6.Contact.

 それは、ある午後の事だった。

「Thank you! アリガトー」

アメリカから来たという老夫妻は、嬉しそうに駅へと入っていった。

彼らに手を振った女性は、ほっと一息ついた。もう慣れた街とはいえ、人を案内するのは緊張する。先程の夫婦はお目当てのショップに辿り着いた後、あちこち眺める内に帰り道を見失ったそうだが……まあそういうことは多々ある街だろう。

青山の町並みは一見、大通りは広々として見えるが、巨大なビルの合間には幾つもの路地が有り、似たような建物が密集する為、見通しは利かず、行き止まりのような箇所も多い。人はやたらと多く、通りを走る車は一様に飛ばしていくため、ここからタクシーを呼び止めるのは難しい。日本語はわからないし、電話でタクシーを呼ぶ発想もなかった夫婦は、どこかの店で聞こうか――そんな相談をしていたところだった。賑わった都会には英語を話せる人間も多く居ただろうが、たまたま通り掛かったとき、困った様子に気付いたのは元CAのスキルかもしれない。

――髪に白いものが混ざり始めた夫は、退職を機に妻へのサービスとして旅行に来たと言っていた。おしゃれが好きそうな奥さんはにこにこしていて可愛かった。微笑ましさと仄かな羨ましさを感じつつ、買物を続けようか休もうか迷った時だった。

「Excuse me.」

低くまろやかな声に振り返り、女は一瞬ぎょっとした。

昼に出くわしても驚くほど真っ黒な服に身を包んだ長躯が見下ろしていた。驚いたのはその体の大きさもあるが、とんでもない美貌だったからだ。眉に掛かる黒髪は無造作だが、その下の夜のように黒い眼や穏やかな笑みは映画から飛び出したと聞いても頷ける。一瞬、何かのドッキリかと周囲を見渡したが、テレビクルーのような者は見当たらない。一般人であろう女性たちがさざめきながら行き過ぎるだけだ。

「すまない。君が彼らと話しているのを聞いて。ちょっと道を訊きたいんだが……」

薄い笑みを浮かべたまま、申し訳なさそうに眉を寄せたのをぼうっと眺め、慌てて頷いた。

「は、はい……ど、どちらに行かれるんですか?」

端末で示される地図を見ると、わりと近い。

「これなら……私も同じ方向に行くところですから、宜しければご一緒します」

「それは助かる。ありがとう」

――ええ、そう、人助け。下心なんかじゃないから……

呼吸を整える様にバッグのショルダーをぎゅっと掴んで、自分に言い聞かせながら歩き始めると、付き従う男が付けている香水が柔らかく香ってくらくらしそうだった。

――そうよ、こんなハンサムな人に相手にされるわけない。

「此処は随分、人が多いんだな」

男は感心したような口調で辺りを見渡して言った。

「そ……そうですね。オフィスや商業施設も多い街ですから。国内外から観光に訪れる方も居ますし……」

「貴女は、この辺りに?」

「ええ、最寄りは隣の駅で……貴方は観光? それともお仕事?」

「両方。今日は半日休みの観光客だ」

穏やかな笑みを仰いで、わけもなく笑った。到着までの距離が短いのが、なんだかとても残念だった。

「ここ……だと思うんですが」

地図と照らし合わせ、首を傾げた。

辿り着いたのは、人物に対して随分と可愛らしい店だった。まだ出来て間もないケーキ店だ。カフェが併設してあるらしく、ウインドーから見える店内は女性が多い。こんなハンサムが入ったら大変なことになりそうだ。きっと、綺麗なお嬢さんと待ち合わせだろう。顔も知らない女性を羨みつつ、ではこれでと立ち去ろうとしたとき、カフェの扉が開いた。

「あ、いらっしゃいませ! 二名様ですかー?」

外の看板に用事があったらしいスタッフが明るい声で言った。

二名。不意に美男と顔を見合せ、慌てて手を振った。

「い、いえ、私はその……」

――この方を案内してきただけで、と言う前に、スタッフは何度も言っているのだろう、朗らかな笑顔で自動音声のようにすらすらと喋った。

「カップル限定のメニューは、あと一つなので、宜しければどうぞー!」

どうやらその売り切れを示す為に出てきたらしい。美男は言葉が通じなかったのか、薄笑いのまま、黒い目を瞬かせた。こちらはこちらで、『カップル限定』の言葉に初めて、バレンタインが近いのだと気付く。

「あの……カップルなら注文できる限定のメニューがあと一つあるそうです。お連れ様はもう来ていらっしゃいます?」

「連れ? いや、俺は一人だが」

「え? そ、そうなんですか……?」

それじゃあ頼めないですね、などと言うのも気が利かないと思ってどぎまぎしていると、美男は外に立てられていたメニューの写真を見下ろしてにこりと微笑んだ。

「良ければ、付き合ってくれないか」

「えっ! わ、私と? 何もこんなおばさん誘わなくても……!」

「おばさん?」

美男はぞっとするような呟きをしてから少し屈んでこちらを覗き込んだ。

「俺と行くのが嫌じゃなければ頼む。もちろん、此処は俺が持とう」

――嫌なんて……そんなこと言う人、居るのかしら?

「……す、少しだけなら……」

誰か、知っている人が居たらどうしよう――そう思いながらも店に入ってしまった。自分にパパラッチなど居るわけがないが、今日に限って夫に関わる記者が居るような気がして落ち着かなかった。店内では興味深そうな視線を感じたが、その対象は言うまでもなく美男の方だ。もっとおしゃれをしてくるべきだったと思いながら、店内の若くてキラキラした雰囲気と、ぱっちりした睫毛に覆われた好奇の目に身がすくむ。女の子は皆、この店の一部であるように可愛い。メイクもヘアスタイルも、服やバッグも可愛い。彼女たちによく似合っていて、今さらそんなものは身に着けることはできず、それがひどく羨ましくて、疎ましくもあり、切なくなった。

そう思う傍ら、案内された席に座る手前、美男はごく自然にコートに手を添えて受け取り、当たり前のように椅子を引いてくれた。

「あ、ありがとう」

気後れしつつも座ると、男は対岸に腰掛けて微笑んだ。恐ろしい程の優越感と甘い香りに満たされて、もう身の内がいっぱいで苦しい。注文を済ませると、そわそわと片手を擦ってテーブルを見つめる他ない自分に、男は穏やかな声で言った。

「おかげで助かった。俺一人では荷が重い店だった様だ」

「あ、いえ……日本のスイーツ店はどこも女性が多いですから……気にすることはないと思います。……甘いもの、お好きなんですね」

「ああ。あまり食べた経験が無くて」

「どちらからいらしたんですか?」

「イギリスのロンドン」

「まあ、懐かしい」

「向こうに居たことが?」

「いえ……仕事で何度か。もう随分訪れていませんが……何処も絵になる素敵な街だったのを覚えています。――確かに、イギリスにはこういうお店は有りませんね」

勿論、アフタヌーンティーの文化を持つイギリスにケーキの文化が無いわけではないが、日本のデコレーションケーキのように飾り立てられたものは稀だ。

強いて言えば、カップケーキの店はカラフルで愛らしい装飾のものが多いが。

「ロンドンだと……私、ミュージアムカフェが好きで、よく行きました。ヴィクトリア&アルバート博物館は建物も展示も素晴らしくて」

つい、ぺらぺら喋り始めてしまったが、男は一瞬たりとも嫌そうな顔はせず、優しい微笑を称えたままロンドンの話に付き合ってくれた。最後は、イギリスで豚カツが乗っていないカレーまでカツカレーと呼ばれて流行った話に笑いがこぼれたところで、例のメニューが運ばれてきた。

「わ、すごい。可愛い……」

が、大きい。

Ohと呟いた男と比べても大したサイズのそれは、大皿にデザートのテーマパークが作られているみたいだった。花やリボンの形に絞られた色とりどりのクリームやフルーツがたっぷり乗った豪華な装飾のケーキは食べるのが勿体ないほど綺麗だ。カップル限定を示すような、ピンクのハートの装飾がどこか後ろめたいけれど。

