BGM 3 ‐Dog Fight‐
sou
1.Flash・Back.
ビッグベンの時計は、夜の十一時を過ぎていた。
ロンドン。テムズ川のすぐ傍を通る遊歩道は、日中は多くの人や自転車の往来があるが、今はまばらだ。身も凍るような寒さの中、黒いコートを纏った大きな影が、辺りをうろうろしていた。コートのポケットに両手を突っ込み、癖のある黒い髪を、
一見、落とし物でもしたような動きだが、街の灯りが川面をぬらぬらと照らす中、大きな影は明かりひとつ持っていない。
まるで獲物を探す死神のようにのそのそと歩き回り、時折、道や街路樹の傍に屈み込んでは何かを拾い上げ、躊躇うことなく鼻を寄せた。数秒嗅いで、用のないものと判断したか、ぽとりと落とし、またうろうろし始める。
「おい、そこの君」
パッと浴びせられた電灯の灯りに、大きな影はのそりと振り向いた。
「ロンドン市警だ。こんな時間に何をしている?」
訊ねた警官は、声も上げず身動ぎもしない相手を照らしてぎくりと身を強張らせた。
突っ立ってこちらを見たのが思いもよらぬ美男で、浮かべていた笑みがとろりと蕩けるようだったからだ。
「こんばんは、市警殿。俺はブレンド社の者だ」
服も皮膚もすり抜けて内臓を撫でてくるようなバリトンに、警官は声が震えないようにするのが精一杯だった。
「ブレンド社だと?」
男は突っ込んだままだった片手を引っ張りだし、胸ポケットの方から名刺を差し出した。動作に合わせて、ふわっとオークモスの香りが漂う。
名刺は一見、只の紙に見えるが、市警は注意深く、持っていた別のライトで裏を照らした。照らされた紙面に細かな紋章――『星を見上げる騎士』とBLENDの社名が浮かび上がり、警官はほっと溜息を吐いた。
「……一体、何の調査だい?」
少しだけ警戒を解いた警官に、美男は肩をすくめて首を振った。
「すまないが、調査内容は話せない。問題があれば、社に問い合わせてくれないか」
「ああ、そうだったな……」
男はとんでもなく怪しいが、何か危険なことをしているわけではないし、正真正銘のブレンド社の社員を取り締まることはできない。浮気調査から国家機密まで手掛けるこの会社を相手にそんなことをすれば、理由も知らされずに地方に左遷されるか、酷いときは解雇されてしまう。
「……ご存知だろうが、此処は殺人事件が有ったばかりの場所だ。気をつけたまえ」
せめてもの威風を示した警官に、男は薄笑いのまま穏やかに頷いた。
「ありがとう。市警殿もお気をつけて」
男の身でもぞくりとする声に、警官は無言で頷いて立ち去った。
周囲は再び、川の流れる音が響き渡り、男はまた同じような行動に戻った。三十分は同じことをやっていただろうか。綺麗に舗装された道をコツコツとヒールを響かせて来た人物が、声を掛けた。
「いつまで犬の真似をやってるの?」
訊ねた女は男と同じように黒のコートを羽織っていたが、その下に見えるワンピースも葬式帰りなのか、真っ黒な喪服だった。かぶった帽子の黒いヴェールの向こうから、ガラスの様に硬質の目が見つめてくる。薄笑いのまま肩をすくめただけの男に、女は腕組みした状態で近付くと、呆れ顔で仰いだ。
「何か見つかった?」
「何も」
「そう。例の件は、無い事も収穫でしょうね」
つまらなそうに言うと、女は絡めていた腕を解き、黒手袋に包まれた両手を男と同じようにポケットに突っ込んだ。
「ボスが呼んでる。明日の飛行機で出張よ」
「わかった」
急な話に、男は嫌な顔ひとつしない。ずっと微笑んだまま、くるりと踵を返して先に立つ女の後を、それこそ大型犬のように付き従う。
「今度は何処だ」
男の問いに、女は振り向きもせずに答えた。
「日本よ」
空気が、悪いと思った。
煙草の匂い。アルコールの匂い。得体の知れない薬の匂い。バニラとムスクの香水の匂い。全部が全部混ざり合って、人間臭さが耳元にじっとりと濃く匂った。
「
誰かが吐息混じりに囁いた。重い。身を
「お前、具合は良いのに静か過ぎる」
返事が億劫で黙っていると、それは体の内に無理やり押し入って来る。条件反射のように微かに開いた口から、掠れ声が出た。重い。熱い。苦い。身の内が悲鳴を上げる中、空気が奇怪な音を立てながら、涎と一緒に口からこぼれる。
「啼け、ほら」
「なあ、
目を開いた時、全身にぐっしょり汗をかいていると思った。室内の冷気に身震いし、吐き気を感じて身を折っていると、心臓だけが走って来たように胸を叩いた。
気持ち悪い。上半身も下半身も舐め回されたような生々しい感触が残っている。
――最悪だ。
今日から新年だというのに、夢を見ること自体、いつぶりかもわからないのに。
起きよう。
起きないと……あの暗いベッドに引き摺られそうだ。
「お、Happy new year.」
洗面所で髪から水滴をぽたぽた落としながら振り向くと、外国人さながらの英語を披露したハルトが立っていた。眠そうにあくびをしつつ、首を傾げる。
「お前が朝入ってんの珍しいな……」
仄かに湯気を立てている未春は、気怠そうにタオルをかぶった状態で頷いた。
「……あけましておめでとう」
「なんだ、新年早々、辛気くさい顔して。そういう行水か?」
変なことを言う半・外国人に未春は顔をしかめたが、上手い返事は出てこなかった。
「……ちょっと、気持ち悪い夢見た」
「ふーん……そいつは災難だったな……」
ぼやくように言い、ハルトが歯を磨いたり、顔を洗い、さして生えてもいない髭を剃るのを、未春は髪を拭きながらぼんやり見つめた。彼の指の隙間からとろりと水が垂れるのを見つめ、微かに青くなって口を塞いだ。……何だろう。
「たまに俺も見るよ。嫌な夢」
顔にタオルを当てながら、ハルトは何気ない口調で言った。
「……どんな?」
「ん? そうだな……大体は、人が死んだときの記憶だな。親が死んだジャングルの、蒸し暑くてうるせえ虫が鳴いてる中に居たりする」
「死体が出たりするの……?」
「いや、まったく。おかげで親の顔は思い出せない。死体が出るのは……別の夢だな」
さらりと答えて、吹き消すように苦笑した。
「やめよう。新年早々する話じゃない。髪、ちゃんと乾かせよ」
甲斐甲斐しいセリフを残し、洗面所を後にする背に未春は頷いた。
ドライヤーを掛けながら鏡の中を見ていると、蒼白な男がこちらを見ていた。
ハンサムだと、よく言われる顔だ。自分では理解し難い美貌は、光の加減で珍しいアンバーに見える目と、無造作なアッシュの髪をして――それが珍しいのはわかるが、ハルトが言った通り、とてつもなく辛気くさい顔をしている。ドライヤーが奏でる神経質なモーター音の中、鏡の中……到底、ハッピーなことを言いそうにない薄い唇を見つめていると、不意に誰かの指が抉じ開ける。首筋や胸にべたりと張り付いた手が、皮膚を撫で回す。
腰を伝い、見えないところまで下りて――……いや、あの時は、下も見えていた。
股下まで、手が下りる。
「未春?」
間近に聴こえた声に、一息にドライヤーのスイッチを切って振り向いた。
唐突な静寂を前にふわりと揺れた髪の向こうで、きょとんとしていたのはさららだ。
既に整えられた栗色のショートヘアから覗く上品な金のピアスが、彼女の傾げた小首に合わせて揺らぐ。以前から金のピアスはしていたが、小さなダイヤが付いたそれは昨年末にプレゼントされたものだ。ふっくらと暖かそうな白いニットの彼女に対し、いまだ薄いシャツ一枚の未春は小さく喉が震えた。ドライヤーを持ったままフリーズした青年を、姉同然の女性はおっとり見上げて微笑んだ。
「おはよう。あけましておめでとう」
「……おはようございます。……おめでとうございます」
