2.Visitors.
ハッピータウン支部の名にふさわしく、長閑な日記のページをめくる様に年明けの日々は穏やかに過ぎた。寒さはまだ厳しいが、日差しはほのぼのと暖かい。
約一名、寒い場所に取り残されている感はあるが。
店先を掃きながら振り返ると、休めばいいのに、
遊ぶという概念に乏しいハルトは、『
気分転換というからには、未春が好ましい場所ではないといけない。
以前、水族館に行った経験から、ひょっとして魚が好きなのか?……そういえば昨日の夕飯も魚だった……いや、阿呆、だったら何なんだ?……と、珍妙なループに嵌ってしまった時だった。
殆ど真っすぐなベースサイド・ストリートを白い犬が羽箒のようなフワフワの尾を振りながら走って来た。
「あれ?……マックス?」
間違いない。保護犬のマックスだ。
その後ろからリードに引っ張られる様に走って来た人物に、ハルトは驚き半分で硬直した。
「タ、タチバナさん……」
寒空に細い首を晒した黒いベリーショートの少女は、リード片手にはたと立ち止まった。色白で鼻筋の通った面にアジアの血が微かに混じった欧米人のソフィア・タチバナは、短いダウンこそ纏っているが、腰から下はぴったりしたジーンズだ。日本よりも欧米の若者らしい少女は、父の仇の顔を見て緊張したが、その脚に寄り添って尾を振るマックスを不思議そうに見た。
「ミスター・ノノ……マックスと知り合いなの?」
「あー……知り合いというか……」
保護施設での話を説明すると、ソフィアはようやく腑に落ちたような顔をした。
「この子、祖父母からのクリスマス・プレゼントだったの」
マックスを保護していた施設長の
――外国人のご家族からご希望頂いてるの。来週、面接なのよ。
なるほど、マックスを希望した外国人とは、ソフィアの祖父母だったのか。
ハルトらがリリー・クレイヴンと過ごしていた最中、正式に譲渡する前のトライアル期間を経て、無事に彼女の飼い犬になったらしい。出会った当初は、虐待を受けた為に寂しい顔つきの犬だったが、果林や倉子らの努力で少しずつ元気になったマックスは、今は堂々として腕白そうな顔をしている。きちんと座って両者を見やる様子からして、ソフィアとの相性も良いらしい。
「果林サンが言っていた名付け親って、貴方だったのね」
ニコニコしているように見える犬の頭を撫でたソフィアは、奇妙なものを見る目でハルトを仰ぎ見た。無理もない。一度は命を狙った仇である。血も涙もない筈の殺し屋が犬に好かれるなど信じ難い事だろう。殺し屋は殺し屋で、何と答えたものかと頭を掻いた。
「えーと……こいつ、どう?」
「Good boy.」
どうもこうも無かろうが、さらりと答えたソフィアは少しだけ微笑んだ。褒められたことがわかるらしいマックスは、うきうきした様子で尾を振り、足踏みした。
「良かったな、大事にしてもらって」
ようやっとぎこちない笑みを浮かべたハルトが何気なく差し伸べた片手に、犬は嬉しそうに頭を寄せて突き返してきた。その様子を、ソフィアは物静かな目で見つめた。
「何度か外に行きたがったんだけど、貴方に会いたかったのかしら」
基本的には米軍基地内の居住区を歩くというが、無性にゲートの外に行きたがることがあるらしく、たまに国道沿いを歩いていたらしい。居住区からゲートまではかなり距離がある為、早朝の散歩にしてはなかなかのコースだ。仮にそうなら申し訳ないと言ったハルトに、ソフィアはちょっと可笑しそうに笑った。
「いい運動になるわ。もともと、散歩好きなのは私で、彼はそのパートナー」
「ボディーガードってことか……責任重大だな、マックス」
呼び掛けにピンと背筋を伸ばした犬は白い羽箒を掃くように揺らす。任せてくれと言わんばかりの忠犬らしい素振りを眺め、互いに思い付いた様に顔を上げた。
「……それじゃ、また」
「ああ、うん……」
生返事を返した男を名残惜しそうに振り向きながら歩くマックスを連れ、ソフィアはストリートを走り去っていった。ぼんやり見送ったハルトは、不意に背中をつんと押されて仰天した。
「……そんなに驚く?」
未春だ。気配の薄さなら猫にも匹敵する男は、ソフィアが去った方をちらりと見たが、何も言わなかった。
「ハルちゃん、いまトオルさんから電話が有って、午後からお客さんが来るって」
「お客? 俺に?」
「そう」
「誰って言ってたか?」
こくりと頷いた未春は、ハルトが今すぐ逃げ出そうかと思うビッグネームを告げた。
「ボス・スターゲイジーだって」
「お……お久しぶりです、スターゲイジー……」
呟くようなハルトの声は掠れていた。
ずんずんと歩み寄って来た巨体の紳士に、後方に一歩しか逃げられなかった男は、ラガーマンのような剛腕に抱き締められて悲鳴を上げた。
「Haru! My cute guy~~!」
「ちょ……スターゲイジー! Stop! Stop! Break! Breakー!!」
大声で「折れる」と必死の形相で訴えた男に、紳士はニタニタ笑いながらぱっと離した。ふらふらと離れるハルトの双肩をばしばしと叩いて豪快に笑う。
「おお、すまんすまん、お前が可愛いもんだから、つい」
「……折れたら絶対に慰謝料請求しますからね……!」
ボス・スターゲイジー。
BGM・イギリス支部を牛耳るTOP13は、シャツがはち切れそうな大柄な筋肉ボディとストローイエローの髪と髭が特徴の英国紳士だ。アマデウスとは悪友とも言うべき仲で、彼が堂々と『バイソン紳士』だの『海賊紳士』だの呼ぶ一方、ハルトも陰でこっそり『
今は調査会社ブレンドを仕切る男は、BGMでは相当な穏健派だ。面倒見が良く、気のいい性格は裏表がなく、目を点にしていたさららに体形からは想像もできない優雅な仕草で挨拶したところも、紳士を自称するだけのことはある。
ハルトも彼の人となりは好ましいのだが、本当にバイソンのタックルに匹敵するのではと思うパワーと、ゲイを疑うレベルすれすれのボディーランゲージは恐ろしい。――本当に。とてつもなく。
「まあまあ、そう怒るなよ、Good boy.」
人を犬みたいに言うんじゃない――出そうになる文句を飲み込んで、訝しい視線だけ返す。
「一体何しに来たんですか……?」
「現地調査だ。俺の部下は優秀だが、新店舗は確認せにゃならん。日本は初だしな」
「堂々と建前ですか。此処は貴方の店じゃないでしょう」
こちらも堂々と出た皮肉に、紳士はにんまり笑った。
言うまでも無く、彼がわざわざロンドンの本社から出張って来るなど只事ではない。
しょっちゅう日本にやってくるアマデウスといい、この紳士といい、フットワークの軽さは世界を股に掛ける何とやらだが、どちらも表向きでさえ一般人ではないのだ。これが映画なら、彼が現れた時点で、街か要人の首が吹っ飛ぶことが確定している。
さては、先日……室月が言っていた連続殺人の件だろうか?
