4.Black.
東京の郊外には場違いなヤシがそびえ、葉は縮れて殆ど付いていない。
一般車と大型トラックの轟音に紛れ、バイクの叫び声が長く尾を引いて走り去る。
うるさくて埃っぽい。だが、各所に異国情緒あふれる此処は何となく面白い。
一人で来るのは初めてだ。
いくら父母と仲の良い娘でも、彼らに話したくないことや聞かれたくないことは有る――母にはちゃんと行き先は伝えたのだから、別にやましいことはない。さららに相談したいことは山ほどあるし、未春のことは大好きだ。それに、あの店には前から気になっていた同世代の女の子も居る上、新規参入のハルちゃんは、あの父に平然と「Who are you to say that?」などと呆れ顔でツッコミをした。文句ナシに頼り甲斐が有って面白い。
今日は誰が居るかな。
胸膨らませながらストリートを闊歩していると、国道から脇道へ一台の車が抜けてきた。ちょうど、実乃里の進行方向にゆっくりと滑り込むように来た白の厳ついミニバンに、嫌な予感が胸を掠めた。自慢する気は毛頭ないが、子供の頃から感じの悪い男に絡まれやすい。
実乃里は歩調を速め、車の後方からすり抜けようとした。
刹那、パアーッと大きなクラクションが響き、びっくりした実乃里が飛び退くように身を引くと、窓から如何にも悪そうな顔を覗かせた男と目が合った。
「君、可愛いね。何処行くの?」
「……」
自分がカッコイイと信じて疑わない悪人面に頬が引きつる。
――何なのよ、そのダサい髭と、とってつけたようなごついシルバーアクセサリーは。やたらにムスクが香る香水と一緒に匂ってくる煙草に実乃里は顔をしかめた。
「ねえ、無視しないでよ。どっか遊びに行こうよ」
チッと舌打ちして実乃里は脇を向いた。一瞬でもコイツのタイプだと思われたことに吐き気がする。ちらと周囲を見た。辺りに車は通るが人は居ない。具合が悪い事にちょうど開いた店が無い辺り。DOUBLE・CROSSまではまだ距離があるし、走って逃げると追い付かれる可能性の方が高い。未春が居れば大声に気付いてくれるかもしれないが、国道の激しい往来に掻き消されてしまいそうだ。
警察? 事件ですか事故ですかなんてやってる暇はない!
「おい! 無視すんなよ!」
しびれを切らした男が声を荒げたのを機に、実乃里はぱっと走り出した。
背後で「あっ」と声がし、乱暴に車のドアを開閉する音がした。バタバタと走って来る音がしたが、気にしている場合じゃない――
「待てよ! この――」
殆ど真後ろに男の声がしたときだった。ぎゃっと不細工な悲鳴が上がった。
思わず振り向いた実乃里が見た先には、尻もちをついて呻く男と、その前に突っ立った黒い長躯が在った。
「……パパ?」
一瞬、実乃里がそう呟いてしまったのは仕方がない。が、すぐに父ではないとわかった。何かはわからないがセクシーな、しっとりした森のような香りが鼻を突き、父と似たクセのある髪をした男の背や肩幅は知ったそれを遥かに超えている。重そうなチェスターコートに覆われた姿は、巨大な熊のようだ。
「papa?」
一単語にぞっとするほど色気を滲ませた男が、振り向いた。
長い前髪の下の顔が映画俳優のようにハンサムなのに実乃里は目を見開き、同時に何故か――そのうっすら浮かべた微笑みに慄いた。身を縮めた少女に、男はのんびり小首を傾げて呟いた。
「I don't have children.(俺に子供は居ない)」
「?? ご、ごめんなさい……パパに似ていて……あれ、そっくりって何て言うんだっけ? ……マイ・ファザー……ライク・ユー?」
指差しジェスチャーと共にしどろもどろに答えた少女に、男は薄い笑みを浮かべたまま、微かに目を瞬かせ、やはり低く呟いた。
「Blimey……(なんてことだ)」
実乃里がその意味を訊き返すより早く、すぐ傍で尻もちを付いていた男が大声を上げた。
「て……てめえッ! いきなり何しやがる……!」
「Oh, sorry……I didn't get enough sleep.(ああ、すまない。ちょっと寝不足で)」
いっそう、体が強張る程の低いボイスが響いた。
謝られているのはわかっただろうが、その後のすらすらと続いた英語は理解できなかったらしく、男は勢いを削がれて喘いだ。冷静になれば、頭一つ分ほどの格差がある相手は、肩幅から足の長さまで何から何まで勝っている。そして、謝罪の割にずっと貼り付いている薄い笑み。アウトローはそれ以上何も言えずに固まった。
ほんの数秒の緊張感の末、先程とは別のクラクションが鳴り響いた。角に入り込んだまま停車していた車の後方から、大型車が迷惑そうに退けと叫んでいる。
悪党は舌打ちして、妬ましそうに男をじろじろ見ながら車に戻って行った。車道に出たら轢き殺してやるという顔のまま、一方に進む他ない脇道を突っ走っていく。実乃里はゴミを見るよりも嫌そうに見送り、おっとり眺めていた黒い男を振り返った。
「あの……Thank you so much……」
簡単な英語を自信なさげに喋った少女に、男は微笑んだ。
「Don’t worry.(気にしないで)」
先程、アウトローに話しかけた時よりもずっとゆっくりした話し方に、実乃里はようやくほっとした。緊張が解けたのがわかったのか、男は少しおどけた調子で、やはり一言一句ゆっくりと付け加えた。
「I was really sleepy.(本当に眠かったんだ)」
「こんなところで?」
本当にパパみたい、と実乃里はクスクス笑った。
しかし、そこは十条
先程逃げ出した際、この男は “全く視界に居なかった”。ベースサイド・ストリートは緩やかにカーブしているが、一定の場所以外は現在地のように殆ど真っすぐに等しい為、数十メートルは先が見える。彼がどちらの方向に歩いていたにしろ、歩道に見えていなければおかしいのだ。周囲にちょうど出てくるような店も無く、建物とのすき間こそあるが、そんな場所にこんな大男が猫のように潜んでいたかと思うとぞっとしない。
「……Where are you going?(何処に行くの?)」
ダメ元で聞いてみた実乃里に、男はほんの少し口角をもたげて答えた。
「DOUBLE・CROSS」
「どういう組み合わせだ……?」
十が見たら泡吹いて卒倒しそうな二人連れに、ハルトは既に疲れた声を絞り出した。
店内の視線を一身に集める男は薄ら笑い、下手をしたら援助交際に見える女子高生はもじもじと両手を噛み合わせた。
「すぐそこで、悪そうなのにナンパされたとこを助けてもらったの。そしたら、此処に来る予定だって言うから……ハルちゃんの知り合いだったんだね」
「Hi,Haru.」
呑気に片手を上げた低い挨拶に、ハルトは渋面で応じた。
「Hiじゃねーよ……Tell me if you're coming.(来るならそう言ってくれ)」
「You look very tired.(疲れてるみたいだな)」