ドライヤーを掴んでの挨拶に、さららは苦笑した。
「ハルちゃんが行水してるなんて言うから何かと思っちゃった。大丈夫?」
「……はい」
「手が冷たいわ」
空いていた片手を温かい両手が包み、少しだけ未春は微笑んだ。
「大丈夫です」
わずかに覇気を取り戻す声に、さららはそっと手を離して頷いた。
「お祝いの準備始めてるわね」
「……はい。すぐに行きます」
「いいわよ、慌てなくて。お正月休みだもの。それより、ちゃんと乾かしてね。風邪ひいちゃうから」
こくりと頷き、さららを見送ってからドライヤーを再開した。
今度は、鏡から目を逸らした。身体中、冷たい気がするのに、内側が気色悪いほど熱に悶えている気がする。
さららが触れた手だけ、正しい温もりに満ちている気がした。
「改めて、おめでとう。今年もよろしく」
四つのデザイン違いの椅子が囲むダイニングテーブルで、三人は地元の日本酒を傾けた。
ひょっとすると幼い頃に見ているかもしれないが、要は覚えていないらしい。
確かに、日本の伝統的なおせちというやつは子供には面白くないラインナップが殆どだが。
「ひと口に『おせち』って言っても、各地で文化は違うから難しいわよね。同じものなのに名前が違っていたり、その地方しか食べないものもあるし」
「……と、いうと基準は何なんです?」
「そうね……おめでたい意味やお祝い的な意味があるものとか、日持ちするものかしら」
「アメリカでは何食うの?」
まだ生っ白い顔つきの未春に、ハルトは田作りを摘まみながら虚空を見上げた。
「あー……決まってない、と思う。南部は縁起が良い食べ物が有ったような気がするが……どっちかというと、アメリカの本番はクリスマスだからな。カウントダウンに大騒ぎしたら、家族で好きなものを食う感じだろ」
「アマデウスさんは新年もドーナッツを食べていそうね」
ドーナッツに目が無い元上司のことを言うさららに、あながち間違ってはいないらしく、ハルトは苦笑いだ。
「去年は人気アイスクリーム屋のフレーバーを二十種近く揃えて一度に開ける暴挙に出ていましたよ」
六十近い男が、金髪碧眼の容貌を子供みたいにキラキラさせて、色とりどりのケースに入ったアイスクリームをずらりと並べ、二十代後半の男に「ハルも好きなのを食べよう!」と叫んでスプーンを手渡してきたときは呆れて言葉が出なかったが――……敏腕秘書のジョンが二、三ケースに減るまで片付ける攻防が面白かったので、片手のスプーンをくるくる回しながら観戦した。
「その後、ディナーに引っ張られましたが、俺はこっちの方が良いですね」
「ふふ、良かった。今年はハルちゃんが居るから気合入ってるのよ」
お酒も良いのを買ったし、と、さららは瓶を指差した。
「前から思ってましたが、この小さな市内に酒造会社が二社もあるの凄いですね」
それも、流行りに乗った起業ではなく、どちらも古くからこの地で酒造りをしてきた老舗だ。伝統的な日本酒は無論のこと、片方の酒造会社ではクラフトビールも造っている。
「そうよねえ。住んでいる所のお水が綺麗な証拠って感じで嬉しいわ」
「水か……確かに」
クリアな酒を見つめる胸に少しだけ、某国の砂埃が煙る。
「日本はそういう所が贅沢ですね」
答える頃には、乾いた土地に酒が浸み込んで流していく。
「ハルちゃんが綺麗に飲めるタイプで本当良かったよね、未春」
さららの言葉に、未だぼうっとしている義弟はこくりと頷いた。
「うるさいのはトオルさん一人で十分です」
「ああ……酔うと倍はうるさかったよな、あの人。アマデウスさんの前じゃ大人しかったが、バス旅行の時はあのままくたばるかと思った」
「何か有るとはしゃいじゃうのよ。盛り上げようとしてくれてるのはわかるんだけど……お誕生日パーティーとか、お祭りの時とか、今年は居なかったけど、クリスマスだって凄かったんだから」
苦笑しながら眺めるのは、空いた一席だ。ハンス・J・ウェグナーのザ・チェア。
角も無駄もないシンプルなシルエットのそれは、座った瞬間に良い姿勢に導くような椅子だ。最近は世界的アーティストが借りていた席だが、今はぽっかり空いて――……と、思っていたら、丸々とした猫がどすんと飛び乗った。
持主が在住していた頃から、猫のスズは自分のものであるかのようにこの椅子に文字通り“座って”いる。白い前足を揃えて座り、テーブルのものに鼻をひくつかせてから瞑想するように目を閉じる。
「お嬢はその椅子が好きねえ」
「良いものだってわかるんですかね」
呑気に言っているが、この椅子は百万近い。尤も、ハルトが座っているカイ・クリスチャン・センの№42とて十万を越える、ダイニングチェアとしては高価な椅子だ。
さららのシーヴのダイニングチェアや未春のFDB・モブラーのJ46はお求めやすいが、未春の方は『イケメン詐欺』と呼ばれる彼のお揃いとして局地的に度々売り切れている。この全てが空いていても桁違いの椅子を選ぶのだから、この猫はなかなかの目利きだ。
一方のビビは、姉貴分のスズの後を追ってきょろきょろと上を見た後、ハルトの膝の方を選んだ。一応は飼い主である男の膝をウロウロしてから落ち着くと、当然のように甘え声を上げた。
「ビビはハルちゃんがいいのね」
「……一番、高額だしね」
「おい、人を賞金首みたいに言うな」
とんでもない額が首に掛かるだろう男は迷惑そうに眉を潜め、何も知らない猫を撫でた。さららがくすくす笑ってお猪口を置いて溜息を吐いた。
「良いお正月ねえ……少し前のドタバタが嘘みたい」
彼女が見つめる窓の外は、カーテン越しにも青が透けるほどの晴天だ。
風は無く、きりりと締まった冷気は有るだろうが、暖かな日差しは眩しく降り注ぐ。
「過ごしやすくて助かります。ニューヨークはホント寒いんで」
ビビの鼻先を料理からよけながら、ハルトはしみじみと呟いた。
「あ、そっか……吹雪くこともあるのよね。どのくらい冷えるの?」
「一月が一番冷えるので、早朝や夜はマイナスです。日中でも五度に届かないことが殆どですよ」
「都会なのに意外だね」
「ああ……東京に居るとそういう感覚なんだな。シカゴやボストンはもっと冷えるぞ……外になんて一歩も出たくないくらい……」
実は寒がりの男は、アメリカのブリザードが見えるかのように言った。
ひやりとする話題に、さららは物静かに杯に口を付けていた男を振り返った。
「未春、大丈夫?」
「……はい」
クリスマスの後、例の叔父に乞われてカレーを振る舞いに行ったり、昨夜も元気そうに年越し蕎麦の天ぷらを揚げていた男は、一夜にして生気を抜かれたような顔だ。
「疲れが出たのかしら。昨年は色々有ったから」
全くその通りだが、未春は首を振った。
「大丈夫です。喋っていて下さい。二人が話していた方が、気が紛れるので」
ハルトとさららは顔を見合せ、それならと先にさららが口を開いた。
「ハルちゃんが、こっそり貰ったプレゼントが気になってるんだけど」
「は……? こっそり?」
「クリスマスに空港から持っていたのって、アマデウスさんから貰ったものじゃないの? あの日はリリーとのお別れが寂しくて忘れちゃってたし、年末は掃除やおせちの支度とか買物でバタバタしてて聞きそびれてたのよ」
「あぁ……あれですか……さららさんもよく見ていますね……」
半ば呆れ顔のハルトは席を立つと、しばらくして片手に何か乗せて戻ってきた。
「これがアマデウスさんからで、」
無造作にテーブルに置いたのは腕時計だ。シルバーフレームに黒革のそれは、ローマ数字の黒い文字盤がクラシックな印象だ。だが、その名だたるスイスのブランド名にさららが胸を撃たれたような顔をした。中古価格でも二百万はする。
