紅い記憶③

 彼女の家は県の中心街にあると言うのに、僕の住んでいるようなマンションではなく、立派な一軒家だった。けれど、今、この家には彼女しか住んでいない。理由は知らないし、知ろうとも思えなかった。


 僕と束沙は幼なじみだけれど、一人で暮らしていることを知ったのは初めて彼女の家を訪れたとき。言い方を変えると、僕と彼女が交わった日でもある。


「いらっしゃい」


 束沙はドアを開けて、少し微笑むと、僕を家の中へと招き入れた。

「先に私の部屋に入ってて貰えるかしら? 飲み物を持って行くから」


 彼女はメモを伝えるように僕にそれだけ言うと、リビングへと続く扉を開いて、その奥へと入ってしまった。


 一人になってしまった僕は、束沙の部屋に行く以外に選択肢を見つけられず、黙って彼女の部屋へと向かう。階段を上るために踏み出した足は嫌に重く、それだけでうんざりとさせられる。


 束沙の部屋の前に辿り着くと、いないのは分かっているけれど、一応礼儀として三回ほど軽くノックする。ゆっくりと扉を開くと、物の少ない部屋が僕の視界を埋め尽くす。彼女の部屋は片づいていると言うよりは、物が少ないようで、それがまた彼女の性格を表しているように思えた。


 彼女の部屋を訪れるのは実に二ヶ月ぶりだったかな。彼女の丁寧に整えられたベッドのシーツを見て、ふとそんなことを考える。


 束沙が僕の家に来たことは幼い頃から何度もあるが、僕が彼女の家を訪れたのはこの前が初めてだった。それはなんとなく彼女が家に来て欲しくなさそうで。そんな理由から僕は彼女の家を訪れなかった。


 束沙は見た目の美しさや、身に纏う雰囲気から、いつも一人で、話し相手と言えば僕だけだった。恋人同士とは違う微妙な距離感。そんな関係が僕にとっては居心地がよく、僕のずっと抱き続けていた淡い恋心も言い出せないでいた。


 そんなある日。つまり、彼女の家に初めて訪れた日に彼女は突然僕に言った。

『私と付き合って欲しい。そして、私との間に子どもをもうけて欲しい』


 理解が出来ないわけではない。ただ、嫌だとは言わせぬ雰囲気が彼女を包み込んでおり、僕は黙って首を縦に振ることしかできなかった。


 彼女にベッドに押し倒され、行われたそれは、淡々とした行為だったことは覚えている。肉と肉がぶつかって弾ける音。それに僕の耳元で聞こえた彼女の甘い、狂おしいほど甘い吐息混じりの喘ぎ声。それだけが今も頭に残っている。でも、そこに快楽があったかどうかなんて覚えていない。


 ただ、子どもを作るだけの生産的な行為。


 まだお互いの愛を確認していないのに及んだ突発的な行為。


 自らが父親になるなんて自覚もないのに行った身勝手な行為。


 どうして彼女は僕と交わろうと思ったのだろうか。


「初めてにしては上手かったでしょう?」


 そんな考え事をしていると、ふいに聞こえた彼女の声で僕は現実に引き戻される。視線をシーツから扉の方に向けると、束沙が微かな笑みを浮かべながら、暖かそうな湯気が立つマグカップを二つ持って立っていた。


 僕は何も答えることが出来ずに、ただ黙って彼女を見つめ続けることしか出来なかった。


「まあ、いいわ」


 彼女は自虐的にも似た、冷めた笑みを浮かべると、僕に何処か適当な場所に座るように勧める。僕はその言葉に甘えるように床に敷かれた座布団に腰かけた。


「まるでつがいの様ね」


 束沙は僕の前にことりと湯気の立つマグカップを置くと、そんなことを言った。僕はその言葉の意味を上手く咀嚼できずに、片方の眉根を上げることで返事をする。


「一端の夫婦みたいね、ってことよ」


 そんなことも分からないの? とでも言いたげな視線を僕に向けると、束沙は重い息を吐き出す。


「あぁ。なるほどね」


 僕はその言葉の冷たさに思わず吐き気がしてしまう。夫婦だって? 僕はもうすぐこの世界からいないことになってしまうのによく言えたものだ。


「あら。貴方だって了承してくれたことじゃないの。まさか今更『嫌だ』とでも言うつもりなのかしら?」


 相変わらず鋭い人だ。僕は肩を竦めることで話を有耶無耶にすると、マグカップに注がれた紅茶を一口啜る。苺のフレーバーなのだろうか。苺を模したお菓子のような甘くて強い匂いと、飲んだことのない味に少し驚いてしまう。


「僕は……君が吸血鬼で、それでいて僕を喰らわなければ消えてしまうってことを、君に教えてもらったから知っている。別にそれで構わないし、後悔があるかと言われればないかな」


 僕は嘘混じりの感想を、紅茶の水面にぽつぽつと吐露する。まだ湯気の出ているそれの動きは、少しばかり薄気味悪く見えて、それから逃げるように僕は目を閉じる。


「あら、それは少し意外だったわ」


 彼女はきっと僕と同じものを飲んでいるのだろう。それを啜りながら目を大きく開くと、驚いたようにそう言った。少しも驚いてなんていないくせに。僕の気持ちなど、全て見透かしているくせに。


「別にやりたいこともないし。それに……」


「それに?」


 彼女はきょとんとした顔を横に傾けると、僕に続きを促す。僕は一度紅茶を飲んで口に中を湿らせると、ゆっくりと口を開く。


「少しだけでも、君と恋人ごっこが出来たからいいかな」


 これは紛れもない僕の本音だった。ずっと憧れていた女の子と付き合うことが出来た。それだけでも僕の人生は大成功と言っても良いのではないだろうか。

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