7.Intersection.

 このダイニングテーブルは、定期的に奇妙な面子で囲む宿命らしい。

「おかえり、ハルちゃん」

キッチンに向かいながら言った未春みはるに対し、思った通り、とおるが使っていた席に腰掛けていた男は、さららを送迎して戻ったハルトに微笑んだ。

てっきり夕飯まで居座るかと思った明香は、用事が有るとかで帰ったらしい。

片付いたテーブルの上には、トニ・モリスン作の小説『Belovedビラヴド』が置いてある。その手前で、もともとコンパクトなザ・チェアが更に小さく見える大男は、黒に覆われた広い膝に猫を二匹乗せていた。どちらもメス。

「猫をもたぶらかすか……」

「ん?」

「……何でもない」

有難いことに錆猫のビビは飼い主の帰宅に気付いて飛び降りてきたが、雉シロのスズは微動だにせず、どっしりと香箱座りになっている。

「くつろいでるな」

「温かいからじゃないか?」

「確かに、ブラックはあったかい」

他人には聞かせられない評価をした未春の背をハルトは嫌そうに見た。

「手伝うことあるか?」

「大丈夫。もう出来る。……さららさん、何か言ってた?」

「ああ。今夜は好きなもの作るってはりきってた。明日は休みだし、ちょうど良かったんじゃないか」

「良かった。哲司てつじさん、元気だった?」

「ああ、室月むろつきさんの親父さん、初めて会ったけど、そっくりだな」

はじめましてとお辞儀をした姿は、スーツこそ着ていなかったがよく似ていた。

勿論、七十代だという男は髪も白い物が目立ち、顔には往年の皺も刻まれていたが、それでも思わず、息子である修司しゅうじと似ていることを指摘すると、ここ数年で急速に似てきたと恥ずかしそうに苦笑した。笑うと更に似て見えた。

元は殺し屋だったからなのか、隙のない雰囲気の男は老いよりも経験を感じさせ、過去に痛めた足は未だ痺れがあると言うが、ハンディがあるようには見えない。

こじんまりした賃貸物件も、男所帯でありながら一歩入ってわかる程度に小綺麗にしてあった。

未春は鍋の中を見つめながら、少し考えるような間を置いて頷いた。

「哲司さんは、良いお父さんだと思う」

「そうだろうな。室月さんやさららさんを見ればわかる」

修司は徹頭徹尾、きちんとした教育を受けた男だし、策謀の中を生きてきたさららの性根が優しく穏やかなのは彼のおかげでもあるだろう。

料理上手な彼女のこと、腕によりをかけて振舞うに違いない。

「うちはカレーか。さららさんが残念がるな」

「別に、いつでも出来るし……」

ぼそぼそと呟く未春のカレーは、その叔父を中毒死させそうになるほど美味い。日本の関東でド定番という豚肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、市販のルー二種から構成される以外、特殊なことは何も行われていない――にも関わらず、何故か他人には真似できない未知のカレーだ。意外と匠なのが、よく一緒に登場するサラダに乗ったゆで卵。固すぎず柔らかすぎず、真っ黄色の中心はとろりとしている。

「とんでもなく美味い」

カレー用のスプーンさえ小さく見える男は、本当に美味しそうに食べた。

「ミズ・穂積ほづみの料理も美味かったが、未春も達人だ」

「……料理はハルちゃんも上手いよ」

照れているらしい未春が言うと、ブラックは黒い双眸に尊敬を映してハルトを見た。

「ハルもか。日本人は器用だというが、本当だな」

「よせよ、俺は人並み程度。お前こそ、軍事会社でやらされてたんじゃないのか?」

「当時は焼くか煮るか、そんな程度だ。今は便利な物が沢山あるから」

「あー……そうか、イギリスは冷凍食品が豊富だからな」

イギリスの家庭の味=冷凍食品はあながち間違ってはいない。国民食たるフィッシュ&チップスは無論のこと、パスタにピザ、何ならハンバーガーまるごとなんて物も存在する。無論、イギリス人が料理嫌いというわけではないし、パイやプディングなど、手の込んだ家庭料理は存在するが、家によっては連日、冷凍ということもある。

同様に、電子レンジを駆使し、出来合いやファーストフード、24時間サービスが軒を連ねる日本とて例外ではない。現状、食べる為だけならば、料理はさほど必要のない作業になりつつある。

「冷凍食品は優れているが、満たすのは腹だけだ」

何やら洒落たことを言い、ブラックは大盛のカレーをあっさり平らげた。

「三杯はいける」などとフードファイターじみたセリフを吐いた男に、既にその食欲を目の当たりにしている未春がおかわりとは思えない量をよそうと、嬉しそうに両手で受け取って礼を述べた。

「最近は不味いものに出くわす方が珍しいが、短期間に美味いものばかりに会うのは久しぶりだ」

「ブラック、お米が好きなんだね。穂積さんのとこでも山盛りで食べてた」

「あの機械と一緒に持って帰りたい」

炊飯器を指差す男に、ハルトは苦笑いで首を振った。

「やめとけ。せっかくのシックスパッドが消えてなくなるぞ」

「それはまずい。ボスと師匠に叱られる」

「うーん、スターゲイジーはともかく、ラッセルは厳しそうだな……」

ブラックは薄笑いこそ消えなかったが、急に食べるスピードが失速した辺りにあの英国紳士の厳粛さが窺える。コーラとクリスプが大好きなスターゲイジーは大らかだろうが、元上司のアマデウスも生活態度には口うるさかった。英国紳士代表格のラッセルに至っては厳しいどころではあるまい。かつて、ハルトが育ったマグノリア・ハウスに指導者として来ていた彼は、節制を申し付けられた生徒がこっそりチョコバーを食べた際、笑顔で逆さに吊るして吐き戻させたことがある。見せしめ以外の何ものでもなかったが、小生意気な少年たちを黙らせるには十分な効果だった。

「ハルは何が好きなんだ?」

「俺? 俺はわりと何でも派なんだが――……」

目下のカレーを見下ろした。

「今は、このカレーかなあ……」

「――は?」

何故か対岸の未春が鬼気迫る形相になり、ハルトは肩をすくめた。

「なんでそんな顔で睨むんだよ」

「なんでって……」

目には満々と抗議を滾らせながら、小さく開いた口からは何も出ぬまま目を逸らす。

「……なんでもないけど」

何なんだ、変な奴。訝しい顔になるハルトと、もくもくと食べ進める未春を交互に見ていたブラックは、未春に訊ねた。

「未春はどうだ?」

問われた男はちらりと視線をもたげ、難しい顔で口を動かしてから呑み込んだ。

「俺は……穂積さんやさららさんが作るものは何でも好きだけど……」

気が利かないとでも思ったか、「ハルちゃんのも」とぼそぼそと付け加え、どこか自信なさげに言った。

「でも……ひとつ選ぶなら、先生のお味噌汁かも」

「味噌汁?」

今度はハルトが意外そうな声を上げ、未春は憮然と頷いた。

「ハルちゃんが言う、このカレーと同じだと思う。同じ味噌で先生が言う様に作っても、同じ味にならない。もう何年も食べていないから、あんまり覚えていないけど」

「思い出の味なのか。良い話だ」

素直に言うブラックに、未春は殆ど無表情ながらも少し嬉しそうな顔をした。

先生というのは、児童養護施設で育ててくれた守村もりむらという女性のことだろう。

「明日、行ってみようと思ってるんだ。ブラック連れて」

「え……なんでこいつを連れていくんだよ?」

思ったより咎める調子になったハルトに、未春は事と次第を話した。

現在はアルツハイマー性認知症を患う守村恵子けいこが、突然、謎の外国人との関係を話したこと。事実かは不明だが、クォーターの孫が存在する可能性が有り、彼女が完全に忘れてしまう前に会わせてやりたいと思っていること。

写真を見せようかと思っていたが、彼は明日の午前中は暇らしいので、思い切って会わせようと考えたこと。

ハルトは難しい顔をした。白人とアジア系の血を引いていると思しきブラックに可能性があるのはわかるが、これは勘違いを招くことも考えられる。正常な人間でも、他国の人間――例えば中東やインド、アフリカ系、白人でも個人を見分けるのが苦手なことはまま有るし、彼女がその外国人と別れたのは何十年も前の話だ。