「これがジョンからです」
こちらは巻かれた状態のままのネクタイだ。濃紺にシルバー入りの織りが美しいそれは身に付ける人間をワンランクは高めそうだった。
さららが感心したように顔を上げた。
「お二人は、ハルちゃんのプロデューサーみたい」
「どうだか。ジョンはともかく、アマデウスさんはイカれてますからね。俺はどこ行っても平均月収の
「トオルちゃんもそういうとこあるわね」
笑いかけるさららに、未春は頷いた。現に競い合うかのように昨年の十のプレゼントは時計だ。こちらも別のスイスの名ブランドである。
「時計はいいじゃない。そこだけこだわる人も多いから目立たないし、似合うわ」
「はあ……ブレゲはこれで四本目なんですけどね……」
ぼやいたハルトの所為で、この家に突如、一千万近い資産が発生してしまった。
さすがに声を失ったさららの手前、スズが百万の椅子に盛大なくしゃみを吹いた。
正月休みの今日、午後一の来訪者は、穂積と実乃里だった。
家長にしてDOUBLE・CROSSのオーナーである十条十が送ってきた筈だが、彼は近所への挨拶に回ってから来るらしい。
ささやかな宴席を準備しているさららに代わり、応じた未春はハルトも引っ張った。
リリーのコンサートで顔を合わせた二人ときちんと対面するのは初めてだ。
今さら言うまでも無いが、死者となった筈の二人は、同名の人物として『復活』している。二人が死亡した事件を、日本ではなくアメリカに関わるものとし、日本には無い証人保護プログラムを利用したと偽って。実際に事件直後は二人とも別人として渡米させ、丸々フェイク扱いとした殺人事件と、大掛かりな葬儀を行った後に呼び戻し、別人として過ごさせた後、さららの件が解決した頃、アメリカの事件が収束した体で復活させた。
相当、無茶なやり方だ。警察、検察、司法、あらゆる当局にパイプを持ち、かなりの資金を要する。好都合なのは、穂積に近親者が居ない点、二人が社会的な影響力が少ない一般人である点、この妻子が十条の計画に応じたぐらいか。此処の住民がのんびりした性格で、高齢者が多いのも幸いだろう。近所を回った時も、腰を抜かした人間こそ居たようだが、生き返ったことを喜ばない者は居なかったらしい。
――この絶対的に怪しい復活劇に、誰よりも噛み付きそうな人物が警察に居るが……犯人は死亡したことになっている中、彼は行動を起こすだろうか。
「あけましておめでとうー!」
DOUBLE・CROSSの店先に入るなり、明るい声を発したのは穂積だ。
十条よりも歳上の姉さん女房は、さららよりも短いショートヘアや弾けるような声が、おばさんと言うのは躊躇われる程度に若々しい。ややふっくらしたボディにエネルギーが満ち溢れている印象で、あの十条を素面で引っ叩いているのも頷ける。
一方の実乃里は父親に似たすらりとした四肢と、母親似のふっくらした頬が愛らしい娘だ。富士額が綺麗なさらっとした黒髪やナチュラルなメイクはさららにも似ていて、セブンティーンの魅力に溢れている。その歳の子にしては大人っぽい印象のコートやパンツスタイルはさららの影響だろうか。彼女はハルトを見るなりにこにこっと笑い、母に何やらコソコソと話し掛けた。コンサートの時も、額を寄せて話し合ったり、父親をダシに一致団結する母子は姉妹のように仲が良さそうだった。
「あの……何か?」
居心地悪そうに問い掛けたハルトに、穂積が夫並に人懐こく笑った。
「ハルちゃん、よく見ると更にカッコイイわね~って話」
「はい……?」
唖然とした男が口を差し挟むより早く、穂積は指先を頬に当てて頷いた。
「トオルが007って言うけど、おばちゃんは若い頃のキアヌを思い出しちゃう」
「いやいや……半分も当たってませんよ……!」
そんな噂が広まったら、見知らぬハリウッドファンに刺されかねない。フィクションに張り合っても仕方がないが、こっちは弾丸を当てる側、ある程度の攻撃から身を潜めることはできても、弾丸をのけ反って避けるのは不可能だ。傍らでよっぽど涼しい顔の男を、いつかのようにハルトは指差す。
「大体、イケメンなら既に居るのにおかしいでしょう……! その手の話はコイツだけにしてくれませんか……!」
「未春? もちろん~……未春は下手な芸能人より超カッコイイわよー。でも、私にとっては自分の子供同然だもの。実乃里からしてもお兄ちゃんみたいな従兄だし」
ねえ、と話し掛けられた実乃里が当然だというように頷く。従兄妹同士は結婚も可能だが、恋愛対象ではないらしい。上司の妻はともかく、娘に好かれでもしたら……嫌な予感に青くなるハルトに対し、袖を引いたのは未春だ。
「安心しなよ、ハルちゃん。実乃里ちゃんには他に好きな人が居るから」
「未春ちゃん!」
急に慌てふためいた実乃里が顔を赤くする。
「その様子じゃ……俺も知ってる人?」
「うん」
「え、誰?」
その不幸な男は、という言葉を何とか吞み込んで尋ねたハルトの手前、
「やめてー!」と、細い拳で未春をぽかぽか殴りながら実乃里が抗議する。猫の手に叩かれているような反応だったが、決死の抵抗の甲斐あってか未春は口を閉ざした。
……とりあえず、自分ではないのなら構わないが、一体誰だろう?
「誰かはともかく、十条さんがうるさそうだな……」
ハルトの正直な感想に、実乃里は赤く染まった頬をぽんぽん叩いてから溜息を吐いた。
「……ハルちゃん、わかってくれる? パパはすっっっごくうるさいの」
もう何者に『ハルちゃん』扱いされても気にならなくなってきたハルトだが、パパの単語に何やら吹きそうになる。――なるほど、想像通りの子煩悩らしい。
「未春ちゃんには何も言わないのに、同級生にはうるさいったら……」
さっきから気になっていたが、未春ちゃんか。
ちらと見たハルトに、見たのを後悔する程度にはキツイ視線が返って来た。
「校外学習とか学祭の写真に同級生と写ってるだけでショック受けるし……さらちゃんとお揃いに髪切ろうとしただけで『失恋じゃないよね!?』とか血相変えて叫ぶんだよ」
うーむ、想像以上に気色悪いパパだ。何故か隣の従兄且つ甥が物分かり顔で頷いているのを眺めつつ、ハルトは首を捻った。
「此処の関係者なら、うるさいパパも認めてくれそうじゃないか?」
何せ、此処――日本のBGMの中心であるハッピータウン支部のスタッフは、末端に至るまで十条十を通すと決まっている。以前、身内の警察である山岸に聞いた話だが、遺体処理や情報操作、偽装工作に携わる
実乃里はちょっと恥ずかしそうに俯いた。
「そうだけど……迷惑かけちゃいそうだから……私なんか、お子様だろうし……」
お子様……年上の人物か。いや、実乃里の年齢からすれば、大学生の力也や明香も年上だ。日本では、高校生が大学生と付き合うのもまあまあ差を感じるらしいが、海外目線のハルトは首を捻った。
「君のパパが合法なら、問題ないんじゃ――」
さららの件をあっけらかんと言いかけたハルトの足を横から出た足がぐしゃりと踏みつけた。無言で痛みに総毛立つ男を、踏んだ未春はじろりと睨み、此処にもうるさい奴が居ることを全力で主張した。
「……ハルちゃん、デリカシーが無いってそういうのを言うんだよ」
「お……お前な……! 物には加減が有る方を先に覚えろ……!」
新年早々、足の指を粉砕されてはたまらない――涙目で抗議するハルトに、未春は涼しい顔だ。最近気付いたが、こいつは確信犯の時に知らん顔をする癖がある。忌々しそうに睨む視線さえ、涼しい顔で無視している。
くそ。デリカシーはそういう意味で使うもんじゃねえよ!――内心虚しく叫んでいると、カラカラとドアが開く音がした。