「……Leave me alone.……(ほっといてくれ)」
昨日、優一との荒療治を終えた未春はやや落ち着いた顔つきで帰って来たものの、眠る際は結局、横にべったり貼り付いて離れなかった。絶妙なバランス感覚で上に乗っかって来る二匹の猫を含めて、死角のないフォーメーションに固められて寝る羽目になったハルトは、寝たのかもよくわからないまま、気付いたら朝だった。
そこから数時間も経たぬ内に、コートを脱いでも真っ黒な容姿が不吉な相手と対峙する――脳が疲れてかなわない。
おまけに、コイツの香りはどうしたわけか胸に浸み込んできて気分が悪い。実乃里が隣で平気そうな顔をしている上、店内の女性客がさざめき合う様子からして、女性は好きな香りなのだろうか。どの女性も、彼が上着を脱ぐ仕草から釘付けだ。
その上、実乃里がコートを脱ぐのをごく自然な動作で補助するのは恐らく、英国紳士代表の同僚仕込み。
「未春ちゃんは居ないの?」
ブラックに礼を述べた実乃里に、ハルトは二階を見上げた。
「……居るけど、休憩中なんだ。呼んでこようか?」
すぐに気付いて来ると思ったが、沈黙しているということは体調が芳しくないか、眠っているのかもしれない。
「ううん、いいの。休ませてあげて。さらちゃんとお喋りしてるから」
にっこり笑ってブラックに頭を下げ、実乃里は片手を振りながら、こちらも嬉しそうなさららが待つカウンターへと歩いて行った。
「ミスター・十条のお嬢さんは可愛いな」
「知ってて助けたか。手を出したらクレイジーなパパに殺されるぞ」
「濡れ衣だ、ハル。次は送迎かボディガードを付けた方がいい。彼女、意図的に狙われた」
「何だと?」
咄嗟に周囲を見渡し、英語が堪能そうな人間が居ないのを確認すると、ハルトは声を潜めた。
「どういうことだ」
「俺は此処に来る前、このストリートを端から歩いていたが、同じ車が国道と脇道を周回していた。一人歩きの若い女性なら他にも居たが、奴が声を掛けたのは彼女だけだ。単に他の女はタイプではなかったかもしれないが、それなら此処を周回する意味はない」
確かにそうだ。しかも、人通りの多い繁華街や都心部ならまだしも、この静かな郊外の一角で真昼間から一人歩きの女性をナンパする奴は異様だ。
「十条さんの娘だと知って、近付いたってことか?」
「ミスター・十条の素性を知っているなら可能性がある。男の素性は『パパ』に送っておいたから、後は彼が調べるだろう」
「う……? ついさっきの話だよな? もう素性がわかるのか?」
知らぬ悪党がどんな残虐な目に遭わされるのかよりも、根回しの速さに慄いたハルトに、ブラックは前髪の下から悠然と微笑んだ。
「車のナンバーと容姿がわかれば、潔白な一般人以外はさほど時間は掛からない」
ブレンド社の社員は、表側だろうと裏側だろうと、
……まったく、恐ろしい会社だ。
「わかった。実乃里ちゃんの件は助かった。俺からも礼を言うよ」
「気にしないでくれ」
やんわり微笑み、彼は眠そうにあくびをした。
「それで、あんたの用事は何なんだ?」
「ドーナッツ」
「……あ?」
「ドーナッツだ」
「ええい、二回言わんでもわかる……誰かの使い走りか?」
「いや、俺が食べたいだけだ」
「周辺を歩き回った上で?」
「哨戒は俺のクセだ。行動範囲になる場所は、あらかじめ建物の配置を見たい」
「戦時下かよ……ったく、スターゲイジーはどういう社員教育をしてるんだ……?」
戦争屋のクセを修正せぬまま使っているということは役に立つのだろうが、日本の郊外でこんな黒いデカブツがうろうろしていたら怪しまれること請け合いだ。
絵に描いたような危険人物だが、こいつもハッピータウン要素がある……ぶつぶつと意味のない文句を垂れながらも、ハルトはさららに紹介し、お目当てのドーナッツを奢ってやった。
「ホントに、俳優さんやモデルさんじゃないの?」
美男は見慣れている筈のさららも、握手した手をもう片手で包みながら呟いた。穏やかに首を振った男の何とも色気のある笑顔に、ほうと溜息を吐く。
「ハルちゃん、ハルちゃん」
実乃里がくいくいと袖を引くので振り向くと、彼女はハルトが上司か従兄に殺されかねない距離まで唇を寄せてそっと耳打ちした。
「ミスター・ブラックと連絡先、交換したいの。何て言えばいいか教えて?」
「げー……やめときなよ……こいつは俺らと同類、或いはもっとやばい奴だぞ」
「でも、助けてもらったお礼がしたいよ」
「……うぬう……俺に聞いたって言わないでくれよ?」
消去法ですぐにバレそうだが、フレーズを教えてやると、実乃里はスマートフォンにメモしながら頷いた。すぐに隣の男に話しかける辺り、なかなか積極的だ。
さららも特に苦言を呈しない。……まあ、確かに、誰と付き合うか決めるのは彼女自身だ。倉子や瑠々子はそもそもが部外者である為、BGMと関わらぬよう努めてほしいが、実乃里の場合は身内なので無理だ。どうあがいても、何らか……巻き込まれる可能性は浮上して来る。頼れる相手は多い方が、彼女にとって有利だろう。
少なくとも、実乃里が一言も喋らずに逃げようとした悪党に比べれば、この男は英国紳士のレクチャーを受けているし、彼女を助けたのも事実。ブラックもブラックで、断る気は無いらしい。……調査会社の名目で言えば、これほど入手困難な連絡先も無いのかもしれないが。
「Thank you.」
にっこり笑った実乃里に、例の薄笑いが嫋やかに返される。彼はこの風景をすっぱ抜かれただけで、なます切りの目に遭いかねないとわかっているのだろうか。
「さらちゃんのドーナッツ、美味しいね」
キャラメルとバナナのドーナッツを手に、ちら、と実乃里がこっちを見る。
ハルトは面倒臭そうな顔で、小さく見えるグレーズドドーナッツを手にこちらを見ているブラックに向き直る。
「……This donut is very tasty.」
「It’s wonderful.」
ブラックが実乃里に答えてからハルトを見る。見られたハルトは今度はわくわくした目の少女を見て言った。
「絶品だ……――いや、今のはわかるだろ……?」
仲を取り持つ同時通訳に早くもしびれを切らしたハルトに、実乃里とブラックが顔を見合わせて笑い合った。
「なんだか二人とも、相性が良さそうね」
余計なことを言うさららにハルトが何か言うより早く、バン!と二階の扉が開いた。
中から二匹の獣(猫)を従え、締め切りを控えた作家のような顔の未春がのろのろと階段を下りてきた。重量を感じさせない軽やかな歩調のビビに、猫のくせにぼてんぼてんとゴム製ボールを落とすようにやって来るスズ、その二匹よりも重い足取りの未春は、こちらに向いた目線だけがばかに鋭い。
「未春ちゃん」
嬉しそうな声を上げた実乃里だが、すぐに怪訝な顔になる。
「どうしたの。この前より具合悪そう」
不安げな面持ちになる少女に、未春は何かを振り払う様に首を振り、「大丈夫」とぼそりと答えた。すぐにブラックに向き直り、闖入者を見る目でじいっと見た。
