3.Worsen.

 午後、未春はここ最近ずっと変わらないぼんやり顔で現れた。

具合がいま一つでも、仕事を休む気はないらしく、定時には必ず現れる。

……ついでに言うと、家事も手を抜いていない。ハルトもさららもほったらかしておいて構わないと言っているのだが、中途半端が苦手なのか、単なる几帳面なのか、干された洗濯物を見れば畳んでしまうし、洗い桶に皿が沈んでいれば洗ってしまう。食事に関しては、出前やレトルトだっていいじゃないと言うさららだが、調理は苦ではないのか、非番の日はいつも通り作っていた。

そしていざ、仕事はいっそう手を抜かない。

「いいよ、俺が戻って来るから。送迎だけでもいいんだろ?」

倉子を犬猫の保護施設に連れて行こうとしていたハルトの声に、女子高生は即座に頷き、頑固な同居人は首を振った。

「……俺は平気だから」

せめてもう少々、平気そうに言うなら納得できるのだが。

追い立てられるように出てきた二人は、言葉少なに十から未春に持主が移った黒のハッチバックセダンに乗り込む。

「みーちゃん、まだ元気ないね」

「ああ、うまく眠れないらしい」

「あたし達が頼んだ件、どうなったの?」

「……いや……色々考えてはいるんだがー……」

「ハ~~ル~~ちゃ~~ん~~……」

バックミラーに映る仁王の如き睨みに、ハンドルを握りながらハルトはスミマセンと萎縮した。溜息混じりに発進させると、すぐにけたたましい国道にぶつかる。轟音のラッシュに滑り込ませ、背後のむくれ面になんとか言葉を絞り出す。

「しょうがないだろ……あのツラで出掛けたら、出先で倒れないか不安だよ」

「それはそうだけどさー……」

唇を尖らせ、倉子は肩をすくめた。押しは強いが、賢い娘だ。こういう場合、押し黙られる方が効く。

気まずい沈黙を経て到着した『保護施設・かりん』は、施設長の高梨たかなし果林かりんが運営する小規模な犬猫の保護施設だ。他の幾つかの施設や保護団体とグループを組み、野良猫や犬の保護、多頭飼育崩壊した家からのレスキュー、高齢者などの急な入院で飼えなくなったペットなどを預かり、一時保護や新しい家族への譲渡の手配、イベント開催などなど、ボランティア中心とは思えないほど忙しい運営をしている。施設長の果林は小柄でぽちゃっとした頬とやや臆病そうな目が小動物に似ているが、思いやりのある可愛らしい女性だ。

ハルトが来る前に倉子の送迎や手伝いに来ていた十のことが気になっていた様だが、奴は先日、妻と娘を連れて年明けの挨拶回りに来たらしい。恋愛に疎いハルトでも、当てつけか?と思う行動だが、果林は思ったより落ち込んでいないらしい。

「だって、奥様もお嬢さんもすごく良い人だったのー。あんなパーフェクトな家族見ちゃったら、割って入る気なんて起きない」

「人が良いですねー……」

「そうそう、果林さんは良い人だもん。十条さんなんか勿体ないよ」

多方面からやたらにモテる男をすっぱり切り捨てた倉子は、何やらハルトや未春の悪影響を受けているらしく、最近どうも十への圧が強い。

きっと、さららへの配慮だろう。

彼女に纏わる全容を知らされていない倉子にとって、十は些か女にだらしない男になってしまったようだ。恐らく、さららが本格的に誰かさんと付き合わない限り、十の評価は地べたを離れられそうにない。

――追記。間違っていないと思うので、訂正やフォローは控えさせて頂く。

「そだ、果林さん、マックスどうしてるか知ってる?」

掃除の最中に出た言葉に、何故か、ハルトはほうきを手にギクリと身を強張らせた。

別に気にすることはないのだが、倉子はソフィアによる銃撃事件の際に現場に居合わせていた。一歩間違えば流れ弾で怪我、或いは……ということになっていたし、犯人である彼女に良いイメージを抱いているとは言い難い。

果林が汚れた布団を洗いかごに放り込みながら新しいものと取り換えて、にこにこと応じる。

「この間、御夫婦と会ったの。お孫さん、すごく喜んでくれてるみたい。毎日一緒に散歩してるんですって」

「歩くの好きな人って言ってたもんね。ホント良かったー。あたし、マックスが一番難しいんじゃないかなって心配だったから……」

「私も。ハルちゃんが来てくれるまで、誰が近寄っても壁やケージにピッタリ貼り付いちゃってたものねえ……」

一番最初に見たマックスは、今の姿からは想像ができないほど、羽箒のような尾も手足も地面に萎れ、目は常に怯えていた。本来の性格が現在の勇敢で賢そうなそれなら、一体、どんな悪い奴と関わればそんなことになるのだろう。

――本来の姿が現れるのを許さぬ程の抑圧だ。力で、恐怖で、異論を唱える間も与えずに自己を押し潰す。それは一頭の犬に始まり、未春に重なり、砂漠の地で見た後ろ姿に重なった。吹き消そうと首を振って掃除に向き直ると、不意に電話が鳴った。

「あ、ごめん、音つけっぱ……」

あたふたとエプロンの下からスマートフォンを取った果林の表情が曇った。

出たく無さそうな様子が窺えたが、彼女はふっと息を吐いて画面をタップした。

「……はい、果林です。こんにちは。いえいえ……! 大丈夫ですよ」

ぺこぺこしながら受け答えする果林は、声のトーンに対して顔つきが険しい。

「はい、いえ、そんな……! うちは大丈夫です。ええ、でも、あの……――そうですよね、難しいですもんね……うん、うん……」

電話越しの相手に寄り添うように喋り続ける。少々只ならぬ雰囲気に、ケージに戻そうと猫を抱えてきた倉子も首を傾げた。通話を切る頃には溜息と共に小さな肩が落ちる。

「どうかしましたか」

ハルトが訊ねると、果林は見るからに困り顔で振り向いたが、意味も無くエプロンを叩いて首を振った。

「……大丈夫。ちょっとね、立て込んでることがあって……」

苦笑した果林だが、素直な彼女のこと、表情にはわかりやすい陰りがある。四匹目の猫をケージに戻した倉子がすたすたとやって来た。

「果林さん、困ったことがあるなら相談して。あたしは頼りになんないかもだけど、話聞くぐらいできるよ」

「……そんなこと――ラッコちゃんはすごく頼りになるよ。だけど……」

「一応、俺は大人ですよ」

「ハルちゃん……」

果林の小動物に似た目が不安そうに倉子とハルトを往復し、三往復目で、ふうっと息を整えた。

「ありがとう。……じゃあ、皆を戻してから……聞き流してくれていいから」

掃除を終え、小さなスツールを引っ張ってきて腰掛けると、ケージ内の犬猫まで清聴しているような中、果林はぽつぽつと語り始めた。

「うちも所属してる保護活動のグループ内にね、経営難と人手不足で立ち行かなくなっているところがあるの……」

グループ内では古参の施設だという。比較的、近い場所の施設というのもあり、親しくしていただけにショックだとこぼす。

「うちは母の代から会社の形態でこういうことしてるけど、その人は個人宅でスタートして今もそのまま。仲の良いご近所さん達のボランティア頼みだったんだけど、皆さんご高齢になられて入院したり……怪我や病気で思うように体が動かなくなって、ここ最近で続々と辞めてしまったの。新しい人を募集しても集まらないし、余分な駐車場なんて無いから、遠くから来てもらうわけにもいかない。……だけど、預かったままのわんちゃん猫ちゃんには、そんなこと関係ないでしょう?」