「やあ、あけましておめでとう~~!」
夜行性だった頃と全く変わらない様子で、新年だというのにぼさぼさの髪をした十条十は引き戸を開けて入って来た。
虫の居所が悪い顔そのままで「おめでとうございます」と挨拶してやると、上司は「僕、なんかした?」と悲しそうに呟く。未春も、上司は無論、実の叔父が入って来た態度ではない。害虫でも紛れ込んできたような顔でぼそぼそと挨拶(?)らしき言葉を喋ったが、すぐに実乃里の方を向いている。
「うう……相変わらず、二人の敵意が凄い……」
妻の後ろでしょげる男は、鬱陶しい顔つきでぶつぶつ言い始める。
「ちょっとは労ってくれてもいいじゃない……僕、ハルちゃんが大変だと思って、リリーが居る間の仕事は殆どやってたんだよ~?」
「……殆ど?」
聞き捨てならないセリフにハルトが眉を潜める。
と、いうことは十条はキリング・ショックを解消せねばならない――が、彼の解消法は、かなり特殊な『
「じゃあ……今度はどんな企みをする気ですか?」
「労うどころか疑ってる! ぶーぶー、人を悪役みたいに言うの反対!」
「何言ってんのよ、トオルは正真正銘の悪党じゃないの」
素晴らしい正論を呆れ顔で言うのは妻だ。
「私が知る上では、バレンタインデーに戦々恐々してるから、何かやる気よ」
「は? バレンタイン?」
揃ってうんざり顔になる未春と実乃里をよそに、怪訝な顔になるのはハルトだ。
「戦々恐々って……恐れるとか怯えるって意味ですよね? 配るのが好きなのに何が怖いんですか?」
顔を見合わせる従兄妹に対し、一早くピンと来たのは穂積だ。
「そういえば、アメリカでは風習が違うね。日本のバレンタインは、女の人が男の人にチョコをあげて、愛の告白をするのが一般的なのよ。ここ十年くらいは友チョコとか、上司が部下に配ったりとか、ジェンダーの問題とかで変わってきてるかな」
「なるほど。アメリカとは真逆なんですか」
アメリカでは、男性が女性に贈るのが一般的だ。しかも、告白のタイミングというよりは既に親しいカップルや夫婦が基本である。恋人以外では家族や友人に贈るもので、贈り物もチョコというよりは、小学生時代のメッセージカードに始まり、花束、ジュエリー、食事などが定番だ。一般常識を刷り込まれた際に教わったが、贈る側に回ったことはアマデウスとジョンに圧される形で数回程度しかない。聞けば、男性が女性にお返しをするホワイトデーなるものもあるというが、こちらもアメリカには無い風習だ。
「……ということは、十条さんやコイツはとんでもない量を受け取るんじゃないですか?」
ソフトな言い回しをしたつもりだが、十はぼさぼさの髪を搔きつつ口笛でも吹くような口でそっぽを向き、未春は例の知らん顔だ。
代わりに答えてくれたのは、実乃里である。
「パパには、売れるぐらい届くよ。段ボール何箱も」
「予想を裏切らないな」
「ち、違う……違うよ、実乃里! パパが欲しいのはママと実乃里のだけだよ!」
必死の形相で無罪を訴える父を、疑惑の眼差しが見据えた。
「えー、ウソォ。さらちゃんのも欲しいでしょ?」
「……ウッ……」
心臓を押さえて呻く男を、誰も助けない。実の娘に至っては、澄まし顔でサラサラの髪を振った。
「大体さあ……パパはお菓子なら何でも大好きじゃない」
「そーね。去年も抱えて食べてた。トオルにとっては最高のイベントじゃないの?」
クスクス笑いながらの穂積に、もはや夫は祈りを捧げるか懺悔する顔だ。
「そんなこと言わないでよう、穂積ぃ……! 今年こそ、実乃里が僕以外にチョコをあげるかもしれないんだよ? 僕以外に! いや、あのね、チョコをあげるぐらいはいいんだよ? チョコと一緒に籠ってる想いが問題なわけ! パパ以外にあげたい男が居るとか……! ううう、考えただけでも胃がよじれるううう……!」
情けない悲鳴を上げて苦悶する様は、世界最強クラスの戦闘能力を持つ人間と同一人物か疑わしい。とりあえず、世界最強クラスの気持ち悪いパパなのは間違いない。
「だからって、実乃里があげたいって言うのを邪魔するのはダメよ。あんたは家族を大事にしなくなったら、只の人殺しのクズなんだから」
家族を大事にしていても人殺しのクズだと思うが――……異論を封じ込めたハルトだが、世界最強クラスのクズはその評価を少しも裏切らない一言をのたまった。
「フフ、大丈夫だよ、穂積。邪魔はしないけど、今年は僕も配ろうかと思ってるんだよ」
『は?』
満場一致の疑惑の眼差しに、クズは何処から湧いて出るのか、自信満々に胸を張った。
「要はチョコが欲しいワケでしょ、チョコが。そんなんおじちゃんが配ってくれるレディごと幾らでも買ってやるからさあ、実乃里のは僕だけのものってことで――」
想像を絶する発想に、真っ先に実乃里が言った。
「キッモ…………」
……全くだ。
たとえ産みの親だとしても、彼女はそれを一億回言っても許される。妻は妻で、夫の無謀なテロ計画を聞いたかのように額に手を当てて溜息を吐いた。
「トオル……実乃里の周りにチョコを配りまくるつもり? さすがにあんた、恥さらしじゃ済まないわよ」
「ええー……それだけじゃないよお、穂積ぃ……昨今のバレンタイン事情ってのは女子も野郎に配るぐらいなら自分で高価なご褒美チョコを買うでしょ。男子もさあ、アメリカを見習って、女子に貢ぐぐらいじゃないと。僕は女子が自分で買って食べたくなっちゃうチョコをプロデュースして、バレンタインの悪しき風習を変えてやるんだ……僕のかわいい娘が貢がれるのは仕方ないけどさ、実乃里から告白なんかさせないもんね……ウヒヒ……」
「Ugh……Ewww……」
子煩悩が振り切れてわけのわからん領域に踏み込んでいるクソ親父に、ハルトでさえも身の毛がよだつ顔で呟いた。一方、未春に実父から庇われるような立ち位置で顔をしかめていた実乃里が、不思議そうな顔になった。
「イウー……? ハルちゃん、今なんて?」
「ん? えー……日本語のニュアンスだと……『うわ、気持ち悪ぃー』って感じかな」
「へー、ネイティブらしくてエモい。使お」
「ハルちゃん! 僕の実乃里に変な事教えないで!」
「……Who are you to say that?(あんたがそれを言うのか?)」
「みんな楽しそうね」
降って来た涼やかな声に皆が振り返ると、さららがにっこり笑っていた。
「おまたせ。座って座って」
わーい、と、そっくりな歓声を上げて席に向かう親子だが、さっそく娘が隣席から父親を追っ払い、さららの隣を陣取って未春を手招く。
「好かれてるな」
「……」
何気なく言ったつもりだったが、未春は返事をしなかった。
「大丈夫か?」
「…………うん」
ワンテンポは遅れて頷くと、未春は実乃里の方へと向かった。その様子を、ハルトも気づかぬほどの素早さで十の目がすっと撫でたが、彼は何も言わなかった。
三が日を過ぎた1月4日。
正月という風習のないアメリカの感覚ではのんびりした営業開始の日、未春に命じられたハルトが寒風に身を縮めながら外を掃いていると、珍しい二人連れが訪れた。
「あけましておめでとうございます」
ご挨拶が遅れまして、と美しい所作で腰を折るのは、さららの義弟に当たる
「珍しい組み合わせですね」
ほうき片手に出た正直な感想に、居心地悪そうな顔をしたのは国見だ。
「ハルトさん、あけましておめでとうございます。実はその……相談がありまして……」
傍らの鬼教官にみっちり仕込まれているらしく、やけに腰が低い青年に、ハルトは苦笑いを向けた。
「俺にまで畏まらなくていい。中で聞くよ」
かくかく頷く男と、その上役を伴って入店すると、さららが既にこちらを見ていた。