「写真撮ります?」

訊ねると、男は微笑して頷いた。何とはなしにその手元を見つめて待っていると、彼は満足そうに頷いて見せてくれた。

「え、ちょっと……私が映っちゃってますよ……!」

慌てて言うと、彼は穏やかに笑った。

「この方がいい写真だ」

「ええ? か、からかわないで下さい……恥ずかしい……」

「からかう気など無い。気分を害したのなら許してくれ」

素直に謝られると、こっちがつまらないことを言っているように思えた。

「貴方が良いならいいですけど……」

ちょっと目を逸らした方で、別のテーブルの女性たちがこっちを見ている視線とかち合う。「いいわね、楽しそうで」とでも言うような羨ましそうな顔だ。

――今日は変だ。私が居る方は、あちらの筈なのに。

「せ、折角だから頂きましょうか」

最初は遠慮がちにフォークを入れたものの、彼が向かいでずっと楽しそうに笑っていて、こっちが取ろうとしたものを掠め取ったり、反対にこっちに寄せたり、一つしかないバラが乗ったケーキをやけに慎重に二つに切るのが可笑しくて、徐々に大胆に掬い取って口に運んだ。

「もう、わざとやってるでしょう!」

「ああ」

「まあ、素直ないたずらっ子」

目の前のケーキがカップル限定かどうかなど、もうどうでも良かった。

なんて楽しい休日だろう。こんな風に、ケーキを食べたのはいつぶりだったか。

友達と出掛けることは多かった筈なのに、結婚したら急に疎遠になって、今は誘うことさえ憚られるようになってしまった。久しぶりに会った友人には、ひたすら夫を褒められるが、そこにはチクチクと刺さる妬みの針が潜んでいるし、夫の同僚の妻たちと出掛けると、なんだか気を遣ってしまって気楽に話すこともできない。

不思議な事だが、羨望や嫉妬の目を向けられても、優越感は全く感じなかった。

1カラットダイヤの結婚指輪を貰い、豪邸に住み、良い服、良い食事――優越感に浸ってもおかしくない、上等の暮らし。

――でも、今、この瞬間には及ばない。あの人とも、こんな風に過ごした筈なのに。

会計に立つ大きな背を見つめながら、心の内から満たされつつ、店を出る時には夢が覚めるような寂しさを感じた。

「そういえば……お名前をお伺いしていなかったわ」

男も「そういえば」という顔をして、ポケットから名刺を差し出した。

今さら、記者や探偵だったらどうしようかと思ったが、どちらともつかない社名に首を傾げた。

「……ブラック・ロスさんと仰るのね。ブレンド社って……何処かで聞いた気がしますけど、何をなさる会社?」

「調査会社だ。人口比率、選挙情勢、賭けのレート、人気の食品、何でも調べる」

――浮気調査もするの?

口を突いて出そうになった言葉をどうにか呑み込み、静かに店を振り返った。

「ひょっとして、このお食事も本当はお仕事?」

どこか不安げに訊ねてしまったが、彼は苦笑いを浮かべて首を振った。

「此処は知り合いに勧められた。個人的な調査だ」

「そう……その方に感謝したいわ」

「俺もだ」

どきりとする返事に何とか微笑んで、差し出された大きな手と握手した。

「とても楽しかったです。ありがとう」

「こちらこそ。Ah……Miss……」

「あっ……逸子いつこです。久我山くがやま 逸子いつこ

名乗った後は、滑る様に言ってしまっていた。

「ミスター・ロス……この後はどうなさるの?」

「ブラックでいい。特に決めていない」

「その――……日本の美術はお好きかしら?……すぐ近くに、海外の方をお連れすると喜ばれる所があるのだけど……」

「君が案内してくれるなら、何処にでも行こう」

それは、疑って然るべき浮ついた返事だった。

しかし、そんな気は全く起きなかった。むしろ、言い寄られている気もしなかった。「自分に気が有るかも」などとのぼせるには、あまりに良い男過ぎるからだろうか。無害で温厚な大きな熊にでも出会ったような心地の女を、ずっと絶えない笑みが優しく見下ろす。

この様子を遠くから見ていた男が、向かい合う男女を望遠レンズのフレームに収めてシャッターを切った。傍目には、青山の景色を撮影しているようにしか見えない男は、トイプードルのようにふわふわした髪を風に揺らし、にこりと笑った。

「さすが、ブラック。こっちも良い叫び、期待してるよ」




「――そうか、よくやった。……ああ、上手くやれよ。じゃあな」

電話を切った大男は椅子にもたれると、脇に置いていた小型ゲーム機を手にした。

同時に凄まじい銃撃音が小さなオフィスに響き渡った。リクライニングチェアにふんぞり返って机に足を放り出し、達人と思しき連打を繰り返すストローイエローの髪と髭をした大柄な白人に、目の前で恐縮しきっていた部屋の持ち主――こちらも筋骨隆々とした白人だったが、態度は子ネズミのように手もみしながら話し掛けた。

「あ、あのう、スターゲイジー……」

「なんだ」

「あ、そのう~……ウチにいらっしゃるのはちいとも構わんのですがね~……な、何故こんなむさくるしい所でおくつろぎなんでしょうか?」

男はゲーム画面を眺めたまま、整えた顎髭に覆われた口をニヤリと笑ませた。

その周囲にはコーラにチップスが開いたものからストックまで据え置かれ、テレビには別のゲーム機が二台接続、怠惰極まれりといった有様だ。

「ディックよ、偉くなったなァ」

「は、はあ?」

「俺に意見するとは面白ェ。ゲームに匹敵するぜ」

ガン・シューティングゲームをプレイしながらの発言に、ディックは青くなって大急ぎで首を振った。

「ち、ちちち違いますって! 俺はただ、ナ、ナイトの称号まで得ているスターゲイジーには、こんな薄汚いオフィスは似合わないと申し上げたいだけで――……!」

「おお、それなら安心しろ。お前のオフィスは最高に過ごしやすい。電波状況も悪くねえし、この椅子は持って帰りたいぐらいだ」

「うう……勘弁してください、スターゲイジー……椅子ならトオルのとこに言えばすぐに準備できますからあ……!」

「お前もうるせえ奴だなあ。俺が最高だと言ったら素直に認めろ」

幾らかドスの利いた声になる悪党に、嘆いていた男はふと真顔になった。

「……何か、外で問題が?」

「フフン、ハルぐらい察しが良くなけりゃ、悪の商人は務まらねえよな」

クリアを示す音声と効果音が響いたとき、ボス・スターゲイジーはゲーム機を置き、コーラのペットボトルを呷った。

「予定調和だが、面倒な奴が本国からついて来ちまったんだ」

「それは――……あのスパイシー・ナンシーですか?」

「おお、詳しいな。ま、有名か……」

紳士はどこか恥ずかしそうに髪を搔き、溜息混じりに首を振った。

「おてんば娘は予想通り、日本警察に接触しやがってな。誰か出来る人間を取り込む気だろう」

「でも……いつもは気にしないじゃないですか――」

言い掛けて、ディックはハッと息を呑んだ。

「ま、まさか、スターゲイジー……今回の来日は……!」

「頭は定期的に回すに限るな、ディック。そういうことだ。俺は今回、日本警察と揉めるわけにはいかん。既に部下がターゲットに接触している。奴なら時間は掛かるまいが……良い女ほど、焦ると失敗する。最低でも、俺が出て行くまでに一週間はかかるだろう」

―― 一週間なら十分、早い。

ようやく腑に落ちた顔でディックは頷いた。治外法権を利用する気だ。

如何にはねっ返りの英国レディと日本警察が有能だとしても、基地内に安易に入り込むことはできない。おまけにスターゲイジーは表裏両方の顔をイギリス王室に認められた特殊な人物であり、BGM・北米支部を仕切るミスター・アマデウスと懇意だ。彼を通じて米軍に働きかけるのは、大使館に転がり込むよりも手ごろである。