三、四人で賄っていた世話を一人でやるなど無理に決まっている。

ついに本人が心身共に悲鳴を上げ、施設を畳むことを考え始めた。しかし、そう簡単にはいかない。畳むということは、犬猫を何処か別の場所に預かってもらう必要があるが、何処もギリギリなのだ。個人宅で多頭飼育崩壊が起きるように、犬猫はどちらも繁殖力に優れ、きちんと処置しなければ増える一方。既にドイツやスウェーデン、イギリスやカナダではペットショップによる犬猫の販売はほぼ無い。昨今、アメリカやフランスでも生体販売を禁止する動きがあるなど、世界的に無駄な繁殖や不適正な飼育を抑止する体制になりつつある。

果林や倉子曰く、日本はこの点、非常に遅れている。

倉子が殺し屋なんぞに興味を持ってしまったのも、儲けの為に高価な犬猫を構わず増やし、余れば殺処分が許される勝手極まりない法にテコ入れする為だ。殺し屋が言う事ではないが、そもそも殺処分など、生命を軽んじる明らかな犯罪行為に等しい。この究極悪は日本では合法であり、果林たちやボランティアが頑張っている裏で年間約一万四千頭近くが殺されている。殺処分場のスタッフは、よくもまあ冷たいコンベアのような機械に犬猫を乗せ、ガス室に徐々に押していく装置のスイッチを押せるものだと、殺し屋のハルトさえ聞いた時にはぞっとした。

「もともと……ボランティアだけでやるのは難しいのよ。うちはほら、十さんみたいに出資してくれる方とか、はしもっちゃんみたいに器用な子がグッズ販売してくれるから、何とかなってるけど」

はしもっちゃんとは、橋本という名の正規スタッフでは最も若い、すらっとした眼鏡女子である。二十代後半の同世代だが、所謂ヲタクというやつで、二次元の人間は大好きだが、三次元の人間にはからきし興味が無いという。果林を始め、他のスタッフを骨抜きにしている十や、イケメン詐欺と呼称される未春にさえ引っ掛からない、ある意味凄い女性だ。口数は少ないが、動物のことは勿論、パソコン関係やネットに明るく、この施設のオリジナルグッズを自ら手掛けるだけに絵も商売も上手い。宣伝や客寄せの為に、興味が無い十や未春を利用したこともあるらしく、なかなか見所の有るやり手だろう。

「市の支援もあるけれど、やっぱり、何か稼ぐことをやらないと絶対に追い付かなくなるわ。クラウドファンディングだって流行ってるけど……頂くからには、きちんと経営再建しなくちゃいけないでしょ。お金があれば一時的に楽になるけど、問題が解決することじゃない……継続していかなくちゃならないから」

ふう、と溜息を吐いて、果林はケージの一部を振り返った。

「二人は気付いてると思うけど、もう何頭か引き受けてるの。他の施設にもレスキューを頼んでるけど……まだ二十近く居る。マックスみたいに難しい子や高齢の子だと、施設を動いたり、慣れた仲間と離すのもストレスになるから、慎重にやらざるを得なくて」

「だよね……親子や兄弟はできるだけ一緒が良いし……」

賃貸住まいでペットを飼えない倉子は、歯痒そうに俯いた。この施設から錆猫のビビを引き受けたハルトとて、甲斐甲斐しく世話する未春が居るから何とかなるものの、これは自分もペットも好調だからこその安定である。この施設にも、怪我や病気、足がなかったり、目が潰れているなどリスクを抱えた動物は居る。保護の段階で高齢であるなど、そういう者たちはなかなか譲渡先が見つからず、施設で生涯を終えることも少なくない。此処は彼らにとって家であり、終の住処になることもあるのだ。

「年末に私も手伝いに行ったけど、かなり厳しそう。私たちのストレスは動物たちに伝染するから、落ち着かない子が増えてきて、鳴き続ける子やケージを歩き回る子もいるのよね。それもまたストレスに巡って来る状態……彼女だって若くないし、インフルエンザなんかで倒れたりしたらアウト。あのままだと、掃除や個々のお世話が追い付かなくなってきて、人間も動物も健康に影響が出てくるわ。早く何とかしてあげないと……」

「学校で呼び掛けてみるよ。あたしも放課後なら行けるし、近くに住んでる子が居るかもしれない。毎日じゃなくたっていいもんね」

「指示してもらえれば、俺も手伝えますよ。送迎もできますし」

二人の言葉に、果林は「ウン」と頷いてちょっぴり涙ぐんだ。

「ありがと……ごめんね、二人はきっとそう言うから、黙ってるつもりだったのに……お金も手間もかかる事だし……」

「水臭いよお、果林さん。お金ならハルちゃんに借りればいいよ。お金持ちだよ」

「こらこらこら……!」

けっこう持っているのは自負しているが、この貯蓄はいわば裏金に等しい。

たかがカフェで働いている男が、ぽんと大金を出せば怪しまれること請け合いだ。慌てて倉子に口チャックを促すハルトだが、幸い、果林はにこにこ笑ってジョークと受け取ってくれた。