「あのう……事件の件なら俺は何もわかりませんけど……」
「事件? ……ああ、あの話か。言ったろう、ハル、俺は新店舗を見に来たんだ。日本で警察の真似事なんぞしない」
「だからって、此処には俺に会いに来ただけなんて言いませんよね?」
「もちろんだ。ハル、一緒に来い。紹介したい奴が居る」
立てた親指をぐいと示すアクションに、誘われた方は死刑宣告を受けたような顔をした。……なんとなく、そんな気はしていたが。
「仕事が済んだら行ってもいいですけど……相手はブレンド社の社員でしょう?」
「おう。……ははーん、さてはお前、ラッセルやペトラみたいなのと対面すると思ってやがるな?」
素直に頷いたハルトに、スターゲイジーはきちんと整えられたストローイエローの髭を撫でて口元を歪めた。
ブレンド社は、BGM内でも異端の会社――表裏、両方の仕事を同じ社が請け負う。
表向きは堂々と警察とも通じ、何ならスターゲイジーはナイトの称号さえ得ている英雄だ。その社員は大まかに三つに分かれ、表専門のスタッフ、裏専門のスタッフ、そして両方を担える精鋭中の精鋭が居る。裏専門はこちらと同様の殺し屋が主体だが、両方をやるスタッフは正確には殺し屋ではなく、エージェントと呼ぶ方がわかりやすい。ハルトが恐れを抱くのはこのエージェントに属する一握りの人間――特に名前の挙がった両名は、鉢合わせるなら遠回りを選ぶ程度には避けたい猛者だ。
「そう嫌ってくれるなよ。ラッセルはお前の活躍を喜んでるぞ」
「そりゃどーも……」
半ば同業者なので複雑なのだが、ラッセルは英国紳士代表といった風の初老の男だ。先日現れた南米所属のエタンセルは古風な紳士だったそうだが、ラッセルは
「なんでハルちゃんはそんなに嫌そうなの?」
先程から傍観者の面構えで眺めていた未春の素朴な疑問に、『嫌そうな顔』を全く改めずにハルトは首を振った。
「ラッセルは、俺が居た施設で近接格闘術の教官をしてたんだ」
「乳臭いガキどもに
ニタニタ笑うスターゲイジーの言う通り、マグノリア・ハウスに集められたクソガキ共にドレスコードやテーブルマナーを仕込んだ……否、文字通り”叩き込んだ”のもラッセルだ。アマデウスに乞われ、スターゲイジーの推薦でやって来た英国紳士がどんな教官だったかは、このビビり様から察して頂きたい。例えるなら、彼は温和に微笑みながら相手の骨をぼきぼきと折り続けられる。
初回は非常に丁寧に教えてくれるのだが、その後に所作をミスすると、容赦のない鞭が翻った。テーブルマナーでこれなのだ、近接格闘術の彼が如何に恐ろしい鬼教官だったかは想像して頂きたい。かくいうハルトも、彼の教えを受け、同胞一の力自慢を負かしたことがあるが、その指導は痛みと引き換えだった。
「まあ、正直……俺はミズ・ペトラの方が会いたくないですけど」
常に喪服を纏い、ヴェールの付いた帽子の下から鋭い瞳を向ける妙齢の女は、見つめられただけでカラスの群れに遭遇したような、何とも不運に見舞われた心地になる。
「フフン、お前らしい。アマデウスも女の殺し屋は苦手だからな」
そう、女の殺し屋はBGMでは稀な存在である。
特に北米の管轄には“性別上の”女は一人も居ない。理由はアマデウス曰く、『女性は私的な理由で殺す為』だそうだ。ドイツのTOP13のように異を唱える者もあろうが、この考えは一理ある。それに、アマデウスは女性を軽んじて言うのではない。
古来より女性というものに宿った優しい性質が、安易な救済や愛情から来る衝動に流されやすい為、卑劣な行為への正確性に欠けるからと彼は言う。ペトラは鼻で笑っていたが、彼女も私的な理由で動くことが多い。アマデウス並にドラッグを憎む彼女は、その恐るべき勘で敵を見つけると、独断で叩き潰すことがあるらしい。スターゲイジーが勝手を許すのは、『英国紳士』の寛大な措置というが、そこは彼女が有能だからこその免罪符がある為だ。
英国一のスパイが抱えるエージェントに、ヘマをするような奴は皆無。
紹介したいという相手も、さぞや有能な人物なのだろうが……
「紹介したいのは、一人ですか?」
「おう。安心しろ、相手は男だ」
「安心は無理ですね。スターゲイジーの“優秀なスタッフ”は大抵、曲者揃いだ」
「ハハハ……そうとも、奴はかなりの曲者だ。顔はそこの美男と良い勝負だぜ?」
指差された未春が目を瞬かせ、ハルトの目が一段と胡散臭そうなものを見るものになった。
「そんな目立つ男を連れてきて、日本で何をやってるんですか」
「ン? 表の商売のことか? あの阿呆でも出来る簡単な仕事さ」
言うなり、片手で虚空の何かを掴み、ダイヤルでも捻るような動作をする。
「……何ですかそれ」
怪しいものを見る目のハルトに、未春が「パチンコ?」などと言うと、英国紳士は苦笑混じりに首を振った。
「お前ら、本当に日本人かよ? ジャパン・クールのアレだよアレ」
アレ。いっこうに思い当らない帰国子女に対し、先に手を打ったのは未春だった。
「ガチャガチャ?」
スターゲイジーがアマデウス経由で買い上げた雑居ビルは、つい最近、爆発したとは思えないほど綺麗になっていた。爆破されたフロア以外のビルそのものまで洗浄されたように真新しい状態には、英国お得意の魔法でも使ったかと言いたくなる。
“まともに”仕事をしていた事業者はそのまま入るらしいが、 “魔法”のおこぼれに預かったそうで、どのフロアもリフォーム真っ只中だ。各所に青いブルーシートが敷かれ、運び込まれた無垢の木材や、何かの缶が幾つも置かれた中、あちこちでモーター音や何かを打ち付ける音が響き、各事業者が忙しそうに往来している。
ブレンド社が入る最上階フロアは、えらく凝った内装だった。柱が樹木の形になり、それが支える天井は一面、人工の枝葉に覆われている。葉の合間に点在するライトが強烈な光を放つ下には、一体何台あるものか――『ガチャガチャ』こと、カプセルトイの自動販売機がびっしりと並べられ、各コーナーに設けられたテーブルはばかでかい切り株やキノコの形をし、巨大な花とベリーの生る茂みのオブジェが散在する。魔法使いか妖精が造ったようなガチャコーナーは、まだ暖房が入らない為、寒気がする冬の森のようだった。
寒いというだけで既にうんざり顔のハルトを伴い、只でさえでかい図体をコートで更に大きくしているスターゲイジーは、人工の森を抜けて『STAFF・ONLY』と書かれた扉を無造作に開いた。ようやく二人通れるかという通路を抜けると、部屋が二つ続いた。半開きになっていた手前は棚とボックス、段ボールが積み上がった倉庫、奥が『OFFICE』と書かれた事務所らしい。
バイソン紳士には小さいドアを開け放つと、もわっと温かい風が撒き上がった。
板塀一枚の向こう側には、ごくシンプルなテーブルと椅子、オフィス向けの棚が囲み、金庫、ロッカー、冷蔵庫にレンジまで置いてある。エアコンは動いていなかったが、足元に置かれた電気ストーブが赤い光と熱気を放っていた。
そして、その中央テーブルに書類と共に突っ伏した熊の様な物体は人間だった。
全身ブラックコーデの人物は、軽くパーマの掛かった黒髪しか見えず、長い脚が窮屈そうに机の下で曲げられている。
「また寝ていやがる」
溜息混じりに苦笑した紳士は、テーブルを回り込み、その肩を軽く叩いた。
「Hey, Black……Wake up.」
熊がぴくりと動いた。
ずるりと顔を上げた男に、ハルトは「なるほど」という顔をした。
やや長い前髪の下には変な寝癖がついていたが、確かにハンサムな男だ。未春よりもガタイが良く大柄だが、起きると同時にうっすらと浮かんだ薄い笑みと香水の香が、優男の印象を受ける。が、その両眼にハルトは釘付けになった。
――なんて、暗い目だ。……まるで、この世の地獄を全て見たような闇に似た双眸。
それに、この男……欧米寄りの顔立ちだが、アジアの血が混じっているのか、どこか十条十に似ている。
「Good morning……Stargazy……」
ぞっとするようなバリトンが響いた。腹の底をねっとりと撫で擦る様な声にハルトは顔をしかめたが、紳士はニヤリと笑った。
「もう夕方だぜ。仕事は済んだのか」
「……Yes, Boss.」
――くそ、嫌な声だ。墓場で響いてきても驚かない程度にはヘビーだ。喋る度に、身に着けた香水のオークモスが肺腑に流れ込んでくる気がする。
「客だ。紳士たるもの、人前ではしゃんとしろ」
背を強めに叩かれて軽く咳込んだ男は、やっとハルトを見てのそりと立ち上がった。思った以上の巨体に、身を引きそうになる。黒のハイネックにズボン、黒のチェスターコートが更に迫力を増す。年齢も一回りかそこら上だろう、190cmはありそうな身長は十条をも凌ぐ上、隣のバイソン紳士と比べても遜色ない。加えてこの顔――やや長めの前髪に隠れて尚、目立つに違いない。
「ハル、紹介しよう。ブラック・ロスだ。今、ウチで一番のヤバい野郎だ」
「はじめまして」
差し出された手は、指も大きく節々が堅かった。……片手で人の首ぐらいは絞められそうだ。
「どうも……ノノ・ハルトだ」
「あ……君がフライクーゲル? 世界最高峰のガンマンと噂の?」
いっこうに消えない薄笑いは身内だと不気味だが、一般人には魅力的だろうか?