「話聞いてたか?」
ハルトの問い掛けに、曖昧に頷いた。体調不良でも、ずば抜けた聴覚は健在だ。
「一応、可愛い従妹の恩人だ。あんまり敵意剥き出しにするなよ」
「剥き出してない」
嘘つけ。――胸中に吐いていると、突き刺すような視線にも薄笑いで応えていたブラックが立ち上がった。
「Nice to meet you, Miharu.」
例のぞわりとする声に合わせ、大きな片手が差し出される。未春は無言で片手と薄笑いを見上げ、無言でその手を握り返した。握手を交わしているだけなのに、何やら修羅場を見ているような心地にさせる。そこに実乃里が顔を覗かせた。
「ね。未春ちゃん、うちに来ない?」
「トオルさんの家に……?」
躊躇する面持ちに、実乃里が不安げに眉を潜める。
「おいでよ。明日は休みだし。お仕事ならウチから行けばいいじゃない。未春ちゃんは料理上手だけど、ママのごはんで育ったんだから、食べたら元気になるよ」
なるほど、正論かもしれない。
「そうだ、ブラックも来ない? こんなハンサムさん、ママ大歓迎だと思う」
「Really? That makes me so happy.」
余裕の態度で微笑んだ男の声に、未春の頬がぎぎぎと引きつる音がした気がした。
何か抗議を窺わせる目でちら、とハルトを見る。
――なんだ、お前……俺は翻訳家じゃねえ、自分で言え。
視線で理解したのかしていないのか、今度はさららに訴えるような目を向ける。
彼女は苦笑混じりに頷いた。
「行って来たら? 明日だってゆっくりしてくればいいわ。トオルちゃんはうちで預かってあげるから」
未春が戸惑った顔をしている中、先に実乃里が両手を合わせた。
「本当? 嬉しい! パパが居るとうるさくてお喋りできないから」
「いいでしょ? ハルちゃん」
「俺は構いませんよ。前にも世話してた人ですから」
介護が必要な高齢者がやって来るような言い方に、実の娘がクスクス笑った。
肝心のパパの猛反対が有りそうだが、既に実乃里は権限が強そうなママに連絡を取り始めている。当の未春は四の五の言うかと思ったが、ブラックが行く上に十が留守の状態では行かない筈がないだろう。スターゲイジーの部下に絶対の信頼を置くとは言い難いし、直接的な危害以外にもガードしたい事情はある。まあ、彼が実乃里や穂積に危害を加える意味は全く無いし、どちらかといえば何か有った際の補助で十に恩を売る方が効果的なので、その辺りの心配は有るまい――家に立ち入った件をどう思われるかは別として。
「ママいいって。今日このまま一緒に帰ろ!」
細い両の手のひらで片手を包まれた未春が、困った様にまたこちらを見た。
「行って来いよ」
背を押すようなハルトの言葉に、未春は俯きがちに実乃里に頷いた。
「……わかった。準備して来るから」
にっこり頷いた実乃里は、いつものキレのない足取りで戻って行った未春を見送ると、物静かに微笑んでいたブラックに振り向いた。
「ブラックはどうする? 何処かに荷物取りに行く?」
「No……I’m OK.」
「食事だしな」
頷いたハルトに、実乃里はあっけらかんと言った。
「え、泊まっていいよ? ママも良いって。未春ちゃん調子悪そうだし……何か有った時、居てくれた方がいいもの」
「……Are you sure it's okay?(本当にいいのか?)」
さすがのブラックも少し拍子抜けしたようだ。OKのニュアンスを聞き取れたらしい実乃里は頷いた。さららは目をぱちぱちし、ハルトまで喘ぐ羽目になる。
「み……実乃里ちゃん、未春が居るからってそれはまずくないか?」
大体、穂積のフットワークが軽すぎる。会った事もない外国人、しかもBGM関係者をいきなり自宅に泊めるとは。夫が夫なら、妻も妻なのか?
実乃里は娘も娘らしく、父親に似たおっとりした笑みを浮かべて小首を傾げた。
「平気だよー。それに、私……彼は一緒に居た方がいいんじゃないかなーと思う」
「根拠は……?」
「勘。ダメ?」
「……うーむ、勘は俺もよく言う。ダメとは言い難い……」
許可を出す立場に無いが、この男をスターゲイジーが置いていったのはこちらへの配慮でもある。だが、『リーフマン』を見たことによって、この男が危険な状態にある可能性もゼロではない。長考していると、ブラックが物静かに言った。
「ハル、前にも言った通り、俺は寝るなら横になるだけの方がいい。信用できないのなら、どこか切って渡そうか?」
「おい……何だその気持ち悪い約束の仕方は……」
「日本では、約束をする際に指を切り合う『指切り』の習慣が有ると聞いた。反故にすると針を千本飲む罰があるんだろ? 俺も千本は飲みたくはない」
針千本。歌姫と小指を交えて約束した際、未春が言っていたのはこれか。生死に関わる事より、やましい問題を気にしている男に、溜息混じりでハルトは片手を振った。
「お前がイカれてんのはようわかった。……ひとつ忠告するが、日本で安易に暴力沙汰は起こさないでくれ。彼女に血を見せるのも極力やめろ」
「OK.」
「オッケー?」
何か勘違いして目をキラキラさせた実乃里に、もはや何も言い返せない。
「ありがと、ブラック。着替えとかはパパのを使えばいいよ。サイズ近そうだし」
――こいつ、殺されるかもしれん。
十があの包丁みたいなでかいナイフと除菌剤を持って押し入る様を想像しつつ、やや気の毒になってきたハルトだが、豪胆なのか阿呆なのかわからない男は、ずっと変わらない笑みで低く答えた。
「Thank you, Minori.」
夜半の道路を一台のバイクが爆走していた。それに十台近いバイクが続いている。
世間はまだ夕飯時だ。仕事を終えて帰路につく車を次々と追い越しながらけたたましく駆ける姿は一隊の暴走族かと思いきや、先頭の一台は必死に逃げている所だった。
追いかけるバイクの集団が威嚇するようにエンジン音をがなり立て、交通量の減った道路を駆け抜ける。一体どのぐらいの距離を逃げてきたのか、徐々に距離が詰められ、運転にキレがなくなってきた逃走車は、遮二無二ハンドルを切らされるように走行し、いつの間にか人気も家屋も無い河川敷に追い詰められていた。あっと思った時には土手から滑り落ち、明かりも無ければ舗装も無いオフロードに迷い込み、冬だというのにぼさぼさと生えた雑草に引っ掛かってあえなく転倒した。原因の雑草や土の地面はアスファルトほどおぞましい衝撃は与えなかったが、追撃者たちは瞬く間に光と音を騒がせて向かってきた。
刹那、いつから近くに居たのか、両者の隙間に、鋭い轟音と共に一台のバイクが黒豹のように飛び込んできた。逃走車の前に立ちはだかる様に見事なドリフトを決めたのは、DUCATI Diavel V4。その悪魔のような黒いボディに対し、ライダーはド派手なポップアートのようなヘルメットを被り、着ているジャケットも滅茶苦茶な色の洪水と独特のフォントに溢れていた。
