないですか?」

「千人と寝た野郎と一緒にしてやるなよ。奴の良いところは、ベッドに入らんでも落とせるところだ」

クリスプをバリバリやる音を挟む相手に、男は小さく笑った。

「イイ男なのはわかりますけどね、彼の何が良いんでしょう?」

「押し付けないからだよ」

意外な回答に、男は笑いを引っ込めてぱちぱちと瞬いた。

「わからねえか。それがブラックの良いところなのさ。男ってのはな、生物的に、女にアピールしたい、良いところを見せたい、自慢話をしたい、まあとにかくそういうものなんだ。これは悪いことじゃねえし、この本能無くして人間は続かないんだが、奴はあんなナリで欲だのぎらついたもんが一切無い。ただ耳を傾け、話すときは真正直に喜ぶことを囁く。仮初の関係には最も良い」

「へえ~……カウンセラーとかセラピストみたいですね。僕はやっぱり顔なのかと思っていましたけど」

「そりゃあ顔は重要だが、整った顔のドブカス野郎も山ほど居る。中身ってのは顔に出るぜ。お前みてえに相手が叫ぶのをウズウズ待つ欲もな」

「肝に銘じますよ、ボス」

「偉いじゃねえか。予定の写真が撮れたらすぐに送れ」

「了解です」

切れた端末をポケットにしまい、男はひょいと茂みの陰から対岸を窺った。

そこでは見つめ合う男女の代わりに、仲睦まじい様子で池のほとりを離れる背が見えた。




 先に降ろしてもいいのにと言ったハルトに対し、近いからいいと断った未春が降車したときだった。彼は猫が聞き耳を立てるような顔つきで店の方を振り向いた。

「どうした?」

「揉めてる声がする」

十条宅の駐車場は、建物の裏手にある。住宅地をぐるりと回り込まねばならない。

「走るね」

言うが早いか、エンジンでも入ってはいまいかと思うダッシュで駆け出した。即座にコーナーを回った背を追い、ハルトも後ろ手にロックしながら走り出す。

――力也りきやといえば、例の偽物騒ぎが収束していない。

いつもの調子なら、恋の相手に関してだろうか?

……出方によっては一悶着有りそうだが。

ハッピータウンに慣れて来たハルトが二つ目の角を曲がって店の正面が見える路上に辿り着くと、そちらではなかったようだ。先に着いていた未春が何者かを蹴飛ばしている。気の毒な相手が横っ腹を蹴飛ばされて宙を舞い、不意打ちでも食らったか、先にノックダウンさせられたらしい男が道路に伏している。その前では、力也が誰かを庇うように立っていた。もう一人――狼狽えた顔でこちらに逃げて来た男を知らぬ顔で足払いして打ち倒すと、ハルトは顔面から路面に沈んだ男の傍らに屈んで、頭を引っ張り上げた。知らない顔だ。

「おい、誰だお前?」

「は……ハァ⁉ お前こそ誰だよ……‼」

口に混じったらしい砂利を吐き捨てて喚く男は、誰何の最中で振り上げた腕をねじ上げると少し大人しくなった。どう見ても堅気ではない、坊主頭に剃り上げた眉、髭、ピアスで穴だらけの耳を眺め、ハルトは嫌そうな顔で睨んだ。

「一応聞くが、害獣駆除業者じゃねえよな?」

「が、害……?」

ハルトは溜息を吐き、腑に落ちない巡りの悪い男の首根を掴んで立ち上がると、何か怒鳴り散らすのを無視して店の前へと引き摺って行った。

未春がゴミ袋でも放る様に張り倒した二人を店の前に投げ、ごく当たり前のように警察――恐らく、近隣に勤めるBGM関係者たる警察官の山岸やまぎしだろう――に、電話をかけている。ハルトが近付くと、閉じられたガラス戸の前に立っていた力也が振り返った。軽く一発貰ったのか、頬が腫れている。そこを庇われていた人物がおろおろとした様子で見ていた。

なるほど、未春はこれを見て有無を言わさず攻撃したようだ。

「リッキー、何が有ったんだ?」

「センパイ……あ、ありがとうございます」

「礼なんかいいよ。居なくて悪かった。大丈夫か?」

「は、ハイ。いえ、全然――こんぐらいどうってことないです……」

わたわたと手を振る力也に苦笑いを向け、その傍で驚いているのか怯えているのか定かではない人物に振り向いた。

果林かりんさんは、大丈夫ですか」

そう、小動物みたいな目をしてこくりと頷いたのは、犬猫の保護施設を運営している高梨果林だった。小柄でぽちゃっとした彼女は肩にかけたトートバッグを持つ手をぎゅっと握り締め、戸惑う黒い目が力也とハルトを往復する。