「そうでもない……俺はスターゲイジーに『ヤバい』と言われたことはない」
かぶりを振ったハルトに、皮肉が通じたか不明の男は、口角を微かにもたげて小首を捻った。
「確かに、思ったより可愛らしいな」
他愛ない仕草さえセクシーに見える男に頬をひくつかせると、スターゲイジーが面白そうにニタニタ笑った。
「安心しろ、ハル。コイツはゲイじゃねえ。男も女も関係なしに“できる”がな」
ちっともフォローにならない紳士の言葉に改めて頬がひくついたハルトだが、ブラックは肩をすくめて薄笑いのまま首を振った。
「寝るなら、ただ横になる方が好きだよ」
「……同感だ」
殺し屋の同意に、薄っぺらい膜のような笑みに少しだけ人間味が差したようだった。
十条に似ていると思ったが、どうも彼の笑顔は意図的な笑みとは違うようだ。
ハルトの疑問に答えるように、スターゲイジーが物静かなブラックの肩に手を置いて言った。
「このイカレ坊主はな、某国の民間軍事会社に居たんだ。貧困層だか戦争孤児か知らんが、ガキの頃にどっからか連れられてきて、戦闘のイロハをみっちり教わった。ところが或る戦争で組織はお払い箱になっちまって、雇い主の某国に追い回され、生き残ったのはコイツだけ。ひでえ話だろ」
民間軍事会社は退役軍人を集めたものが主で、国によっては正規軍として扱われるケースが多いが、中には囚人を利用して生き残ると恩赦を与えたり、国家を守る義勇軍として民間人から募集を募るなど、様々な形態がある。某国と伏せたが、軍事に明るく、戦闘に関わる国は幾つか絞られる。彼の容貌からして、活動していたのは北が多そうだが。
上司の述懐を、同じ笑みを浮かべたまま聞いている男はバカでかい子供のようにも見えた。その首元には、何本もの古い裂傷と、何によるものか判別し難い火傷のような痕が見える。
「見ての通り、都合が良いからやってたらしい胡散臭えスマイルは、貼り付いちまって取れやしねえ。鞭打たれようが熱に倒れようが、ずっとこの顔だ。ヤバいだろ?」
「ええ、全く」
正直に肩をすくめたハルトを、長い前髪の下から闇が笑った。いや、本当に笑っているのかも定かではない――既に、誰かが一度、精神的に壊した男ということだ。
「トオルに似てると思うか?」
スターゲイジーの問い掛けに、ハルトは首を振った。
「最初はそう思いましたが、容姿が近いだけですね。彼はどちらかというと未春に近い」
「アマデウスと同意見か。可愛い部下だね、お前は」
温かい空気に溜息を吐き、山のような二人の男を仰ぎ見た。
「そろそろ教えてくれませんか、スターゲイジー……彼を俺と会わせた理由は何です? ”あいつら”と関係があるんですか?」
「フフン、お前の察しの良いところは好きだぜ、ハル」
いちいち送られるラブコールに顔をしかめると、スターゲイジーは最高に嫌な予想をさらりと言った。
「こいつが先日、リーフマンとすれ違った」
刹那、呼吸が止まる気がした。肺を埋め尽くすオークモスが一度に吹き飛び、代わりに色素の薄い栗色の髪をなびかせた地味な少年が浮かんだ。
あまり目立たなくて、大人しくて、ウサギみたいな目でこっちを見る少年。
「ジョゼフを――……どこで、――」
言い掛けて、ハルトは息を呑んだ。見上げた闇が微笑んでいる。
――ウチで一番のヤバい野郎。
そんな男が、スターゲイジーとセットで来日。たかが、カプセルトイのコーナーを整えに? バカな。
「奴は……日本に?」
スターゲイジーは口髭に覆われた口元を歪めたが、目は笑っていなかった。
「リーフマンの件が無くても、お前には一度会わせておくつもりだった。……が、俺の見込み以上にこいつは
ジョーカーどころか
「すまないが、ボスが言う通り――俺は“すれ違った”だけだ」
「時間と場所は?」
「昨日の午前7時、東京駅構内のエスカレーター。長いやつを下りている時、上に向かう方とすれ違って気付いたが、あの場で取り押さえるのは無理だった。狭くて人も多い」
相手の“性質”を踏まえ、追いかけることはしなかったという。
薄笑いが消えない弁明に、軽く頷いた。良い判断だ。そう容易く、あの男を捕まえるのは無理だ。奴は、そういうことは全て知った上で歩き回っているだろうし、ハルトが直後に連絡を貰っていたとしても、無駄足になるに決まっている。
「ハル……お前も気付いてるだろうが、連中にとっちゃ、日本は魅力的な逃げ場だぜ。『
銃刀法。いくら魔法の弾丸でも、撃てなければ当たらない。確かに、同胞を銃で仕留めている男が相手なら、銃が非合法の国が最も都合が良い。可能性として視野に入れていたことだが、いざ現実になると不気味だ。地方ではなく、東京のど真ん中をうろついているのも、猛獣が近所のマーケットに出没したような緊張感がある。
「……わかっています。奴が“最後”なら、俺の逮捕も視野に入れますが」
「ああ……『オムニス』の野郎を残した状態で捕まるわけにはいかねえな」
紳士は肩を揺らし、静かな部下を振り返った。
「トオルには話を通してある。こいつを使え、ハル。役に立つ」
「ブレンド社のスタッフを……俺が?」
「そうだ。俺はアマデウスに恩を売る気はないが、お前の同胞を野放しにするのは俺にとっても都合が悪い。だからウチの最高のヤバい奴を貸してやろう。こいつは目的の為なら墓を暴いて遺体を確かめるようなイカレ野郎だが、腕は戦争屋とラッセル仕込みだ。阿呆に見えるかもしれんが、頭は悪くねえし、機転が利く。頼りになるぜ」
上司の評価に、ブラックがうっすら笑う。十条以上に何を考えているかわからない笑顔は不気味だが、スターゲイジーとラッセルのお墨付きとあらば相当の達人だ。
味方と信頼するにはあまりにも濃い闇を前に、ハルトは溜息を吐いた。
「一つ聞かせてください。彼は、何故、見た男が“リーフマンだとわかった”んですか?」
顔を変えていなくても、成長した姿を見た者は居ない。ハルトは会えばわかる自信があるが、姿を正確に知っているわけではなく、数十秒以上、本人かどうかチェックする間が必要だ。一度も会った事がない人間が、すれ違った程度で看破できるとは信じ難い。
しかも、相手は“あの”ジョゼフ・リーフ。
アマデウスさえ『かくれんぼの天才』と称し、本名と『木の葉を隠すなら森』の意味から『リーフマン』と呼ばれた彼は、その名に相応しく、一度隠れたら木の葉に扮するも同然。葉を一枚ずつ捲る様に探す必要を強いられる。それほど潜める理由は定かではないが、まず、マグノリア・ハウス時代の彼は気配が極端に薄く、アイルランド出身だという顔の印象も、一度で覚えられるほどの特徴が無い。一緒に過ごしたハルトでも、彼の顔を説明するのは難しい。栗色の髪、平均的な身長、整ってはいるが一般的な欧米人らしい顔立ち、彫りは深くも浅くもない、珍しくない茶色の目。物腰、喋り方、笑い方までもが特徴を持たず、運動能力、知能さえも平均的な男だった。
それが意図的な行動であり、抜きんでた個性だと、周囲が気が付いたのは失踪間近のことだ。
スターゲイジーはストローイエローの髭を撫でてにんまり笑った。
「聞いて驚け、匂いだ」
「匂い……?」
「Hey, boy……いつまでもにやにやしてねえで自分で話せ」
唐突に後頭部をどつかれた男が、一歩よろめいて、やはり薄ら笑いのまま顔を上げた。
「鼻が利くんだ。犬には勝てないが」
「匹敵するがな」
犬に匹敵する嗅覚? 未春の犬版……などと思ってしまうが、次の一言で、この男の中身がもっとえぐい――戦争屋上がりであることがわかった。
「血と死体、火薬の匂いは距離が有ってもわかる。爆弾は素材によるが、死体はある程度、埋まっていてもわかる。例の二人に関しては、ミスター・アマデウスに依頼されて持ち物を嗅いで覚えた」
「……普通じゃないのはもう聞かないが――……そんなこと可能なのか?」
二人の持ち物なら、マグノリア・ハウスに残っていただろうが、それを嗅いで匂いを覚える? 麻薬探知犬じゃあるまいし、彼らが失踪して既に十年以上経過している。自分と同じように大人になった連中が、ガキの頃と同じである可能性は決して高くはない。