手招く動作に吸い寄せられた二人を着席させると、彼女は義弟にちょっと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あけましておめでと、修司」
「おめでとう、さらら」
本物の姉弟よりも深い絆で結ばれた仲の良い二人だが、何やら不穏な空気が流れている。
「貴方、優一さんにちゃんと謝ったの?」
「さららにそう言われるようなことはしていないよ」
昨年、じれったい男と女をくっつける為、雪に囲まれたロッジに閉じ込めた男はしれっと答えた。実は発案者であるハルトは思わず頬が引きつったが、さすがは室月、全く動じる様子が無い。
「心配しなくても、優一さんの仕事に穴は開けていないし、二人も進展が有ったと思うけど?」
「よっく言う~~……ご注文はー?」
「ブレンドひとつ」
「はあーい。かしこまりましたー」
彼女にしては心底呆れた顔をして、呆気にとられている大学生に振り向いた。
「国見くん、あけましておめでとう。何飲む?」
「お、おめでとうございます……! え、ええと……室月さんと同じものを……!」
改めて立ち上がりそうな勢いでしゃちほこばった青年が、どうにか言い終えて座り直すと、立ったまま眺めていたハルトが苦笑いで向かい合った。
「で? 相談って?」
「あの……リッキーのことなんです」
何となくそんな気はしていたが、いざ言われると妙ではある。深刻そうな顔で、恋の悩みなぞ持ってこられるのは困るのだが、呑気に聞けないようないじめ問題でも困る。リッキーこと、当店にもバイトに来ている
彼が嫌いなのではないが、力也の身辺に殺し屋として出しゃばるのは嫌だし、殺し屋が全く関係ない件で相談されるのも遠慮したい。
何やらこっちが我儘を言っている気がしたハルトが答えを待っていると、案の定、国見は不穏な一言を口走った。
「妙な噂が立ってるんです。リッキーに似た男が、あちこちで騒ぎを起こしてるとか……」
「……いつものことじゃないのか?」
幾らか失礼な響きになるが、国見も『わかる』という顔をした。力也は明るくて良い奴だが、声はでかいしリアクションはオーバーだ。そして、ちょっとばかり、お節介でおつむが足りない。まあ……それも含めて良い奴なのだが、その行動は少々空回り気味で、優しいのだが危なっかしい。
「いえ、その……そういう騒ぎではなく、なんというか……暴力行為といいますか……」
「暴力行為? リッキーが?」
そんなバカなというハルトに、国見も頷いた。
「……あり得ませんよね。付き合いが短い俺でもそう思います。長い友人は、みんな火消しに一生懸命です」
「俺だって短いけど……リッキーと暴力は結び付かない――……悪党相手には暴力で解決しようとしてたみたいだが……」
祖母を騙した詐欺グループに接触した際は、拳で戦う気だったらしい。その際、当然のように多勢に無勢となった力也を救ったのが、たまたま……その詐欺グループを標的に仕事をした未春だと聞いている。一般人の目の前で仕事をした未春も未春だが、目の前で悪漢をグサリグサリと殺った男にヒーローの姿を見た力也も力也だ。この経緯も聞いている国見はちょっと考える顔になったが、こくりと頷いた。
「仰る通りです」
室月みたいな返事に吹きそうになるが、国見はどうやら真剣に力也を心配しているらしい。力也はおつむはからきしだが、至って温厚な――幾らかウッカリした性格と、今どき珍しいぐらいのまっすぐな正義感を兼ね備えた青年だ。どちらかといえば、暴力行為なんてものは素通りできずに止めに入る方が彼らしい。国見と知り合ったのも、彼が受けていたいじめを力也が見過ごさなかったことがきっかけだし、詐欺グループに加担していた国見にショックを受けつつも、話し合いで友情を築いたのだから大したものだ。
「当の本人はどうしてるんだ?」
先日、ランニングがてら新年の挨拶に来たときは変わった様子はなかった。少なくとも、思い詰めた顔や、何かに憤慨するようなことはしていない。そういうことは顔に出るタイプだ。国見は言いづらそうな顔になった。
「もちろん、噂は否定していますし、俺の前ではいつも通り……と言いたいところなんですけど、なんか隠してるのは間違いないんです。……リッキー、わかりやすいでしょ?」
全くその通り。隠し事なんぞ、やった時点で秒でバレるタイプだ。
「俺がこんなこと言いたかないんだが、まさか恋愛絡みじゃないよな……?」
ハッピータウン調に先手を打ったつもりだが、国見が一瞬ポカンとしたので激しく後悔した。物静かにコーヒーを嗜んでいた室月が、微笑ましそうな顔をしているのも居たたまれない。
「えー、と……、ど、どうでしょう……?」
「……俺が悪かった。気を遣わないでくれ……」
「あ、いいえ……! えっと、全然見当違いってことはないと思いますよ……! クリスマス辺りに彼女居ないの気にしてたみたいですし……!」
そういえば、クリスマス前にそんなことをぼやいていたか。
容姿は決して悪くはないし、家族や友達を大切にする性格は好印象だと思っただけに意外だと感じたのだが。頼り甲斐は無いかもしれないが、まだ大学生、そんなものはこれから付いてくる段階だ。
「た、例えば……好きな子が悪い連中とつるんでたら、そいつらと揉めることは有るかもしれませんよね」
フォローは有難いが、ハルトは首を擦りながら難しい顔をした。
「……わからん。俺がストレートに聞いたらまずいかな?」
「い、いえ、一度、ハルトさんが聞いた方が良いと思います。それを頼みたくてお伺いしたようなものなので……」
そこまで言うと、国見はなかなか板に付いてきた仕草で頭を下げた。
「お願いします。……どうもリッキーって、危ないことに巻き込まれそうな気がするので……」
聞いてみることを約束すると、国見はようやくほっとしたようだった。
それを合図にするように、今度は室月がこちらを向いた。明瞭に意図の有る目を見ると、不思議と辺りに響かぬ声で口を開いた。
「恐れ入りますが、もう一件、お耳に入れたいことがあります」
「やれやれ…… 室月さんは“こっち”の案件みたいですね」
「はい。イギリスで、連続殺人が起きているのはご存知ですか」
「え? 連続殺人?」
あっさり知らぬ存ぜぬを晒したハルトに、室月は小さく頷いた。
「連続殺人と申しましても、当局は懐疑的です。あくまで裏の情報として、同一犯と見ているそうです」
「裏の……? じゃあ、殺されてるのは裏社会の人間ですか?」
「……どちらも居るんです」
一瞬、ハルトが息を呑んだ。
表社会と裏社会の人間の両方を殺し、逃げ延びている同一犯。
「十さんも、『その可能性』をお考えです」
「……結論には早い。表裏の双方に手を出すのは、“奴ら”の可能性が高いと思いますが、イギリスにはスターゲイジーが居る。彼の身近で、連続殺人にまで発展するのは解せない」
「……スターゲイジーは、この件に格別の意見はしていないそうです。当局と情報交換はなさっているようですが」
「放任か……こっちにも知られたくない事情があるのか……?」
TOP13の一人、ボス・スターゲイジーが仕切る調査会社ブレンドは世界のあらゆる事象に精通している。表向きも裏向きにも窓口を開く彼らは、社会活動に自然現象、浮気調査にペット捜索、悪党の企みまで何でも炙り出す。本拠地のイギリスで正体不明の殺人犯など野放しにはしないし、させるからには事件そのものがパフォーマンスか、何か別の事案を探る為に泳がせているのかもしれないが、逃亡中の二者が“わざわざ”彼の傍で活動する理由が不明だ。……彼に認識させる意図があるのだろうか。しかし、何故?