「ハルちゃん、堅実そうだものね。英語上手だし、資産運用でもしてるのかな」

「は、はあ……まあ……」

「いいのよ、ラッコちゃん。お金の話はやめましょう。先に十さんに相談するわ。お顔が広いから、何か良い案があるかもしれない」

悪党の本性を思えばやめとけと言いたいところだが、こういう時、趣味にボランティアと書ける十条は頼りになる。倉子も反対せずに頷いた。

「さ、暗い話はオシマイ。うちの子たちもそろそろお散歩に行かなくちゃ」

明るく装った果林の声に、顔を上げた犬も居れば、ぴくりとも動かない犬も居た。

立ち上がったハルトの後ろで、倉子が呼吸ほど小さな声で呟いた。

「お金かあ……」



 夕闇迫るDOUBLE・CROSSには招かれざる客――否、招かれざる身内が訪れていた。ちょうど客がはける時間帯、その呑気な声は穏やかにジャズの中に間延びした。

「やっほおー。おつかれさまー」

ガラガラと引き戸を開けて入ってきた長い四肢を持つ長躯に、顔を上げたさららが「あら」と呟いた。

「トオルちゃん……珍しいわね。どうしたの?」

「近くまで来たから、ついでに見に来たんだ。一応、僕はオーナーだしさ」

「ホントは違うものが目当てなんじゃない?」

呆れた苦笑を浮かべるさららに、十は明後日の方を向いて舌を出した。

「ハイ。こないだ穂積と相談してた新作が食べたいデス」

「……だと思った。ご好評につき、あと一つ。運がいいわね。ブレンドでいい?」

「わーい、ありがとう」

小さな子供のように喜ぶ男は、出てきたバナナキャラメルドーナッツとコーヒーを拝んだ。バナナを混ぜ込んだしっかりしつつも柔らかい生地に、バナナが香る黄色いチョコレートをコーティングし、キャラメルチョコレートが幾つものラインを描いたそれは、いい大人を本日一ニヤニヤさせた。

「相変わらず、美味しそうに食べるわねえ」

「そりゃ美味しいんだから当然だよ。今度は二人のも買いにこなくちゃ」

あっという間にたいらげて、十ははたと店内を見渡した。

「そういえば、さらちゃんだけ? うちの仲良しボーイズは何処行ったの?」

「ハルちゃんはラッコちゃんと果林さんのとこ。もうすぐ帰って来ると思うわ」

「あ、そっか……ハルちゃんは、律儀に行ってくれてるんだね」

感心したようにコーヒーに呟くと、一服して二階の入り口を見た。

「未春は?」

「暇だから、先に帰したの」

「未春が、先に?」

あまりにも意外そうに言うので、さららが気分を害したようにきゅっと眉間に皺を寄せた。

「ちょっと具合がいまいちみたいだから――あのね、未春だって人の子なんですからね。トオルちゃんみたいに頑丈じゃないのよ」

「ええ……? 未春は僕と同じものじゃないか」

身体機能向上薬スプリングによって、一般人には重傷レベルの怪我さえ立ちどころに治る男はコーヒー片手にぼやいた。細菌やウイルスが原因の病は些か勝手が違うのだが、例えば風邪そのものは治らなくても、それが原因の喉の痛みや鼻炎など、炎症にはほぼ至らない為、大抵は熱っぽさを感じ、くしゃみなぞしている内に治る。

未春も同じスプリング適合者。怪我は無論のこと、体調不良は非常に珍しい。

「まあいいや。いまいちって、どんな感じなの?」

「どんなって……よく眠れなくて、ぼんやりしてる感じ……」

言い淀むさららの目を、一見、無害そうな十の目がじっと見つめた。

「眠れないねえ……熱が有るとかじゃないんだ。じゃ、様子を見てから帰ろうかな」

「えっ!」

「えっ?」

驚いたさららの声に、同じような驚き方をした十が聞き返す。

「そんなに驚くこと?」

「だって……やめた方がいいと思うわ」

「え、なんで?」

「それは――……トオルちゃんに会うと、いつもカリカリするじゃない……」

「未春は血圧でも心配されてるの?」

苦笑した十は、ぐいぐいとコーヒーを呷ると、焦った様子のさららにそっと差し出した。

「ごちそうさま。コレ、お釣りはさらちゃんのポッケに入れちゃって」

余分に札を重ねると、さららが止める間もなく立ち上がった。普段は呑気なクセに、こういう時に限って十は素早い。

「ト……トオルちゃん……! ホントに具合が悪そうなの!」

「わかってるよ、さらちゃん。別に僕は、甥っ子をいじめに行くんじゃないよ」

にこにこ笑いつつ、二階の扉に手を掛けるのをさららは見守るしかない。

夢見の悪さと、十に相談するのは嫌だと言った話の意味がわからないほど、さららは鈍くはない。今の未春が、一人で十と対峙するのは……良くない。きっと。

彼が来ているのは気付いている筈。いっそ、外階段の方から逃げ出してくれていればいいが、耳が良いのも含め、異常な身体能力は十も同じだ。

見に行くと言ったからには逃がすまい。

残されたさららは誰も居ない周囲をあたふたと見渡し、CLOSEにして駆けつけるべきかと思いつつ、時計を確認し、スマートフォンを取り出した。

一方、玄関を抜けた十は、つい最近まで住んでいた家のしんと静まり返った中、迷うことなくリビング&キッチンへ向かった。ジャー……と、水の流れる音がする。

逃げも隠れもする気はないらしい。こちらに背を向けてキッチンの流しに向かっていた未春が、何か観念したような顔で振り向いた。

「や。具合悪いって?」

「……」

気軽に片手を上げた叔父を見て、未春は頷きもしなければ、声さえ上げない。洗っていたらしい葉物をざるに上げ、冷たさに赤くなった手を拭いた。

「……別に、大したことないです」

「夢見が悪いってね。どんな夢?」

「……大した夢じゃないです」

「ふーん……」

軽く首を擦り、十はすっと前に歩み出した。微かに頬を強張らせた未春が後退る。

「何だい、取って食おうなんて思ってないよ。ちょっと、手出して」

「……?」

言いながら手のひらをこちらに向ける十の要求に、未春は躊躇いがちに同じように片手を差し出した。彼は向かい合わせに手のひらをぴたりと合わせてにこにこした。

「うわ、冷たい。ホントだ、病人っぽい」

「……」

「こうしてみると、でかくなったもんだねえ……」

殆ど同じサイズの甥と手を合わせながら、感慨深そうに十は言った。

慣れない仕草に、未春は居心地悪そうに眉を寄せたものの、手は貼り付いたような気がして離しがたい。

「お前は母親似だけど……姉さんはこういう華奢な手じゃなかったな……」

呟く十の目は、懐かしそうに細められる。

「こういう、節張った細い指は……義兄さん似なのかな……」

合わせていた手がずれて、人差し指に十の指が絡み付く。彼の親指と人差し指の腹が、纏いつくように付け根まで撫で擦り、未春は微かに唇を噛んだ。

……何か、変だ。

「……もう、いいすか」

引っ込めようとした手を、不意に十は強く噛み合わせた。ぎくりと身震いした未春の手をしっかり握り、十は片手一つで壁に追い込む。まだ、片手しか握られていないにも関わらず、じりじりと後退すると、壁――否、冷蔵庫に背がぶつかった。一歩進んだら触れるほどの距離から、澄んだ闇のように黒い双眸が見下ろした。