下手に似ていて、面影を感じられるのもあまり具合が良くはない。

「ハルちゃんの知り合いにも、『エディ』って名前の外国人は居る?」

「それは――居るなんてもんじゃない。『エディ』なんて名前の奴は山ほど居るし、エドウィンやエドワードなんかの愛称にも使う。年齢も判断が難しいぞ」

「わかってる。……でも、可能性があることは、試してみたい」

「十条さんは、このことは知ってるのか」

「この間、聞こうと思ってたんだけど……」

先日の様子では無理か。ハルトは腕組みして唸った。

「……お前たちが良いなら俺がとやかく言う事じゃないんだが、ひとついいか」

「うん」

「守村さんの世話は、十条さんが手配しているんだろ。彼は彼女が何処の誰で、誰と関係していたのかなんて全部知っている筈だ。お前が彼女をどう思っているのかも含めて。その関係者が来日して、それが会わせた方が良い相手なら、とっくにそうしてると俺は思う。反対に、まずい相手なら、俺たちはこうやってメシは食っていないし、この家に泊めるのも阻止するだろうな」

つまり、この男と関与がある可能性は低い。相手があの十条だけに、こちらの行動を知っての傍観だと深読みする必要があるかもしれないが、それは考えだしたらキリが無いことだ。

「……単に、十さんがどうでもいいと思ってるとしたら?」

「無いとは言わない。……だが、お前に関して、あの人は常軌を逸してる。関係性の深い守村さんに対して、無策とは思えない。俺は今の状態は、無関心ではなく問題が無いから放置しているだけだと思う」

「ハルちゃんがゼロだと思わないなら、俺はそれでいいよ」

信頼なのかよくわからない評価に、ハルトは呻いて首を擦った。

「まあ……女性にとっちゃ、訪ねて来て嫌な相手じゃないだろうが……」

いつの間にかカレーが綺麗に消えた皿を前に、涼しい顔の男は微笑んでいる。

「お前、心当たりが有りそうなのか?」

「いや。俺は可能性は低いと伝えたが、未春がそうしたいのなら付き合ってもいい」

「英国紳士は親切だな……良いけどよ……、一体、日本に何しに来てんだ……?」

「悪いが調査内容は話せない」

「……知ってる」

決まり文句にうんざりと答え、ハルトはカレーを口に運んだ。

「ハルちゃんも行こうよ」

「え……俺? お前、俺がクォーターに見えんのか?」

「見えないけど、そうじゃなくてもいい。先生が喜ぶと思うから」

「さららさんもそんなこと言ってたな……明香の方がいいんじゃないか? 知り合いだろ?」

「あっくんは年末に会ってるし、明日は忙しいって」

断わる理由は無いが、この面子で行ったら、見舞いではなく殴り込みか、俳優の巡業――自分はさしずめマネージャーか……いや、そんなもの有るのか?――とにかく悪目立ちしそうなのは確かだ。

日本に居る間は羽目を外す気らしい男が三杯目にスプーンをつけるのを眺めつつ、ハルトはぼやいた。

「わかった。こいつの面倒はお前が見ろよ」

座っているのは大型犬であるように告げると、未春は少しだけ嬉しそうに頷いた。




 「良い部屋だな」

四方を1メートルずつ増やしてようやく丁度良さそうなサイズの大型犬ならぬ紳士は、未春の部屋を見渡して言った。

どちらかといえば、未春にとってもこじんまりとした部屋だ。

ややくすんだ色に塗られた床板を、無機質な白壁が囲んでいる。部屋の半分近くは木製ベッドが占め、ヴィンテージ調の木材と黒のアイアンで作られた棚が端に寄り、同じく黒のアイアンがすらっと立つ間接照明、さほど出番のない壁に向かった机と椅子、あとは季節ものの服などが納められたクローゼット。悪くないと思っているが、良いという感想も違和感がある。そもそも、この部屋は叔父の十が設計依頼をし、家具やカーテンの類を買い揃えてから未春を迎えた。

自室でありながら、自分で選んだものは数える程しかない。

ブラックは何をもって良いと言ったのだろう。

彼は興味深そうに周囲を眺め、腰高の棚に置かれた写真に身を屈めた。

一枚だけ、シンプルな黒の写真立てに納められていたのは、ハロウィンの時にDOUBLE・CROSSのメンバーと撮った写真だ。体調不良から戻ったさららを中心に、スズとビビを従えた倉子、肩を組む力也と明香も居る。そして、十と自分に挟まれて居心地悪そうな作り笑いのハルト。

未春が置いた写真ではなく、先の件でさららに部屋を貸した際の置き土産だった。

ブラックは何も言わずに、例の薄笑いを浮かべたまま、写真を見つめた。

「それ……俺が飾ったんじゃないから――……さららさんが置いたんだ」

何故か言い訳した部屋の主に、男は変わらぬ表情で振り向いた。

「素敵な写真だ」

「……まあ……うん……」

ストレートな言葉に、今度は何故か落ち着かなくなって返事を濁す。

気を紛らわせるように、改めて大きな体格とベッドを比較し、未春は首を捻った。

「やっぱり……あんたには、狭いかな?」

元は十の部屋だったさららの部屋を借りるのも考えたが、追い出しておいてベッドも借りるのはきまりが悪い。しかも寝るのは男二人だ。さすがに未春もそれがクレイジーな申し出なのは理解している。

ブラックは吟味する様子もなく、首を振った。

「上等だ。俺はこの床でも問題ない」

「ふーん……」

やはり、変わった男だ。極限状態に置かれると、皆こうなるのだろうか?

「……ひとつ、気になってることがあるんだ」

独り言じみた未春の言葉に、ブラックが促すように軽く肩を上下させた。

「俺、なんで、あんたと寝るのに抵抗が無いんだと思う?」

「ん?」

自分の意志を代弁しろとでもいうような問い掛けに、ブラックは首を捻った。ごく自然にベッドに腰掛け、隣を叩いて座る様促す。友人にしても少々近い距離感だったが、既に同衾している為か、未春はすとんと腰を下ろした。

「穂積さんの所でわかったと思うけど、ブラックはトオルさんに似てるんだ。俺はその……あの人に触られるのは、なんていうか――あんまり得意じゃなくて……」

申し訳ないので明言は避けたが、香港の娼館での嫌な記憶として鮮明なそれに、この男はどちらかといえば近い。十分すぎるほど男らしい体つきと、外国人によくある濃密な香水の香りは、現在の悪夢に結び付きやすい筈なのだが。

ブラックは正面の棚に乗った写真を見つめた。

「未春のそれは、PTSDかもしれないな」

「PTSD? 戦闘ストレスみたいなもの?」

「Combat stress reactionか。近いが、こちらはもっと一般的なPost Traumatic Stress Disorder(心的外傷後ストレス障害)。多くは大きな災害や命に関わる恐怖体験、強姦や暴力事件の被害者などが発症することがある。過去の恐怖のフラッシュバックや、悪夢、不眠、不安や緊張が主な症状だ。うちのスタッフにこの症状に悩んでいる者が居る」

「その人……どうしてるの?」

「俺は各地を回っていてあまり会わないが……今は日常生活は人並みに送れている筈だ。この障害は数カ月で緩和するタイプと、反対に重くなるタイプが存在するそうだが、彼女は後者らしい。ただ、うちに入社後は調子がいいと言っていた。ボスは何でも聞いてくれるし、周りはクレイジーな分、気を遣わない。突然、社内で震え上がって叫んだところで動じるような連中じゃないし、理解がある分、対応も早い」

「そう……何をされた人か、知ってる?」

「半年に渡る監禁状態での暴行と強姦」

喉に何か詰まったような表情で眉を寄せた未春に、ブラックは笑みを浮かべたまま首を振った。こういうことを笑顔で言える辺りにこの男の異常性が窺えたが、人の事を言えた口ではないので未春は静かに耳を傾けた。

「犯人は当時、十七から十九歳の少年三名。”年齢を加味した”拘禁刑が科せられたが、全員、刑務所を出たその日に死んだ」

「……BGMが?」

「Yeah. 仕事をしたのは俺ではないが、どいつもあまり――いや、かなり嫌な死に方だと思う。ボスが嫌いなタイプの連中だった」

「そこはトオルさんと同じだね」

直接目にしたのは数えるほどだが、十も弱者に暴力を振るった者には凄惨な死を与える。いつかの煽り運転の常習犯のように依頼主が希望する場合もあるが、十は大抵、理念に基づいて殺害方法を決めている。常人を凌駕する身体能力を持ちつつ、拳銃なぞ持っていたのはその為だ。尤も、それは十が受け持った場合だけで、未春は勿論、優一にもそれを強要したことはないと室月が言っていた。

未春は細い溜息を吐いて、写真の方を見つめて押し黙った。

悪夢の原因が過去にあるとして――……自分はその相手を憎んだだろうか?