無論、大使館は滞在には好都合だが、此処に居てトラブルを起こすと、”表向きの”イギリス対日本の構図が出来かねない。事を荒立てず、尚且つ警察の追跡をかわすには、このオフィスは非常に都合が良い……

周囲を席巻するゲーム機とスナックに惑わされていたが、これはとんでもなく大胆で危うい工作活動だ。

ディックは生唾呑んで呻いた。

「法務省をつつく気ですね? 日本の役人は、落とすには手強いと思いますが……」

「落とすさ。少なくとも、女は確実に落とす。俺の部下はしょうもねえ性癖の奴ばかりだが、頭の先から爪先まで優秀だ。そして俺は奴らを完璧に使える」

コーラを呷って髭を拭うと、スターゲイジーは紳士というより悪党の顔で笑った。

「ディックよ、聖グループが倒れた今は絶好のチャンスなんだぜ? このタイミングを逃すと、奴は新たなスポンサーを得て移動を始める。そうなっちまったら、かなり強引な手を使う羽目になるだろうな」

――それは絶対に避けてほしい。

今でも十分、強引だが、スターゲイジーが現役時代にやったスパイ工作という名の”事故”を思えば、オフィスを乗っ取られるなんぞ可愛いものだ。日本警察とて、この男と渡り合おうと思ったら、防衛省に協力を頼むことになるだろう。要らぬ暴動が起きないことを切に願いながら、ディックはコーラを呷る紳士を仰いだ。

「狙いは『ハーミット』ですね?」

紳士は不敵に笑い、逞しい双肩を上下させた。

「……本当に日本に居るんですか? 生きていたら……もう八十代なんじゃ……?」

「フフン、スパイ業界じゃ、伝説級の爺さんだからな。まあ生きてるだろうさ……死んだ方が予算の上では目立つし、奴は聖グループの切り札の一つだ。そう安易に死なすもんか。チューブで繋ぎ放題にしても生かすだろうよ」

「はあ……では、一週間近く……スターゲイジーは何をなさるので……?」

自称・英国紳士は再び、ゲーム機を手に取った。

「見ての通り、俺は部下たちの報告を受けながら、のんびり日本のゲームを堪能する。気が向いたら散歩に出て、ハルの様子でも見に行くかな」

ディック・ローガンは頭を抱えそうになる腕をどうにか抑えて鼻息だけ噴いた。

「あのう……ご滞在はいっこうに構いませんが~……た、滞在費は誰が支払うのでしょうか……?」

「へっ、ケチ臭い悪党め。払ってやってもいいが、俺に払わせたらお前はその分、働く羽目になるが良いんだな?」

「ひ、卑怯ですよ、スターゲイジー……!」

ケチはどっちだと言いたいところだが、払うとなればこの男は請求額の倍、いや、十倍はぽんと支払って、その分の対価を要求する気だろう。アマデウスやハルトとは違う意味で恐ろしい金勘定の持ち主だ。

「心配するな。帰るまでには出してやろう。だからとは言わねえが、お前、ちょっと頼まれてくれるか」

「断れない前提じゃないですかあ……嫌だなあ……」

「嫌なら良いんだぜ、上手くやったらサーブ・900をやろうと思ったんだが」

「サ……サーブ900……⁉」

空腹の猛獣がいきなり生肉を目にしたようにディックは叫んだ。

サーブ900。彼のジェームズ・ボンドの初代愛車であるスウェーデン製の車だ。後にその役はベントレーに代わるが、日本でもクラシック・カーの代表格の一つとして人気の車種だ。

「まさか初代……!? も、もしやスターゲイジーが乗っていた車ですか!」

「ああ。俺が乗ったのは随分前だし、倉庫に放置状態だが……お前にはお宝だろ?」

「もちろんですとも! 007が乗った車種というのも良いですが、スターゲイジーの愛車はアツい……! ど、どこかにサインでも頂けたら最高なんですが……!」

薄気味悪いほど目を輝かせた男は、リンゴも握り潰せそうな両手を組み合わせて祈りを捧げる様に紳士を仰いだ。元・世界的なスパイである紳士はゲームで大暴れしながら、気味悪そうに頷いた。

「おう……そんなもので良けりゃ、お前が欲しいとこに書いてやるよ」

「あ、ありがとうございます! 何でもやります! やらせて下さい!」

「うーむ、お前の手のひらの返し方はひどいが、俺の部下に勝るとも劣らん清々しさは悪くない。――頼みてえのは、調査だ」

「はい? 調査なら、御社の方が適任では?」

「全くその通りだが、今回の件、ウチの社は『ハーミット』に絞る。他の件で引っ張られるのは避けたい」

――引っ張られるようなネタなのか……?

軽率な行動を後悔し始めた男に、スターゲイジーは机の上に有ったメモにすらすらと何か長い文を書くと、破りがてら差し出した。

ずらりと書かれた文字は社名や個人名のようだ――腑に落ちぬまま羅列を見つめていたディックが、一番最後の名前にハッとした。

「スターゲイジー、これは……ハルの――」

紳士はもうゲームに戻っている。激しい銃撃戦を展開しながら、ニヤリと笑う。

「この中に、お前が知らない名がある筈だ。覚えたらこの場で処分しろ。調査はできるだけ、部下から人づてにやらせるんだ。いいな?」

「は、はあ……お言葉ですが、此処はもう更地の駐車場で何もありませんよ? トオルはもちろん、アマデウスの手が入っていますから、掘ってもネジ一本落ちていないと思いますが」

「誰が穴掘りをしろと言った? ディック、俺はお前に鑑識の真似事をさせる気はないぜ。お前の本職は何だ」

「あ……そ、そういうことですか」

ようやく理解した顔になる武器商に、スターゲイジーは呆れたように笑った。

「俺はお前の物流に関する仕事は親父の代から評価している。そのデータは全て例の場所に出入りした人物と業者だが、BGMの目を掻い潜った奴らが居る。未調査の奴らを一人残らず洗え。死者もだ」

高評価の言葉に背筋を伸ばした武器商はごくりと生唾呑んで頷いた。

確かによく見ると、覚えのない名前や社名が幾つかある。『例の場所』に関しては何度かアマデウスの手伝いでタッチしているが――……さすが、この男は調査にかけては一枚上手らしい。

……この中に、居るのか?

魔法の弾丸フライクーゲル』の秘密に関わる者が。

「このこと……トオルやハルは知らないんですよね?」

「おう。動けばトオルにはバレるだろうが、報告することはねえぞ。ハルにも言うな」

「き……聞かれたらどうすれば?」

「なるべく俺を通せ。無理なら口を割っても構わんが、全部喋る必要はないよな?」

ニヒルな笑みに、ディックは神妙な顔で頷いた。

これでも裏社会ではベテランの商人だ。悪党の流儀は心得ている。

この秘密が、BGMを――或いは世界を変えるピースの一つだということも。

見つめる先のメモの最後。こなれたサインのような英字で書かれていた。


――West-ward NoNo Metalworking. 




 自宅のチャイムが鳴った。

ハルトはベッドの中で目を開けた。

ニューヨークの一角にあるアパートメント。煤けた茶色いレンガの建物は、左右を挟む同様のアパートも、向かいのアパートも、長く続く道路も含めて静かだった。

昨夜はしとしとと雨が降り注ぎ、近所の親子喧嘩も、隣のアマチュア・ミュージシャンのギターも大人しかった。今朝もファーガソンが外を掃く音がしていたが、問題が生じるようなことは無かったはず。ゴミに何か有ったか?