ようやっと起き上がった逃亡者と、闖入者を睨む集団の視線を一身に受けたライダーがメットを脱ぐと、赤いメッシュを散らした短い金髪と、にやけ顔がバイクのライトに照らされた。
「おいおい~~さっきから見てりゃ、バイク乗りのクセにクールじゃねえなァー!」
取り囲んだバイクが奏でる重低音にも負けない声を響かせた闖入者は、子供の悪戯を叱る様にニヤニヤ笑いながら言った。
「大勢で掛かるンなら、バケモンみてえに強ェ奴を狙う時だぜ? ま、ホントのバケモンには無駄だけどなァ」
「誰だ、お前――」
追跡者の中心らしき男が言い掛け、はたと気付いて押し黙った。黒のDUCATIに、異様に派手な風貌のライダー……
「あんた……
「お、俺ってまだけっこう有名人?」
口笛を吹いてニヤニヤ笑った男は、つい最近まで日本の裏社会を牛耳っていた一角、小牧グループの若頭が扱っていた殺し屋だ。どんなに逃れようとしてもしつこく追いかけるバイク乗りで有名だったが、最近は小牧自体が大人しく、裏には殆ど顔を出さずにいた筈だ。
「俺を知ってんなら話がはえーわ。お宅らどういうグループよ? こういう走り方されっと、バイクのイメージ悪くなんだよねェ」
名の知れた殺し屋のありふれた注意文句に、むしろ動揺した様子で男は言葉を飲み込んだ。
「そっちが喋んねえなら、こっちに聞くぜ。おい、兄ちゃんよ、こいつら何よ?」
急に訊ねられた逃亡者はぎくりと身を震わせ、ヘルメットを被ったままよろよろと立ち上がった。ジャケットを着て尚ほっそりした体形に、矢尾が首を捻った。
「アレ? あんた、もしかして……」
呟いたとき、何処からかサイレンの音が聴こえた。救急車ではないその音に、男たちの顔色が変わった。殆ど喋ることなく慌てた様子で続々とハンドルを切り、エンジン音を響かせながら散り散りになって去っていく。
「おーおー……逃げ足の速ェことで」
呆れた苦笑を浮かべ、矢尾はスマートフォンを取り出すと、軽くタップして話し掛けた。
「よォ、ジャンク。今の連中、どうだった?」
〈東部
機械的なメッセージが流れ出し、矢尾は残念そうに首を振った。
「なんだよ、パシリのザコばっかりか。どうりでサツにビビって逃げるわけだ」
電話口にサンキューと言って切ると、途方に暮れた様子の逃亡者を振り返った。徐々にサイレンが近付いて来るが、先程より分散して聴こえる。どうやら先に逃げた連中に引っ掛かっているようだ。
「愛車はどうだい、お姉さん?」
問い掛けに、逃亡者はぎくりとした様だった。暗闇で表情も殆ど見えない中、矢尾はその動揺が見える様に話し掛けた。
「まだエンジンかけねェ方がいいぜ。さっきの連中が行っちまってからがいい」
欠伸混じりにのんびりとひょろ長い腕を伸ばし、首を左右に捻った。その様子をじっと見つめていた逃亡者は、ようやっとヘルメットを脱いだ。
矢尾が口笛を吹く。予想通り、妙齢の女だ。金髪と思しき長い髪を一纏めにした顔立ちは白人系の整った容貌で、小娘というほど若くはないが、年増にも見えない。夜が溶け込むような薄い色の目が、訝しそうに細められた。
「アナタ……夜目が利くの?」
「お、日本語上手いねェ。――ちょっぴり。昔取った杵柄っつうか。耳以外はまあまあ宜しいぜ」
「そう……アリガトウ。おかげで助かった」
「お安い御用だ、別嬪さん。連中と何の揉め事だい?」
「さあ……新参者が飛ばしていたのが気に入らなかったんじゃないかしら」
言葉を濁す女をちらと見やり、矢尾はニヤニヤ笑った。
「ヒヒ……なるほどねェ、さっきの連中は鷲尾連合会っつうケチな半グレよ。最近、上に居た連中の手綱が緩んで此処らをうろついていやがる。次はまっすぐ警察に行くんだな」
「エエ……そうするわ」
女はにこりともせず、横倒しになった愛車を起こした。既にサイレンは遠ざかり、辺りは川のせせらぎが整然と聴こえる。
「いいバイクだ。
「ご想像にお任せする」
微かに笑みを浮かべた女は、ヘルメットを被ると、分厚いエンジン音を響かせて流れる様に土手を駆け上がって去っていった。ひらひらと片手を振って見送った矢尾は、辺りが静まり返ったところで一人、呟いた。
「ジャンク、さっきの女は?」
切ったと見せて繋いだままの端末に話しかけると、無機質な声が返って来た。
〈ヒットなし〉
あっさり切り捨てる回答に、矢尾は夜空を仰いで唸った。
「なんだよォ……マジで新参者か? つまんねーの~~」
〈やおやお、悪党じゃないのかも。ジャンクが調べてあげるから元気出して〉
「ほいほい、ありがとよ……そだ、鷲尾連合の件、
〈もう、したよ〉
「お前は仕事が早いねェ。そだ、あっちにも一報入れとこうぜ。女のことも」
〈あっち?〉
「お前のボーイフレンドと、世界一のガンマンに」
〈いいよ。なんで?〉
二つ返事で答えた癖に聞き返す相手に、矢尾はにやけたまま女の去った方を見た。
「あの女、銃を持っていやがった。腕はわからねェが、俺が割り込まなけりゃ、ガキ共は殺られたかもな」
〈トカレフ TT-33 ソビエト連邦使用の軍用自動拳銃。安全装置を略し、生産性、撃発性、耐久性を追求。装填数8、中国等での生産品は日本にも多く密輸――〉
「ンだよ、ちゃっかりスキャンしてんじゃねーか。……それになァ、あの女なかなか良い運転手に見えた。いくら大勢に追っ掛けられたって、こんなトコに追い込まれる素人じゃなさそうだ……誘い出されたのはガキどもの方さ。大方、安い挑発に引っ掛かったんだろ」
〈理解不能。バイクは逃走に不向き〉
「そうでもねェさ。あのボンネビルはオフロードもイケる。つまりァ、バランス崩したのも演技だぜ」
〈情報更新。映像比較――事故と故意の転倒の相違をチェック〉
「ヒヒ、検証は後でいいぜ、ジャンク。連絡したか?」
〈したよ――更新完了。データの相違を確認。ホントだ。わざとわざとわざと〉
抑揚もないのに面白そうに繰り返した音声が、ぴたりと止まった。何かに耳を澄ませるような沈黙。川沿いを吹き抜ける風が通り過ぎるのを、ライダーは呑気に待った。
〈やおやお、要海が会社に来てって〉
「ええ~~残業ォ? 俺これからひとっ走りして帰ろうと思ったのにィ~~」
〈つべこべ言わずに来い〉
突如響いたのは、先程までの子供っぽい音声ではなかった。有無を言わさぬ強い口調だが、声は若い。矢尾は苦笑いと共に首を振り、弄んでいた派手なヘルメットをかぶりながら答えた。
「はぁーい、シャチョー。すぐ参りますゥ~~」
次の瞬間には、重低音も滑らかに、バイクは夜闇に滑り出している。
未春が見つめていたスマートフォンをポケットに戻す頃、実乃里がリビングから廊下にひょいと顔を覗かせた。
「未春ちゃん、カノジョ?」
「ガールフレンド」
「きゃっ、ホント?」
「半分以上、機械だけど」
「なあにそれ? AIとかのこと?」
人工知能ではない人間だが、機械に接続しないと生命維持できないガールフレンドを、何と説明したものか。ロボットに搭載された人間? それはロボットに乗っている人間と何が違うのか?
