第2話 彼は異世界Ctrl+z



 寮で夕食を済ませ、たまたま授業の課題も締め切りまでだいぶ余裕があったので、わたしは窓際の机に向かってキャンバスへ筆を走らせていた。


 異世界とはいえ、わたしだってたまには趣味活動にいそしんでもいいはずだ。


 田舎から出てきたセシリアちゃん含め、大抵の生徒は四人部屋か二人部屋である。しかしそこは押しも押されぬ公爵令嬢、サフィーナは本来なら四人が寝泊まりできるはずの部屋を、堂々と独り占めしている。

 謎のテクノロジーで作られたランプの光を浴びながら、わたしは傍らのパレットの上で絵の具を混ぜていた。思い浮かべているのは、今日の光景である。


 理不尽な苦境に立たされてきたヒロインを強く抱き寄せる王子。ひとりで立ち続けてきたヒロインを守りたいと思うその心のやさしさと、やさしさに触れて戸惑う少女のときめき。


「すばらしい……」

 感動を噛みしめながら、わたしはそっと絵筆の先をキャンバスへ置いた。この尊さ、拙筆なれども書き留めずにはいらいでか!

「あっ」

 気合いのあまり、下書きの線をびっくりするほどはみ出した。


 少し迷ってから、わたしは二本指で机を叩く。

「いけるかな……【遡行申請:十秒】」


 瞬間、目の前のキャンバスから今の一筆が消える。

 わたしは瞬きをして、色を乗せる前に戻ったキャンバスを見下ろした。

 作業の取り消しが、できる。

(こ、こんなの……)

 片手で口を覆い、目を輝かせる。


 アンドゥ機能があるんなら、こんなの、もう……

「実質クリスタじゃないの!?」

 もちろん、イラスト・漫画・アニメーション制作ソフトのCLIP STUDIO PAINTには、直前の作業を取り消すアンドゥにとどまらない様々な機能があるが、紙に向かって絵を描くのに「気楽にちょっとやり直し」が可能となれば世界が変わる。こんなの実質CLIP STUDIOである。


 これがアリなら、もう何でもアリだ。

(あのシーンが目に焼き付いているうちに、ざっと色を乗せておきたい!)