……いや、まだ6月だ。暑さが厳しい季節ではない。

また、チャイムが鳴った。

もう何となく誰が訪ねて来たかわかった。ファーガソンや、階下のベリンダや宅配業者なら、二回目を鳴らさずにドアをぶっ叩く筈だ。

わかるだけに、出たくない。伸ばした手で時計を確認した。

午前8時。健全な人間なら、起きて活動しているのが普通の時間帯だ。

……だるい。起き上がりたくない。こっちは昨日、フロリダから帰ったばかりだぞ。

時計を数年来の憎い相手のように見つめていると、またチャイムが鳴った。

くそ、しつこい奴だ。

舌打ちして、唸りながら身を起こす。

ドアの向こうを確認して溜息を吐き、心底面倒臭そうに開けた。

「……ジョン……」

立っていたのは、予想通りのスーツ姿の白人だ。見上げる程に大きく、肩幅もこちらの倍は有りそうな男は、きちんと撫でつけた金髪の下、物静かな灰色の目で見下ろしていた。ハルトはうんざりした顔を改めもせずに、立っていた大男が手にした大きめの四角いバッグに首を捻り、穏やかな視線を睨んだ。

「……何の用だ?」

「また痩せたな。腹具合はどうだ?」

「……普通だ……もう薬の世話にはなっていない」

苛立たしそうに答える顔は見るからに病みやつれ、小生意気な双眸だけは威勢がいい。ジョンは苦笑混じりにバッグを差し出した。

「大して食べていないんだろう」

「何だよ、これ……」

「本当はお前の故郷のものがいいと思うが、日本料理はバラエティーが豊富過ぎて俺にはどれが正しいのかわからない」

「……俺もわかんねーよ」

「そうか。では、俺のおふくろの味で勘弁してくれ。なるべく、温めろよ」

「……何なんだよ、もう……」

ぶつぶつ言いながら思ったより重いバッグを受け取った。

「じゃあな。仕事の前はなるべく食え」

「うるせーな……余計なお世話だ」

大柄な男を追い払うようにドアを閉じると、急に世界をシャットアウトしたように静かになった。暗くなった玄関先で、ずっしりと重いバッグを見下ろし、何段も階段を上がって来たような溜息を吐く。

引き返したキッチンのテーブルでバッグを開けてみて、ぽつりと呟いた。

「……Meddlesome(お節介)」

中には小さなキャセロール鍋と、スープジャー、懇意にしているパン屋『マダム・キャロット』のホールウィートブレッド一斤……焼きたてだろう、袋は少し開いた状態で、芳醇な香りを昇らせながらうっすら汗をかいている。

――ご丁寧に「Hi! Haru! Feel better soon mate!(ハーイ、ハル!早く元気になってね!)」というマダムのメッセージ付き。

スープジャーの中身は、そんな気はしていたが、チキンスープだった。アメリカでは体調不良の時に出てくるおふくろの味の定番だ。まあ、正確な馴染みは無いが。

これは何だろう。鍋の蓋を開けると、リンゴとシナモンの香りがふんわり広がった。

橙色のジュースにシナモンスティックを挿し込まれたリンゴがプカプカと浮かび、オレンジの皮とスターアニスが漂い、真っ赤なクランベリーが散らばっていた。

「……Don't treat me like a kid……」

アップルサイダーの鍋に向かって「子供扱いするな」と負け惜しみの様に吐いてから火にかけた。沸々とするのに合わせて、優しい香りが部屋を満たす。

鍋が奏でるコトコトという音。音もなく、リンゴが、オレンジが、星と赤い粒が揺れる。窓から差すのは長閑な日差しだ。外では車が走る音がした。昼が近付いたら、隣人の食器や水の音、近所のマダムが耳の悪い祖父を呼ぶ声がするだろう。

静かな日だ。

日向のような橙をカップに注いで、キッチンに立ったまま飲んだ。

「おふくろの味ねえ……」

正解なんてわからない温かさが、身に沁みた。

何とはなしにキッチン脇の小窓を開けると、ぬるい空気が流れ込んだ。裏通りの道路や向かいのアパートメント、申し訳程度の街路樹も昨日の雨でしっとり濡れている。ビルに囲まれた景色の中、また雨が降り出しそうな空を見上げてアップルサイダーを傾けた時、コンコン、と戸を叩く音がした。

誰だ――チャイムが有る筈なのに。

そう思った時、目が覚めた。

「……?」

身を起こすと、日本の自室だった。隣に居たビビがひょいとベッドを下りるのと、腹から滑り落ちた文庫本をぼんやり眺める。

最近、どうも横になって本を読むと寝落ちしやすい。猫の体温が原因だろうが……

殺し屋の分際で、良い御身分じゃないか。

本を拾い上げながら懐かしい夢を見たと思っていると、もう一度ノックが響いた。

「ハルちゃん」

未春みはるか。

「おう……何だ?」

休憩時間を寝過ごしたかなと思いながら時計を確認すると、まさか午前8時ではない。午後4時過ぎ。戻る予定時刻までは10分ほど猶予がある。たった数分程度の夢――地味なタイムスリップだったことに気付いた辺りで未春が言った。

「ハルちゃんに会いたいってお客さんが来てるんだけど」

「は……? 俺に?」

誰だろう。急に内臓が冷える気がした。

……まさか、”奴”じゃあるまいな。

嫌な予感と共にドアを開けた瞬間――ハルトはどっと疲れた溜息を吐いた。

「おいぃ……」

ニヤニヤ笑いながら立っていたのは、未春ではなかった。

DOUBLE・CROSS非常勤にして劇場型の清掃員クリーナー茶話さわ明香あすかは整った中性的な面を陽気に微笑ませていた。

「どーもォ、ミーくんに似てましたー?」

「おう……似てたよ……お見事……」

「わ、嬉しい。ハルトさんに会いたいお客のあっくんでーすッ……あっ、ちょ、待っ……イタタタタタ……!」

陽気に挨拶した男の頭部をむんずと掴んで力を籠めると、先日のとおるのようにジタバタした。

「何か用か」

「ハ、ハルトさ~ん……! 目が座ってますよ!」

「バカ。座る程度で済んで有難いと思え」

「済んでなーい!」

程なく解放してやると、明香あすかはヒィヒィ言いながら頭を擦った。

「あたたた……んも~……乱暴なんだから~~……はい、コレ、ハルトさんにプレゼント」

「……プレゼント?」

デジャヴを感じながら受け取ったのは、大きめのバッグではなかった。菓子箱でも入っていそうな小さな紙袋だ。中を覗くと、本当に菓子箱が入っている。クッキーのパッケージだが、缶ではないクッキーの箱がこんなに重い筈はない。

「誰からだ」

「トオルさんからです」

「何でお前が十条さんのお使いをしてるんだ。室月さんは?」

「その室ちゃんが忙しいから代わりに来たんですよ。俺が例のハンサムさん見に行くって言ったらついでに頼むって」

「お前も物好きかよ……」

室月が忙しいことは全くその通りだろうが、いくらハンサムだからといって殺し屋を見に来るのはどうだろう。……後でピオに奴の正体を説明するよう言っておこう。

ハルトは夢の続きの様に壁にもたれて箱の中身を確認した。中から出てきたのは予想通りの物体だったが、似て非なるそれだった。

「なんだこれ……玩具か」

本物よりも軽い愛銃、ベレッタM8000クーガーFの姿に呟くと、明香がチチチと舌打ちしながら鬱陶しく指を振った。

「ハルトさ~ん、それが大事なんじゃん。エアガンの所持はNGだけど、これはエアソフトガンって奴ですから、持ち歩いてもダイジョーブ。ま、目的は聞かれるかもしれないけど」

「いや、玩具だろ? 大の大人が持ってるとどうとかって話か?」

「んーん、ガチなサバゲーするのは大の大人ですから、それ自体は無くもないです。ゲームの予定も無いのに携帯してる奴はヘンだけど、持ってるだけなら罪にはなりません。たーだーしー、それは只の玩具じゃないんで職質はなるべく避けてほしいそうです。発射できるのはBB弾もOKだけど特注なんで、基本の弾はソレ」