上手い説明が浮かばず、小首を捻るに留めて未春は部屋に戻った。
十条宅のリビング&ダイニングは、DOUBLE・CROSSの二階にあるそれよりも広く、キッチンから縦に長く広がる空間の一面だけ赤い煉瓦調のブリックタイルに覆われ、落ち着いた無垢の木の床が如何にも十好みらしい。ダイニングセットとして据え置かれているのは、DOUBLE・CROSSで彼が愛用していたザ・チェアを用いたウォルナットの椅子とテーブルである。
そのテーブルを挟んで向かい合い、穂積がブラックと楽しそうに会話をしていた。
以前、国道16号沿いでケーキ屋をしていた穂積は米軍基地関係者や、フィリピンやベトナムなどからの移住者とも仲が良く、割合、英語が堪能である。ブラックは人妻相手にも変わらぬ薄笑いだったが、穂積は何が可笑しかったのかケラケラと笑い声を立てながら涙を拭きつつ、未春を見た。
「おかえり、未春。ご飯にしてもいい?」
「はい。お待たせしてすみません」
「やーねえ、うちの子はたかが数分で他人行儀なんだから。実乃里、手伝って」
「はーい。二人は座っててね」
提供される側に居ることが少ない未春は、何となく落ち着かない顔つきで座ろうとして、実乃里に服の裾を引っ張られた。
「未春ちゃんはブラックの隣に座って」
「え?」
思わず聞き返してしまった義理の従兄に、従妹はにっこり笑った。
「顔を見て話したいから、そっちに座ってね」
やんわり押し通すところは実に父親似だ。大人しく着席した未春を、隣の男はどこか面白そうに見ていた。
「……なに?」
「いや、別に」
妙な空気感をよそに、テーブルには次々と料理が運ばれてくる。
此処には食べ盛りの高校生男子でも居るのかと思うような山盛りのから揚げ――レモンの輪切りが入った甘酸っぱい香りのあんがたっぷり掛かったそれが出て来た時は、寡黙そうなブラックさえ「Oh」と呟いた。
「最近ハマっちゃったのよね。香港風レモンチキン。うちは十の所為で甘めだから、お口に合うといいけど」
「美味しいよ。パパなんて鶏もも二枚はペロリなんだから」
その食いしん坊は居ないが、六枚分は有りそうだ。男二人だから気合入っちゃったと穂積が舌を出す。
「……いただきます」
ぺこりとお辞儀をした未春の隣で、そっくりな仕草でお辞儀をした男に、穂積と実乃里が目をぱちぱちさせた。
「英国でも、“いただきます”ってするんだっけ?」
穂積の問いに、ブラックはにこりと笑って首を振った。
「普段はしない。日本で食事に招待されたらやるようにと、ボスに指示された」
「へ~~……きちんとした上司さんですこと」
「ホント。パパが座ってるのかと思っちゃった」
「やーねえ、実乃里……パパはこんなにセクシーなハンサムじゃないわよ。もっとくたびれたアホ面よ」
「それもそうだね」
ダシにされた十は気の毒だが、実乃里がクスクス笑うと場が和む。
幾らか気楽になってきた未春もひょいひょいと口に運ぶし、ブラックは見た目通りの大食漢らしい。山盛りの香港レモンチキンは無論のこと、ゆで卵とブロッコリーが色鮮やかなサラダも、蓮根とさつまいもの炒め物も、未春が好きだからと作ってあったミニトマトのハニーマリネも、競い合うような食いっぷりで消えていく。実乃里が手を叩いて写真を撮り、穂積が鼻歌混じりにおかわりを盛りに行く。
「あなた達、作り甲斐があるわあ」
すっかり空っぽになった皿を前に、嬉しそうに穂積は笑った。ごちそうさまと頭を下げるところまで揃った二人は、顔を見合わせて微かに笑った。
「そんなに食べちゃったら、デザートは入らないかしら?」
「えー、私は入るよ!」
すかさず挙手する実乃里に倣って手を上げる二人に、シェフは満足そうに頷いた。
「よろしい。お片付けしたら、お茶と一緒に頂きましょう」
「穂積さん、手伝います」
「駄目よ、未春。貴方は今日はゲスト。大人しく席に座って、うちのお喋り娘の相手をするのよ」
「そうだよ、未春ちゃん。ハルちゃんみたいに通訳して」
やれやれ……そういえば、昼間に変なツッコミが聴こえてきたが、そういうことか。
ハルトのような溜息をこぼしながら、涼しい顔の男の隣に改めて座る。
「……俺はハルちゃんほど喋れないからそのつもりで」
『OK』
可愛い声と低いバリトンが見事にハモり、未春が嫌そうに身を引いた。
一体、いつの間にそんなに仲良くなったんだ? あんまり実乃里と親しくなると殺されるぞ……そう思いながら、目をキラキラさせている従妹に片手を差し出し、「どうぞ話して」と促すと、ティーンエイジャーの質問責めが始まった。
「ブラックは、奥さんか、彼女居る?」
いきなり吹き出しそうになった未春がぼそぼそと訳すと、彼はニュアンスでわかっていた様だ。苦笑混じりに首を振る。
「残念ながら、居ない」
「ええー、ハンサムなのに。どんな人がタイプ?」
「Well……穏やかで知的な女性かな」
「おおー、日本人とはなんか違う……、じゃあ、趣味は?」
「読書」
「わ、知的だ」
初めは警戒していた未春だが、実乃里が楽しそうなので、この妙な男に睨みを利かせずに済んだ。この男も、よく笑顔が途絶えないものだ。好きな本、好きな食べもの、イギリスのこと、今まで行った国……三十分はそんなことを喋っていただろうか。
穂積がミントが香るハーブティーと、固めのカスタードプリンといったスイーツのフランを運んできた。実乃里が父親そっくりの笑顔で受け取るのをぼんやり見ていた未春に、穂積が盆を持ったまま手招いた。
「未春はこっちおいで。穂積ママとちょっとお話しましょ」
「え、でも……」
実乃里とブラックを見比べて言い淀む未春に、穂積が苦笑混じりに首を振る。
「十みたいな顔しないの。同じ部屋の端っこに移るだけ。同じテーブルで話したら、貴方が話しづらいでしょ」
何を話すのかわからない未春は曖昧に頷くしかない。同じリビングには、ダイニングテーブルとは別に、テレビの方に向いているソファーとコーヒーテーブルがある。
十が実乃里と遊んでいるに違いないゲーム機器が置いてあるのを何となく見つめながら席に座ると、隣に腰掛けた穂積は美味しそうにお茶を啜った。
「トオルに聞いたわ。怖い夢を見る様になったって」
まだ十代の頃、穂積がよく作ってくれたフランを前に未春は頷いた。
「それは、トオルが悪いのね?」
「それは――……いいえ、わかりません……」