「ねえ、未春」

「……」

返事が出ない。呼吸が乱れる。守村のことを聞こうとする余裕もない。

何故だ。ほんのひと月前まで、ぶん殴る抵抗もなかった相手なのに。

「僕と“した”時のこと、覚えてるかい?」

低い声が耳に流れ込む。鼓動が胸を叩く。嫌な汗が噴き出る。あらゆる神経が危険を報せる。一刻も早く逃げろと促すが、両手足は動かない。合わせた手のひらが熱いのに、指先から四肢が冷える。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。やめて、やめて、やめて、――――

「……何してるんですか?」

不意に物静かな問い掛けが響いた。目線だけ動かして見た先で、ハルトが入口に立っていた。上着を引っ掛けたままの表情は固く、微かに怒っているようだった。

「やあ、おかえり」

「俺は、何をしてるのか聞いたんですが?」

「ちょっとした健康診断ってやつかな」

「へえ……俺の知る常識じゃ、それは『corner someone against a wall(壁際に追い詰める)』って言いますが」

「フフ、ハルちゃんが相変わらずで嬉しいよ」

十が、ぱっと手を離すと未春はひゅっと息を呑むなり、するりと脇に抜けて逃げ出した。バタン!と扉が閉じた音は未春の部屋だろう。

「あいつに何を?」

「何もしてないさ。手のひらを合わせて、お喋りしただけ」

両手を軽く上げてくるりと振り返ると、よっこいしょと冷蔵庫に寄り掛かった。

「予想より早い。リリーが良い具合に発破掛けてくれたみたいだね」

「……さっきから何の話です?」

「未春の感情が、戻ってきている」

胡乱げに眉を寄せたハルトに、十はリビングのテーブルの方を眺めながら言った。

「彼女の件で、未春は嫉妬や不安、焦燥、抑圧するしかない辛さを味わい、学んだろ? どうかな?」

その場で見ていたような問い掛けに、ハルトは非難がましい視線だけ返した。

十も、答えは待たずに続ける。

「この行く先に有る大きな土台が『恐怖』だ。いやあ……有り難いよ。こう上手くいくと、僕が怖いぐらい」

――出たな。

流暢なお喋りに、ハルトは吐き気にも似た不快感に顔をしかめて舌打ちした。

これは、十条十という人間が持つ、極端な悪の顔だ。こいつは穏やかな面で猛毒を吐き、優しい手で相手を絞め殺せるような異常性がある。トータルで見れば家族思いの優しい性格である筈が、この『悪』があまりに強いが為に心を許すことができない。

現に、ハルトが今浮かべている表情は警戒と嫌悪である。

「貴方は未春に一度、恐怖を忘れさせた筈では?」

「留学の話? そうだよ、僕は未春から『恐怖』を取り除いた。それは人に慣れてもらう為に邪魔だったからね」

「……それで、当時の未春が壊れるのを防いだつもりですか」

「さすがハルちゃん、わかってるぅ」

指差しウインクなどしてくる気色悪いオッサンを睨むが、それで手一杯だ。

……なんとまあ、嫌なことを考えつく頭脳をしているのか。

未春が『出来た』とか『抵抗は無かった』とのたまう男娼でのやり取りは、十条が『人間』に触れるやり方――殺し屋と一般人の両局面での人肌との付き合いを教えるためのものだ。未春はそこで平静を保つため、恐怖を捨て、痛みを捨て、人肌の体温や質感など、嫌だと感じない別のものと交換して乗り気った。

無論、この過程で、彼は殺しもやっている。下手をすれば、感情が身を潜めるより先に壊れてしまう危険な実験だ。女性を相手にさせなかったのは、先方が本気になられたり、子供ができると面倒だからということだが、ゲイではない未春はその分、本心のところでは強い恐怖を抱いていた筈だ。この男は、それが舞い戻ろうとしているのを喜んでいる。

――悪意ではない感情で、心から。

「『恐怖』は、重要な感情だ。本来、人間が自己と他者を守るのに必要不可欠。有りすぎれば臆病になるけれど、極端な話、これが理解できない人間は下らない事故や名声の為に死ぬ。未春の場合は、前者。やり方を間違えて死ぬことになる」

純粋な悪党のくせに、それらしい正論も吐きやがるから始末が悪い。ハルトはちらと未春の部屋の方を見た。この部屋の会話など安易に聴こえるだろう。黙らせた方が良いと考えたところで、十はさらりと言った。

「ハルちゃんが、わりとあっさり友達の枠を越えちゃったのも原因だよ」

「……そうまでして、あいつを変える必要があるんですか?」

「ハルちゃんは、今の未春で良いと思ってるのかな?」

「良いとか悪いとかじゃありません。あいつは不器用ですが、精神的に安定して見える。……少なくとも、今日までは。多少のガキ臭さや粗野な面は有りますが、周囲にも好かれているじゃないですか。貴方の妻と子供にも」

「君が未春の為に抗弁してくれるのは、とても嬉しいよ」

にっこり微笑んだ十の顔は、それだけなら天から舞い降りた指導者さながらだ。

だが、その瞳には明瞭な闇と殺意がある。

「でもね……僕は断固、未春を人間にする」

「あいつは、最初から人間です」

「違うね」

刺すような一言は、触れれば切れるようであり、容易に抜けぬ程に重い。

「未春は多くの人の助けを経て、人間に“成り始めた”んだ。未熟で、簡単にズレてしまう危うい状態に有る。今は君とさらちゃんが居ることで、バランスを取っているに過ぎない」

「……俺には、貴方の価値観は理解できない」

首を振って背を向けると、十は明香にも負けぬ程よく通る声で言った。

「ハルちゃんが現状を良しとするなら、一生、あの子の傍に居てあげないとならない。今の未春にとって、君が重要なファクターなのはいい加減わかってるでしょ? 今、不完全のまま一人にしたら、未春は確実に破滅する。自分も他人も壊しまくるだろうね」

今度こそ、でかい舌打ちが出た。

肩越しに振り返り、鬱陶しい笑顔を睨みつけた。

「好き勝手言いますね。何かとややこしく面倒にしているのは、貴方だと思いますが?」

「ハルちゃんは優しいよねえ……僕は君のそういうとこ、大好き」

冷蔵庫に背を預けたまま、腕組みした十はどこか侘しい笑顔をテーブルに向けた。

「仮に、優しい君が寄り添ってくれるとしても、今のままなら、あの子は君に依存して生きるさ。それは君を失った瞬間に必ず壊れる――そこからどう崩れるのかは僕にもわからない。後追いしたり、泣いて過ごすなら可愛いもんだけど、誰かに君の面影を見たり、別の依存相手を探し歩くようなことがあれば地獄だ。……何にせよ、呆然自失の未春に近付こうとして殺される人間が出るだろうね」