ブラックは何でもなさそうに頷いた。
「君の事も覚えた」
「よくそんな香水付けて覚えられるな……」
「ああ、これは自分の匂いを消す為に付けてる」
もう何も聞く気が起きなくなって、ハルトはこれ以上出ない渋面で、ニヤニヤと腕組みしている紳士を仰いだ。
「まさか……彼はウチで預かるんですか?」
「それには及ばん。こいつは他にもやることがある。呼びたい時に呼べよ」
上司が顎をしゃくるのに合わせて、ブラックがポケットからスマートフォンを取り出した。
気の進まない顔で連絡先を交換すると、犬笛でも貰ったような気になった。
「宜しく、フライクーゲル」
「……その呼び名やめてくれ、ミスター・ブラック。ハルでいい」
に、と彼は口角を持ち上げて笑った。それだけ唇が笑んで尚、両目の闇は深い。
「俺も、ブラックにしてくれるか?」
時は、十二月に遡る。ロンドンのヴィクトリア・アルバート美術館のカフェは、観光客も含めて満席だった。歩けばカフェに出会うと言ってもいい程、カフェの多いロンドンの中でも、このミュージアムは人気スポットだ。今では常識と言ってもいいミュージアム・カフェの第一号と云われるこのカフェは三つの部屋から構成され、どの部屋もエレガントで趣がある。その内の一つ――著名なモダン・デザインの父ウィリアム・モリスがデザインしたモリス・ルームは、天井や壁面を精緻な草木の絵画やレリーフが覆い、グリーンやベージュの落ち着いたそれらを、ぶら下がった仄明るい照明が照らし出していた。モリスが三十一の若さで請け負った施設内では、老若男女が午後のお茶を楽しんでいた。
一席で向かい合っていたその二人も、ごく普通の青年たちだった。
ちょうど、モリス同様――三十代ぐらいの二人は椅子にもたれ、バーレイ社の白磁にグリーンの装飾が施されたティーセットを前にしていた。どちらも、欧米人。目立つ容姿ではない。強いて言えば、片方は栗色の髪をした白人、もう一方は蜂蜜のようなブロンドの白人だった。
「君が声を掛けてくるとは思わなかったよ、フレディ」
栗色の髪の青年が、ダージリンの香りのする空気に溶けるような声で言った。水の様にまろやかでクセのない英語に、ブロンドの青年はちらりと笑った。
「僕が君を見つけられないと思ったかい?」
「いいや」
音もなく首を振ると、栗色の髪の青年は曖昧にはにかんだ。
「ただ、君が興味があるのはハルだけだと思っていたから」
「その通りだよ、ジョゼフ。僕はハルにしか興味はない」
「それならどうして、僕に声を?」
問われた青年は両肩を持ち上げ、優雅にカップを傾けた。
答える気が無いのか、単なる気まぐれと言いたいのか、判然としない顔つきは少年時代から些かも変わっていない。
「ジョゼフ、他の連中がどうなったか知っているか?」
「知らないよ」
頑是ない子供のような回答に、ブロンドの青年はカップを置いた。
ちょうど、近くのテーブルで三段重ねのティースタンドの到着に小さな歓声が出たとき、静かに言った。
「ハルが殺した」
ウサギのような目が、持ち上げられた。
「……全員?」
「全員ではないね。だが、そう言ってもいい。最初に狂ったヘンリーはアマデウスが隔離していたし、僕たちは逃げ果せたから」
「他はハルがやったんだね? ……それなら、全員とそう変わらないよ」
身震いする青年を、向かいの青年はどこか嬉しそうに眺めた。
「そうかもしれないね。本当は知ってるんだろう? そうでなければ、ブレンド社の本拠地であるロンドンをうろついている筈がないからね」
問われた青年は、肯定とも否定ともつかない様子でかぶりを振り、椅子に沈むように溜息を吐いた。
「フレディ……君は最初から、こうなると思っていたんだろう?」
「もちろんさ」
満足そうに微笑んだ青年を気の弱そうな目が仰ぎ見た。
「僕はそうは思わなかった。君が特別なのはすぐにわかったけれど……ハルは違っていたじゃないか。どうして彼はこうなった? アマデウスが何かしたの?」
ノイローゼ気味の問いに、ブロンドの青年は興味が無さそうに髪を弄った。
「ねえ、ジョゼフ……君はどうして逃げたんだい?」
「……人殺しなんて、したくなかった」
やや憮然とした調子でカップの中の紅茶を見つめながら出た意見に対し、ブロンドの青年は小さく笑い声を立てた。
「ジョゼフ、それは違うんじゃないかな……君、施設を出てから何人手がけた?」
ちらりと見た目は、先程と同じウサギのような目だったが、真意を知る者からすればひどく不気味な目だった。現に、青年は怯えさえ感じる目で事も無げに言った。
「覚えてない」
「やっぱりね」
ブロンドの青年は半ば呆れ顔で一笑に伏し、栗毛の青年の怯えを孕んだ目つきは変わらない。
「君は『人殺しをしたくなかった』んじゃあない。『殺し屋になりたくなかった』だけだ。思った通り、“君は他の連中と変わらない”」
「……それを確かめる為に、僕に会ったのか?」
「いや、そんなことは確かめるまでもない。さっき、君も言ったじゃないか。僕はこうなることは“わかっていた”。君が他の連中と同じでありながら逃げられたのは、優れた逃走能力が有ったからだ」
「……だったら、どうして」
「会ったのは、君に教えようと思ったことがあったからさ」
優雅に紅茶を含んだ青年が、掲げる様に持ったカップの向こう――陰鬱な顔になりつつある青年を透かし見た。
「ねえ、ジョゼフ、今、ハルが何処に居るか知っているかい?」
「アメリカじゃないの……?」
「ああ。彼はアメリカを中心に各国で仕事をしていた。此処、ロンドンに来たこともある。スターゲイジーはアマデウスと仲が良いからね」
身震い一つして、周囲をちらと見た青年に、ブロンドの青年は笑い掛けた。
「ハルは今、日本に居る」
「日本……?」
「おかしいよね。あの国は彼の才能を最も殺す国なのに」
始めて、栗色の毛の青年が、にや、と笑った。だが、本当に可笑しかったのかは定かではない。
「君がイギリスに居るのは、銃規制が厳しい国だからだろう?」
世界的にも厳しいのは日本だが、イギリスも銃を所持するには警察を通す免許が必要であり、以前は合法だった護身用の所持も禁止となっている。他には韓国、シンガポールなどのアジア各国やインドなどが厳しい規制を持つが、如何にも欧米人たる外見の青年がうろつくには、イギリスは都合が良い。まして、この青年のルーツはアイルランドだ。
「ハルが怖いかい?」
「怖いさ」
そう答えた顔は笑顔だった。楽しい思い出でも話すような顔には、言葉にされた筈の感情は何処にも見えない。寛いで見える目が、入り口の方を見つめる。
「僕のことを見ていないのに、僕を殺せる男だもの」
「銃があれば」
「銃があれば」
合言葉のように繰り返し、互いに笑いあった。
「では……ジョゼフ、銃が撃てないハルは無力かな?」
穏やかな問い掛けに、問われた方は片手で口元を覆った。そこから微かに軋るような笑いがこぼれるが、焦げ茶色である筈の両の目玉はやけに黒い。仄かな光が照らすのみの室内では目立たぬそれは、猛獣が獲物を狙う目に似ていた。
「無力だって?」
ひきつけのような笑い声の後、指の隙間から出た言葉は読経のようだった。
「ハルは僕ら全員を各得意分野で一度以上倒した“唯一の男”だよ。君さえ一度も負かせなかったマンフリーを57回目の近接戦闘訓練で柔道みたいな技で倒した。103回目のサバイバルではオイゲンやケネスより正確に地図と配置を覚えた。77回目と95回目の対峙戦ではテッドより上手に隊を率いて圧勝した。27回目と38回目の潜伏では僕より後に見つかった。そりゃあね、数で言えば他が圧倒的に上だったさ。射撃だって、彼はナンバーワンじゃない。命中率ならリチャードが一番だった――でも、彼には魔法の弾丸は一度も撃てなかったし、あの弾丸を八割以上命中させたのはハルだけだ。チェスとブラック・ジャックで君に一度でも勝った奴は他に居ない!」
どんどん早口になったそれに、相手は我が事のように微笑んだ。
「嬉しいね、君がそれほどハルのことを覚えていてくれて」
穏やかな容貌を、目つきだけが獰猛な――否、唇だけ温厚に歪めた青年が見つめた。