箱の中に残されていた小さな袋に纏まっているのはどう見ても白いBB弾。

「人は死にそうにないな」

「ひえ、ナチュラルに怖」

「毒?」

「ンなわけないっしょー」

両腕を頭の後ろで組んで呑気に笑う明香に、ハルトは嫌そうな顔をした。

エアソフトガンはだいぶ初期の訓練段階で使ったことがある。金属の弾丸が撃てるエアガンのような殺傷能力は無いし、当たり続けてもせいぜい痛みに怯む程度。しかし、本物でも規制対象のエアガンでもないそれを隠す必要もないだろうに、わざわざ菓子箱に収めて人に運ばせ、弾自体に致死性は無い――つまり。

「それなりの威力が有るってことか」

「そういうこと。通常のエアソフトガンで決まってる発射パワー超えちゃってる特別仕様だって。ハルトさんのストレスを軽減しようってことらしいです」

「ストレス? おい……俺はぶっ放さないとダメになるような戦闘狂じゃないぞ」

「あはは、そうだとしても、いざって時があるでしょ? その時、ハルトさんが丸腰よりは玩具でも持ってた方が俺らも安心ですよ」

「そうは言うが、玩具は玩具だろ? いくら発射の威力が上げてあっても、エアソフトガンの構造じゃ、実弾も金属弾も撃てたところで飛ぶだけだ。弾は推進力が増すようには見えないし……」

「ン~~……俺もそれが何ってことしか聞いてないんですよね。撃ってみればわかるんじゃないすか?」

物は試しか。何やら嗅いだことがあるような妙な香りがする弾丸を専用のカートリッジに装填し、ハルトは見た目だけは愛用品そっくりなそれを持ち上げて顔を上げた。

「よし、的になれ」

「ええっ⁉ ちょ……嫌な冗談やめて下さいよ~~‼」

あたふたと手を振って後退する明香に、拳銃を擬したハルトは迷わず発砲した。

発砲とはいっても、火薬は入っていない。本当に玩具のトリガーを引いただけのような軽い音がしたが、次の瞬間には小さな白い弾は明香の耳を掠め、廊下の先の壁に当たって跳ね返った。二、三、四――数回跳ね回る音の後、廊下の上でタップを踊った弾が落ちた。目を瞬く間を置いて、硬直していた明香が自分の耳を恐々こわごわ触った。

「……有る。――もおー……勘弁してよ、ハルトさーん……」

「玩具相手にそれかよ。本物の前じゃ堂々としてたくせに」

「舞台は別なんです~~……スイッチ入っとるもん」

「お前はそういうとこが凄い奴だよ」

苦笑すると、ハルトは銃を確かめ、落ちた白い弾を見、今度は数メートル先の壁に角度を付けて撃った。弾丸は素早く天井に向けて跳ね返り、床、壁を経由して最後はグダグダ言っていた明香が悲鳴を上げて飛び上がった。尻に着弾したそれが、コン、と床に落ちた。

「ちょ、セクハラですよ!」

「滅多なこと言うな。痛かったか?」

「……そこそこ~~……小指くらいの洗濯ばさみでギュッてつままれた感じ」

「なるほどな。確かに只の玩具じゃない。エアガン並には威力がある」

明香は尻をさすりながら自分が持って来た特殊な拳銃をまじまじと見た。

「今のが跳弾射撃ですか? 狙ってやるんでしょ? 凄いですねえ……」

「凄くはない。想定より強く跳ねた」

「強く?」

「ああ。BB弾そのものは跳弾しやすいが、弾丸のような威力は無い。今、お前に命中するまで想定通りに六回跳ねたが、普通は痛みを感じるほど威力は残らない。かなり跳ねることを意識した弾だが――……」

ハルトが見下ろす先の弾は、ヒビが入って割れていた。

「あー……こうなっちゃうと、やっぱりお菓子っぽいですね」

しゃがみ込んで見下ろす明香に、ハルトが眉を寄せた。

「お菓子?」

「これ、特注したラムネなんですって」

「……なんだよ、ラムネって?」

廊下に妙な沈黙が落ちた。明香が割れた弾丸と訝しそうなハルトを行き来し、小首を傾げた。

「あれ……もしかしてラムネも和製英語? えーと……ラムネって何で出来てるんだっけ?」

思い付かなかったのか、自分の端末を弄りはじめた明香は程なくして顔を上げた。

「あ、砂糖かブドウ糖と、デンプンと、クエン酸だって」

「砂糖とデンプン……キャンディか?」

「え……キャンディって飴じゃん」

「いや、マシュマロもキャラメルもチョコもキャンディだが?」

「ええ? アメリカざっくりし過ぎん……? あ、そういや……アメリカでキャンディーバーってスニッカーズみたいなの貰ったわあ……そゆこと?」

文化の違いを再確認し、明香は髪を搔いてからパチンと指を鳴らした。

「そーうだ、アレアレ、ミントタブレット! それならわかります?」

「あー……なるほど、向こうでもよく買った」

そうだ。アメリカに居た頃、特にニューヨーク滞在中はセントラルパークに行く道すがら、仲の良かったニュース・スタンドでタイムズ紙と共に買っていた。

……あのヒスパニックの陽気な老店主は元気にしているだろうか。

「つまり、コイツは消える弾か」

「そゆこと。食べるには固過ぎるけど、溶けにくくしてるラムネは普通にあるから、変じゃあないよ。もちろん、拾えるもんは回収するけど、外なら蟻ちゃんとかが回収してくれるし、硝煙反応とかもないでしょ。けっこう便利じゃない?」

「さあな……色々やってみないと何とも。熱や水分の影響も考慮する必要があるし、武器としては威嚇程度だろう。至近距離で目玉に撃って死ぬかどうか……」

「あわわ……やっぱ殺し屋の思考こっわ。じゃ、俺は店に戻りまーす」

「……ったく、お前の所為で休み損ねた。俺が休む間を稼いで来い」

「給料出るならやりまーす」

「10分程度で出るかバカ。十条さんに頼め」

ぶうぶう言う明香を追っ払い、ハルトは自室に戻った。

ベッドに腰掛け、溜息混じりに銃を確かめ、おもむろに正面の壁に向けて一発撃つ。カシャン、という軽い音の後、勢いよく出た弾丸は跳ね返って頬スレスレを通り抜け、背後の壁に当たってもう一度跳ね返った。射角、五度修正。ほんのわずかに角度を浮かせて、もう一発。今度は弾丸は後頭部を突いた。飛び跳ねた白い弾が天井で跳ねて床で数回跳ねる。鈍く痛む箇所に触れつつ、首を捻り、今度は棚の上にティッシュ箱を置き、それに向けて連射した。二連射。一発跳ね返り、一発は箱にめり込んだ。狙いをずらして三連射。一発跳ねたが、二発が箱に消えた。跳ねた一発がコン、コン、と床に落ちる。箱に開いた一つの穴を見つめ、ハルトはひとり呟いた。

「It's not bad.(悪くない)」




 店に戻ると、戻って来たばかりらしい大柄な黒い姿が立っていた。

こちらに気付いて片手を上げた男の周囲では、新種の生物でも見つけたようにウロウロと眺め回す明香が居る。

「おお~……ほおお~……」

挨拶もそこそこだったのだろう、感嘆詞を吐きながらの変な青年に、相変わらず薄笑いの剥がれないブラックも些か困惑気味に見えた。そのすぐ傍には、この不行き届き者をいつ摘まみ出そうかという顔の”本物の”未春が居る。

いつか明香が言っていた顔面偏差値とやらが局地的に高い場に、嫌そうにハルトは歩み寄った。

「おい、非常勤。あんまり騒ぐな」

苦言を呈したハルトに対し、明香は見向きもせず、興味深そうに唸った。

「いや~……ハルトさん~……これはたまらんわあ……触っていいかな?」

「変態か、お前は」

「お願いお願い。Can I touch you?(触っていい?)」

「Don't listen to him.(無視していいぞ)」

ハルトの言葉に、ブラックは「That's okay」と苦笑した。喜び勇んで黒服に包まれた上腕や背中やらをベタベタやり始める男をブラックは指差し、「Is he gay?(彼はゲイなのか?)」と尋ねてくる。頭を抱えて首を振ったハルトは、「He's just a pervert.(只の変態だ)」と答えて睨みを利かせた未春に振り返った。