「……大丈夫だけど、急にこの人たちが近寄ってきて、何が何やら……」

「ということは、この連中は顔見知りじゃないんですね」

「と、当然じゃない! ハルちゃんたら……! 私は通り掛かっただけよ!」

「そッス、センパイ。俺が此処に座ってたら、果林さんが通り掛かって、それからすぐにこいつらが突っかかって来たんです」

大急ぎで手を振る果林と力也を確認し、ハルトは運んで来た男を見下ろした。

「――だ、そうだが、この人に何の用だ?」

「し、知らねえよ! ボスが……っつうか放せよ! このクソ野郎……ッ!」

「果林さん、ちょっとあっち向いててください」

ハルトの精一杯の紳士的な指示に、果林がどぎまぎと背を向けると、目立った音もしなかったが、男の太い悲鳴だけが国道の走行音に連なった。

「お前ら、十条さんのお嬢さんを狙った奴らじゃないか? えーと、なんだったか、東部鷲尾連合会だっけ?」

ちらりと果林が振り向く。男はハルトの問いに冷や汗を垂らして沈黙した。

「まさか、高校生と見間違ったなんて言わねえよな? 黙ってても構わないが、俺にとっては一本いくのも五本いくのも変わらない。どうせ警察の世話になるんだ、こんなとこで我慢する意味はないと思うが?」

五本の下りで男は顔色が青くなったが、沈黙を貫く。

「だんまりなら仕方ない。あっちの野郎にやってもらう」

ハルトが電話を切ったばかりの未春を指すと、男の視線は倒れ伏した二人を移動し、路面に落ちた血飛沫へと落ち着かぬ目をうろつかせてから言った。

「……お、……俺らはただ、鷲尾さんに――……そ、その女を連れて来いって言われて……」

視線で示された果林がびくりと身を震わせる。ハルトはその様子を見てから、思案顔で問いかけた。

「鷲尾は果林さんになんの用事だ?」

「だから知らねえって……‼ 言っとくが、俺らは別に痛めつける気なんかなかったんだぞ! そこのガキが騒いで邪魔しやがるから……‼」

男が力也をねめつけたところで、降って湧いたようなサイレンの音が響き渡り、すぐに店の前に停まった。続けざま、救急車がやって来る。途端に騒々しい中、「どうもどうも」と好々爺みたいな顔つきでポリス・カー……じゃない、パトカーから降りて来た警官の山岸は、皆まで聞かずに一緒に来た若手に指示してハルトから男を預からせた。観念したのか、神妙にしている男が連れられ、倒れていた方も救急車に手際よく運ばれる。

「どうも、お世話になります」

軽く会釈するハルトに、山岸は警帽を被って眼鏡をした猿のようにくしゃりと皺を寄せて、「君らは本当に行儀は良いよねえ」と皮肉混じりに笑った。

「今日は何の騒ぎだい?」

「さあ……俺らも来たばかりで。東部鷲尾連合会ってご存じですか? そこのボスが、彼女を連れてくるよう指示して、うちのスタッフと揉めた様なんですけど」

ハルトの言葉に頷きながら果林に視線を移した山岸は、「あれ」と呟いた。

「果林ちゃん?」

「……お、お久しぶりです……」

気まずそうに目を泳がせながらお辞儀をした果林に、山岸がにこにこと笑い掛けた。

「おやおや、すっかり綺麗なお嬢さんになっちゃってわからなかった。そうかあ、そういえば十条さんが君のとこでボランティアしてるって言ってたっけ。あれから順調かね?」

「は、はい……おかげさまで……」

「お知り合いだったんですか」

――どういう知り合いだ? 十条繋がりにしても、果林の施設はこの地域内ではない。地域外の警察官と顔見知りというのは珍しい。

「はは、彼女に聞いてよ。こんなおじさんに言われちゃあ、辛いだろうからね」

穏やかに言われた果林がきゅっと肩をすぼめて顔を赤くする。力也や未春も不思議そうな顔で果林を見る中、若手の警官が近付いて来た。その間にも、救急車は先に発進していく。