「十さんは、ハルトさんに事件の経過記録をお渡しするようにと」
「はあ……俺は警察や探偵じゃないんだけどなー……」
流れるようにスマートフォンを操作した室月に従い、ハルトはぼやきつつも送られてきたデータを確認した。
「もし、お疑いの相手なら、ご存知の傾向があるかもしれません」
事件は12月から始まっていた。
12月7日 am 7:30 ロンドン ブリックレーン通り脇で男の絞殺体
同 pm 13:00 ロンドン レスタースクエアの飲食店裏で男の刺殺体
同 pm 22:00 ロンドン 郊外の空き地に男女の撲殺体
12月9日 am 8:00 ロンドン サザーク地区バージェス・パークで男の水死体
同 am……スライドした羅列はまだ長く続き、テムズ川のほとり――ビッグベンのすぐ傍で終わっていたが、ハルトはうんざりした顔を上げた。
「同一犯なら、シリアルキラーの可能性が高いですね」
室月は頷いた。朝昼晩、一般的な生活圏内での息をするような殺害。方法までバラバラ。強いて言えば、猟奇的な様子や、性被害の報告は無い。
「……申し訳ないですが、この情報だけでは二人の傾向はわからない。殺害方法だけなら、二人とも可能です。片方は、赤の他人を操ってやらせることもできる」
「左様ですか。こちらも引き続き、情報を集めようと思います」
「と、いうことは……十条さんはあの二人を
問い掛けに、室月は少し迷う顔をした。
「その辺りは明言なさっていません。日本にとって不利益になるなら、と考えていらっしゃるようですが……あくまで私の印象です。この件は、ミスター・アマデウスからTOP13全員に開示されている依頼に等しいですし、ハルトさんのことは皆さんご存じでしょうから」
「まあ、そうですね……」
マグノリア・ハウスの件は、アマデウスには珍しい、目立った汚点の一つ。
本人がなるべく早く片を付けたいのは勿論の事、他のTOP13にしても、内情を知る有能な殺し屋が野放しになっているのは具合の良い事ではない。
……ただ、BGMの目的は、あくまでも世界を滞りなく回すこと。もし、彼らがこの題目の邪魔にならないのなら、放置して構わないというのも事実だ。
スターゲイジー辺りは積極的に捜索しているが、大抵のTOP13は消極的で、下手に刺激して『
「俺に情報開示するのは、好きにしろって意味でいいんですよね」
「ええ。ハルトさんに関しては制限は必要ないと」
さて、寛容と見るか、泳がされていると見るか。
否、恐らく、釘を刺されている。二人の情報を独自に見つけて、勝手に出て行かれるのは困るということだろう。
「俺は……十条さんが片付けてくれるんなら、その方が楽で良いんですけどね……」
「ハルトさんは、ご自身が、と考えていらっしゃるかと思っていましたが」
「ま、そう思われても仕方ないですが……」
逃亡中の二名と、最初に狂った一名以外の全ての同胞を殺した男は、疲れた溜息を吐いた。
「あいつらは、確実に殺さないといけないと思っています。でも、俺だって殺される危険性の高い相手は躊躇しますよ。最後の一人になったら別ですけど」
「それは――同士討ちをも辞さない構えという事ですか」
室月の硬質の問いに、さららや国見がこっちを振り向いた。
ハルトは首を擦りながら、苦笑いを浮かべた。
「そんな大層なものじゃないです。それ相応の……幾らか大げさな準備が要るってだけです。素手でワニや熊と戦うとか嫌でしょう?」
室月は硬質の瞳はそのままに、口元だけ穏やかに笑んだ。
「微力ながら、罠ぐらいはご用意できますよ。万一の際はお気軽にお声がけ下さい」
「はあ、どうも」
何かの斡旋業者か弁護士のような室月に頷くと、さららが細い溜息を吐くのがわかった。ハルトも室月も何も言わなかったが、国見が飲むのも忘れたコーヒー片手に目を瞬かせている。
「ワニや熊みたいな人間なんて……本当に居るんですか?」
「居る居る……世界にも、お前の傍にも」
俺は違うぞ、と断ったが、視界の端で室月が小さく笑うのが見えた。
「国見、一個覚えとけ。うちの上司はワニや熊と素手で戦って勝てる人間だ。絶対に敵に回さない方が良い」
「は、はい」
「特に娘の実乃里ちゃんには絶対に手を出すな。あれは親心とか父性なんてもんじゃない……狂気だ。殺されるどころじゃ済まない」
「は、……はい?」
少々不安な疑問符が出たが、国見は頷いた。
「十条さん、お嬢さんが居るんですね」
「まだ高校生だけど、美人よ。今年は一人でも遊びに来るんじゃないかしら」
「さららさんと同じくらい綺麗ですか?」
「あら」
お上手ねと微笑んださららの手前、ピシッと何かにヒビが入るような音が聴こえた気がした。室月の顔は、怖くて見られない。おかげでハルトは大急ぎで何も知らない大学生の首根っこに腕を回す羽目になる。
「……俺が悪かった、国見、もう一個覚えとけ。さららさんに手を出したら、お前は借金が一桁増えるか、二十四時間サービス操業させられるか、途上国に売られる……絶対に手を出すな」
「わ、わかりました……!」
既に億単位の借金を抱えている青年は、ずり落ちそうになる眼鏡を押し上げてかくかく頷いた。全く、ハッピータウンなどと付いているわりに、地雷の多い支部だ。
「そういえば、未春さんはいらっしゃらないんですか」
冷静さを取り戻した室月の声に、さららとハルトは顔を見合わせた。
「それがねえ……」
わけを話すと、彼は少し考える顔をして「そうでしたか」と呟いた。
「大丈夫だって言うんだけど、今朝は休ませたの。午後から顔出すって」
「そうか……無理をさせない様、こちらの仕事も調整しよう」
「そっちはゼロでもいいのよ」
すかさず言うさららに、室月はカップを傾けて涼しい顔だ。
「さらら、十条さんにお任せできない分は、優一さんに回るんだよ」
「もう、可愛くないんだから」
姉弟のやり取りに、日本では使い勝手の悪い『
週末、他にやることのない――というと何だか虚しい殺し屋は、頼まれるまま、季節外れの飛んで火に入る夏の虫と化した力也に声を掛けた。
出勤するなり隅の席に引っ張られた力也は、殺し屋と個人面談のように向かい合って尚、きょとんとしている。
ハルトはその大学生にしては無邪気な目を見ながら言った。
「リッキー、最近どうしてる?」
「へ? 最近スか?」
力也は首を捻り、のんびりと返した。
「別に……何もないっスけど。普通に冬休み過ごしてます」
「トラブルとか……困ったこともないか?」
「困ったこと? えー……そうッスね……特にないかな~……」
「……フーン」
期待したつもりはないが、調子外れの感はある。
平和で何よりだが、この力也から暴力事件の噂とはどういうことなんだ?
新手のイジメか? それとも、全く関与のない似た奴の話か?