「……僕に何をしてほしいんだ、フレディ」
「さっき言ったろう、ハルが何処に居るのか教えようと思っただけさ」
「それを聞いた僕が、日本に行くと思うのかい? わざわざ、ハルの前に出て行くって?」
「さあね。君がどうするのかまでは知らないよ」
のんびりとティーカップを傾けるのに対し、対岸のカップは細かに揺れた。
「君が……君が“知らない”なんて言うのはおかしい……!」
カップの手前に置かれた手は、微かに震えている。
「何もかも知っているくせに。グレイト・スミスの血統は……神に愛されている……!」
「僕だって知らないことはあるさ、ジョゼフ。最近、
優しい声に憂いを滲ませ、ブロンドの青年は無駄のない動作でカップを置いた。
「多くの人々は知らないけれど、今、世界はひとつの時代転換期なんだ。グレイト・スミスに始まり……TOP13が出現し、十条十や僕たちが誕生した。これらは皆、特異点だ。アマデウスは僕たちの運命を変えようとしたようだが――特異点は御し難いが為にそれと呼ぶ。多くを投じて失敗した彼だが、ハルを今の姿にできたのは賞賛すべき功労だよ」
「……僕はハルの為に投じられた餌じゃない」
「フフフ……良いじゃないか、ジョゼフ。僕らは人間だもの、自己は大切だ」
微笑んだ青年の指先が、す、と一通の薄い封筒を滑らせた。
「だが、覚えておくんだ。『逃亡』は君の素晴らしい才能だ。その才能に『魔法の弾丸』が挑戦したとき、弾丸の精度が増すのか、君の逃げ足が勝つのか、僕は非常に興味がある。君が逃げれば逃げる程、ハルは腕を磨くだろう――何事にも消極的に見えて、努力と知恵をめぐらす男の価値が高まる。それは僕にとって何より嬉しい。が、君はどうかな?」
封筒を見つめる青年に囁いて、ブロンドの青年は立ち上がった。
栗色の髪の青年はぴくりとも動かずに封筒を見つめている。
穴が開きそうなほど、見る。
「え、雪?」
ハルトが意外な声を上げたのは、さららから来週の予報を聞いた時だった。
「この辺りは滅多に降らないんじゃなかったんですか?」
つい先日の予報では、暖冬がどうのと言っていた筈だ。さららは買物袋から野菜やトマトの缶詰を取り出しながら頷いた。
「不思議なんだけどね、成人の日と、センター試験の辺りは雪になりやすいの」
はて、一体何者の気分に乗じるのか、殆ど降らない地域でも雪がちらつくことが多いという。単純に、寒波に見舞われることが多い時季に、目立つイベントと重なると印象に残り易い為だというのだが。ハルトが受け取った缶をパントリーに収めていると、猫のビビが缶と粉袋の森を覗き込む。
「雪って……積もります?」
「積もらないと思うけど、買物はしておかなくちゃ。数センチでも積もっちゃうと、車も出せなくなっちゃうから」
「雪でも店は開けるんですよね?」
「うん。誰も来ないかもしれないけど、此処まで来て開いてなかったら切ないものね……」
確かに、此処は駅から少々距離が有り、徒歩で訪れるには辺鄙な場所だ。
まあ、雪の中、椅子を買い求めにやって来る人間は居るまいが、温かいコーヒーを目当てにやってきてクローズしていては気の毒だろう。
「未春は雪でも平気そうにスタスタ行っちゃうんだけど……最近、なんだか変でしょう?」
「……そうですね」
そう。年明けの謎の行水に始まり、本年の未春の様子はどこかおかしい。
感情の起伏はなだらかだが、妙にぼんやりしている。単なる寝不足だと本人は言っているが、リリーが来ていた頃に同室で寝ていた際、スイッチを切るように就寝していた姿からは寝不足など想像できない。今日は久方ぶりにBGMの仕事に出ているが、徘徊老人のように道路にのろのろ歩いて行ってしまいそうな顔だったので、さららに何度も交代を促されていた。安易に交代できるものでもないのだが、内容をチェックしたハルトが「代わろうか」と問うと、緩やかに首を振った。
こういう所が仕事熱心というか、頑固な奴だ。
室月に相談すれば日をずらすこともできるだろうし、ああ見えて親切な優一が代打を断ることもないだろう。標的は悪質な不動産業者だったが、年明け直後にあんなだるそうな顔の奴に殺されるとは思うまい。
「あ、帰って来た」
玄関ドアが開く音に振り向いたさららが、いそいそと様子を見に行く。
「おかえり、大丈夫?」などという声の後、「何それ……」という絶句が響いた。
先にのそのそとリビング&ダイニングに現れた未春の手には、「何それ」の原因が握られていた。
「お前、またやりやがったな……」
おかえりの挨拶より早く、うんざりしてしまったのは仕方がない。
ぼんやりした未春の手に有るのは一見、普通のホットラテのペットボトルだが、底にぬらぬらと蛍光色が蠢いている。殺人ストレスであるキリング・ショックの解消に変なドリンク――もとい、飲んだことのない飲み物を必要とする男は、しょっちゅう不気味な調合を繰り返して未知の味を探求している。察するに今日の正体はホットラテと栄養ドリンクだが、既に体験していそうな組み合わせのこと、見えている以上の何かがプラスされているに違いない。
「体調不良なのに、そんなもの飲んで大丈夫なの?」
後ろから付いて来たさららの不安げな声に、未春はナチュラルに口をつけて頷いた。
「平気です。体調不良でもありません」
「今一つだから、栄養ドリンク選んだんじゃないのか?」
溜息混じりのハルトの指摘に、「別に」と中高生の様に言い逃れる顔はそっぽを向いている。
「未春、このところ、ずっと冷たくない?」
空いた片手を自分の両手でそっと手挟み、心配そうなさららに、未春はすっと手を引いて首を振った。
「……大丈夫です」
「何か温かいものを飲んだ方がいいわ」
さららにそう言われては断れない男は、気味の悪いものを飲みつつ曖昧に頷いた。
ハルトは不審なものを見る目でその様子を見つめた。
――何だろう、こいつの違和感。一見、静かな両目に、栄養ドリンクの蛍光色ほど目立たぬ何かが揺れている。殺人ストレスや狂気ではないが、見たことがある目だ。
何処だ。この……何かの感情に溢れた目。
ふと、思い付いたハルトが自身の電話を手に取った。
「こないだ穂積さんに頂いたハーブティー淹れましょ。ハルちゃんも要るでしょ?」
いそいそと綺麗なパッケージの箱を出して来るさららに、ハルトは頷いた。
「あ、ハイ。……すみません、淹れといてください」
耳のいい二人の前では無意味だが、エチケットとばかりに廊下に出ると、時計を確認してから思案顔のまま電話を掛けた。
「Hi.……? ああ、ハイハイ……Happy new year……あー……Can I ask you something real quick――OK?」
電話向こうの相手が、低い声で一も二も無く了承したので、ハルトは言った。
「……Tell me how to make……hot apple cider.」
〈Apple cider?〉
意外そうに聞き返した相手に、何故かむっとする。
「あ? Do you have something to say?」
殊勝な言い回しから一転、急に借金取りのような口調になるハルトに、相手は苦笑したようだった。
〈No. I'll be happy to teach you.〉
意味も無くふっと息を吐き出し、ハルトはぼそぼそと言った。
「Thank you……」
夜。
目覚めたとき、違和感を感じた右手を見ると、布団をぎっちり掴んでいた。
何倍かに膨れ上がったような心臓が胸を叩く気がする。時計を見ると、午前四時。
起床するには早すぎる。浅い呼吸を繰り返しながら、未春は半開きの口を押さえてうずくまった。気持ち悪い。
幸い、吐き戻すことなく波が引いていくのがわかったが、ベッドに呆然と座っていると、体感的な寒気に身震いした。
……自分はどうしてしまったのか? あの初夢以来、眠ろうとする度これだ。毎回こんな調子では、日常生活に支障を来す。
額を押さえて俯くと、ハルトみたいな溜息が出た。
どうかしているのは間違いない。
だが、どうするのが良いのだろう。病院? 何に掛かる? 精神科か?