「山岸さん、準備できました」

「おお、素早い。先に乗っててくれ」

若手が規律正しいお辞儀をして車に戻ると、山岸は顎を撫でた。

小場こばに比べると、今度は機械的でね。おじさんは置いて行かれそうだよ」

策略を以て追い出された警官の名を懐かしそうに呟くのに、ハルトは苦笑を返した。

「鷲尾が彼女に用事ってことなら、聴取って程の手間は要らないかな。どうだい、果林ちゃん?」

「……ええ、要らないと思います……」

「あのやんちゃ坊主とトラブルが有るなら、聞くよ」

果林は気後れした顔つきだったが、首を振った。

「もう何年も連絡ひとつ取って無いんです。私は連絡先を変えたわけじゃないし……急に来いって言うのが何なのか、わからないとこは困りますけど……うちが余分なお金なんか無いのは知ってるでしょうし……」

「そうかい。何か有れば連絡して。警察に言い辛ければ、先に十条さんに相談してもいいと思うよ」

果林が頷くと、「それじゃあね」と現場検証もせずに山岸はあっさりパトカーに乗って去って行った。後に残るのは、国道の騒々しい轟音ばかりだ。

「えーと……」

異様な沈黙が落ちた場に、ハルトは頭を掻いた。

「とりあえず、中でお茶でも飲みます?」

しょうもない提案だったが、冷たい風が吹きつける中、反対する者は居なかった。




 CLOSE看板を掲げた状態で、DOUBLE・CROSSの店内カウンターに果林を座らせた頃、陽は異様に陰り始めた。陰鬱な曇天は雪雲らしい。さららが言っていた通り、この週末は雪が降るようだ。

久方ぶりにてきぱき動く未春は、ひやりとする店内の暖房をフルにして、力也の頬に氷嚢をあてがい、果林の為にコーヒーを準備し始める。

「……鷲尾は、幼馴染みなの」

土下座せんばかりに力也に謝った後、ぽつりと告白した果林の表情は、犯行を猛省する犯罪者の様だった。

「十さんは知ってるんだけど、私……その……若い頃は、けっこう~……」

「不良だったんスか?」

ずばり言ってしまう力也に恥ずかしそうに果林は身を縮こませて頷いた。

「け、喧嘩とか薬はやってないわよ! ただちょっと……バイクに乗ってたっていうか~……」

意外な過去に、ハルトは目を瞬かせるしかない。

バイクを乗り回していた果林をたびたび補導したのが山岸であり、彼女が足を洗い、今の保護施設を開くきっかけになったのが、十条十。

以来、当時はつるんでいた鷲尾とは疎遠になり、連絡は取っていない。

……ちょっと待った。それってまさか……

「鷲尾は、十条さんに……嫉妬してるんじゃ……?」

「ひぇっ?」

ハッピータウンの調子で言えば、それが正しいと思ったハルトだが、果林は大きな虫でも追い払うように両手を振った。

「そ、そんなわけないよ! もう何年も連絡とって無いんだし……!」

「いやいや、果林さん、それが理由なんじゃないですか? 子供も奥さんも居るのに、貴女の所に出入りしてニコニコしてる男って、俺から見てもだいぶ無神経な構図ですよ?」

「確かにそッスね……好きな人が気になってる人って気になりますよねえ……」

経験者は語るとでも言うように、しかつめらしく力也が頷く。果林は狼狽えた様子でそちらとこちらを往復し、唇をわななかせた。

「で、でもなんで急に? 話が有るにしたって、本人が来ればいいじゃない……」

問題はそこだが、それはこちらが知る筈もない。

東部鷲尾連合会とやらが以前から活動していたとしても、話を聞いたのは最近だし、実乃里の件で十条が手を出した報復とは関与が見受けられない。仮に被害者が倉子だったのなら果林との関連はあるものの、それにしたって謎である。

「そういえば、果林さんはどうして今日此処に居たんです? うちは休みなのに」

「お、お休みなのは知ってたよ? でもホラ、休みの方が、打ち合わせとかで居るかもって思うでしょ……」

ばつの悪そうな果林だが、噓をついている様子は無い。

「はあ、なるほど。だとしたら、うちのオーナーは開店時に来るのが通例ですよ。大抵、此処でドーナッツ食いながら、喋ってんのが好きみたいですから」

「そっかあ……私、なんだか気まずくって、此処に来るの避けてたのよねえ……」

ほう、と溜息を吐いた果林は唇を尖らせた。

「てっきり、十さんはあの綺麗なお姉さんと付き合ってると思ってたから。でも、そっか……そういうことが無かったから、十さんはステキだったのかなあ」

「?……えーと、どういう意味です?」

訊ねたハルト以外の二人も顔を見合わせている。果林は虚空を眺めて言った。

「既婚者ならではの落ち着きっていうのかしら。私だって二十代の子みたいに若くないし、……あからさまな男女関係とか、性的にギラギラしてるのって苦手なの。恋愛対象として見られない方が落ち着くっていうか」

