5.Beware of dog.

 未春が少々変わった休暇を取っていた頃。

彼らと入れ違いにDOUBLE・CROSSは阿鼻叫喚に覆われていた。

「うええええん、穂積ほづみィィ……実乃里みのりィィィィ……!! パパを見捨てないでぇぇぇ!!」

「トオルちゃん~……此処はスナックじゃないのよー。そんなに泣いたらお客さん入れないじゃない」

「ハッハッハ、トオルも人の子か、こいつは面白え」

「いだだだだ……! スターゲイジー……! 面白がるのは俺を離してからにして下さい……!」

さららの前でおいおい泣く世界最強クラスの殺し屋――改め、世界最強クラスのイタイ父を、ハルトの肩に手を回して豪快に笑う紳士が眺める。悲壮と愉快のパワーバランスが振り切れている現場で、やっと解放されたハルトは首を擦りながら叫んだ。

「大体、なんでスターゲイジーが居るんですか!」

「このクレイジー・パパとメシ食ってたら、帰り際に奇声上げてベソベソしやがるからよ、面白そうなんで付いてきた」

「暇人ですか……こんなもん見にわざわざ……」

”こんなもん”は冬だというのにヤケ酒ならぬヤケ・フロートをキメている。

ハルトがデス・フロートと呼んでいるココア・フロートだ。濃厚なアイスココアにバニラアイスクリーム、ココアパウダーに暴力的なほどチョコレートソースが掛かるそれは、客に出すには危険すぎるカロリー爆弾である為、正規メニューには並んでいない。それをとおるは美味すぎて泣いているようにアイスを食べては啜る。

「こんな人連れて歩いたら、目立つでしょうに」

「冷たいことを言うなよハル、日本は『持ちつ持たれつ』とか言うだろうが」

「それを使う場面が今なのかは甚だ疑問ですね……こんなとこでクソ親父なんか見ていていいんですか? 日本に来たからには新店以外にも何かあるんでしょう?」

いきなりクソ親父に格下げされた十がチワワのような目を向けてくるが無視した。

これには野性的な紳士ワイルド・ジェントルマンもいちいち取り合わない。

「有るとも。だが、まだだ。機を見極めなけりゃならん」

「……機って何ですか」

「フフン、俺とハルの仲でも礼儀は大事にしねえとな」

都合の悪いことはだんまりか。アマデウスと同類の男にハルトは溜息しか出ない。

ブラックも十条家に行っているのだから、実質、ブレンド社は動いていないことになる。或いは、目立つ二人はオトリで、実は大勢のスタッフが入国しているとか……?

いや、スターゲイジーもブラックもオトリ程度の人物ではあるまい。絶対に、日本で何かする為に来日している筈だ。何かの情報狙い……又は誰かの殺害が妥当だが。

当の英国紳士はストローイエローの髭を撫でて隣の男を眺めた。

「トオルよ、男がいつまでもベソベソするな。お前の嫁さんも娘も、うちの部下にころりといくタイプじゃねえだろ」

「あんなイケメン連れてきた人が慰めないで下さいよォォ!!」

バニラとココアの香りを爆発させて十は涼しい顔の紳士に叫んだ。

「僕の妻と娘はころりといかなくてもお宅のワンちゃんが何すっかわかんないでしょうが!! うちの妻と娘はちょーう可愛いの! 実乃里に至っては天使なの! 天使!」

ハルトとさららが似たような顔で溜息を吐く。自店では営業妨害も何もなかろうが、このまま喋らせておくと違う罪に問われるかもしれない。

一方の英国紳士はさすがはTOP13か……大の大人の気色悪い発言に呑気にへらへら笑っている。……いや、関係ないか?

「ハハハ……それこそ有るわけねぇわ。あいつは俺の指示無しに、他人に手出ししたことはねえよ。人様のモンなら尚更な」

――指示があれば、人様のものでも手を出すのか。

ハルトは首を捻り、項垂れる上司の背を遠慮なくバシバシ叩く男を見た。

「あのう、スターゲイジー……ブラックが、十条さんに開示したアウトローって、何処の誰なんですか?」

「上司に聞けばいいだろうが」

「聞ける状態だと思います?」

紳士がハルトの方を向いている内に、上司はカウンターに突っ伏してしまった。

「東部鷲尾連合会だとよ」

「何です、それ?」

「ギャングやマフィアみてえな組織を持たない犯罪者の集まりだってよ。クズが徒党を組んでるってとこだ」

「ストリートギャングとは違うんですか」

「アメリカじゃあ、巷の悪ガキと言えばソレだな。日本はでっけえガキも多い様だぜ。銃犯罪が気軽じゃねえ辺りはマシだが、現行犯以外は捕まんねえとこは厄介だろうな」

さららが眉を潜めて頷いた。

「こういう人たちは、ストッパーが無いから怖いのよ……組織系統があるヤクザや暴力団が良いとは言わないけれど……」

ふむ。以前、未春がさららへの卑猥な発言を理由に店頭で殴り倒したようなタイプが集まっているようなものか。赴くまま、好き勝手に行動し、自己が通らないと暴力で解決しようとするのだろう。

――ん? 未春が殴ったのも、事の正否はともかく似たようなもんか……

「どうして、実乃里ちゃんを狙ったのかしら?」

「……実乃里がカワイイから。天使だから。砂漠に咲いた一輪の花。世界の宝……」

何か呪詛のようなものが聞こえたが無視した。

「やっぱり、十条さんが原因じゃないですか? 過去の仕事とか、どこかで恨みを買っていてもおかしくない」

「もー可愛すぎるもん……芸能スカウトとか、どこかの王子に見初められてもおかしくない……」

「心配要らねえよ、うちの部下が居りゃ、戦車でも持って来られねえ限りは安心だぜ。……いや、戦車一門ぐらいなら何とかするかもな?」

「そっちの心配じゃないですぅぅぅ‼」

何やらブツブツ言っていた男が立ち上がった瞬間、バン!とその頭をハエでも叩き潰すように大きな手が押さえつけた。

「さっきからうるせえぞ、トオル。俺が美しいレディや可愛いハルと喋ってる時は邪魔すんな」

おかげで顔面をカウンターにめり込ませた男は、少し静かになった。

「あのハンサムさん、戦車に対処できるの……?」

衝撃を食うより早く、フロートのグラスを素早く手に取っていたさららが違う意味で静かになってしまったが、英国紳士は涼しい顔で頷いた。

「奴が居た軍事会社は非人道も非合法も何でもアリの戦争屋だったからな。あいつは生きる為なら何でもできる……何でもしなけりゃ生きられない世界に居たんだ。鼻が利くようになったのは主に食う為らしいが、それに伴う勘も良い。普段と違う事、妙な事も嗅ぎつけるさ」

なるほど。異国に居ても感じ取れるなら、彼はかなり高性能のレーダーだ。

さららがどこか気の毒そうな顔になり、英国紳士は気にしない様にと陽気にかぶりを振った。

「ところで、ハル、この変態親父は此処に泊めるのか?」

「あ、ハイ。そうですけど」

「そんなら俺にも夕食を振るまえよ。久しぶりにお前の手料理が食いたい。なんでもいいぜ、マッケンチーズでも、キャセロールでも、バッファローウィングでも」

「……はあ、構いませんが……スターゲイジーは泊まりませんよね……?」

「お? お前が居て欲しいなら居てやるぞ。イギリスのダディが子守歌でも歌ってやろうか?」

「No, thank you……絶対にやめて下さい」

墓穴を掘ったのを後悔しながら丁重にお断りして、溜息を吐いた。




 磨き上げられた机や調度品が並ぶ執務室には、妙な空気が流れていた。

この場に全くそぐわないド派手なライダースーツを着た、金の短髪に赤メッシュを散らした男が、魂でも吹かすような顔をしてソファーにだらしなくもたれる。その前に、この部屋、ひいてはこのビルの主である若社長のデスクがあった。

若社長は自分の椅子に腰かけ、日頃からそうである気難しい表情をしていた。傍らに物静かに従う男は如何にも大手の秘書といった雰囲気のスーツ姿だが、珍妙なのはデスクに据え置かれた小型ドローンだろう。微かなモーター音と共にチカチカとランプが光るそれは、ペットが座っているような存在感だ。

