第1話 業務委託は突然に
あっ、と思ったときにはもう遅かった。
高校に入って二回目の始業式で、クラス分けも発表される日だっていうのに、わたしは遅刻寸前だった。
高校は最寄りのバス停から五分ほどの好立地だけど、今日はひとつ手前で降りた。乗り合わせたおばあちゃんの鞄が破れてしまったから、バス停からすぐそこだというお宅まで荷物を運んできたのだ。
余裕で間に合うはずだったけど、マンホールの蓋が開いてるから市役所に電話をかけるだの、道端でパンを咥えた人にぶつかるだの、普通に信号に連続で引っかかったりだのと繰り返していたら、このざま。
脇目も振らず急ぎ足で歩いていたから、気付くのが遅れた。
ちいさな公園の角を曲がれば、大通りに出る。
狭い路地を早足で抜けながら、ててんと目の前をゴムボールが跳ねてゆく。
何の気なしにそれを横目で見つつ、時間を確認しようとわたしは上着のポケットからスマートフォンを取り出した。
(あ、LINEきてる)
ボールを追いかけて公園から飛び出した小さな子どもを目で追うのと、青信号を通過して速度を上げるトラックが近づくのは同時だった。
わたしは咄嗟にスマートフォンを放り投げて駆け出す。
「危ない!」
子どもの腕を強く引いた、直後、わたしは真横から強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。
***
「こんにちは、災難でしたね」
「……は?」
真っ白な床に手をついたまま、わたしは呆然とする。
年齢がはっきりしない白服の男の人が、笑顔でこちらを見下ろしていた。間違いなく知らない人だ。
「えっ?」
さっきまで、高校のすぐ近くにいたはずなのに、……トラックと衝突したはずなのに。
「ここ、どこですか?」
訳が分からずに周囲を見回すが、わたしと見知らぬお兄さんしかいない。上下左右を見てもまるで距離感のない、白い空間である。
制服や鞄もなくなって、真っ白なワンピースを着せられたまま裸足でへたり込んでいる。
(まさか下着まで……、わっ、変わってる)
襟元をつまんで中を覗き込み、わたしは顔を引きつらせた。
一瞬で移動し、服をぜんぶ着替えさせるなんて、どう考えたって普通の方法じゃ不可能だ。
人知を越えた、なにか奇妙な事態に巻き込まれたらしい。
わたしが一息ついたのを見て、謎のひとは静かに告げた。
「ここは、世界の狭間にある、どこでもない空間です」
「死後の世界、みたいな……?」
「……に、行く前のワンクッションみたいな」
なんだか、そんな気はしていた。嘘だと食い下がる元気もなく、わたしは言葉を失った。
ややあって、震える足で立ち上がり、真正面から指をさす。
「じゃあ、あなたは……神様という感じで」
初めて会いましたと恐縮するわたしに、彼はあっさりと手を振った。
「いえ、私はしがない中間管理職で、あなたの担当者です」
「……つまり、神様の部下というか……天使みたいな?」
「まあ、若干? そもそも神や天使という存在が、地球特有の概念ですから……うーん、どう説明したものかな」
腰に手を当てて考えこむ『担当者』に、わたしは戦々恐々とする。
一体どんな話が飛び出すのかと身構えていると、彼はおもむろに「たとえば、去年の秋アニメの」と、少し前に流行っていた大人気アニメのタイトルを出した。
「お好きですか?」
「す、好きですけど……。まさか、一話であんなに伏線が張られていたとは思わなかったし、何よりあの骨太な世界観が良くって……これ何の話ですか?」
「あの世界は実在します」
今度こそわたしは固まった。やはり頭がついてこないみたいだ。
何を言っているのか、分からない。死んだって聞かされてるのに、アニメのことを訊かれたって困る。
「それだけでなく、あなたが今までに見てきたフィクションの中には、実際に別の時空で起こった出来事を観測、編集したものが少なからずあります。地球では認知されていませんがね」
「じゃあ、あのアニメとか、映画とか……小説も?」
いくつかのタイトルを上げると、彼はあっさりと頷く。
「あなたが生まれ育った地球も観測対象ですよ。別の時空のひとつでは、あなたから見て隣町に住む高校生を扱ったラブコメディが空前の大ヒット中」