今度は未春と目が合う。

十とさららは、男女の”そういうこと”なら有った。有っただけではない。有り過ぎた。今すぐオーナーのクズっぷりを暴露してもいいという顔をした二人だったが、彼らのややこしい事情を果林に話すわけにもいかない。

「幼馴染と仰いましたが、男女の関係だったんですか」

「……ハルちゃんて、ハッキリ聞くのねえ……」

「す……すみません」

「付き合ってないよ……ホントに幼馴染。ご近所さんで、お互いの親も知ってて、幼稚園から高校まで一緒だった。仲が良いっていうよりは、腐れ縁って言うのかな。遠慮ナシに喋れる相手だけど、お互いに踏み込んでいないの。好みや趣向も知らないような感じよ」

どうやら倉子が瑠々子を「近しい」と表現したそれに似ているようだ。

「私の家も、あいつの家も、子供の頃から色々あったの。親はどっちも離婚しちゃって……私の母はシングルマザーになってから今も元気にしてるけど、あいつのお母さんは体が弱くて、高校を卒業する辺りに亡くなって。スれちゃってたあいつが本格的にワルになったのはその後。私が十さんに会って、母がやってた保護活動に参加し始めて……連絡しなくなったのもその辺りかなあ……」

ふむ。鷲尾が果林のことを好きだったのなら、十を恨んでもおかしくはない。

だが、その為に実乃里を狙うのは少々逸脱している気はする。果林が十とは関係していない以上、直接伝える方が効果的だ。実乃里の件と今回は別の話なのだろうか?

思案顔になるハルトに対し、果林がコーヒーをひと口飲んでから小首を傾げた。

「ハルちゃん達が鷲尾を知ってるのはどうしてなの?」

「最近、十条さんの娘の実乃里ちゃんが、彼の関係者に襲われたんです」

「えっ!」

「助けが入ったので、何事もありませんでしたが」

「……そう……良かった……あいつ、なに考えてんのかしら……」

身内の不始末でも聞いた顔の果林はコーヒーを手に押し黙った。

彼女をちらと見た未春は、呑気な顔でカップを傾けていた力也を見た。

「リッキー、連絡してくれた件だけど、」

「あ、そうだった! 未春サン、俺どうしたら~~!」

急に思い出したらしく、すかさず泣きつく力也に、未春は呆れたような顔をした。

「俺がその相談に乗れると思う?」

御尤もな指摘に、ハルトも頷いた。

「そうだぞ、リッキー。コイツはクジャクのオスみたいに顔で集めてるだけだぞ」

正論を言ったつもりだったが、何故か未春はこっちを睨んだ。

「確かに……未春サンは顔が良いッスもんねえ……」

「いや、リッキー……前にも言ったが、リッキーは良い面構えしてるよ。未春を参考にしなくたって、十分モテると思う」

頭を掻くハルトに、未春も頷いた。

「さららさんも『爽やかで優しい』って言ってたよ」

「ハイ……さら姉は優しいから……皆に言われると嬉しいスけど……」

照れ臭そうにする力也は、根本的に良い奴だ。そこまで親しいわけでもない果林の助けに入る度胸もある。彼がモテないのなら、一体、日本の女性は何が必要なのかと疑問視してしまう。

それとも、顔だけのクズに引っ掛かる程、日本の女は見る目がないのか?