「それってどういうことよ、要海かなみチャン?」

派手な男の問い掛けに、若社長は首を振った。

「どうもこうも無い。言った通りだ」

「要海が言うとおり言うとおり」

ドローンがチカチカとランプを点灯しながら喋った。

「ジャンクゥ~~……二度も言わなくていいぜー。俺だってそこまでおつむは悪くなーいの」

「やおやお、ワルクナイ? ホントにワルクナイ?」

「こいつゥ~~近頃、性能が上がったからって生意気じゃねえ?」

「お前たち、無駄口はその辺にしろ」

間に割って入る秘書と同様の顔つきになった主人は頭を抱えて溜息を吐いた。

「それもこれも、十条の所為と言いたいところだが……いつかは来るとわかっていたことだ。こちらも知らぬ顔はしていられない」

『はーい』

子供のような返事がハモり、若社長の顔が倍は渋いそれになった時、秘書が顔を上げた。

「要海さん、室月が来ました」

「通せ」

待つこと数分、規律正しいノックが響いた。

秘書が開けた扉の向こうに、美しい所作でお辞儀をした男が居た。

「失礼いたします」

「急に呼び立てて悪かったな、室月」

真四角のお辞儀をした男は、世間的には就業間近の時刻に、朝一で職場に現れたようなスーツ姿だ。かつてはその義姉の件で、おぞましい程の憎悪を抱いていたに違いない男は、少しも感情を崩さずにかぶりを振った。

「いえ。お力になれることは何でもするようにと十条さんに仰せ付かっています」

「……フン、癪な奴だ」

座れと促され、ニヤニヤしているライダーの隣に音もなく腰掛けた。

「よっす、室チャンおつかれ~~」

「矢尾、兄弟筋の件だそうだな」

こちらには遠慮も何も無いらしい室月の口調に、矢尾は両手を上げて頷いた。

「俺にとっちゃ、バイク乗りは皆兄弟さ。奴は名前が似てたから付き合いが有ったけどよ、ガキ共に持ち上げられてつまんねえ組織立ち上げてからは知らねえ」

「東部鷲尾連合会は、元は暴走族の集まりと聞くが」

「そうそう……俺と同類。単に爆速で走ってりゃ幸せって連中だったが、ひじりのジジイに媚び売って、拳銃なんか持っちまったのが運の尽きよ。ヤクザの使い走りぐれえなら可愛いもんだが、自分たちが成り代わろうとじっと待ってたってワケだ。こーゆーの、何て言うんだっけか?」

「虎視眈々。強者が機会をねらって形勢を窺うさま。虎が獲物を狙う際に、鋭い目でじっと見下ろす意に由来。元は強者が寝首をかかれないようにする逆の意――」

つらつらと述べたドローンに、室月が微笑みかけた。

「ジャンクさんもいらしたんですね。こんばんは」

「こんばんは、室月さん」

丁寧に挨拶した男に好感を抱いているらしく、ふふふっと女が嬉しそうに笑うようなノイズが混じる。

「……ということは、例の拳銃を発見したのは彼女ですか」

「そう。わたしわたし。スゴイ?」

「俺も気付いてたっつーの~~」

「……お前たち、ちょっと静かにしていろ」

秘書の加納が告げた苦言に部下が静かになると、日本の裏社会の一角を束ねる若社長――小牧こまきグループの頭取・小牧要海は不機嫌そうに口を開いた。

「室月、先に連絡した通り、東部鷲尾連合会のザコ共が、ある女に拳銃を奪われた。逃走中の女と矢尾が遭遇した際、所持に気付いたが、女の持ち物ではないことがこちらで確認できた。ジャンクがトカレフTT-33と断定したからな……奴らが聖グループを通じて密輸・横流ししていた品に間違いないだろう」

「女というのは」

「ジャンク、話せ」

呼び掛けに、ロードするような一瞬の間を置いてドローンが滑らかに喋り始めた。

「ナンシー・アダムズ。三十五歳。イギリス国家犯罪対策庁National Crime Agency・通称NCA所属。元・ブレンド社調査員。数年前、ブレンド社の行動理念に反し、離反。彼らの情報を譲渡することでNCAに入る。ブレンド社代表及びBGMイギリス支部代表ボス・スターゲイジーを目の仇にし、衝突を繰り返すが、ブレンド社は公的機関との関係が深い為、摘発に至らず。現地での評価はハイクラス。ただし、スターゲイジーの事になると冷静を欠き、独断行動に移る傾向有り」

「スターゲイジーの……そうでしたか。すると、この来日も彼女の組織が命じたものではありませんね」

「恐らくな。捜査の一環なら、正規の手続きを踏み、日本警察に話を通すのが常識だ。……話を通しているのなら、突然、拳銃を押収するなど有り得ない。恐らく、休暇か何か、プライベートな来日だろう。理由は、お前たちの方が詳しいと思うが?」

「ええ。現在、スターゲイジーが部下を一人連れて来日しています。先日の南米支部の件でお求めになったビルに拠点を設けられたので、その整備状況を見にいらしたそうですが……」

「内見に、イギリス支部の大物が出張る意味はあまり無いな」

「我々が聞き及んでいるのはそれだけです。スターゲイジーはBGM内でも穏健派ですから、国内の危険は持ち込まれないかと」

「フン、お前らにしては随分、大雑把じゃないか……同行している部下は誰だ?」

「ブラック・ロスというアジア系と白人系のハーフ或いはクオーターと思しき男です。身体的特徴は十条さんをもう一回りは大きくした印象ですね」

話しながら自身の端末に映した写真を差し伸べた男に、上司よりも早く覗き込んだ矢尾が口笛を吹いた。

「ワオ、見ろよジャンク、お前のボーイフレンドといい勝負だぜ」

「ジャンクはみはるくんの方が好き。室月さんもすきー、要海はもっと好きー」

即座にドローンから漏れ出た声に矢尾が呆れ顔でニヤつき、室月は微笑と共に会釈した。一番熱い支持を受けた若社長は写真から顔を上げて咳払いした。

「……ジャンク、この男の出自を調べておけ」

「はーい」

「室月、こちらの要望は知っての通りだ」

要海の視線と真っ向から向かい合い、室月は頷いた。

「小牧は現状、薬物や銃器とは縁を切っているが、こいつらの手元には過去にウチから流れた品が有るかもしれん。聖家は独自にディック・ローガンからも輸出入を依頼していたが、ウチとの取引がゼロとは限らない。親父共の代は紙レベル故にデータが少なく、クズに流れたものまで確認するのは不可能だ。この女が何をする気か知らんが、クズ共から銃器関連、或いは薬物のルートを手繰られるのは面倒だ。本社への警察の介入なんぞ、僕は冗談でも許さないからな」

「わかっています。十条さんはその辺りはご心配ない様にと」

「……あの男の口約束で安心できる奴が居ると思うか?」

面と向かった皮肉に室月が小さく微笑んだとき、「ワオ」と小さな驚きの声が響いた。矢尾ではない。ドローンだ。

「どうした、ジャンク」

「こわーい。こわいよ。見る? 要海、こわいの見る?」

「構わん。映せ」

唐突に、壁掛けとなっていたモニターにスイッチが入った。

わずかなタイムラグの後、映し出された光景には居合わせた全員が息を呑んだ。

「こいつァ……エグいねェ……」

矢尾が顎を撫でて声を絞り出す。

画像の解像度が低いのはせめてもの気休めだったかもしれない。どこかの廃屋か倉庫のような場所だ。殆ど月明かりのように薄暗い室内の中央に、真っ黒なコートの男が横向きに立っている。長い前髪で表情は判然としないが、唇はうっすらと笑みを湛え、黒手袋に包まれた手にはかなり大型の拳銃を握っている。周囲には、何人もの人間が転がっていた。見える範囲――否、恐らく全員が、頭部を割られている。血まみれの床の上、顔の半分以上が吹っ飛んだ者もいれば、鈍器で殴られたような者、顔面を潰された者も居る。一方、どの遺体も胴体は殆ど無傷なのが、尚更、頭部のダメージを強調していた。