急に不安になってきて、わたしは眉をひそめた。
「つまり、わたしたちの世界はすべて、その時空によって作られたものだったということですか?」
「いえ、平行世界に優劣や上下はありません。互いに観測された範囲だけが、別の世界でフィクションとして語られて、範囲外、ほとんどは通常通りの営みが行われているだけです」
なんだか、分かるような分からないような話だ。「どう説明したものか」と悩むのも頷ける。
「それで、我々はそうしたフィクションを裏から支えるスタッフなんです」
わたしは再び勢いよく首を傾げた。「うーん」とまた唸って、彼が人差し指を立てる。
「主人公が持ち物を落とすようにタックルをしたり、ちょうど良いタイミングで雪を降らせたり、感動的なシーンに通行人が映り込まないよう交通誘導をしたり、差し迫った場面でなかなかエンジンがかからないように細工をしています」
「たしかに! 見たことある」
手を叩いて同意すると、嬉しそうに三回頷いてくれる。
「ところが、この業界、万年人手不足でして……」
そう言って、担当者はいきなり腰が低くなった。
「アルバイトという形で、外部のひとにお手伝いをお願いすることがあるんです」
日本風のお願いポーズ、と言いながら両手を合わせてこちらを見る。
「どうでしょう……あなたから見たファンタジー世界に生まれ変わって、悪役のご令嬢になってみませんか?」
ずい、と顔を寄せられて、わたしは思わずたじろいだ。
(悪役令嬢バイト!?)
響きだけ聞けばとっても面白そうだ、けど……。
(さすがに前世に未練ありありなんですが!)
こんなんでも充実した高校生活を送っていたのだ。これから二年目に突入して、ますます楽しいはずだった。ぱっと切り替えて悪役令嬢ライフという訳にはいくまい。
(例のアニメのスピンオフ映画だって見れてないのに!)
――でももう戻れないなら、来世に気持ちを切り替えた方がいいんだろうか?
ふいに寂しさが込み上げてきて、わたしは立ち尽くした。
本当なら、今ごろ新しいクラス担任に関して、友だちと失礼な品評会でもしているはずだった。
あのとき子どもを助けたのは間違いじゃなかったと思ってるけど、死ぬつもりだった訳でもない。
やりたいことだってたくさんあった。友達と遊びに行く約束だってしている。見たいものがいくらでも残っている。
こんなところで、死ぬはずじゃなかった。
(あとほんの数秒でいいから、やり直したい……!)
ぽろりと涙がこぼれて頬を伝う。慌てて手の甲で拭ったけど、気づかれたはずだ。
「――こうした依頼を持ちかける相手には、いくつかの条件があります」
担当者が言う。
「転生先の年齢に近いこと。柔軟な対応力があること。事故等の理由で急死したこと。その他、暴力沙汰を起こさないなど色々。でも最も大事な条件は、」
まっすぐな目が、わたしを見つめていた。
「前の世界に戻りたいという、強い意思があることです」
ゆっくりと微笑む顔を見ながら、わたしの心臓が予感にどくんと跳ねる。
どういう意味?
聞くより先に、彼ははっきりと告げた。
「あなたが無事に悪役を全うし、学生であるヒロインとヒーローが卒業までに結ばれたら、あなたを事故直前の時間、場所に戻して差し上げます」
「し……失敗したら?」
「失敗した場合は、転生先から戻れず、一生をそちらで終えることになります」
「成功したら、わたし、日本に生きて返れるんですか?」
思わず腕を掴んで念を押すと、力強く頷かれる。
「約束いたします」
それなら、とわたしは拳を握った。
この人の言うことを信用する根拠なんてない。何をさせられるのかだって分からない。でも、生き返れる可能性があるなら……!
「やります! わたし、立派な悪役令嬢になってみせます!」
大きく息を吸って、わたしはどんと胸を叩いて宣言した。
「三日で主人公たちをくっつけます!」
***
わたしがこの世界に来て、既に半年近くが経つ。
進捗状況は、芳しくない。
釘が浮いて外れかけていた鶏小屋の金具を付け替えながら、わたしは遠い目になる。
(悪役令嬢とは、一体……?)