「モテたい話なら、ブラックに相談すれば?」

未春の提案に、力也は目をぱちぱちさせる。

「こないだの俳優さんみたいな人スか?」

「それ……俺も一瞬考えたが、あいつこそ参考にならない気がする……」

あの誰彼構わずの行動にテクニックがあるならまだしも、完全に見た目で引っ掛けている男代表ではないか。ハルトのげんなり顔に、未春は平然と言った。

「でも、ブラックは俺と違って声を掛ける方だから、いいかもしれないよ」

「そうかもしれんが、そもそもリッキーはモテたいんじゃないだろ? 気になってる相手にアプローチする方法を知りたいんじゃないのか?」

「そ、それはそうですけどォ……」

もじもじとする姿は、さららで火傷をした元警察官によく似ている。

葉月はづきくん……だっけ、誰か気になる子が居るの?」

清聴していた果林の微笑ましそうな問い掛けに、力也が電気を通されたように双肩を跳ねさせ、どぎまぎと恥ずかしそうに頷く。

「そうなのね。ハルちゃん達が言う通り、とっても男前だと思うよ。それなのに、私の所為で怪我させちゃってごめんね……」

改めて申し訳なさそうにする果林に、力也は慌てて手を振った。

「い、いえ……! コレは俺が出しゃばったからで……!」

「ううん、いくらなんでもこれは良くない! やり過ぎよ!」

突如、意を決した様子で果林は言うと、タン!とカップを置いて立ち上がった。

「一般人に手を上げるような連中とつるんでるなんて――完全に社会のゴミじゃない! 私、ちょっと行って文句言ってくる!」

婦女子の高らかな宣言に居合わせた三人は焦った。いや、未春は表面上は非常に静かにしていたので、二名が同様に立ち上がりながら制止する。

「そ、それはマズいんじゃないスか……!」

「Ah……Wait、えー……果林さん……俺もやめた方が良いと思いますが……!」

下出に出たハルトをキッとした視線が見た。

「ハルちゃん、ああいう性根が腐った奴は警察の言う事なんて聞かないの。きっと、周りの誰もあいつに意見しないんだわ……いっぺん、叱り倒してやらないと……!」

「いや、ですが……」

「心配しなくていいよ。これでもけっこう頑丈だし、あいつをボコボコにしたことだってあるんだから!」

叱り倒すのではなく、殴り倒す勢いの果林の剣幕に押されつつ、ハルトは例によって溜息を通り越して頭が痛くなってきた。

ボコボコと言うが――喧嘩はしていないんじゃなかったのか?

悪党が殴られるのを止めるつもりはないが、一般女性がやるというなら話は別だ。

ハルトは柔そうな拳で息まく果林を抑えるように両手を浮かせて言った。

「……あの、苦情を言うにしても、警察の出方を待ちませんか? 今回の件で、鷲尾が逮捕される可能性は低いですが、厳重注意や、別の件で捕まることがあるかもしれません。今日の件が落ち着くまでは、関わらない方が良いと思いますよ」

「でも、ハルちゃん……」

「今度のことも、山岸さんが顔見知りだったからこういう形になったと思います。普通は被害者側も事情聴取を受けるものですよね?」

こちらもソフィアの銃撃事件で、事情聴取は経験済だ。カツ丼はおろか水一杯出ない面倒な拘束を果林も知っているのだろう、わずかに顔を強張らせる。

「果林さん」

止めを刺すように、未春がぼそりと言った。

「雪が降りそうだから、今日は帰った方が良いと思うよ」

つられるように一同が見た店の外は、昼を過ぎて間もないというのに厚く重い雲が空を埋め尽くし、辺りは薄暗い。

未春の一言に応えるように、ひらりと風花が舞った。




 隣席にトン、とホットドリンクのカップが置かれたのは、大きな窓の外に雪がちらついたと思った時だった。午後一時を回った大手ファーストフード店の、窓に面したカウンター席はほぼ独り客で埋まっていた。

早さと安さ以外は気を遣わない筈の店だが、床に固定されたやたらにつるつるした丸椅子や、太った人間はお断りと言わんばかりの手狭な距離感は、どうしても隣客が気になる程度に近い。

幸い、カップを置いた客はコートを纏って尚スレンダーで、こちらには微塵も触れることなく座った。トレイも番号札も無い辺り、ドリンクだけのようだ。

――居るよな、ファーストフード店をカフェみたいに利用するやつ。

盗み見た客はすらっとした若い男だった。すっきりした面差しの雰囲気は大学生のようだが、手ぶららしく、バッグの類はおろか、財布らしきものも持っていない。

まあ、今時の若者は、スマートフォン一つ、或いはその機能を有した時計でもあれば出歩けるか。

気にせずハンバーガーにかぶりついていると、隣席の青年はドリンクを飲みながら、やはり持っていたスマートフォンを眺めている。静かで都合がいい。飲食店でやたらに香水の匂いを漂わせる奴や、箸が転がるだけで可笑しいガキ共は鬱陶しくて仕方が無――……