思案するハルトの目つきが不機嫌に見えたのか、力也は慌てた様子で両手を振った。
「えっ……あの、センパイ、マジで俺なんもないっスよ!? 国見とかリリーの件の後は、トラブルっぽいことなんか何も無いですし……」
「ああ、わかってる。ひとまず、“俺の範疇”では無さそうで良かったよ」
わかっていない顔の力也に対し、ハルトは机に載せていた自分の端末を叩いた。
「だが、リッキーに一物あるのは事実らしいから……そういうわけで、俺が察知しづらい情報用に、優秀な捜査員をお呼びしておいた」
「そ……捜査員??」
怪訝な力也が、ハルトの視線の先を仰ぐと、店内の階段から上がれる二階――十条宅の入口から、二人の人間が出てきた。
「ハルちゃん、もう終わっちゃったのー?」
ビビを抱っこして階下を見下ろしたのは
「悪いな、ラッコちゃん。俺の専門外みたいだ」
ラッコちゃんの愛称で親しまれる倉子は、大の動物好きの明るく元気な女子高校生だ。それだけなら歳の割にしっかりしていて可愛い女の子なのだが、少々行き過ぎた動物愛好家であり、ドブネズミやアライグマの類も好ましく考える彼女は、ハルト曰く、害獣保護JK。人間に虐げられる動物を助けたいという価値観のもと、以前はBGMの力を使って悪質なブリーダーを殺し、殺処分のシステムにテコ入れしたいと考えていたようだが、現在は少し丸くなり、動物たちの為に何ができるのかを別の方面から考えているらしい。
――追記、気性の強さと第六感は並ではない。
ハルトの声に、倉子はフフンと鼻を鳴らしたようだ。
「そだねー。リッキーが危ないことするわけないもん。他の隠し事に決まってるよ」
「か、隠し事?」
明らかに動揺する力也に、何やらこそこそと倉子に瑠々子が耳打ちした。二人は短い打ち合わせを済ませると、猫たちと階下に降りてきた。
じゃあ宜しく、と、丸投げしようとしたハルトの服をすかさず引っ掴んだ倉子は、一般女子高生にしてはなかなかのパワーで殺し屋を椅子に引摺り戻した。
「ハルちゃんが居ないと、二対一でフェアじゃないじゃん」
「おいおい、ラッコちゃん……俺はリッキー側じゃない。これじゃ三対一になるぞ」
「ならないよ。ハルちゃんは尋問される側なんだから」
「は…………?」
予想外の事態に阿呆丸出しとなった殺し屋に、倉子はプロの捜査員も逃げ出したくなるような威圧感で仁王立ちになっている。
「とりあえず、ハルちゃんは後回し。先にリッキーね」
心当たりも無いのに尋問の予定を組まれたハルトが、ここ数日間を振り返るのをよそに、女子高生二人の視線に力也が緊張気味に身を強張らせる。
「な……何なんスか、ラッコちゃん?」
「リッキー、正直しかムリだと思うけど、正直に答えてね」
これが取調室なら違法性が疑われる程度に、倉子が凄む。瑠々子は力也を見ているだけだが、その目は確信と疑惑と黒々と上向いた睫毛の迫力が凄い。なんだかわからぬまま頷いたらしい力也の目を見て、倉子は言った。
「好きな人が、居るでしょ」
ガタガタンッ!と力也の手足が椅子と机に無駄に当たった。
「そうなのか?」
「そ、そそ……それはわわ……!」
「ハルちゃん、Shut up!」
鋭い声に雑談を注意された殺し屋が両手を膝に縮こまると、鬼捜査官は更に踏み込んだ。
「それ、あたし達も知ってる人でしょ?」
ガタタタタ……! 硬直した力也の代わりに、高震度を記録した椅子が返事をした。ビビが警戒気味に距離を置き、冷や汗を垂らす青年を不思議そうに見上げる。
「違うと思うけど、あたし達やさららさんじゃないよね?」
「ち、ちちち違う!」
大慌てで手を振りながら否定した力也に、倉子と瑠々子はアイコンタクトを交わす。
「じゃ、誰?」
「え、……ええ、………そ、それは……いくらラッコちゃんでも~~……!」
もぞもぞと頭や腕に膝をさすり、ハルトをちらちら見、あちこち痒いのかと思う動作を一通りした力也は、犬が水を弾くようにぶるぶると首を振った。
「い、言えない……! 勘弁してほしいッス……!」
顔を覆って叫ぶ力也の耳は真っ赤だ。こんなに動揺している容疑者に、冷静な視線を投げ掛ける女子高生たちは、再び意気ぴったりのアイコンタクトを交わした。
「ハルちゃん、後は消去法で何とかなるんじゃない?」
「ああ……確かにな……Brilliant(お見事).」
総括。力也は恋をしている。相手は倉子も知っている人物だが、倉子や瑠々子、さららではない。そして、力也はその相手が誰なのか喋りたくない。
目下、怪しい人物は数名に絞られたが、誰なのかはそれほど問題ではない。要は力也が何に挙動不審になっているのかわかれば十分だ。
殆ど脅しだった気もするが、容疑を恋愛と断定してきたのはさすが現役女子高生。
拍手を贈ると、倉子の目が非難がましくすがめられた。
「ブリリアントなんて言ってる場合? 今度はハルちゃんの番だよ」
「う、……それなんだが……俺、何かしたか? 最近はラッコちゃんに睨まれる心当たりが無いんだが……」
「あたしじゃないもん。みーちゃんのことだよ」
「へ? 未春?」
つい、瑠々子の方を見てしまうが、彼女は気まずそうに指先を弄うだけだった。
今日は未春は居ない。児童養護施設に居た頃、世話になった
「ハルちゃん、みーちゃんが元気無いのは気付いてるよね?」
「あ、ああ……そりゃ、もちろん」
生返事を返したハルトに対し、気付いていませんでしたと白状するように力也がきょろきょろしている。
「ラッコちゃん、よく気付いたな……あいつ、店では普段通りだろうに」
「もお~……わかるよお。三日に初詣に誘いに来た時、真っ青だったから」
確かに三日、倉子は気合の入ったメイクの瑠々子と共に未春を誘いに来た。
さして変わらぬ様子で応じた未春だが、同伴したハルトから見てもそこまで酷くは無かったように思う。直感の鋭さでは、倉子は人並み以上だ。
「その時言えばいいじゃないか……」
何故、今頃という顔に、心底呆れた顔が向けられた。
「その場でヒソヒソしたってみーちゃんには聞こえちゃうでしょ。気ぃ遣うじゃん」
「うーむ……確かに」
気を遣うかはともかく、未春の前で内緒話はできない。それに、体調を崩して以来、あの異常聴覚は些か鋭敏になっている気もする。昨夜も、廊下でぼうっとしている未春に鉢合わせた際、何に耳を澄ましているのかと思ったら、「救急車」と答えたので唖然とした。無論、ハルトには集中しても尚聴こえない、何処か遠くのサイレンだ。
「ねえ、なんで放置なの?」
「ほ、放置はしてないぞ? 気は遣ってる……」
「ホントにィ? 『つもり』じゃなく?」
くっ……どうしてか、この女子高生はいつも痛いところを的確に突いてくる。
「じ、じゃあ何してやったら放置じゃなくなるんだ?」
「何でも良いんだよ。ただ、いつも通りじゃないことがいいの。遊びに行くとか」
「……遊びに」
復唱したハルトの声は、阿呆よりも痴呆に近い。一瞬の間を置き、げんなりした目が倉子を仰ぐ。
「いや、それ、意味有るか?」
「もうっ! ハルちゃんはそういうとこが――……」
「ま、待って倉子!」
殺し屋さえ傷付けたかもしれない罵詈雑言を阻止したのは、きちんと整えられた爪先にピンクのマニキュアを塗った手だった。勇猛果敢な友人を止めた少女は、息を整える様にしてからハルトに振り返った。
「……あの、えっと……野々さん、意味なんか無くてもいいの。未春さんを何処かに連れ出してください」
お願いします、と頭を下げた瑠々子に、面食らった顔の倉子とハルトは顔を見合せた。彼女の殊勝な姿を見るのは二度目だが、以前とは訳が異なる。イケメン詐欺・被害者――じゃない、未春に恋する瑠々子が心配するのはわかるが、「意味が無くても」とは、それこそどういう意味だろう?