明るいグレーを基調とし、藍色のラインの差し色が洒落た制服は、この王立学園のシンボルだ。
特に女子生徒の制服はショートジャケットに膝上までのジャンパースカートが実にかわいらしい。
波打つ金髪と強気な赤眼が特徴的な公爵令嬢サフィーナも、いつも品良く制服を着こなしている。
……それなのに。
(どうしてわたしは、そんな可愛い制服のポケットに金づち突っ込んで、口に釘をくわえて地面に這いつくばっているの……?)
理由は単純。
この鶏小屋を修繕しないと、あのポンコツ王子が逃げたニワトリに驚いて転倒したあげく足首を痛め、いざってときにヒロインのセシリアちゃんを助けられないからである。
虚無の顔をしながらも、トンテンカンと小気味よく釘を打つ音だけが中庭に響く。
わたしは中学校の技術の授業で棚を作ったことがあるから釘が打てるけど、普通の公爵令嬢は無理だと思う。シナリオ担当と演出担当の人は、日本の義務教育に感謝するべきである。
扉の枠に嵌められた金網が破れている箇所に応急措置として板を当てて塞ぐと、既に逃げ出していたニワトリを追いかけ回しては捕まえ、小屋の中へと放り投げる。投げるのに、勝手に羽ばたいて頭上を越えてまた逃げてしまう。
「……あんたたち、わたしが料理人だったら、明日にも全員ローストチキンにしてやるんだからね」
何も知らずにコッコと鳴いているニワトリを抱えて、裏庭の隅々と飼育小屋を行き来すること七回。
「おわった!」
道具箱を用務員室へ返して、わたしはよろよろと校舎へと急いだ。
時間遡行。
それが、ドラマチックな物語を演出するためのタネらしい。
こちらが指定した簡単な動作と、【遡行申請】の宣言、戻りたい時間を明言することで、指定した時点からやり直すことができるのだ。
とはいえ、こちらが行うのはあくまで「演出」。
出来事を決定的に歪めることは許されておらず、大きな事故などを越えて遡ったり、丸一日以上戻ることは不可能だという。
でも、重大な事故でもなければ同じ時間を何度もやり直すことは可能なので、ここぞというときは何度だって繰り返してベストなシーンを狙うというわけ。
(早く戻って、セシリアと王子を接触させないと!)
お互いの時間割や一日の動線は把握済み。
今日、二人が廊下で鉢合わせる場面はここしかない。
(わたしがお膳立てしないと、あの二人、なんだかもじもじするばかりで一向に進展しないんだから!)
人気のない渡り廊下をひた走る。こんなに汗水垂らすことになるなんて思わなかった。わたし、誇り高い公爵令嬢サフィーナ様なのに……!
ようやく本校舎へ辿り着いたときには、膝ががくがくと震えていた。気取られないように背筋を伸ばし、わたしは額の汗をそっと拭って廊下へと歩み出る。
わたしの姿に気付いて、数人の女子生徒がご機嫌うかがいに寄ってきた。彼女らを適当にあしらいながら、わたしは周囲を見回す。
(確か、あの子は西棟の方から……)
教科書を抱えて階段を上がってくる顔を見つけて、わたしは階段上から居丈高に「ごきげんよう、セシリアさん」と呼びかけた。
はっと息を飲んで、セシリアがこちらを振り返る。廊下の中ほどで手すりに手を添えたまま、じっと身構えている。
「……ごきげんよう、サフィーナさま」
「少し、お話をいたしましょう」
艶然と微笑んで小首を傾げる。セシリアがぐっと唇を噛んでこちらを睨みつけた――そのとき、背後から肩を叩かれる。
「サフィーナさま、お膝にニワトリの羽根が……」
「え!?」
背後に控えていた取り巻きガールに小さな声で指摘され、わたしは慌てて膝を払った。綺麗にしたと思ったのに!