「ブラック・ロス。本名・出身不明。推定・及び便宜的データ上、三十六歳。幼少期から某国民間軍事会社ジュガシヴィリに所属、隊の全滅を機にブレンド社に入社。社内一、二位の美男で武闘派。容姿を生かした諜報と、力による制圧作戦を得意とし――」

「社内一、二位の武闘派が、戦時下でもない国に内見か」

「趣味は読書。愛読作家はフョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイ、ニム――」

「ジャンク、もういい。……室月、要件は以上だ。十条に伝えろ。貴様がもたつくぐらいなら、こちらはこちらの手段で動くぞ」

室月は静かに立ち上がって一礼した。

「はい。確かに。要海さんがお力添えして下さることをお伝えいたします」

若社長は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、舌打ちして脇を向いた。




 帰って来た未春は、少しだけ顔色が良くなっていた。

やはり実乃里と穂積は違う――と、思っていたら例の色男が一役買っていたらしい。

「泊めていい?」

あろうことか、未春が”それ”を連れ帰って来たときはさららは勿論、非番のハルトも――何なら居合わせていた力也と倉子も驚いた。

「お前……宿無しじゃねえだろが」

呆れ顔のハルトに、ブラックは薄笑いと前髪に覆われた眉をわずかに垂れた様だ。

どこぞで大型犬と仲良くなり、飼ってもいい?と聞かれている心地だ。

当の大型犬は肩をすくめて笑っている。

「よく眠れたらしいんだ」

「抱き枕として雇われたってか……」

目線を送った先の未春は無表情だが、こちらの顔色を窺うそれ。その顔を眺めやり、ハルトは溜息を吐いて頭を掻いた。

「一体、こいつの何が良いんだ? ベッドが狭くなるだけだろ?」

「よくわかんないけど、落ち着いて寝られた」

「まあ、俺が相手でもどうかしてると思うがー……」

どこかの誰かのようにぶつぶつ言い始めるハルトに、すっと歩み出た真っ黒な男が、例のぞわりとする低音で言った。

「誤解だ、ハル。俺は君たちの仲を裂く気はない」

「おいおいおいおい……言葉に気を付けてくれ……! 俺とこいつは只の同居人!」

素知らぬ顔の未春を指差しての大げさな抗議に、ブラックは笑みだけは崩さずに、深い闇を湛えた目だけが瞬いた。

「ミハルは、俺が良いそうだ。聞いてやってくれ」

「……あんた、いつもそんな具合で余計な恨みを買いそうだな……――いや、そうじゃなく、俺が言いたいのは、ブラックはそれでいいのか?」

何故か大げさな声になるハルトに、むしろ不思議そうな目でブラックは微笑んだ。

「別に構わない。眠るときに誰かが居るのは具合の悪いことじゃない」

「ええい、違う! お前、ブレンド社の仕事があるだろうが!」

ああ、と肝心なところで巡りの悪い男は頷いた。

「今は夜間に回す仕事は無い。夕刻には此処に戻れる」

「……どうも俺が知ってるお宅の働き方じゃねえな。一体、日本で何をする気だ?」

「悪いが、調査内容は口外できない。ボスに直接問い合わせてくれ」

「そのお決まりのセリフだけは俺が知ってるブレンド社だな……」

全く動じない薄い笑みに溜息を吐くと、ハルトは未春を振り返った。

「俺はいいけど、さららさんが困らないか?」

それは気にしていたらしく、無言でさららを振り返る未春に彼女は小首を傾げた。

「私も構わないけど……遠慮するなら、修司の所にでも行きましょうか?」

いっそ、優一の所でも良いのではと思ったが、何とか無駄口を吐かずにハルトは首を振った。

「……まあ、それはさておき、ブラックは一度居なくなった方が良いと思うぞ。上でクレイジーなパパが寝てるからな」

「ミスター・十条か。世界最強と噂の――……挨拶した方がよくないか?」

「お前のお国の挨拶が、顔面パンチ付きの罵声なら止めない」

昨日の店での醜態と、夕食で飲んだくれる姿を拝んでいるさららもきまり悪そうな顔をしていたが、未春はあっけらかんと言い放った。

「穂積さんと実乃里ちゃんなら、『また来て』って喜んでたよ」

「……余計まずいだろうが、それ……」

あの有様を撮影しておけばよかったと思いつつ、ハルトは一息吐いて、驚いたまま立ち尽くしていた力也と倉子に振り返った。

「一応、先に紹介しとくか。――ブラック、この店のスタッフの空井そらい倉子くらこと、葉月はづき力也りきやだ。どっちもBGMのことは知ってるが、殺し屋でも清掃員クリーナーでもない一般人。ラッコちゃんとリッキーで通ってる――二人とも、こいつはBGMイギリス支部のブラック・ロスだ」

「Nice to meet you.」

ぞっとする低音に、どちらの若者も電流でも流されたような顔をして、緊張気味に握手をした。「はじめまして」の応対が自分の時とだいぶ違うのが釈然としないが、とやかく言うまい。

「げ……芸能人じゃないんスよね?」

目を白黒させている力也も決して小柄ではないが、見上げる先の男は更なる高い位置から小首を傾げて微笑む。代わりにハルトが首を振った。

「芸能人じゃない。少しタイプは違うが、俺たちと同類だ」

「どっかで見たことある気が……絶対、誰かに似てるんじゃないスか?」

「俳優業なんかしてないだろ?」

面倒臭そうなハルトの問いに、ブラックは苦笑混じりに肩をすくめた。

「同類ってことはさ……このお兄さんも殺し屋なの?」

「ラッコちゃん、店頭で堂々と言わないでくれ……」

「This cafe is full of beautiful women.(この店は美人が多いな)」

「……お前なー……」

ハッピータウンよ、頑張らないでくれ……一人で”ツッコミ”するのは大変なんだ。

なんだか頭痛がしてきたハルトに対し、ふと、ブラックが自身の端末を取り出す。軽く見てからすぐに顔を上げた。

「ハル、少し出てくる。ミスター・十条に宜しく伝えてくれ」

「おー……そいつは何より、行ってこい、行ってこい……」

疲れた顔で手を振るハルトと、無表情に片手を振る未春にこちらも手を上げ、男は黒いコートを翻して出て行った。

「はー……海外のスタッフさんて、なんかオーラがすごいッスね」

「リッキー……俺も一応、海外出身なんだが……?」

「あ、そういえばそうッスね!」

「ハルちゃんは親しみやすかったね~」

今気付いたというような力也と、笑いを堪えるみたいに口に手を当てて笑っている倉子に返す言葉もない。

「……未春はあいつも親しんだみたいだけどな」

「ウン、あたしも何となくわかる」

「げ、ラッコちゃんも……?」

「あのお兄さん、おっきなワンちゃんぽいから」

――おっきなワンちゃん。

何処かで聞いたセリフだと思っていると、倉子は不思議そうに眺めながら言った。

「小さくて可愛い生き物も癒されるけど 、大型犬の癒しって全然違う凄さがあると思うんだよね。レトリバーやピレニーズとか、バーニーズとか……優しくて、あったかくて、包まれてる感じがして」

「”優しい”ねえ……同業者には一番使いたくない表現なんだが……」

「みーちゃんが良いならいいんじゃない? こないだより顔色いいよ」

「そりゃあ……穂積さん――母親同然の人の所に行ったからじゃないのか?」

「んー、そだねー。そうかも。あたしはみーちゃんが元気なら何でも良いや」

「俺もそう思うッス」

「……何でも……まあ、そうだな……」

背中がミシミシいっていた身としては解せないが、解決したのなら――

いや、……解決、したのか?


――今のままなら、あの子は君に依存して生きるさ。


十の言葉が頭に浮かび、ハルトは渋面で未春を見た。

癒し。依存。これは、どちらだ?

倉子の言う”癒し”ならば問題無さそうだが、仮に依存なら……奴がイギリスに帰ったら――或いは死んだら、どうなる?