「ハルトでいいけど……」
「あ、すみません、……ハルトさん」
「ああ、いや……ごめん、意味が無くていいって、どういうこと?」
「それは……私が思ってるのと、違うかもしれないんだけど……」
マニキュアを撫でながら、瑠々子は躊躇いがちに答えた。
「今の未春さんの感じ、前の私に似てると思う。どこかで吐いたら楽なんだけど、吐けない感じ……」
以前、悪質ないじめを受けていた時の事だろう。当時の彼女は、未春に同級生の殺害を頼むほど追い詰められていた。様々な情報発信が可能な世の中にあって、肝心の声を上げることができないストレスは、極端な憤りとして溢れそうなのに溢れることができず、溜め続けることになった。
「えっと、つまりね、私たちが言いたいのは、気分転換してきたらってことなんです」
「気分転換、ねえ……」
わからないでもない。自分もニューヨークに居た頃は、よくセントラルパークに散歩に出掛けていた。本物の森を切り開いたといっても頷ける自然豊かな人口造園は、動物園やカフェ、広大な芝生に幾つもの湖が美しく整備され、ニューヨーク市民の憩いの場だ。格別、自然が好きというわけでもないのだが、馴染みのニュース・スタンドでタイムズ紙を買い、湖畔のベンチで呑気に読んでいると、何やら呼吸が整う感じがしたものだ。
「たぶん……どこか静かなとこに行った方が良いと思う。でも、私たちと一緒ではダメみたい。たぶん、未春さんが一番リラックスできる相手は、ハルトさんだと思います。それを否定されちゃうと、私もしんどい。……何もできないから。お願いします」
二度目のお辞儀を食らっては恐縮してしまう。友人が頭を下げる様子を見てから、倉子はハルトに向き直った。
「……前にも言ったでしょ、ハルちゃん。あたしやリッキーも、みーちゃんの友達になろうとして、上手くいかなかったって」
上官のような倉子の視線に、脇で聞いていた力也がこくこく頷いた。
「そッスよ、センパイ。俺らが色々やるより、未春サンにはセンパイが一番いいッスよ」
「同類だから上手くいくとは言わないが……、そんなに頼み込まれちゃ仕方がない」
定休日に出掛けるなら、さららに負担は掛けずに済むが。
ハルトは腕組みして唸った。
「ただ、ひとつ問題がある。こっちの都合で悪いが、いま俺たち二人とも長時間不在になるのは少し不安なんだ。誰かに留守を頼まないといけない」
「十条さんはー?」
「まあ、第一候補はそこだな……」
正直、プライベートな話、しかも未春絡みで十条に「頼む」というのは嫌なのだが、そんなことを言ったら倉子の目が吊り上がるに違いない。
いっそ、『ブロードウェイ』のピオや『アポロ』の明香にこちらのコピーを
仮にもTOP13を駆り出す案件ではない気もするが。
「じゃあ、十条さんに頼んで予定が合い次第、出掛けるよ。それでいい?」
「乗り気じゃないとこが減点だけど、いいよ」
的確な一言にハルトはぐうの音も出ずに押し黙った。
やはり倉子は痛いところを突いてくる。
……可能なら、十条以外を頼ろうとしている腹まで見抜いていそうだ。
その頃、未春は特別養護老人ホームに居た。
いつものように来館記録に名前を残し、顔を上げたとき、顔見知りの受付の女性と目が合った。彼女はやんわり微笑み、ほんの少し眉を寄せた。
「あの、十条さん、守村さんですけど……もしかしたら、ちょっと体調が優れないかも。今朝はいつも通り、お食事も召し上がったみたいなんですけど……」
昨夜は、あまり食べられなかったらしい。施設内で感染症は見つかっていないそうだが、仮に風邪だとしても厄介だ。肺炎にでも発展すれば、命に関わる。
未春は物静かに頷いた。
「……そうですか。短時間にします」
「あ、いえ……十条さんが来てくれたから、お元気になるかもしれませんね」
ぺこりと頭を下げた未春は、勝手知ったる様子でエレベーターに向かい、決められた動作をこなすようにスイッチを押した。
頭はじんわりと頭痛がする様ですっきりしなかったが、考えるのは年末に聞いた、守村の謎の過去だ。
彼女の話が本当なら、エディという名の謎のアメリカ軍人との間に子供が居た。
ただ、この軍人は子供が生まれるより早く帰国してしまい、その事実を知らない。
更に戦後の難しい時期であり、国際結婚そのものが蔑視されていた時代、子供は両親に奪われ、彼女は恥知らずを罵られて縁を切られてしまった。
彼女は遠くから成長した子とその妻らしき女性を見たことがあり、孫が居たことを確認したというが、本当にその子が彼女の孫なのか、彼らの行方と共に真相は不明だ。
軽度のアルツハイマー性認知症を患う守村にとって、過去の方が明瞭だが……未春が児童養護施設で彼女の世話になっていた頃よりも前の話である。
施設に居た時にも、そんな話を聴いたことは無い。誰かの話や妄想と混じっている可能性も、十分有り得る。
何故か言い辛く、十にこの話はできていない。
尤も、十は既に知っていて、知った上で守村と関わったのかもしれない……
――だとしたら、この話には、何か裏が有るのだろうか?
目指す階に到達すると、開いた扉の向こうからもったりと暖かい空気が流れ出た。
常に高齢者に具合の良いように設定された温度は、未春にはどことなく重い。
守村の部屋を軽くノックする。返事はなかったが、鍵が掛かっていない扉を開いた。
「……先生、未春です。失礼します」
そっと呼び掛けるが、返事はなかった。十が贈った高価な一人掛けソファーは空だ。
衝立の向こうにベッドがあるが、もしかしたら施設内での散歩や日光浴に出ているのかも……そう思いながら、衝立の向こうを覗き、未春は目を瞬いた。
守村はそこに居た。
ベッドに横たわるではなく腰掛け、こちらを振り返らずに窓の方を見ている。
偶然か、よく着ているのか、クリスマスにプレゼントした淡いベージュのカーディガンを羽織っていた。そこに居るのに、幻のように見えた。
「先生……?」
改めて不安げな声を掛けた未春に、おっとりと彼女は振り向いた。
数回の瞬きの後、ようやっと回線が繋がったように、彼女は「ああ」と喋った。
「未春ちゃん。あらぁ……いつ来てたの?」
名前を呼ばれたことに、未春は心底ほっとして頷いた。
「今、来たばかりです。あけましておめでとうございます」
「ああ、そう……そうなのね。まあまあ、ご丁寧に」
にこにこと微笑む様子はこれまでと変わらない。だが、この瞬間にも、違う人間だと思われていないか不安になる。
「あの、先生……前に話していた、アメリカ人のことですけど……」
「あめりか?」
「はい。エディという方の……」
「ああ、エディ。エディ……うーん……誰だったかしらねえ……」
未春は守村を見つめた。
認知症は治るわけではない。その症状は、薬で抑えながらもじっくりと進んでいく。彼女が存命の内に、こちらの存在も消えてしまう可能性は有り得る。早くしないと、彼女が巡り合いたいだろう息子や孫の存在も消えてしまう。
「息子さんの――
「ゆたか……そうねえ……わかんないわ」
さして考えた様子もなく、わからない事をごまかすように守村はにっこり笑った。
未春は付き合う様に微笑してから頷いた。
……今日はもう、何も出てこないかもしれない。
「ねえ、未春ちゃん。十さんとは上手くいってる?」
「……あ、はい」
たまに思い出したように聞かれる言葉に頷く。いつも何となく、後ろめたい気持ちで答えているが、NOを唱えたことは無い。
そんなことを言ったら、彼女に心配を掛ける。
「良かった。先生、いつも心配なの。未春ちゃん……元気にしてるかしらって……」
「……俺は元気です。大丈夫です……」
自分に言い聞かせるように答えた。こんなに言い辛いのは初めてだ。
……元気だろ? 何処も悪くなんかない。
仮に悪くても、この人の前では元気でいなくちゃダメだ。
赤ん坊の頃から独りで、独りであることさえ自覚できない自分に、笑い掛けて、寄り添い続けてくれたこの人の前では。
未春が自分の頬を引っ叩くように内に呟いていると、守村が窓の方を見上げてふんわりと言った。
「あの子も、未春ちゃんみたいに元気だといいんだけど……」
「――あの子?」
不意に降って来たものを掴もうと、未春は鋭く問い掛けた。
「先生、あの子って誰です?」
守村はほのぼのと明るい日差しを受けながら、きょとんとした。
「未春ちゃん」
「……はい?」
「未春ちゃんが元気なら、先生は安心よ」
未春は押し黙った。……肝心な記憶を、自分が阻害している気がした。
きっと……訊ねるだけでは駄目だ。本人を連れてくる方が、或いは可能性の有る者を伴う方が、彼女の記憶を呼び戻す効果が高い。
「未春ちゃん」
「はい」
「十さんとは、上手くいってる?」
「はい」
同じ問いに穏やかに返事をしながら、未春は忙しく考える。
――息子、或いは孫を探さなくては。早く。
彼女が忘れてしまう前に、探し出して、その心の中に呼び戻さなければ。
未春は陽光の降る窓の外を眺める守村を見つめた。
……ひとつ、決意しなくてはならないようだ。恐らく、最悪のタイミングで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます