紅い記憶⑤

「でも……今日はありがとうと……言っておこうかしら」


 僕が驚いた顔で彼女を見ると、彼女は苦々しい表情で僕を見つめていた。どうしたの? なんて聞くのも野暮なように感じて、僕は誤魔化すように咳払いを一つする。


「それで、僕に言わなければならない話って?」


 僕がそう尋ねると、束沙は息を小さく吸って、呼吸を整える。まるで、何かを決意するかのように。


「私達吸血鬼は、十八歳の誕生日を迎える一週間前から、初めて愛した人間から特別な香りを嗅ぎ取るようになる。それは極上の料理にも似た、とても美味しそうな香り」


 そう言って彼女は、白くて細い指で僕の事を指さす。


「私は貴方からその匂いを感じるの」


 そう話す彼女の目はどこか虚ろで、そして、怪しく光っていた。


「あのね。来週に私は十八歳の誕生日を迎えるのよ」


 そう言って彼女は徐々に、僕へと近づいてくる。赤子が這うよりもゆっくり、けれども確実に僕の方へと。


「私は貴方を喰らわなければ消えてしまう。貴方との子供と一緒に」


 彼女は僕に抱きつくと、耳元でそう囁く。熱い吐息混じりのその声と、ふわりと漂ってくる彼女の甘い香りは、僕をくらくらとさせる。


「僕を…………食べるの?」


 僕の質問に彼女は目を細めると、「えぇ」と怪しく笑いながら答えた。


「何時貴方を喰らわなければいけないかを言わなかったのは、私が悪いと思うわ。でも、」


 彼女はそう言うと、僕に再び抱きついて、軽く僕の耳を噛んでから、耳元で言葉を続ける。


「美味しそうな飛鳥さんも悪いと思うの」


 僕は途端に怖くなって、ぎゅっと強く目を閉じる。けれど、束沙はそれを嘲笑うかのように僕の瞼をゆっくりとこじ開けた。


「でも、まだ食べない」


 束沙は僕の目を覗き込みながらにたりと、気味悪く笑う。僕を映す彼女の瞳はどこまでも澄んでいて、そのことが僕に一層の恐怖を与える。


「貴方の怯えてる姿。すっごくそそられるの」


 恍惚の表情で僕を見下ろしながらそう言う彼女は、いたく蠱惑的な魅力を持っていた。


「飛鳥さん。あなたもまさか、今日消えることになるなんて思わなかったでしょう?」


 彼女の言葉は僕の脳味噌を溶かすほど甘く、そして、僕を殺してしまうほど苦かった。


「ぼ、ぼくは……」


 それより先の言葉が発せられることはなく、ただ、間抜けに開かれた僕の口からは息が零れただけだった。


「生きたい?」


 彼女の問いかけに僕は黙って首を横に振る。


「じゃあ、死にたい?」


 その言葉にも僕は首を横に振る。


「優柔不断な人」


 彼女の目からは急に熱が引いていき、あるのは僕に対する侮蔑に満ちた視線だけだった。


「僕は…………生きたくもないし、死にたくもない」


 気が付けば発されたこの言葉は、僕の本心なのだろうか。矛盾に満ちた言葉は空中に漂い、やがて霧散して消える。


「そんなの……私だってそうよ。どうして生きなければならないの? だなんて毎日のように私の頭の中をかき乱してる」


 彼女は気持ち悪い、と吐き捨てるとすっかり冷めてしまった僕の紅茶を一気に煽る。


「ねえ、どうして私は吸血鬼なのかしら?」


 束沙は僕の後ろにある、窓の外を眺めながらそんなことを呟いた。

「え?」


「私の見た目は人間の貴方と何の違いもないわ。でも、それ以外はきっと全然違う」


 僕は彼女の顔を見ることができなくて、彼女の持つ空っぽになってしまったマグカップの中を見つめ続けた。


「吸血鬼の私は、人の血を飲まなければ餓死してしまう。貴方とは違うこと」


 そう言う彼女の声は少しだけ震えていて。僕は驚いて顔を上げる。そこには、深く俯いている彼女がいて、少し動揺してしまう。俯いている束沙を、僕は今まで見たことがない。


「それに。きっと貴方に愛してもらいたいと思う気持ちは、他の人間よりも強いわ」


 彼女はぎゅっと強く自らの手を握る。僕は彼女が何を思って言っているのか分からない。


「貴方を喰らわなければならない私を。初めて愛した人間を喰らう、蟷螂のような吸血鬼を」


 彼女はまっすぐに僕の目を見つめる。今まで見せてきた、どの感情とも違う思いを込めた瞳が僕を射抜く。


「愛して、愛して、愛して……私を愛して」


 そう瞳に涙をためて言う束沙の声は掠れていて。この感情が、彼女の根本なのだと分かる。すり切れて消えてしまいそうな彼女の本心。


「どうか……」


 彼女は唇を強く噛んで、大粒の涙が頬を濡らす。彼女が僕に抱き付こうとしないから、僕もまた彼女に抱き付こうとしない。今、そんなことをすれば彼女はきっと自ら死を選ぶ。なんとなくだけれど、僕はそう思ってしまう。

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