「……なあ、ラッコちゃんも、ああいう男と寝たら癒される?」

無意味とは思ったが、こっそり訊ねたハルトに、倉子はぴんと背筋を伸ばし、唖然とした後に唇をパクパクさせてから低く唸った。

「……あたしはー……違うかなぁ……」

「違う?」

「むう、ハルちゃんはそういうのずけずけ聞くよねー……デリカシーなさすぎ……」

『ずけずけ』の意味の方が気になったが、何故か頬を紅潮させた倉子はボブカットの髪を弄いながら不機嫌そうに答えた。

「だって、人間同士で男女なんだよ。日本人て、欧米の人みたいに日常的にハグしたりしないんだから……寝るなんて有り得ないし、想像もつかないよ。家族同士だって、まず無いもん。やるとしたら、何年かぶりに会った時とか……命に関わる時ぐらいじゃないかなあ……」

「じゃあ、未春に対して大型犬ってのは……」

「それはあたしのイメージだよ。小学生ぐらいまでなら、包んでくれる大人は沢山居るけど、みーちゃんは子供の時は児童養護施設で、今は背が高いじゃん。自分より大きなものに包まれる安心感って、あんまり味わったことないんじゃないの?」

「なるほど。確かにそうか」

「ハルちゃんはピンと来ないかもだけど、大人がテーマパークとかで大きな着ぐるみにテンション上がってハグするのに近いんじゃないかな。テレビでさ、お相撲さんに抱えられて喜んでる芸能人とか見たことあるよ」

仰有る通り、ハグの文化がない日本では、大人になってから自分より大きな存在に抱き締められることは稀だろう。欧米でも、ハグはあくまで親しみを込める際の挨拶であり、久しい再会や、長い別れの前、祝い事や葬式、死の淵から生還したような場合以外は、軽いタッチで済ませるのが殆どだ。

――自分は、どうだろう。

大きなものに抱き締められるなんて行為は、両親ぐらいしか――――……

ハルトはふと、覗いてはいけないものの蓋をずらした気がして慌てて閉めた。

――そう、あの、野蛮――じゃない、野性的な紳士……スターゲイジーの巨体が折り砕かんばかりに抱き締めてきた方の記憶に切り替える。

……そうそう、あんなものは珍しい。しょっちゅう有ってはたまらない。

「大型犬っぽく見えるのはさ、あのお兄さんがみーちゃんに対して嫌な感じがしないからだと思う。すごく好きな感じもしないけど……あ、そうだ! マックスに対するハルちゃんに似てるんだよ。ただ、押し付けないで近くに居てあげる感じ」

「なるほどな……ラッコちゃんの観察眼はつくづく頼りになる」

「そ、そお?」

あの紳士ではないが、倉子の勘は動物的というか野性的な鋭さがある。彼女が敵意を感じない相手なら、身近に居ても大きな問題にはならないだろう。

照れ臭そうにした女子高校生に、ハルトは大真面目に頷いた。

「犬は犬ってことだな」

この評価に、何故か倉子はあまり良い顔をしなかった。ましてやじろりと厳しい目を向けてくる。

「ハルちゃんさあ……これで自分が解放されたみたいに思わないでよ?」

「う?……いや、そんなことは考えてない、けど……」

「本当にぃ? ちゃんとみーちゃん連れて遊びに行くんだよ?」

「ハ、ハイ……」

女子高生相手に恐縮したハルトが下げた頭を持ち上げる頃、どこか所在なさげに立っていた力也が二階を見上げて「うわ」と言った。

「十条サン……! だ、大丈夫スか?」

倣ってそちらを見たハルトも倉子も『うわっ』と声をハモらせた。

階段の黒いアイアンの手すりに、漂流してきたぼろ布のような十が引っ掛かっている。ぐらりと顔を上げ、片手を上げたらしいが、さながら妖怪のようだ。

「……みんなァ……おはよう~……」

「十条サン……おはようって時間じゃないスよ」

力也に尤もなツッコミを受けては敵わないだろうに、十は声も出ずに項垂れた。

「ねむい……だるい……天使が見える……」

自ら飲んだ酒にやられている男に、手を貸すようかと足を向けたハルトだが、はたと立ち止まった。

「……何やってんすか」

先に声を掛けたのは、無表情ながらもうんざりしている未春だ。

情けない叔父を手すりから引き剥がし、肩に背負うようにして器用に階段を下りてくる。幾らか懐かしい介護状況を眺めていたハルトが視線を送ると、その先のさららも同じような顔をしていた。

「やっぱり十条さんにはみーちゃんだね」

先日の件を知らない倉子の声に頷く頃、隅の席に据え置かれた十が液体のようにテーブルに流れ落ちた。それを捨て置き、すたすたとキッチンに向かった未春が、流れるようにコップに水を注いで戻って来た。

この間のわだかまりが嘘のように甲斐甲斐しい姿は、どういう心境の変化なのだろう――と、思っていたら、やにわに頭を鷲掴みにして上向かせ、だらしなく開いた口から拷問の様に勢いよく水を注ぎ入れた。溺れたような声(?)を上げてジタバタする男を無視した注水はだいぶショッキングな絵面だが、眺める青少年たちはほのぼのと言った。

「なんか、いつも通りって感じ」

「元気そうッスね」

「Yeah……」

偶然覗いてしまった通行者よ、驚いてはいけない。これぞ、DOUBLE・CROSSこと、ハッピータウン支部の通常運転である。

「未春、風邪ひいちゃうからタオル貸してあげて」

水に関して止める選択肢は無かったらしいさららの優しい(?)呼びかけに、未春は「はい」と頷いた。同じ無表情でもどこか清々しいそれを聞きながら、ハルトは首を捻った。

「……これでアリなら、あれは要らないかな……?」

声に出すつもりのなかった呟きに、倉子が振り向いた。

「ハルちゃん、『あれ』って何?」

「ああ、いや……何でもない」

濡れた髪を拭いているのか絞殺しているのか定かではない様子を見つつ、ハルトはぼやいた。



 国道を歩いていた黒く大きな人影の傍に、一台の黒いマーチンが近付いた。

黒いコートを羽織った人物は何もかも知った様子で車の後部へと乗り込み、車も何も無かったように国道の流れに滑り込んでいく。

「Hi,Black. It's been a while.(やあ、ブラック。久しぶりだね)」

運転席から響いた陽気な声に、シートにもたれた大柄な男は微笑んだままの顔でミラーをちらりと見た。

「久しいな、メイソン」

メイソンと呼ばれた男は、見た目だけは日本人と言われて違和感のない顔だった。

強いて言えば色が白く、身内からトイ・プードルと称されるクセっ毛の下の顔も愛嬌が有り、少年のように頬や唇がぷっくりしている。

「日本はどうだい?」

「良い国だ。人は親切で何でも美味い」

「君らしいや」

薄笑いと共に肩をすくめた男に、メイソンはハンドルを切りながら笑った。

「昨日、ボスがミスター・十条と話した。例の件は予定通りやるって宣言したって」

「わかった。今日はどちらに行くんだ?」

「先に悪ガキ共の相手を頼むよ。僕が通訳するから、好きに喋ってくれ」

「OK.」

「ところでブラック、君、日本に来る前から丸腰だよね? 一応、そこの座席の下に幾つか預かっているのが有るけど、持っていくかい?」

言われるままに座席の下からアタッシュケースを引っ張り出した男は、開けた中身にデザートイーグル44やM1911、戦闘ナイフ等を確認してやんわり首を振った。

「いや、要らない。俺のような者は見咎められやすい。日本の当局にはウチの名刺が通用しないから面倒だ」

これだけ貰う、と言って何の変哲もない黒い革手袋だけ取り出して嵌めた。

「そう言うと思ったけど……これから行く先の連中と揉めたらどうするんだよ」

「大丈夫だ。何かしら有るだろ」

「何かしら、ね」

含みを持たせて苦笑した運転手はふと首を傾げた。

「それはいいけど……やけに身軽じゃないか。 荷物はどうしたの?」

「ホテルに置きっぱなしだ。どうせ大したものは入ってない。財布や名刺、パス、香水は持ってる……」

言いながらコートのポケットを探ったブラックの薄笑いに、わずかに違和感がさした。意外そうに取り出したものを見て、メイソンはぷっと吹き出した。

「なんだいそれ、キャンディ?」

真っ黒な男が持っているのは、アメリカではロリポップと呼ぶ棒付きキャンディだ。カラフルな包み紙のそれに、男はどこか穏やかに笑った。

「昨日、招待された家で貰った」

「君にキャンディを渡すなんて、一体どんなマムだい?」

「マムも素敵だったが、くれたのは愛らしいレディだ。これがどっさり入った瓶が有ったのを面白くて見ていたら渡してくれた。物欲しそうに見えたのかもしれない」

「はは、君はそういうところがあるけど……女の子にキャンディを貰うなんてねえ。うーん、ニムに見せたかった」

笑いながら、そろそろ着くよと言いながら、一つの小さなビルに乗り入れた。

妙に静かな駐車場には、高級車やバイクがずらりと並んでいるが、人の気配はない。冷たく薄暗いコンクリートの中を抜け、エレベーターで上がると、無機質な短い廊下を前にしたドアに辿り着く。