セシリアは目を真ん丸にして呆気に取られている。これでは悪役令嬢の威厳が台無しだ。ごほんと咳をして、わたしは改めてセシリアに向き直った。
「セシリアさん、あなた……」
言いがかりをつけようとして、わたしは言い淀む。わたしは別にセシリアちゃんに文句はない。
腕を組んで顎をそらし、苦し紛れに吐き捨てる。
「……随分と、かわいらしい髪飾りですこと」
「これは、」
セシリアが息を飲んで後ろ頭を押さえた。彼女はいつも、控えめにきらめく素敵な銀色の髪留めをしている。
「いくらサフィーナさまのご命令でも、これを差し上げることはできません」
「べつに、要らないわよ。そんな貧相でみっともない髪飾り」
せせら笑うと、セシリアの顔色が変わった。
「これは、曾祖母の代から伝わる大切な髪飾りで、私の生まれ育った町の伝統工芸品です。貧相でみっともないという発言を取り消してください」
けして出しゃばることなく、人との対立を避けようとするセシリアが、こちらを睨みつけている。
誇りを守るためなら公爵令嬢相手でも毅然と立ち向かう、その姿が気高く美しい。まさしくヒロインの風格!
ふん、と顎に手を添えて、にやけ面を隠す。
(セシリアちゃん、推せる……!)
心優しく、芯が強くて、あと色々と受難。わたしは心底感動していた。
ついでに自分の発言が小悪党すぎて悲しくなる。
(でも、ここでよほど酷いことを言っておかないと、お優しい王子が婚約者に義理立てしようとするから……!)
心を鬼にして、さらに思いやりのない言葉を繰り返す。セシリアちゃんの目に涙の膜が張るのを見下ろしながら、わたしは目の端で黄色いノートの男子学生が通り過ぎるのを確認した。
ゆっくりと頭をもたげ、窓から見える時計台に目をやる。
――あの男子学生が向かいの教室に入ってから約5秒で、分針が動く。それから11秒で王子が角を曲がってくる。
タイミングを間違ってはいけない。
(今度こそ、決める!)
「わたくし、本当にあなたのことが気に食わないの」
一歩前へ出て、わたしはセシリアの肩に手を置いた。
「自分でも分からないくらい、あなたのことが憎らしくてたまらないのよ」
サフィーナという少女は、生まれたときから全ての我儘を許され、手に入らないものはなく、この世のすべてを思いのままにできると思ってきた。
婚約者であるエミル王子も当然自分のもので、将来の王妃の座も自分のために用意されていると信じて疑わなかった。
そんな王子が、ぽっと出の田舎娘に目を奪われ、あまつさえ見たことがないような笑顔を見せているのだ。
王子へ抱いていた感情が、恋だったのか支配欲だったのか、今となってはもう分からない。
できることといえば、ただただ癇癪を爆発させるだけ。
それが、わたしが生まれ変わった悪役令嬢サフィーナだった。
(……が、今は違う!)
いまのサフィーナの身体を支配しているのは、この、わたしである!
「あなたなんかっ、……消えてしまえばいいのに!」
金切り声で叫んで、肩をつよく突き飛ばす。セシリアがか細い悲鳴を上げて、階段を踏み外して落ちてゆく。
「危ないっ!」
セシリアが床に打ちつけられる一瞬前に、腕が伸びてくる。床にへたりこんだまま呆然とするセシリアを抱き寄せて、わたしの婚約者殿がこちらを睨みつけていた。
「どういうつもりだ、サフィーナ」
エミルが厳しい声を発する。
公明正大で、優しすぎるのが欠点の王子様が、わたしを敵と見定めている。視線だけでそれが分かる。
(これが見たかった……)
わたしは腕を組み、無言で天井を見上げた。つつ……と涙がこみかみを流れてゆくのを感じながら目を閉じる。
(ようやくだわ)
ここまで本当に長かった。
初めは学食の割引キャンペーンにつられてセシリアがこちらに来てくれなかった。
学内中のポスターをひっぺがして階段まで誘導しても、王子とタイミングが合わない。
何度も繰り返してタイミングを合わせたと思ったら、王子が鶏につまづいて捻挫してる。
(頑張ったわ、わたし……)
しみじみと頷くが、思い起こされる記憶にまともなシーンがひとつもない。
死に物ぐるいでポスターの画鋲を引っこ抜き、タイミングを図るために秒単位の調整を繰り返し、ニワトリに襲われながら釘を打つところばかり浮かんでくる。