死ねばいいと、殺してやりたいと、思っただろうか?

わからない。過去の自分が他人のようだ。何もわからず、不快感だけを遠ざける為だけに頭の中を整理して……そんな自分が、知らぬ間に奥にしまい込んでおいた嫌なものだけが、急に出て来たみたいだ。

「未春」

「……なに?」

「もしかしたら、他に原因があるんじゃないか?」

「え?」

「あんたが怖がっているのは、ミスター・十条や、過去の客ではないのかもしれないということだ」

不可思議なものを見るようなアンバーが、深い闇を見つめた。

その色は、ゆっくり瞬いた。

「未春自身が気になっていると言った通り、この点はハルも訝しんでいた。恐怖の在り処が性行為だったのなら、ハルや俺に触れるのも、触れられるのも難しい筈だと。

先程は明香にもあっさり触れていたろう? 今のところ、拒絶反応を示したのはミスター・十条だけのようだが、俺と過ごした翌日には彼にも触れられたと聞いた」

「確かに……そうだけど」

あれは十が二日酔いの天使を見る程に脱力していた為だが、言われてみればおかしい。十を怖いと思っていたら、いくら弱っていても近寄るのは百パーセント無理だ。知らぬ者ならともかく、こちらは随分前から、十が何者か知っている。

優一のアドバイスを受け、穂積の話を聞き、ブラックと話した後、十が自分をどう思っているのか理解したが、怖いと思ったのは事実だ。……なんだか矛盾している。

ハルトに言わせれば、釈然としない状態だ。

「そういえば……優一さんの時も……」

十に恐怖した直後、医師である姉の優里に指示を受けた優一が組手の相手をしてくれたが、敵わなかった彼の事を怖いとは思わなかった。お互いに怪我を負わせる可能性を含んだ上での攻防だったし、痛みも与えられた。

あの優一のことだ、こちらが彼の周囲に害が有ると思えば、きっと殺しも厭わない。

それでも、彼に恐怖は感じなかった。

「じゃあ……俺は何を……?」

わからない。自分のことなのに。

呟いたまま放心した様子の未春の片手を、大きな片手が包んだ。

冷えた指から、身に流れ込むような熱を感じて振り向くと、穏やかな闇が笑った。

「無理に思い出すことはない。さっきも言ったが、時間が解決する場合もある」

「うん……」

頷いたとき、軽く笑んだ男がふと顔を上げてドアの方を見た。

「ハルは、何を作っているんだ?」

「え?」

「良い香りがする。アップル、シナモン、オレンジ……後は何だろう? クローブかな?」

未春は同じようにドアの方を見たが、意識しても、目の前の男から仄かに香るオークモスしか感じない。強いて言えば、音は聴こえていた。朝ごはんの支度をする時のような、鍋を出したり、何かを切る一連の音だ。

「年明けぐらいから時々何か煮てるんだけど、何かは教えてくれないんだ」

ブラックが挙げたものを煮ているのは知っていたが、何故か完成品を出そうとしない。先日はピオに飲ませて意見を聞いていた様だが、納得がいかないらしく、スパイスを替えたりして試作を繰り返している。

「まるで、魔法使いだな」

可笑しそうに言うと、彼は大きな身を横たえてやんわり笑んだまま目を閉じた。

「魔法の邪魔をしては悪い。静かにしていよう」

「魔法……」

魔法の弾丸フライクーゲル』の名を持つ男が、夜な夜な鍋で魔法を煮ている? ……十や明香が聞いたらゲラゲラ笑いそうだ。

「何だと思う?」

隣に身を横たえて、未春は訊ねた。彼は仰向けになった状態で瞑想するように目を閉じ、静かに答えた。

「さあ……わからない。だが、良い香りだ。心が落ち着く」

「……そう」

「きっと、未春の為にやっているんだろうな」

「えっ……?」

意外な声を上げた青年に、ブラックは忍び笑いを漏らして薄く目を開けた。

「それはそうだろう。試行錯誤の段階で他の人物の意見は求めたのに、彼が一番美味いと言った料理を作る人物に訊かないのはおかしい。つまり、あんたに作っているものだと思うが」

「……」

理路整然とした回答に、未春は押し黙った。

――ハルトが、自分の為に何か作っている?

「彼の性格からして、サプライズではないだろうな。納得がいかないものを出すのが嫌なんだろう」

「確かに……そういうとこ、あるけど……」

「楽しみだな」

そう言って目を閉じた男を見つめ、未春は倣う様に目を閉じた。

なんだか身の内がざわざわして落ち着かない。耳が熱い気がする。触れてみたが、何ともない。香りもそうなのかもしれないが、その音は心地良かった。

最初の何かを切る軽やかな音から始まり、今はコトコトと何かが煮える音、それをゆっくり混ぜる音、鍋を見つめながら何かを飲み、本でも捲っているらしい音。

何故か、昔――施設に居た頃、初めてインフルエンザで寝込んだときを思い出した。

あの時、未春は不調もあるが、他の者に移してはと守村の自宅に招かれた。

先生に移すほうが嫌だな、と――漠然と思いながら従った。

アパートの小さなリビング&キッチン。その隣の部屋に寝かせられ、熱でぼんやりする意識の中、守村がキッチンで何かを作っている背を見つめ、そこから奏でられる素朴な音を聞いていた。格別、素敵な光景ではないし、音楽ほど整った音でもない。

しかし、どこかほのぼのと明るく、軽快で温かなリズムがある。湯が沸く湯気と音、何かを洗う音と透明な水、厚みのあるくすんだ青い皿に移される音。不安と寒気に苛まれる中、料理の合間に守村が振り返って微笑む。

手の届く距離に穏やかなものが在る。昔も、今も。

静かな演奏でも聴くような気になりながら、眠りに吸い込まれた。




 「末永すえなが

遡ること数時間前。署の廊下で声を掛けられて振り返ると、田城が立っていた。

和のおもむきあるシックな紙袋を幾つか提げている。その内の大きなひとつを突き出し、ぶっきらぼうに言った。

「差し入れ。少ないが、お前のとこの皆で分けてくれ」

「ありがとうございます」

おし頂くと、彼は何も言わずに片手を上げて立ち去った。ちょうど向かいから来た別の署員に声を掛けて挨拶を交わすのを見つめてから、末永は踵を返した。

歩みながら見下ろす黒い紙袋に、レシートらしき白い紙が落ちている。中の箱も黒い中、目立つ白。末永は何もせずに自身の仲間が詰める部屋へと赴いた。一般的な会社員の定時を過ぎているが、まだ働いている者が何人も居る中に紙袋を置いた。

「田城警視からスか?」

人懐っこい後輩が、睨んでいたパソコンから顔を上げてはにかんだ。もともと、気を遣うタイプの田城である。土産は初めてではない。他の連中も作業や話し合いを止めて集まってくる。

「あ、赤坂柿山のお煎餅。コレ美味いスよね~……あれ、末永さん、なんか入ってますよ」

末永は今気付いたといった風に袋を見下ろし、レシートらしきそれを取り上げた。

「見たか?」

「いえいえ、まさか」

「沢山抱えていらしたから、気付かなかったんだろうな」

苦笑する部下に同じような笑みを返し、末永はそれを折り畳んでポケットに収めた。

ちらと見た表記も、紙の質感もレシートそのものだった。

――田城はかなり慎重だ。有難い。

そのまま、末永はいつも通り、残りの業務に取り掛かった。会議に現場、調べ物をして、再び現場、外に居る時間の方が長い男は、いつ食べて休んでいるのかと一緒に行動している部下や同僚にさえ言われてしまう。労働時間そのものは決まっているし、きちんと帰宅はするものの、事件が起きれば深夜だろうと腰を上げる末永は、署内でも有名なワーカーホリックだ。未解決の事件を抱えていると、一日が終わっても仕事は終わった気がしない。帰宅すると、むしろ落ち着かなくなってくる。

末永は上着を脱ぐのももどかしく、例のレシートを確認した。

思った通り、レシートではなかった。わざわざ作ったのか、素材はレシートと同じ感熱紙に、一見それらしい企業名や金額などが並んでいたが、末尾には全く関係ない文言が綴られていた。