「どーもー、お約束したブレンド社の者ですけどー」

メイソンの気軽なノックに、中から低く応じる声がした。

扉を開くと、小規模な応接間のような空間に、十人以上の男が揃ってこちらを見ていた。二十代から五十代辺りか、派手なシャツやジャケットの者、屋内だというのに黒のダウンジャケットやサングラスの者、髭面にスキンヘッド等々……どの人相も一目で悪党と思われるようなそれだ。どう見ても定員オーバーといった風の室内で、悪党に取り囲まれた中央のソファーに座っていたのは黒ジャケットの男だ。やぶ睨みの目をした不健康そうな顔は若そうにも見えるが、深い皺は三、四十代だろうか。目ばかりがギラギラした男は、ソファーから身を起こして言った。

「確認しろ」

気怠い指示の後、数名の男らがボディチェックをした。

大人しく両手を上げて従った二人の客は、ハサミさえ持っていない。あろうことか、真っ黒なコートのポケットからキャンディが出てきたことに、調べた男は怪訝な顔をしたが、何も言わずに戻した。

部下が頷くのを確認すると、中央の男は言った。

「座ってくれ」

低いテーブルを挟んだ目の前のソファーに顎をしゃくる指図に、二人の客人は何でもなさそうに着席した。

妙な客だった。黒コートに黒服の熊のような大男はずっと薄笑いを浮かべていたし、その周囲からは居合わせた誰よりも強い、深い森のような香りが漂う。クセ毛の男は子犬のような見た目のわりに、この状況でにこにこと笑い、ぺこりと頭を下げた。

「お時間取ってもらって、サンキューでーす。彼はブラック、僕は付き添い兼、通訳で来ました、メイソンです」

フレンドリーな様子で挨拶したクセ毛に、中央の男はむっつりと頷いた。

「鷲尾だ。要件は」

ブラックと呼ばれた黒装束が、ぞわりとするようなバリトンですらすらと英語を喋る。その間も、黒髪の下の真っ黒な目が、鷲尾と名乗った男に微笑んでいる。

「お約束の際にお伝えしましたが、弊社は少々特殊な調査会社でして、今回の日本での調査に、東部鷲尾連合会の皆さんにご協力頂きたいのです」

「そいつは聞いた。具体的に俺らに何をさせる気だ」

「十条十は御存じで?」

鷲尾の顔に、微かに浮かんだ表情は何だろう。少なくとも、良い気分ではなさそうに頷く。

「単刀直入に申しますと、彼を叩いてほしいんですよね」

「……何だと?」

じろりと睨んだ鷲尾の目に、黒い闇が薄く笑みながら再び何か言った。

「再起不能となれば有難いですが、さすがにそこまでは荷が重いでしょう。我々の調査が終わるまで、注意を引いて頂きたいのです」

「一体あんたら、何をする気だ?」

ブラックが笑みを浮かべたまま、静かに首を振る。

「申し訳ありませんが、弊社の調査内容は口外できません。どうしてもと仰るのなら、うちの代表に直接問い合わせて頂き――」

メイソンの言葉が終わるか終わらないかの内に、唐突に鷲尾は黒い拳銃を掲げた。

「俺が聞いたら答えるんだ。此処はお宅らの国じゃねえ」

ドスの利いた声で命じるが、黒装束の男は微動だにせぬまま微笑している。クセ毛の子犬も、きょとんとしたが声も上げない。

「そのデカい奴は、先日、うちの奴と揉めただろ? 詫びも無え内から、中身も話さねえのは礼儀がなってねえんじゃねーか? なあ?」

すると、不意に黒装束が立ち上がった。

立つと、この場に居る誰よりもでかい。大熊のような威圧感に、浮かべたままの笑みが不気味に逆光する。

「す、座れ……! 撃つぞ!」

「Just do it if you wanna do it.」

「な……なん……?」

銃を構えながら慄く相手に、クセ毛の男は肘掛けに頬杖付いて面倒そうに答えた。

「『やりたいならやれ』だって」

言葉通り、銃を前に男の薄笑いは剥がれない。むしろ旧友にでも出くわしたような顔をして銃を眺めた。

「トカレフか。安全装置のない、トリガーに気を遣う面倒なヤツだ……懐かしいな」

スラスラと言った言葉をメイソンが訳すよりも早く、ブラックはずいと前に出て、その穴に無造作に指を当てた。

「な……何を――」

真っ黒な手袋に覆われた指先が銃口を塞ぐのを見下ろして鷲尾は喘いだ。誰もが異様な光景に釘付けになる。男の口元は笑んだままだ。全く動じることなく、もう一方の手の指で銃口を指して低く喋った。

翻訳家は呆れたように笑いながら訳した。

「撃つならよく狙え。そんな風に銃口をぶれさせると危ない。コイツは只でさえ暴発リスクの高い銃だ」

「だ……黙れ……‼ 余計なお世話だ……! このまま撃つぞ!」

威嚇に対し、男は指を当てたまま低く笑った。

「このまま撃つとどうなるかわかるか? 俺たちが痛い目を見るだけならまだ良いが、此処に居る誰かに当たるかもしれないな――……ねえ、ブラック? 僕は当たるのは困るんだけど?」

同僚の当然の抗議に、黒装束が振り向いてにこりと笑う。この有様に、この場で最も強い権威を振りかざせる筈の男は、歯噛みして呻いた。

「……ど、どういう神経してやがる……もういい! さっさと座れ!」

怒鳴った鷲尾に対し、小首を傾げたブラックにクセ毛の同僚が座る様に促した。

「撃たないってさ。あーあ、残念だな~~……」

何故、こいつが残念がる? 一同の変なものを見る視線を受けながら、黒装束の方は銃口から指を離し、わかりやすい英語で同僚に詫びた。

「Sorry.」

「いいよ、ブラック。彼の度胸の問題だから」

それでもがっかりした様子で首を振りながら、クセ毛の男はどこからともなく異様に薄いボイスレコーダーを取り出し、スイッチを切った。

「な……何を録音してやがんだ……!」

急に息を吹き返す男たちに、メイソンは鬱陶しそうな顔を向けた。

「何も録ってないさ。君たちこんなに大勢居る癖に、いい具合の悲鳴ひとつ上げやしないんだもの」

「ひ、悲鳴……?」

「ああ、僕ね……悲鳴を集めるのが趣味なんだよ」

気だるそうに言った男がスマートフォンを取り出すと、ギャアアアアアアアアア!!!!と身でも引き裂かれたような凄まじい声が響いた。思わず声を失う悪党たちに対し、クセ毛の男はよほど無害と思しき顔で次々と再生する。ある者は泣き叫び、ある者は甲高く鳴く鳥のように、ある者は高い場所から落下するように、年齢や男女の区別もよくわからない悲鳴が連続した。生きた心地もしない顔になった連中に対し、コレクターは良い音楽でも聴いた後のような顔だ。

「特にね、日頃でかいツラで歩く人間が上げる悲鳴が好きなんだ。君たちみたいにカッコつけてる連中の正直な悲鳴はなんともファニーでさ、つい聞き返しちゃう」

「……お前ら……本当に何なんだ……?」

「名乗った通りの調査会社ブレンドのスタッフさ。うちの会社は、個人の趣味にとやかく言わないのが良いんだよ。仕事をきちんとこなせば、多少の私事を挟むのは見逃してくれるんだ」

