参 救済と希望のビギニング

 阿久津あくつそう。武の小学校の時の同級生。そして、武にとって二度と会いたくなかった存在。


 彼は昔から問題児で根っからの悪党だった。彼に困らされ、悲しまれた者は数知れず。武もその内の一人だった。


「湊君、こいつ誰?」

「俺の小学校の時の同級生だよ。久し振りだなぁ? 元気にしてたか?」


 阿久津が馴れ馴れしく肩を組んでくる。祥太や花音も同じ事をやっていたが、二人と違って力一杯掴んでくるものだから彼の爪が武の肉に食い込んでくる。痛みに顔を引き攣らせながら悪漢の方へと目線を寄せると、下衆た笑みを向けていた。


「昔のよしみだ。仲間にしてやる。丁度ゲームを思いついたんだから一緒にやろうぜ」

「げ、ゲーム、ですか?」

「そうだ。肝試しゲームだ。お前、Ⅰ組の佐藤祥太にをぶっかけろ」


 小学校の時と同じだ。標的を決め、指名された誰かは悪戯を仕掛けなければならないという手法。その中心になっていた阿久津の命令は絶対であり、それを拒否してしまった武は小学校を卒業するまで続いてしまった。


「これは……?」

「排水路から汲んできた汚染水。上からぶっ掛けてやろうかと思ったけど、お前が居てくれて助かったぜ」


 卒業と同時に引っ越す事になり、阿久津の魔の手から逃れる事ができたが、武の心に刻まれた傷は深く、今の今まで癒えなかった。高校になって生まれ変わったつもりで頑張ろうと思った。その矢先にこれである。


「言う事聞かなきゃどうなるか……分かるよな?」


 阿久津は武の肩を優しく叩きながら忠告し、笑い声をあげながら仲間達と共に下校していった。


 誰も居ない空間で一人佇む武。手渡されたバケツに溜まった濁り水に反射うつる自分の顔は、酷く歪んでいた。



 翌朝。あまり寝れなかった武は覚束ない足取りで教室に向かうと、祥太達が先に登校していた。二人は武の姿を見るなり挟撃してきた。


「転入生。昨日はどうしたと言うのだ。急に何も言わずに虚空ヴォイドへ潜行しているものだから心配したのだぞ。主にローゼス」

「セイヴァー!! 余計な言葉は慎むがいい!!」

「ご、ごめんなさい。ちょっと祖母の危篤の連絡が来たものですからつい……」

「そうか、なら致し方あるまい。貴公の御祖母に神の御加護を祈ろう」


 武はその場凌ぎの嘘を吐く。こんな白々し過ぎる嘘で騙せるものかと思いきや、二人はあっさり信じてしまい、それ以上何も追及する事は無かった。


 ふと何か強烈な視線を感じたので後ろを振り返ってみると、廊下から阿久津達の姿が見えた。昨日の事を見逃してくれそうにもなさそうだ。


 ――言う事聞かなきゃどうなるか……分かるよな?


 どうしても逆らえない。逆らったらどうなるかがからだ。自分には戦う力も無いし勇気も無い。弱者である自分は屈する他無いのである。


「……セイヴァー君。ちょっと君に依頼したい事が有るんですけど、いいですか?」

「ほう? 救世の聖剣を必要とするか。詳しく聞こうではないか、依頼主クライアントよ」

「此処じゃ言えない事なので……出来れば放課後の校舎裏まで来てくれませんか?」


 祥太にだけ話しているつもりだったが、常に彼と一緒に居る花音が黙っている筈もなく、いつの間にかポーズを取りながら出張ってきた。


「クックック! 最高機密トップシークレットというワケか! 久方振りに我の封印されし右眼を開放する時が――!!」

「すみません……。今回はセイヴァー君一人で来てくれませんか?」

「なっ!! 貴様ァ!! 我とセイヴァーは一心同体!! それを引き裂くとは一体どういう料簡だ!!」


 挙げに挙げていたテンションと共に花音が吼える。柄にも無く激昂している彼女を見兼ねた祥太は宥めようとしていた。


「ローゼス。オマエは救世の聖剣の殿しんがりの命を全うしろ。オレは終わり次第直ぐに帰還する。……いいな?」

「……心得た、セイヴァー」


 やはり彼女は祥太の言う事は素直に聞くらしい。取り敢えず第一関門は突破出来たと言えよう。後は用意されたあれを無慈悲に浴びせるだけである。そう考えると、思わず身が震えたのであった。



 放課後。指定された校舎裏に祥太は先に到着していた。晒け出している彼の背中はあまりにも無防備で、あまりにも無警戒であった。


 この学校を平和に過ごす為、自分の安寧の為。武は汚染水が入ったバケツを提げてゆっくりと肉薄する。徐々に距離は狭まっていき、頭から覆い被せる事が出来る程の間合いにまで接近する事が出来た。


 ――はやくやれ。やるんだ、武。あんな惨めな思いは二度としたくないんだろう? あんな痛い思いを味わいたくないんだろう? 相手は他の生徒からも馬鹿にされて、舐められて、いい様にこき使われてる奴だ。これを浴びせたって何の支障も無いに違いない。


 ……それでも、そんな変な奴だけど、変な事ばっかり言ってるけど、自分のやってる事に迷いが無く、真っ直ぐで、ちょっとばかり格好良いとも思える人。僕はそんな人を犠牲にしようとしているのか? そんな僕の嘘の依頼を快く引き受けようとしてくれる、そんな人の善意を踏みにじろうとしているのか? 僕は……! 僕は……!!