感慨にふけるわたしに、エミルはさらに声を大きくした。
「黙っていないで、何か答えたらどうなんだ!」
「どうもこうも……その子がわたくしの道を塞いでいたから、どいてもらっただけですわ」
わたしは欠伸をする素振りで目元を拭いながら視線を戻した。
エミル王子は実に王子らしい出で立ちである。周りの有象無象と同じ制服を着ているはずなのに、まるでオーラが違う。ように見える。
(実際はたぶん、見えないところでスタッフがライト当ててるんだろうな……)
でも王子が美形なのは本当だ。
さらりとした金髪。小顔で高身長。引っかかりのない美声。優しげな目元は、いまは厳しくしかめられている。
「サフィーナ、君の言動は目に余る」
少女を腕に抱いて、彼はついに覚悟を決めた眼差しをしていた。唇を引き結ぶエミルを、セシリアが声もなく見上げる。
「前にも言ったはずだ。君がその態度を改めないのなら、僕にも考えがある」
「考えって?」
わたしは口角を吊り上げたまま、挑発するように小首を傾げた。
(顔と頭は良いのに、ヘタレでドジでおまけに足元が覚束無い優男なんて、わたしが演出してあげなきゃ完璧な王子に見えないわよ)
待ち構えるわたしの前で、エミルは力強く宣言した。
「君のご両親や王家を交えての話し合いになる。婚約破棄を視野に入れた、話し合いだ」
「公爵家を敵に回して、あなたが無事に西部大公の座につけるとでもお思いですか?」
「あまり僕を舐めるなよ、サフィーナ」
公爵家の力など借りずとも、僕は自分の道は自分で切り開く。
そう言い放ったエミルを見下ろし、わたしは一度まばたきをした。無言で階段を降りると、階下でエミルとセシリアが身を寄せ合う。
すれ違いざま、わたしはセシリアをじろりと見下ろした。
「……覚えていなさい。お前、二度と故郷に戻れるとは思わないことね」
低い声で吐き捨てて、わたしは静かな足取りでその場を離れた。
遠巻きに様子を見ていた生徒たちが、一斉に道を空ける。わたしは口の端に力を込めたまま、なにも言わずに廊下の中央を進んでゆく。
口角が上がりそうになるのをこらえながら、今にも大きな声で喝采を上げたいのを我慢しながら、あそこの角まで耐えろと言い聞かせて足を早める。
もうすぐそこである。あそこを曲がったら、もうすぐに寮の部屋まで一目散にダッシュして、靴も脱がずにベッドにダイブしてしまいたい。
(爽快! 開放感! 達成感!)
必死に怒り顔を保つわたしの耳に、ぼそりと小さな呟き声が入ったのはそのときだった。
「やーっと終わったよ、何回繰り返したと思ってんだ」
瞬間、わたしは弾かれたように振り返った。
(いまの、)
わたしが過ぎ去ったあとの廊下には、やれやれと言わんばかりに疲労感が溢れている。生徒たちが各々の動きへ戻ってゆくのを、わたしは廊下の端で呆然と見つめていた。
(男子生徒の声だった)
怪しい動きをしている生徒は、いない。でも、この中に……。
(この中に、わたしが同じ場面を何度も繰り返していることを知っている人がいる――?)
「どうしました、サフィーナさま」
すぐ横から声をかけられて、わたしは飛び上がった。気配がしなかった。
そこにいたのは、王子の友人であるカイニスである。金髪碧眼のエミルとは対照的に、目を引くほどの特徴もない容姿に、黒い髪。よくエミルの近くにいるが、特にこれといって会話をしたこともない、言わば腰巾着だ。
脇役。ほんとうに完璧な脇役。それだけに、「あり得る」。
「あ、あなた……」
わたしは後ずさりをして、カイニスを見上げる。震える手で指をさすと、彼は首を傾げた。
この、白々しい態度! わたしは確信をもって告げる。
「……あなたも、『こっち側』なのね!?」
長い沈黙が広がった。
「えっと……どっち側ですか?」
違ったらしい。
心配そうな目を向けられ、わたしは真っ赤になった。
「何でもないわ! あなたもあの田舎娘を慰めてきて差し上げたらいかが!?」
捨て台詞を残して、わたしは慌ててその場から逃げ去る。なんだか疲れているみたいだ。
(そんなこと、ある訳ないもんね)
すたこらと寮へ急ぐ背中に、ずっと視線を感じたのは、たぶん気のせいだろう。
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