黒装束の男が薄笑いの眉を寄せて首を振った。

「皆が皆、メイソンのような趣味ではないだろう?」

「なんでブラックがそんな顔するんだよ。僕のは比較的、まともな方だってのに」

「一体、何と比較すれば、悲鳴を集める趣味がまともになるんだ?」

「タイラーが集めてるのは各地の水だよ。川や湖だけならわからなくもないけど、あいつ、保管瓶を特注して水溜まりまで集めてるんだよ? いつだったか、ボルドーのブルス広場で這いつくばってたらしいし、どうかしてるじゃないか。ルイーゼの部屋なんて、蟹やザリガニのハサミが標本してあるし、ベイリーなんて使用済みの――」

「うるせえッ…… いい加減にしてくれ!」

意味不明な英語の応酬にしびれを切らした鷲尾が、地団太踏んで怒鳴った。

「此処はお前らの国じゃねえって言ってんだろうがッ!! なあッ⁉」

「Oh……Calm down. How about eating candy?」

怒鳴り声に軽く首を捻った男が、低く呟きながら自分のポケットをまさぐる。英語に思考停止する男たちに対し、メイソン一人が呆れ顔になる。

「ブラックゥ~~……それはもっと小さい子に言う事じゃないかな?」

「Really?」

笑みを浮かべた男が意外そうに取り出しているのは棒付きキャンディだ。

「I'll give it to you. 」

差し出されたカラフルなパッケージを、口を半開きにした男が呆然と見つめる。

「くれるってさ」

「ふざけんじゃねえッッ‼」

鷲尾は立ち上がって吠えた。にこやかな男の手からキャンディをもぎ取ると、勢いのまま床に投げ捨てた。カツンという軽い音と、包みの乾いた音が同時に響く。

「……飴なんか……クソッ……ふざけやがって……!」

歯噛みしながら、勢い任せにバキン!と靴で踏み砕く。

「お喋りは終わりだ! お前ら――」

刹那、ぐしゃりと音がした。

語尾まで発音することはできなかった鷲尾が、顔面を潰されて仰向けに倒れた。

「ひ……!」

両サイドの部下が息を呑む頃には、使う間のなかった銃を指にぶらさげ、鼻と口から血を吹いて悶絶している。

「Don't step on food.(食べ物を踏むな)」

何のモーションもなく、バットのような威力で顔面を殴った拳を浮かせたまま、ブラックは言った。言葉の冷たさとは裏腹に、その顔は笑んだままだ。

「こ――この野郎……ッ‼」

叫んだ男が持っていた木刀を振り上げる。確かに討ちかかった筈が、リーチの差を物ともせずに顔面に飛んだ拳に沈められ、横合いからナイフを向けた男はテーブルに乗っていた重たげなクリスタルガラスの灰皿に頬桁を打ち砕かれる。一撃で床に転がり、痙攣し始める連中を見て、周囲が顔を強張らせて後退った。

この男――先程から、一切の攻撃を頭に……!

「お、おい! こ、こいつがどうなっても――」

クセ毛の男を羽交い絞めにしかけた男には、先程の灰皿がサングラスをぶち破ってヒットした。死にかねない頭部を躊躇いなく狙う男に、喧嘩慣れしている男たちさえ戦意喪失して立ち尽くす。ブラックは動かなくなった連中を見渡し、痛みか恐怖かでがくがくと震える鷲尾の襟首を掴むと、ぬいぐるみでも持ち上げるように容易く引っ張り、血濡れの顔から床へと引き摺り下ろした。

「Eat it.(食え)」

これはお前の責任だと、大きな手のひらが押し付ける先には踏み砕かれたキャンディの破片が転がっていた。床にベタつきながらキラキラしている硝子片のようなそれに、血が滴る。一方で、潰れながらも包みに半分ほど残ったそれをもう片方の黒い手袋が拾い上げ、躊躇うことなく自身で含んだ。

「Good taste. Eat quickly.(旨いぞ。早く食え)」

もうその頃には、鷲尾は体裁も忘れて小刻みに震えていた。不規則にブレる呼気と血を垂れ流す口にはクセ毛の男がにこやかにボイスレコーダーを差し伸べている。

――こいつら……イカれてやがる……!!

痛みと恥辱で顔が火のように熱く、恐怖で身の内は氷と鉛が蠢く様だ。身動き取れずにいると、唐突にベタついた革手袋が口に突っ込まれた。自分の血と、何かはわからないが甘酸っぱい味が口内の傷に滲みた。喰い千切ってやろうにも顎に力は入らず、猿ぐつわでも噛まされたように涎と涙を垂らしてもがくしかなかった。

「おーほほほう、まあまあかな~~、ブラック、もっと押し付けてもいいんじゃないかな? 舌を引っ張るとか」

ほくほくとした顔でしゃがみこみ、ボイスレコーダーを操作する同僚に、どこか呆れた様子の笑みが向けられた。

「メイソン、俺たちの目的はお前のコレクション収集じゃない」

まろやかなバリトンが告げると、ブラックは男をソファーに放り出し、キャンディが無くなった床から立ち上がった。

「先に仕事をしてくれ。俺はボスのヘッドロックは食らいたくない」

「ちぇ、わかったよ。――ボクちゃんたち、見てわかったろ? この男は非常にヤバい。僕のコレクションになる気があるなら歓迎するが、それが嫌なら、先ほどの頼みを聞いておくれよ」

「……お……俺たちも、十条とはるつもりだったんだ……!」

呆然と立ち尽くしていた一人が震えた声を上げる。

「で、でも……あの野郎も、周りの連中もバカみたいに強くて――……だから、娘をと思ったら、あんたが――……邪魔を……」

語尾はもう聞き取れないほど掠れていたが、クセ毛の男は穏やかに笑って同僚を振り返った。

「ブラック~~……、どうも僕たちと彼らの間には、君が手を出したことが原因のわだかまりが有る様だよ。ここは責任を取るのが、英国紳士ってもんじゃないか?」

「俺は他にやることがある。だから彼らに頼んでいるんだが?」

「だからさ、娘は君が何とかしたまえよ。人質さえ取れば、何とかできるって言ってるじゃないか。――ねえ、君たち?」

呼び掛けに、悪党たちは半信半疑といった様子だが、数名が頷いた。

「あの……それと、例の件は調べて貰えるんでしょうか……?」

精一杯の丁寧語を捻り出した男に、メイソンが首を捻る。

「何だっけ……人捜しだっけ?」

「そ、そうです。盗られたものを取り戻さないと――……」

交換条件の一つとして受けていた依頼に、二人の恐ろしい客は差し出される端末を覗き込む。映っていたのは、人ではなく――否、人も映っているが、アップになっているのはバイクだ。安定感がある印象の黒いバイクだが、夜の闇に紛れてよく見えない。温和な笑みで写真を見ていたブラックが低く言った。

「I think that's……Triumphトライアンフ Bonnevilleボンネビル T100.」

「え、じゃあ、これって……」

「ご……ご存じなんですか?」

しゃちほこばる男に、二人は顔を見合わせて頷いた。

「恐らくだけど、うちのボスのストーカーだと思う」

「ス……ストーカー?」

「OK、OK……ちゃんと調べてあげるよ。こっちの推測通りなら、君たちは手を出さない方がいい。かなり面倒なお嬢さんだから」

薄笑いを浮かべたままの男も、同僚の言葉に頷きながら言った。

Spicy スパイシーNancyナンシー……相変わらず無鉄砲な娘だ」




 その男女が対面したのは、静かなクラシックが流れるカフェだった。

自然光が注ぐ大きな窓は優雅なドレープを描くカーテンが縁取り、その向こうには整えられた木々や低木が広がる庭園が見える。パリッと糊の利いたクロスが掛けられたテーブルを挟み、二人は挨拶を交わした。

「ナンシー・アダムズと申します」

「はじめまして」

ごく自然に握手した男女は、どちらも働き盛りのビジネスマンと思しきスーツ姿。女はブロンドを束ねた欧米人、男は如何にも実直そうな日本人、仕事の一環にも私的な付き合いにも見えたが、強いて言えばどちらも視線が鋭い。