「さららさん、どうするって?」

「気を遣うから、室月さんとこ行くって」

今はキッチン奥で事務作業をしているさららを振り返り、未春は答えた。

「ちょうど用事も有るからって」

それこそ気遣いに満ちた言葉だが、その方が安心なのでハルトは頷いた。

「室月さん、忙しいらしいから俺が送ってくよ。お前も店終わったら上で準備していいぞ」

「わかった。ありがとう」

「ほほほほほ……ねえ、ハルトさーん! このお腹ヤバいんですけど!すごいリアルなシックスパッドなんですけどー!」

服の上から腹筋を撫で擦る明香ヘンタイの頭を未春がどつき、ブラックは気にしなくていいとかぶりを振った。案の定、全く懲りない様子の男は腹を指してニタニタしている。

「ねえねえ、何食べたらこうなるの? What are you eating?」

「Eating?」

「そこはWhat food do you like?とかにしろ」

ハルトの指摘に「I like anything.(何でも好きだ)」とそのまま答える男の返事を伝えると、明香はへえ~と頷いた。

「好き嫌いないんだ。好きだわーお兄さん。ねえねえ、俺と名刺交換してよ」

「Could we exchange business cards?」

明香とブラックを交互に指差してのハルトの問いに、美男は気軽に頷いた。すぐに差し出されたそれを受け取り、明香は万札でも受け取ったように小躍りした。

「わあー、名刺もカッコいい。Thank you~!」

嬉しそうな明香が眺める名刺を横から見やり、ハルトは苦笑した。

「ブラックライトで照らした方がいいぞ。裏に柄が出るのが本物だ」

「え、なんか映るの? おもしろ! ミーくん、ライト無い?」

「十さんのが有ったかも」

未春が取りに行っている間、ブラックが不思議そうな顔をしてハルトを見た。

「ハルはナイトを知っているんだな」

「ああ。お前らの上司のを持ってる」

「あれ? そういや俺、ハルトさんの名刺持ってないよ。アマデウスさんとこの社員だった奴は無いの?」

「あー……どこかにあるかもしれないが、俺はもうジングシュピールの社員じゃないぞ」

正確にはクビではなく、出向の状態にしてあるらしいのだが、今のところ戻る予定はない。

「それにお前、アマデウスさんかジョンのを持ってるんじゃないのか?」

「トーゼン、持ってるよ。でも俺はハルトさんのが欲・し・い・の」

鬱陶しいイントネーションに眉をしかめた男に、明香はニヤニヤ笑った。

「だってハルトさんの名刺、断固拒否のNONOなんでしょ?」

「リリーか……わかった、探しておく。無けりゃジョンを当たれよ。持ってる筈だ」

「ハルトさんのワンちゃんは優秀だねえ」

「ワンチャン?」

再び疑問符を描いた男に、ハルトは「勘違いしないように」と前置いて説明した。

「ワンちゃんってのは犬のことで――……ブラックはミスター・アマデウスの秘書のジョンは知ってるか?」

「ジョン……ああ、ジョン・スミス。 あの大きな人だな」

「そうだ。あいつはワケ有って、俺に協力することになってる。その関係を犬と表現されることがあるってこと」

「なるほど。俺も『ワンチャン』だったことがある」

「……お前、それ余所で言わない方がいいぞ……」

しょうもない忠告をしていると、未春が小さなライト片手に戻って来た。

さっそく受け取った明香が嬉しそうに名刺の裏を照らすと、『星を見上げる騎士』の紋章とBLENDの社名が浮かび上がった。

「わーお……すごいね。どうしてこんなことしてるの?」

「イギリス国内でのブレンド社の権限が強いからだ」

「どゆこと?」

「ボスのスターゲイジーはスパイ時代の戦功でナイトの称号を持っているんだ。彼が代表を務めるブレンド社は王室御用達の調査会社に当たる。彼らの調査に関しては、当局もとやかく言えないが、調査内容によっちゃ、怪しい行動もあるだろ?……この名刺は各地の警察とのトラブル防止と、偽物を所持した連中に好き勝手に行動させない為の証だ」

「ブラックライトで見える程度じゃ、すぐに真似できるんじゃない?」

「そう。お前みたいな奴が持ってるのが一番危ない」

ハルトの賛辞に等しい皮肉に、明香はニコニコ笑って名刺をかざした。

「て、ことは、これは一般的な確認程度の物なんですね」

「察しが良いな。ブレンド社はそれ自体が『手を出したら危険な社』として抑止力がある。お前のような偽物対策はスタッフの趣味……特殊性癖だ」

「特殊性癖?」

「ブレンド社のスタッフはほぼ全員、他者には理解不能の趣味や性癖がある」

確認を促すハルトにブラックは頷いた。

「大抵は何かのコレクターが多い。俺は物を集める趣味は無いが」

「まー……お兄さんの演技すんのはかなりムズイしね。コレクターって、日本人が骨董品とか集める感じ?」

これにはハルトが渋面で首を振り、手まで振った。

「理解不能って言ったろ。大概、他の人間には価値が無いヤバいものか、ゴミ同然の収集物だ」

「例えば?」

ブラックが思い浮かべる様に虚空を見上げて指を繰った。

「各地のあらゆる水、甲殻類のハサミ、使用済みコンドーム、切れない刃物、殺人犯の愛用品、青い装飾品、プレゼントに掛かっていたリボン……」

格別怪しくないものもあるが、奇妙であることは避けられない。ブレンド社の社員を集めれば、変人のショーが開催できるだろう。さすがの明香も眉をひそめた。

「けっこうショッキングなワードが聴こえたなー……」

「全くだ。……入社試験で趣味を開示させるんだよな?」

「ああ。俺は特殊な例だから無かったが、ブレンド社は入社前に私生活、親族関係、そして趣味を徹底的に調べられる。人的被害がないことや、管理体制等、指導で解決できる部分以外に問題があれば入社はできない。反対に、特殊と認められない趣味のものは優秀でも入れないことが多いそうだ」

変態になって出直してこいというのだから妙な会社だ。明香も口をへの字に曲げた。

「確かに、それは真似するのが難しそう」

「迂闊にやらない方がいいぞ。この会社の連中は変態だが、それを含めて優秀だ。趣味の話をさせれば簡単にボロが出る仕組みだけに、記憶力も良い。社員それぞれの趣味に関しては、社内で定期的に発表会もするだろ?」

「詳しいな、ハル。クリスマスやボスの誕生パーティーにやっている。参加可能なスタッフに限るが、皆いつも参加したがるよ」

「うわあ……楽しそうって一瞬思っちゃったけど、相当ヤバそう……じゃ、俺がこないだ会ったサトウさんも、変な趣味があんの? めちゃくちゃまともなキャリアウーマンっぽかったけど」

「サトウ?」

心当たりが無さそうなブラックに、明香と顔を見合わせたハルトが言った。

「やっぱりあのふざけた名前は偽名か。先日、お宅のスタッフが一人来日していたんだ。サトウ・アンと名乗っていた、日系かアジア系の若い女なんだが」

どうやらブレンド社は各社員の出張先はあまり共有しないらしく、顔を合わせた明香が特徴を説明して、匠な声真似をした辺りでようやく彼は思い当った顔で頷いた。

「わかった。ハンナ・シュガー・カガワだろう」

なるほど、ハンナの愛称はアン、シュガーは砂糖だからサトウか。

スターゲイジー好みの小豆あんと砂糖だと思っていたハルトが苦笑していると、ブラックは一言付け加えた。

「彼女の趣味は蒸発エバポレーションだ」

奇怪な言葉にこれまで黙って聞いている未春さえ眉をひそめた。唯一意味がわかったハルトさえ、首を捻る。

「比較的まともだ。俺も仕上がった物が小瓶に詰まっている状態しか見たことはないが、既存の飲料物や液体などを加熱し、蒸発して残ったものをコレクションしている。元が何なのかわからない崩れた結晶や、燃えカスのようなものが中心だった。彼女は物そのものより、蒸発する過程が好きらしい」