だとしても、どう説明すればいい?
――不特定多数の男に犯される夢を見るなんて。
解決策を思案すると、
そこまで考えて、眉間に皺を寄せた。
――何故、そんなにトオルさんを頼りたくないんだ……?
もちろん、元を辿れば色々ある。度重なる偽装に詐称、さららの件、穂積と実乃里の件……つまるところ、人間的に信用ならない。
そうだ、信用できない相手に相談はしない。
内に断言すると、想像の十がしょんぼりした。……だが、自分の出自を誰より知るのは十だ。何か有ったとき、最も正確な判断ができるのも十だろう。
守村の件も聞く必要があるのに。
何が駄目なんだ。何が。
ねえ、未春? ちょっとおいで。
声を思い浮かべた瞬間、発作的に額ごと自分の髪を掴んだ。
駄目だ。考えるな。自分の内側が警告する。さっきと同じ動悸が胸を叩く。
嫌だ。何かが。十の何かが。
うろうろと視線をさ迷わせた先で、暗闇に慣れた目に時計が見えた。
午前四時から数分しか動いていない。ドーナッツの生地を仕込むさららの起床は早いが、それよりも早い。……いや、そもそも……起き抜けに顔を合わせたらびっくりするだろう。きっと、自分は墓から這い出たみたいなひどい顔をしている。
ふと、壁を見た。一枚隔てた先はハルトの部屋だ。こつ、と冷たい壁に額を当てると寒気はしたが、少し落ち着く気がした。細い溜息が出る。
「……」
何か紡ごうとした口から音は出なかった。
辺りは青く冷たく、本当に墓場のように静かだ。いつもけたたましい国道の走行音さえ、並の道路より静かに感じる。もう一度、身の内を整えようと溜息を吐いたとき、壁の向こうでボトッと何かが落ちた。無論、ハルトではない。もっと軽いが、米袋でも落ちたような重量感がある。のそのそと動き出すそれが何か未春が気付いた刹那、隣から鳴き声が響いた。年齢相応なのか、それとも関係なくハスキーな方なのか、少々しわがれた猫の鳴き声が尾を引く。三度目で、隣から呻き声が聴こえた。
「……What……? どうした、スズー……まだ4時だぞー……」
布団で蠢く音に混じった文句が聴こえたが、声を掛けられた猫は容赦しない。
四度、五度、彼女は強めに命じた。ヘイ、ボーイ。扉を開けろ! 六度目。ついに布団からゾンビのように抜け出る気配の後、扉が開けられた。つられるように未春が自身の部屋の扉を見ると、彼女はその前にもそりと座ったようだった。
「なんだ、スズ……未春に用事か?」
見たことがない行動だからだろう、ゾンビ――ではない、ハルトが眠気半分、訝しそうな声を上げた。スズが未春の部屋を訪ねるのは珍しい。
鍵はかけていない。親切心なのか、遠慮なく通れるだけの隙間を開けてやる気配に、未春は何故か緊張した。細い隙間にハルトの手が見えたが、姿は見えない。目を爛々とさせた猫がこちらを覗き見た。しかし、入ってこない。中の様子を伺うというより凝視する目と、しばし見つめ合い、未春は軽く手まねいてみたが、猫は置物のように動かない。
胡乱げにしつつも、未春は立ち上がり、猫に近付いた。もっと扉を開けろと言っているのかも――そう思いながら前に立ったとき、猫はふいと廊下に戻っていった。
「入らないのかよ……」
間近にハルトの呆れ声がした。完全に猫に気を取られていた未春はぎくりとして立ち止まった。ぺたりとした足音に、ひょいとハルトが顔を覗かせた。
「お……悪い。起こしたか?」
「……」
首を振ると、ハルトは眠気眼をぱちぱちやり、寒そうに己の身を抱きながら未春をしげしげと仰いだ。
「顔色悪いな」
「……そう……?」
「ああ。地獄帰りって感じだ」
「じごく……」
幼子のような呟きから、ほんの数秒後のことだった。ぬらりと持ち上がった長い両腕が、ハルトをがっしりと捕まえていた。
「……? なんだ、どうした?」
つい最近のキスに比べれば易い出来事なのか、冷静に返ってくる問い掛けに、未春の方が返事ができなかった。素足で立つ廊下は氷のように冷たく、抱き締めている体を手放したら凍える――いや、いっそ……凍え死ぬ気がしてしがみつく。真冬の海に投げ出されて、流木にしがみついたような心地だ。内側から、沸々と沸き上がるこの感情は何だろう。
苦しいんだ。吐きそうなのに声も出ないんだ。――だけど、だけど。
「ひゃっ!」
驚いた声がした。ぴくりと未春は動いたが離れない。
ハルトがどうにか頭をめぐらすと、パジャマにふっくらした上着を羽織った姿で、口元を押さえたさららが立っていた。
「……ご、ごめんね、私――……」
頬を上気させてあたふたと立ち去ろうとするさららに、ハルトは血の気が引いた。
「あ、No! ち、違います! さららさ……ちょ、wait、wait、wait……!」
SOSのような声の手前、猫のスズがまんまるの尾をぴこぴこと振りながら、ハルトの部屋に戻る為に行き過ぎた。
「……そうだったのね」
午前五時を間近に控えたリビング&ダイニングで、ようやく不調の原因を打ち明けた義弟に、さららは言った。
当の義弟は、自分の椅子に座っていたが、飲み過ぎた女のように傍らに立つハルトにもたれている。寄り掛かられる方はうんざり顔だが、大人しく腕ごと貸してやっている。湯を沸かす音と、いつもより早い時刻にフル回転するエアコンの音ばかりが響き渡り、頬に手をやりながら出たさららの溜息も掻き消した。
「どうするのが良いのかしら? 病院……?」
「十条さんに相談するのが一番良いとは思いますが……」
「……やだ」
ぼそりと出た声は、気怠そうだが断固とした響きだ。額を腕に押し付けてくる男に眉をひそめながら、ハルトは溜息を吐いた。
「この調子じゃ、逆効果になりそうですよね」
「じゃあ、ハルちゃんに添い寝してもらえば?」
「さ、さららさん……!」
「私でもいいよ」
狼狽えたハルトを掴んでいる未春の手に力が籠もり、痛みと抗議の悲鳴が上がる中、加害者は青い顔で首をもたげた。
「さららさんは……だめです」
「気にしないわよ、私」
「……すみません、怖いんです。折ってしまいそうだから。ハルちゃんの方がいい」
妙な発言だが、意味はわかる。顔を見合わせたハルトとさららだが、先にハルトが折れた。
「……俺だってお前のバカ力じゃ折れるぞ」
医者の前で、男の添い寝で骨折しましたなどと言いたくはない。
「気を付けるから」
「気を付けてどうにかなるのか?」
わずかに臆した隙に袖を引っ張ると、指の痕が赤く残っている。きゅ、と唇を噛む姿に昔のマックスがかぶるのは、我ながら人がよろしい。
「……仕方ない。試してやるが、駄目ならプロを頼れ」
「プロ……?」
「
未春には未だにわだかまりのある
「……どうしてもの時はお願いする」
「絶対だぞ」
本来ならさっさと担ぎ込みたいところだが、優里自身、出産を控えている身だ。
致し方ない。物は試し。応急処置と思えば。
……いいのか、俺はそれで?