「それは全て、憶測の話でしょう」

「ハハ……そうさ。君が殺された場合、犯人を殺すか、殺されるまで止まらないと思うのも、僕の杞憂で済めば何よりだ」

「……あいつは、そこまで弱くはないと思います」

幾らか自信のない一言になったが、さららが玄関を開く音が聴こえて、ハルトはキッチンを出た。顔を合わせたさららに頷くと、彼女は目元を引き締めて頷いた。

クズの相手を引き受けた彼女とすれ違い、ハルトは未春の部屋の方へと向かった。



 部屋をノックすると、何も音が聴こえない部屋から凄まじい緊張を感じた。

中に居るのが、手負いの猛獣だとしても驚かない。

「未春、俺だ」

わかっていると思うが、なるべく静かに呼び掛けると、獣の気配が微かに落ち着く。

代わりに、すがるような呼吸を聞いた気がした。そのまま待っていると、ようやく申し訳程度に扉が開いた。

「……ハルちゃん」

気の毒なぐらい蒼白な顔が覗き、ちらと廊下を確かめ、歩み出た体が抱き締めてくる。未春の方が上背なので、よろめかないよう注意したハルトの肩口に死に際のように囁いた。

「ハルちゃんの部屋に行きたい」

「やれやれ……物好きだな、お前も」

これは安請け合いで不正解なのかもしれないが、ほったらかすのは死にかけの小動物を捨てていくようで始末が悪い。殆ど引き摺るように自室に入ると、未春は女がやられたらさぞ胸高鳴るだろう力でハルトをベッドに押し倒した。

とはいえ、こっちは生娘でもなければ、倒した方は病人のように顔色が悪い。殆どハルトに倒れ込む形でうつ伏せた背を、幼子でも相手にするように軽く抱いた。

「もっと強く」

要求に黙って応じると、ほっそりして見えて男らしい筋肉を感じた。

「ハルちゃん」

肩口にぐりぐりと額を押し付けてくる痛みに顔をしかめていると、「もっと」と呟いた。

「……おい、これ以上締め上げたら傷めるぞ」

「違う」

耳許に唇を寄せた囁きに、さらさらした髪が触れた。痛みを堪えるような響きに潜んだ意味を悟って、ハルトは重い溜息を吐いた。

「……どうして、俺としたいんだ?」

天井を見つめたまま問うと、未春はぐいと頭をもたげてこちらを覗き込んだ。

「ハルちゃんは……何でも理由が要るの?」

暗い部屋の中、ちり、と未春の目に炎が揺らぐ。怒り。苛立ち。それは既に持っている。恐怖に近く、容易に結び付く感情。そして、“もう一つ”の感情とも関係が深い。

ハルトは溜息を吐いた。

「なあ、未春……お前が今欲しいのは、セックスで得る快楽じゃないだろ?」

「……?」

「お前が欲しいのは、愛情だ」

未春が表情を強張らせる。

「悪いが、俺はそれを持っていない」

「……嘘だ。ハルちゃんは、皆に優しい。スズさんやビビ、マックスだって……ハルちゃんと一緒に居たがる」

動物は正直だから。

苦しめられた動物がなつく相手には、愛情が有るからではないのか?

その解釈は、間違っていないとは思う。倉子や果林は間違いなくそういう人間だ。傷ついた相手を心から労わる愛情を持っている。

「俺はあいつらを可愛いと思うし、虐める連中はゴミクズ以下だと思う。だからって、愛しているわけじゃない」

「……じゃあ、どうして……」

「敵意が無いから寄ってくると俺は解釈している。ラッコちゃんは、俺が彼らに感情を押し付けないから好かれるって分析してるが……そりゃそうだよ、俺は普通の人達がペットに押し付けたくなるくらいの愛情をまるきり持っていない。傍に居て撫でるのはわけもないから、それが心地良い連中が集まっただけだ」

「……」

「わかったな? 俺とヤるのはやめておけ。お互い、後味が悪くなるだけだ。落ち着くんなら居てやるから、休んだ方がいい」

ペットみたいに。ただ、傍に居て、優しく抱き締める。ハルトの言葉は穏やかで気遣いがあるが、未春は唐突に胸の内が捻れるように傷んだ。動物たちは、こんな痛みは感じていないだろう。彼らは彼の傍が、和やかに過ごせると知っている。物静かで、意地悪なこともしない。窮屈な頬ずりや抱き締めることもしない。

「……わかった」

どうして、俺は……彼らのようになれないんだろう。近くに居るのに、ずっと遠くに居るような感覚。小さなため息を聴いて、切なさに四肢が痛い。

「……ハルちゃん、もっと強くして」

「もう殆ど技掛かってるぞ、お前」

俺も痛いと呟く体に未春は更に力を籠めた。どこかがみしりといった気がしたが、ハルトは思いのほか動じなかった。

「おい……俺はお前みたいに治らんから、そろそろ手加減してくれないか」

「じゃあ、抱いてよ」

「抱かねえっつってんだろ」

これでは脅迫か強姦だ。顔をしかめながら、ハルトは思案した。

――やはり、十は事を悪化させただけだった。未春が今向かい合っている『恐怖』を消化できなければ、こんなことが日常化するのか? それは無理だ。先にこっちの背骨かあばらが折れる。そうなれば、自分は離脱せざるを得ない。では、その後は?

他の誰かに手を伸ばすか? 理性に従って自壊する方が早いのか?

お手上げだ。優里に相談するしか――……

トントン、とささやかなノックが響いた。未春がぴくりと身動きした。

続けざま、さららの落ち着いた声が響いた。

「……ハルちゃん、大丈夫? トオルちゃんは帰ったわ。もう大丈夫よ」



 千間せんま優里ゆりはつわりが酷いらしく、電話で応対してくれた。

しばらく未春と通話していたが、医者の観点からすると、第一に睡眠の環境を見直し、可能ならプレーンヨーグルトやナッツを摂取するのも手だと――なんだかとても普通に感じるアドバイスをした。

精神科を紹介しても構わないが、未春が話したくない内容を他者に打ち明けることがストレスになるのは逆効果と成り兼ねないので、それなら事情が呑める人間に話を聞いてもらう方が有用とのこと。

睡眠薬はなるべく使わず、もし、どうしてもの場合は市販薬に手を付けないで自分の所に来るようにと言い含められたそうだ。

通話そのものはそれで終わりだったようだが、彼女はもう一つ、とんでもない対策を手配していた。

翌日。閉店も間近の時間帯、その対策は颯爽とやって来た。

「失礼する」

相も変わらぬクールな仏頂面で現れたのは、優里の弟にして世界トップクラスに入るだろう殺し屋・千間せんま優一ゆういちだった。

すらりとした高身長に品の良いベージュのロングコートがよく似合う彼は、仕事帰りなのか、片手に自社の物らしい洒落た革のビジネスバッグを提げ、更に紙袋を二つぶら下げている。