「どうした? やらないのか?」


 慈悲交じりの声色によって武は我に返った。目の前には此方へと振り返っている祥太の姿が見えた。激怒している訳でもなく嘲笑している訳でもなく、いつもの毅然とした面持ちで此方を見ていたので、武は思わず持ち上げていたバケツを下げてしまった。


「どう……して……」

「お見通しだ。キサマがしようとしている事も、昨日の時点でキサマと阿久津が話していた内容も。……無論、ローゼスにもな」


 後ろの茂みに隠れていた花音が飛び出し、武の背後を取った。朝の時と同じように挟み撃ちの形となる。


 ――嗚呼、僕の高校生活もこれでお終いなんだ。そう考えると武は力無く座り込んでしまった。


「……僕の事、煮るなり焼くなり好きにしていいですよ。もう僕は終わりですから」

「待て。終焉へ向かうには些か早過ぎる。聞かせてくれ。キサマの全てをな」


 ――何を言っているんだろうか、この人は。騙して、汚そうとしている人間に事情を話せなどと。また嘘を吐かれて、逃げられる事だって考えられるのに。


 そんな武の心情とは裏腹に、今までの事を白状した。阿久津に虐められていた事。阿久津に逆らえない事。自分は無力で、情けなくて、端から見ればちっぽけな問題も解決する事が出来ない弱い存在なのだと。


「僕は……君達の様に善人にもなれないし、阿久津の様に悪人にもなれない……半端者なんです……」


 武の全てを聞き終えた祥太。すると男は近くにあったバケツを手に取り、勢いよく自分の頭目掛けて汚染水を被ったのだった。これには花音も武も驚愕する他無かった。


「何やってんの祥太!? ばっちいよ!!」

「……田中武。オレの名を憶えているか?」

「……セイヴァー……ブレイド……」

「そう!! オレは闇の輪廻を斬り裂きし聖なる剣、セイヴァーブレイド!! オマエが闇の輪廻から抜け出せないのならばオレが引っ張り出してやる!! オマエを救う救世主になれるのならば泥水なぞいくらでも被ってやる!! しかとその魂に刻みつけておけ!!!」


 全身濁水まみれになってもなお、祥太の双眸は鋭く、真っ直ぐで、穢れ無き光に満ちていた。その瞳と共に放たれた渾身の叫びに心打たれた武は思わず涙を零した。


「もっと早く……君達に出会えてたらどれほど良かった事か……」

「……今からでも遅くはない。我もそうだったからな」

「それってどういう――」

「お喋りは此処までだ」


 徐々に大きくなっていく足音が聞こえてくる。後ろを振り返ってみると、阿久津が此方へ接近しようとしていた。


「随分カッコよくなったじゃねーか佐藤」


 汚れ切った祥太を嘲笑する阿久津達。それでも男は目線を逸らす事も表情を変える事もない。悪に怒りを覚え、心を燃やしている姿が其処にあった。


「どうやらオレはキサマの愚かさを見誤っていたようだ。裁きジャッジを与えなかった事を反省している」

「ハッ! カッコつけてんじゃねーぞ!! 田中! 今度は佐藤を思い切り殴れ!!」


 この期に及んでも阿久津は自分の手を汚さず、他人を脅して人を傷つけようとしている。ふと横に居る祥太を見てみる。目が合った男は何も言わずに静かに頷いた。

 どうしたいか自分で決めろ。そう言いたいのだと理解出来た。


「……ません」

「ああ?」

「お前みたいなクズ野郎の言う事なんか、僕は絶対に聞きません!!」


 飼い犬に手を噛まれるとは思いもしなかったらしい。阿久津の顔が怒りで紅潮していた。その場の勢いのままで言ってしまった、と武は後悔し顔を蒼白させた。


「見事だ、武。後はオレ達に任せておけ」

「調子に乗ってんじゃねぇぞ弱虫ヤローが!!」


 怒り任せに大きく踏み込み、武の顔を殴りかかろうとしていたが、祥太が前に出て盾となる。

 危ないと思った瞬間、敵の前に立ち塞がった花音が掛け声と共に掌底を一発入れる。すると阿久津の巨体が悲鳴と共に吹き飛ばされていた。


「な、えっ、えええ!?」

「言い忘れていたがローゼスは強いぞ。……まだ喧嘩やるか?」

「……ケッ! そんな陰キャ野郎どうなったって別に構わねーよ!」


 阿久津は制服に付いた砂を払いながら捨て台詞と共に退却していった。武の平穏な高校生活は二人の手によって守護まもられた。本当に凄い二人だ、と認識を改める必要があった。


「……セイヴァー、戻るぞ。我らが結集せし救世の聖剣サンクチュアリへ」

「ああそうだな。……その前に、不浄を、墜とせし、水精霊ウンディーネの住処へ、いざなわれているからっ……!! 先に失礼するっ……!!」

「祥太の馬鹿!! 格好つけて汚染水なんて被るからだよ!!」


 祥太は苦痛の表情と共に腹を抱えながら走り去っていく。花音はそんな向こう見ずな男に対して怒鳴りながら追いかけていく。皆はいつも通り二人をただの格好つけの中二病だと馬鹿にするのだろう。そんなの、勿体無いと感じた。


「……全く、二人共格好付かないんですから」


 この二人の様になりたい。そう決意を秘めた武は救世の聖剣に入る為、祥太達を追いかけていくのであった。

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