「ね、なんでモノマネやめちゃったの?」

店内BGMをバックに横から来た唐突な問いに、男はぎょっとして振り向いた。

いつの間にか、隣の青年がテーブルに頬杖ついてニヤニヤとこちらを見ている。

「ま、君が一番似てなかったけどね。似せる気も無かったんでしょ?」

すらすらと知り合いのように喋り始める相手に、男は引こうにも動かない椅子の上で身をずらした。

「な……何の話――……というか、お前、誰……?」

「お、とぼけちゃう? じゃ、これドーゾ」

おどけた調子と共に、綺麗な人差し指でテーブルに滑らされたメモには、細かな字で何かがぎっしり綴られていた。それが自身の子細なプロフィールだと気付いて青くなった男に、青年は中性的な顔立ちを微笑ませた。

「ねえ、ニセッキーくん。なんで『葉月力也』をやめちゃったのか教えてよ」

青年の声は囁くように小さいのに、店内を陽気に流れるポップスやラジオ番組めいた音声を越えて耳に届く不思議な声だった。

「ニ、ニセ……? あ、あんた……誰だ? 公安か?」

「ウフフ、俺は誰かな? それはあんまり関係ないことだけど、警察や公安じゃないよ。もっと良心的で、もっとヤバイものってとこかな」

「こ、公安じゃないなら、関係ないだろ……!」

残っていたものを口の中に忙しく搔き込むのを、青年はにやけ顔のまま眺める。

「そう言われてもさあ、変なんだよね。君が辞めた筈なのに、『葉月力也』が”もう一人”確認されたわけ。どして?」

焦って飲み込んだポテトが喉につかえてむせた。ダイジョブ?などと言いながら、ひょいと眼前に差し伸べられたのは、青年のスマートフォンだ。

そこには画像――ではない、動画だ。防犯カメラの映像らしきものが映っていた。

”あの日”、自分が監禁されていたビジネスホテルから慌てて出た時のものだ。

「これ見たウチの関係者はさ、君がホテルに入ってから出たと思ったんだけど、実際は君は既にホテルに居て、入って行った奴は別人だったんでしょ? おかげで君を追っ掛けたが為に、ホテルに残っていたこの人物はどっかに行っちゃって行方不明。コイツはどこの誰なのかな? 君の同僚?」

「……し、知らない……!」

例の男の言葉が甦る。


――僕と会った事は誰にも喋ってはいけない。君が此処に居たことも、今まで何をしていたのかも、喋ってはいけない。いいね?


――日本じゃ、殺すより金を渡した方が楽だって聞いたから――


端々に散った物騒な言葉と、最初に拘束された際と、後ろから掴まれた時の万力のような力。

恐らく、喋ったら……あの男に殺される。

どうやってかはわからないが、きっと、注意を払ったところで殺される。

怯えを表さぬよう、トレイの上のものを口に運び、慌ただしく立ち上がろうとした。

青年は窓の方を眺め、独り言みたいに言った。

「『知らない』か。それは危険な返事だと思うよ」

”危険”の言葉につい振り向いてしまうと、青年は眼下から微笑んだ。

「君がホテルを出た直後、殆どまっすぐカット専門の理容店に行って坊主にしちゃったのも俺らは知ってるわけ。それだけじゃない……被っていた帽子も、持っていたバッグも全部、今持ってるのに買い替えたろ? そもそもモノマネの為に買い揃えた物で、やる気は無いにしても律儀に演じてたのを急に辞めちゃったのは、理由があるんでしょうに。このホテルで入れ替わったのは、そうした方が君にとって都合が良いか……”そうしないと問題がある”ってことだと思うんだけどなあ」

冷や汗が背筋を垂れた気がした。

「い……言えない……!」

「フーン、『言えない』んだ。『言いたくない』じゃなくて?」

「ッ……!」

こんな奴と話していられるか――狭い所からもがくように立ち上がり、ダストコーナーでトレイの上のものを構わずぶち込んで、階段を逃げ下りた。狭い通路を駆け下り、出口に出る。アスファルトへと飛び出した刹那だった。

ゆらりと現れたスーツの男にハッとしたのも束の間、強い力で腕を取られた。

大慌てで振り払おうとしたが、微動だにせず、緊張感のある声が低くも鋭く言った。

「静かに。貴方は狙われています」

「ね……狙われ……?」

さっきの奴のことか? そう思いながら頭を巡らせるが、先程の青年は追ってきてはいなかった。ファーストフード店の前は、並んでいる学生に高齢者、子連れのファミリー、デリバリーサービスの業者が大量の注文品を受け取るなど、ごくありふれた光景だ。ぐるりと見渡してから見た相手の顔は、厳しいが悪人には見えない。

しっかり着こなしたスーツは上等で、声や仕草は一流の接客業をする人間のように落ち着いて見えた。今度こそ警察? それとも公安?

