泡沫⑤
次の日から、二人は毎日遊ぶようになった。けれど、シレーナは決まって夕日が沈む前には家へと帰ってしまったのだけれど。
「ねえ、どうしてシレーナは太陽がいなくなる前に帰っちゃうの?」
ある日エルザが何となしに訊くと、シレーナは困ったように視線を泳がせた。
「それは……」
シレーナは、近くで二人を見守っているルカに視線だけで助けを求める。
「家の決まりごとなのです。一応は貴族の家系。少しばかり決まりごとには厳しいのです」
「ふーん。それなら、仕方ないね」
エルザはそう言って、無邪気に笑った。そんなエルザを見て、シレーナも小さく笑う。
――そんな日がずっと続くと思っていた。
「ねえ、もう少し遊ぼうよ」
黄昏時を迎える少し前。エルザはシレーナにそんなことを言った。
「で、でも……」
シレーナは不安げに視線をキョロキョロと動かすが、どうやらルカは今日は非番だそうで、この場にいなかった。
「一日くらい大丈夫だよ。それにシレーナが怒られそうなら、あたしも一緒に怒られてあげる。だから、ね?」
エルザの言葉に、シレーナはまだ不安げにしているが、やがて小さく頭を縦に振る。
「うん。今日だけ。今日だけならいいわよね?」
エルザは彼女の言葉に満足げに頷くと、シレーナを連れて、山奥に歩き出そうとする。
「何処へ向かうの?」
いいからいいから、とシレーナの疑問を受け流すと、彼女の柔らかくて、小さい手を掴んで歩き出す。向かう先は昨日エルザが見つけた小さなお花畑。
道なき道を進んでいくと、徐々に夜の闇が空の光を喰らい、暗さを増していく。
「ねえ、もう帰りましょう? 私、怖くなってきたわ……」
「もう少しだから。ほら見えてきた」
エルザが言うか早いか、二人は小さく開かれた場所に辿り着いた。そこにはリンドウの花が咲き乱れ、そして、蛍の小さな光がその間を楽しそうに飛び交っていた。昨日たまたま見つけたこの場所を、エルザはどうしても彼女に見せたかった。
「……わぁ。とっても綺麗ね」
シレーナはその美しさにうっとりとした溜息を零す。
「気に入って貰えた?」
エルザは暗闇が濃くなるにつれ、美しさを増す、この花畑を見つめながらシレーナに訊ねる。
「えぇ……とても」
シレーナのそんな様子を見て、エルザは安堵の溜息を零す。
「気に入って貰えて良かった……。もし、気に入って貰えなかったらって思ったら少し怖かったの」
「そんなこと無いわ。ここは本当に美しい場所ね。ありがとうエルザ。ここに来ることが出来てよかっ……」
シレーナは急に激しく咳き込み始めたかと思うと、その場に座り込んでしまう。
「ど、どうしたの?」
エルザは突然座り込んでしまったシレーナに寄り添うようにして座ると、彼女の背中を何度も摩って落ち着かせようとする。
エルザが顔を上げて助けを求めようとするが、辺りに人のいる気配はない。それどころか、既に太陽が沈んでしまったようで、蛍の光では少し先を見ることも不可能に近かった。
あたしがシレーナをこんな場所に連れて来てしまったから。
エルザはそう思うと、言い知れない罪悪感に苛まれる。
泣いてはいけない。そう考えても、エルザの瞳からは絶えず透明な液体が溢れ出し、頬を伝う。シレーナの背中を摩り続ける手が、震える。このような現状に対処できない、自らの幼さを責めると共に、自らを襲う不安感が彼女の手をそうさせていた。
「誰か助けて……誰か……」
エルザの願いは誰の耳に届くことは無く、空中を漂っては消えてしまう。その間もシレーナの咳は酷くなり、呼吸も満足に出来ていないようだった。
そんなシレーナを見て、エルザはぎゅっと強く彼女を抱きしめる。
――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
そんな思いを込めて、エルザはさっきよりも強く彼女を抱きしめる。
「い、痛いよ……足が焼けてるみたい……」
突然シレーナが掠れた声で言うと、エルザを振り解いて、自らの足を押さえた。徐々にシレーナの綺麗な両足が、氷が溶けるかのようにゆっくりと混ざり合っていく。次第にそれはエルザとは違う形へと姿を変えていく。
そんな様子をエルザは黙って見守っていた。いや、見守ることしかできなかった。ある種の怯えを含んだ瞳に込めて。
「シ、シレーナ……貴女の足が……」
シレーナの足は人間のそれとは違う、魚の尾びれのような形をした異形へと姿を変えてしまっていた。
――人魚。
昔々。エルザの母親が話してくれたことがある。海には上半身が人間で、下半身は魚の生き物がいると。
けれど、一緒に教えてくれたのだ。それは架空の生き物で、この世には存在しない、と。
だが、今エルザの目の前にいる、シレーナは紛れも無く、母がかつて話してくれた人魚の姿そのものであった。
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