ナンシー・アダムズ

調査会社ブレンドの情報でNCAに加入。強盗・恐喝・窃盗・殺人事件でも活躍。

但し、スターゲイジーのことになると大胆且つ危険行動を辞さない。

記録では銃撃事件、私物バイクによるカーチェイスと事故、ギャング下部組織の買収・脅し・扇動・他、捜査を逸脱した行動を起こしている。いずれも死者は出ていないが、建物、個人資産、怪我人が出るなどの被害が認められ、当人に代わって謝罪と賠償をしたのはスターゲイジー本人。現状、彼女は証言通りの休暇中であり、この間の行動に対するNCAの対応は静観と黙殺。イギリス当局は彼女の扱いに戸惑うケースも見られ、当人の保全よりもブレンド社及びスターゲイジーを優先すると回答。

今回の件でも、〇暴や反社を使った事件が起きる可能性大。注意されたし。


末永は難しい顔つきでレシートを見つめていたが、丁寧に細かく裂いて捨てた。

予想通りだ。NCAの回答は事実だろう。

田城は日本警察の要だが、権限の枠で言えばさほど強くはない。彼に対して見栄や嘘を吐く意味はないし、ナンシー・アダムズにとって不利な嘘を述べる意味もない。

だとすれば、彼女が言った件は計画ではなく、”事件”として起きる可能性が高い。

十条、或いはスターゲイジー側がその”事件”の主犯に上げられるとして――果たして、捕まる隙が生まれるかどうか。

過去に失敗している彼女が、どれだけ慎重にできるか。それ以前に、民間人に被害が出ることも否定できない。

静かな室内にひとり黙して、末永は自身の電話を手に取った。

仕事用とも、ナンシー用に作ったものとも異なるそれで、電話をかけた。

割合、すぐに出た相手に、密やかに言った。

綿摘わたつみ、SATに予約を取りたいんだが」

〈予約? おい、うちは居酒屋やホテルじゃない。酔ってないだろうな?〉

頼もしい同期は電話の向こうでせせら笑い、快活でよく通る声を鋭く絞った。

〈聞くだけ聞いておいてやろう。いつだ?〉

「わからない。だが、一週間かそこら……この二週間以内には必ず、暴動レベルの事件が都内で起きる。火器が使われる可能性も否定できない」

〈お前が俺に声を掛けるのはそういう時だけだな〉

気軽に答えた相手はしばし黙っていた。同じ警察の末永とて、彼らの情報を全て把握することはできない。スケジュールでも確認していたような間の後、相手は言った。

〈予約とまではいかんが、一部待機させよう。俺が居なくても、お前の要請で動かせるよう手配しておく〉

「感謝する」

〈役に立ったら良い酒を奢ってくれ〉

苦笑して了解すると、あっさり電話は切れた。

同じ意識を持って働いている同僚を思うと、温かい気持ちが胸に満ちたが、田城の言葉が胸をよぎった。

――警察内、半分。

頼もしく思っていた同期さえ、敵になるかも――或いは既にそうかもしれない……

ひとり、末永は首を振った。

信じよう。

疑うのが仕事でも、仲間は信じるしかない。




 「なるほどねえ……」

十が呟いたのは、掛け軸が掛けられた静かな和室だった。

畳敷きの上に据えられた美しい木目のテーブルを囲んでいたのは、優一と室月、つい先程、遅れてやって来た明香だ。

「あっちはカレーだったかあ……」

厳めしい顔で出た呟きに、優一が呆れ顔をしたのも束の間、明香はニヤニヤと笑いながら手書きのシックな品書きを見ている。ぴたり閉じられた襖の向こうからは、人の穏やかなざわめきと共に、豊かな出汁の香りが漂ってくる。

騒がしくなる前に、室月が苦笑混じりに口を開いた。

「先に注文してきましょう」

「甘やかすな、室月。注文ぐらい自分でさせろ」

即座に切り捨てる優一の傍ら、十と明香は品書きを覗き込みながら既に挙手している。

「僕、大根とがんもと~……つみれと~……ちくわぶと――」

「やっぱ大根は外せないですよね。あ、やば、トオルさん~ロールキャベツあるよ。玉子は食べるでしょ、牛すじも……え、これ全部頼んでいいんじゃない?」

「十条さん……本当に食事に来ただけじゃないでしょうね?」

「優一さんは何になさいますか」

メモ片手に問い掛けた室月を何か言いたげな目が見たが、溜息と共に消えた。

「例の件はどうなったんです?」

注文のメモを手にした室月が個室を出て行った後、優一が嫌そうな顔で訊ねると、十は品書きを見ていたのと同じ目で悩ましそうに答えた。

「ああ、偽物たちの出どころはわかったんだけどさ、ちょっとつつくのが面倒臭そうなとこでさあ~……」

「と、言うと?」

「公安。――正確には、聖景三ひじりけいぞうの息が掛かった連中が飼っていた組織」

因縁の有る名に眉をひそめた優一を眺めつつ、十はテーブルに頬杖ついて溜息を吐いた。

「景三が死亡した後、彼と繋がりがあった連中を整理したでしょ。彼が死んだことで、それぞれ身の振り方を選んでもらったわけだけど……此処はいわゆる、隠蔽そのまた隠蔽の隠れ組織だったわけ」

「取りこぼすとは貴方らしくもない。早くも耄碌もうろくしましたか」

「うう……優一くんの指摘はお腹にキリキリくる……仕方ないでしょ、この組織、ジジイお得意の隠蔽工作用に結成されたけど、一度も使われなかったんだもん」

「一度も?」

「そ。構成員は元役者や役者志望中心で老若男女さまざま……だけど、経験もないから、実力は若手中心のアポロ以下だね。はっきり申し上げて、鍛え直さないと使えない素人集団なんだ」

「そんなものを公安が飼っていたとは思えませんが」

「僕だってそう思うさ。でも、古いお国の関係にはこういう、系統がはっきりしない組織がごちゃごちゃあるんだよ。お金の流れには必要なんでしょ……隠し場所になる無人島みたいなものが」

つまり、予算――否、裏金の行先になっていたわけか。

勿論、その大半は劇団に支払われるわけではなく、誰かの手に入る為の名義として。

「聖グループの急な解散で、担当してた連中は結構焦ったんじゃない? 水の中の話でも、動き回ると水面は揺れるもんさ。あそこのキナ臭い行動に目を付けてたマジメなお巡りさんは居るだろうし、摘発云々されちゃたまったもんじゃない~……って追い出すみたいに劇団を解散させた。けど、放り出された人たちは困るよねえ。かといって、何処に何を訴え出たらいいのかもわかんない……というわけで、最後に命じられてた”役”で釣りをしたってわけだよ。何処の誰かも知らない役で」

「それがDOUBLE・CROSSのメンバーだったんですか。……老害の勘は、さほど腐っていなかったんですね」

「そりゃあ、かつては日本の裏社会を牛耳ってた悪党だもんねえ……僕の足を引っ張ることにかけちゃ、残りの人生賭けてたっぽいし……」

十は改めて溜息を吐いた。

「さっさと捕獲したいけど、一般人である以上、残すと面倒だ。聖グループのことはともかく、僕らのことをどこまで知っているのかわからない。ハルちゃんの偽物が英語を話してる辺り、似せる為に調べている可能性がある――……」

ハルトの話が出た辺りで、唐突に明香が吹いた。

そのまま口を押さえて畳にうずくまって肩を震わせるのを、優一が胡乱げな顔で見ていると、十が吊られた様子で吹いた。

「もぉ~……! あっくん! 笑わないでよ……僕まで可笑しくなっちゃうふふふふ」

「イヒヒ……しょーがないよ~~トオルさん~~……ハルトさんのパチモンまじでヤッバい……ヒヒヒヒ……! 駄目だ、思い出すとツボっちゃうぅぅ……!」

「室月、こいつらをどうにかしてくれ……」

このタイミングで戻って来た室月にうんざりと優一が言うが、事情を聞いた室月も口を押さえて脇を向いた。

「ハルトさんのですか……ハイ、あれは……フフフ……」

「おい、お前もか。一体どんな――……」

彼にしては珍しい程ウケている室月が自身の端末を操作し、優一の前に据え置く。

そこに映っていたのは、見た目だけならハルトによく似た容姿の男だ。

彼が、日本人による精一杯のそれらしい「Oh my God!」と叫んだ瞬間、十と明香が盛大に笑い転げ、優一さえも吹く羽目になった。

「はっはっは、やっば……このオーマイゴッドやっば……!! どこ情報なんよ、コレ……! ハルトさんがこんなこと言ってんの聞いたことねーし!」

「ひゃはははははは……面白すぎでしょ……捕まえんの勿体ない……オモロすぎる……お腹イタイ……!」

ゲラゲラ笑う二人に対し、対岸の二人も偽ハルトの謎の英語に遭えなく沈められた。

「……コイツだけは……一刻も早く捕まえた方がいいだろうな……」

何とか震える言葉を絞り出した優一に、室月が含み笑いを押さえながら頷いた。

「ええ……彼の命に関わります」

精一杯の冷静な返答をした室月に、十も涙を拭きながら頷いた。

「はは……スターゲイジーの件が済んだら、一度に捕まえないとね。あ、でもアレだ、先に一人確保しなくちゃ」

ぽんと手を打った十に従い、こほんと咳払いした室月がメモを読むように喋った。

「葉月力也の偽物を演じている男ですね。明香にも見てもらいましたが、あれは演技ではなく恰好だけ似せたもので、他の者より素行が悪い。本物の活動圏内とは離れた場所で動いていたので、同時確保まで泳がせる予定でした。一度、捕捉を逃れて行方不明になっていましたが、先日、再び葉月くんが通う大学の傍に出没し、国道16号を歩く姿も確認されています。DOUBLE・CROSSへの入店及び葉月くんや近親者への接触は今のところありませんが、本人の姿は確認していると思われます。今は清掃員クリーナーが交代で見張りを」