……砂糖の名はあながち間違っていなかった様だが、液体の種類によってはまともかどうか定かではない。

「クセが強くないと入れない会社なんだねー……」

クセの強さでは引けを取らないだろう明香が感心したように言うが、全くその通りだ。ブレンド社の門は優秀な変態にのみ開かれている。アマデウスが変人会社エキセントリック・カンパニーなんぞと呼んでいたのはジョークではない事実だ。

「お兄さんは何が趣味なの?」

単純な好奇心といった目の明香に、ブラックは温和な薄笑いを返した。

Reading読書

あまりに普通の返答なので、むしろ明香は目を瞬かせてハルトに振り向いた。

「普通と見せかけて、ヤバい作品とか、辞書みたいなの読むとか?」

「What kind of books do you like?(どんな本が好きなんだ?)」

「色々読むが、思想家の作家が書く長編小説が多いかもしれない。日本に面白い作品があれば教えてほしい」

「思想家ねえ……面白い作家居たら教えてくれってよ」

「本はハルちゃんの方が詳しいんじゃないの?」

未春が指差すので、「ハルも読書家なのか」と嬉しそうにする男に、居心地悪そうにハルトは頷いた。もう一人、やたらに読んでいるだろう人物を知っているが、彼は字を追っているだけなのでニュアンスが異なるだろうか。

「まあ……俺は結構偏ってるが、それで良けりゃやるよ。英訳で良いんだろ?」

にこやかに頷く男を見やりながら、明香が感心したように言った。

「ハルトさん、本も英語なんだ~~……かっけーわあ……」

「いや、別にかっこよくはないが……最近は日本語を増やしてる。さっきのラムネもそうだが、お前らの普通に慣れないとな」

「だってさ、ミーくん。良かったね」

にっこり笑って肩を叩く明香に、ハルトは勿論、未春も怪訝な顔をした。

「なんで俺が良かったの?」

「え、だってこないだ、ミーくん言ってたじゃん。ハルトさんが――……」

刹那、言い掛けた明香の口を未春が勢いよく塞いだ。否、実際は塞いだというより掴んだが正しい。もごもご不平を言っているに違いない明香に対し、未春は眉を寄せて首を振った。異様な反応に、ハルトが半ば慄きながら言った。

「……俺が何だよ」

「何でもない」

「どこが」

「どこも何でもない」

クソ、こうなると未春は意地でも譲らない。

早々に諦めてハルトが溜息を吐いたところで、からからと扉が開く音がした。

身内ではない二人の女性客が、振り向いた男四人――ひょっとしたら三人かもしれない――に、素直に驚いた顔をした。

「いらっしゃーい。二名様ー?」

するりと拘束を逃れた明香が愛想良く接客に行くと、未春は未春で何事もなかったようにすたすたとカウンター裏に戻り、ハルトはにこやかにしているブラックと顔を見合わせた。

「お前、上に居るか?」

「いや。ハルの目に入る所に居た方が良いだろう?」

「……お互い様だな。座って待ってろ、二、三冊持ってくる」

「Thank you.」

低い声と共に微笑む顔を、席についた女性客がちらちら見ている。

……こいつは未春以上の『イケメン詐欺』かもしれない。

長く置いておくのに危険を感じながら、ハルトは再び階段を上がっていった。




 寒風が運んできた夜が街を覆う頃、都心の居酒屋で向き合った男たちは、周囲の盛況ぶりをよそに、楽しく飲む雰囲気ではなかった。

和風の小さな個室の中、一人はスーツを着た若武者のように正座し、いま一人はスーツがよれるのも気にせず胡坐をかいて腕を組み、五十を控えた厳つい容貌をこれ以上ないほど渋面にしていた。

「お前に飲みに誘われるなんて、何年ぶりかな」

上司の「どうせ厄介事だろう」という顔に、武士のような面構えの末永すえなが正平しょうへいは頷いた。その優秀過ぎる後輩に、上司――警視の田城たしろは大げさな溜息を吐いた。

「そうだろうなあ……クソ、何も言うな、最初の一杯ぐらい気楽に飲ませろ」

そう言って突き出されたグラスに、末永が苦笑しながらビールを注いでやると、彼は若い頃からそうであるように一息に飲み干した。今度は瓶を取り、部下のグラスにどぼどぼと注ぎ入れる。

「大体なあ、末永……お前はキャリアなんだから、もう俺と同じ役職か、飛び越えてもおかしくないだろうが。何が楽しくて警部のポストをウロウロして、俺なんかに相談を持ってくるんだ?」

「田城さん、私はノンキャリアで警視になられた貴方を尊敬していますし、 身近な相談相手として他には思いつきません」

「優秀なお前に尊敬されるとは舞い上がるね……どうせ、明日野あすのが飛ばされちまったからだろうに。全く、出来る奴ほど欲が無くて困る」

優秀さと正しさ故に左遷の憂き目に遭った同僚を思い、溜息を吐く。

「で、何の相談だ。お前まで、上役の不正を掴んできたんじゃないだろうな?」

「……私の推測通りなら、半分はその話になってしまうかもしれません」

気泡を見つめながら出た言葉に、田城はちらと入口を見た。個室といっても、高級料亭などではない、うっすらと外が透けて見える、障子にも似た引き戸があるだけだ。現に、他の客のざわめきや笑い声は、言葉までは判然としないがよく届く。

「話してみろ。最悪、聞かなかったことにする」

「ありがとうございます」

深々と頭を垂れた部下の話に、田城は難しい顔で聞き入った。

ナンシー・アダムズを名乗るNCA、彼女がもたらした東部鷲尾連合の件、BGMと呼ばれる組織、その関係者に十条じゅうじょうとおるという男が居ること、十年前に国道16号沿いのDOUBLE・CROSSで起きた事件、組織解体を始めた聖グループ、以前から後ろ暗い案件が囁かれた小牧グループの動向――……

「以前から、聖や小牧の動向は警察でも注視していましたね。しかし、彼らは他の暴力団やヤクザとは明らかに異なる傾向がありました。所々に、辻褄が合わないことがあるんです。……いえ、正確には、辻褄が合う様に構成されていると申しましょうか……匠な隠蔽と偽装工作というのが正しいと思います」

「そうだな、表現に関しちゃ悩ましい。どちらも正解だからな」

苦々しく呟いた上司に、末永はハッと顔を上げた。

田城はビールに目を落としたまま、独り言のように言った。

「お前の性格を鑑みて、俺が言えるのはただ一つだ。この件には関わるな」

「何故ですか!」

反射的に問うた声は、大声の一歩手前だった。

「わからないか、お前は」

「……わかりません。仰る意味はクロと知って放任しているということでしょう」

この堅物め――田城警視は間もなく五十を迎える顔中に疲労を示し、溜め息混じりに片手で顔を覆い、外した時には鋭い目が部下を射抜いた。

「あの男は――十……いや、Jは、いち警察官が手を出せるような相手じゃないからだ」

「尚、理解に苦しみます。我々の職務は――……」

「末永、そんな子供の理屈を俺がわからんと思うのか?」

うるさそうに片手を振り、田城は眉間の皺を増やした。

「いいか、あの男……Jが居る組織はJを逮捕してどうにかなる規模ではない」

更に潜めた声は、表の人の動きや空調、ざわめきのそれに同化した。

「俺も全貌は知らん。警察内部に組織のシンパや構成員が居ることはわかっているが、目星を付けたところで引っ張れない。やるなら全員一度にやらないと駄目だ。一人でも漏らせば、先にこちらの首が飛ぶ」