「NCAの方とお会いできるとは思いませんでした」

名刺を確認しながらの社交的な笑みに、女も華の有る笑顔を浮かべた。

「いいえ、こちらこそ。高名な警部さんとお会いできて光栄です」

女の賛辞に男は苦笑混じりに首を振った。

「イギリスに名が売れる程の活躍はしていません」

「……ええ、表向きにはね、末永すえなが警部。申し遅れましたが私、元は調査会社に居ましたの。その頃から、調べるのは得意です」

末永と呼ばれた男は苦笑いのまま、席を勧めた。

「さぞかし、ろくでもないデータが流れている事でしょうね」

「フフ、ご心配なく。プライベートな事までは覗いていません」

「では……自宅に直接、手紙を届けてまで、私に何の御用ですか?」

自身も着席しての問い掛けは、急に取調室に投げ込まれたような圧迫感がある。

尤も、女は女で、友好的な態度が嘘のように、男に注ぐブルーグレーの目は冷たい。

「まず、東部鷲尾連合会について」

女の問いに、末永はやや虚を突かれた顔をしたが、頷いた。

「以前から、都内を中心に活動する暴走族上がりの暴力団ですね。彼らが何か?」

「あの組織に拳銃が流れています」

優雅な音楽に混じるにはあまりの異物だったが、末永は冷静に周囲に気を配った。

周りは全て、紅茶を楽しみに来た一般人のようだ。平日の午後、友人や仕事仲間、或いはビジネス、又は家族と過ごす為に訪れた人々だろう。テーブルとテーブルは十分な距離が保たれ、スタッフもフロアをゆったり移動している。

「それは……存じ上げませんでした。担当課では掴んでいる情報かもしれませんが、私は直接的な管轄ではありませんので」

「では、こちらをどうぞ」

女は何でもなさそうに、見たことのある菓子メーカーの紙袋を手渡した。干菓子が有名な会社定番の缶が入っていたが、その重量は羊羮程には重い。

「……これを何処で?」

中身を察した男の、平時の二倍は砥がれた視線を前に、女は事も無げに微笑んだ。

「奪いました。彼らから」

信じがたいものを見る目が女を射ぬいたが、全く動じることのない目は視線を撥ね返した。

「奪ったとは――……力ずくという事ですか?」

「末端のボクたちは、玩具感覚で持っていたのでしょう。詳細は話すほどのことではありませんが、バイクで掠め取ったと申しましょうか」

「何故、これを私に?」

「ほんのご挨拶です。日本では気持ちを示すのに『菓子折』というものを持参するのでしょう? ご安心下さい、”中身”は抜いて、きちんと別包装にしてありますわ。たかが一丁では用を為さないかもしれませんが、”確かに存在すること”は大きな収穫の一環だと思います」

既に、袋を見つめる末永から、社交的な笑みは消えている。

「日本警察に、何をお望みですか」

「ご協力願いたいのは貴方お一人です、ミスター・末永」

「私如き、一介の刑事に何を」

「正義の為に、働いて頂きたいのです。……貴方、BGMはご存知?」

流れるような問い掛けに、末永は何故かぎくりとした。勘が”それ”の正体を告げ、何に関わるものかを告げていた。

「……BGM?」

刑事の鈍い反応に、女は幼子を見るような目で淡いピンクブラウンのルージュを微笑ませた。

「もちろん、バック・グラウンド・ミュージックのことではありませんよ」

「そうでしょうが、……存じ上げません」

「では、十条十は?」

来た、と思った。

ギャンブルに興じたことなど無いが、もし、自分がスロットやルーレットの行方を見ていたら、狙いすました場所に欲しいものが来た時――こんな感情になるのかもしれない。声を上げない分、冷静な男は緩く首を振った。

「……知っていますが……彼が何か?」

「彼は、日本の裏社会最大の力を持つ悪です」

「悪……彼は、一般人では?」

「イイエ。彼が代表の一人を務める世界的な殺し屋組織こそ、Backバック Groundグラウンド Militaryミリタリー、略してBGMです」

「BGM……彼がそうである証拠はあるのですか」

「証拠?」

女はせせら笑った。

「貴方が、悪を庇う気が無いのなら、その質問は無意味です」

「……罪を憎んで人を憎まずと申します。中国の孔子の言葉ですが、我が国も疑わしきは罰しません」

女は今度は鼻で笑い、首を振った。

「それは奴らの思う壺というものです。貴方はいつも証拠を掴もうとして、掴めずにいるのではありませんか?」

押し黙った男を見つめ、女は語調を少し和らげた。

「私は長年、このBGMに与しイギリス国内を牛耳る男を追ってきました。ボス・スターゲイジーこと、本名ロバート・ウィルソン。彼は調査会社ブレンドを仕切り、厚かましくも表社会と裏社会の双方で同じ会社を立てて運営をしています。この男が来日し、滞在中です。確実に、何かをやるつもりでしょう」

「何か……と、仰いますと」

「良くて機密情報搾取、或いは殺人でしょうね。彼が国を離れることは、ここ最近では珍しいことなのです。以前は、我が国のスパイでしたから、世界中を彷徨いていた様ですけれど」

「……その男と、十条が関わりあると?」

「ええ。この国の裏は十条が仕切っています。彼らは、他国で活動する際、その国のトップに断りを入れるか、協力要請をする。接触していることは確認済みです。十条は常人の数倍は鋭敏な男なので、写真は撮れませんが」

流れるような話に、末永はわずかに目を伏せてから、改めて鋭い視線を女に向けた。

「貴女は、何故そのようなことをご存知なのですか。この件はNCAの指示ではないのでしょう? ……お勤めだった調査会社が、そのブレンド社だからですか?」

女は微苦笑を浮かべて肩をすくめた。

「仰る通り、NCAとは無関係。私は休暇を使った只の旅行者。――御推察通り、ブレンド社に居ました。ですが、内情に通じるのは、お恥ずかしながら身内の始末なのです」

「身内……?」

頷いた女は、さらりと言った。

「私は、スターゲイジーの娘ですもの」

末永は、すぐに返事をしなかった。女をしばし見つめる。女も何も言わずに、美しい緋色に満たされたカップを傾けた。JS.バッハの『G線上のアリア』が包み込む中、微かな食器の触れ合う音と、物静かで他愛ないお喋りが響く。

「……すぐに、お返事ができることではないと判断しました」

幾分、迷いのある回答に、女は優しく頷いた。

「構いません。容易く受け入れる方が難しいでしょうから。御決心がつきましたら、いつでもご連絡下さい。私の方からお伺い致します」

「……質問をしても、宜しいですか」

「どうぞ」

「先ほど、”正義の為”と仰いましたが、貴方は御自分のお父上をお国の犯罪者として逮捕するつもりなのですか」

「ええ、そうです」

「仮に、我が国にもそうした組織の人間が居るとして、それはどうなさるので?」

「私が、貴方にお声がけしたのが答えです」

友好的でありながら、冷たい色をした目を末永は見つめた。

「もう一つだけ、お聞かせください」

「幾つでも構いませんわ」

「BGMには、貴女が逮捕したい男と、日本の悪以外にも、世界中に居るのですか」

女の顔色が微かに変わった。

「……ええ、そうです。私も全ては把握していませんが……アメリカやドイツにも、彼らと同格の悪党が居ます」

「なるほど。……お話はわかりました」

急に腑に落ちたように頷いた男に、女はやや虚を突かれたようだがふっと笑った。

「ご理解頂けたこと、感謝します」

男は据え置かれたままだった紅茶を行儀よく喫し、首を振った。

「いえ、貴女のお話の内容を理解したに過ぎません」

「十分です」

「十分、ですか」

何か含みのある返答に女はわずかに眉をひそめたが、男はもうその頃にはカップを丁寧に置き、例の紙袋と伝票を手に立ち上がった。

「検討の上、改めてご連絡致します」

静かに伝えると、末永はきちんとした会釈こそしたものの、女が何か言うよりも早く立ち去った。

会計をする姿を見つめながら、女はどこか口惜しそうに独りごちた。

「……手強いわね。日本の犬は」




 「どうだ?」

ハルトの問いに、向かいに腰掛けた外国人――はっきりした目鼻立ちと焦げ茶色の短髪と目をした男は、瞑想するように虚空に向いていたが、にこりと頷いた。

「とても美味しい。なんだか子供の頃を思い出すよ」

スペインの血が混じっているというアメリカ人のピオ・ルッツは、湯気を立てるカップに笑い掛け、曇った眼鏡を拭いた。その容姿は、最後に会った時とまた違っている。BGMの清掃員クリーナーの中でも特殊な演技専門の男は、別人に成り代われる高度な技術の持ち主だ。今はそれが都合が良いのか、少しだけ髭を蓄え、何の変哲もない眼鏡と暖かそうなニットという軽やかな装いをしている。