「誰が確保に?」

「私と明香で当たります」

その言葉を合図にしたように、「失礼しまーす」と店員の声がした。

運ばれてきた酒と湯気を上げるおでんに、約二名が子供じみた歓声を上げた。

おかしな間を挟まれた優一の視線が、さ迷った後に室月に置かれる。

「大丈夫なのか」

「大丈夫です。お二人の手を煩わせるほどの相手ではありません」

「確保後はどうするんだ?」

嬉しそうにハフハフやっている二人を呆れ顔で見てからの優一に、室月は彼の前に注文の品を滑らせながら答えた。

「相手次第です。話がわからぬ様でしたら、島に移します」

「……気を付けろよ」

「はい」

「室ちゃんだけズルーい。優一サーン、俺にも言ってぇー」

対岸からの変なアプローチに、優一は日本酒のグラスに溜息を吐いてから言った。

「……気を付けろ」

「きゃっ、嬉しい。明香気を付けるゥ~~」

両の拳を顎の下にやっての気色悪い反応に溜息も底を突きたが、畳みかける様に隣の上司がニコニコしながら挙手した。

「優一く~ん、僕も僕もォ~~」

「貴方は血糖値に気を付けて下さい」

「うう……優一くんの正論はお腹と心に突き刺さる……!」

「……貴方にふざけぬよう言っても無意味ですが、スターゲイジーの件は本当に放任で良いのですか」

優一の問いに、腹を押さえてヒイヒイ言っていた十がぴたりと止まった。

「ん~~……多分さ、けっこうな騒ぎになると思うけど……コレは仕方ないね」

神妙な面持ちでがんもを割り、溢れる出汁ごと啜り、十はもぐもぐやってから箸で宙を指して言った。

「日本のBGMは国家機関に浸透しているけど、唯一、入り込めていないのが法務省、法の支配するエリアだからね。他の国もそうだけどさ、法ってのは僕らにとって入り込む意味がない領域だから。だけど、スターゲイジーが目指すターゲットが居るのはその奥深く……法務省が管轄する最奥の、外国人犯罪者を預かる刑務所。アマデウスさんはピオを使っても良いって言ったけど、彼に怪我をさせるような事をやらせるのはあまり得策じゃない。あっくんも反対してるし」

話を振られた男は、口の中の物を咀嚼しながら何度も頷いた。

「ピオはブタ箱に放り込む役なんて勿体ないですって。スゴイんだから。指導力もすんばらしいんだから。ギリギリまでウチに置かせて下さいよ」

「そういうわけでスターゲイジーに任せることにした。彼はもともと、”そういうの”のプロみたいな人だし、本件は強引な手に出るしかない事案だ。一緒に来てる彼は相当タフみたいだから、大丈夫さ」

「そうですか。私的な理由ではないと?」

「へ?」

「妻子と過ごした男だから、危険な目に遭わせても構わない、というわけではないと言い切れますか?」

「思い出させないでええええ!!」

ガシャアッとテーブルに突っ伏して呪詛のような言葉を呻き始めた上司を呆れ顔で見下ろし、優一は十の頭をニヤニヤ笑いながらヨシヨシと撫でている明香を見た。

「その男、お前はどう思った」

「ミスター・ブラック? 多分、とんでもねえッスわ。トオルさんや優一サンでも、サシでやったら苦戦するんじゃない?」

ビール片手だが、ちっとも濁らない目をした明香の評価に、優一は思案顔で頷いた。

「敵になりそうか」

「どーかな。すごいハンサムさんで、ミーくんが懐いてますよ」

「懐くだと?」

「あのお兄さんがハルトさんに似てるからかもね。穏やかで頼れる雰囲気で、全然ヤな感じしないのに、急に敵になるかもしれないタイプの人。最初から敵でも味方でもないっていうか――いや、それよりさ、天井突き抜けてる顔面指数が要注意じゃないかな? 帰るまでに、会った人全員落としそうだよね」

優一の頬が微かにひくついた。

「さららも女ですからね。うかうかしていたら危ないでしょう」

おでんを取り分けながら、すかさず横で呟く室月を鋭い視線がぎろりと睨む。

「バレンタインは空けておいてくださいね」

当然のように言った室月の言葉に、むっつり押し黙った優一が日本酒を呷るのを、どろりと顔を上げた十が見上げた。

「あー……そうだあ……バレンタインもあるんだった~~……」

呪いの様に呟く目が二人の方を見上げてぼんやりしていると、明香が箸に餅巾着を摘まんでそちらに差し伸べた。

「トオルさーん、おでん冷めちゃうよ~~お食べ」

湯気を立てるそれを、ぎゅ、と口元に押し付けられた十が盛大に悲鳴を上げた。

「あっっつくんんん‼‼」

「違いまーす、あっくんでーす」

加害者はそれを器用に割りながらニタニタ笑った。

「トオルさん、敵は何処に居るかわかんないんだよ? 気を付けなくっちゃ。俺だって、ミーくんのことはそれなりにトモダチだと思ってるんだからさ」

思い当らぬでもない十は頭を掻いて口元を拭った。

「やれやれ……ありがたいねえ……あっくんも気を付けるんだよ? 特にハルちゃんの関係者ってのは、常識が通用しない連中なんだ。出くわしたら絶対に、一目散に逃げるんだよ?」

十の忠告と、「はーい」と呑気に答える明香を優一が静かに見つめ、室月を振り返った。

「何か有ればすぐに呼べ。十条さんの勘は当たる」

「はい」

品書きを眺めながら軽く返事をした男に、優一は眉を寄せた。

「……どうも最近、お前の返事は信用ならない」

「後ろめたいことが有るからでは?」

やんわり受け流して微笑むと、気の利く男は再び注文をしに立ち上がった。




 翌朝、案の定――特別養護老人ホームの受付嬢はびっくり仰天した。

何度も来ている未春だけでもインパクトが強いと思われるが、玄関ホールに迷い込んだでかい熊のような男は、容貌を含めて目立ち過ぎだった。

シャンデリアがぶら下がった立派なホールを物珍しそうに見渡し、通りすがりの来館者や入居者、スタッフに笑い掛け、何故か若い女性スタッフには手を振って振り返された。

「ブラック、名前書ける?」

「Sure.」

彼が異様に低く見える机に屈んでさらさらと英語で書いている間、受付嬢は呼吸もままならぬ様子で呆けていた。まるで、名簿ではなく自分の手に書かれているような顔をしていた女は、ペンが置かれるや否や我に返った様だった。

「十条さんの……お友達ですか?」

顔見知りらしい受付嬢がそわそわと尋ねると、未春はやや躊躇ったようだが、こくりと頷いた。近い世代の似ていない男が三人も揃っていては、友達という他に無いだろう。いまだその表現に抵抗があるハルトも愛想笑いで会釈した。

「ハルちゃんも書いて」

促されるまま、来館記録に名前を書くと、未春が怪訝な顔をした。

「なんで英語?」

仰る通りアルファベット表記で書かれたそれは外国人が続けて来たような有様だ。

ハルトは素知らぬ顔でペンを置いた。

「この方が楽だ」

「ふーん……」

例のNoが二つで断固拒否のNoNoに相応しく、ハルトは自分の名を漢字で書きたがらない。役所などの手続き関係は仕方なく書いたようだが、決して漢字やひらがなが下手というわけではなかった。漢字にすると『野々のの』はどこか牧歌的な印象だが、アルファベットにするとNoが並んで妙に否定的な感がある。