自問自答を遮る様に、未春の手が絡んでくる。やけに冷たい指だった。
「おはようございまーす!」
スポーティーな短髪の青年がご近所さんとかわした元気な声に、建物の陰に居た青年はマスクをかけ直し、眼鏡を押し上げた。
「
ゴミを出していた女性が感心したように言うと、青年は照れ臭そうに頭を掻いた。
確かにな、と様子を窺う
その点、力也はとても健康的で清々しい。こんな好青年が暴力事件なんて、挨拶するだけのご婦人だって信じまい。
……ただ、未春に聞いた秘密がひやりと胸を掠めるのも事実だ。
「……」
スマートフォンを弄って音楽を聴く振りをして、ちらりと様子を窺うと、力也は歩道の内で教育番組に映っていそうな屈伸運動をしている。
ハルトに、「恋愛絡みらしい」と連絡を受けた際、
呼吸を抑えること。喋らないこと。人混みでは見失わぬよう距離を詰めること。
都心ではあるまいし、人混みに巻き込まれることはあるまいが、彼がランニングコースにしている国道16号線沿いベースサイドストリートは、見通しが良すぎる。
念のため、同じランニングする人間を装い、マスクを着けて帽子を被り、いつもと違う眼鏡をしたが、背格好は変えようがない為、なるべく距離を置くよう心がけねばならない。
力也は体操を終えると、ルーティーンなのか、左右のシューズの爪先でアスファルトをトントンと叩いてから、朝一番の道路を軽快に走り出した。
DOUBLE・CROSSで働き出した頃から続けている日課らしい。慣れた様子で、ベースサイド方面へまあまあの速度で走って行くので、見失わないように注意しながら、国見は追跡を開始した。同じペースでいたら先に息が上がることも踏まえ、角に気を付けながら住宅街をどうにか付いていく。
冬の冷たい空気を頬や肺腑に感じながら、ハルトの言葉を思い出す。
――恋愛の相手はDOUBLE・CROSSに出入りしている女性。ただし、さららやスタッフの
恋愛なら、同じ大学の学生かと思っていた国見は少し拍子抜けした。
DOUBLE・CROSSに出入りしている若い女性なら、ハルトの方が心当たりがあるかと思いきや、彼は思案した様子だったが、明言を避けた。
なんでも素直に相談しそうな力也が喋らなかっただけに、難しい相手なのだろうか?
まさか不倫じゃないよな……などと嫌な想像をしつつ、ベースサイドストリートに到着する頃には息が切れてきた。日曜の朝っぱらからやかましい走行音が響き渡る国道16号は、近付くと途端に空気が悪くなった印象になる。ペースを落とし、力也の背を見つめながら息を吐く。マスクの隙間からこぼれる息は白く、眼鏡が曇って敵わない。これはもう尾行というより、トレーニングでは……?
「……あー……はっや……」
思わず呟き、のろのろと歩きながら息を整えていると、ふと力也が横田基地の方を見た。
――何だ?
基地との境界には、主に高い塀と更に有刺鉄線が貼られているが、一部はフェンスで中が見える。無論、見えるといっても、綺麗に整えられた木々や芝、駐車場と何に使われているのか、揃いの白壁と茶色い屋根の建物が整然と並んでいるぐらいだ。
人通りはおろか、動いている車も自転車さえ見られない所は、模型の街を覗いているようでもある。力也は何を見ているのか、走りながらチラチラと中を気にしていたが、ゲートを過ぎる頃には再び塀になってしまい、何やら名残惜しそうに後を振り向きつつ走って行った。
国見もつられるように中を見たが、物言わぬ木々や建物が朝陽を浴びて林立するだけで、何か目立ったものは見当たらなかった。
不意に力也はペースを上げ、DOUBLE・CROSSの方面へ一目散に駆けていく。
慌てて追いかけた国見だが、とてもではないが追いつける速さではない。
――想い人は、基地の人間なのか? それは別に後ろ暗いことではない筈だが。
DOUBLE・CROSSの前に辿り着く頃には、すっかり見失っていた。
このまま追いかけていけばいいのだが、既に膝が笑っていて、国見はマスクを外して苦しい息を吐いた。
ふと見た店は、まだCLOSEの看板が掛かっていたが、キッチンスペースからは明かりが漏れていた。多分、さららがあの美味しいドーナッツを準備しているのだろう。
力也も流し見たに違いない薄暗い店内を何となく見つめていると、不意に両肩に手が掛かった。
「ン―、50点、かな~~」
背後から肩をホールドして響いた声に、国見は仰天した。
「は……!? あ、さ、
振り向いた先でニヤニヤ笑っていたのは中性的な容貌の青年、
――実のところ、その何れも完璧に演じられるらしい演技専門の
「はよッス。明香で良いって。いや~……けっこー頑張ったよね。後はもーちょっと体力が要るかなー」
指差し状の手に細い顎を乗せ、好き勝手言う明香は、黒に蛍光色の入ったスマートなランニングウェアを纏い、同じように走って来たらしいが息一つ上がっていない。
国見は顔を赤くしながら呻いた。
「あ、あのう……もしかして、俺を見張ってました……?」
「ウィ、見張ってたっていうか、万一のピンチヒッターでね」
「ピ、ピンチヒッター?」
「万一、君が最初、或いは途中から、”リッキー以外の誰か”を尾行した場合、危険だから~~って。室ちゃんの優しさだよ。俺はさしずめ、天の使いってとこ」
自らを天使と言って
「あれが、リッキーじゃなかったら……?」
目の前に居る明香は、女に化けてハルトさえ騙したことがあるという。同じようなタイプの人間が、力也に成りすましているということか?
