泡沫③
「よろしいのですか……?」
どうせこれは夢の中の出来事なのだ。少しばかり楽しんだってバチは当たりはしないだろう。
エルザは別段、現状に不満があるわけではない。毎日の仕事内容も代わり映えはしないが、どれも自分にしか出来ないことのような気がしていて、むしろ楽しいとさえ思っていた。
だが、せっかく夢の中でも面白いことが起こりそうなのだ。だから、ならばと思ってしまった。頼み事を受けても、良いのではないかと彼女は考えた。
「えぇ。その内容は如何なものかしら」
その言葉にルカは顔を綻ばせると、エルザに一通の手紙を差し出した。
「こちらの手紙に、探していただきたい人物について書かれております」
エルザはクリーム色をしたそれを受け取ると、蝋で閉められた口を開く。
「人探しをすればいいの?」
ルカはそうだとでも言いたげに頷くと、少し微笑んでエルザに手紙を開けるように促す。
エルザは怪訝な表情を浮かべながらも、ゆっくりと封を開く。
『人魚姫は一人ぼっち』
手触りから、羊皮紙であろうと思われる紙には、ただそれだけが、整った、まるで水の流れのように綺麗な字で書かれていた。
「人魚姫は一人ぼっち? これは何? 人探しをするのではないの?」
エルザは眉根を寄せ、ルカに疑問をぶつける。だが、ルカは相変わらず笑みを浮かべたままで、何も答えようとはしなかった。
「これだけじゃ、何も分からないじゃない」
エルザは少し語気を強めてそう言うと、勢いよくベッドの淵に座り込んだ。
これでは誰を探せばいいか分からないではないか。ランプに照らされた羊皮紙を眺めて、小さくため息を吐く。
「……急に退屈な夢になったわね」
エルザは目の前に立っている小さな半魚人を眺めながら、そう呟く。
「ねえ、これ以上のヒントは無いのかしら? さすがに推理小説でも、もう少し鍵になる事柄はあると思うのだけれど」
それから、私はホームズじゃないのよ、とアンニュイに言葉を続けた。
「うーん、そうですねぇ……」
ルカは困ったように腕組みをすると、悩ましげな声を口から漏らす。この、人間らしい動作をする半魚人を見ていると、やはりここは夢の中なのだと再認識する。だって、半魚人はこんな動作をきっとしないもの。
でもまあ、夢にしては楽しめた方なのかも知れない。こんな現実味のある夢なんて、滅多に見られる物ではない。それに、少しだけだが自分が物語の登場人物になったみたいに感じることが出来た。そう言う意味では、この夢には感謝してもいいだろう。
「――貴女は今、この現状を夢だと思われていますね?」
「え?」
エルザは驚きのあまり、言葉を失ってしまう。急に目の前にいる半魚人が、気味の悪い何かに変わってしまったような気がした。
見た目には何も変わっていない。ただ、ルカの顔に浮かんでいる笑みが、急にそうエルザに感じさせたのだった。
「おそらく、エルザ様はきっとぼくが貴女の名前を知っていたこと。それに、ぼくが人間ではないことから、そう判断されたのではないでしょうか?」
ルカは違いますか? と目だけで訊ねてくる。
「ど、どうしてそれを……?」
恐怖から、エルザの方から絞り出された声は震え、そして、気持ちが悪いほど掠れてしまう。
「簡単なことです。本来用心深いはずの貴女がここまであっさり、ぼくのお願いを承諾してくれた事。たったそれだけで貴女の考えていることは分かりますよ。それに」
ルカはそこで、言葉を句切ると、一瞬躊躇したような表情を浮かべて言葉を紡ぐ。
「ぼくがエルザ様にお会いしたのはこれが初めてではないのですから」
エルザはその言葉を聞くと、まるで魔法にでもかかってしまった様に息が出来なくなった。
どういう事かしら?
心臓の音がうるさいぐらいに早鐘を打ち、息苦しくなる。だが、頭の中は嫌に冷静で、エルザは記憶の中にある、埃を被っているばすのそれを掘り返そうとしてみる。
しかし、どれだけ記憶の中を探してみても、探し求めているものは見つかりそうになかった。
「……分からない。そんな記憶、私は知らないわ」
ようやく、息が出来るようになったエルザは、やっとの思いで声を吐き出した。
「それは当然でございます。なぜなら、貴女様がまだ幼子だった頃のお話しですから」
ルカは少し寂しげな笑みを浮かべながらそう言う。
私が幼い頃の話? どういうことだろうか。
「……ッ!」
途端に頭に鈍い痛みが走り、エルザは頭を抱えてうずくまる。何かが頭の中を這いずり回るような気持ち悪さに、エルザはいやいやと頭を振る。
「大丈夫です。ゆっくり深呼吸をしてください。そうすれば、すぐに収まりますから」
ルカの言葉がエルザの中で反響する。その言葉に従うように、ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、不思議と痛みが落ち着いてくるような気がした。
「……ありがとう」
エルザは顔を上げてルカにお礼を言うと、急に言葉を失ってしまう。
何か分からない、ぼんやりとしたものがルカに重なっているように思えた。それは遠い昔に置いてきてしまった、大切な何かな気がして、酷く混乱してしまう。
「私は貴方を知っている……? でも、何かが足りないような……」
まだ痛む頭を押さえながら、エルザは譫言のように呟く。そうだ。私はルカを。そして、彼と一緒にいた人物を知っている。
あれは確か――。
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