未春とハルトのやり取りを見ていた受付嬢が、ふと小首を傾げた。

「もしかして、野々さんのご親戚の方?」

「は……?」

眉を寄せたハルトに対し、受付嬢は慌てて手を振った。

「すみません、違いました? 珍しい苗字だから、てっきり――……」

「野々って人が居るんですか」

先に食いついたのは未春だ。当事者のハルトが黙すのに対し、きょとんとした女性に尚も訊ねる。

「俺、見たことありませんけど」

「あ、そうですよね。最近、シルバー人材から入られた高齢の方で……用務さんみたいな感じであちこち見回っているので。裏で事務作業したり、電気系統なんかを点検したり、外の植木を世話したりしています」

呼びます?と問うた彼女に、ハルトの方が険しい顔つきで首を振った。

「ハルちゃん、なんで――」

「呼んでどうするんだ。俺に親族は居ない。同じ名前ですね、なんてアホみたいな挨拶するのは御免だ」

断言する一言に未春が言葉を飲み込んだ。

「行くぞ」

未春はまだ何か言いたげだったが、黙って先に立った。

ブラックは微笑んだまま静かに従ったが、去り際――その手は音もなく机を滑った。

あとには名刺らしきカードが載っている。受付嬢が呆気にとられて顔を上げると、男は肩越しににこりと笑って軽く手を振った。

女は呆けた様子で手を振り、何気なく名刺を見た。


<Research company BLEND Black loss>


続けて電話番号にアドレス――裏返すと、白紙に滑らかな英字で一言。

<I want to talk to you.(君と話したい)>


 館内は静かだった。人の動きは感じるが、病院のようなシステム感がある。

入居者の部屋の並びもそれらしく、温かく保たれた室内と埃一つない清潔感が、むしろよそよそしい印象を受けた。未春は勝手知ったる様子でひとつの部屋に辿り着くと、軽くノックしてから扉を開けた。

入院患者が用いる個室といった風の部屋は、狭くは無いが、広いとも言い難い。

病院と異なるのは、北欧風とか言うらしい植物をモチーフにした黄色い花模様が愛らしいカーテンと、組み合わせた優雅なレースカーテン、ベッドを覆うこれも大きな花柄が特徴の布団カバー、そして部屋の主が座っていた大きな椅子だった。

「未春ちゃん」

守村恵子は未春を見るなり、くしゃりと笑顔を浮かべた。

淡いベージュのカーディガンを着て、綺麗なモスグリーンのショールを掛けた、どことなく品の有る小柄なお婆さんだ。未春同様、年始はあまり体調が良くなかったようだが、少し暖かくなったことでだいぶ良いらしい。

「こんにちは、先生」

意識しているのか、未春の声は平素のぼそぼそよりも穏やかに聴こえた。

「はい、こんにちはぁ」

こちらもにっこり微笑んだ姿は、それだけで優しい人だとわかる。車椅子が置いてある辺り、足が弱っている様だが、大きな背もたれの有る椅子に腰かけた姿はしゃんとして見えた。此処に来る前に寄ったデパートで、未春があれもこれもと迷いに迷った土産を受け取る仕草もしっかりしている。

「今日はお友達が沢山居るのねえ」

嬉しそうな守村に、未春が頷いた。

「先生、ハルちゃんとブラックです」

「あのな、未春……もういい加減、怒る方が大人げないのかもしれないが、初対面でハルちゃんはやめろ……」

うんざり顔で苦言を呈したハルトをよそに、ひょいと歩み出た大きな男は、ごく自然に椅子の前にひざまずいた。

「Nice to meet you.」

ごく自然に手を取った姿に、守村はあらあらと微笑んだ。彼女が座っている椅子が大きなハートのような背もたれである為、さながら、女王に謁見するナイトのようだ。

「よくやるな、こいつ……」

呆れ顔のハルトに、未春は首を捻った。

「先生が喜んでるからいいよ」

「……お前のレディーファーストもなかなかのもんだ」

英語は理解できるのだろうか?

黒い大男が、堪能ではない人間でもわかりやすそうな言葉を二、三喋ったが、彼女はにこにこ微笑んで頷いたのみで判然としない。ブラックも深入りせず、微笑み返して立ち上がる。それを機に、ハルトもVIPに相対するような物腰で軽く屈んで握手を交わした。

「貴方が、”ハルちゃん”ね」

「あ、はい……」

小さいが、思ったよりしっかりした手だった。長いこと働いて来た人だからだろう。

アルツハイマー型認知症を患っているというが、守村の目は鈍い色ではなく、温かい陽が降る大地を思わせた。なるほど、美味い味噌汁を作りそうな人かもしれない。

日本で何事も無く暮らしていたら、こういう祖母に会うこともあったのだろうか。

……いや、無いか。父方、母方共に、既に亡くなっていたと聞いている。

――故に、両親は頼る親戚も無く夜逃げすることになったのだから。

気の利いた言葉も思い浮かばずに立ち尽くしたハルトに、守村はほのぼのと微笑んだ。きゅっと握った手は温かく、力は存外強い。

「未春ちゃんと、仲良くしてくれてありがとうねえ」

「いえ……」

あまりに嬉しそうに言うので、頭ごなしに否定するのは躊躇われて曖昧に頷いた。

「とってもいい子なんだけど、いつも怪我をしそうで心配なの」

「……そう、ですよね」

――どうにも苦手だ、こういうのは。

苦笑いとも愛想笑いともつかない表情を浮かべると、守村は微笑み返して、ハルトの手をきゅっと握り直した。

「この子を宜しくお願いします」

妙にはっきり聴こえた言葉に、ハルトは気圧される様に頷いた。

どこかほっとした顔で守村がふわりと手を離すと、未春が傍に屈んだ。

「あの、先生、前に仰っていたお孫さんのことなんですけど……」

未春の声に、守村はハルトを見つめていた目を彼に向けて小首を傾げた。

「ええと、何だったかしらねえ」

何かを誤魔化すような笑みがこぼれた。

未春が説明するが、要領を得ないようで微笑むばかりだ。

「彼、エディさんや息子さんには似ていませんか?」

指し示されるブラックもブラックで、物静かに微笑んでいるだけだ。守村はその顔を見上げ、小首を傾げた。

「うーん……どうかしらねえ……」

考えているというより、何を問われているのか理解していない様子だった。

彼女の頭の中を覗き見ることはできないが、今、そこは何処かの長閑な景色が広がっていて、生き別れた人を想う哀しみや辛さは去来せずとも、誰かが立っていることもないらしい。

「もう、いいんじゃないか」

見かねたハルトの言葉に、未春は残念そうに振り返り、小さく肩を落とした。

「ごめんなさいねえ、未春ちゃん」

恐らく、謝った理由も未春が気落ちしたとわかったからだろう。

無論、恩人の気遣いがわからないほど間抜けではない――いいんです、と、すぐにかぶりを振って小さな笑みを刻んだ。

「未春ちゃん」

「はい」

「十さんとは、うまくいってるの?」

脈絡のない問い掛けに、ハルトとブラックが顔を見合わせる。

「はい」

未春は身動ぎもせずに答え、不思議そうな二人に目配せした。

「そう……良かったわ」

ほうと溜息した女性は、脇に置かれていた土産の袋を見て、今気付いたような顔をした。

「あら……丁度いいわね。せっかくだから、皆で頂きましょうよ。今、お茶を――」

キッチンどころか水道設備もない部屋だが、守村が立ち上がろうとするので未春がそっと押し留めた。

「大丈夫です、先生。俺がやります」

「まあ、でも――」

「お前は居てやれよ。何か買ってくればいいんだろ?」

ハルトの助け舟に未春は一瞬迷った顔をしたが、頷いた。

「一階に、自販機のコーナーがあるから」

「俺も行こうか?」

訊ねるブラックには、此処に居るよう言いつけた。こいつが単独でウロウロして問題を起こせば、後悔と責任を感じねばならないのは自分だ。

「彼女は何でもいいのか」

「温かいお茶なら何でも大丈夫」

承知したハルトが何気なく「OK」と答えると、守村がふと顔を上げた。

サッと真剣な眼差しがハルトに向いたが、それはすぐに温かい風のような笑顔に、攫われるように消えた。

「もう、お帰りなの?」

「あ、いえ――すぐに戻ります」

「そう。いってらっしゃい」

穏やかな笑顔に戸惑いつつ頷いて、ハルトは無人の廊下に出た。ガスを抜くように出た小さな溜息をひとつして、来た道を戻った。

今日も今日とて、何をしているんだろうと思いながら、一階の隅に据え置かれた自販機の前に立つ。すぐ傍にはホテルやミュージアムでよく見かけるベンチ型のソファーがいくつか据えられていたが、ホールに密やかなお喋りを響かせるご婦人が二人と、端末を眺めている初老の男しか居なかった。本当に広々とスペースを取った施設だ。場違いな存在なのを実感しつつ、事務的に自販機のボタンを押す。コーヒーを三つ取り出した後、ちょっと迷ってから最後のひとつを押した時だった。