さららが誰より早く、そわそわとカウンターを回って出迎えた。

以前はある理由で敵を演じていた為に門前払いを食い、その後はさららと会うのを避けてDOUBLE・CROSSには来なかった彼だが、あのクリスマスのコンサート以来、時折、顔を見せる様になっていた。二人の仲は、ゆっくり進展しているらしい。

表の仕事が皮革製品の人気ブランド『ハンドレッド』のチーフデザイナーをしている彼は何かと多忙で、新年になってからは初めての来訪だ。

仄かに嬉しそうな顔で挨拶するさららの手前、未だわだかまりの残る未春をちらと見てから、ハルトは軽く頭を下げた。彼は静かに頷き返すと、持っていた紙袋の一つをさららに手渡し、もう一方をハルトに向けて突き出した。

「優里からだ。そこの冴えない顔の奴に」

人に慣れない猫のように離れた位置でじっとしている未春を振り返り、ハルトはやけに軽い紙袋を受け取った。何気なく覗くと、ジッパー付きの袋が入っている。更に中には、ティーバックと思しきものが幾つか詰まっていた。

「薬ですか……?」

「いや。あれが趣味で作っている只の茶だ」

「……ハーブティーだわ。懐かしい。私も貰ったことある。美味しいわよ」

「安眠をってことですか。わざわざすみません」

優一の家や仕事場は都心の方だ。ハーブティーを届ける為に郊外に来てもらっては何やら申し訳ない――そう思ったハルトだが、意外にも彼の目的はそこで終わりではなかった。優一は首を振ってから、未春に向けて顎をしゃくった。

「優里に頼まれたからだ。あいつの相手をしろと」

「あ、相手……?」

まさか、寝ろと言われたんじゃあるまいな?

何故か動揺するハルトとさららに胡乱げな視線を置きつつ、優一は頷いた。

「ああ。十条さん以外で、奴と組手ができるのは僕しかいない」

「組手……!?」

「そうだ。ストレス解消になるレベルの攻防をするようにと言われている」

ハルトもさららも唖然とした。未春さえ、少し驚いた顔をしている。

優里はまともだと思っていたが……さすがは暗殺一家に生まれた医者か?

具合が悪い人間に対し、同レベルの殺し屋を差し向けるなど、対処療法の基準が完全にバグっている。

「そ……それ、大丈夫なんですか? 優一さんが手加減できても……あいつはそういう気遣いはできないと思いますが……!」

優一は事も無げに手首を擦りながら頷いた。

「悪いが、僕の方も手加減できる保証はない。危険を感じるのなら、セコンドとして君か彼女を置くようにと指示された」

徹底した指示だが、未春がやるとは限らない。拒否するのでは……

そう思ったハルトが振り返るや否や、先に鋭く刺さったのは優一のセリフだ。

「別に僕はやらなくても構わない。彼女に嫌だと泣きついてもいいんだぞ」

――Well said.(上手いこと言う)

思わず内に呟いたハルトの感想通り、未春の目は攻撃的なそれに変わっている。

「……そんなことしません」

「では、行こう。ディック・ローガンに場所を借りている」

「え、ディックに?」

来たばかりで踵を返す優一に聞き直したのはハルトだ。

ディック・ローガンはすぐ隣の基地でパン屋を営む白人系の男だ。それは表向きのことで、裏では親の代からBGMと懇意の武器商である。伝説の傭兵みたいな筋骨隆々でありながら、気は弱く、車と札束が大好物という流されやすい男だ。基地内にはそう気軽に入れるものではないが、この男の口利きがあれば難しくはない。

「あいつが相手じゃ……大金吹っ掛けられたんじゃないですか?」

「どうでもいい。十条さんに請求するからな」

おお、つくづく上手いことを言う男だ。

未春は渋面だったが、大人しくコートを取りに部屋に戻った。

「あの……優一さん、私が見に行ってもいい?」

「さららさん、無理しなくていいですよ、行くなら俺が――……」

「ううん、いいの、ハルちゃん。今、急にそう思った。ハルちゃんが居ない方がいいかもしれないわ」

そう言って自分も上着を取りに階段を上がっていった彼女を見ていると、優一が小さく呟いた。

「彼女が言う通りだ」

意外な同意をした優一を見ると、彼はにこりともしない顔で二階の扉を仰いだ。

「ようやく十条さんの手を離れたと思ったが、君がその役を代わっただけだ。いい加減、一人立ちさせた方が良い」

「俺が……十条さんの代わり……」

自覚が無いわけではないので返す言葉もなく黙すと、彼は冷ややかだが、敵意のない声で言った。

「手加減する気はないが、痛めつけるのが目的ではない。優里にもその辺りはきつく言われている」

「……わかっています。気を遣わせてすみません」

「君も、少し肩の力を抜いた方がいい」

穏やかに言われて頭を掻いていると、未春がさららと下りてきた。

「来たか。行こう」

こくりと頷いた表情の硬さに感じた不安は何だろう。

「……無理すんなよ」

「うん」

「ハルちゃん、任せちゃってごめんね。お店閉めるのはゆっくりやって……行ってくるわ」

「はい。お願いします」

三人が出て行くと、急にジャズの演奏が鮮明になってくる。閉店時間を確認して音のスイッチを切ると、辺りは静寂に包まれた。

一人で片付けをしていると、久しく忘れていた殺し屋が一般人をやっている虚しさが胸を占めた。

なんだか落ち着かずに、やたらと真っ暗闇になった入り口の方を気にしてしまう。

ふと気づくと、猫のスズとビビが後ろに座ってこちらを見ていた。

ビビは無邪気な瞳をくりくりさせている一方、スズは「どうした、ボーイ。悩み事か?」などと聞くような顔をしている。

「……子供を旅に出す感覚って、こういうもんかな?」

思わず呟いたそれに、老獪な猫はゆっくりと瞬きをして、しわがれた声で軽く鳴いた。

――知らん。ところでメシはまだか?