「別の件で引くわけにもいかないのですか」

「目星の付いた奴、全員をか? 警視庁だけでも半数の人件費削減になるぞ」

半数。さしもの末永も下腹部がぞわりと冷えた。

日本の正義を司る中枢の半数が、悪党に傾倒している――考えるだけでもおぞましいが、実態を想像して行くと嫌な汗が吹き出そうだった。

「……お前も知っての通り、俺たちの”正義”は完全ではない。明日野を切り捨てたのは悪じゃない……俺たちの”正義”の皮を被った一部だ。そんな見栄と欲が蠢く組織が勝てるような相手じゃない」

末永は膝に置いた手を握り締めた。

田城が言う通りなら、引っ張りやすい下部組織の人間は、いわば糸の括られた罠だ。一人でも残した場合もそうだが、逆に一人でも引けば、上層部の人間が気付く寸法になっているということか。

「半数と仰いましたが、総じて、なのでしょうか? 部署や序列も関係なく……?」

「そうとも。俺を相談相手に選んだお前は、ラッキーだったんだ」

放り投げるように皮肉を吐くと、田城は手ずから注いだビールをぐいと呷った。

「俺がこの件を知っているのは、マスコミの知り合いが酒の席でゲロったからだ。そいつはある出版社に居たんだが、リストラで食いっぱぐれて、なんとかフリーでやってこうと必死こいてネタ探ししてる内に踏み込んじまったらしい。警察、公安、検察、或いは永田町が、利益と関係無く揉み消してる死や事案がいくつもあると」

「その方は、今は……」

「五体満足で元気にしている。が、もう調べるのはやめたと言っていた。今は“大手の”出版社の良いポストに居るよ。呑気に芸能ニュースを追っ掛けてる」

思わず、末永は眉を寄せた。

敵はどうやら人間の扱いに長けているようだ。マスコミ関係者を単なる脅しでも賄賂でもなく、そこそこに甘い蜜で退けるやり方。重い溜め息と共にグラスを置くと、田城は少しも酔っていないが、血走った目で部下を見据えた。

「当時の俺は調べようとした。……ところがな、調べ始めてすぐに上司に呼び出された。誰とは言わん。第一、誰からの指示かわからないからな……とにかく、職務以外のことはしてくれるなと釘を刺された。末永、警察を続ける気なら、奴らには関わるな。俺たちが事を起こすには、味方が少なすぎる」

現代の武士は両膝に置いた手をぐっと握りしめた。

「……味方は、ゼロではないのですね。それは田城さんの見立てですか?」

安易に頷かない部下を睨みつつ、田城はしぶしぶ首を振った。

「俺を含め、数名だけ同志が居る。だが、勘違いするな。動く意志があるわけじゃないし、いつでも裏切れる程度のものだ。正直――その悪党連中が、何を以てそれほど繋がれるのか、教えて欲しいぐらいだよ」

「大変参考になりました。ありがとうございます」

末永は神妙に頭を下げた。

「わかった顔じゃないな」

呆れ顔の田城の声は、どこか切なそうでもあり、羨ましそうでもあった。

「性分なもので」

申し訳ありません、と再び頭を下げた部下を、田城は眩しげに見てから目線を落として首を振った。

「……やばいときは声を掛けろ。俺は臆病者だが、お前の骨を拾うくらいはできる」

田城はもうこちらを見ていなかったが、末永は微かに微笑むと、深々と一礼してから空いたグラスに琥珀色の酒を注いだ。

「鷲尾連合の件は、如何致しましょう?」

「担当部署に話を通すが、この件はそれまでだ。その女の件が片付くまで、拳銃も表沙汰には出来ない。鷲尾を徹底マークして、尻尾を出すのを待つ」

末永は頷いた。拳銃の存在は見過ごせないが、違反物とはいえ盗品を足掛かりに捜査に入ることはできない。

「とにかく、目下の問題はそのNCAの女だ。ブレンド社ってのは、これ単体がでかい組織で有名だぞ。俗な言い方をすりゃ、イギリス王室が認めた世界的なスパイ結社だ」

「ええ……同じBGMでも、各地で特色があるようですね」

「そのようだな。俺も余所の話は初めて聞いたが……末永、お前はわかっているだろうが、調査と捜査は質が違う。女は確かに、個人的な来日だと言ったんだな?」

「はい。NCAとは無関係だとはっきり言いました。自身の父に当たるボス・スターゲイジーこと、ロバート・ウィルソンを逮捕するつもりだと。私にこの件で嘘を吐く利点は、彼女にはあまり無いかと思います」

「俺もそう思う。つまりその女は、法に乗っ取った『捜査』に来たわけじゃない。NCAの後ろ盾がないのは、俺たちと同じ理由かはわからんが……イギリス当局がスターゲイジーの確保に積極的なら、こちらに一言有るだろう」

「仰る通りだと思います。話す様子からして、私的な感情を強く感じました」

「これまでの情報に嘘が無いなら、尚のこと厄介だな……」

上司の言わんとする意味を察し、末永は頷いた。

警察は法が定める正義に乗っ取り、民衆の為に行動する。それは法が認めた善良なる市民には正義の味方かもしれないが、法は必ずしも善悪を説いているわけではなく、民衆はいつも善良なる市民とは限らない。同時に、警察も善悪に揺れ動く人間だ。

己の権威を勘違いした者が私情で動くと、ロクなことにならない。

現在のナンシー・アダムズと関わることは、警察の身でありながら、『捜査』ではなく民間的な『調査』を行い、世界的な悪を捕えるハイリスクな行動を求められる。

「今のところ、お前に要求しているのは漠然とした協力だけなんだな?」

「はい」

「キナ臭いな」

「はい。仮にスターゲイジーが日本で事件を起こしたとしても、我々に可能なのは短期の勾留ぐらいですし、彼女がNCAとして来日していない以上、逮捕権は無い筈です。Jに関しては決定的な現場を押さえれば可能ですが、そんなミスを犯す人物ではないと思います」

「仮にミスを犯しても、Jは揉み消しが可能だ。だが、スターゲイジーは有名人である分、日本で何かやれば目立つ……女の狙いはそこかもしれんな」

「――NCAに、彼女のことを訊ねるのは危険でしょうか」

「都合の悪いことは言わんだろ。何ならそんな女は居ないぐらいは言うだろうよ」

「なんとか、人物照会だけでもできませんか」

田城は腕組みして唸った。後ろ暗い事が無くても、職員の情報は話すまい。出自のようなプライベートなものは尚更だ。

「……わかった。そっちは俺が当たってやる。お前は一切アクセスするな」

平伏するように頭を下げると、すぐに末永は顔を上げた。

「田城さんは、スターゲイジーの来日目的をどう見ますか?」

「さあなあ……でかい事をやりに来たのは間違いないだろうが、それが万人にとってでかいとは限らん。向こうさんも只のプライベートで、女が罠にはめる気で付いてきたとも考えられる。或いは女がその気なのを知って、偽物が来日して逆にはめようとしている可能性だって有り得る。奴らの行動にセオリーは通用しないんだ……本物がとっくに帰っちまってるとか、女の方が偽物で、お前をはめる為に近付いたことも考えられる」

「はい。我々が、奴らを知るチャンスが訪れた可能性もあると思います」

ふー……と、長く息を吐き、田城は頷いた。

「その女、なるべく泳がせろ。お前のことだ、ヘマはしないと思うが、動く時は身内にも注意しろ。当然、俺も警戒するんだ。直接会わないときは特に。いいな」

「はい」

渋い表情だった上司が悪童でも見るような目で苦笑いを浮かべ、互いのグラスにビールを注いで軽く掲げた。

水盃みずさかずきにならんことを祈る」

「任せて下さい」

掲げて含んだそれは、何とも苦いが、キレ良く喉を通った。

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