もはや頭が追い付かずにフリーズした男に、男は腕を掴んだまま厳かに言った。

「こちらにどうぞ」

伴われるまま、すぐ傍のパーキングに停めてあった車に、ほぼ引き込まれるように乗り込むと、男は目を見開いた。

「やあやあ、ドーモドーモ」

さっきの青年だ。当然のように車内に座って手を振る姿に、真昼の幽霊でも見たような顔をした男は声も出ない。

「そんなビビんなくても、とって食いやしないから座りなよ」

「……あ、あんた……一体どっから……?」

「あ、そゆこと? タネも仕掛けもないよ。君が彼に驚いてる間にするっと抜けただけ」

と、いうことはあの時、気配もなく殆ど真後ろに居たか、本当にわずかな隙に出たことになる。もはや恐怖よりも舌を巻いて驚く方が勝ってしまった男は、疲れ果てた様子でシートに座った。伴ってきたスーツの男が手慣れた動作でドアを閉め、運転席に乗り込むのを見守るしかなかった。

「俺が狙われてるって……どういうことだよ……?」

呻いた男に、隣の青年がきょとんとした。

「どゆこと?」

「へ? だってさっき……」

「失礼。あれは嘘です」

「は……⁉」

目を白黒させていると、青年が手を叩いて面白そうに笑った。

「そういう嘘つくんだねえ」

「機転と言え。怯えさせては面倒だ」

さっき食べたものが戻ってきそうな顔をしていると、青年がひらひらと手を振った。

「安心しなよ。俺は適当だけど、彼は適切なタイプだから頼りになるよ。さっき俺が聞いたことをちゃあんと喋れば、怖いものから守ってくれるさ」

「ま……守る……? 本当に?」

「貴方が”自ら行った事案”による報復以外の身の安全は保障しましょう」

硬質の声で述べられた一言に、男は青くなったが、『葉月力也』を演じていた――否、他人の顔をして好き放題していた頃のことは申し開きの余地はない。故に、今回の監禁の件で警察に行くことも適わなかった。

「わ、わかったよ……話すから……」

シートに沈み込むような様子で、男はぽつぽつと話し始めた。

謎の男に監禁されていたこと、その男が葉月力也そっくりの髪型に整え、整形にも匹敵するメイクを施して戻ってきたこと、姿形を元に戻すことを強要されたこと、喋らないことを条件に百万の札束を受け取ったこと……

静かに聞いていた二人だったが、百万の辺りで青年が手を打った。

「百万! 口止め料としちゃ、なかなかイイね~わかるよぉ~……俺もお金大好き」

「そのお金、今も持っていますか」

運転席からの鋭い問い掛けに、男は頷いた。

「あ、ああ……なんか気持ち悪くて、手をつけてない……」

「素晴らしい判断です。同じ金額と交換したいのですが、構いませんか」

言うなり、スーツの男は返事を待たずに車のダッシュボードを開き、そこからさほど大きくもないケースを取り出すと、鑑定士のように手袋をはめてから、先日見たのと全く同じ束を取り出した。

「どうぞ、ご確認下さい」

何でも無さそうに先に手渡され、男は操られるように受け取り、あの男から受け取ったものを手渡した。こちらがのろのろと確認する中、男は銀行員かと思うような手慣れた動作で札束を広げて枚数を確認し、別のケースに収めた。