そう言った気がして、殺し屋は苦笑いを浮かべた。

良い機会だ。二人が居ない内に、あれの試作を重ねるとしよう。



「おー、来た来た。待ってたぜ」

季節は冬の筈だが、筋肉質のボディにTシャツと薄い上着を羽織っただけの白人は、ゲートの傍で三人を出迎えた。チェックを済ませ、ディックが運転する車に乗り込むと、日本の筈が異国漂う基地に入る。薄暗がりに、橙色の光が滲む。

「ギムレットが来るのは久しいなァ。例のベレッタの件以来だろ」

きりこと、千枚通しの名を持つ殺し屋に、こんな気楽なことがほざける悪党はディックだけだろう。先の件では、理由が有ったとはいえ、カーチェイスをやった上、未春と一騎打ちの末、足に銃弾を食うという無理難題をこなした優一である。

案の定、助手席から厳しい視線が送られたが、運転している時のディックは口笛でも吹かんばかりに上機嫌でお構いなしだ。

何故、ディーラーではなくパン屋をしているのか、散々ハルトに疑問視されている男は、平気で車と婚姻届けを出すだろう程度にはイカれた車好きだ。

「お前は随分、羽振りの良い車に乗っているな」

「ヘッヘッヘ、さすが、デザイナー様はわかるかい? 良いだろォ~ベントレー!」

皮肉を物ともしないディックは、高級感あふれるシートの上で嬉しさ余って気色悪く身をくねらす。

「ハルちゃんに貰った車は?」

未春の問い掛けに、ディックは涎でも出そうな顔で頷いた。

「ああ、カウンタックLP400は二人乗りなんだ。乗りたけりゃ今度乗せてやるよ」

「カウンタックって……ハルちゃんて、本当に幾ら持ってるの……?」

車に詳しくない者でも、ランボルギーニ・カウンタックが恐ろしい高級品なのはわかるらしい。慄くさららに、現在価格で三千万から五千万は下らない車を右から左に流されたディックは呑気に笑った。

「ハルは高給取りなんてもんじゃないぜ。あいつの弾丸一発を憶で買い取りたいなんて奴も居たらしいぞ」

「億は凄い。十条さんでも、そこまで高額は来ないだろう」

「ハハ、まあ、そういうのは大抵国家レベルだから蹴っちまうらしいけど、うん千万はウソじゃねえな。カウンタックが報酬になった件もそうだろうし。あいつの取り分は分割して色んな人間の物ってことになってるから、総資産は俺も知らないけど……少なくとも、どっかの一等地で高級品に囲まれて一生遊んで暮らせる程度には持ってる筈だ」

「そ、そんなに……?」

「ああ。でも、あいつそれほど金使わないだろ? なんか貯めてる理由があるらしいが……女に貢ぐわけもなし、寄付とかやってたからそういうことなのかなあ……いつかはリビアとか人道支援団体にとんでもない額を寄付してたし……」

ハルトにとってタブーである国家の名を安易に洩らし、ディックはハンドルを切った。横づけされたのは格納庫と思しき巨大なかまぼこ状の建物だ。

周囲にも同じような建物や、事務所のようなものが併設しているが、辺りに人の気配はない。建物に対して小さすぎるようにも感じる扉から中に入ると、普段は有るのだろう飛行機などの機体は無く、コンクリートに覆われた、だだっ広い空間が広がっているだけだった。ひやりとした空間にさららが軽く身震いし、電気を点けたディックがアウトドア用と思しき椅子を運んできた。

「ルールは要るかい、お二人さん?」

さららに椅子を勧めながら言った男の声が反響する。優一が首を振った。

「要らん。只の殴り合いだからな」

恐ろしい一言を何でも無さそうに口にした男がコートを脱ぎ、苦笑して肩をすくめたディックに放る。

「……無理しないでね」

コートを受け取りながらハルトと同じことを言ったさららに、未春は頷いた。

二人の殺し屋は、観戦者から十分な距離をとって向かい合った。

「開始はディックが合図をしろ。まずいことがあれば、さららがストップをかける。いいな?」

優一の声に、未春はこくりと頷いた。既に呑気にスポーツ観戦する様子のディックが声を張り上げた。

「おーし、いいな、Ready~~Go!」

両者が弾丸のように床を蹴った。

「ストーップ‼」

拳が出るか出ないかの妙な姿勢で、殺し屋はぴたりと止まった。

互いに眉を寄せて、さららを見た。ディックさえもぽかんとしている手前、さららはきゅっと身をすぼめて言った。

「ごめんなさい。ホントに止まるかチェックしたくて」

ふー……と、優一の口から細い溜息が出た。

「すまないが、10分は待ってくれないか。僕もそれほど時間が残っているわけじゃない」

身体機能向上薬スプリングは、適合の代わりに何らかの疾患を生む。適合者である優一は自身の疲労を把握できない特殊な疾患を抱えている。未春は感情の多くがスリープ状態というものなので身体面に直接的な影響は少ないが、優一の方はある程度、計算しなければ戦闘は無論のこと、日常的にも突然倒れかねない危険を伴う。

きまり悪そうにさららが頷くのを機に、ディックが改めて開始宣言をした。

そこから先は、二人のギャラリーには殆ど見えなかった。

以前、優一が南米支部の剣の達人と戦う様を見たさららだが、その時より更にもう一段、いや、二段は早そうだ。しかし、どことなく未春の動きが鈍い気がする。打ち込む速度は殆ど差が無いようだが、優一はいなすのが上手く、拳や蹴りは届く前に流され、払われ、判断のスピードが速いように思えた。未春の攻撃は、常人にはハンマーで殴られるように重い筈だ。現に、彼が踏み込む際や攻撃を加える際には、コンクリート面が擦れる音が響き、風が唸る。ミットを付けているわけでもなし、受けるだけでも相当な力を要するだろうに、優一は冷静に対処していく。

「いやあ、やっぱスプリング同士は見応えあるなァ」

「ディック、あれ見えるの?」

信じられないといった口調で戦闘を見張るさららに、ディックは軽く手を振った。

「いーや、全然まったく見えない。いつだったか、トオルとミハルの対戦も拝んだが、こいつは見えないことを楽しむのが乙なのさ。君は多少見えるんだろ? 大したもんだ」

「見えるといったって……残像を同時に見ているようなものよ」

自身もスプリング適合者であるさららは、目を凝らしながら呟いた。適合者の事実が十によって秘匿されていたが為に、訓練や鍛錬という機会を設けなかったさららには彼らほどの戦闘力はない。しかし、聴力や視力を始め、各身体機能のポテンシャルそのものは確実に常人よりも優れている。

「曖昧だけど……優一さんは、決まったスタイルがあるみたい。あれが千間家の流派ということなのかしら……?」

先の戦闘でもそうだったが、優一の動きには相手に合わせつつも倣わない流れがある。リーチの長い剣の達人に対しても、一見、攻撃を避けたり防御しているだけに見えた中、いつの間にか相手の各所に針を穿ち、決定打を浴びずに勝利を収めた。