中でくぐもった音がした。

「……ん?」

ボトルが取り出し口まで落ちてこない。途中で詰まったらしい。

変なところでツいていない。ハルトはしばし阿呆の様に立ち尽くした。

いつもの調子なら、このポンコツにキックのひとつもお見舞いしてやるが、こんな静かな場所で蹴飛ばしたらえらい音がしそうだし、顰蹙ひんしゅくを買う事は間違いない。

どうするか。とりあえず、誰かスタッフを呼ぶか――と、取り出し口を前に頭を掻いていた時だった。

「いま、詰まった?」

不意にした声に振り返ると、すぐ傍に作業着姿の男が立っていた。

ソファーで端末を見ていた男だ。白髪混じりの初老の彼は、地味な灰緑の作業着を着た首にスタッフ証を提げていたが、作業の邪魔なのか、肝心のカード部分は胸ポケットに収まっている。

「その様です」

「あー……やっぱり。ピッて音の後に落ちる音しなかったからねえ」

「よく聴こえましたね」

「まあね。そこで休んでたってのもあるけど、この台がしょぼいんだ。しょっちゅう機嫌を損ねる。ちょっと下がってて」

――しょぼい?

ハルトがピンと来ない日本語に首を捻る間に、男は取り出した鍵束から一つ選んで自販機に差し込むと、慣れた手付きで飛び出たレバーを捻って扉を開けた。

明らかに斜めに落ちた状態で引っ掛かったそれを取り出し、手渡すかと思いきや、ぐるりと眺め回してから上から落として戻し、内側のスイッチを操作して次のボトルを落とした。

「どうも、お待たせ」

差し出されたほの温かいボトルを受け取り、ハルトは礼を述べた。

「助かりました。ありがとうございます」

「いえいえ、こっちの不備だから。お兄さん、どなたかのお孫さん?」

偉いねえ、と目元を和ませた男に、ハルトは慌てて手を振った。

「あ、いえ……俺は只の付き添いで」

「そうかい。それにしたって、感心だ。生きてたって、一度も来やしない子や孫だって居るからね」

「生きてたって……?」

てっきり入居者のことかと思ったが、変な言い回しではある。男は自販機の扉を閉めながら、独り言のように言った。

「いや何、俺はもう、倒れようが、訪ねて来てくれる身内は居ないからさあ……」

「……ご家族に、何かご不幸でも?」

「ああ、ハハ、知らない人に言うことじゃないがね――もう随分前に、娘夫婦と孫が事故で死んじまったんだ。カミさんは気に病み続けて去年逝っちまってね……一人で居るのも暇だから、働きに出たってわけ」

「それは――お気の毒に」

常套句を言う他ないハルトに対し、男ははにかんだ。次は上手くやれよと言わんばかりに、ぽんと自販機を叩く。

「死んだものは仕方ないさ。じゃ、ごゆっくり」

さばさばと言った男にハルトが軽く会釈すると、男は元居た席に戻って行った。

見た目の年齢よりもしっかりした歩調の背を眺め、ハルトは踵を返した。

その時、向かいから歩いて来た女性スタッフが、すれ違った後に声を上げた。

「あ、ノノさーん! ちょっといいー?」

ハルトは内臓がすっと冷えた気がした。

肩越しに振り返ると、先程の男が顔を上げてスタッフに応じている。

同じ苗字の男。

死んだ娘夫婦と孫。

――いや、有るわけがない。

それは、有ってはならない。

NOだ。NO、NO、NO、NO――……

だって、俺は。

振り払う様に、或いは逃げる様にハルトはエレベーターに乗り込んだ。




 男は、怯えていた。

ホテルらしき場所のトイレ付ユニットバスルームに閉じ込められて、何日経ったかもわからない状態を過ごしていた。

幸いか否か、バスルームは綺麗だった。サービス大国の日本では、安ホテルだろうが古かろうが設備は整っている。掃除は行き届いていたし、シャワーの水は飲むのに抵抗はない。風呂は使うなと言わんばかりに布団が放り込まれ、備品のトイレットペーパーが置かれた隣には大量の栄養食ブロックバーの箱が積み上げられている。

しかし、窓も無く、ドアのすき間から差す外の光も明けのそれなのか電気のそれなのかわからない。ずっと換気がついた状態の低いモーター音が響くのと、上の客が水を流す音などがする以外、辺りは静かだ。

もうずっと、”あの男”は帰っていないらしい。

日本人ではないのはわかった。それぐらいしかわからなかった。あっという間に拘束され、叫ぶ間もなく車に押し込められ、気付いたらこの部屋に居た。

何も要求されていない。連絡手段は奪われ、紙に書かれた拙い日本語で静かにしているよう指示されただけだ。

此処で暴れたり大声を上げたら、外の人間は気付くかもしれない。

しかし、男が近くに居ないとは限らず、何をされるかもわからない。

――そもそも……自分を閉じ込めているのはあの男なのか?

それとも、あれは単なる雇われ――?……でも、この待遇は自分を殺す為ではない。

地位や金があるわけでもない自分をただ監禁しておいて、何の得があるのだろう。

鏡に映る顔を振り返り、溜息を吐いた。

スポーティーな短髪に、健康そうな若者らしい顔立ち。

こんな誰とも知らない奴の真似なんかしたからいけないのか?

カタン、と音がした。

続けて、すぐ傍でドアが開く音。

――帰って来たのか?

背筋が強張る。多分、表情も。

それ以上下がることもできないのに後退り、浴槽の前に佇んでいると、ドアの前で何やら重い物を動かす音がした。

思わず、片手で洗面台の陶器を握りしめていると、静かにドアが開いた。

「やあ」

立っていた人物を見て、男は息を呑んだ。

驚愕に目を見開き、空いた片手で口を塞いで呻いた。

「あ……あんたは……一体――……」

”今の自分”と、瓜二つの男が立っていた。顔も、背格好も、髪型も――……

ドッペルゲンガーにでも出会ったような気味悪さによろめくと、男はうっすらと笑みを浮かべて言った。

「元気だったかい?」

日本語だった。微かにイントネーションが気になる以外は、日本在住と言われても頷けるほどに滑らかなそれが、浴室に響いた。

驚きに言葉もない男を、そっくりな男は知り合いの様に眺めた。

「君、本当の名前があるだろ?」

「えっ……あ、ああ――」

狼狽えながら頷くと、男は外国人らしく肩をすくめた。

「じゃ、君は今日から本当の君に戻って」

「は……はあ?」

「その顔、僕がもらうから」

「もらうって――これは、別の……」

「知ってるさ」

ずいと近付いた男を見て、ようやく気付いた。整形じゃない。メイクだ。物凄く精巧な。本当は違う色を宿しているのだろうコンタクトレンズ越しの目玉が、こちらの内側まで覗き見る様に見つめてくる。

「僕と会った事は誰にも喋ってはいけない。君が此処に居たことも、今まで何をしていたのかも、喋ってはいけない。いいね?」

「は……はあ……」

なんとか頷くと、男は背後を振り返り、置いてあったバッグを持ち上げた。

「これ、君の荷物。用が済んだから返すよ」

「あ、ああ……どうも……」

動揺し過ぎて、場違いな調子でバッグを受け取った。普段の自分なら、有り得ない。仮にも監禁されたのだ、怒りに震えて殴り掛かるか、通報するぞと喚くか――少なくとも、何か仕返しをせねば済まない程度には怒ってもいい筈だ。

それなのに、そんな気は起きない。

むしろ、起こすことを恐れている。

ちら、と目の前の男を見た。メイクとわかって尚、同じ顔。不気味だ。どちらかといえば、普通の男なのに。レスラーのような巨体だとか、スキンヘッドの強面や山賊のような髭面だとか、そんな危険そうな見た目でもないのに……こいつの何が怖い?

かち合った男の視線があまりにも真っすぐで、思わず目を逸らした。

逃げる様に覗き込んだリュックはごくありきたりな黒い物で、ターゲットの学生も使っているものだ。わけもなく中を確かめたとき、異様なものを目の当たりにして顔を上げた。

「こ、これ……」

「ああ、必要だろ? 君の口座は知らないし、財布は小さいんだもの。入りきらないから」

唖然と見下ろすそこには、テレビや映画でしかお目に掛かったことがない札束が入っていた。一センチ程度の厚みのそれは、百万円だったか?