「あ、安心したまえよ。君がずっと見てたのは本物のリッキーだから」
「は、はい……あの、なんでリッキーが?」
「偽物なんか居るのかってコト?」
頷いた国見に、明香は両の手を腰にやり、DOUBLE・CROSSの店内に鋭い視線を送る。
「実は、リッキーだけじゃあないんよ」
「え?」
「女性陣以外は、海賊版が出回ってんの。くにみんは新参者だから居ないけどね」
「っ……、そ、それって……ハルトさんや未春さんも?」
変なあだ名に頬が引きつりながらも問い掛けた国見に、何故か明香はプーっと吹き出した。
「そ! ――俺さァ~見たんだけど、ウケるよお~……ミーくんは顔もヤバいけど、ヘタなコスプレみたいでさ、あのアッシュ似合う日本人なかなか居ないよね~って感じ。ハルトさんは没個性っぽく見えて仕草が意外と難しいわけよ。やり過ぎると、映画のワンシーンをオーバーにやるモノマネみたいになってさあ……本人が見たら頭抱えそう。俺、自分の偽物含めて動画欲しいわ。めっちゃオモロイもん」
なんとなくニュアンスを理解した国見はぼうっとしつつも頷いた。明香の評価は厳しいだろうが、どうやら一般人のお眼鏡にも適わないようだ。
「誰が、何の目的でそんなことを……?」
「さあね~……ファンならサインしちゃうけど」
含み笑いをしていた明香は、不意に店の扉に張り付いてSOS並に激しく両手を振った。つられた国見が見た先で、本物のハルトが胡散臭そうにこっちを見ていた。
彼は溜息混じりに歩いてくると、扉を開けてくれた。わずかに温かい空気が漏れ出し、内に入ると温度差に目が潤んで鼻水が出そうになる。
「マラソン大会にでも出る気か?」
「えへへ、健康的でしょ。ハルトさんも走る?」
「付いてこられるなら走ってやるよ」
室月並のスパルタらしいハルトに、国見が慄きつつ頭を下げると、彼はようやく呆れたような苦笑いを返してくれた。……確かに、ハルトの真似は難しいかもしれない。容貌は日本人だが、欧米人っぽいニヒルな感じが絶妙に同居している。
「リッキーの件だろ? 何かわかったのか?」
「いえ……基地内を気にしていたんですが、決定的なものは何も……」
「やっぱり、そっちか……」
何故か片手で顔を覆ったハルトに、国見は「えっ」と声を上げ、明香は頭の後ろで両の手を組み合わせてニヤニヤ笑っている。
「ハルトさん……お心当たりがあるんですか?」
「俺の中では二択だったんだ。基地に住んでる女性か、十条さんの娘の実乃里ちゃんのどっちかだと思ってた」
「な、なんでその二択なんです?」
「俺だよ。知り合いが少ない俺が知ってる女性で、リッキーが気にするぐらいの年齢は、消去法ですぐにわかる。案外、リッキーが演技派ってのも考慮に入れたが……」
ハルトの視線を受けて、明香はひょいと解いた両手を振った。
「そりゃー無いですよね、素直でわかりやすいのは、リッキーの美徳ですもん」
「だな。……国見、リッキーの気になる相手は気にすることはないと思う。彼女に事件性は無い筈だ」
かつては暴力の最たる例を手にしていた女性だが、今は可愛い犬の手綱を握っている。あの白い犬が付いている限り、彼女は大丈夫だろう。力也はもう知り合いなのだろうか。声を掛けられずに、ただストーキングしているだけの気もするが。
「そうですか……」
ほっとした顔で国見は頷いた。
「それじゃ、問題は偽物の件ですね」
「それなんだが……リッキーをマネて事件を起こして、そいつには何の得があるんだ?」
「恋敵なのかもよ?」
面白そうに言う明香を、ハルトはじろりと睨んだ。
「お前、適当に言ってないか?」
「ハルトさあ~ん……俺はね、コレでも忙しい身なの。今日だってくにみんとリッキーの為に時間を割いたわけ。適当なんて滅相もナイナイ」
「ほおー……じゃあ、室月さんに幾ら支払ったか聞くとするか」
「ひえ、それはズルくない?」
「ズルくねえよ。お前、ミスター・アマデウスからもリリーの件で貰っただろ」
「あれはちゃんと頑張った報酬ですから勘弁してくださいよ。それにさー、ハルトさん、今の若モンは何するかわかんねーじゃん。殺人も、けっこう恋愛絡みだよ?」
一理あるが、そう言いたくなくてハルトは渋面になって唸る。
事実、今は元気に暮らしている瑠々子も、つい最近までいじめに苦しみ、首謀者を殺したがっていた。この場合の瑠々子は被害者として間違いなかったが、巷では、自分がいじめられたと思い、加害者と定めた同級生を刺し殺そうとした未成年や、一方的に想いを寄せた女性に拒否されたが為に、その家族を殺害して家屋に放火する少年さえ居る。尤も、そんな一部の例を見て、未成年イコール何をするかわからないというのは早計だし、ひどい偏見だ。
「仮に明香の言う通りなら、それは俺らの仕事じゃない……警察がやるもんだろ」
「ま、それは俺も同感です」
「えっ……じゃあ、警察に言うんですか? ハルトさんも――」
「悪党なのにね~~」
偽物が居るのに、と言おうとした国見に対し、ひときわよく通る声で明香が割り込む。きょとんとした国見だが、悪党との付き合いは長い――察しは悪くない。
どうやら先程の情報は、ハルト達には開示されていないらしい。
「金の亡者に言われたくねえな……」
「ハルトさんだって金銭感覚キツキツって聞きますよ。俺と、お・そ・ろ」
「何だよ『おそろ』って」
「ペアルックならどう?」
「わからん」
「あ、コレも和製英語なんだ。『お揃い』ってなんて言うんですか?」
「お揃い?……ああ、そういう――『Twinning』とか……『Matching outfit』かな。Matchingの後に服とか靴とか、揃ってるものを繋げる言い方で通じるはずだ」
「おお~~勉強になる~~」
嫌そうな顔で拍手を受けたハルトが、呑気な金の亡者に文句を言うより早く、キッチンからさららが顔を覗かせた。手に乗せた盆には、湯気を立てるカップが四つある。
「朝から楽しそうね」
にっこり笑ったさららに、国見は見えざる力に伸ばされたように背筋を正し、明香は仰る通りの楽しそうな顔をしてお辞儀をし、コーヒーに手を叩いて喜んだ。
「ハルちゃん、後で未春の様子見て来てくれる?」
「およ? そういえば、ミーくん出てこないですね。風邪?」
二階を見上げて不思議そうにする明香に、ハルトとさららは顔を見合わせた。
「年明けから、なんか夢見が悪いんだと」
今度は国見と明香が顔を見合わせる。
「……未春さん、まだ具合が悪いんですね」
「疲れてんのかな。ミーくん働きすぎなんだよ。たまには遊んでくりゃいいのに」
倉子と同じことを言う明香に、ハルトとさららが再び顔を見合わせた。
「あっくんたちなら、疲れた時とか、気分転換にはどこに行くの?」
「え? 俺? んー……俺はねー……」
首を捻り、明香は店内の椅子が並ぶ方を眺めながら頭を掻いた。
「広くて、でかい木がいっぱいある公園が好きかな。水があると尚良し。なんていうの、リセットされる感じでさ。井の頭公園とか、等々力渓谷とか、小金井公園とか、都心なら新宿御苑とか、明治神宮とか、日比谷公園、葛西臨海公園……あ、公園じゃないけど、秋川渓谷もいいよねー温泉あるじゃん」
殆ど金が掛からない辺りが明香らしいが、国見も頷いている。
「わかります。御苑や神宮いいですよね。山登りとかはちょっと構えちゃいますけど、あの辺は気軽に行けるわりに、かなり自然豊かでアクセスも悪くないですから」
「お、お~~イケるクチだね、新入りくん! 今度リッキーも連れて走りに行こうぜ~~!」
引き気味に頷く国見をばしばし叩く明香を眺めながら、ハルトは顎を撫でた。
公園か。言われてみると、思ったより東京は緑が多いようだ。
「さららさん、ごちそうさま~~」
お辞儀がてらカップを差し出す明香に対し、さららがクスクス笑った。
「同じ忙しくても、あっくんはのびのびしていていいわね」
「フフフ、参ったな。さららさんも俺の魅力に気付いちゃったか~~」
お調子者を見る目をしていたハルトだが、明香が多忙極まれりなのも、その割に悠々としているのは本当のことだ。彼は大学に通いながら、此処よりもう少し都心に近付いた場所にある小劇場『
アマデウスさえ、その手腕に感嘆して『トリックスター』のあだ名を授けたぐらいだ。昨年、仕事の報酬を兼ねてアメリカに短期留学して以降、更に役者への情熱は高まったらしく、今は英会話にも積極的だ。DOUBLE・CROSSに非常勤としてバイトに来るときはハルトに英会話の相手を頼み、個別に英会話教師も頼んでいるらしい。
「そういえば明香、ピオはどうしてるんだ?」
ピオこと、ピオ・ルッツは先の件で来日後、日本で休暇という
「ピオは例の島を行ったり来たり。うちの劇場でピンチヒッターもしてくれるし、大助かり。もうすぐひと月経っちゃうから、ぼちぼち帰っちゃうんだよね~……永住してほしいよ」
「休暇とは思えんぐらい扱き使われてるな」
「ハルトさんが会いたがってたって言っておきますよ」
「おい、余計な事は言わなくていい――」
調子のいい男に言い掛けて、ハルトはふと首を捻った。
「でも、そうだな……帰る前にこっちに顔出せって言っといてくれ」
「ラジャー」
ふざけた仕草で敬礼する明香を脇に、国見は静かな二階の扉を見上げた。
「未春さん……大丈夫ですか?」
躊躇いがちな国見の問い掛けに、ハルトは首を捻った。
「わからん。精神的なものだから」
「早く、良くなるといいですね」
リップサービスではなさそうな国見の言葉に、頷いた。
――正直、精神不安定者にへし折られそうな背骨も労わってほしいが、口が裂けても言えない。
折られる前に、ジョンに貰ったレシピを実践すべきなのだが。
「……いまいち、気に入らねえんだよなー……」
ぼそりと言ったハルトに、明香が目を瞬いた。
「何がです?」
「いや、なんでもねーわ……」
さて、『ブロードウェイ』に母の味とやらがわかると良いのだが。
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