「他に、何か気付いたことはありませんか」

「気付いたこと……? そう言われても……」

おおよその外見は伝えた。外国人という見解も……

「上手く言えないけど……あの男……なんか、変な感じがしたんだ。すごく穏やかな様子で、優しい雰囲気だと思ったら……急にめちゃくちゃ怖く感じて……」

「あー……なるほどねえ……わかるわかる」

何故か青年が頷き、怖かったよねえ、と親身な調子でぽんぽんと肩を叩いた。

「お、俺……喋っちまったけど、本当に守ってもらえるのか?」

「そう言ったじゃん。君自身の問題以外は何とかするって」

「そ、そうか……」

「今、我々を見ている者が居ないかを見張っているグループが居る。貴方は彼らに見張らせます。気になることがあれば此処に連絡を」

運転席から差し出された電話番号だけが書かれたメモを、男は素直に受け取った。

「では、ご利用の駅までお送りしましょう」

何の疑いも無く駅まで送られ、男はどこか気が楽になった様子で降りて行った。

頭さえ下げていくのに片手を振ってから、青年はシートにもたれて笑った。その笑顔は、男に声を掛けていた時よりも朗らかであり、酷薄でもあった。

「――で、どーだったの、室ちゃん?」

「外傷を負った自覚は無かったし、電波センサーには引っかからなかった」

振り向かずに答えた運転手――室月むろつきは何かの装置を操作してから、静かに車を発進させている。青年はつまらなそうに口を尖らせた。

「フーン、映画であるじゃん、鼻から入れる小型爆弾とか。ああいうのは?」

「傍受できる装置や危険物を仕込まれていた可能性は低いが、こちらも全てに対応はできない」

「ま、あいつに爆弾なんか仕込まれてたら、俺らに喋るぞって時にドカンの方が効率いいよね」

物騒なことを言う青年に、室月は眉を寄せて首を振った。

茶話さわ、その”効率”はテロリストや組織犯罪の発想だ。殺し屋とは違う」

「あ、そっか。そんな小細工要らないか。こっわ」

わざとらしく己の身を抱き締めて言う明香あすかに、室月は険しい顔をした。

「……話の様子からして、監禁した男が『リーフマン』なのは間違いないだろう。仮にもハルトさんの同胞だ、あんな男から情報が漏れることは想定済みのはず。むしろ、俺たちは掴まされた側だと思った方がいい」

「その札束に、指紋があるってことじゃないの?」

ダッシュボードを指差す明香に、室月は「わからない」と呟いた。

「なるべく物証は得ておいた方が良いと思って交換しただけだ。素手で手渡されたと言ったが、本当は違うかもしれない。『リーフマン』は、『木の葉を隠すなら森』の慣用句から名付けられた『かくれんぼの天才』だ。敢えて付けた指紋が別人のものという可能性もあると、十条さんは推測していた」

「へー、ってやんの。”俺ら”とは発想が違うんだろうね」

「演技の点ではお前やピオには及ばないだろうからな。あくまで逃げることに特化しているとの評価だ」

「『リーフマン』ねえ……一体、何しに日本に来たわけ? 逃げてた奴が、ハルトさんが居る国に来たって、悪目立ちして殺されるだけなのにさ」

室月は思案顔で何か言いかけて、バックミラーに視線を動かした。

「――茶話、黙っていろ。後ろは見るな」

短い指示に明香が瞬きひとつ、返事を待たずに室月は唐突にハンドルを切った。レクサスの黒い車体は違反スレスレのスピードで素早くビルに隠れた角に滑り込むと、急に人が減った細道を駆け抜けた。慣れたタクシー運転手とて、此処までスムーズにいくかはわからない。しかし、路地をジグザグに走る背を、一台の車がしつこく追ってきていた。速度に体を押し付けられていた明香が、指示通りに大人しく前を向いたままルームミラーに映った車を見つめた。黒い車だ。日本車ではない。光の加減か、薄暗い運転席の人物は確とは見えず、やせ型の様だが男女の区別もつかない。

「オオウ~~室ちゃん、あれってひょっとしてひょっとする?」

緩やかに次の角でハンドルを切った室月は返事をせず、追跡車がやって来た刹那にタイヤを唸らせて急速にバックした。これには相手も驚いたのか、音が出る程の急ブレーキをかけた。その前を掠めんばかりにバックで蛇行してきたレクサスが脇をすり抜け、やって来た角を利用して早送りのように方向転換すると、別の道へと一目散に走り抜けた。軽い悲鳴を上げて身をシェイクさせられた明香が顔を上げると、ミラーには諦めたのか迷いでも生じたか、動かない車が見えたが、すぐにこちらが角に曲がって見えなくなった。

「黙っている様に言った筈だ。舌を噛まなかったか」

カーチェイスを終えたばかりの冷徹な問い掛けに、明香はニヤニヤ笑いながら両手を頭の後ろで組んでシートにもたれた。

「ダイジョーブ。いや~~さっすが室ちゃん、惚れ惚れするドライブテクだね」

「まだ油断できない。ナンバーは見たか」

「もー、後ろ見るなって言ったのに欲しがりさんなんだから。もちのロン、見たよ」

「十条さんに連絡してくれ」

オッケーという軽やかな返事を聞きながら、室月はバックミラーを確認した。

そこには追尾して来る車はもう居なかった。

「あ、トオルさん? 俺たち百万で釣られちゃったよ~~」

明香の呑気な報告を聞きながら、室月は隙のない目を周囲とミラーに集中させた。

追って来る者は居なかった。代わりに、重い雲が覆う空から、ひらひらと白いものが舞い降り始める。

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