自分の物をスプーンで掬い取り、ひょいひょいと口に運ぶ穂積の手前、触れなくても微かに揺れるそれを前に、未春は首を振った。
「俺が……おかしいんだと思います……」
「未春、私が思うに」
穂積は息をするようにぺろりと平らげた皿を置いて、カップを手に取った。
「未春じゃなくて、私たちの方がどうかしてるのよ」
「……え?」
「私も実乃里もそれがわかるけれど……トオルに笑われちゃうと、仕方ないなあって思っちゃうのよね」
目を瞬く青年にスプーンを握らせて、穂積はどこか小憎らしいといった調子で唇を歪めて呟いた。
「トオルの笑顔にはね、人間を丸め込む圧倒的な
やや圧され気味に未春は目を瞬かせた。
穂積のこういうところは昔とちっとも変わっていない。生まれも育ちも一般人でありながら、十条十の本性に臆さず結婚した恐るべき女性は、とても安易に夫を扱き下ろす。無論、BGMのことや殺し屋が何たるかわからない小娘ではない。それに対処できる力もないのに、人殺しを恐れず、人間として評価する。
……確かに、“どうか”はしている。
交際時は隠していたらしい十だが、打ち明けてからも傍に居た彼女は、十に惚れていたというよりは、“誰よりも惚れられていた”が正しい――これはさららの話だが、未春も納得のいく結論だ。何かと憧憬の眼差しを受ける十に対し、穂積は綺麗な人だが、格別目を引く容姿ではない。ただ、彼女の笑顔や他者への気遣い、作ったお菓子にも見える
その彼女は、夫の笑顔に作為があるのを知っていて、世界屈指の悪党を他愛ない人間と表現し、その尻を何もできない男としてひっぱたく。
「だからなんだと思う」
「何が……ですか?」
「トオルが、未春の傍にハルちゃんを連れてきたのは」
空いた皿を見つめて、穂積は言った。
「愛が無い人は、トオルに騙されない。でしょ?」
「?」
腑に落ちなかった青年にこほんと咳払いをし、少し恥ずかしそうに穂積は言った。
「トオルの笑顔の正体はね、無償の愛なのよ」
「……??」
「私が言うのは恥ずかしいんだけどさー……あいつは溢れんばかりの愛をね、誰でもどうぞ~って常に配り歩いてるの。それこそ、街頭で配る宣伝用のティッシュみたいに。欲しがる人には喜ばれるし、そんなに要らない人でも受け取っちゃう。でも、ハルちゃんみたいに受け皿を持たない人は、受け取っても効果がないのよ」
「……俺も、持っていないと思いますが」
「未春は持ってる」
狼狽えるアンバーの瞳をひたと見つめて、穂積は宣言した。
「私たちのことや、さらちゃんのこと、守村さんのことを考えてきた未春には、ちゃんと受け皿があるの。問題は受け皿に少し穴が有ることね。穴は塞ぐことができるから、安心なさい」
安心? ますます泥沼にはまった顔になる青年に対し、穂積はちっとも気にせず、お茶を啜る。それを見つめて、未春は喘ぐように言った。
「でも……ハルちゃんは、トオルさんが俺にすることに意見します」
ハルト自身が「愛は持っていない」と述べた話を伏せた未春に、穂積は虚空を見ながら口を尖らせた。
「んー……それは、未春を庇うというより、ハルちゃんの
――「同じような奴が居るとイライラする」
鋭い。確かに、ハルトはそう言ったことがある。
「トオルが未春にしてることは……貴方の受け皿を、何度も作り直してるみたいなことだから、気持ち悪いっちゃ、気持ち悪いよね」
「作り直す……?」
「貴方の成長に合わせて、サイズや形を変えている感じ。それは未春が傷付かない為でしょうけど、相当なお節介なのよ。貴方が子供の頃は曖昧だったけど、成長してきた今は尚更ね。私に言わせれば、大の大人になった息子の門限気にする母親くらいイタイわよ。まあ、実乃里に対するトオルを見てたら納得だけど」
娘を愛する余り、プライバシーを侵害し続ける父親。
その根底は紛うことなき愛情だが、仰る通り、イタイ以外の何でもない。
「ハルちゃんは特別な施設で育ったんでしょ? 私はそれしか知らないけど……何か嫌なことを思い出すのかも。トオルみたいなヤバい男に突っ掛かるぐらい、嫌なこと」
嫌なこと。
ハルトにとって、イライラするほど嫌なこと。
危険な上司に逆らってでも、見ていたくない嫌なこと。
「嫌なら、そう言うのよ、未春」
ぴたりと目を合わせ、穂積は言った。
「貴方の中ではっきりしてきた気持ちは表に出しなさい。トオルは私たちより多くが見えているけど、全知全能の神様じゃない。あいつも私たちと同じ、臆病で心配性な只の人間なの。だから一生懸命、計算して、考え得る一番の行動を割り出して実行してる。それが意地悪な行為でも、実乃里や貴方の為になるって信じてやってる、ちっぽけな人間なのよ。ハルちゃんを連れてきたのも、貴方が一人じゃ自分の計画に耐えられないと思ったからだと思うわ。貴方が心落ち着ける友達として」
穂積が言うと、急に十は世界最強クラスの悪党から、卑小な一市民になってしまう。
ハルトも同様だ。世界随一のガンマンは、タブーである『お友達』の役目を押し付けられた『ハルちゃん』になってしまう。
「ただ、トオルは貴方を苦しめたいんじゃなくて、深く愛しているからやってる。……それが面倒臭くて、はっきり言って重いんだけど……、愛が出所なのは間違いないことを、覚えておいてあげて」
胸に、あの夜の言葉が甦る。
僕は、君たちのことを本当に愛している。昔も、今も、これからも。覚えていて。
「……はい」
頷いて、未春は手を付けていない甘くビターな香りのフランを見下ろした。
「……これ、トオルさんの分はあるんですか?」
何気なく聞いた一言に、穂積がにっこり笑った。
「ちゃんとあるわよ。これは未春のだから安心して食べて」
「……はい。ありがとうございます」
優しいバニラの香りと、温かいお茶は、胸の悪いものを溶かすようだった。
穂積が実乃里と一緒に寝室に辞した後、十の部屋で向かい合った男二人には妙な沈黙が落ちた。少し前の未春なら、無視して自分のペースを貫くぐらい出来たのだが、この男は、これまで会った誰とも違う気がした。黙っていてもグイグイ話し掛けてくる相手や、口にしなくても互いの考えがわかるような相手、こちらが気遣う必要がある相手……いずれとも違う。ただ、誰とも違うのだが……誰かに似ている。
誰だろう? どっしりしていて、物静かで、マイペース。
……そんな人物居たか?