避ける、躱すという行為はそれのみに留まらず、次の攻撃の起点やバネとなる為、付け入る隙が少ない。

「よう知らんが、戦国の頃からだろ? アツいよなァ、リアルなニンジャだもんな」

「見えないのによく楽しめるわね……」

ショーのような感覚らしい欧米人の悪党に呆れつつ、さららは戦闘に集中した。

そんな気はしていたのだが、未春の攻撃は優一に比べるとその場その場の出たとこ勝負に見えた。勿論、桁違いの反射神経で全て対応して見えるが、一瞬、一瞬の遅れが積み重なって徐々に劣勢になるように映る。

「見えなくても、多少の優劣はわかるぜ。未春はどっか重そうだな。キレがない。武器が無いと乗らねえのかな」

「そうね……」

二人の能力にさほど差は無いと思っていたが、未春に比べ、優一は戦い慣れている感がある。ハルトが見ても、意外な顔をしただろう。未春自身も意外だった。優一を敵と認識して戦った際、此処まで差は無かったはずだ。当たると思った一撃は躱され、届くと思った拳も肘も入る前に受け止められる。

「弱すぎる。この程度か」

低い囁きが聴こえたと思った刹那、突き出していた腕が捉えられて勢いよく投げられた。猫のように一回転して降り立った未春だが、捕まった腕はびりびりと痺れている。

「刃物が無くては、僕を殺せないか」

「……」

きゅ、と眉を寄せた未春の足が床を蹴ったとき、あっとさららが腰を上げる。

ストップをかけるよりも、未春が背から床に倒される方が早かった。強かに打ち付けられた背骨が悲鳴を上げ、もうずっと感じていなかった気がする痛みに未春は顔を歪めた。

「Oh my……今、何が有ったんだ?」

生唾呑んだディックが喘ぐと、さららも声を上げるのも忘れた様子で唖然とした。

「私も……よく見えなかったけれど……」

恐らく、先程投げられたのと同じ動きだが、もう一つ動きが追加されている。

正面に突っ込んできた腕を取った優一が、未春の勢いを利用してその足を払った。そのまま、バランスを崩したところを上から押し崩した形らしい。痛みは大したことは無かったようだが、未春は天を仰いだまま、溜息を吐いた。

「終わりにするか?」

「……はい」

重たげに身を起こすと、片手が伸べられた。短い逡巡の後、その手を取って立ち上がる。優一はさっさと踵を返し、献上するようにコートを捧げ持つディックの方に歩いて行く。

「……千間さん――」

背に掛けられた、すがる様な響きに優一は肩越しに振り向いた。

「俺は……どうしたら……」

静かな目が頼りないアンバーを見つめていたが、ふいと背を向けた。

「自分が何者か忘れるな」

「自分が……何者か……?」

「僕も、お前も、十条さんと同じものだ。それは変えられない。だが、どう生きるのかは決められる。……少なくとも、あの人は強要しない筈だ」

「……」

「僕たちと同じ場所に居続けるつもりなら、その悩みは自身で克服するしかない」

そこまで言うと、優一は先に歩いて行った。コートを受け取って羽織る背を呆然と眺めていると、入れ違う様にさららが小走りにやって来た。

「大丈夫?」

「……はい。大丈夫です」

しきりに後頭部を気にするさららに、もう一度「大丈夫」と告げると、小さく微笑んだ。

「何か……掴めそう?」

「……さあ、わかりません……、でも……」

帰ろうぜと声を上げるディックの傍らに立つ背を見つめ、未春は独り言のように呟いた。

「何か、少しだけ……――」

先程、痺れた筈の腕も、打ち付けた筈の頭も既に痛みは引いている。擦り切れた箇所に残った血の名残だけがひやりとした。

それは、自分の内側から出たもの。熱く、流れていた筈のもの。




〈ねえ、ママ。パパ、明日どこ行くの?〉

自室のベッドに寝転がりながら、実乃里はスマートフォンに打ち込んだ。

異常な聴覚を有する父親に聞かれたくないことは、無料通話に特化したSNSアプリのTAKEを使っている。

〈さあ? 誰かに会いに行くみたいだけど〉

母は昔から、父が何処で何をするか気にしない。

ただ、良い事か悪い事かで言えば、悪い事の割合が多いのは知っている。

にこにこと笑っている父の手に掛かって、誰かが死ぬからだ。

そんな父は、人殺しは悪い事だと、毎日のように言う。にこにこと。

それはもう、人の良い笑顔で言う。

矛盾している様だが、実乃里はそう思っていない。

ニュース番組から、毎日のように飛び込んでくる殺人事件は悪い事だと理解できる。

自分の欲望を満たす為、自分にとって邪魔な者を消す為、自己を通すための殺人は、悪い事。ストーカーやレイプ魔に殺された人たち、実の親に殺された赤ん坊や幼子たち、社会的地位や立場に圧し潰されて死を選んだ人たち、お金の為に殺された人たち、権力に逆らって殺された人たち、何の罪もないのに無差別に殺された人たち。

父が殺すのは、その加害者だ。或いは、加害者になる寸前の人たち。

それでも一律に、人殺しは『悪い事』と称する父は、自分のことを悪党だと称する。

母も、それに同意する。

悪党。

私は悪党の娘。ちっとも嫌じゃないけれど。

――だって、パパが『悪い事』で稼いだお金は、みんな大変な想いをしている人たちの寄付になる。

ごはんもまともに食べられない子たちの為、学校に通えない子たちの為、捨てられた猫や犬の為、不治の病に苦しむ人の為、戦火に見舞われる国の為……

だから、父の周囲に居る『悪党』はちっとも怖くない。

いっそ、『良い事』の為に頑張っているみたいに見える。

その内の、誰に会いに行くのかな?

〈パパがおしゃれしていくのは、凄い人に会う時だよね〉

〈たぶんね。都心には行くと思うわよ。お土産チェックしてたから〉

さばさばした母のドライな返答に、実乃里はちょっぴり笑った。

私も、こういう感じになるのかな。なれるといいな。

あの人は、パパみたいにお土産を買おうか悩んでくれるかな?

〈ねえ、明日、DOUBLE・CROSSに行ってもいい?〉

〈一人で?〉

〈うん。さらちゃんに相談したいことがあるの〉

〈あらそう。パパには内緒の話ってわけね。バレンタインの相談かしら〉

ママはお見通しだ。それもそうか。家庭内TAKEしてるんだし。

〈そんなとこ。いいでしょ?〉

〈いいわよ。帰りは誰かに駅まで送ってもらってね〉

「やった!」

思わず声に出し、実乃里は慌てて口を塞いで周囲を見渡し、クローゼットを開けた。

最近、さららに選んでもらったものばかりが並んでいる。お揃いで買ったものや、プレゼントしてもらったものもある。

さららの意見は重要だ。

――何を着て行こうかな。もし、あの人に偶然会ったら大変だ。

後悔しない様に準備をしないと。パパもよく言ってるもんね。

計画は、念入りにやらなくちゃいけないって。

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