「な、なんでこんな大金を……?」

「日本じゃ、殺すより金を渡した方が楽だって聞いたからだよ。もういいから行ってくれるかい? 僕は巡りの悪い奴と喋るのはとても疲れるんだ」

微かに不機嫌そうな調子が混じり、男は慌ててもたくさとバッグを閉じると、出て行こうとして――唐突に後ろからとてつもない力で首根を掴まれた。

「本当に巡りが悪いな」

ぞっとするほど平坦な声が響いた。

「その顔は僕が貰うと言った筈だ。入れておいただろ? 帽子ぐらい被れよ。顔を変える金は無くても、髪ぐらいは変えられるよな? そこまで説明しないとダメなのか?」

「は……はい、すみませ……!」

言葉の途中でどんと突き飛ばされるようにされ、男は怒りか恐怖かで震える手で帽子を取り出し、もどかしく被ると、一緒に転がり出たマスクを急いでつけ、文字通りまろびながら部屋を逃げ出した。

なんだよ、何なんだ……もう沢山だ……!

後に残った男は、嫌そうに顔をしかめ、薄汚い場所でも見る様にユニットバスを覗き込む。布団はぐしゃぐしゃ、くず入れにはカロリーバーの包み紙が溢れている。どちらも畳めば、もう少々まともに存在していられるのに。

「生かすって面倒だね、フレディ……」

溜息混じりの声が、そこががらんどうであるようにこだました。




 守村の部屋を辞した後、来館証を返却した時だった。

落ち着かない様子の受付嬢が、ブラックにそっと何かを差し出した。

「あの、これ……」

折り畳んだ紙一枚と思しきそれを、男はにこやかに受け取り、ポケットに納めた。

周囲に鈍感と言われてやまないハルトでも、それが何かは察しが付く。

プレイボーイぶりを眺め、隣に立っていた未春にこっそり訊ねた。

「お前、此処で連絡先貰ったことあるか?」

「無いよ」

「詐欺以上か。あの香水、やばいフェロモンでも入ってんのかな」

「入ってるわけないだろ。先生や、ラッコちゃんは何ともないのに」

非常にまともなご意見に肩をすくめると、未春は辺りを見渡す。

「野々さんて人、居ないかな」

「……俺とは関係ないっての」

会ったと言ったら何を言われるかわからない。とっとと立ち去るのが良いと思いながら館内を出た。ブラックは紙を眺めながら、後ろからゆったりと歩いて来る。

「日本語で読めるのか」

「いや。日本の女性は親切だ」

さりげなく褒めて、畳み直してポケットに納めた。さては英語で書いてあったか。

まあ、名前と連絡先さえ書けば、よほど鈍くても意味は理解できるが。

「まさか、お前の調査って、日本の女を何人落とせるかじゃないよな?」

わりと本気で聞いたつもりだったが、彼にしては本当の笑顔なのだろう――肩を揺らして笑い、首を振った。

「ハルはなかなか面白いことを言う」

「うん。ハルちゃんは面白いよ」

すかさず同意する未春を睨んでおいて、溜息を吐いた。

施設を出きらぬ辺りで、ブラックは立ち止まった。手には自身の端末を持っている。

さっそく連絡を取り合っているのかと呆れたハルトだが、彼は薄笑いで顔を上げた。

「すまない、予定が入った。今夜は戻れそうにない」

「……仕事か?」

「ああ。未春は、ハルが居れば大丈夫だろう?」

未春がこちらを見てから、こくりと頷いた。

「Good boy.」

どこか茶化した様子のブラックの言葉に、未春は小さく苦笑した。

「何処まで行くの?」

「都心まで。それ以上は言えないが」

「ハルちゃん、駅まで送ってあげて」

「はいはい」

ハンドルを握らせるには恐ろしいドライブスキルの未春の代わりに、すっかり自分の物のように扱っているセダンに乗り込むと、ブラックが不思議そうに言った。

「未春は運転はしないのか?」

「コイツの運転はワイルドスピード向けだ」

「それは凄そうだ」

いつか乗せてくれ、などと命知らずなことを言いながら、彼は駅前で降りた。

未春が甲斐甲斐しく乗るべき路線を説明してやると、にこやかに構内に消えた。

「ブラックたちは……何をしてるんだろうね」

車内から見送った未春の呟きに、ハルトもハンドルに手を掛けて首を捻る。

「さあな。スターゲイジーが来日してる以上、ヤバい案件なのは間違いないが」

「ハルちゃんが言う『ヤバい案件』って、何なの?」

「何ってそりゃ……例えば……――」

言い掛けて、ハルトはふと口をつぐんだ。

ここ最近の大事はリーフマンの件だが、彼らの方が先に来ている以上、来日には関係ない。本当は奴を追ってきた――いや、それはない。ブレンド社が奴と戦う義理は無いし、仮にそうだとしてもTOP13であるスターゲイジー本人が来るのはリスクが高い。護衛だけでも、ブラック以外に相当な武力が必要だ。

話の上では、同行者は彼のみ。それが嘘だとしても、リーフマンを狙うのに社内随一の武闘派を単独行動させておくのはおかしい。

他の理由はどうだろう。日本の裏社会では大きな事件は起きたが、収束したばかり。

目下、ブレンド社にとってプラスになるようなニュースは見当たらない。

拠点であるイギリスを滅多に出ないスターゲイジーが動いているのに?

「スターゲイジーが動くときは、彼の権限が必要な場合か、或いはどうしてもその指示が綿密に必要なときだ。それは大抵……」

自分で確認するようにハルトは呟いた。

「……権力者を強請ゆするとき」

ハルトは真っ黒な姿が去った方を見るが、目立つ黒服はとっくに見えない。

「――ちょっと、電話して良いか?」

未春の同意を待たずにかけると、例によってすぐに出た。

〈どうした?〉

「ジョン……いま何処だ?」

〈ニューヨークのオフィスだ〉

すい、と正面の道路を見つめるハルトの目が細められた。

「ミスター・アマデウスも?」

〈当然だ。ミスターに用事か?〉

主人と異なる国に居ることはまず無い秘書の答えに、ハルトは問い返した。

「お前、リーフマンが来日している件は聞いているな?」

ほんの数秒の沈黙の後、ジョンは静かに答えた。

〈知っている〉

「じゃあ何故、ミスターは動かない?」

沈黙が落ちた。微かに動く気配が伝わる。傍にアマデウスが居るのかもしれない。

「”奴ら”に最も関与の深いミスター・アマデウスが腰を上げないのはおかしいんじゃないか? リリーの件でも軽く来たクセに、今回に限って来ないのは何故だ。あの人にとって、表の仕事以上に重大な案件の筈だ。スターゲイジーの来日と関係があるのか?」

〈TOP13同士の決め事に、俺は関与しない〉

「……ブレンド社みたいなこと言うんじゃねえよ。スターゲイジーは何しに来てる? 目的ぐらいは開示してる筈だ」

〈十に聞けばいいだろう。彼は日本国内の事ならほぼ全てに繋がる〉

ハルトが苛立たし気に舌打ちした。

「お前はイギリスのGood boyを見習った方が良いな」

相手は苦笑したようだった。昔からそうだ。こちらが苛立ちや憤りをぶつけると、この男は子供の他愛ない悪戯を見たような顔で笑う。そしてまた、何故かイライラしてしまう自分は下らない雑言を発してしまう。

〈ハル、お前らしくもない。ジョゼフを殺す為に俺たちの力が要るのか?〉

「……要らねえよ」

〈その通りだ。お前は今まで、他の”奴ら”を”一人で”やった。俺もミスターも手は貸していない〉

「それが答えか」

〈そうだ。必要ならば力は貸そう。しかし、今、お前が求めるのは別のことじゃないのか?〉

「クソ……ハイハイ、わかったよ……どうもお世話さま!」

吐き捨てると、ハルトは一方的に電話を切った。

ぽいと捨てる様に端末を置いたとき、隣で居ない者のように静かにしていた未春が口を開いた。

「ハルちゃん」

「……ああ、悪い、いま出す――」

「そうじゃなくて」

なんだ、と振り返ると、未春は微かに眉を寄せていた。

「『リーフマン』って誰?」

「……」

咎める視線に、ハルトは絶句した。

「……俺、言ってなかったか……?」

返事の代わりに、未春は形の良い眉をきゅっと寄せた。

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