「すぐに休むか?」
穏やかな問い掛けに、未春は思考を止めて気まずそうに頷いた。
十のスウェットを着せられた男は、背格好だけなら持ち主と実によく似ているが、首から下に無数に走る傷や、顔はそこまで似ていない。十は皆にハンサム扱いされるが、明らかに日本人なのに対し、この男はアジア系の血とは別の、白人系と思しき血が流れている。
アジアと、白人。
胸に過るのは、つい先月聞いた、守村――幼い頃の自分を育ててくれた児童養護施設の女性の言葉だ。
――エディはアメリカに帰ってしまったわ。
結婚することなく生きてきて、身寄りもなく、今は介護つき老人ホームに居る彼女が明かした意外な過去には、謎の外国人との逢瀬が有った。
話の経緯からして、恐らくアメリカ軍に所属していた軍人。
守村は彼との間に子を設けたが、その存在を知るより早く、彼は帰国し、彼女は両親に子供を奪われ、米軍などと関係したことを恥と見なされ縁を切られた。後に成長した子は日本人女性と結婚し、守村にとっては孫に当たる子が生まれたらしいが、一家の消息は不明である。守村はアルツハイマー性認知症を患うため、この話の全てが真実かはわからないが、過去の情報ほど覚えている人が多いだけに、嘘や妄想ではない可能性は十分有り得る。孫の年齢は、二十代後半から三十代が妥当。
そして、クォーターは美形が産まれやすい。
未春はベッドに腰掛けて、体調が芳しくない自分に配慮してソファーを選んだイギリス紳士をちらと見た。大人びているが、三十代だと言っていた。容貌は文句なしのハンサム。守村と似ているかというと……穏やかな雰囲気ぐらいは似ているだろうか。
「ブラック、あんた……本当に親のことは知らないの?」
ハルトに聞いた素性を踏まえて訊ねると、ソファーの具合を確かめていたブラックは顔を上げ、例の薄笑いの目を話題の質とは正反対に和ませた。
「ああ。全く覚えていない」
「あんたのアジア系の血が、日本人ってことはない?」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「……俺の恩人の、生き別れた孫を探してる。情報は少ないけど、あんたは条件に合ってるから」
守村の名は出さずにかいつまんで事情を話すと、ブラックは黙って聴いてから頷いた。
「確かに、俺は幾らか条件に合うな」
「じゃあ……」
「だが、俺は違うと思う」
「……どうして?」
「その話からすると、あんたが探す孫は最低でも出生の段階では両親と日本に居たんだろう? 俺は物心つく三歳程で、戦争を記憶している。少々無理があるように思えるな」
「誘拐ということは?」
「それなら俺の記憶を探るより失踪の記録を片っ端から見た方が早い。両親が売った可能性も有るが」
やや日本人離れした感覚に、未春は顔をしかめた。国際的な誘拐は近隣国との問題として根強いが、子供を軍事会社に売る話は実感が湧かない。どちらかといえば、戦後の貧しい中、奉公や養子に出すとか、ひどい場合だと女郎屋やヤクザ者、厳しい職場に売るなどのイメージが強く、国内で片がつく事情に思える。
「ミハル、感覚の話で悪いが、俺は日本人の血は流れていないと思う」
「?」
「日本に来たとき、祖国に来た感覚が無かった。聞いているかもしれないが、俺は常人より少々鼻が利く。国には、それぞれの匂いがある。一度嗅いだら、区別はつかなくても忘れない」
「赤ん坊の時の話でも……?」
ブラックはにこりとしただけで答えなかった。
感覚の話だが、わからなくはない。
答えを知った上での話だが、香港に居たとき、異国に居る感覚は当たり前に有った。それは言葉や街並みだけではない。もっと潜在的な、空気だったり、彼の言う匂いであったり、光や音に備わっている。この中でも、匂いは極めて特徴的なポイントだ。映画で現実と見まごうセットが組まれるように、見た目は揃えられるし、光は映像の上なら細かく調整でき、音は録音可能だ。しかし、匂いの再現は難易度が高い。食べ物の匂い以外にも、自然的なものや化学的なもの、幾つかが揃わないと単なるその物の匂いに過ぎない。彼が言う国の匂いとは、排気ガスや体臭、土や水の匂いや煙草の煙に至るまで、様々なものの集合体だ。
「……あんたの話はわかった。でも……新しいことがわかったら、また聞いてくれる?」
「何でも聞いてくれ」
おっとり笑ってから横になった顔を見つめ、未春は頷いた。
確かに違う気はするが、こんなハンサムな男が孫と知ったら、守村はどんな顔をするだろう。喜ぶかな。それとも、信じて貰えないかもしれない。或いは、会わせたらわかるのだろうか?
こっそり見に行った際、成長した息子を我が子だと瞬時に感じ取った守村だ。
孫に両親の面影があれば、わかるのかもしれない。さっき、夕食時に実乃里が撮っていた写真を見せてみよう……
そう思いながら、目を閉じた。
すぐに、眠りに吞まれたが。
――おい、起きろよ。まだ楽しませろ――
「……ッ!」
肩に手が触れるのを感じた刹那、反射的に覆い被さっていた影に掴み掛かった。
思った以上に重量のある体を押しのけようと力を籠めたが――次の瞬間には、相手は乱暴な皺が寄った服を直すことも無く両手を上げていた。窓の隙間から差す淡い光に笑んだ唇が見えたかと思うと、低い囁きが聴こえた。
「勘弁してくれ。うなされていたから起こそうとしただけだ」
心臓がドクドクするのを感じながら、未春はひどく緩慢に服を掴んでいた腕を下ろした。不調とはいえ、夢想の敵に向かおうとしたことに狼狽していると、こちらも両手を下ろした男が覗き込むような目でこちらを見た。
「……ごめん」
sorryと言うのは変な感じがした。ぼそりと詫びたのに、ブラックは薄笑いのままかぶりを振った。
「何を見た?」
「……嫌な夢」
「夢か」
言葉少なに頷くと、男は未春がのろのろと寝直そうとしたベッドを見つめた。
「ミハル」
「……なに」
「良ければ、一緒に寝ようか?」
さらりと出た提案に、未春は微かに瞠目した。
「……あんたが? 俺と?」
「添い寝で良いんだろう? ハルに聞いている。君が辛そうなら頼むと。俺なら安易に骨が折れそうにないから、もしもの時は適任だと書いてある」
「ハルちゃんが……」
証拠品のように男が示した端末には、確かにハルトからメールが届いていた。幾らかぶっきらぼうな英文で書かれたそれを見て、未春は眉を寄せた。
「俺はいいけど……あんたは良いの?」
「寝るだけの体温は大歓迎だ」
非常識を人に頼むハルトもハルトだが、あっさり引き受けるブラックは更なる異常者に思えた。
が、未春も同類だった。
――ブラックは女じゃないし、ハルちゃんがよく言う“対等”だ。
じゃあ、いいか。
非常識同士が出す結論など、非常識に決まっている。
「俺が下になるので構わないかな」
際どい質問に未春が頷くと、ブラックは慣れた様子で横たわり、ハグを誘うように片手で促した。微かに緊張しつつも、その大きな胸に身を寄せると、同じく大きな腕に抱かれた。得体の知れない香りが胸を占める。
「少し硬いが、悪くない」
薄い笑みと共に枕に対するような感想が漏れ、その呼吸が耳と頬にじんわり染みた。
「あんた、変な人だな……」
自分を棚に上げて呟いた未春に、男は声もなく笑ったようだった。
「これでもマシになった方だ」
「……どんなふうに?」
「少なくとも、俺はもう犬じゃない」
「……?」
首をもたげて表情を窺うが、剥がれない薄笑いが浮かんでいるだけだ。
「どういう意味?」