「そうか……俺はなんか一味足らん気がするんだが……」

鍋の中身をひと回しして、ハルトは首を捻る。ピオはどこか可笑しそうに、その黒いエプロン姿を眺めた。DOUBLE・CROSSの厨房である。営業中だが、例によって客はまばらな時間帯。表をさららと未春に任せ、訪ねてきたピオを引っ張り込んだハルトだ。

「ミスター・ジョンのレシピ通りなんだろう?」

期せずして頂くことになったものに問い掛けたピオに、ハルトは頷いた。

「多分……未春のカレーと同じ原理だと思うんだよなあ……本人たちが無意識でやってる事が、味を左右してるんだと思う」

「僕はミスター・ジョンがこんな家庭的なことをしていた事実で、隠し味は十分だけどね」

面白そうな返答に、ハルトは思考停止したような顔をしてから二、三頷いた。

「ああ……そうか、清掃員界隈には知られていないんだな。奴はピーチコブラーも作るし、ブルーベリーバックルも焼く」

「Wow、凄いな。君も凄いけれど」

「俺は奴に比べたら素人だよ」

「そうじゃない。君が誰かの為にアップルサイダーを作ることを讃えたんだ」

「……ふーん……そういうもんかな……」

ぼやくように答えると、ハルトは鍋を見下ろした。

そこにはシナモンスティックを挿した丸のリンゴ、スターアニス、オレンジの皮、真っ赤なクランベリーなどが、甘い香りの橙色に浮いている。鍋を眺めながら、ハルトは自分のカップの中身を含み、もう一度首を捻ってからはたと顔を上げた。

「そうだ、ピオ――いまスターゲイジーが来てるんだが、知ってるか?」

「聞いてるけど……それしか知らない。まさか一人じゃないよね」

「ああ。一人でも呑気に来そうだが」

「同行者は誰だい?」

「ブラック・ロスって男が来てる」

「ブラック・ロス……!?」

立ち上がりそうになる男に、ハルトは鍋を閉じながら怪訝そうに言った。

「奴を知ってるのか」

「えっ……君は知らないのかい、フライクーゲル?」

「その呼び方やめてくれ。……俺はよく知らないんだ。最後にイギリスに行ったのは何年か前だし、その時は居なかった」

「ああ……そう――五、六年以上前ならそうかもしれない。……彼は民間軍事会社ジュガシヴィリの生き残りだ」

「ジュガシヴィリ?」

ピオは何処か寒そうな目をして頷いた。

赤軍クラースナヤ・アールミヤのイメージと言えば伝わるかな? 残虐且つ非道なやり方で国際社会の反発を買っていた組織だよ。某国が行っていた戦争や、隣国の内戦等多くの戦闘に関わったが、最終的にはある戦争の贖罪の山羊スケープ・ゴートとして謀殺されたんだ。戦争での主な仕事は、殺人よりも輸送だったらしいけど、結果的に虐殺、強奪、誘拐、強姦は常習だったとか……」

「密輸や横流しをする過程で、戦闘に加わってたのか」

「そう。日本の組織とも、やり取りがあったんじゃないかな? この会社は戦場に出ているグループの他に、武器の輸出入に厳しい国と取引するグループが居た筈だから」

日本にはディックのような悪党も居るが、この手の組織との関りはゼロではあるまい。或いは、現地にパイプを持つ者を仲介し、マフィアやギャング、日本なら暴力団に武器が流れるケースはまま有る。

「彼は幸運にもただ一人生き残り、この調査に来たスターゲイジーに拾われたと聞いた。当時は既に大人だったようだけど、子供みたいだったって話だ」

「子供……」

それが五、六年前の出来事だとすると、スターゲイジーとラッセルの教育はさぞや厳しく行われたに違いない。今のあの男は、素性を知らなければ何処に出しても恥ずかしくはない紳士だ。

「お前が恐れ慄くからには、相当なヤツなんだろ?」

「……僕も話に聞いただけだけど、彼の前では男も女も、子供も老人も関係ない。彼自身には身の危険に対処する以外の殺意はないそうだが、ついさっきあやしてやった子を笑ったまま殴り殺せるような男だとミスターが言っていたよ」

ハルトは思わず天を仰いでから溜息を吐いた。

「……癒しとは無縁じゃねーか……」

「癒し?」

「……こっちの話。だが、奴の笑顔は表面上のものだろ?」

本心から笑った状態で人殺しが可能なら、シリアルキラー並にたちが悪い。

「さあ……実際はどうなんだろうね。だって、自衛に使っていた笑顔を、既に他の事にも利用しているんだろう? それは僕らの演技に近いじゃないか」

一理ある。笑っていた方が痛い目をみないという理由から発生した笑顔でも、相手を油断させたり、騙したり、殺人を犯すのに用いていたら、結果的にはその通りだ。

「僕はスターゲイジーの件はムロに聞いたんだけど、ミスターは、彼が来ていることは知っているのかい?」

「俺は言っていない。今、俺はあの人の部下じゃないからな」

「ミスターの事だから知っていそうだけど……一応、僕から一報入れておこうか」

言うなり、すぐに端末を打つ手早い清掃員を眺めてから、ハルトは店内の未春を見た。彼はこちらを見ていなかったが、前と同じようにきびきび動いている。

「あいつ、此処に泊まるんだよなー……」

突如ぼやいたハルトに、「えっ」と非常にわかりやすく驚いたピオはあたふたと入り口を振り返った。

「こ……此処に泊まるの? 大丈夫なのか?」

「まあ……大丈夫なんじゃないか。今の話で不安要素は増えたが」

しかも未春が添い寝させる気だと言ったら、ピオは椅子からひっくり返るかもしれない。

「君たち二人が揃っているなら、不安はないだろうけど……気を付けた方がいいよ」

「ああ、せいぜい頭割られねえように気を付けるよ」

「う、うん、それもあるけど……」

すっかり玄関口が気になり始めた男は、落ち着きなくそちらを見たまま言った。

「フライ――……じゃない、ハル……スターゲイジーの来日理由、君はどう思う?」

「さあ? 新しい拠点の確認は噓じゃないだろうが、何かの調査だろ? 誰か死ぬのかもしれないが」

「それは――……そうだね、ブレンド社は裏も表も調査が主体の会社だ。でも、これってロンドンの……殺人事件とは関係ないのか?」

「お前、ちゃんとチェックしてるんだなー……」

危機感よりも感心を示すハルトに、ピオは気恥ずかし気に頭を掻いた。

「次にどこに行くかわからないからね……急に飛ばされた所でおろおろしたくない」「仕事熱心だな」

「そうでもないよ。なるべく、ミスターの期待には応えたいだけさ……それで、君の見解は?」

『リーフマン』の件が脳裏を掠めたが、ハルトは首を振った。

「無関係とは言い難いが、ピンとは来ないな。殺人犯を追っ掛けるなら、それは警察の仕事だろ?」

「その通りだね。アメリカなら、FBIじゃなくてCIAの出番だ」

苦笑したピオに同じような笑みを返すと、彼は冷めたカップに口を付けて首を捻った。

「なあ、ハル……もしかして、これに足りないのはさ、Loveじゃないか?」

「Love……?」

「この間、明香と食事に行ったんだ。居酒屋ってやつ。どれもすごく美味しかった。……そこのマスターが、美味しさの秘訣を『ラブ』って答えたんだよ。アメリカでは友達なんかにもLoveはカジュアルに使うけど、日本では特別な表現みたいだね」

「Loveねえ……」

据え置かれた鍋を見下ろし、ハルトは何度目かのぼやきを口にした。

「それは俺は持ってないから足せないな」

呟きに、淡いサンセットカラーにとっぷり浸かっているリンゴがくらりと揺れた。

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