 左手を机に置き、わたしは改めてキャンバスに向き直った。





 異変が起きたのは、時計の針がてっぺんを越えた頃だった。さっきから、アンドゥが使えない。

「遡行申請、遡行申請……どうして?」

 二本指で机を叩いているのに、今の一筆が消えてくれないのである。

「使いすぎて壊れちゃった? そんなことある……?」


 顎に手を添えて首を傾げた、次の瞬間。


 背後ですさまじい轟音がして、わたしは悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。

 床に手をついて振り返って見れば、寝室の扉が蝶番から外れて床に倒れている。


「え?」

 扉を蹴破った体勢のまま、こちらを見下ろす顔と目が合った。


「暴漢?」

 いや待て、知った顔だとすぐに気付く。

 彼は、今日の昼間にも廊下で声をかけてきた、王子の友人の――


「あなたっ、カイニ」

「貴様! 俺のことをCtrl+z代わりにしやがって……俺はフォトショじゃないんだぞ!」

「は?」


 目が点になった。

 Adobe Photoshopといえば、言わずと知れた世界的な画像編集ツールで、写真の編集はもちろん、デザインやイラストの制作にも用いられるソフトウェアである。


 そして、少なくともわたしの知る限り、Photoshopは地球でしか使われていない。


 がばりと体を起こすと、わたしはカイニスに掴みかかった。

「あなたやっぱり、地球から来たのね!? そうでしょ、今日の昼も何か言ってたでしょう」

「離せよ」

 片腕で振りほどいて、カイニスは聞こえよがしに舌打ちをする。


 今まで個性少なめの脇役だと思っていたのが嘘みたいなキレようだ。

 自室から直で走ってきたであろう部屋着姿がさらに恐い。


 腰に手を当てて頭を掻いてから、彼は血走った目でこちらを睨んだ。

「あのな……あんたに分かる言葉で言うなら、俺は『社員』なんだよ」

「アドビの?」

「Adobeに異世界営業所はないよ」


 わたしは首を傾げた。

 要領を得ないわたしに、カイニスはなお一層苛立った様子で声を大きくする。


「だから、あんたはアルバイトとして悪役令嬢やってるかもしれないけど、俺はここの物語を担当していて、あんたより多くの権限を持ってんの」

「あ、そっちの!?」


 じゃあ、あの白い空間にいたお兄さんの仲間という訳だ。「いつもお世話になってます」と、わたしは早速手もみしながらへりくだる。


 下手に出てみたわたしを見下ろして、カイニスは再度舌打ちをした。

「あんたが指トントンってして、【遡行申請】って唱えるでしょ。あれってそのまま作動してるんじゃなくて、一旦その申請が俺のところに回されて、俺が手続きして初めて時間遡行する仕組みなわけ」

 わたしは絶句した。

「じゃあ……わたしに時間を操る能力が備わってる訳じゃないってこと?」

「アルバイトに時間遡行の権限持たせるわけない」


 さあっと青ざめて、わたしは口元を覆う。

 だって、それってつまり……

(わたし、さっきまで遡行申請を連打してたかも)

 冷や汗を垂らして目をそらすわたしの頭が、上から鷲掴みにされる。


「マジでいい加減にしろよ。あんた、この三時間で何回くらい遡行申請したと思う? 百は軽く越えてるぜ」

「わたし、てっきり自分の能力だと思って……」

「それで、明日からのシナリオに備えて準備でもしてるのかと思って見てみれば、趣味全開の乙女な絵ェ描いてるし」

「か、勝手に見ないでよ!」

 わたしは慌ててキャンバスの前に立ちはだかった。人に見せるつもりで描いていたわけじゃないのに!


「だいたいさぁ、もう少し一筆に魂を込めるとかないのかよ。書いては消し書いては消しって」

「デジタルネイティブはこういうもんなの」

 カイニスが眉間を揉んでいる隙に、机に広げていた資料の恋愛小説や「わたしの考えた最高のシチュエーション集」ノートをそそくさと回収する。


「……この際だから言うけど、あんた本当に要領悪すぎ。ヒロイン突き飛ばすのに十回以上やり直すとか、本当に生き返る気あるの?」

「あ、あるわよ!」

 わたしは拳を握りしめて強く反論した。ふぅん、とカイニスが腕を組んで顎を反らす。


「あんたに任せてたら絶対にタイムリミットまでに間に合わないね。明日からは俺も演出に加わる」

 ずいと顔を寄せて宣言され、わたしは息を詰めて首をすくめた。


「いいか、この物語の完結条件を教えてやろう」

 目と目の間に突きつけられた指先を見ながら、小さく頷く。カイニスの指先がつつ、と下を向いた。


「エミルとセシリアの唇同士が触れ合うこと。これだけだ」

 わたしの上唇を指の腹がかすめた。思わず半歩下がってわたしは聞き返す。

「それは、事故チューもあり?」

「んなもん、キスさえしてくれれば編集でいくらでも誤魔化せる。多少無理やりでも構わん」


 じゃあわたしが今まで、ときめくシチュエーションを考えて一生懸命シーンを整えていたのは、何のためだったというのか。


「まあ、それが絶対に必要な条件ではないんだけど、少なくともキスシーンがあれば確実にハッピーエンド扱いになる」

「なんって雑なの……」

 カイニスは腕を組んで自信たっぷりに語る。悪役令嬢も真っ青なゲスな発想に絶句してしまう。


「よし、そういう訳だから早く寝ろ。俺ももう寝るし、朝まで時間遡行は使えないからな」

 絶句している間に勝手に結論づけ、ぱんぱんと背を叩かれる。わたしは呆然と立ち尽くしたまま彼の後ろ姿を見送った。


「なんて人……」


 とりあえず蹴破られた扉を直すための遡行申請は、きちんと通った。

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