「軍事会社に居た頃の俺は、犬だったんだ。共通表現として用いるが、俺は犬にも劣るだろうな。彼らは強く、賢く、勇敢で愛らしい」
「軍……俺は、そういうの……経験したことないんだ。犬に例えるのはどうして?」
「話してもいいが、長くなる」
「聞きたい」
ブラックは、ハルトのそれより軽い溜息を吐いて話し始めた。
「あの頃、俺はよく『Good boy』と言われた。褒めるというより、『よくやった。次も上手くやれ』ということだ。『よくやった』後は、少し良いものか、少し多くメシが食べられる。或いは少し良い場所で眠り、少し荷を軽くしてもらい、少し褒美が増える。一人で生きる力のないガキの俺は『よくやった』が必要だった。他の奴を見て、このセリフが全く出なくなったらどうなるか察していたからな。食う為に牙を剥き、飼い主には忠実に従い、尾を振る代わりに媚び
未来ある子供でありながら、将来のこと、目標、やりたいことなど考える隙もない。どうすれば今日、『Good boy』で居られるか。取れなくなった笑顔も、人を殺す技術も、仲間の捌け口になることも、生きる術。
「仲間が、某国の裏切りに遭って死んだとき、俺は初めて奴らが頂点に居ないと気付いた。こんな虫ケラのように使い捨てされる連中に尾を振っていたのだと気付かされ、それなりにショックを受けた」
純粋に無垢に尾を振る犬は、人間の本質など知らない。
今、自分に餌を与え、能力を褒める人間が、人間社会でどんなことをしていても関係ない。善か悪か、権力の有無も金の有る無しも関係ない。何者かを思案するよりも、愚直に、育ててくれた人間の指示に従う。
「だが、彼らが死んで、俺は何をしたらいいかわからなくなった。今では信じがたいが、あの時は非常に困った。腹が空いても、寒くても、ただ、奴らの遺体の傍に座っているしかできない。最後の命令が待機だったから」
「あんただけが生き残ったのは……どうして?」
「単なる運だ。空から攻撃されたとき、俺は雪に覆われた壕の中で移動前の荷物整理をさせられていた。静かになってから出たら、全員死んでいた」
空爆ということか。しかも、真っ白な雪の中――凄惨な色が辺りにぶちまけられたに違いない。
「残党狩りがあるかと思ったが、誰も来なかった。何日だろうな……思えば俺は、連中を埋める発想さえ浮かばなかった。降ってきた雪に埋まっていく遺体を眺めて、ぼんやり過ごしていたら、隊の消息を調査に来たボスと師匠に会った。二人とも、俺を見るなり『なんてこった』と言った」
「……俺とあんたは似てる気がする」
広い胸に未春は呟いた。
「ほう」
何処がと尋ねる男に未春は戸惑いつつ答えた。
「俺も……トオルさんに従って、子供の時から、人を殺しているから……」
「ミスター・十条か。彼はあんたがミスをすると怒るのか?」
「怒る……? いや、トオルさんは……怒らない。鬱陶しいお喋りや笑いとか、からかったりはするけど……」
何故か胸の上から可笑しそうな声が洩れた。
「俺は、あんたは違う人間だと思うが」
「え……?」
てっきり同意するかと思った未春は率直に驚いた。
至近距離で顔を覗き込むと、ブラックは例の笑みを貼り付かせたまま、こちらを見返した。闇を映したように暗い目が笑っている。
「俺を拾った直後、ボスと師匠は俺の扱いに苦労した。それは二人が、犬を人間として扱おうとしたからだ」
「犬を……人間として……?」
未春の胸にキラー・マシーンという言葉が浮かび、毒のように滲んだ。
「俺は師匠やお前たちとは違って、キリング・ショックを持たない。もう思い出せない昔に有ったような気もするが、今は何も感じない。俺は『Good boy』欲しさにガキの頃から同世代の頭も割ったし、泣いて命ごいした女も年寄りも殺している。シリアルキラーのように殺人をせずにいられない連中とは違うが、下劣さで言えば、ナチやチェカが可愛いく思えるぐらいだろう。あんたもそういう依頼をさせられたのか?」
未春は首を振った。無い。一度も。
十が指示する殺しは、大抵が男の悪党だ。それも致し方無くというよりは、本心から悪意をもって活動していた連中だ。女はゼロではないが、その場合は自分の子や夫を殺して保険金をせしめたり、昼夜問わず近所に向かって被害妄想を騒ぎ立て、ついに放火を働いて罪なき一家を殺した信じがたい悪女である。世間的な悪もいれば、隠れていた悪、警察が対処しない、或いはできなかった悪……十はその全てを要らないと否定する。
未春はその指示に賛同していたわけではないが、異を唱える気は起こらなかった。
十の指示には従うもの――そういう漠然とした気概を抱きつつ、彼らが死ぬことは何とも思わなかった。ハルトが……死とは何か、殺人とは何かを理解している殺し屋が、十に四の五の言って楯突くまで。
「では、ミスター・十条は、仕事を終えたあんたに何と言うんだ?」
「トオルさんは……」
――おかえり、未春。 おつかれ、未春。
時には手を振りながら、うるさい声で。耳にこだます、労わる声と、自分の名。
「おかえり……おつかれ……」
呪文のように唱えた未春を、笑みに歪んだ穏やかな闇が見つめる。
「あんたが無事に帰ってきただけで、褒めてくれそうだな」
褒める……確かにそうかもしれない。褒められたことなら、沢山ある。BGMの件だけではない。例えば、学校のテストの点など成績が良いと、十は拍手喝采した。
「えっ、すご、満点じゃん!」
差し出した答案用紙を見て、十は満面の笑みで未春の頭をぐしゃぐしゃにした。
「偉いねえ、未春ー! ホント偉い! 穂積ィー週末は焼き肉行こう! 焼き肉ー!」
「いいわね。あらホント、うちの子ったら優秀~~!」
嬉しそうに微笑む穂積と、はしゃぐ十と、記憶の中の小さな実乃里が一緒にキャー!と両手を上げて叫んで喜ぶ。
「未春ちゃん、すごいねえ、えらいねえ、 実乃里がナデナデしてあげるね!」
「ええっ! ずるいー! 実乃里ィ~~パパもナデナデしてー!」
「やー! パパは100点とってないからダメー!」
何故か、胸がつかえた。
――僕は、君たちを愛している。それだけは忘れないで。
「トオルさんは……」
ずっと、俺を愛している。
胸が苦しい。
溜息が出た。
「ブラック……」
「ん?」
「さっきの、キリングショックの話……知り合いが殺されても、あんたはショックじゃないの?」
無意識に出た問いに、ブラックは少し考えるような間を置いた。
「どうかな……わからない。今の同僚は、どいつも簡単に死にそうにないから。……ああ、一人だけ、少し心配なのが居る。俺は彼の小説のファンだからな。彼が死んだらショックかもしれない。未春はどうだ?」
「……俺は……」
感じる。悲しみより先に、激しい怒りを。
殺されなくても、貶められたり、辱しめられても感じる。
「……ショックだと思う。怒りに任せて、何をするかわからない」
――それが、十だとしても。きっと。
「それは、人間らしいな」
一笑に伏したブラックの胸に頬を寄せ、未春は改めて溜息を吐いた。
「……なんだか少し、すっきりした。ありがと」
「それは良かった」
「でも、あんた熱いな……外国人だからかな。ハルちゃんとは違う……」
悪夢が顔を出しそうに思えた頭を、大きな手が支えた。ぼそぼそ言っている内に、温かい体温と、オークモスの香りに押さえつけられるように微睡んだ。
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